はてなキーワード: 商業主義とは
シャニマス以上に商業主義を感じたコンテンツって遭遇したこと無い気がする正直
シャニなんかより圧倒的に商業主義なデレマスだって1人1属性なぶん単体で見れば薄れるし何よりも開き直っているから何も感じんが
シャニマスはキャラ単体に2~3個の厳選された売れ線要素を仕込むから集合写真とかで際立つんだよな
冬優子なら猫被り+姫+実は努力家、みたいな
凛世なんかモロ綾波だし、千雪はおねショタ同人誌のおねだし、甘奈は(造形の段階で言えば)オタクに優しいギャルとか呼ばれているそれだし、黒ギャルとか、顧客が喜んで食べそうな要素オンリーをギュウギュウに詰め込みましたって感がある
あと前述したデレマスには圧倒的な頭数の代わりに遠慮が無かったから表面上の印象が単なる数打ちゃ当たる戦法に映るけど
大学で研究者をやっているが、声高に「東京オリンピックを中止にしてくれ!」と言いづらい弱みがある。
2021年夏に強行開催されそうな東京オリンピックについて、国民の大半はそっぽを向くか諦めの境地に達し、海外からはCOVID-19に関連した大きな健康リスクを指摘されている。それにもかかわらず、日本の政府、財政会、大企業、マスメディアは、オリンピックを名目にしてどれだけ甘い汁を吸うかしか頭にないようで、ろくなCOVID-19対策を計画することも透明で開かれた議論をすることもなく、自分たちは安全な高みに身を置いて、無謀な開催に向けて国全体を追いやっているように見える。
COVID-19ワクチンの確保や接種にも大きく遅れを取っている日本がこの夏にオリンピックを開催することなど、あまりに現実離れしているように思える。私個人としては、スポーツは好きで自分でたしなんだりもするが、このような状況ではオリンピックなど中止にしてほしいと思う。しかし、大学で研究者として仕事をしている身からすると、そう簡単に中止を訴えられない弱みがある。
その弱みは、スポーツも大学で行なわれる研究も、その資金の多くが税金でまかなわれており、産業に直結したわかりやすい有用性を即座に示しづらいという共通点に由来する。多くの税金を現在進行系で喰い潰しているスポーツの祭典オリンピックを中止せよと主張することは、この非常事態にCOVID-19に関連しない「役に立たない」研究には税金を投入するのをやめよといった主張と地続きである。人びとの声や政府がスポーツにおける資金の流れを意図的にコントロールしはじめたら、次に、その矛先は基礎研究や芸術などにも向くことだろう。
このアナロジーでいくと、選手にオリンピック開催の中止を訴えてもらうことが筋違いであることもわかる。選手たちはオリンピックを始めとする大会があるおかげで活動を続け生活費を稼ぐことができる。たとえ大会の理念が歪められ利権にまみれていても、現場のいち個人の力でシステムを変えることができない以上、スポーツ界全体を危険にさらし得るオリンピック批判をおいそれと口に出すことはできない。研究界だって同じようなものだ。ムーンショット型研究開発制度のようなばかげたプロジェクトに年間数百億円もの資金が使われているが、十分な説明や一般の理解なしにそうしたプロジェクトの批判をすれば、運営交付金や基盤研究のような比較的広く浅く交付される研究費まで減額されたり廃止されたりしかねない。
もちろん、IOCの主導するオリンピックがスポーツ界のなかでも例外的な悪玉であることは多くの人が認識するようになったことだと思う。商業主義が席巻し、利権と私欲にまみれ、もともとの理念すら失ってしまった醜い怪物。そうしたオリンピックはやはり例外であって、オリンピックを非難することは、スポーツ全般やひいては研究への資金の流れを制限することには必ずしもつながらないと楽観視することもできるかもしれない。しかし、欺瞞に満ちた前・現政権の態度を見ていると、政府のほうが積極的にそうした「読み違い」を演じて、オリンピックに対して叫ばれる中止の声をわざと曲解し、今後、スポーツや研究への支配を強めてくる恐れが大いにあるように思えてしまうのだった。(日本学術会議の件を思い出してほしい)
税金で大部分が運用されている点でスポーツ界と研究業界の構造が類似しているため、下手にオリンピック中止を叫ぶと、あらぬところに飛び火させられて、国から交付される研究費を減額されたり停止されたりするのではないか。そうした恐れから、正当な主張が声高にできなくなっている研究者は多いのではないかと思う。また、大学の研究業界に限らず、そうした恐れのあてはまる業界はほかにもたくさんあるだろう。
毎日AV見まくって限界まで射精しまくれば賢者モードで生身の人間なんてどうでもよくなるだろ。
ゆくゆくは刷り込みでモニターとオナホールとローションとDVDに直接欲情するようにさえなるんじゃないのか?
生身に固執するのはお前が性欲ヤバ男に生まれた不幸が原因なんじゃなくて、お前が生身の人間に欲情し続けたことに責任があるだろ。
お前のチンコは架空のセックスでマスをかくために存在し、お前の金玉は架空のセックスでマスをかいたら出てくる液体を作るためのものだと割り切れよ。
なんでそれが出来ない?
それはお前が性欲ヤバ男である自分が性犯罪を起こすことより、現実でセックスをしなくなることの方が恥だと考えているからだ。
なんて惨めで憐れなんだ。
恋愛業界によって刷り込まれた価値観に振り回され、犯罪の過小評価を勝手に行った憐れな犯罪者予備軍め。
車業界に煽られるままに危険運転を繰り返して刑務所に打ち込まれた走り屋(笑)と同じ末路を歩みたいのか?
もしかして本当に歩みたいのか?
格好いいと思っているのか?
単にチンコと金玉と商業主義生まれの刷り込みに振り回され、自分では一切の価値基準を下せなくなった憐れな操り人形であることが格好いいと思ってらっしゃる?
惨めにも程があるぜ。
近所の幼稚園児を誘拐してきて無理やり尻の穴にチンコを突っ込むペドフェリアと、同僚に酒を飲ませて判断力を奪ってから無理やりラブホに連れ込むクズの間に、貴賎の差なんてなく等しく人間として最低のクズだ。
自分のガキに手を出すクズ、暴力に脅すクズ、こそこそ盗撮をするクズ、弱そうな奴を狙って痴漢をするクズ、全てのクズが等しく人間として最下層のゴミだ。
お前がご自慢の性欲の強さをぶら下げてイキってみせても、世間の人間からすれば墓場の死体を掘り起こして穴に突っ込み始めるような気持ちの悪い存在と全く同じ、理解不能のヒトモドキでしかねえ。
お前に人間としてまっとうに生きたいというプライドが少しでも残っているなら、毎日限界までマスかいてろ。
AVを見てマスをかくためにお前のチンコは存在し、AVを見てマスをかくためにお前の人生は存在するんだ。
逆から追ってくと、ますウマ娘のライスシャワーはライスシャワー伝説から作られたキャラであり、物語消費が既にある競走馬に乗っかってるだけなので無罪(同時に創造性のなさの現れ
ライスシャワー伝説は日本の馬凄い!したい記者とJRAが作り上げた半分真実の虚像
分かりやすいアイドルを求める競馬産業関係者のエゴからライスシャワーの人生は物語として消費された
なんでその必要があるのかといえば競馬にお金を流れ込むようにするための宣伝目的
つまり全ては商業主義的な商業動物の消費であり商業動物はその骨も魂も人間様の食べ物として作られ使われて終わるということ
全てのエゴは人間に帰属しそこから生命を救うには商業動物のデジタル化と人間の商業動物化促進しかない
面白いことにウマ娘のようなデジタル状の架空の商業動物を玩具として使い倒すスタイルこそがまさにこの道の上にある
つまり、本気で「競走馬カワイソス。物語を架空にでっち上げられてマジムリポ」と思うなら、ウマ娘を避難するよりむしろ「リアル競馬はクソ。ウマ娘みたいのだけでええやろ」という陣営を作ってそこで旗を振るべきなんだよね
開催できると思ってるの?とか。
オリンピックのことなんて考えている場合じゃないんじゃないの?とか。
開催ありきになってない?とか。
欧米では冷めた目で見ている。とか。
開催に反対する意見がやたら目につく。
でも、健康が最優先だから、さらに延期でも仕方ない。最悪中止になっても仕方ない。
って、私は別に委員でも議員でもない一市民だから無責任に意見を言ってもいるだけ。
オリンピック委員会が、やる前提で動いていることは、何で批判されるんだろう?
やる前提で準備しなきゃ間に合わないでしょ。
準備する人とは別に、開催の是非を本気で考えなきゃいけないチームが別であるべき。それだけの話。
本気でやる前提で動いても、最終的に開催できなくなるかもしれないが、それは仕方ない。大損害は仕方なくないけど仕方ないとしか言いようがない。
今、オリンピックを開催する(ための準備をする)ことを批判している人は、そもそも平常でも、(ロス五輪以降の)オリンピックは商業主義に汚染されている!オリンピックはやるべきでない!とか言ってそうなイメージ。
松岡修造とか、吉田沙保里とか、アスリート出身で、オリンピック開催してほしい(と思っていそうな)人たちがオリンピック開催について反対するなら、その意見は素直に聞けそうな気がする。
日本文学編(anond:20210222080124)があまり注目されなかったけれども、記憶を頼りに続きを書く。
どの作品を入れるべきか迷った。古典の翻案に見られる知性とユーモア、晩年の作品にみられる迫害的な不安、どちらの傾向を持つ作品であっても、元文学少年の心をひきつけてやまない。特に「歯車」などの持つ、すべてのものが関連付けられて迫ってくる凄味は、学生時代に再読したとき、行き詰まりかけていた学生生活の不安と重なり、ただただ恐ろしく、読み終わってからしばらくは寝床で横にならされた。
「河童」を選んだのは中高生の頃で、河童の国を旅する要素に心を惹かれたことを思い出したからだ。それは、大学生の頃よりも不安が弱かったからなのか、この作品に潜む女性への憧れと恐れが自分に響いたのか、あるいは架空世界の架空の言語に魅せられたのか、その理由はわからない。
アンデルセンの小説を読んでいると、きっとこの人モテなかったんだろうなあ、ってのがひしひしと伝わってきて、何だったら今晩一杯つきあうよ、的な気分にさせられる。一人寂しいときへの痛みと、女性への復讐心が入り混じっていて、読んでいて心がきりきりとする。
で、この作品の中でひたすら「いいなあ」と思うのは、悪魔の鏡のかけらが心の中に入ると、どんな良いものもその欠点ばかりが大きく見えてしまうという設定だ。
ところで、ディズニーの作品の価値を貶めるつもりはないけれど、原作とは全然違う話に似たタイトルをつけて世界中に広げるのってどうなんだろう。デンマーク人は怒らないんだろうか(「人魚姫」だって原作改変をやってるし……。いや、ディズニーは普通に好きなんですけど、最近こうした異文化の扱いって難しいですし……)
「白熱光」にしようかと思ったのだが、これはエイリアンがニュートンとアインシュタインの物理学を自力で発見していく過程が延々述べられるだけの話で、燃えるけれども物理学の基礎をかじっていないとちっとも面白くないのでやめた。ついでに、彼の欠点として「科学者とエンジニア最高、政治家と宗教家と文学者は役立たずのクズ」という態度を隠そうともしないところがある。要するに理系の俺TUEEE小説なのだ。それに、しょっちゅうヒロインから説教されるし、作者はいったいどういう恋愛経験をしてきたか非常に心配になる。
そうしたえぐみが比較的少ないのがこの短篇集で、最初に読んだ本だから愛着がある。それに、上の隠しきれない欠点にも関わらずイーガンが嫌いになれないのは、科学的な真理に向き合う姿勢と果てしのない好奇心がかっこよく、さらに己に課した厳しい倫理に身が引き締まるからだ。
友人と富士山に登るときに持っていったこともあり、これも自分にとって思い出深い小説だ。これは、大戦後の新しい時代に適応できない英国の執事の物語である。
彼の小説の語り手は基本的には何かを隠していることが多いので、いつも歯に物の挟まった言い方をする。そのうえ、誰もが自分の信念にしがみついているものだから、登場人物同士の会話は勝手な主張のぶつけ合いになり、実のところ会話になっていない。
カズオ・イシグロはそうした気持ちの悪さを楽しむ作家だ。そして、「日の名残り」は自分の本当の気持ちに蓋をして生きている人、やりたいことよりもやるべきことを優先してしまう人に、刺さる作品であるに違いない。
彼の作品は不快だ。主人公のボヤキは原則として次の通り。俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかった(2023年10月3日追記。「処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった」が近いか?)。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ! これはひどい。
作中に出てくる西欧文明の衰退だのなんだの宗教への逃避だの一見知的に見える議論も、すべて上記の嘆きを補強するためのダシに過ぎない。それでもなお、なぜオススメに入れたのかというと、人をエゴ抜きで愛することの難しさを逆説的に語っているからだ。そして、自分が愛されておらず、必要ともされていないと感じたとき、人間がどれほど孤独とみじめさを感じるかを緻密に描いている。皮肉なことに、これは性と愛について真摯に思考した書物である。
ただ、どの作品も言っていることが大体同じなので何冊も読んではいない。
僕がウルフのことが好きなのは、単純に文章が美しいというだけじゃなくて、迷っている人間の頭の中で浮かぶ複雑な段階が細かいところまでよく見えているからだ。例えば親しい人への憎悪が浮かび、言葉ではそれを否定して見せるが、態度にふとこぼれ出てしまう。そうした過程を子供が貝殻を見つけたときのように、ひとつひとつ並べている。
そして、意識の流れとでもいうのか、ある人物の意識から別の人物の意識へと、外界の描写や連想を経てシームレスに移行していく感じが、本当に巧みな脚本の映画みたいで、やっぱり映画って文学から相当影響を受けてるんじゃないかって勘ぐったりするのだけれど、本当のところどうなのかは知らない。眠る前の自分の意識もふと過去に飛び、すぐに現代に戻り、夢想し、眠りに落ちていく。
「灯台へ」とどっちにするかこれも迷った。
さえない少年が万引きした小説を読んでいると、いつしかその物語の中に取り込まれてしまう。これは主人公が異世界に行き、そこでなりたい自分になるが(まさに公式でチートだ)、その報いとして自分自身が本当は何者であったかをどんどん忘れてしまう。何よりも面白い小説なのに、その小説が現実に向きあう力からではなく現実逃避の手段となることの危険性を訴えている。主人公が万能チート野郎になってになってどんどん嫌な奴になっていく様子は必見。また、後半で主人公を優しく包み込む人物が、私の与えたものは愛でなく、単に私が与えたかったものに過ぎない、という趣旨の台詞を言うシーンがあり、これが作品の中で一番自分の心に残っている台詞だ。
ちなみに子どものころ映画版を見て、原作とは真逆のメッセージのストーリーになっているのにショックを受け、初めて原作破壊行為に対する怒りを覚えた。僕が大人と商業主義を信用しなくなったのはこれ以来かもしれない。
基本的に自分は何かを知ることが好きで、だから知識の物量で殴ってくるタイプの彼の作品も好きである。それでいてユーモアも忘れないところが憎い。フィクションとは何だろう、言葉や文字で物語を語るってそもそもどういうことだろう、そうしたことをちらりと考えたことがあるのなら楽しく読めるはず。「Self reference Engine」で抽象的に触れられていたアイディアが、漢字という具体的な文字によって、具体的な形を与えられている。
元々SFの人だけれども、最近は日本の古典にも守備範囲を広げ始めていて、SFが苦手な人も楽しいと思うし、慣れたらSFにも手を出してほしいとこっそり思っている。
どうしてこれほどあなたを信仰しているのに、手を差し伸べてくれないのですか。せめてささやかな奇跡であなたがいらっしゃるということだけでも示してください。そういう人類が何千年、何万年も悩んできたことについて。神に関しての抽象的な疑問は、具体的な舞台設定を与えないと机上の空論になる。
以前も述べたが、ここに出てくる仲間を裏切ったりすぐに転向したりしてしまう情けないキチジローという人物がとても好きで、彼の「迫害さえなければまっとうなキリシタンとして生きられたのに」という嘆きを、情けないと切り捨てることができない。
ただただ弱くて情けない人物が遠藤周作の作品にはたくさん出てくる。だから好きだ。僕が文学にすがらねばならなかったのは、それなしには自分の弱さ、愚かさ、卑怯さ、臆病さ、ひがみを許せなかったからで、強く正しい主人公たちからは救われなかった。
「男性読者」という名の作中人物が本を買うが、その本には落丁があった。続きを探すために彼は同じ本を手に取った別の読者である「女性読者」を探し求める。彼はいろいろな本を手に取るが、目当ての本は結局見つからない。枠物語の内部に挿入されるつながらない小説の断片は、それだけでも完成度が高く、まるで本当に落丁のある文学全集を読んでいるような楽しみがある。
世界の文学をパロディー化した物語のページをつないで作った「鏡の中の鏡」かと思わされたが、それ以上のものだった。語りの文と物語の関係とは、新作と偽作とは、そんなテーマが物語レベルとメタレベルの二つの層の間で錯綜して語られている。
知的障害者のチャーリー・ゴードンが脳手術で天才になるが、その知性は長続きしなかったという悲劇として知られている。けれども、僕はこれをただの悲劇として読まない。障害者とセックスについて正面から向き合った最も早い作品の一つだからだ。
チャーリーは女性の裸を考えるだけで罪悪感からパニックになってしまう。それは母からの過度な抑圧と体罰が原因だったが、それはチャーリーの妹を彼の性的好奇心から守ろうとするが故の行動だった(チャーリーの母が、周囲からもっと支援を得られていたら、あれほどチャーリーにつらく当たらなくて済んだんではないか、とも思う)。
天才になったチャーリーは恋をし、トラウマを乗り越え、苦労の末に愛する人と結ばれ、やがて元の知的障害者に戻ってしまう。一見すると悲劇だが、彼にはセックスに対する恐怖がもはやなくなっている。彼がただの障害者に戻ってしまったという感想は、その視点が抜けているのではあるまいか。
素晴らしかった。中年の仲良しグループというか、ツイッターでいうクラスタの間を行き交う書簡を通して話が進む。居場所をなくすこと、愛情を失うこと、自分の子供をうまく愛せないこと。そして、友人の死。テーマは深刻だ。なのに、読後感は良い。それは視点が距離を取っているからか、登場人物を公平に扱っているからか、それとも愛を失う/奪われる過程だけじゃなくて、そのあともちゃんと書いているからなのか。長い時間の中で、家族や友人が近づいたり離れたりする感じ、これこそ人生だ、みたいな気持ちになる。
子供の頃、太陽が五十億年も経てば地球を飲み込んでしまうと知って、非常に恐ろしかったのだけれど、それ以来人類の運命について書かれた物語がずっと好きだ(H・G・ウェルズの「タイムマシン」も何度も読んだ)。
人類は滅んでしまうかもしれない。生き延びるかもしれない。しかし、宇宙に出て行った結果、ヒトとは似ても似つかないものになってしまうかもしれない。彼らは人類の何を受け継ぐのだろうか。そして、今しか存在しない自分は、果たしてこの宇宙で意味があるのか。
人類の運命が気になるのと同じくらい、僕はきっと遠くへ行きたいと思っている。だから、ヒトという形から自由になってどこまでも進化していく話に魅了され続けるのだ。
何度かこの内容のトラバをしてみた上で改めて考えてみたが、やはり結論は変わらなかった
もちろん森の発言は論外だと俺も思うし、辞めるべきだとも思う
しかしそこで今更「五輪精神」なんぞ持ち出されたところで、ただただ空しいばかりである
さらに言うなら2022年には再びそれが確かめられる予定だからである
はっきり言おう
北京で夏冬2回もやっておいて、今更五輪精神もクソもあるかボケが!
ソチに至ってはウクライナの件で、平和の祭典という建前すらも大概疑わしい代物となってしまった
しかし商業主義にどっぷり浸かった身の悲しさ、現実のあれやこれやには全く無力どころか、もはやまともな抵抗すら見られないという惨状である
言っておくが、もちろん日本も同罪だ
チベット問題は2008年当時からもう言われてて抗議の声もそれなりにあったし
アンサイクロペディアでは「エクストリーム聖火リレー」という、今から思えばしょうもないネタが盛り上がったりもした
しかし日本政府も含めて、結局は皆沈黙のうちに荷担したのである
そしてもちろん国民も、いざ大会が始まってみればいつものようにメダルの数で盛り上がるばかりで、何の関心も持たなかった
彼らの大多数は、香港やチベットやウイグルの一体何がヤバいのか、そもそもまともに理解すらしていないのかもしれない
そしてコロナで先行きは不透明だが、2022年には全く同じことが繰り返される見込みというわけだ
他人の人権のために自分の利権や娯楽を差し出せる者など、おそらくごく少数しかいないだろう
どこかで誰かが死ぬ思いしようが、イベントがなくなることの方がよほど我が身にとっては深刻というわけだ
ジェノサイド認定などしてみたところで、商業主義と「政治の犠牲になるかわいそうなアスリート」というわかりやすい図式の前には、ボイコットすら盛り上がりそうにない
だいたい今言われてる男女平等にしたって、それこそ中東やインドで五輪をやるとなったら、どうせしれっと見なかったことにされるのではないだろうか?
リベラルの皆様は、日頃人権に関心のない輩がチベットやウイグルの問題を持ち出してくることが、大変に我慢ならないそうだ
しかしオリンピズムこそそれと同じで、「日頃どうでもいい扱いをしていたものを都合よく引っ張り出してきた」ようにしか思えないのである
思春期である。普通のプールに行くことを考えるだけでムラムラが収まらないのである。そんなさなかに、教科書や参考書の隅っこにビキニ姿の女性が踊っているのを見て、平常心でいられるはずがあるだろうか。
だいたい、カーニバル衣装のビキニのパンツ部分から下がっているふんどしというか前垂れというか、極限まで深くしたスリットみたいな、あれをみても平静ではいられない。たまにファンタジーものでもそういう名前がわからないけれどもふんどしというか、マーニャの踊り子衣装みたいなのがあるのだが、あれってめくったらどうなっているんだろ。鳥山明に聞いてみたい。
カーニバル、つまり謝肉祭とは、四旬節という物忌みの期間直前のお祭りであり、しばらくは肉料理が出なくなる。要するに遊ぶだけ遊んで翌日からは真面目にやる日、というわけだ。別の説によれば異教の祭りが起源であるのだが、どちらにしても現在ではキリスト教の暦と密接に関係している日である。ちなみに、この四旬節が明けて過ぎ越しが明けた日がイースター、復活祭に当たる。
ウィキペディアによれば、黒人と白人の音楽の混交から生まれた音楽・ダンスを指すそうである。もう少し詳しく述べると次の通り。
音楽としてのサンバはダンス音楽であり、19世紀の終わりごろブラジル北東部の港町、バイーア(現:サルバドール)で生まれた音楽が源流となった。当時のバイーアは、奴隷貿易によってアフリカから連れて来られた黒人が集められ、売り買いされた場所であった。その後、白人文化からの影響も受けながら1910年代に確立し、1930年代に普及と隆盛を迎えたそうである。内容も黒人の生活や人種差別から抒情的な内容も含むようになっていった。
ダンスとしてのサンバもまたバイーアに住んでいたアフリカ人奴隷の踊りが元となっていて、足や腰の動きを基本とし、ほとんど即興である。ポルトガルの文化と混交してリズムや踊り方が変化した。伝統的には音楽を演奏しながら周りで手を叩きながら輪を作って踊り、交代で人が中に入って踊るが、これをサンバ・ジ・ホーダ、サンバの輪といい、都会のサンバの進化にも影響を与えた。これは今や、ブラジルの文化的なアイデンティティとなっている。
現在のサンバショーでは現代の欧米のダンスを取り入れた振り付けだが、あくまでもサンバは基本的に即興の踊りが中心で、またその醍醐味であるそうだ。
なお、日本に初めてサンバが紹介されたときには知識が不足していたせいか、キューバのマンボと混同していたり、なぜかメキシカンハットをかぶっていたりと文化考証がめちゃくちゃで、冒頭に引用した語句のように、今でもこの誤解を引きずっている人は少なくない。マツケンサンバだってサンバとはちょっと違う。
Rio de Janeiro's Carnival Costumes Throughout the Years - ABC News(不幸にして画像はリンク切れ)
The History and Tradition of Rio Carnival Costumes - Bucket List Events
カーニバルの仮装はイタリアにその起源を持ち、その伝統はポルトガルにまで広まった。それが植民地のブラジルにもたらされた。誰が誰だかわからない、そういう楽しみであろう。
1930年まではブラジルの社交界の人々は平民たちの視線のなかで、豪奢な衣装や仮面を見せびらかして歩いていた。仮面は動物や悪魔の形をかたどったものや、イタリアに起源をもつ道化の顔もあった。
1930年以降、庶民もカーニバルに参加するようになった。しかし、当然のことながら高価な衣装は身に着けられないし、2月のブラジルは非常に暑い。そこで、明るい色を身にまとうことになった。カーニバルのパレードは1932年に端を発する。
そこから徐々に衣装の軽量化が始まった。1950年にはすでに男性は上半身裸、女性はビキニ姿になっていたことが確認される。水着のビキニが1946年に誕生しているので、非常に適応が早い。海以外でビキニ姿になったことを考えれば、全く持って革命的である。
1970年代になるとサンバ・スクールが組織化され、現代のように洗練され始める。この産業が衣装の豪華さを支えている。実際、テカテカビキニばかり有名だけれども、他のメンバーの極彩色の衣装は露出が少なくても見ていて楽しい。こうしたサンバ・スクール(エスコーラ・ジ・サンバ)は学校を名乗っているが実際は組織化されたダンスグループで、最大で4000人の規模にも達する。舞踏や衣装のスタイルに違いがあり、区別される。なお、ダンサーだけで4000人であり、衣装を準備する人やその他オーガナイザーは含んでいない。
また、同時期にサンボードロモ、つまりサンバを披露するためのエリアが作られる。ウィキペディアによれば、通常は、サンバ・スクールのパレードが展開できるほど長い空間を、観覧席が取り囲むような構造になっているそうだ。阿波踊りの会場みたいなものか。そして、リオデジャネイロのサンボードロモの場合、中央のパレード空間の長さは700メートルに及ぶとのことである。ブロコス、カーニバルのブロックもまた作られた。
現代では、ほとんどあらわになった胸に紐パン姿も散見される。英国のタブロイド紙がこうした乳首の露出やフェイクの乳首について記事を書いている。
今のところ、全裸は許容されていない。とはいえ、ルールを守らない人もおり、そのせいでサンバ・スクールが時折資格を剥奪されることさえある。そういう格好で踊っている人が見たければxvideosかpornhubをご覧いただきたい。野外で全裸になるのは露天風呂でもわかるように最高なので気持ちはわかるが、ルールは守りましょう。
Hyper sexual Carnival atmosphere has a dark side for Rio's women | The Independent | The Independent
ここで記者は、カーニバルのビキニの女性たちは過度に性の対象となっている、モノ化しているのではないか、と指摘している。つまり、パレードで疲れた男性たちを鼓舞するように休みなく踊り続ける半裸の女性、いわゆるボンキュッボンの「理想」的な体型で選ばれるサンバの女王たち。少年たちがサッカー選手に憧れるように、テカテカのビキニの女性に憧れる少女という構図。一見エンパワーメントされているようだが、実際は? しかも、カーニバルでは性暴力の数が圧倒的に増える。その場の雰囲気で強制されたキスだけでなく、強姦も含む。こういう空気を嫌ってか、カーニバルの期間は脱出する人もいるそうだ。
自分は、よその文化だから評価できる立場にはない。ただ、たとえば「理想」的でない体型の女性も選ばれたらもっと素敵になるかもしれない、と思うのだ。昨今、モデルの体型をやせ過ぎにするのはやめよう、という運動が起こっている。それに、いわゆる美人ではないしスリムではない女性が芸能界で活躍することが増えた。自分の好みではないが、とてもいいことだと考えている。貧乳でもいい、毛深くてもいい、ぽっちゃりでもいい。そういうメッセージが社会全体に広がることで、あなたはあなたのままでいいという空気を作ってほしい。あなたをあなたのままで尊重する、そうすることで暴力の少ない社会にしていきたい。
過度に性的な空気は似たようなイベント、ニューオーリンズ・マルディグラでも問題になっている。家族で過ごすイベントである側面もありながら、野外で全裸になる人も後を絶たないのだ。ブラジルから外れるので詳しくは述べる余地がないが、詳しくはウィキペディアを参照してほしい。
Child queen, U.S. stars to light up Brazil Carnival | ロイター
https://www.france24.com/en/20100215-controversy-over-child-performances-mars-rio-carnival]
あるいは、7歳の少女が躍る権利についても議論が巻き起こっている。子どもの権利を保護する団体が、彼女が性的に搾取されることを恐れたのだ。ハイヒールにビキニの大人たちのいる場はどうしても性的だし、40度にも達する気温は子供の身体に有害である恐れがある。同時に、踊りたいという子供の夢をかなえたい思いもある。日本でも、浅草かどこかで踊る小学生のビキニ姿をアップロードする者は後を絶たない。
ちょっと前まで子どもがすっぽんぽんで泳ぐのがかわいいとか言っていた時代だったかもしれないが、誰でも写真や動画が容易に拡散できるようになってしまった時代、そうもいかないだろう。僕たちは否が応でも自分の身体を性的だと意識せざるを得ないし、子どもが自分の身体を守るための性教育の必要性は高まっている。何も幼稚園児からセックスについて事細かに説明する必要はない。ただ、身体の特定の部位を覆い、むやみに他人と触りっこしないように教えて身を守れるようにすれば十分だろう。性教育とはセックスの知識だけではないのだ。
2月の祭りとしてはしないと思う。日本人は概して祭りが好きだし、海外の祭りを積極的に受容してきたが、イースターが定着するかどうかどうかという雰囲気であり、これ以上の祭りを受け入れるキャパシティは少ないのではないか。2月にはすでにバレンタイン商戦があるので、そこにねじ込むのは少々無理があるだろう。50年経てばパリピがホーリー祭りまでやり始めるかもしれないが。あるいは、8月の浅草サンバカーニバルや5月の神戸まつりのように季節をずらすかもしれない。大体ああいう格好をするのは単純に踊っているとめちゃくちゃ暑いってのもあるだろう。
私事だが、イギリス育ちの自分としては、日本に戻ってハロウィンやイースターがないのが当然だと思っていたし、寂しいとも思っていなかった。触れるとすればせいぜい、NHKの「えいごであそぼ」や国際交流の授業で言及されるくらいであった。ハロウィンやイースターを定着させようとする動きはごく最近のものだ。
それに反対するわけではないのだが、ハロウィンが終わって街の雰囲気がすぐにクリスマスになるのは風情がなさすぎる。米国ならクリスマスまでの間に感謝祭があるのでまだ11月を感じることができるのだが、日本ではそうもいかない。二十四節季を楽しんでいた先人のいる国とはとても思えないほどに大味だ。
商業主義との両立を考えるなら、11月にも何かイベントをやればいいのではないか。2月には豆まきとバレンタインがある。毎月2度のイベントをやれば、二十四節季めいていてまだいいのではないか。
今回はテカテカビキニが50年代にまでさかのぼることを示した。今後は、世界各国の祝祭の場における露出の自由、野外全裸、性的規範のゆるみについて調べるとともに、暴力を防ぐための対策についても調べていきたい。