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校則違反で校外学習外す、鹿児島 肌着の色、公立中女子生徒 | 共同通信 - This kiji is
https://this.kiji.is/431037591501063265
次の問題が目についてので持論を少々。
ではそれぞれについて。
勝手に読み違えて猛烈に怒っている人はたくさんいる。相手の言っていることを正確に受け止めた上で批判しなくては届かないので落ち着いた方がいい。
どんな文で書かれた校則かはわからないので類推する他ないのだが、「色指定」パターンか「ふさわしくない肌着を禁ずる」みたいなパターンかと考える。これは本当に不要なルールだろうか。これが設けられている理由は、透け防止や学校の風紀維持であり、トラブルを未然に防ぐために決められているのではいか。この「トラブルを未然に防ぐ」目的に対して行き過ぎた校則かどうかが論点になるべきだが、「黒のタンクトップがだめだった」「校外学習に参加できなかった」という事象に引っ張られすぎてしまい、そこが議論されずに不要認定されている。
なぜ肌着を注意したら人権侵害なのか考えた。すると「普段見えないはずの部分を権力や立場を利用して無理矢理見た」という非人道的行いがあったと考えているのではないかと思った。もしそうならば話が飛躍しすぎている。仮にそのような検査方法が取られていたなら、300名に対し制服を脱ぐよう強要し確認したことになるが、こっちの方がニュースになる気がしてならない。ニュースになっていない以上、透けた肌着を校則に照らし合わせて注意したと考えるべきだが、それが人権侵害に当たるという主張も飛躍しているといえる。
校則は法律と関係ないのだから強要するのはおかしいといった論調があった。一理ある。一理あるが他人と共生する社会生活においてその考えは通用しないことは自明である。それに特別権力関係論といものも有るらしい。法律より軽くても、法律上従わせることができる関係が存在しているのはどうやら確からしい。そうなってしまえば、校則違反は法律上問題ない という主張は正当とは言えない。
これらの問題を抱えたブコメは総じて元記事の問題提起を無視していると考える。
元記事は「校則の妥当性」と「校則違反の処罰の妥当性」を提起していると言える。
「校則の妥当性」についてだが、先に書いたように「色指定」か「ふさわしくない肌着を禁ずる」みたいな校則とするとトラブルを未然に防ぐ目的で制定された校則と考えれば妥当と言えるのでは無いか。このように言うと、では色付き肌着がもたらすトラブルは何か、や、トラブル発生までの論理的なメカニズムを示せという意見があるだろう。人を従わせ罰することができるルールなのだから合理的な理由を求めるのは正しいことだ。だが、校則制定でその手法を採用できるかと言われればNOだろう。なぜなら色付き肌着がもたらす影響を論理的に展開できないからだ。カラフルな肌着を着てても何も起こらないかもしれないし起きるかもしれない。起きたとしても肌着が原因だったかなんてわからない。では論理的に説明できないのならば、何か起きてから決めましょうとなってしまう。学校がそのような態度でいて誰が得をするのでしょうか。だから、トラブルを未然に防ぐ目的に対して行き過ぎた縛りであるかどうかという観点で考える必要がある。この観点から言えば行き過ぎているとは思えないので妥当だと考える。
「校則違反の処罰の妥当性」についてこそ、この記事は考えるところが多いと思う。
みんなも考えて欲しい。
今年の6月頃、早稲田大学文学学術院で起きたセクシャルハラスメントが初めてメディアで取り上げられた。
https://president.jp/articles/-/25434
被害者は現代文芸コースという修士課程の学生だった女性で、加害者は同コースの教授であった渡部直己。渡部は被害者の女性に「俺の女になれ」と迫ったり、じろじろ体を眺めたり、授業中高圧的な態度で接したり、指導をするという名目で研究室に呼び出して密室で二人きりになるなど、深刻なセクハラ行為を行っていた。
プレジデントオンラインに掲載された上記の記事をきっかけに、SNSやメディア等でこの事件は大きく広まることとなった。大学は調査委員会を設置し、渡部は早稲田大学を退職した。一見収束に向かっているように見えるかもしれないが、渡部一人の退職でこの事件を終わらせてはいけない。加害者は、渡部一人ではないのだ。
事件が拡散されるきっかけとなったプレジデントオンラインの記事にも明記されている通り、被害者の女性に対し、渡部のセクハラ行為を口外しないよう口止めした人物がいる。その人物は渡部と同じコースに所属する水谷八也教授である。また、被害者の女性からセクハラ被害について相談を受けていた女性教員に口外しないよう圧力をかけた人物もいる。その人物は市川真人准教授である。
今般早稲田大学は被害者の女性や関係者からヒアリングした証言をもとに報告書を作成した。しかしその内容は、被害者や当時の学生達の証言を無視し、水谷や市川ら教授側の証言を一方的に採用した杜撰なものだった。
プライバシーの観点から、報告書の実物をここに掲載することは出来ないが、以下、問題と思われる点を箇条書きで記す。
①被害者や当時の学生などの証言を軽視し、教授側の発言を重視している
渡部によるセクシャルハラスメントに悩んでいた被害者は、友人同席のもと、当時現代文芸コースの主任を務めていた水谷と三人で面会を行った。また、精神的に落ち込んでいた被害者に代わり、友人は水谷と二人で二回目の面会も行った。
被害者及び友人の申立書によると、水谷は「この件を口外しないでほしい」「口外すると現代文芸コースの存続に関わる問題に繋がるから」「被害者自身にも隙があり、渡部が勘違いしてしまうのもうなずける」といった趣旨の発言をしているにも関わらず、水谷本人が否定していることだけを根拠に、報告書では被害者及び友人の主張を認定していない。
前項の通り、この報告書では一貫して教授側の発言に重きが置かれている。たとえ当時の在学生らの複数の目撃証言が集まっていたとしても、教授本人が否定をすれば、報告書は在学生らの目撃証言を認定しない。一体報告書は何を根拠に教授側の発言を重要視してるのだろうか。教授側の否認が在学生らの証言よりも信憑性の高いものであるという根拠は、どこにあるのか、
また、報告書では「本委員会の認識している資料等からは、同発言(※教授側の問題発言)の存在を認定することはできなかった」という言い回しも登場する。しかしこの「本委員会の認識している資料等」とは何なのか。在学生らの証言よりも信じるに足る「資料」なのだろうか。言わずもがな、本報告書において、その「資料」が明らかにされることはない。
この報告書は非情に冗長で、一読しただけでは意味が取りづらい文章で構成されている。その狙いは明らかに、問題の核心や責任の所在を誤魔化すことにある。先述した被害者と水谷の面会時における水谷の笑い方など、取るに足らない些末な事柄を詳述しているにも関わらず、被害者や友人に口止めを迫る場面など、事態の核心は「認定できない」の一点張りである。
水谷がセクシャルハラスメント被害の実態を認識していながら、「大したことじゃないから第三者機関には口外しないでほしい」と被害者を沈黙させようとしたことは、被害者や関係者などの証言が一致するところだが、報告書はその点を深追いすることはしない。ささいな問題をおおげさに取り上げたり、論点をすり変えたりして、読者を拒むような悪文で責任逃れをしている。
早稲田大学の作成した報告書は、明らかに公正さを欠いている。水谷や市川を始めとする今回の事件の隠蔽に関わった教授陣に不自然なほど有利な記述ばかりだからだ。
また上記の他にも、合意なく女性の学生の腰を抱いて体を密着させるなどのセクハラ行為を行っていた青山南に関する記述なども、本報告書には含まれている。青山のセクハラ行為に対しても、在学生らによる複数の目撃証言が集まっているにも関わらず、青山本人が行為を否定しているというだけで、報告書は青山のセクハラ行為を認定していない。
これが調査と言えるだろうか?
どんな加害行為を行ったところで、教授が「やっていない」と主張すれば黒が白になる。そんなことがまかり通っていいはずがない。教授と学生の間には、絶対的な権力関係がある。その力の差を利用して学生が反抗できない状況に追い込んだ上で、このような加害行為に及ぶとはなんと卑劣なのか。
そして、被害を受けた学生よりも加害者側の教授や学校の体制を守ろうとする早稲田大学の対応にも大きな問題がある。セクハラの隠蔽に携わった全ての教員が自らの責任を認めるまで声を上げ続けたい。
その中でダムで沈んでしまう村の桜を移植して再生する、っていう事業があったのね
そしてその桜を移植して、そこは第二のふるさとになったっていう話で、結構感動したんだけど
でもそこでは間違いなくふるさとは壊れてて
でも新しいふるさととしての桜が生まれた、というエピソードなんだけど
俺は地元愛とか持ってないんだけど
これ見て、ふるさとってじゃあ、後天的に人々が決める、共有するものなんじゃなかろうかと
俺はまだ地元愛とか持ってないけど、いずれ何がしかの経験、コミュニケーションの中で守りたい地域が出てくる
普通の場合でも、ふるさとって長くそこに住んだ経験があって初めて
(意識的か無意識的かはおいといても)「ふるさと」へとなっていく、守りたいと自覚できるようになる
生まれた場所として最初から決まっているとか、親によって決まるものでもないんじゃないか
どこかに住みついて、そこの人とコミュニケーションをとって、愛着を持つようになる過程でふるさとになる
ということに意識がいくと、こういうことを支援したり、そうしたふるさとの意識を持った人々がふるさとを守るため
あるいはこの場合は、新しいふるさとを他の人々と共有するため行動を起こす
あのさぁ、ここで大事なのは元同僚Aと元増田がどんな関係だったかってことなの。もう退社して個人的に会う関係だからパワハラ関係これ全部関係なしね。
色恋ってのは、ある程度お互いの私的領域に侵入して共用にしていくこと。
けどさ、人間テレパシー使えんから、探りながら、伺いながら、考えてやっていかないとならない。もちろん間違いもある。間違いを修正して成長していく。
「私の意にそぐわないアプローチをわずかでもしたらぼこぼこに糾弾してつぶしてやる!!」
みたいなのがいたら男女ともに永久に独身だよ。噂が立った時点でもう異性からは距離置かれるね。
その辺の性がらみは、まあくくってしまえば「私の意にそぐわないアプローチ」に過ぎないんだよ。権力関係が混ざるのはさらに厄介ではあるが。
だけど、配偶者が欲しいのなら距離を近づいていかないとならない。
ハリネズミのジレンマって知ってる?近づきすぎると針でさされて痛い、遠すぎると寒い。距離を探らないとならない。
結果的に意にそぐわないアプローチなんてのは針そのものなんだよ。テレパシー使えんからうっかり刺すことあるの。
異性は針で刺すんだ!針で刺すなんて許せない!なんてのが欲しかったら異性と本当にかかわらずに過ごしたほうがいい。異性の友達とか絶対作っちゃダメ。
元同僚Aを完全に悪だといって糾弾したかったら、それ身の回りの人間にいいな。口頭では賛同してくれるはずだよ。で、「君を針で刺す人はいなくなるだろう」
元増田が言う所の「自爆する馬鹿」自体がまず一部に過ぎないのではないかという指摘があったが、正直その通りだと思う。
医療界、グラビアアイドル、写真業界からのmetooもホッテントリになっていたが、それらの告発者がその後「私のセクハラ・パワハラはいいセクハラ・パワハラ」
みたいなことを言っていたという記憶はない。
以下は蛇足だが、
そもそもmetooで告発されているセクハラ・パワハラ被害とは、権力関係・上下関係があり逆らえない状態でひどい嫌がらせ・犯罪・いじめ等の被害に遭う
というものだが、いじめでも犯罪でも被害者に厳しく、性犯罪被害者に厳しく、何かを主張する女性にも厳しい風潮がある中で
metooしようものなら「お前にも非があった」「お前だって今までに悪い事をしてきただろう」と集中攻撃を受けてしまう事は目に見えている。
そんな中で一度「このような目に遭った」と告発するだけではなく、継続して発信し続ける事ができるのは、よほど精神的にタフだったり、
「自分にも悪い点があったとしてもそれはそれとして告発し続ける」という、ある意味での面の側の厚さのようなものがある人ではないと
難しいから、「私のセクハラは良いセクハラ」と言っているように見える人が目立つように見える、という点はあるのかもしれない。
元増田は「誰だって過ちはあるから素直にごめんなさいすればいい」と言うが、残念ながら被害を訴える人間に
「お前だって悪いだろ、被害者ぶるな」という攻撃をする人間はとても多い。
元増田一人が許しても、他の大多数は許さないどころかよってたかって攻撃をするんだよ、残念ながら。
「素直にごめんなさい」をした所で、「自分が悪いとわかってるなら、まず自分の罪をしっかりつぐなってから自分を加害した人間を責めろ、まず自分からだ」と言われる事も
予想できる。
いじめの被害者だっていまだに「いじめられる側にも原因がある」と言われるし、犯罪被害者が金銭的な補償や加害者への厳罰やを望めば「金目当てか」「被害者感情が強すぎる」と言われ、
パワハラ被害者は場合によっては無能呼ばわりだ。被害者が男性であったり、性被害が絡まない被害者に対してもこの有様だ。
さらに性被害になるとさらに風当たりは強くなる。「しっかり自衛しないからだ」「なんでもかんでもセクハラか」「お前になんぞセクハラするか」「お前だって性的な事を望んでいたんだろう」
というバッシングは、性犯罪被害者に対するお決まりの物と化している。
そして女性が何かを告発する、主張する、しかも「フェミっぽい」事を発言するとなると、どのような反応が返って来るかは火を見るより明らかだろう。
元増田だって、増田やはてなを使うぐらいなら「フェミっぽい」主張にどんな反応が返って来るか、想像くらいはつくんじゃないか?
いや、はてななんて見なくても、ツイッターでも5chでもまとめブログでも何でもいいけど、ネットやってりゃそんな光景、見たことくらいあるだろう。
とにかく被害者の粗を探して攻撃したい、被害者ぶるのは許せない、ずるいという感情を目の当たりにすることは多い。
そもそもmetooで告発されているようなパワハラ・セクハラをする側も馬鹿じゃないから、「お前にだって落ち度があるだろう」と被害者を責められる状況を作りつつ、
場合によっては被害者を共犯者にしながらセクハラ・パワハラを継続するという事もよくあることだ。
metooについて「なぜその場で嫌だといわずに後になって言い出すんだ」という批判もあるが、
まさに「自分だって悪い事をしてきたんだから、被害に遭ったなんて言う資格は無い」「自分は加害者だから誤って償わなければ、そんな自分は辛い目に遭っても仕方ない」と思い長い間言い出せなかったと
いう事もよくあるだろう。
・女性記者が事務次官の性的言動を我慢していたのはテレビ朝日の社内圧力
この状況で事務次官に責任を取らせる大義名分は、事務次官が取材対象としての価値があり、女性記者は性的な言動を受けても会社から我慢を強いられる状況だから。
なら公務員に限らず、取材対象として価値のある存在は、取材してくる女性記者に対し、性的言動をしてはならない、としなければダブスタだと思うがね。
それは精神科医が科学的観察の名の下に他者を対象化し、批評し、自分だけはあなたたちと違うのですよという、いわば安全圏に自分を隔離しておいて、医者ー患者という権力関係あるいは上下関係を押し付けてくるからだ。
医者がどれほど自分を貶めて留保しようとも、自然科学の客観性を装って行われるそのようなマウンティングがもはや無邪気といってよいほど無自覚に行われているのを、読者は敏感に察知して、よけいに苛立つことになる。
この関係性とその欺瞞性については、ミシェル・フーコーが『精神医学の権力』という講義で、19世紀の精神医学を例に詳しく分析して批判しているので、興味のある向きは参照してほしい。
「精神医学の権力」講義は、そのタイトルから推測されるとおり、自らを科学と称する精神医学が実は権力のテクノロジーによって徹底して貫かれているということ、そして精神医学的な知が科学的な知とは全く無縁のものであるということを告発しようとするものである。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~french/shinkai/pdf%20files/le%20pouvoir%20psychiatrique.pdf
この「医者ー患者」という権力関係が、「社会批評家―批評の対象としての世代グループ」の関係に無邪気に重ね合わされるとき、読者の反応が「何様のつもりだ」というものになるのは、無理もないことと思う。
セクハラ・パワハラ案件じゃないけどアニメ業界で気になったこと。
某アニメのイベント。監督やキャストがトークをするって感じのやつ。
そこでよくある演出だろうけどキャラの声でナレーションがはいって監督を呼び捨てでかなり高圧的な台詞があったんだよね。
もちろんその場の誰もがそれは声優の個人的な意見ではなく台本を読んでるだけと分かってたはず。
ところが、その後舞台に出てきたその声優は第一声で「すみません、さっきの台詞は台本に書いてあっただけなんですよ」と監督に謝る。
もちろん、監督の方は「ええ、わかってますよ」と身振りも加えて気にしてないよって感じだったんだよね。
なんていうか声優と監督の権力関係というのを舞台の上から見せられてげんなりした。
そういうのは楽屋でやってくれと思ったよ。
監督は10年以上やってるベテランで、声優はかなり主役も複数張ってるとはいえデビューして浅いというのはあっても、さすがになー
セクハラ・パワハラ案件じゃないけどアニメ業界で気になったこと。
某アニメのイベント。監督やキャストがトークをするって感じのやつ。
そこでよくある演出だろうけどキャラの声でナレーションがはいって監督を呼び捨てでかなり高圧的な台詞があったんだよね。
もちろんその場の誰もがそれは声優の個人的な意見ではなく台本を読んでるだけと分かってたはず。
ところが、その後舞台に出てきたその声優は第一声で「すみません、さっきの台詞は台本に書いてあっただけなんですよ」と監督に謝る。
もちろん、監督の方は「ええ、わかってますよ」と身振りも加えて気にしてないよって感じだったんだよね。
なんていうか声優と監督の権力関係というのを舞台の上から見せられてげんなりした。
そういうのは楽屋でやってくれと思ったよ。
監督は10年以上やってるベテランで、声優はかなり主役も複数張ってるとはいえデビューして浅いというのはあっても、さすがになー
正確には「モテないことで勝手に被害者意識を募らせている男は気持ち悪い」だ。
モテないことは悪いことじゃない。というかモテるかどうかなんてどうでもいい。
モテなくても人間として優れた人はいるし、モテるといってもヤリモクで遊び回っているような人に本当の魅力があるとは思えない。
「経験があるかないかなんてどうだっていいじゃないか」という人がいる。それはその通りだよ。一回セックスしたくらいでは何も変わらない。本当にそう思っているなら開き直ればいい。
モテなくても、童貞でも構わない。そうじゃなくてモテないことで勝手に被害者ヅラしてるのが気持ち悪いんだよ。お前らは被害者じゃない。
H女史がせっかく身を切る思いでセクハラやパワハラの被害を告発したのに、途端に「童貞イジり」を蒸し返す奴ら。
本当に気持ち悪い。
セクハラやパラパラは権力関係や上下関係が背後にあるから問題なんだ。
差別は、自らの意志では変えようのない人種や身分、性別を理由に不当な扱いをしているから問題なんだ。
でも「童貞イジり」はセクハラでも差別でもない。「童貞」という状態はいくらでも変えうるからだ。
H女史の告発を「童貞イジり」なんていう瑣末な問題を持ち出して叩く。セクハラだ、差別だと言いながら、平気で女性差別や民族差別をしている。反吐が出そうだ。
一生、一人でマスかきながら死んでくれ。
自ブログに書こうと思ったんだけど、どうもよく理解できないので、メモのままここに残しておく。将来利用するかどうかはわからない。
「文化」とは、社会に共有された生活様式。この場合の社会とは、コミュニティであったり地域であったり、場合によっては国家が支配する領域であったりする。生活様式には、言語や伝承なども含まれる。
「文化的同一性」とは、その社会の成員がその社会に属しているものとして自覚できる文化。社会に共有されたものであると同時にその個人のものでもあるため、所有意識が生まれる。
「所有」とは、他者を排除して占有する権利のこと。権利であるがゆえに社会的に定まるものであり、社会的に定まるがゆえに社会によってその範囲は異なる。また、抽象的な存在に対する占有を可能にするためには、何らかの概念が共有されている必要がある。例えば著作物に対する所有は、複製や営利に関する一定の概念が共有されなければ無意味になる。
「剥奪」とは、社会的強者が社会的弱者の権利を奪うこと。奪われる権利が物品財貨の所有権である場合は搾取となる。
「文化の剥奪」とは、ある社会集団に所属するひとの文化的同一性を保持する権利を奪うことである。例えば狩猟社会において狩猟を禁止することや伝統的に行われてきた祭祀を禁止することなど、旧来の生活様式を禁止することは文化の剥奪にあたる。創氏改名は文化の剥奪の典型例である。
「文化の盗用」(cultural appropriation)とは、社会的強者が社会的弱者の文化をあたかも自分のものであるかのように占有する現象。
文化の盗用が問題になるのは、盗用によって本来のその文化の保持者の文化的同一性が脅かされるからである。すなわち、自分自身の所属する社会集団の文化が他の社会集団のものとされることにより、自分自身の同一性を脅かされる。すなわち、文化の盗用問題は、文化の剥奪問題の一種であるということができる。
文化の盗用問題に対する抗議が文化的標識(例えば特定の民話や伝承)の使用権の問題として表面化するのは、弱者が強者に対抗する論拠がそこに求めやすいからでしかない。実際の問題は、使用権にではなく、社会的な支配・被支配関係にある。
文化の剥奪問題は、弱者側の自主的な同化を伴うため、外見上、単なる時代変化と線を引きにくいものになる。たとえば明治日本の欧化政策は、軍事的、経済的、政治的に圧倒的強者であった西欧世界による日本文化の剥奪であったが、それが日本社会の側からの強者に対する弱者の対抗策として実施された主体的なものであったことも事実である。その際に、「和魂洋才」といった文化的同一性保持のための辻褄合わせが提唱されたことなど、分析すべき点は多い。
朝鮮人に対する創氏改名は強権的な文化の剥奪であり、戦後の在日朝鮮人・韓国人の通称使用の第一の原因であるが、在日側の日本国内在住のための利便性からの選好という側面があったことも否定はできない。そのような姿勢に経済的・社会的な権力関係が強い影響を与えたことも事実である。このあたりは非常に重層的で、軽々しく断じることができない。
いずれにせよ、文化の剥奪は強者が弱者に対して行うものであり、このような議論が昨今日本人から発せられているという点は、社会集団の力関係の変化を考察する上で興味深い出発点になるかもしれない。