はてなキーワード: 同業者とは
ほとんどの人は俺と同じように「自分が『悪い』から失敗した。失敗は自分の選択の結果だ」を選ぶものと思っていたけど、そうでもないのかなと最近思い始めた。
あくまで、失敗の原因を他人や環境のせいにできない場合限定で、自分の何が失敗を招いたのかと考える時の話ね。
仕事に失敗した理由は、楽しても儲けようとしたから、サボって給料だけもらおうとしたから。
あの子にフラれた理由はヤリたいだけで女性に対するリスペクトが足りなかったから。
こんな風に、自分が怠惰で強欲で好色な『悪人』であることは受け入れられるけど、自分が成功するための資質に決定的に欠けた『弱者』であるとは絶対に認めたくない。
単純に「自分には本気を努力すれば、真面目にやれば、誠実に振る舞えば成功できるポテンシャルがあるんだ」と信じたいからなのだろう。誰でもそうだろうと思ってた。
でも、実際に他人に質問してもると、どちらかと言えば「自分が『弱い』から」と考えるかなと答える人が多くて驚いた(自分の身の回りの狭い範囲)。
同僚や同業者と同じように仕事してて上手くいかないなら向いてないってことでしょ。自分が不真面目なわけじゃない。
フラれたら、相手の好みに合わなかったんだと諦めて次に行く。
といった運命論者のような感じの考え方。
失敗は自分が選んだ悪徳の結果で、悪徳を無くすように行動すれば次は成功できる。
それに、成功を追い求めずに悪人であることに居直る選択の自由もある。
自分はこう考えるし、こう考えないと生きていくの辛くない?
1週間くらい前の出来事です。
しばらくは、振り返るのもシンドかったのですが、ようやく気持ちも整理出来てきたので書きます。
院内ではBLSやACLSの講義をしていたりする機会もいただいていました。
さて、その日は勉強会の帰り道でした。
帰りの電車、あと少しで最寄駅というところで、すぐ近くで「倒れた!緊急停車!」と大声が。
どうしたのかと思って、近づくと、明らかにヤバい色の顔色不良で明らかに異常な呼吸。引き攣るような、死戦期呼吸みたいだ。
数名が必死で座らせようとしていましたが、両肩を叩き、意識レベルを確認すると刺激にはほとんど反応なし。
私は「こういう時には、とにかく胸骨圧迫!」と習っていましたし、教えてもいました。
ある日の院内研修の際には新卒の子からの質問で「心停止でない方に間違って胸骨圧迫をしてしまっても大丈夫でしょうか?」というお話がありましたがその時の私は"誤って胸骨圧迫をしてしまっても、血液の流れに支障はありません。緊急の場面で、心停止を正確に判断することは困難です。心停止かどうか判断に迷ったら、躊躇せずに胸骨圧迫を開始して下さい。"と説明していました。
参考URL http://www.j-circ.or.jp/cpr/qa.html
ところが、私が寝かせて、「異常な呼吸ですし、橈骨も触れませんから胸骨圧迫を始めます」と胸骨圧迫を始めようとすると、中年男性数名に大声で「いやいや!息してるから!こういう時は心マなんてしなくていいよおー!」と怒鳴られるように言われ、半ば羽交い締めにされるように止められてしまったのです。
すると、もう、私は、その場の空気に飲まれ、なにもできなくなってしまいました。
いや、ただ、私がハッキリと言えばよかったんです。
「これは必要なことなんです。この呼吸、顔色は、きっと普通じゃありません。胸骨圧迫はもしかすると必要ないかもしれませんが、メリットがデメリットを上回ると感じています。」と。
でも、私は止められたことがとてもショックで、身動きがとれなくなってしまったんです。
それで、何もできなくなってしまったんです。
その場の空気では、まるでとんでもない悪いことをしていたのは私の方みたいでした。
私は目の前で止まる寸前の呼吸をみながら、遠巻きにみているだけでした。
よき援助者であろうと日々を過ごしてきた何十年かが崩れ落ちたような気分でした。
それに、止めた男性の方々はニヤニヤしながら、馬鹿にするような目で(もちろん、被害的な感情が溢れていたので認知が歪んでいた可能性も高いです)私をみているような気がしました。
その時の私は複雑な気持ちが溢れ出して、足がガタガタと震えていました。
「ああ、もう私は病院以外の場所では、もうBLSなんて怖くてできない!」としか思えなくなっていました。
怖い。苦しい。恥ずかしい。
情けない。助けてほしい。誰か。
そんな気持ちが溢れ出していました。
病院ならハリーコールをかけて、先生が来るまで出来ることをやればいい。
でも、ここでは私は何もできない。
「エラそうに院内講師とかしてたけど救急のトレーニングなんか意味がないのだ…」とその時は思ってしまいました。
誤解されそうですが、私は止めに入った方々を非難しようとしているわけではありません。
それよりも、何よりも、私は、私自身に強い嫌悪感を感じたのです。
…そんな私の支えになったのは、同業者のパートナーや友人、オンラインでのお知り合いからの声かけでした。
この場を借りてお礼を申し上げます。
本当にいつもありがとうございます。
(ちなみに急変された方はなんとか微弱な呼吸を維持しながら、抱えられるようにして電車を降ろされるところまでは確認しました。)
(胸骨圧迫がその方に本当に必要だったかどうかはその時点ではわかりません。)
(繰り返しになりますが、私は止めに入った善意の方々を非難する意図はありません。)
さて、救急現場に救急車が到着するまでの間に偶然現場に居合わせた者をご存知の通りバイスタンダーと言います。
"バイスタンダーが一次救命処置を実施した際のストレスに関する検討"という調査では、その結果として「多くのバイスタンダーがさまざまなストレス反応を経験していた。また,その体験を他者に話して,自分の気持ちを理解してもらいたいと考える者が多かった」と述べられ、また結論としては「BLS 教育において,BLS 実施によるストレスとその対処法に関する教育を考慮する必要がある。さらに対策の一環として,相談を受けるシステムを整備することが有用であり,急務であると考えられる」ということが考察されています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsem/16/5/16_656/_pdf
その他にも、"航空機内での心肺蘇生の実施により心的外傷を負った1例" 総合病院国保旭中央病院神経精神科 大塚祐司(宇宙航空環境医学 Vol. 44, No. 3, 71-82, 2007) http://plaza.umin.ac.jp/~GHDNet/08/cprtrauma.htm
では、読むだけ胸が苦しくなるようなCPRの描写がされています。
私の体験は、航空機の事例に比べれば、些細なことだと思います。
今の私は、みんなに優しい言葉をかけてもらい、聞いてもらい、気持ちもあの時に比べれば落ち着いてきました。
今は、"自分がまたいつか急変の現場に立ち会って「BLSが必要!」と思ったら、どこででも出来ることをやらなくてはならない。それは「自分が傷ついたような気持ちになったから放棄していいもの」ではない。むしろ、誰でもやるべきことだ"と思えています。
でも、その時は本当に怖かったのです。
あるいは、それは集団における正常性バイアスなのかもしれません。
こんなに情けなかった私の話を。
それはきっと、誰かの役に立つと思います。
自分ができることは何か。
そして、次に院内外で急変に遭遇した際には、私はもっとしっかりと立ち回りたい。
私とその場の方のためにも。
この文章は、そうした決意のために書きました。
そんなもん文系基準でも「査読なし論文」じゃねーわ。業績欄に載せるとしても学術誌の片隅のコラムとか学生新聞のインタビューとかと同じ扱いだわ。そんなもん、理系だって査読があるわけないじゃん。
そう。で、その論文基準に満たないものが論文として投稿されたらどうなのかっていうところ。
査読があればそこで止まる。無ければ、評論家に叩かれるとか、別の論文でこき下ろされるとか、同業者からお声がかからなくなるとか、別ルートで評価されるんだろうとは思う。
査読と違って反論が論文として業績になるとか、やり取りが公開されるとか利点もありそうだけど、匿名のレビュアーが絶対的権限を持つ(と言いつつ編集がひっくり返すこともある)査読より権威者に有利な制度でもありそうで、そこは制度の性格による良しあしと思う。
というのとは別に、遅くないかと。査読は一部の人柱だけど、査読がなければ多くの人の時間を使うわけで。永遠に時間があるつもりで勉強しろという格言はあるけど、人はあっという間に死んでしまうわけで。
お前はもうずっと増田で、「査読がないことは論文の質を決定する要素ではない」と言っているだけ。それに対して、高いレベルの査読が行われていなければ再検証の対象としての優先度は下がるし、再検証されない論文は被参照数が増えず、論文としての価値が低いと言っているわけだ。査読は優れた研究であることを同業者に認められるための条件の一つになるが、査読されていなければ再検証も行われず優れた研究と認められることは稀である。ゆえに査読されない事は、論文の価値を実質決定する。
被引用数にやたらこだわる人が多いと思ったらそういう理由があるのね。当たり前だけど、マイナー事象を扱っていればメジャー事象を扱ったものより被引用数は少なくなるから、それは直接価値を測る尺度にはならんよねって話をしてるわけ(この問題はとうぜん査読誌にも存在するよ。英語圏でも日本語圏でも、ナチスについての歴史研究とそのへんの小国の歴史研究、読まれる頻度が高いのは研究者人口からいって前者なわけで。まあ当の小国で出た論文に限れば頻度は逆転するわけだけど)。あと、論文の中でダメダメな研究を引用した上で批判する、なんてのもよくやるよな(まさかやらんのか?)。このような研究分野において、被引用数は文字通りどれだけ多くの人に引用されたかという尺度に過ぎず、引用の多寡は直接的には論文の価値とリンクしない……というのは流石に理性があればわかってくれるよね? まあ実質的にリンクしている分野があるのは理解したけれど、他分野においてもリンクしている、あるいはリンクさせるべきだという主張はまったくもって理解に苦しむ。
そして、社会学においては、偉い先生が書いた査読もされない招待論文が価値があるとみなされる構造に問題があると言っている。当初から査読の有無は問題視されていない、論文のクオリティを担保する仕組みについて社会学での在り方が、社会学者内でも文科省でも疑問視されている事を指摘されている。
偉い先生が書いた良い査読なし論文には、そのへんの若手が書いた微妙な出来の査読論文よりも価値がある、という話なので。そしてもちろん近年は査読重視にシフトしている、という話もさんざんなされているわな。同じ社会学でも世代とか環境によって「格」の考え方には差があるわけで、1人の学者の放言に基づいて構造を云々してしまうのは到底科学的な態度とはいえない。まして、社会学に限定するのではなく、「文系」というより広いくくりでの議論をしようとするならば。要するにきちんとリサーチしろと言っている。ろくに対象について調べずに的外れなこと言ってんじゃねーよバーカ、って言えばわかりやすい?
お気持ち表明学問とは違って、理工学は先行研究との間の比較実験をして、実験結果について先行研究との比較を解析的に行う。先行研究との比較には、同様の実験を再度行う場合や、同じシステムを構築しなおす手間を含む。時には、予算も時間も考えられない程かかる。
先行研究との比較ねえ。まず文系といっても色々あるので一概に言えないわけだが、たとえば歴史学なら先行研究で引用されている史料はチェックするよな。文学なら、まあ文学といっても多種多彩だけど、刊本が容易に手に入る小説の内容についての分析なら手元か図書館に同じ本があるはずなんだから再検証は容易にできる。のでみんなやってるはず。逆に文化人類学なんかはフィールドワークのデータに依拠する以上原理的に完全な再現が不可能だけれど、そこは天文現象についての研究と同じだと思ってもらえれば。一回性の振る舞いを膨大に集めて理論を構築していくという意味で。社会学も、フィールドワークに基づいたやつなら文化人類学と同様だし、統計に基づいているなら統計に基づいた議論ができるよな。法学は、まあ、条文が目の前にあって、それをどう解釈すべきか、あるいは個別の事件がまずあって、そこに条文をどう当てはめるべきか、という議論だから、再現性とかあんまり関係ないと思う。とまあこんなふうに、分野によって「再検証」のあり方というのは実に多種多様なのね。理系とひとくくりにされてはいても、工学と天文学と生物学と理論物理学と数学じゃあ「再検証」のあり方は違うっしょ? 理工系がスタンダードな研究のあり方、ということではまるでないわけで、そうなんですか理工系ではそうなんですね勉強になります、以上のことは言えない。
逆を言えば、文系の場合は、査読の有無にかかわらずただ読むだけでいいという事だろう。論文の良しあしに関わらず、ゴミの山に埋もれるのは空しいな。そして競争もない。
ただ読むだけでいいというのが何のことなのかはわからないけれど、普通に競争はある。考古学なら新しい遺物が発見されたとか、歴史学なら新史料を見つけたとか、そういうマテリアルな新規性もあるし、独創的な理論や解釈を提唱したという意味での新規性もあるわな。そして同じ事象を研究するにしても出来のいい研究と悪い研究とでは当然与えられる評価も異なってくるし、違う事象について研究していても同じディシプリンの中にいる以上出来の良し悪しというのはわかってしまうわけで(だから被引用数を重視する文化が存在しない。たとえどれだけナチス研究の方がそのへんの小国研究より注目されていようと、出来の悪いナチス研究と良く出来た小国研究なら後者の方に価値があるから)。
言語だけで問題視はしないが、批判されている社会学については英語で論文を書いて、世界から査読を受けるべきと思うと、工学系で研究をしている人間として言っておきたい。日本語でだって研究は出来るとかいうのは、批判の本質に対しては無意味な論点ずらしでしかないんですよ。
http://dlit.hatenablog.com/entry/2018/10/09/081143
とは言っても、人文系でも査読される事が重要になってきている様だし、「査読は理系だけのローカルルール」とのたまっていたのは馬鹿な繰り言だと分かってホッとはしました。千田先生が学んだ社会学も批判を機に変わって貰いたいですね。学者と呼べるのか?と感じる人間が排除される様な変化を期待したい。
唐突ではあるが、皆さんは、工学系研究者が年間に何本程度の論文を読むと思われるだろうか?ここで言う、読むという行為は再検証実験が自分で出来るレベルに落とし込めるという前提でです。時間がある博士課程の学生で、なおかつかなり優秀と言われる人で150も読んでいれば相当なものです。不慣れなものが論文から何をどう作ればいいのか?を理解するのに要する時間は一月にも及ぶかもしれません。斜め読みまで含めれば、修士の学生でも、最低50本程度は読んでいるでしょうが、逆を言えばそんなものです。斜め読みで済ませることが出来るのは、論文の質が担保されているからですね。
一方で、自分の専門領域についての論文は、毎年、大量に発表されます。もしも査読がなく、国際学術誌や国際会議にランク付けがなされていなければ、玉石混交のクズ山の中から、自分の研究が引用すべき論文について、その妥当性を再検証するだけで膨大な時間を必要としてしまいますね。査読と学術誌の採択難易度によって、論文の質が担保されている事が如何に重要か?お分かり頂けるでしょう。レベルの低い会議の採択論文や、査読なし論文などは、僅かな例外を除いて通常は再検証されることなく消えていきます。高いレベルの査読を通って採択されている事は、再検証する手間をかける価値の証明になります。
論文の評価には被参照数という軸があります。いい研究であれば、数百の論文から参照されます。参照されるという事は同業者による再検証が行われているということを示しているので、手法の妥当性が分かるのです。恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。非効率すぎて耐え難いという気分に、個人的にはなります。
査読と被参照数の話をしました。これによって完全とは言えないまでも論文の質が担保されるのは、世界中の同様の背景を持った研究者たちによって、その仕組みが共有されているからです。査読を受ける者も、査読する者も、何度も何度も査読に関わって来たという実績を持っていて、厳しい目で評価を行いあっている事が前提にある。私が社会学は英語で査読を受けるべきと言う理由はここにあるのですね。
社会学者が、査読なしの招待論文 > 査読された論文 という認識であることは、幾人かの社会学者が言っている事です。実際に社会学者の履歴をみても査読付き論文が殆どない事も指摘されていますね。そういう学者たちの査読に何か価値はあるのだろうか?と思う訳です。一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。故に、査読されない研究者同士ではなく、査読が当たり前になっている世界の評価を評価を受けるべきだと考えます。工学系では国内学術誌は相当に軽視されますが、英語か日本語かは大きな問題であるとは思いません。査読が当たり前ではない世界から、査読が当たり前の世界に出て評価を受け、実力を証明せよという事です。その為には、英語を使うのが妥当なのでは?
という風に思いますね。
日本語かどうか?は本来は(日本語のみの会議のレベルが低いとしても)重要な問題ではないけど、日本語で閉じている限りは社会学は学問と呼べるだけの再検証性を備えていないのではないか?と言う疑問を改めて提示しておきたい。私は、少なくともジェンダー論を学問とは思えなくなっています。
id:wildhog 言語と研究の価値は直接関係ない。とはいえ世界大学ランキングに役立たないし、留学生や海外の研究者に対して敷居が高くなるから英語で書いた方が得じゃない?
じゃあランキング気にするのやめるか英語以外の研究も拾えるランキングにしろよボケ,が前段への返答で,そんならアメリカ人は日本人にとって敷居の高い英語やめてくれない? 日本語で論文書けよ! が後段への返答っすね.マジあいつら日本史や日本社会についての論文や著書すら英語で書きますからね.それを日本人の研究者がわざわざ日本語に翻訳してますからね(悔しいことに面白いんだこれが).別にそれが悪いことだとはまったく思わない,というかむしろアメリカ人の日本研究者が英語で書くのはそりゃ当たり前でしょって感じだけど,広い読者にわかるように日本の研究者は英語で書けとか言われたらまずあいつらに日本語で書かせてから言えよくらいは言っていいですよね.日本史の読者のボリュームゾーンはまずもって日本人なわけで.アメリカ人が英語で日本についての論文を書いても,えー英語論文しかないのー,日本語論文書いてないとかレベル低すぎー,とアメリカのアカデミアで冷遇される世界になったら日本語で論文書いてる欧米研究者を冷遇してくれて一向に構わないので,そのへんどうかよろしくお願いします.
というか日本語を習得して日本語で論文や博論書いて本も出してる留学生の方だって大勢いらっしゃるわけですよ.私はこれまで,中国人・韓国人・台湾人・モンゴル人・ポーランド人が書いた日本語の単著を読んだことがあるし,ウイグル人やカザフ人やエジプト人やアメリカ人で日本語論文書いてるひともおられる.琉球の方言学とか見ると定期的に日本語論文を投稿してらっしゃるニュージーランド人研究者もいらっしゃいますね.日本語は外国人研究者によっても使われる立派な学術言語です.
モンゴル人研究者が日本語で書いた単著の一例(査読つき)> https://www.yamakawa.co.jp/product/67381
id:parosky 論文は人類の知の体系に貢献するものだからみんながアクセスできる言語じゃないとダメじゃない? という意味で英語なことが重要だと思ってたけど、たしかに界隈の人がみんな日本語を読めるなら日本語でもいいね
「みんなが日本語を読める」んじゃなくて,「重要な日本語の先行研究がたくさんあるから頑張って日本語を勉強する」んですよ……
この辺の感覚が理解されてないんですかね? 文系にとって標準言語は英語だけではなく,分野によってはいくつかあったりするのが普通なので,頑張っていくつかの言語を勉強するんです.西洋古代史なら英語や古典語の他にフランス語とドイツ語の先行研究を読む必要があるし,インドネシアの近代史や人類学を勉強したければ英語とインドネシア語の他にオランダ語を学ぶし,中国の前近代史なら英語と中国語の他に日本語が読めないとね,という要求水準があって,それらの言語を知らない人は勉強する必要があるわけですよ.英語さえ読めれば研究ができるひとたちにはわからない感覚かもしれませんけど.
正直,中国を研究してる欧米人が英語論文の中で日本語を引用してるのを見て,「あっ,つづり間違ってるな,こいつあんまり日本語得意じゃないな」って思うことはあります.たぶんもともと中国語が専門で,日本語は研究に必要だからいやいや読んでるんだと思いますけど,西洋を研究してる日本人は同じことをドイツ語とかフランス語とかに対して思ってたりするわけで,まあお互い様っすね.
id:nakex1 自国語しかやってないと自国語で形成される村の思考の枠組み(そこから発生する評価の枠組み,師弟関係や派閥)から出られないんじゃないかという懸念はある。
師弟関係やら派閥やらはともかく、思考の枠組みとか言われても、社会学は英語圏からの輸入学問なんだから、英語圏の発想や思考をバッチリ取り入れた論文書いてますよ! 英語圏の理論の本とか翻訳されまくってるし,未翻訳の本でも原語で引用してるひとは大勢いますねえ.当たり前だけど,執筆言語が自国語であっても,自国語で論文書くために読まなきゃいけない言語はいくつもあるわけで……
id:kanekoshinichiro 日本語で学術を述べてもいいけどガラパゴスにならない?どこかで日本人以外に読んで欲しくないのかなと思ってしまうな。もっとオープンになればいいのに。英語できるでしょ。
ドイツ語より母語話者人口が多い言語を捕まえてガラパゴスとか言われても困りますわー.日本語は話者数世界トップ10に入る大言語なのですが.ちなみに欧州なんかだと日本の10分の1くらいの人口しかいない小国にもちゃんと日本語学科が設置されて現地語で日本研究の論文が書かれてたりします.日本語学習者って世界中にいるので日本語で論文書いてもガラパゴスでも何でもないんですよね.日本人は勉強して英語論文を読んでいるんだから日本人以外も勉強して日本語論文を読んでください.
id:nt46 ペレルマンの論文はポアンカレ予想という関心分野で他の数学者がその正しさを検証したから業績になってるのであって、事実上査読は行われている。
それが査読になるなら日本語の著書や無査読紀要論文も出版後に多くの同業者が読んでチェックしてるから事実上査読つきですね.ありがとうございました.
id:steel_eel 本質は学問が正当性を確保するためのクロスチェックがどう機能してるかであり、その点で現状ベターなのが英語の使用&査読でチェックを受けるシステムなわけで、それが無いなら代替の何があるのかを示さんとな。
分野によるという話をしています.たとえば日本に関する研究なら別に日本語でもいいですよね.日本史や日本社会を研究しているのに日本語の論文を読めない研究者は三流以下なので,そんなひとに査読を頼んでも別に正確性や信頼性が向上するわけではない……というのは理解していただけますか? 日本以外の地域の研究にしたって,前近代の中国史を扱うならば,中国人研究者が日本語の著作を引用したりする世界なので,日本語で書いて査読してもらえばよくないです?
id:operator 日本語か英語かではなく、国際学会のトップカンファレンスを目指して研究したこともないのに教授になれるの?というのが理系からみた驚きなんでしょ。日本古典文学の研究も、英語で文学分野の国際学会に出せるよね。
だからなんでその「トップカンファレンス」の言語が英語である必然性があるんだと小一時間.確か日本文学については日本語が公用語の国際会議みたいなやつはあったはずですし,ロシア文学の国際会議はロシア語でやるはず.英語以外の言語を発表言語に指定されたカンファレンスは出たことあるけどまああれはトップカンファレンスではないか.ともかく,その「トップカンファレンスの公用語は英語」という思い込みをまず捨てやがれください.そんなん理系や一部文系分野のローカルルールでしょ.
id:tarume バベルの塔を折りたい人。なにが"なんとも愉快な未来予想図"だか、英語コンプレックス隠せよ / 知を共有するために論文書いてんだから、まずは一人でも多くの人間が読める言語で書くのは当然でしょ。自国語訳はその後
文系がバベルの塔を折りたがってるんじゃなくて,そもそも文系には共通言語がはじめからなかったという話です.なかったものを探究しろと言われても……
曲がりなりにもおれも同業者なので、どういう会社でどういう仕事をしてるのか
ホームページとかブログとか書籍のレビューなど見てみることがあるけど、上っ面の部分しか知ることができないかもしれないけど、すげーなーって思う。
気持ちよく働ける環境を整えるとか、情報をオープンにするっていう社風もすばらしい。普通は情報を隠す。なかなかできることではない。
くどいようだけど、上っ面しか知らない。一緒に働いたことも知り合いの方もいないから実情は知らない。過剰に美化しているのかもしれない。嫌なとこだってあるのかもしれない。だが、会社の方々のブログなどでの発言、おれには絶対に気づけない切り口がある。ものの考え方が冴えているのはわかる。
こんなに素晴らしい場所で素晴らしい成果を出し続けてきた人たちと、同じ時代を共有しているというのに、半分腐り気味に仕事をこなしてきた自分の長い年月がとてももったいなく感じられた。
どうしたら彼らのように生き生きと働けるのだろうか?
今日は今の日本で一番最下層、アンダークラスに属するだろうタクシードライバーについてどうしても語りたくなった。
やつらに底辺といったら怒るだろうな
給料がいいとほざいてみたり、他にも底辺職があると言い出してみたりするだろうが先にいっておく。
わかったか?
給料自慢してもお前らは歩合制だろ?
それにリスクも考えてないだろ?仕事に給料が見合ってないんだよ。
わからないのか?おまえらは知的水準も教育水準も文化水準も低い。
わるい。興奮しすぎた。話を戻そう。
「こんにちは」もいったらだめだ。
同業者の悪口をいいまくり、客の写真をさらしてる運転手すらいるだろ?
タクドラブログをみてみ?
しかもタクシードライバーは自ら自分たちが危険な存在であると明言している。
タクシー運転手が乗客として乗った菊池桃子さんにストーキング行為を繰り返していたという事件である。
この件は自宅が分かる形で降車したためストーカーに自宅がばれる結果となった。
やつらはこの件についてこういうのである。
「自宅まで送らせるのはよくない。家から離れた所でおろしてもらわないと」
菊池桃子さんの件だけじゃなく一般人でも自宅までのせてもらって自宅をさらされたが運転手がくびにならないって話がごろごろある
こういう言葉は客が言うのはわかる。
しかしタクシー運転手達がいうのはおかしいと思わないのだろうか?
例えば、とある会員制サイトやネットショップ等で社員が悪意をもって意図的に個人情報を流出させたとしよう。
お客の中には怒りつつも「こういうこともあるだろうから局留めにしてるよ☆」というようなリスク管理意識の高い客もいるかもしれない。
しかし「自宅に届けさせるのが悪い。コンビニ受け取りにしないと。自宅の住所なんて書いちゃだめだよ」
なんて言うショップはあるだろうか?ないだろ?
保険屋であろうが電気屋の配達員だろうが、決して外部には漏らさないだろ?
もらしたらくびだろ?
それがだ、タクシーとなったら平然とさも当たり前かのように言ってのけるのである。
自宅まで送らせるのが悪いぞ!
呆れてものがいえない。
更に、彼らは罰せられる事がないので自分たちの考えを変える機会をもっていない。
ネットショップ等の個人情報流出ならば、その社員はクビになるであろう。
流石に菊池桃子さんの件はクビになったようだけれども、他の多くの個人情報流出事件は有耶無耶に流されて終わり
自宅まで送らせたらうっかりしゃべっちまうかもわかんないから、そこんとこよろしく☆
こんな考えの糞タクドラががウヨウヨいるし
芸能人のマンションなんて聞いてもないのに、客にべらべらしゃべってくれる
このような意識の人たちと関わりたいと思うか?
ストーカーになるかもしれん
できるだけ乗るな
乗ったら殺されるかもしれない
それぐらい思っとけ!!!
http://opengameseeker.com/archives/7155
このエントリを見て、同業者として思う事は色々あったけど、まず思うのはフロムとセガは給料が安すぎて「専門学校」呼ばわりされてる悲哀だよな。数年かけて、ようやく使い物になる所まで育てて、これから活躍してもらおうって所で有望な若手は転職をしてしまう。著者も4年目なりの可愛らしい気づきと能力を得て、これから中堅として、育てなくてはならない保護対象ではなく、育っていくプロとして使える目途が立ったなって所で消えていくわけだ。フロムの管理職としては、残念というところだろう。
他社と比較して相対的に給料が安い事が事の本質に横たわっている問題ではあるけど、フロムが作ろうとする製品に人数が必要であり、その割には利益が少ない構造が続く限りは、専門学校として優秀な人材を輩出し続ける存在に留まるのだろう。
ただ、問題は、1社に限った話ではなくなっている。スクエニ、カプコン、コナミなどを辞めた社員がどこへ行くかと言えば、サイゲームスなどのスマホゲームの会社だったり、ハードウェアを持ってる大手だったり、ポリフォニーデジタルなどのフラッグシップを作ってる待遇のいいデベロッパになる。特に、スクエニなんぞは、サイゲームス予備校になってて「あいつも?」なんて溜息が毎月のように聞こえてくるとか来ないとか。
任天堂などのファーストパーティや、外資の大手に流れて海外へ出ていく事が出来る人は本当にごく少数で、ゲーム開発者としての給料の安さと将来の事などを考えて、スマホゲームの会社に転職したり、他業種へ移動していく人が増えているってのはある。優秀で能力が高い程、不満が溜まる速度も速い。幸いゲーム開発者になりたいという子供はそれなりにいるから、ゲームが作られなくなるという事は多分ない。でも、このままいけば、面白いコンシューマゲームは少なくなっていくだろうなと思う。
それにしても新卒から4年で転職か。もう一本作って行けよ、ってのが正直な気持ち。労力割いて半人前にしたフロムソフトウェアが可哀そうだ。育てた後の一番いい時期を他者で過ごされてたまるかと、辞める際に元警察官の強面の人事が出てきて、機密情報の厳守のために同業他社への就職を最低2年間は禁ずる宣誓書類にサインを求められる事がなくて良かったですな。
今は待遇がいい会社も、かつては飛ぶ鳥を落とす勢いだったみんゴルのクラップハンズの様に苦しくなっていく事もあり得る。はっきり言ってしまえば任天堂以外に就職すべきではないと新卒の子達には言いたい位だよ。某社の社長なんかはコンシューマゲーム業を負担としか思ってなくて、切り離したくて堪らない様子ですらある。ユーザーの皆は、ゲームが好きなら中古を待たずに買ってやってくれ。
そんな訳だから人手不足だし、ある程度勉強してれば誰でもゲーム業界には入れるから、くっそブラックな業界だけど、それでも良ければ来るとよい、歓迎するよ。大変かもしれんが仕事は楽しいぞ~w セガとかマスターアップ前に皆で徹夜明けに温泉に行ったりしてたらしいが、そういうのがまたいい思い出になるんだ。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/450029/
九大でなんともいえない陰惨な放火自殺があった。46歳、元院生、非常勤の雇止めと経済的困窮…多くの大学教員が彼に感情移入して色々なことを語る。いわく「他人事とは思えない」、いわく「自分が彼だったかもしれない」など、など、など。だけど、特にテニュアを持った教員たちが彼にばかり感情移入しているのに違和感が募る。
あんたが彼だったかもしれないだって?テニュア持っててそりゃないだろ。あんたは彼じゃなかったんだよ!
業績か、人柄か、助けてくれる周りの人か、はたまた運か。なんであれ、彼にはなかったものがあんたにはあったんだ。彼か彼のような人間を蹴落としてポストを得たんだろう?思うように書けず、書いても今ひとつうだつが上がらない。そうこうしているうちに同年代は職に就いて輝いてみえる。同情してくれる人もいるが解決は自分で探さなければならない。研究会に出ればキラキラと光る年下がいて、その彼・彼女も就職していく。そんな中で自分をみてしまう。顔向けできない。バイトも忙しいし、研究室には夜にそっと行こう。そんな彼の心象や悩みと、テニュアを得たあんたのものが一致することはもはやない。
自分もそうだ。危うくキャリアが途切れそうになったことはある。しかし、結局、年上の任期付助教がいるのに旧帝の教授だ。科研費に落ちることもない。今後は大学ともども酷い目に遭うだろうが、それは九大の彼とは全く違う類いのものだ。どっちが悲惨かはともかく。
自分が今後立つこともない地平に立っていた彼に感情移入して、甘美な感傷を味わうのも、その裏からそっと染み出てくる安心感を味わうのもまあよい。
だけど、他にやるべきことがあるんじゃないか。我々が彼に接するとしたら、彼の元指導教員であり、なんとなく薄暗いものを感じつつ関与を避けてきた周辺分野の教員であり、相談を受けて同情と困惑の入り混じった反応を返す先輩同業者であり、あるいは研究室を不法に占拠する輩を追い出す教員や、焼けた肉片を前に後始末に追い回される教員なのである。いや既に2人目の、あるいはもっとおとなしい彼にそうした立場で出会っているかもしれない。その時に、ある種の覚悟をもって彼に別の進路を勧め、占拠している研究室から追い出して彼に引導を渡し、巻き込まれかねない他の学生や周囲の人間を守れるのか。それが彼のような人を蹴落としてポストについた人間の責任ではないのか。なぜこっちの立場に立って想像しないのか。
しょせん、安全地帯に立ちつつ抑圧される側の夢を見て、世の中のひどさを嘆きたいだけなのか。心優しい誠実な無責任が跋扈する自分の業界を見たようであった。
【会社】関空連絡橋に衝突したタンカー「宝運丸」所有会社である日之出海運のHP鯖落ち
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1536051013/
282名無しさん@1周年2018/09/04(火) 19:15:57.43ID:CdSW5uAc0
同業者だけどこれは完全に関西エアポート側の引き起こした人災な
関空向けジェット燃料積む前にはわざわざ人が立ち入って危険なタンク掃除をさせられる
着桟とか停泊ポイントとか揚荷役の手順とかルールとかおそらく日本で一番厳しい理不尽ルールのオンパレード
13時から暴風圏に入ってたのに12時まで揚荷役させるなんて鬼畜の極み
事故起こして当たり前
嫁もアラサーになっていい加減時効だと思うから書くけど、表向きは大学に入ってから再会して付き合い始めたってことになってるけど、実際は高校在学中に色々関係していた。
結婚式でもそう言うことにしてあったけど多分同業者には薄々感づかれてたと思う。この業界、生徒と関係している教師、実際のとこ多い。学校に一人二人は大体いる。
バレるのは、9割以上は生徒側が何かの拍子にぽろっと言っちゃって、そこから周囲に広まったケース。たまーに、教師側がアホで、学校外のところで自慢げに話してそれが拡散しちゃったってケースがあるけど、まあ全体から見ると無いようなもん。
嫁に言わせると、
「当人が好きってこと以上に、自分が相手の生殺与奪の権限を握っているんだっていう感覚が楽しかった」みたいなこと言ってたけどまあ半分冗談だと思う…。ただやっぱ秘密を共有するっていうのは魅力的なんだろうな多分。休日にコソコソ会うの妙に楽しそうだったもん嫁。
ブックマークの引用の仕方がわからなかったので、いきなり言及してしまいました。すみません。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180720-00010003-binsider-soci
このダイアリーは、上記のコメントの中に、このルールを支持している教師の意見が聞きたいとあったので書いています。
一保護者としてはあの記事にあるようなルールはまったく容認できません。
ただ同業者としてみると、ルールが作られた背景は理解できるというスタンスで書きました。
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実際、そのルールを運用している側ではないけれど、担任の先生から聞いた理由と、教員としての個人的な推測を少し書きます。
子どもの通う小学校は、お茶か水をいれた水筒持参可、登下校中の給水は気をつけて飲む、水泳時の日焼け止めとラッシュガードは相談の上、許可、授業中の給水不可でエアコン有りの学校です。
1番の理由は、子どもが周囲の危険な状況を考慮せず、急に立ち止まって飲むからのようです。具体的には横断歩道の途中で立ち止まって飲むなど。あとは歩きながら飲んで転倒して口元を負傷することもあるようです。うちの小学校は制限されていないけれど、上記のような注意を促すお便りがきました。自分の子の登下校中のひどい様子を見ていると制限したくなる学校側の気持ちもわかります。
ついでに授業中の給水不可について
自分の授業では良いことにしていますが、小学校では難しいこともあるように思います。以下は教員としての推測です。
子どもたちはほんの些細なことで集中力が切れてしまう。自分の好きなタイミングで水筒の飲み物を飲む、それだけで勉強に向かうという雰囲気が散漫になり、適切な授業展開を維持していくことが難しそう。また、水筒の飲み物を飲むことが面白くなってしまい、過度に飲む子がいて注目を集めそう。また、トイレに行く子が増えそう。
これは、そう指定しないと様々なものをいれてきてしまうかららしいです。例えばコーラとか。個人的にはスポーツドリンクの常飲が身体に影響しそうで、部活動以外の日常生活には不要と思っています。生えかわったばかりの歯にも悪そう。
https://www.asahi.com/sp/articles/SDI201705276506.html
これはなぜだかよくわからない。
教員として推測すると、日焼け止めを子どもたちに塗らせると、低学年であればあるほど適切に塗れず、担任が塗ってあげなければならない状況になりそう。ラッシュガードは水分を多く含むので、小さい子は上手に絞れず、教室や荷物がびしょびしょになりそう。うちの小学校はラッシュガード可なので子どもに着せようとしたら、皆が着ていないので嫌だと断られました。
これは今の時期は適切でない指導になっているけれど、本来の意図としては、なるべく外で体を動かしましょう、なのでは?
個人的には、今まであげたルールについて学校側の意図は理解できるものの、すべて撤廃し、子どもと保護者の判断に委ねて欲しいです。しかし、小学校の先生の負担が今まで以上に増えることが明らかなので、地域の気候に合わせて、夏休みの増加、授業時間の短縮などを議論していくほうが良いのではと考えています。
近隣で働いている同業者たちの集まりに参加してきた。自分が一番新参者なので、グループで解決しないといけない課題も「○○さん(私)は分からないよね。」と断言されて何の文句も言えない。
それはさておき、いろいろな課題について話し合ったあと、これから来る夏休みについての話題になった。うちの職場で大部分を占める別職種の人々は、普段は凄まじい勢いで働いているが、夏休みになると途端に虚脱して休みモードになってしまうらしい。
うちの職場から一番ご近所の人々に聞いてみたところ、夏休みはトップもNo.2もすっかり弛緩してしまい、ハンコもシステムを開くのに必要なICカードも同業者たちに預けて休んでしまうそうだ。
うちのトップは非常にきっちりした人で、頼んだことは確実にやってくれる代わり、No.2にすらハンコを勝手に押させたりしない。長期の海外旅行にでも行くならNo.2に預けるかも知れないが、どうなることやら。私の仕事は二人にハンコをもらったり、システムで決裁してもらわないと進まない。トップかNo.2が休むときは出勤する方が二人分のハンコとICカードを持ってほしい。
それにしても「忙しいときと暇な時期がはっきりしていて、休める時期はいっぱい休めるよ」と言われて期待して異動してきたのに、結局何だかんだと出勤する羽目になりそうなのはなんなんだ。海外旅行二週間とか行ってみたいのに、今予約しているのは3泊5日のツアーだ。しかも最終日の朝には成田に着いているという…。
同僚の非常勤の人には「とりあえず一年やってみてからね」と言われているし、それが正しいんだろうけど、全然希望していなかった人事異動で、唯一期待していたことをぶち壊されるのが悲しい。