はてなキーワード: 情状酌量とは
性犯罪なんて、情状酌量の余地なんてありゃしないんだから(あるとしたら犯人が少年だったとか、犯人が心神喪失だったとか)もっと厳罰化したらいい。
今のように、法定刑に幅を持たせない。強制わいせつなら自動的に懲役8年。
再犯は初犯の10倍の刑期、3犯目は初犯の100倍。これも自動的に適用する。
再犯防止のために性犯罪者にGPS付けるよりも、再犯に及んだ奴を確実に刑務所に入れておく方がいい。
再犯防止と称して監視するのは人権上問題があるが、現実に再犯に及んだ奴を厳罰に処するのは人権上の問題はさほどないからね。
今は軽い刑の罪だからとずさんな捜査をしている痴漢も、重罰化すれば捜査に力を入れることが期待できる。
性犯罪者以外にとっては何の悪いこともないこの案。どうだろう。
上の増田とは別人だけど、同じ料金払ってるのに性別によって乗れない車両が存在する、というのはどう考えたって不利益だろう。
駅の構造的に、あの車両に乗れればもっと通勤通学が便利になるのに、っていうところに女性専用車両がある男ってのはけっこういると思うよ。
女性専用車両では確かに痴漢に遭うことはないのだろう、そういう効果があるのは理解する。
でも、それは差別の罪の重さを推し量る際に情状酌量に使う要素であって、差別かどうか判断するときに使う要素じゃないと思うんだよな。
設置の背景には多くの女性が電車内で性暴力を経験しているという事情があり、女性より男性の方が社会的に権力があるという現状があり、男の被る不利益が「あの車両が使えない」程度なので、差別っちゃ差別だけど罪は軽いし今すぐ撤廃しろと喚き散らすつもりにはなれないな、と思う。
(少なくとも、上記3つの点においてことごとく情状酌量の余地が存在しないアメリカの白人専用バスとかと比べるような罪の重さではない)
でも、差別じゃない、とか、男に不利益はない、っていうのは違うでしょ。
切実な事情とかより大きな不利益の前にこのくらいの差別や不利益は我慢しろ、なら理解できるし納得も協力もするけど、差別じゃない、なんていう出鱈目な主張には納得も協力もできない。
もし利用客の多くがこんな出鱈目を信じ込んでいるのなら、俺は協力をやめることを選ぶよ。間違った主張には協力できないもの。
両親は離婚済なので父親は一緒には居ない。けれど私との仲はいい。
私が友人と飲みに行ってて帰りが遅い日に電話がかかってきて、なにかと思ったら開口一番怒鳴られた。
友人にも驚かれたしとても恥ずかしかった。
あれは何だったのかと母親に後日聞いたら「覚えてない」と答えられた。
酒乱の気があるのは思っていたが、こいつ本格的に駄目だな、と思った。
あと、職場でセクハラされたから上に掛け合ったと愚痴をこぼしたら
「ブスのくせによくそんな事できるね」と言われた。
自分の娘が他人に侮辱されてもそいつを構うのかと驚いた。その後は機嫌が悪くなった私に腹を立てていた気がする。
本当に昔からろくな奴じゃなかった。
殴られて頭から血を流した事もある。
酒瓶で背中を殴られた事もある。
お前なんか産まなきゃよかったとずっと言われて毎日泣いて過ごしていた。
吐き癖が変なふうに拗れて一時期食べた物を全部戻してしまったりしたのも、今も思ったら母親からのストレスのせいかもしれない。
こんな風にボロクソに言ってるが母親も母親で事情というか情状酌量の余地はあると思っている。
24歳でデキ婚で私を産み、父親は一切家事育児をせずワンオペ育児で頭がおかしくなったらしい。
私に悪いという感情はあるらしい。あと私の態度が最近冷たい事を気にしてると父親から聞いた。
あと不登校で大学を留年した時にその余分な1年分の学費を母親が出してくれた。
(父親の金銭管理が杜撰っぽいのは大人になってから薄々感じてるので、離婚の原因は母親の性格+父親の金関係な気がしている。)
しかし、そんなもん知るか馬鹿というのが本心だ。知らねえよそんなの。だからって人を傷つけていい理由になるかよ。私はお前のせいで体調悪くして入院までしたわ。
あと私は学費を出してくれた母親が嫌いで出さなかった父親が好きだから
人の恩を感じるのは金では無く行為であること、普段の行いの大切さを勉強した。
弟からも父親からも見放されて(この二人は家を出て行った)可哀想だな、という気持ちもあった。
あと夜中に急に発作のようなものが起きて泣いたり苦しくなったりする事もあるらしい。
だからなるべく尊厳を傷つけないように一応親として扱っていたのだが、上記の最近のクソエピソードが本当にクソすぎて、親として扱う事も認識するのもやめた。一緒に住んでる他人、そう思ったらなんかどうでも良くなった。
そしてついさっき、また夜中に発作が起きたのだけど、甘えられるのが頼られるのが心底面倒だと思った。
前はどうだったか、もう少し心配な気持ちはあったのか。覚えてないけど、本当に心配面倒なクソ女だと思った。
よっぽど顔に出てたのか「面倒?面倒だったら出て行くよ」と泣いた顔で言われたけれど、そうしてくれというのが正直な気持ち無かった。
寝ようと思っていた、と案に出て行って欲しいと伝えたら居なくなった。
そこで思ったのが、一番上の「感情って尽きるものなんだな」という感想。
母親に対して嫌いだけど愛はあると思っていたけれど、それも無くなってる気がする。無関心。そんな自分が薄情な気がしてショックを受けた。
一番心に刺さったのが自分の変化に戸惑う事なあたり、本当に母親どうでもいいんだなという証拠にも思える。悲しいようなこれでいいような、切ない気がする。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190315/k10011849981000.html
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子育てに悩みに悩んで、追い詰められた人が、重度のうつ病を患った。そして、ついには我が子を畳に叩きつけて死に至らしめてしまった。気の毒な事件だ。ワンオペについて様々議論されているさなかの事件であり、特に乳児を抱える母親たちにとって関心が高いようだ。ツイッター上では情状酌量すべきという意見が多く見られた。
量刑が適当かどうか、心情的に納得できるかは置いておこう。自分が気になったのは、「実刑判決になったら残り二人は誰が育てるのか」という声が少なくないことだ。こういった声を上げているのは、母親を擁護する立場の人々だ。なんて厳しい人たちなんだ、と思った。
仮に死因が「事故死」だったとしても、同じ年頃の子を育てるのは辛いだろう。それを、自分が直接死に至らしめた子の兄弟を育てるのは現実的な選択肢なんだろうか。本人は、家族は、耐えられるものなのだろうか。そうは思えない。事ここに至って、それでも、母親であることを求めるのは何故なんだろう。
読んだ。商用サイトなんだからNGはNGだろ。儲けが少ないから、っていうのは情状酌量の範囲で、少額だから許すかどうかというのも加害者のこの人ではなく被害者が決めること。
どちらかというと「商用サイトの自覚が足りませんでした、すみません。もうしません(または今後はきちんと話を通してからサービス紹介をします)。なお実際の儲けはこのくらいだったので、賠償金は下げていただけないでしょうか」と交渉すべきだったのでは。
それをまぁ金目当ての脅し扱いとか、完全に敵認定してるしこれはもう和解の目はないのでは。なんで理由があって怒ってる人をクズ扱いするんだろう。自分が悪いの認められないから?
連絡取れない訳でもないのに無断でアフィリエイトサイトに掲載したのはやっぱりどう考えても不誠実だと思う。これがまかり通るとサービス紹介という名目なら何してもいいみたいなクソアフィが大量に沸く可能性があるし、サービス提供者を全力で支持したい。
かわんごは、もともとホリエモンとひろゆきを足して3で割ったくらいのポジションで、ファンもアンチも多かったが、ここまで嫌われてはいなかった、と思う。
ただ、カドカワのトップになったことで責任感みたいなものが出てきたのか、あちこちに顔を出してさまざまな持論……たいていは「理屈の上では」が常にエクスキューズされるようなピーキーなもの……を語るようになり、それがひろゆきのような在野の論客であれば「またあいつ炎上商法やってるよー」で済むところ、肩書きのこともあって変に影響力が強まり「あいつ本当にヤバイのでは…?」と思われるようになったのではないか。
たとえば「理屈の上では中国みたいに金盾やるのが権力者にとっては理想っすよ(国民としては許しちゃダメだけど)」みたいな過去の発言が、ブロッキング問題のときに引っ張り出されて「かわんごは金盾を作ろうとしている!」とか言われたりしていた。
直接的にはこれが最大の理由っぽい。
かわんごの主張を簡単に紹介すれば「著作権侵害にはブロッキングが最も有効である」であり、これを批判するなら「違憲だからブロッキングはダメ」、あるいは「政府が悪用するかもしれないからダメ」というだけの話なのだが(ブロッキングが本当に違憲かどうかは裁判に持ち込まないかぎり明らかではないし、ひとつでも例外を許せば中国みたいになっちゃう!という潔癖すぎる態度にも問題はあるわけで、個人的には情状酌量の余地はあると思っている)、結果的にこれがほとんど一方的な非難の対象となり、「政府の独裁を擁護する悪の腰巾着」のような印象がついてしまった。
これはコミュ力の塊であるところの山本一郎の煽りが効いてもいるのだろう。
こちらも情状酌量の余地はあると思っているのだが(もともとインフラ面も同時に強化するつもりだったのが「発表は新サービスに絞ったほうがウケがええやろ」と言及しなかったら、「変な機能を増やすだけでサーバーを増強しないつもりか!」と怒りを買ったとか)、ちょうどニコ動のサービスレベルの低下でヘイトを買っており、その憂さ晴らしもあって、水に落ちた犬は叩け状態になってしまった。
たつき降板で、オタクがカドカワに抱いた憎悪にも近い感情が、そのトップであるかわんごに向けられた可能性もある。
ちょうど炎上していたときに、マストドンにネタバレを隠す機能をつけて、「けもフレについて」というタイトル→(クリックしたら)「書くわけねえだろ」みたいな冗談をかまして顰蹙をかったこともあった。
「こんなところでそんな重要な情報を書くわけないじゃん」という本当にただの冗談だったのだが「けもフレのことなんておまえらに教えるわけないじゃん」というファンへの煽りだと解釈されてしまったのだ。
「かわんごってsuica使えないとかで炎上した奴だろ?」みたいなツイートをいくつか見た気がする。
とにかくコミュニケーションが下手。
「理屈を説けば理解してもらえる」みたいに思ってるんじゃないか。
本人はネット活動にさまざまなルールを設けていて、それをブログに明記しているのだが、そんなの読んでからやってくるアンチなんているわけがない。
たとえば一定のフォロワーが集まったらアカウントを消すというルールがあるらしいのだが、そんなことを知らない大多数のアンチは、アカウントが消えれば「かわんごが逃げた!」と盛り上がるだけである。
ブロッキング問題とかもあちこちに意見を残して、Twitterではアンチの煽りでも何でも質問に答えていたのだが、本人には一貫した文脈があっても、大多数の人はその場にある発言だけを(さらに色眼鏡付きで)見て判断するから盛大に誤解を招くのである。
ただでさえエクスキューズが多いのに、そのエクスキューズを伝えようとしない!
「ルールに則って一貫した態度を貫けば皆もわかってくれるはずだ」みたいな、そういう非コミュの極みみたいな考えを持っているからダメなのだと思う。
がんばれ、かわんご!
奥さんに報告した。
後半が面白いので読んでください。
出会い方
・職場に出入りするお客さん
・声をかけてきた
・「既婚者はイヤだ。大丈夫か」
→「安心してください。嫁とは終わってる」
(この言い方がもうダメ)
(女もこの時点で深く尋ねないといけない)
・家に呼んでくれない。
・友達に紹介してくれない。
・子どもがもうすぐ20になるので嫁とは別れる。(よくある手口)
・告発を決意。
住所をよく知らなくても会話で家を特定できたので行く。
→駅から徒歩15分=半径1.5km程度
→家の写真を見せてきたのでgoogle mapで同じ色の屋根を探す。
以上。
彼が出てきてしまった。
「どうしたの…」と微笑んだが目は笑っておらず、気持ち悪かった。
「好きだった。嫁とは2人目を産んでから本当に終わってた。」
トイレから戻ったらシクシク泣いてて、殺意が湧いた。張り倒せばよかった。
奥さんに一緒に謝ろうという私のナイスアイデアを断ったため、じゃあ1人で行くけどいい?と許可を申請。
「いいよ。行けばいいよ。でも何で?何がしたいの?慰謝料いっぱい払えっていうの!?」と外でキレ始めたため置いていく。
(以上の段階は、カフェなど公の場ですること。)
ピンポンした。
「はい…?」
「あの…奥さま、あの…。ご主人、悪いことしています」
色々考えたのにこれしか出てこなかった。寒いのと緊張で声が震える。
「いま大変なのよ…何も聞いてないの?」
「聞いてません」(2人が長い間セックスレスなのが大変なのか?仕事に関しては知らない。)
呆れたようなため息をつかれた。
「主人のこと欲しいの?」
「結構です。奥さま、直接話せませんか?」
「入れないわよ。だいたいそんなことじゃ驚かないから。」
そんな人間とそれでも同じ墓に入りたいのか?
私の気持ちはそこで冷めた。
「ご主人は娘と変わらないくらいの年の女を狙い、弄んでます。私の親の方が年が近いです。それを長い間野放しにしているあなたも同罪ですよ。詐欺・わいせつ幇助です。」
これを言いたかった。
とても思いつかず、家に帰ってから、台本を持っていくべきだったと後悔した。
負の人間に慣れておらず、批判やディベートの訓練も足りなかった。
「話したいって、警察呼びましょうか?」
「主人と3人で話したいの?」「はい」
「待ってて…電話して聞いてみるから。子どもももうすぐ帰ってきちゃうし…」
しかしその後30分以上寒空の下で待たされたので、帰った。
翌日
素直に警察に行き、彼に近づかない旨の書類を書く場面の写真を撮られた。
「彼は私が女性ということもあり、話しづらそうでした。そんなことだろうと思いました。言っちゃ何ですが、そういうクズのことは忘れて、幸せになってください。また接触すると今度は話だけじゃすまなくなってしまうので…それはしたくないので」
奥さまが連絡してきたら会いたい旨を伝えた。
連絡先を本人に渡せばよかった。
なお彼は、外資系金融と名乗る会社。本当にそう名乗ったので驚いた。
友だちにはその時点でうわーやめなよと言われていた。
男性からの評価は高い。いつも合コンセッティングしてくれると。
自分が幸せになることが一番の復讐というが、そんなことはない。
因果応報を味わった方がいい。
・エントリーNo.1 【怒れる音楽否定マン】ゴミ増田
「ゴミをこの世から一掃する」と宣い音楽に関連する人間を無差別に殺しそう
・エントリーNo.2 【ねじれ曲がった被害妄想】キモくて金のないオッサン
「でもキモくて金のないオッサンが殺人を犯しても情状酌量されないんだろ?」と叫びながら無差別に殺しそう
・エントリーNo.3 【俺は国家に殺される】安倍bot
「私は被害者だ、自民党に毒電波攻撃されたため自衛として戦ったんだ」と言いながら国会に全裸で突撃しそう
・エントリーNo.4 【国営犯罪者集団に立ち向かう孤高の戦士】警察は犯罪者おじさん
安倍botと似たような理由でやらかしそう
・エントリーNo.5 【パリコレフェミニズム】パリコレ増田
ポリコレ関連の事を大声で喚きつつパリコレで事件を起こしそう
・エントリーNo.6 【ノーモア・再投稿】[再投稿は甘え]
「お前らが生きている事が甘え」と無表情で言いながら道行く人々を刺しまわりそう
入場ゲートを設けて係官が荷物検査をすると、まあ禁止物品が何%持ち込まれて、そのうちの何%が見つかって、何%がすり抜けて、何%が持ち込み断念される、という推計ができるだろう。生産ラインを設けて機械を大量生産すると、まあ不良品が何%発生して、そのうちの何%が見つかって、何%がすり抜けて、何%が保証期間内ギリギリまで動く、という推計ができるだろう。
法を電子計算機に執行させるということはこれとは異なる。もちろん電子計算機という機械は正規分布に従って故障し、破損する。しかし入力情報の体積に対して正規分布に従った出力は返さない。
電子計算機に執行させた規則には例外がない。境界領域がない。理念も、倫理もない。一貫していて、再現性があり、連続性がなく、離散的である。情状酌量もないし、似た概念間の援用もない。「似た」という概念がない。これはプログラマーにとっては極めて当たり前だし、ただの利用者でも馴染み深い人は多いだろう。問題なのはもちろんこれがまだ一般人にははっきりと言語化されて理解されていないということだが、ここ数年でこの問題に直面しているのは、実は立法と司法と法執行なのではないだろうか。事件が起きるたび、規則が作られるたび、情報処理技術の関係者は「明確な基準を示せ」という声を上げる。彼らは基準と、基準の適切さと、執行に逸脱がないことにしか関心がない。
彼らの世界では、法は書けばそのとおりに「なる」のだ。
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。 」
日本国憲法第31条に明確に規定されているこの言葉は、いくらか人によって解釈が違う。例えば刑事罰に於いて犯罪者に対し口頭での罰や晒し刑などは当然存在せず、また誹謗中傷の類は生命或いは自由を奪うものではないとして、ネットリンチを正当化するものがいる。(ただし31条に関係なく名誉毀損罪として訴えられるケースは多々ある)不倫報道が出れば当たり前のようにネット中で罵詈雑言が書き込まれ、しかもそれが正義などと囃されたりする。
何度も人に言ってきたことだろうが、上記の通り法律の手続きなくして個人個人が他者を不当に罰することは法律上認められるものではないことを忘れている人間が少なからずいるようである。ネット私刑と言ってネット上での私刑行為を問題視する動きもあるが、時折それはネット上でのみ私刑が行われるというような、問題をある概念に閉じ込めてしまう不可思議なロジックを感じることがあるためここに明言しておきたい。ネット以外でも私刑というのは存在する。
姦通が行われて、復讐のために一方が他方を害するというのはときおり聞く話である。(弁護士局部切断事件((某大学の法科大学院に通う青年が、妻の浮気相手である男の局部を切断した事件))が一例)ただ、この場合は強姦されたと勘違いした男側の凶行だったそうだが、率直に言って、強姦であっても私刑が認められるということはありえない。強姦だから、大切な人を殺されたから、自分の尊厳を著しく傷つけられたから……感情的には理解できる理由だし、被害者の権利などを損なうつもりもなく、また加害者を守ろうという意志もない。ただ私刑がいけない。というより、これらは私刑でもなんでもなく明確な「犯罪」である。当然、それを行った人間は(さらにいえば、そこが正当な法治国家であるなら)他の犯罪者と同様に裁かれる。
ただし、裁判において情状酌量がないわけではない。例えば尊属殺重罰規定違憲判決(実父殺害事件((実父から恒常的に性交渉を迫られて、父との子供まで出産し夫婦同然の関係を強いられていた女性が父親を殺害した事件)))のさいには被疑者側の事情や心情などを斟酌して、合憲違憲の判断に関わらず、すべての裁判所が能う限り量刑を軽くする方針を示し、その過程において尊属殺の法令を見直し違憲に至ったという事例があるし、平たく言えば、裁判官だって鬼ではない。同じ犯罪であっても同情の余地がないものは重刑となるし、上記の通り減刑されることもあるだろう。
一体なにが言いたいかと言うと、被害者、あるいは被害者親族と加害者間に於ける私刑は、それが行われた時点で法律上明確な「犯罪」として認識され、刑法に則った判決が下されるということ、第二に、私刑という観点からのみ指摘できる事由ではないこと、第三に一般的にそれは個人と個人との事件であるということである。親族を殺されたものが復讐のために加害者を殺せば当然罪に問われるし、そのさい殺害に至った様々な問題(メディア・リンチ、経済的、精神的な救済の不十分)が見直される。さらに言い及ぶなら、すべての復讐殺人などをなくそうというのは極端に言ってすべての犯罪をなくそうと言うようなもので、私刑のような一義的観点から捉えられるものではないものの、明確な「悪行」として判断できる事由として扱える。
栃木実父殺害事件がどれだけ同情の余地があろうと無罪になることは決してない。あの京都認知症母殺害心中未遂事件でさえ、刑は執行されたのである。さきほど法律は鬼ではないと言ったが、だからといって温情に充ちているわけでもない。設けられた基準の範囲内で酌量するだけのことである。
ところが、第三者がアジテーションの如く私刑を推進したり、「この事例に於ける私刑はいいけど、この事例に於ける私刑はダメ!」などと何故か私刑を差別化しているような人間をままみる。全部駄目だ。
ネット以外でも私刑があるとは言ったものの、それが私みたいな一庶民にまで広がってくるツールはだいたいネットで、こんな日記を書き出したのも「不倫をしたやつにはこうしてやれ!」という攻撃的な文体とともに男性器(おそらく偽物と思われる)を女性がジャンプして踏みつけ続けるという奇天烈な動画を見てしまったからである。最初も私は「なんだ、過激なジョークだ」と笑っていたが、それに寄せられた一連のコメントを見ても冗談ごとではないようだった。しかも動画を投稿した人の(動画自体は拾い物らしいが……)発言が「女の方が男より二倍浮気をしやすい。だから、女が浮気したときは熱した金属を流し込め」などというもので、ひどく戦慄した。もちろん、こんなものは広いネットの世界におけるごくごく一部の一例にしか過ぎない。だからネット上、引いて現実でこのような復讐が認められているなどとは思わない。
けれども、どこかしら皆「悪人なら攻撃したっていいだろう」と思うところがあるかもしれない。しかし、それは間違いである。どんな理由があるにせよ悪行は悪行である。「あいつムカつくから攻撃してやろうぜ」というのと全く変わらない。いじめられる方が悪いなどと言って逃げる場合もあるが、いじめ自体が悪いということに変わりがない。どれほど正当化したところで絶対の誤りである。
世間は非常に大きなうねりを持った流動的な性質があるので、一個人の考え方だけが改まってもしようがない面がある。だからこそ線引が難しい。私刑を撲滅したいからと言って一人ひとりの言論や行動に政府や法律が過干渉すれば、それはディストピアである。ただ、逆説的に言及すると、ディストピアにせざるを得ないような民衆が力を持っているのも考えもので、人によっては、ある程度制限された世界のほうがずっと平和のように思うかもしれないのである。それはネットによって個人個人が情報発信能力を持つことで、なんの権力も地位ももたない一般人も、言動や論理性、道徳的な真偽など情報発信するものに必然の悩みを抱えなければならないからこそ、より切実に考えられるべき問題なのである。ネット私刑なんてものは、人々が出す機会もなかった攻撃性や偏狭な視点が顕在化した結果生まれる単語であり、その本質には一部の人間が私刑を……もっと悪質であれば、自分のストレスの発散のために他人を陥れることを良しとしていることにある。それに対抗するためには、その考えを持つ個人を糾弾するのではなく、その考え自体を批判しようという姿勢が大事だ。「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉には深い含蓄が込められており、この私刑問題を考えることによって再確認することができるだろう。
こういうことを聞いて少しは反省するもの、この考えに肯い「そうだそうだ」と声を上げるもの、犯罪者がいるなら石を投げるのが正義だと考えるもの、いろいろいるだろう。もしこの文章を見て少しは私刑を改めようと思ったとき、こういう風に考えてみてほしい。
「自分は知らず知らずのうち、こうした行為をやってしまってはいないか」と。
私もそうするようにしている。これは悪いんだなー、なんて悪いやつだ、と考える前に自省する。これがとても重要である。窃盗をしたものを馬鹿だと笑ってみても、よくよく思い出せば幼少期に、冗談ごとで済まされたとは言え窃盗じみた行為をしていたかも知れないし、いじめは良くないと憤る人が、いじめまがいの行為を無意識にしてしまっていたということもありうる。罪を犯さない人は理想的だが、そうそうそんな人は現れない。ぜひ、私刑を嫌う人も考えてみてほしい。「私刑を嫌った結果、私刑を行う人々に、また私刑じみた行為を働いてはいないだろうか」。殴る、蹴る、罵詈雑言を吐く、情報が消えづらいネットに個人情報を流す、ありもしない話をまことしやかに流布する……。こんなものはすべて私刑である。
余談だが不倫事件で話題になったベッキーと川谷絵音氏の事件で、ネット上に不倫が許せないあまり過剰な罵詈雑言が散見されることに苦言を呈していた増田へ、「不倫したいからそんなこと言うんだろう」とか「不倫しなきゃいいじゃん」とか、「人の性だから仕方ない」とかいうコメントがつけられていて驚いたことがある。きっとあの増田にとっても予想外のコメントだったと察されるが、それらのコメントを見てどのようなことを思ったのだろうか……。
数日前だかもう2週間ぐらいは経つか、TLに某バラエティ・ドキュメンタリー番組の動画が流れてきた。
「毒親」について。
ただその時、フォローしている既婚子持ち女性数人(いずれもお子さんは未就学児)が、
こんなの私もよくやる!」
と拒絶反応気味に吹き上がっていたのが気になりどうしてもモヤモヤが消えないので
ここのアカウントを取った。
強大なストレス源になったのは私の成人後なので、
つまり、これから書くことはあくまで元友人を含む毒親や虐待の経験談への印象を元にしている。
なので「知りもしないくせに偉そうに」と言われるかもしれないが、
そういった家庭や加害・被害の実体験者およびカウンセリング等の対応に仕事として携わっている「当事者」以外からの
「毒親」という存在そのものに対する軽視するようなコメント、感想は、少なくとも直接は書かないでもらえると嬉しい。
さて本題。
「こんなので毒親と言われたらたまったもんじゃない」と、怒りというより悲鳴のようなコメントを上げていた方々は、
(動画に対して)食事の時間が決まってるのに、作ってから「いらない」と言われてもキレたらだめなのか
感謝の言葉ひとつなければ「私はこの家の何なの」と言いたくもなる((動画内で、姉妹仲良くジュースを飲みながらテレビを見ているところへ母親が現れ、「あなた達がいるとすぐ汚れるんだから」と言いながらテーブルを拭き、「私はこの家の何なのかしら」と子どもたちを睨めつけながら言うシーンがある))がそれもだめなのか
といった点で件の動画に引っかかっていた。
うーん。
ちゃうねん。
「その動画や番組の是非については言うつもりはない」って書いたけど、
これは例の挙げ方が良くなかったのかなと少し思う。
でも虐待・毒親体験談をそれなりに見聞きしている自分には割と胃が痛くなる動画だった。
夕飯の準備ができてからご飯いらないと伝えた娘に対して母親が激昂し、その子の分のハンバーグをゴミ箱に捨てようとする。
やりすぎじゃない?
「そうすることで反省を促そうとしてる」という意見ももらったが、ビビらせるだけだと思う。
結果、その動画内ではどうなったかというと、女の子は学校から帰って母親の背中が見えるだけで「今の機嫌」が気になるようになった。
確かに自分がある種家族のルールを破った(食事の準備ができてから「いらない」と伝える)ために親を怒らせた、という
この動画の部分だけを見ると、これで「毒親」と言うのは大分大袈裟に思えるし、
毒親や虐待について幸いにもあまり見聞きしていない人には「その先」や「裏側」を想像させるようにはなっていなかったかもしれない。
でも実際にはいろんなことが積み上がってたんだと思うよ。
でなきゃ一度や二度「怒られた」ぐらいで「家族」の姿を見てビクビクなんてする?
あの動画にマイナスの反応をしていた人たちは、とても子育てを頑張ってるんだと思う。
で、頑張れば頑張るほどダメだったんじゃないかと思う部分が増える。
だから自分にも身に覚えのあることを指して毒親と言われたから拒絶反応が出たんでしょう。
ツイッターでは何度も書いたけど、
どうしようもなくイライラして怒鳴ったとか、つい手が出たとか、
そういうこと自体が(母)親には許されない、したら即毒親、と言ってるんじゃないです。
そりゃやらないのが一番だけど。
あの動画では伝わりにくかっただろうけど、問題は親がキレる基準やタイミングが判らないってこと。
虐待で逮捕された親たちも口を揃えて「躾のつもりだった」と言うけれど、
我が子が社会でやっていけるように言動や生活態度を整えていくのが躾とすれば、
毒親と呼ばれる人たちの行為は「自分(親)の機嫌に沿うか沿わないか」が基準。
子供は「社会的に正しいか正しくないか」ではなく「お母さんお父さんを怒らせないか」で行動する(しない)ようになる。
親じゃなくてもいますよね、自分の望む反応じゃなかったらキレる人。((例えばせっかく選んだプレゼントをいらないと足蹴にでもされたらそれは怒っていい。
それは「足蹴にした」ことに対して。
子供のリクエストを聞いたわけでないなら、喜ばなかったことに対してキレてはいけない。
というか、そういう場合「残念がる」のがマトモな感覚だと思うのね。
「毒」というのは「お前のために選んでやったのに!喜べ!」ということ。))
相手の自主性や尊厳を摘み取り自分の臓器のように扱うのが「毒」。
あと、「私はこの家の何なのかしら」のように、「自分がこれだけ○○してやってるのに」は危険。
友人知人に対してだって「(頼まれたわけじゃないのに)○○してあげたのに(見返りがない)」は人間関係こじらせる元だけど、
はっきり言って子供なんて子供が自分で生んでくれって言ったわけじゃないじゃないですか。((子持ちの友人も見ているところではとても言い難い))
してやってるも何も、おおよそのことは親の義務です。
件の動画への擁護(?)として「なんでも毒毒言って(母)親を追い詰めるな」というのがあったけど。
赤の他人に比べたら何も言わなくても伝わる部分が大きいけど、全ては「コミュニケーション」です。
で、コミュニケーションというのは、悲しく残酷だけど、受け取った側の認識が全てなんです。
私は最近、「そんなつもりじゃなかった」「気にしすぎでは?」と思うようなことで長年の友人を2人失いました。
「そんなつもり」かどうかは受け取った側が判定することで、
多少のエクスキューズはさせてもらえたとしても、それで許されるかどうかは相手次第。
親子も同じです。
親がどんなに頑張ったって(頑張らなくたって)子供が心を殺されればそれは毒。
友人や恋人関係で考えたらいいかもしれない。((私は恋人いたことないから知らんけど。))
毒と称される親は自分自身がそういう育てられ方をしてきたケースが多く、
親一代だけを責めてもどうしようもないかもしれない。
子育てに疲れてメンタルが死にかけのSOSでもあるかもしれない。
あるけど、「情状酌量の余地がある」ことが即ち「無罪」にはならないですよね。
なる可能性がまぁまぁあるだけで。
なんかそこをごっちゃにした感想(「母親だって辛いんだ!」)を受け取って、ツイッターでは文字数も打つのもしんどくて投げたのでした。
結局ここでも言いたいことはまとまらなかったけど。
ただともかく、「こんなので毒親と言われたらたまらない」は、個人の感想としては構わないのだけれど、
「何でもかんでも毒毒言うな」となると、痴漢やセクハラに対する「気にしすぎでは?」と言った軽視発言を想起させられて黙っていられない。
「あなたは」毒親じゃないしそんなことする親がいるなんて信じられないかもしれない、けどいるんだよ。
子供が可愛くて可愛くて仕方なくて、たまには怒ってしまうこともあるけど子供のためなら何でもしてあげたくて、子供もパパママ大好きと言ってくれる人たちには想像もつかない世界があるんだよ。
人工妊娠中絶はしばしば女性の権利の問題として語られるが、冷静に考えてみれば別に女性の権利でもなんでもないような。
胎児が人間ではないとする立場を取るならば、胎児は母体から栄養を供給されることによって成長するものであり、母体の身体の一部であるのだから、爪や髪、あるいはタトゥーといっしょで、より普遍的な「自分の身体の一部を好きにする権利」にすぎないように思う。私は髪を短くしておくのが好きだけど、長く伸ばすのが好きという人もいるし、それを配偶者や親が「いや、お前は髪を伸ばさねばならない」とか「髪を切れ!」と強制するのはおかしい。胎児もそれと同じで、ことさらに「女性の権利」と呼ぶようなものではないと思う。自分の身体に関する権利は男女がともに等しく持っているのだから。
逆に胎児が人間であるという立場を取るのなら、中絶は殺人であり、殺人をおかす「権利」はいっさい認めるべきではない。アメリカの中絶反対派のなかには、中絶には反対だがレイプでできた子は中絶してもよい、という立場を取る人がいるようだけれど、はっきり言ってわけがわからない。レイプされたという理由で罪もない一人の人間を殺してよい理由はどこにもないのだから(レイプ犯への復讐すら殺人罪に問われるのに)、仮に胎児が人間であるとするならば、レイプされてできた子供であっても人工妊娠中絶を認めるべきではない(もちろんその子供を育てる義理はないので、施設に預けるとかそういう選択肢が存分に保証される必要があるけれど)。中絶をしなければ母親が死ぬという場合に限っては緊急避難が認められる余地はあるだろうが、そうでなければレイプされてできた子供だろうが経済的に養えない子供だろうが、人工妊娠中絶を選んだ妊婦や産科医は殺人罪で訴追されるべきだ(情状酌量がされてはいけないとはもちろん言わない。裁判にかけられるべきだと言っている)。なぜなら、人を殺した者は殺人罪で訴追されるべきだからだ。
私はそもそも胎児は人間ではないと思うので中絶は自由だと思うけれど、それを「女性の権利」と言うのは上のような理由で違和感がある。また、ローマ・カトリックが中絶絶対認めないマンなのを理解不能と呼ぶ人を見かけるが、胎児は人であるという前提条件を採用するなら中絶絶対認めないマンにならざるを得ないので、理解できないという人の方がわからない(ただし、「私人が勝手に人を殺してもよい」という前提を持っているならば、「胎児は人間」と「中絶は自由」は矛盾なく両立するので、論理的に必ず中絶の禁止が導かれるわけではないことは注意したい。ヒャッハー!)。
かつてとある場所で、中絶の可否について議論したことがあった。私は「中絶は自由」派だったのだが、「胎児は人間なので中絶反対」と言っている反対派を、経済的に困窮した女性はどうなる、とフェミニストであろうと思われる賛成派が追及していて、お前の言ってることはおかしい、と横から突っ込んだ。「胎児は人間なので殺してはいけない」という主張に「経済的に困っている人もいる」と反論したら、それは「経済的に困っていれば人を殺してもよい」という主張と同じだ(「人を殴ってはいけない」という主張に「聞き分けのない子供はどうすればいいんだ」と反論したら「聞き分けのない相手ならば人を殴ってもよい」と言っていることになるよね? それと同じ)。「胎児は人間」と主張する人に対しては「胎児は人間ではない」と返すべきで、それに対して経済的困窮とかレイプ被害とかを持ち出す論者は、貧困層であることや性暴力被害に遭ったことを理由に罪も無い人を殺してよいと主張していることになる。80歳の老親が50歳の引きこもりの子供を殺したら殺人罪なのだし、長年の性暴力に耐えかねて人を殺した尊属殺法定刑違憲事件だって、「裁判を経て情状酌量が認められた結果執行猶予がついて釈放された」のであって「人を殺したのに裁判にかけられずに堂々と暮らした」わけではない。もしも仮に胎児が人であるならば、20歳の妊婦が胎児を中絶する行為も、同様に扱われるべきであるはずだ――もちろん実際には、胎児は人ではないので、中絶した妊婦も裁判にかけられる必要などないのだが(堕胎罪は有名無実化しているとはいえ悪法なのでさっさと廃止するべきだ)。
神学論争になっちゃうじゃないか、と言われればその通り。結局これは徹頭徹尾「人間の始期」をどこに置くかという神学論争に過ぎない。生物学的には受精卵から乳児に至るまでの過程は連続しているが、社会的にはどこかで線を引く必要がある(乳幼児から成人に至るまでの過程は連続しているが、社会的にはある瞬間から選挙で投票できるようになったりお酒が飲めるようになったりするのと同じだ。15年経てば20歳になるのだからこの5歳の幼児を成人として扱って酒を飲ませてもいいじゃないか、と主張する人は皆無なのに、1年経てばこの胎児は乳児になるのだから人として扱うべきだ、と主張する人が後を絶たないのは奇妙なことだと思う)。なので本質的に人工妊娠中絶をめぐる問題は女性の権利とはなんの関係もないのだ。これを「女性の権利」と呼ぶのはミスリードにすぎないと思う。
受け入れがたいとか抵抗があるとかではなく、問題のレイヤーが違うと思う。
そもそも人間は感情がある生き物で、感情論を法に持ち込むなという話ならわかる。
タイトルはマイルドにしてあるけど、中身みれば序盤の論調で権威と紐付けたあと畳み掛けるように共感や同情=悪という印象を植え付けてきてるように見える。
という図式は成り立たないというのに、まるで二律背反関係であるかのように煽ってる。
この世から憎悪を取りのぞくために誰もに権利を=共感は危険です。はぁ?
そもそも大前提不完全な人間を不完全な人間が裁くために生まれたのが法なわけで、その2つは対立関係であるわけがない。
たしかに司法レベルの話になると民意や世論や被害者感情にバイアスがかかったり情状酌量なんて言葉があったりするくらいだから未熟さは感じるけど…だからこそブラッシュアップは必要。それは何においてもそうで、権利に関することばかりではない普遍的な課題でしかない
繰り返しになるが、法において同情や共感や感情論は不要という話ならわかるよ。
でもこの世においてまるで共感や同情は悪であると言わんばかりの思想には寒気がするよ。
はてなでポジティブな意見が多いのは、共感能力に乏しい人間がここには多いから、ああいう記事から許されている感覚と癒しを得て喜んでるだけでしょ。
とにかく、
世に渦巻く憎悪を解消するために
いやー、人と人とのコミュニケーションで発生する軋轢について厳密な定義するなんて無理で、柔軟に解釈できるようにしとくのが常道っしょ。
そんな常道があってたまるか。
先進国は建前としては法治国家ではあるけど、弁護士の腕とか情状酌量とか陪審員の引き運とかで罪が変わるシステムを採用せずにはいられないように、結局人治主義でやらざるをえない。
陪審員は完全ランダムですが。さらに「法に対してどうか」を判断するんだぞ?
「どういう行為がどういう法にひっかかる」と定義されてるんだぞ?
特定層の「お気持ち」だけですべてが決まるシステムだと本気で思ってるの?