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2018-02-03

https://anond.hatelabo.jp/20180203233543

とにかく特徴を書いて、覚える努力をするしかない

小中高ずっとクラスメイトまともに覚えられなかったが

なんとか社会人やってるわ

2018-01-31

ケータイ小説主人公みたいなJK

彼女パパ活をしているJKである。つまり売春しているJKであるバイト先のJKリフレ常連客だった「パパ」に水揚げされ、セックスのたびにお小遣いをもらう形で、これまでのべ500万ほど貢いでもらってきた。JKはそのお金を使い、韓国で大規模に成形してきた。なぜ韓国で?と思う人がいるかもしれないが、韓国では外国人から親の承諾なんていらないし、まだ効果もわかっていない「最新の」手術をバンバンやってくれるからだ。そうやって彼女が整形するのは、ひとえにある男のためであるJK大学制までの男をガキっぽいと信じている。だから24歳のその男セックスしている。雪の中で真夜中まで四時間も待たされても、セックスしないならあわないと言われても、JKお酒を飲んでセックスしてタバコを吸うという「大人っぽい体験」ができる彼に夢中だ。彼にぞんざいな扱いをされるのは私が附子からだ。そう思い込んで、JK韓国医者が進めるままに高額な整形をやってきた。

そんなわけだからJK学校に居場所がない。クラスメイト休みがちで出席したと思ったら顔がパンパンに腫れている彼女を遠巻きに見ているし、担任ですら彼女を笑う。家族はすべてを受けいれてくれているが、家庭は自分を満足させてくれる場所ではない。そんな時間があればパパとセックスして金でも稼いだほうがマシである。そう思いパパにあったら、パパは関係の解消を申し出てきた。この間やった大きな整形手術韓国のせいで、顔が不自然に歪んでしまい、もう会いたくないというのだ。JK韓国病院クレームを入れたが、相手にされないまま終わった。今はセフレの男だけが心の拠り所だが、こんな顔では嫌われてしまうと、また、手術の予約をした。全身麻酔で骨を削る大手術で、半数は麻痺やしびれなど機能障害が残る大博打だ。もう治すところが骨しかない。手術は一週間後。今はただ整形が成功した自分を思い描くことで自分を落ち着かせている。

俺もどうしてやることもできないから、せめて手術が成功するよう祈っている。

変な夢みた

女子高の教室鬼軍曹が突然やってきて暴力でその場を支配しはじめた

鬼軍曹はでっかいサバイバルナイフ持ってて、私は頭の皮ちょっと切られたり鬼軍曹を怒らせたクラスメイトかばって首を切られそうになった

誰かを守るためには強い者におもねったり自分犠牲になればいいと思ってたけど、戦わなきゃだめなんだと気づいて隙を見て皆で鬼軍曹に飛びかかって拘束した

変な夢だった…

2018-01-28

発達障害私にとってのゲーム

ゲームは私のような発達障害者にとって、現実から目を背けストレスを緩和させるためのツールであり、学びの場であり、試しの場でもある。

ストレスの緩和は多くの人が実践しているのではないだろうか。

いじめられていた私は、私をいじめてこないクラスメイトいじめっ子と同じようなことを衝動的にしていた。

悪名高きグラセフで暴れるようになってからはそのような衝動は起こりにくくなったように記憶している。

私が空気を読む方法FPSで射線と戦略を考えたこから浮かんだ。

視線とその思惑や顔の表情などからロボットのように人の顔と場面を観察して学習して獲得した(つもり)。

また、周りに合わせることの必要性学習する際に役立った。

簡単に書くならば「そんな糞スペックパソコンで俺の分隊に来るんじゃねえ」

(4人1チームになるのだがパソコンの性能が悪すぎるとゲームがなめらかに動かず成績に影響するため周りから煙たがられる)。

現実でも場にそぐわない行動や衣装は周りの気を悪くしてしま距離を置かれるだろう。

試しの場であるとは、私が空気の読み方など、浮かんだアルゴリズムゲーム内で試すことから来ている。

私がゲーム固執する理由は単純である

現実と違って扱う情報量が少なく済むからだ。

現実と違って爆音も奇妙な視線も寒さも苦痛臭いも少なく、観察することに集中しやすい。

普通プレイヤーからにじみ出る普通動作や会話から多くを推測したり学んだりする。

こんな使い方もあるんだと、自分語りを含め書いてみた。

一度寝て起きてから文章を書き直すべきかもしれないが..投稿したいきぶんなんだ。

2018-01-27

小学生の頃。無意識クラウドファンディングやってた

消しカスを集めて練り消し作るの流行りませんでしたか

クラスメイトが個々に小さ~い練り消しを作ったり、うまく作れない子が綺麗に作れる子のを

盗ったとかで喧嘩していたので、

「私が大きい練り消しを作るから、皆は少しずつ消しカスを集めて!

大きい練り消しは、私は手間賃として大目にもらうけど、残りは皆に分配するよ!」

みたいな企画を立ち上げました。

学級文庫の棚の横に大きめの缶を置いて、皆がそこにせっせと消しカスを集めてくれました。

ちょっと違うかもだけど、小規模な投資家から広く出資を募って成果をリターンする

という意味では、クラウドファンディングだったんじゃないのかなあ。違ったらすみません

なお結末ですが、よく伸びる練り消しが作れると聞いて水のりを投入したところ、

うっかり放置してガッチガチに固まってしまい、計画頓挫しました。

帰りの会糾弾されました。あの時の皆…ごめんなさい…。

2018-01-26

anond:20180125105759

ロボットに乗り込むところのセリフを書き起こすと

016(無力だ。今の僕には仲間を助けることも叫竜に立ち向かうこともかなわない。そう思ってたのに。目の前の彼女を見たときなぜか僕の口からでた言葉は)

016「待って、俺がそのロボットに乗るよ。君をほっとけない、ひとりで行かせられないよ」

002「へー、死ぬ覚悟、あるの?」

016「よくわからない。でも今のままだったら、俺には居場所なんてどこにもない。死んでるのと変わらないんだ。だから、俺を乗せてくれ」

となる。

これは増田のいう

流血美少女を見て「やるぞ!」

という感覚とは少し違うように感じた。

ざっくりと「こういう子が目の前に転がってきたら自分の中のムカつきや疑念や戸惑いはいったん脇に置くんだ」という話

などではない。

目の前にいる002 が流血して苦しそうにしているし、ひとりで行かせたら死ぬかもしれないという心配をしているのは確かだ。だけど、016 の心情としては、002だったり他の仲間だったりの心配をしているというよりも、「そこで何もできない自分の不甲斐なさ」にこそ重きが置かれているように感じられた。自分の居場所がそこにあるかどうかをこそ気にしていると感じた。

エヴァシンジくんが

自分都合の引っ掛かりより義侠心を優先したのだ。

であるならば、ダリフラの016は「義侠心よりも自分都合の引っ掛かりを優先」している。少なくとも言葉の上では。

発奮したってどうにもならない。ヒロの抱える問題はやる気とか自信の問題として描かれてない

のはその通りだと思う。

からこそ、「やる気とか自信」ではなくもっと消極的でやけっぱちの選択だったように感じた。

703(小清水)とのあーだこーだに関しては、エヴァと端的に異なる点としてシンジくんが外部から突然やってきた来訪者という立場であって人間関係ゼロから築き上げていく過程必要だったのに対して、ダリフラ場合は既にある程度の期間一緒に生活してきて登場人物の間には関係が構築済みだということは留意したほうがいいと思う。

シンジくんが転校生として外部からやってくるのではなく、初めからトウジたちとクラスメイトパイロット候補生として訓練を積んできたという設定なのがダリフラのはずだ。第1話の時点でトウジとの友人関係が成立していたとすれば、トウジを退場させるのに17話も積み上げる必要はなく、極端なことをいえば第1話でトウジの妹がケガしたような形で退場させたって話としては成立できたかもしれない。

視聴者に対する積み重ねができていないといっても、第1話で主要かと思われた人物が退場するなんてのは、例えばファフナーでもやられていた。それとも増田はあのファフナーメガネも「無駄」だというのだろうか。

2018-01-25

人生完璧にしたい人

私は高校の頃、苦手なクラスメイトがいて彼を避けていた。

彼は空手全国大会に出るような運動神経を持ち、人懐っこい感じの性格で、東京大学を志望していて、容姿もそこそこよかった。背も高かった。

入学式が終わって教室に入った人の中で、初めて口を開いたのも彼だった。学級委員長なども積極的立候補し、10名ほどしかいない進学クラスの中で彼は中心的な存在といえた。

そういう人が私は苦手だった。彼に優しく接される度に、「クラス落ちこぼれにも優しく接して差し上げているかっこいい俺」のアピール自分が使われているようで、それが嫌いだった。

クラスが嫌いになり、私は進学クラスでは当時不文律として誰も加入していなかった部活動に入り、彼には「話しかけないでほしい」と勇気を振り絞って言った。

1年の11月くらいだったと思う。

それから教室では孤立したが、部活でできた普通クラスの仲間がいたのでさして問題とは思わなかった。

受験の時期になり、3年の9月まで部活動を続けた私は国公立への進学をあきらめ、私立大学だけの対策をした。

部活で養った集中力は私の学力を大いに上げた。そのころ彼は本校初の東大受験(予定)者としてスターダムにあった。

センター試験があった。私立専願の私は受験しなかった。進学クラスの誰もは私を蔑んだが、その日は学校に誰もいなかったからよく集中できた。

2月の終わり、私は運よく早稲田大学合格が決まり、彼はセンター試験国語で大失敗をし、足切り東大受験できなかったようだった。

私は掌を返したように学校から称賛され(早稲田でも快挙といわれる高校だった)、彼は当初の思惑とはかけ離れたレベル私大二次募集合格した。

それから4年が経った。

再三にわたるクラス会の連絡をすべて断ってきた私も、就職したら二度と顔を見ないかもしれないという思いはあり、今日初めてクラス会に出席した。

からの誘いのLINEが、いつになく粘り強かったことも、私の罪悪感からの参加を促した。

相変わらず彼は楽しそうに、よく話を回していた。私はせっかくの食べ飲み放題無駄にすまいと、メニューを端から制覇していた。会話は3回した。

19時から2時間が経ち、街へ出た私たちは2次会の相談を私抜きでしていた。もとより行く気はないため、4回目の発言としてさよならと言おうと思っていた矢先、彼が声をかけてきた。

「1杯だけでいいからさ、乾杯しようよ!」

「俺、ずっとお前と仲直りしたかったんだよ!」

「ね?だから2次会行こうよ!」

このとき確信した。

彼は自分人生の汚点であるところの私を清算したかったのだと分かった。

からすれば私は、人生の中で唯一思い通りにいかない目の上のタンコブだったのだろう。

受験勝敗はないが、彼にとっては敗北に見えたはずの大学受験がそれを加速したのだろうことも推察できた。

このまま、私が彼を「認めてあげる」ことで、彼の人生の汚点はすべてなくなり、思いのままに生きているという意識絶対に持たせたくないと思ってしまった。

今日私は、初めてそんな悪意をもって、「僕は君のことが嫌いだから、いやだ」と言って帰ってきた。

何も勝っていない。誰も救われていない。むしろ、人を傷つけて帰ってきた。

でも、なんだか高校の頃の自分が、彼に比べて自分は何もいいところがないといじけていた自分が、報われたような気がした。

随分後味の悪い成仏だけれど、いい心の供養ができたような気がしている。

(だれかに今日のことを伝えたくて書きました)

2018-01-19

anond:20180119102355

中国人クラスメイトに話しかけるとき語尾に「アル」を付けて笑いものにするみたいな楽しさ?

2018-01-18

生きているのがしんどい

生きているのがしんどいと思い始めて、多分だけど15年とか経っている、ちょっとした消えたがりの散文が、つらつらと下に書いてある。

時間がある人はちょっとだけ読んでほしい。そして何か、少しでも意見が欲しい。いろんな考えが知りたい。でも、かなり怖い。

いや、読むのは時間を持て余した人だけでいい。かなり端折って書くけれど、15年くらいの時間を書いていく。きっと恐ろしく長くなる。なんか流行りだからここに書いたけど、きっと読む人は片手ほどで、その中でコメントを残す人を期待するのも間違っているんだろうけれど。なんてったって散文だし読みにくい。

でも、誰でもいいから話を聞いてほしい。私かうすればよかったか、これからどうすればいいのか。無責任で構わないから教えて欲しい。

初めて消えたいなと思ったのは5歳くらいだったと思う。6歳だったかもしれない。

親の都合で転園してきた先で同じ園の女の子に仲間はずれにされた。

ぼんやりしか覚えてないけど転園する前も、仲良くしていたのは女の子ひとりと男の子ひとりだけだったから、昔からまり好かれるような子じゃなかったんだろう。多分、すごく生意気子供だったから。

みんなが可愛いお姫様ごっこセットをつかって、私はなんか地味な、柄のないスカートだけ渡されて、「それもお姫様から使えばいいじゃん」って。キラキラの、可愛い模様がついたフワフワのスカートを我が物顔でつかいながら、私に言うのだ。

先生が「順番ね」と注意をして、真ん中くらいの順番を手に入れたけど、気づいたら割り込みされて最後になっていた。

私の順番は回ってこなかった。

その時に、私はここにいてはいけないんだなと思った。いる価値がないというか、いる事の方がおかしいと言うか、そんな感じ。転園してきた訳だから、仕方ないけれど。それで、早くここから消えてしまいたいと思った。

その時、唯一できた友達は、多分友達じゃなかった。

あれ持ってきて、これ持ってきて。何かを持ってこないと仲間に入れてあげない。そういうことを言って来る子だった。パシリにされていた。

でも、パシリでもすれば一緒に遊べたから、喜んで従った。あまりいいこととは言えない。けれど、一人で積み木で遊ぶよりずっとマシだった、消えなくてもいいと思った。頼られているのだと錯覚した。

小学校に上がって、ランドセルを買い与えられた。普通赤色じゃなくて、少しくらい、ワインレッドランドセル

母親はなんでピンクとか真っ赤じゃないのって言われたけれど、ワインレッドが可愛かった。ランドセルの蓋の裏が、赤系のチェックでとっても可愛かった。気に入りだった。

パシリはまだ続けていた。というか、パシられることが普通だった。

小学生になって、一緒に登下校をするようになった。

なんで変な赤色なの?って笑われた。

それを「可愛かったから」と言ったけど、それは可愛くない!こっちが可愛い!と言われた。多分、その子達に「センスがない」という判定を受けたんだと思う。

パシリにされてて、さらセンスもない。なんとなく流れで、みんなよりも立場が下だった。

ジャンケンランドセルの持ち合いをした時、他の子が負けたらみんなで持ち合いっこするのに、私が負けた時だけ全部持たされて、持つ距離も長かった。挙句、置いてかれた。前に進んでも誰もいなくて、置いていかれたんだと泣いた。おうちも少しだけ離れた同級生の重いランドセル5つを持って、道の真ん中で泣いた。泣いて数分たったら、なんだか自分のことが惨めになって、どこか誰もいない、遠いところに行きたくなった。結局はその子たちが戻ってきて、どうにかなったけれど。

小学2年生になって、夏休みで転校した。どことも知らないところだった。でも、一番長く住んでいたし、今の友達大学友達を除いて全部小中高で一緒に過ごした子だ。それまでに比べてとても恵まれていて、いい友達だと思う。一人一人が唯一無二の友達だとおもう。

でも、友達がいても、残りの4年半はいじめられて過ごした。

最初は多分「遠いところから変なやつが来た」っていう理由それから訛りが違う。あとは真面目ぶってる。オタク父親の見ていた深夜アニメを一緒に見ていた。デ・ジ・キャラットとか、ギャラクシーエンジェルとか。今でも大好きだ)であること。あと態度が生意気。たぶんこの生意気って言うのは、生意気だという子の都合が悪いことを「誰にも言うな」と言われても担任にチクッたからだと思う。自分あんまりにも理不尽だと思ったことは黙っていられなかった。多分、そういう意味では「いい子」ではなかった。

でも、石を投げられて先生に報告したら睨まれるって、おかしいじゃん。石投げる人の方が酷い。チクった私が悪いのか。

多分悪くは無いんだけど、こどもの世界ではご法度だっただけ。けれど、それがどうしても辛かった。おかしいと言ったら「お前の方がおかしい」と言われてすごく辛かった。ここにいたくないと思った。

親に「ここの学力は低いんだから、90点以上取らないとダメだよ」と言われた。頑張って100点とっても褒められなかった。周りからは「勉強もできるっていう自慢か」と妬まれた。

言っておくけど1番を取れたことは無い。せいぜい10とか20とか。自分ではすごいと思った。100人近くの1020って凄いじゃん。って。でも親にはそれじゃダメときつく言われた。ちょっと点数が下がったらお小遣いを減らされた。

生きているのがしんどかった。でも頑張らないと、価値がないと思った。

中学に入って、小学校の時みたいな勉強をしていたら、順位が真ん中よりも下の、後ろから数えた方が若干早い場所になった。その時に「さすがにやばい」と思って、塾に入りたいと言った。一人でする勉強限界を感じていた。

下がった順位を元に戻したら「当たり前だ」と言われた。

中学では部活に入っていた。周りはみんなキラキラしているのに自分だけ見ずぼらしく感じた。部活に入ってすぐ、どうしてかレギュラーに選ばれた。自分初心者で、周りには小学校の時から続けていた人がいたのに、自分担当に人がいないからという理由レギュラー入りした。初心者なりに練習した。練習中、何度も泣きそうになった。でも自分が頑張ることがこれからに繋がるとおもった。最後までやりきったあとに残ったのは「初心者なのにレギュラーに選ばれた変な人」だとおもう。若干避けられてたし、自分も周りにどう接していいかからなかった。ここで必要とされていないとさえ感じて、練習サボりがちになった。先輩からは、嫌われていたと思う(練習をサボったから当たり前だ)。同級生からもよくは思われていなかったと思う。

部活同級生から「〇〇先輩はあなたと同じように生徒会もやって部活もやって成績もいいのに、なんであなたは同じことが出来ないの」と言われた。生徒会が忙しくて休みがちになっていた。そんなの言い訳だと怒られた。それでも暇を見つけて部活に行っていた。それでも怒られた。今消えてしまえば楽だろうけど、消えたら迷惑をかけるなと思って、最後まで頑張った。意地汚く残り続けた。高校進学は「〇〇高校の□□学科じゃないと、ご飯作らないから」と言われた。当時、高校授業料無償化されていたから、ご飯を作らないになったのだろう。端的にいうと「親の希望に添えなかったらお金は渡さないし育てないから」といわれたのだ。必死になって、どうにか合格した。合格したけれど、自分学力じゃ、高校勉強は厳しいなと感じた。もう一つの学科自分レベルに合っているとおもった。でもそこでは絶対ダメなのだという。辛くなるんだろうなと感じたけれど、それでも合格したのだから通うと決めた。

高校に入って、それなりの地位をもてたと思う。部活は変わって、生徒会には入り続けた。その部活がいわゆるパソコンをいじる様なもので、関連分野で色々頼られた。今度はパシリみたいなのではなく、よく巷で話題になる「絵をかけるならちょちょいっと描いてよ」の類でもない、本当の意味での「頼り」だった。

得意分野を持つということは自分自力で立つことのできる力であると、その時感じた。普段だったら近寄れない、スカートを曲げて薄く化粧をした、クラスの人気者と話せる。そういう立場をその時手に入れた。

多分、高校生の時が一番、生きていて楽しかったと思う。みんなが私のことを知っていた。それに対する恐怖もあったけれど、決してマイナスではない視線は「自分はここにいていいんだ」と思える自信に繋がった。

大学は推薦で入った。センター前に決まって、受かるとは思わなくて、とても喜んだ気がする。

クラスメイト合格を伝え、「あの〇〇か!?」「嘘ついてるわけじゃないよね!?」と言われながらも喜んでくれた。学校先生もとても喜んでくれた。自分の妹も、私よりも喜んで泣いてくれた。

母親合格たことを報告したら、おめでとうよりも先に「お金がかかるなぁ」と言われた。

正直なところ、大学に進むことについては消極的だった。高校に入った直後は専門学校に入りたいと思っていた。でも父親は「進学するより働け。進学するなら国立じゃないとだめだ」と言われた。だから専門学校を諦めた。中学生の予想通り高校勉強はつまづいてしまって、学科では後ろから数えた方が本当に早いくらい、勉強はできなくなっていた。どれだけやっても勉強が伸びなかったから、早い段階で部活シフトチェンジした。そんな経緯があったから、大学は行かないで高卒で働くかなとなんとなく思っていたら、母親が「高卒で働くより大学に行ってほしい。私立じゃ学費は出せないけれど」と言ってきた。これに逆らうとまた何か言われるんだろうなと思って、とりあえずやるだけやってみることにした。でも、勉強はできなくなっていたから、模試はどこも最低判定。ただ、推薦でチャンスがあるところがあったから、一かバチかで受けてみた。これでダメなら学力じゃ到底叶わないから、就職をしようとおもった。部活の成績がよかったから、それで受けた。

そうしたら受かった。奇跡だと思う。なにかの間違いじゃないかと思ったが、それでも受かったら嬉しかったのに、おめでとうもなく「お金がかかるなぁ」しか言われなかった。

誰が国立に行ってほしいと言ったのだと、その時は悲しくて悲しくて仕方がなかった。

こんなの傍から見たら「親の言う事しか聞いていないからそうなる」と思うのだろう。私もそう思う。

けれど、高校受験の時に「お金さないよ」といわれ、大学受験に「国立しか認めない」と言われ、受かったら「お金がかかるなぁ」。反抗するなら自立しろ、親に頼るな。

それでは何をすれば良かったのだろう?

奨学金は申し込まなかった。心のどこかで受からないなと思ったし、親の収入などの関係で、ほんの少しだけ規定より上回っていたから受かるわけもなかった。し、なんとなく大学に入れても、やめてしまうかもしれないなと思ったのもある。とにかく奨学金は取らなかった。だから親に学費を払ってもらうことになる。お金がかかるのは、百も承知だった。

でも、まさか合格おめでとう」よりも先に「お金がかかるなぁ」だなんて。なんだか悲しくなった。受けるのをやめた方が良かったのではないかと後悔した。

何より、ひたすら「お金がかかる」とい割れるのが嫌で、消えてしまいたくなった、なんのために頑張ったのだろうと、ひたすらに悩んだ。

大学に入るまで、そして入ってからお金がかかると言われた。言われ続けた。

大学に入ってしばらく経った頃、仕送り勝手に減らされた。1万円も減った。バイトをやりながらも結構ギリギリで頑張っていたのに、なんの前触れもなく減らされた。

なんで仕送り勝手に減らしたの?せめて減らすなら前もって言ってよと親に言った。そしたら、「元々この金額だったでしょう?」といわれた。頑張って節約しながらも生きていたのに、あたかも「余分にお金をねだっている」風にされたのがひどく苦痛だった。

その年の夏、節約しなきゃとおもい、電気代をとにかく節約した。外に出るようにしたり、電気をつけなかったり冷房をつけなかったりした。

その月の電気代は1,500円もしなかった。

純粋に、自分すごいとおもった。

こんなに節約頑張ったよ!と母親にいったら、「もっと節約できるでしょ」と言われた。

電気をつけず、テレビもつけず、パソコンもつけず、ご飯はまとめて炊いて冷蔵庫に保管して、一瞬だけ電子レンジでチンする。冷蔵庫も止めてしまうと食べ物が保管できないから。そんな最低限だったのに、もっとと言われた。

馬鹿らしくなった以上に、親から私は「ただただお金のかかるダメな長女」だったのだろう。お金がかからなければかからない方がいい。そんな認識だったのだろう。

こんなに頑張っても文句を言われることに、自分が生きている意味とはなんだと問いたくなった。

答えは出なかったから、ただただ消えたくなった。

どう生きていてもお金がかかると言われて、生きているのがしんどくなった。我慢するのがバカバカしくなった。

バイトはしていた。学校に慣れるまで、夏休み前後から始めたいといったら、それでは困ると言われて5月くらいから始めた。バイト先の先輩に厳しくされて、辛いと嘆いたら「みんなそんなもの」と取り合ってくれなかった。辛かった。

そういうことも含めて、たまにTwitter愚痴を呟いていた。愚痴をいうと今まで仲良くしてくれた人が、なんでも話せた人達が「自分の方が辛い」と言い始めた。自分の方が不幸合戦が始まって、私の「つらい」が軽くあしらわれた。次第に愚痴を言えなくなった。私だけ「辛い」が軽くあしらわれるのが辛かった。

頑張って大学に通った。頑張ってレポートを書いても単位が取れなくて、好んでとったパソコン系の授業を始め、授業に出ると頭痛が激しくなったり、気分が悪くなったりした。1年間くらいだったと思う。でも、お金をかけてもらっているから行かないといけないと、頑張った。

しばらく立って新学期になった。自分の妹が私立大学に入った。

母親は、私立入学するのを許したらしい。

どうして?という気持ちがすごかった。父親が許したのかという疑問もあったのだが、早々にほかの選択肢を諦めた私とは違って、妹は頑張って説得したんだなと思ったら、それは認めてあげるべきだと思った。合格たことは喜ばしいことだし入学も喜ばしいから、合格おめでとうと、素直に伝えた。

しばらくして、父親入学を許していないということが分かった。それで父親に「お前も加担したんだろう」と責められた。私は何も知らなかった。

なんで私が責められているんだろうと、つらくてつらくて。消えてしまいたいと思った。私から奪われた仕送り1万が、妹の入学金や学費になるんだなと思うと、なんとも言えない感情が湧き出てきた。

しばらくして両親が離婚すると言うことを伝えられた。どう思うと聞かれて、私が何か言ったところで何か変わるの?と答えた。冷たいなとも思ったが、私は私でそれどころじゃなかった。

学校に行けば嘔吐頭痛を繰り返して、正直もう限界だと思っていた。

しばらくして父親から伝えられた。

離婚とともに破産すると思う。妹の学費や母方の生活費は払えなくなるが、お前の学費生活費だけは出してやるからな」

素直に喜べという方が無理だ。体調不良等でまともに単位も取れなくなっていったのに、どうして喜べるのか。それが決め手になって、学校に行かなくなった。休学届けを出して、今はアルバイトだけやってる。

両親から連絡が来るだけで胃が痛む。学校に行けない自分社会に出てもやっていけるとは思えない。大学友達とは疎遠になっているとおもう。ただたまに道ですれ違って、名前を呼んでくれて、元気?と声をかけられると、いい人と友達になったなと思う。同時に、こんなダメ人間友達でごめんねとも。

高校までの友達は「そのまま社会に出てもやっていけるよ」という。でも、日本会社というのはおおよそブラックだと思っているし、そんな所に行ってしまったら自分は生きながら死んでしまうのだろうと思う。きっといまのオタク趣味もままならない。二次創作をする時間もなくなるだろう。そうやって仕事に謀殺されて、私は私でいられるのだろうか。

そこまで考えて、今までの人生の中で、私が私でいた瞬間とは何なんだろうと思った。

私とはいったい何なんだろうか。

私が生きている意味とは。

なんでこんなに必死になって生きているのか。

辛いという言葉は、私の方が辛いで潰されて、楽しいことなんか二次創作を始めとしたオタク趣味ばかりで、そのオタク趣味すらも、今じゃ疎外感を感じている。自由に慣れていたはずのSNSは、現実と同じように苦しいものになっている。

辛いと思うことも軽んじられ、ひたすら金がかかるといわれ、遊びに行くと贅沢だお母さん達は頑張ってあなた仕送りをしているのにという。

私はなんのために生きているのだろうか。

こんな生活、生きているというのだろうか。

ただ呼吸をして、心臓を動かして。ただそれだけ。

生きているのがただただしんどい。早く死んでしまいたいとすら思う。でも死ぬお金がかかる。親が困る。周りも困る。

ある日母親に言われた、「お父さんはあなたを生んだ時に『なんで生んだ』といったのよ」と。

母親はそれを私に伝えて、何がしたかったんだろう。

必死に育ててくれてありがとうと言って欲しかったのか。

ひたすらお金がかかると言われて育って、なぜ生んだと言われたと言われる。

「なんで私のことを産んだの?」とは言えなかった。「産まなくてよかったのに」とはもっと言えなかった。言ってやりたかったけど、それを言ったら家から追い出されると思ったから。

私は「そう」とだけ返したのを覚えている。いつ、こんなことを言われたのかなんて、細かい年は覚えていないけれど、そういうことを言われたということだけは鮮明に覚えている。

私は

どうすれば良かったんだろう。

何をすればもっと前向きになれたんだろう。

何をすれば「頑張ったね」と言ってもらえるようになるんだろう。

毎日生きているだけでも精一杯なのに、もっともっとと周りはいう。頑張ることが当たり前。

でも、私はまだ頑張ってないんだと思う。恵まれているのだ。奨学金を借りずとも大学に行けたのだから。好きなことをやれているのだから

世界一不幸だと思うな。世の中にはもっと不幸な人が、辛い人が沢山いる。

みんなそう言う。私のつらいという気持ちを無いものとして。みんなそういうのだ。

生きていることの何が楽しいのだろう。

生きるなんて、辛いだけじゃないか

早く誰か、私を殺してほしい。

金だけかかって、だれの期待にも応えられない私を早く殺してくれ。

生きているのがただただしんどいということすら認められない世界なんか、壊れてしまえばいいのに、世界はそれを許さない。それなら。私を早くこの世界から追い出してほしい。

早く私を殺して欲しい。早く殺して。早く。こんなに辛いのに、世界は生きれという。お前はまだマシだと。

何がマシなのかちっとも分からない。生きているのがしんどい

2018-01-16

誰かのために脇役にされること

小学生の頃、私は信じられないほど足が遅かった。体はぽっちゃりぎみ、本を読むのが好きで運動からきしだった。鬼ごっこで逃げきれた試しなどない。中休みに外に出るのが辛くて仕方なかった。

私の通っていた小学校児童数が少なくて、一クラス20人ほど。体育の時間は一人一人が全員の前でやることが多く(実際にその時間をとることが容易だったから)、私には酷く苦痛時間だった。

小学校5年生の体育の授業で、リレー選手を選ぶために、80メートル走を二人組でやることになった。私と走ることになったのは少し知的障害ぎみで援護学級にも通っている体の大きな男の子だった。その子もあまり運動が得意ではなかったと思う。

先生の合図で走り始めて、みんなが私に注目する。それだけで嫌で嫌で仕方ないのに、隣の男の子とほぼ同列で走りながら私はびっくりした。

「〇〇(男の子名前)〜!!がんばれ〜!!」

「すごい〇〇!!勝てるかも!!」

クラスの子達が、目を輝かせて、大きな声で相手男の子応援していた。その中にはなんと、担任先生の姿もあった。ただでさえ動きにくい足が、ずんっと重くなったような気がした。

そのままずるずると遅れていって、結局リレーは負けた。クラスメイトその男の子の周りに集まって、「頑張ったね」「すごいね」と褒めている。担任先生も嬉しそうな顔でその輪の中にいた。

その日のヒーローその男の子だった。私はヒーローをつくるために脇役になった。脇役にさせられた。

家に帰ってから初めて涙が出た。正しく美談であるはずなのに、その輪の中に入れない自分が悲しくて仕方なかった。

先生はきっと、クラスの子達に「弱い子を理解し、応援する素晴らしさ」を教えたかったんだと思う。それでも、その犠牲なる子存在を、もっと意識して欲しかったと思う。

私小説 不登校

私は中一の途中から不登校になった。

元はと言えば小学校高学年で「ハブる」という文化のもと、クラスメイトからの徹底的に無視をされたことが発端である担任との相性の悪さなども相まって、学校生活への自信や信頼をなくしていった。核家族共働き家庭の一人っ子の私は、学校では人と話せず、放課後時間も一人で過ごした。特に習い事などもしておらず、学校と家庭の二つしか生活の場がなかった私は人間関係における信頼や安心などを失い、自分の考えを人に話すことや言葉スムーズに出すことができなくなっていった。

そして中学入学環境が変わることを期待したが、結果的には悪化した。たいていの公立中学では部活動には強制参加させられる。しかし私が入学した中学校は全校生徒が少なく、文化部は一つだけ。他運動部一般的にはあるような部活がなかった。当時文化部に入るとスクールカースト底辺になる空気があり、私は運動部所属した。しかし、運動神経が良くない方だったため部活でもうまくいかず。小学校高学年で人間関係に対する安心や信頼を失った私は、中学出会ったクラスメイトともうまく接することができなかった。

そして決定打となったのは合唱コンクール「絆」「仲間」「大きな声を出す」「グループ練習」などといったものは当時の私には地獄だった。音楽時間が恐怖の時間になり、合唱コンクールが近づくにつれ朝練や帰りの学活でも練習を行うようになり、一日の始まりから終わりまで恐怖の時間となった。そこから学校に行けなくなるまでは簡単だった。学校に向かう足が遠のき、制服に袖を通すのが怖くなり、家から出られなくなった。共働きの私の家で朝一番最後に家を出るのは私で、一番最初に帰るのも私だった。そんな中で、朝起きて制服を着て仕事に行く親を見送り自分学校へ行かず無断欠席をするようになった。当然学校から固定電話電話が掛かってくるが、家には私しかいないため無視。親に連絡が行く。意外にも親は私が不登校になったことを受け入れてくれた。

会話からまり日常生活の行動全てに自信をなくした私は学校での学習電車に乗るといった行為もおぼつかなくなっていた。授業で先生から発問されれば、注目される恐怖や答えを急かされるような焦燥感で「わかりません」というのが精いっぱいだった。「私は何をしてもうまくできない」という強迫観念に襲われ、不登校の間に学習障害検査などを受けたこともあった。一人で家で勉強する分には問題なく、また中間テスト期末テストを受ける分には人と関わらず済むため、それなりの点を取れていた。

不登校だろうが、家から出られなくなろうが、無情にも時は過ぎていく。中二では、通知表は「1」「2」「-」がほとんどになっていた。中三が見えてくると頭をよぎる高校受験入試資料集などを見ると、入学選抜に当たっての内申点基準数字が踊っていた。家から出られなくても、学力低下だけは避けたかった私は家で学習を続けていた。当時、私の学力から出される偏差値は60〜63あたりであった。それくらいの学力層の高校では、おおよそ大半が9教科36以上の内申点基準としていた。一方、私の内申点は9教科で23地元工業高校ですらあやしい点になっていた。また、中二の時の担任は繰り返し私に面談の場を設けてくれた。私の話を無視したり、相槌を打たないなどということはなく、久々に会話ができることに感動した。担任もっと話したいと思うようになり、徐々に学校に行けるようになっていった。

この状況の中で、私には一つだけ自信が持てるものがあった。それは絵を描くことである。まだ学校に行けていた中一の初めに美術先生から風景画を褒められ、不登校になってからは家でよく写真模写などをしていた。授業にも出られるようになった中三一学期、今まで体験たことのなかった画材出会った。油絵である。失敗しても被覆度が高く上から重ねることができ、乾くのも遅くゆっくり描くことができるこの画材は私の中で革命的であった。人間関係で失敗を重ね、急かされることに恐怖を覚えていた私は、個人で取り組むことができ、ゆっくりと描ける油絵具に希望見出した。もっと油絵が描きたいと思い、誕生日には親から油絵セットを買ってもらった。もっと油絵を描きたいと思い、美術コースのある普通科高校への進学の意思を固めた。

その高校を受けるにあたり、偏差値は足りていた。美術コースを受けるにあたり、実技の力も合格するであろうという程度には達していた。しか問題となったのは、やはり内申点であった。担任からは渋い顔をされた。それでもやっぱり受けたい、あの高校に行きたいと思い受験制度などを調べ尽くした。すると、不登校などを経験した生徒のための特別選抜制度発見した。内申点度外視し、受験時の学力テストと実技、面接入学選抜を行うという制度だ。その制度担任に報告すると、なんと担任は知らなかった。50も過ぎたベテラン教員がその制度を知らないということにはがっかりした。その教員が受け持ったクラス過去不登校の生徒はどんな進路をたどったのか心配になる。

何はともあれ、私はその制度活用し無事志望校合格することができた。入学後は絵と勉強に励み、学力では上位10%あたりを維持し絵では県の高校美術展で賞を取った。

そしてやってくる大学受験もっと油絵を描きたかったので美大を望むも、家計が厳しく断念せざるを得なかった。幸い、学力はそれなりにあったため国立大教育学部美術専攻に進学することでどうにか油絵を続ける手段を得た。

時は流れ大学四年。義務教育時代に失った人間として生きる自信や信頼関係高校大学の友人と接するうちに取り戻し、バイトをしたり彼氏ができたりと一般的大学生として大学生活を送ることができるようになった。教育学部で学ぶ中で、義務教育時代自分メタ認知することができた。当時の自分と同じように人間関係に悩む子供に接し前向きな未来を示せたらと思い、教員の道を選び教員採用試験合格した。

卒業制作バイトに追われる今日、私が四月より働く予定の自治体では不登校の生徒が高校に進学する際の特別選抜制度が数年前に廃止されたと知った。

2018-01-12

anond:20180112105558

「○○くんがおしゃべりやめるまで授業しません」

そこには元気に走り回るクラスメイトたちの姿が!

anond:20180112045904

偏見に近いが、ヤンキーを見ていると反抗心と知恵は反比例するように思える

高校生にしてインターネットを経由して職員室のコンピュータを落とすとなると、クラスメイトの何倍もプログラム勉強しなければならない

それこそ学校学習より過酷ものになるし、そんな努力ヤンキーが出来るというのは考えにくい

夜の校舎窓ガラス壊して回るのはバットがあれば誰にでもできる

発想や知恵ではなく、反抗心を抱く者と手段合致していない

そういう発想も知恵もないのが悲しい

2018-01-11

ストーブで肉焼いたクソガキのニュース

昔は怒鳴り散らしたり殴ったりして躾けられたけど今はできないわけじゃん

今時は「めっ!」くらいしか言えないけど

クソガキがその程度で反省するわけないし

やったことを後悔させるには

ストーブ撤去して寒い思いしたりクラスメイトから後ろ指さされるように仕向けるとか

そういう陰湿手段に出るしかないわけ

それ以外でなんか方法あるの?

それとも食い物焼いてストーブ汚したり壊したり煙出したり最悪火事になったりしても

あらあらうふふしょうがないわねえで済ませろってか

男嫌いが酷くなっていく

元々小さかった頃は今より男の人が嫌だった。あの頃はアトピーがあって、それを男の子からかわれてたからかもしれない。男の人の声の音楽は好きになれなかったし、クラスメイト男の子歌声さえ嫌だった。

少女漫画が好きだった。いつも主人公女の子マスコット的にかわいい女の子を好きになった。恋に憧れていた。

好きな男の子はいた。不器用だけど優しい男の子。彼の背伸びが可笑しくて、でもその滑稽さは自分も近い気がして、勝手に親近感を抱いていた。だけど後にその子に虐められてその子のことが好きだなんて思えなくなった。ちなみにその子高校中退してから行方知れずだ。なんて子を好きだったんだろう。

中学で、その好きだった子を嫌いになってから男の子と関わらない時期を過ごして、高校では恋愛を絡めないただの友人である男の子が増えた。男の人の歌声も、好きな人は好きになってきた。サカナクションとか、聞いてて心地よくて好き。未だにあんまりきじゃないことはあるけれど。

そんなとき、しゃべったことが1回しかないご近所の大学生メール告白された。本当に少ししか知らない人。しか告白に返事しあぐねていると、彼氏面をされるようになった。気持ち悪い、とあのとき感じてしまった。未だにあの感情がどこかに残っている気がする。はっきり断りをいれて、もやもやを抱えたまま、その人を避けるようになった。

高校では色恋沙汰なく、友人として男子と関わった。この頃には私の胸はかなり成長していて、父親にブラの話とかをされるのがいやになってくる思春期

少し潔癖な母親は、幼い頃から私に呪いをかけていた。「怖い人がいっぱいいる」「女の子なんだから」「力じゃ絶対に叶わないんだから」。それに加わる、告白とか一連のことで、すっかり私は自分女性として、性的に見られることが怖くなってきていたらしい。

高校友達の一人に告白された。高校で仲良かった友人の一人だから、好きになれるんじゃないかと思っていた。本当は少しだけ、少女漫画に憧れているのだ。でもだめだった。抱き締めたいと言われて嫌だと断った。どこを好きになったの?と聞いてて、胸の話をされそうだと気づいたとき嫌悪感が走った。2ヶ月だけ付き合って別れた。我ながら酷い奴だと思った。

大学に入った。ほぼ男子理系の科で、私はそこそこ友人を作った。彼氏を振ってしまったあとだったから、もうしばらく恋愛に絡みたくない、と思っていた。

クリスマスに、同級生の一人に二人で過ごしたいと言われた。瞬間、途端にああ、どうせ私は女の子としてみられているんだ、と、男の子にとって恋愛候補しかないのかも、と思ってしまった。上手く言えないけど、初めから恋がしたいから近づかれることが嫌だった。私が選ばれる理由なんて、容姿は良くないし胸ぐらいなもんだ。性格?ここに入り浸ってる時点で察してほしい。そんな目で診られるのもうんざりしてしまった。

そこからだ。本気で男性と関わりたくなくなって来てしまった。SNSで数年繋がっていた、ちょこちょこよくわからないリプを送ってくるおじさんをブロックした。数回ご飯に行ったお兄さんに、またご飯に行こうと言われて断った。

オナニーの報告をTwitterでする男性を見ると嫌悪感がわくようになってきた。シコいって言葉男性が使っているのが気持ち悪く感じた。

重症だ。どうしよう。

どうしようかなぁ。

anond:20180110234924

推薦より普通に受験して受かった方が満足感も達成感もあると思うぞ〜

あと学校にもよるけど推薦組やAO組は一般受験組と壁があったりするらしいぞ〜

といいつつ成績がドベに近かった高校クラスメイト(親が同校の教師)が推薦で関関同立行ったのを思い出すと今でも腹が立つ。

しかし滑り止めでも絶対そいつと同じところには行きたくないというモチベーションになり無事第一志望受かりましたので、あなたもその怒りを原動力に頑張ってほしい。

その憤りで消耗させられるのはもったいない。最大限の力を発揮するための燃料だと思って利用しておやり。

応援しています

2018-01-09

変質者に遭ってから、男勝りな私が吃音になった

人生の転換点だった日がある。

私は女子校に通う学生だった。その頃の私は少し男勝りな所があり、男っぽい喋り方をしていて、周りからサバサバ系だとか男らしいとか言われた。

その点に異論反論はなくて、自分でもサバサバしていると思ったし、そんな自分が嫌いじゃなかった。

女子校からなのか、痴漢に遭った話をするクラスメイトはよくいた。

そんな話を聞くと私は「私が変態に遭ったら股間を蹴飛ばしてやるのに」言い、「あんたを襲った痴漢は不幸だね」と友達は笑った。

そういう友達の反応を聞くと少し嬉しい気分になったのを覚えている。男っぽい雰囲気自分が好きだったんだろう。

私は痴漢に遭ったことなどなかったのだが、妙な自信が胸の中にあったと思う。

ある日の夕方学校から一人で帰る事になった。夕方だったんだけど、まだ夏だったし、暑さも残り、まだ日が高かった。

バス停に向かう途中、人気のない通りを歩いた。

すると、角からニット帽を着たおじさんがふっと現れた。「郵便局知らない?」と聞かれた。なんとなく不信感を持ちながらも、道のりを説明したのだけど

おじさんはその説明をあまり聞いてないように見えた。私の体をジロジロと見ているのだ。気味が悪いと思いつつも説明をしているとおじさんは「胸大きいね

とねっとりした声で言った。心臓バクんとなったが、聞こえなかったふりをして説明を再開するとまた「胸大きいねエロい体してるね」と言ってきた。

変質者だと確信した。声をあげようと思ったけど、声がなぜかでなかったし、その場を立ち去ろうにも体が硬く動かない。そして、ふと下を見ると、股間から

アレを出していた。うわって思って目を反らしたらおじさんは「見ろよ」とドスの効いた声で脅してきた。今まで男の人のそんな怖い声が聞いた事がなかった自分の頭は真っ白

になって、何もできない。おじさんはさらに「おい、見ろって言っているだろ」と怖い声を出した。それで私は仕方なく視線を下に移した。

それからの生生しいことはあまり書きたくないので割愛する。

おじさんから解放された私は頭が真っ白になりながらもバス停に向かって、家に帰った。

お母さんの顔を見たときに泣きそうになったけど、我慢した。泣いた姿なんて何年も見せていないし、そういう女々しい所を見せないのが私のいい所なんだって

思ってた。

部屋に戻ってから自分を責め続けた。

股間を蹴り上げてやるっていつも言ってたのになんで何もできなかったんだろう。

男らしいはずだった私がなんで体を動かせなかったんだろう。

「見ろよ」って言われてなんで素直に見てしまったんだろう。

私はなんて弱いんだろう。

男勝りな普段自分発言が凄い恥ずかしくなった。

お母さんに変質者にあったことを言おうかと思ったけど、なぜか恥ずかしくて何も言えなかった。

男勝りキャラで通しているので友達にも言えるはずがない。

そのまま頭がぐらぐらしながらその日を終えた。

そして、次の日から私は吃音になった。言葉を出そうと思っても、どんな喋り方をすればいいのかわからなくて吃ってしまうのだ。

性犯罪に直面したショックもあると思うし、自分キャラクターがわからなくなったのも原因だと思う。

友達吃音になった私を弄った。そして、弄られれば弄られるほど吃音はひどくなった。

今もそれは治らない。あの日に戻ってあいつの股間を蹴り上げてやりたいと思うことはあるが、また体が硬くなっていいなりになってしまったら

と思うと怖い。私は次のその瞬間が来たときに、足を振り上げられるだろうか。

2018-01-02

増田くん(増川くんと仲良し)「増川~~お前ほんっとにバカだなww

増川くん(増田くんと仲良し)「うるせーwww」

増野くん(増川、増田くんのことはよく知らない)「通りすがりに会話を聞いた者ですが、私が子どもの頃に親や教員クラスメイトなどからバカ』と言われからかわれたトラウマが蘇り傷つきました!!『バカ』『うるせー』など汚らしい言葉遣いは即刻改めて使用禁止するべきです!!お2人は私や私のような人たちを傷つけた責任を取るべきです!!」

増田くん「いやお前誰だよ」

増川くん「は……?友達と喋ってただけなのにいきなり何?関係ないお前のこととか知らんし。俺と増田は仲いいかバカっていうのが冗談って分かってるしまったく傷ついてないか問題ないんだけど」

増野くん「当事者がどう思おうが関係ありません!傷つく人がいる以上あなた方は加害者なんです!!どうしてもそういった言葉を使いたければ周りに誰もいない2人っきりの時にするかメール等で言うべきです!!周りに人がいて会話を聞かれる状況で喋るのであれば批判される可能性が生じて当然です!」


最近こんなのばっかだね

2018-01-01

僕らの世代年賀状文化を終わらせてしまった

本当に申し訳ないと思う。

でも誤解しないでほしい。年賀状が嫌なわけじゃないんだ。出来る限り残したい文化だって思ってた。

それこそ昔は友達年賀状を送り合っていたし、毎年1人1人にメッセージを書くのが楽しみだった。毎年増えていくクラスメイト、お世話になった先生、昔からの幼馴染、その年賀状の数が友人関係資産でもあった。そんな文化が大好きだった。

しかし、状況が変わり出したのは大学進学のために上京した頃だった。誰もがスマホを持つようになりfacebooktwitterで繋がり、LINEで連絡を取れるようになった。急に年賀状はがきの返信が無くなり、代わりにLINEで返信が来るようになった。そして年々やり取りする年賀状も減っていった。。

今日社会人になって初めて迎えた元旦年賀状ゼロになっていた。それは文化終焉意味していた。もう昔のように年賀状を書くことはない。

僕の友人も結婚し始めた。僕らの世代からまれ子供達が、年賀状を知るすべはない。この世代境界線文化が終わりに向かっていく事は避けられない。テクノロジーは急速に文化を書き換えてしまった。

からその世代代表して後世の日本人に伝えたい。文化を残すことが出来ず申し訳ないと。

から歴史教科書に1行足してほしい「日本には年賀状という文化存在していた」と、先祖伝統を、過去文化を。

そして僕らは歴史を踏み越え前進していく。

2017-12-30

運動音痴芸人

今思うと、

左右の目で大きく視力が違い、黒板の字がぶれて見えるレベルだったのにずっと眼鏡をかけず過ごしてきたこ

扁桃腺風邪でもないのに常に腫れていて喉がふさがっていること

心肺もあまり強くないことなどが重なっていたからだと思うが

とにかく運動音痴で小中高大と体育は何をやっても駄目だった

特に球技が無理。バレーバスケ卓球も全部無理。目のピントが合うのにタイムラグがあるのでボールの正確な現在地が分からない

陸上だって誰よりもゼエゼエ言ってるのに足が遅いせいでクラスメイトからは白い目で見られ

時には「ずるをしている」などと言われた。本当に地獄だった

しかし、アメトーーク運動神経悪い芸人めちゃイケ運動会リンカーン大運動会などは好きで何度も見たことがある。今もアメトーークを見ている


自分非コミュアニヲタではあるがお笑い番組も好きで、お笑い芸人好意を持っているので

(と言っても島田紳助は苦手でテレビからいなくなった時はほっとしたし、今炎上中のニューヨークフォローのしようがないしフォローしたくもない)

アメトーークでは弄る側も弄られる側もスタッフも仲がよいであろうことを知っているし

あれは自分にとって、例えば子犬ポテポテ歩いていたら転んで隣の子犬とぶつかるとか、

猫が着地に失敗してつるっと滑ってしまうとかその手のほのぼの映像の延長であり

自分と違って「お前ほんっと運動神経悪いなwww」「いやぁ~www」と仲間同士で明るくネタにして笑い合えることへの憧れも感じる

あれはけして嘲笑ではない。学生時代、体育の時間自分に向けられた冷たい視線とはまったく異なるもの


自分のように学生時代体育で辛い思いをした人たちがあの番組批判しているのを見るたびに

なんとも言えない気持ちになる

2017-12-29

3年間限定の友人関係

 大学三年生。もうすぐ院試やら研究室配属が決まり楽しみでもあるがまた友人関係ゼロから作らなきゃならないのかと思うと嫌になる。

 ‎

 ‎思い返せば昔から友人はいたが皆中途半端な関係だった。頻繁に話す友人も間に一人を挟まないと会話が続かなかった。今もそう。

 ‎小学校の頃は三年生まで同じ子とばかり話していたのに四年以降お互い好みが変わり全く違う子と遊んでいた。

 ‎中学は町内の小学校数校の児童が集まる様なところだったので小学校クラスメイトといつでも会えたのにまた全然違う子達と仲良くしていた。

 ‎高校に入ると車で一時間かかるような所に通っていたから当然の如く中学の友人と話す事はほぼ無くなる。ただ高ニの時始めて親友と言えそうな友人が出来た。

 ‎

 ‎で、大学入学。その親友とは夏に下宿先に泊まりに行って以来連絡先すら分からない。

 ‎ 

 ‎大学でもぼっちにはならなかったが変わらず仲のいい二人のおこぼれに預かるような形の中途半端関係を構築。サシで飲んでくれそうな子は一人もいない。四ヶ月後同じ研究室に配属される友人はいないだろうからまた1から友人を作るのだろう。大学でも三年限定の友人関係は続く。

 ‎

 ‎ひとりぼっちでないだけましなのかもしれない。しか研究室配属、大学院と進み卒業した時。3年語の4月。連絡を取り合い続ける友人がいるのだろうかと思うと絶望する。

 ‎

 ‎Twitterを見てると誰かと忘年会をしている画像が流れてくる。俺は忘年会に参加していないどころか今月一滴も酒を飲んでいないというのに。

 何故こんなことになったのだろう。

 ‎

 ‎人に認められたことが無いかなのだろうか。確かに人生でただの一度も賞状は一度ももらったことがない。だから自信が持てない。サシで話すに値する話力、知識があると思えない。だから自然積極的に人と話しかけることはせず聞き手に回ってしまう。こちから話を振らないので向こうは俺と話していても楽しくないと遠ざかってしまう。余計自信を失う。悪循環。皆どうやってプライベートで会う友人を作り話しているのだろうか?もう何も分からなくなってきた。

 ストロングゼロ飲んで寝たら実家に帰ろう。全てを受け入れてくれる愛犬が待っている。

2017-12-23

anond:20171223144041

実際には複数存在するのに、それぞれが「こいつ」と一人だけを「マドンナ」視し、なぜか他のクラスメイトも同じように思っていると思い込んでいるケースが多そう。

本当は自分が気まずい気持ちになっただけなのに、「気まずい空気になった」とか言って、周囲の人も同じ気持ちになっていると思い込んでいるのと同じだと思う。

2017-12-19

えっちょっと待ってパワハラとかどうでもいいの?

と思ってしま出来事があったのではき出させてほしい。

はてな村なんかに入り浸ってるせいか、あるいはここ数日のはあちゅう関連の話題のせいか、割とハラスメントには敏感な方だと思う(はてな基準ではなくて、世間一般から見れば)。

そんなおれにもついにハラスメントがやってきた。忘年会の余興の押しつけだ。

やりたいと手を挙げたわけでもないし、新卒採用はしてないからまとまった数の下っ端もいないので、年次の低い社員数名(おれ含む)になんとなく声がかかった形だ。すごくどうでもいい。

いや、正直言って人前でふざけたり芸を披露するのは好きだ。小学生の頃から調子者一本で通してきたんだぞ、おれを誰だと思ってやがる。

でも、それだけに、ああいうことをするのが嫌いな人や見るのもいやな人がいる人がいることはよく知ってるんだ。小中学生の頃はそれでクラスメイト迷惑をかけたこともあったと思う。本当にごめんなさい。

からこそ、やりたい人がやるのはいいと思う。そして自由参加の宴会でやるなら別に勝手にやってくれればいいんだ。そしてやりたくない人や見たくない人にそれを押しつけてはいけない。

会社名前を冠した宴会で、人前で笑いものになることを強制されるのは明らかにパワハラだ。そんなんじゃ今後優秀な人間は呆れて入ってこなくなる。会社の将来を考えてもすべきではない。

翻って今回の件は忘年会だ。一年の締めとして参加はほぼ強制だし(じゃあ金取るなよな)、集まったメンバーも「やりたくない」って言ってる。よし、やめよう。

「どうしてやらない」なんて言われても「エヘヘ」とか言っておけばなんとなく流れるだろうし、必要とあらば「表出ろ」って言えばいい。それぐらいのことを思っていた。

ところがどっこい、余興に向けての集会なるものが開かれ、予定が合わなかったおれはその場のイニシアティブをとれなかったのだが、その後に聞いてみるとなんかみんなしぶしぶながらやる気なのだ

いや、なんというか「ブルゾンちえみとかどうですか(おれはやらないけど)」「アキラ100%とか流行りましたよね(おまえやれよな)」って、ぎこちなく言ってるのだ。

はっ?????????えっ???????????????

いやいやいや、みんなひとりひとり話してるときは「やりたくない」って言ってたじゃん。いや、今も「いやホントはやりたくないんですけどねデュフフ」みたいな顔してるけどさ。

じゃあなんでノリノリで意見出してんの????ねえ馬鹿なの死ぬ???????????

やりたくないんでしょ?じゃあどうしてまずやらずに済ませる方法考えないの?当日だけ休むの?

それならいいけどなんで結構ノリノリなの?意味わかんねえんだけど!

おれはすっかりやらない気満々マンだったので出鼻をくじかれた。ねえ、うちの会社別に適当な感じなんだからさ、おれらがやらなければもう伝統はなくなるんだよ。

来年からだれも嫌々やらなくてすむんだよ。そこをなんで、どうしてやる方にいっちゃうんだよ、おかしいだろ。

しかするとみんな反抗するのも面倒だから口を合わせているだけで、おれがやめようって言えばみんな続くのかも知れない。

でも本当に何でなんだろう。そりゃあパワハラ尊厳だなんて言い出すおれはめんどくさいのかも知れないけど、でも、でも、こういうのってよくないよ。

と思いつつ、忘年会は来週に迫っている。どうしたらいいんだろうか

もう逆に電通雇ってくれねえかな。電通は不調ですがおれの便通は絶好調です。なんちゃって

2017-12-18

集団で知人の誰かを評価する

直接的な話題継続じゃないんでツリーにぶら下げないで書く。道を歩いてて不意に「ブス」とか「キモ」って呟く事例ってのは確かにあるんだろうけど、そもそも割合としては少ないんじゃないのかな。

一般的に言えば、知人友人顔見知り程度の複数人が集まった環境で(たとえば学校の同性のクラスメイト数人が集まったような)、その参加者認知を共有している異性の第三者を、品評する――というのが、プラスであってもマイナスであってもセクハラ的な他者評価現場としては多数なんじゃないかと思う。

1)男性集団が(その場に居ない)女性を取り上げてプラス評価する「あいついい女」

2)男性集団が(その場に居ない)女性を取り上げてマイナス評価する「ブス死ね

3)女性集団が(その場に居ない)男性を取り上げてプラス評価する「彼って素敵」

4)女性集団が(その場に居ない)男性を取り上げてマイナス評価する「キモい死ね

こう4種分類したところで思ったんだが、そもそもそれ以前の段階で、女性の方がコミュニケーションが密だから割合は大差なくても絶対量として3と4が多いだけなんじゃないかな(なお、当方男性だし主観です)。男性でも女性でも個人として呟くとなると全然大差ない割合に思えるんだけど、集団となると女性の方がそういう他者評価日常的にしているような気がする。

個人的にはすれ違いざまに相手容姿をけなす発言とか、もはやある種の辻斬りとか、テロだと思うんですけお……)

男性として2の発言はすごく気を使う。というのは別にその女性に気を使っているわけではなく、今話している参加男性趣味によって2だと指定した女性全然好みのタイプだということがありうるからだ。この辺宗教の話をしているのに近く、地雷を避けるという意味そもそも話題選択から外れる。

1も別の意味で気を使う。日常をかなりべっとりと過ごす親友とかならともかく、知り合い友人程度のコミュで1を話すというのは「その女性を狙ってる宣言」になりかねないので。この件に関しては男性がみんな自意識過剰だといえるかもしれない。

なんにせよ1+2よりも3+4の絶対量のほうが多いように感じるな。

2017-12-16

anond:20171216213636

登校しない、出来ないなら、授業だけでも視聴できるだけでもとは思うけれど。

それで登校扱いにすると、もう登校しなくていいやって思いそうな気もする。

最終的には自分で登校することが一番いいよね。

面と向かって話しにくいクラスメイトかいたら逆にビデオチャットで話し合いさせるとかさ。

逆効果かなぁ。

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