はてなキーワード: その先へとは
逆上がりが出来るようになった時、それまで逆上がりが出来なかった自分が浮き彫りになる。
成長するとは成長する前の自分が今よりさらに無能であったことを証明することにほかならないな。
成長してなおその能力が大したことないという事は、自分の成長速度がチンケである事をむき出しにすることに他ならない。
直視するな。
成長すること自体に苦痛を感じるようになったときが人の成長が止まるときだ。
現状に満足することよりも、成長することで自分の無能を思い知ることに恐怖することの方がずっと恐ろしいのだ。
その事に気づくのがおそすぎた。
もう俺の心には成長するために頑張ろうと思える自分なんて居なくなってしまった。
この脳内に住まう全ての自分が、新しいことが出来るようになった時にその先へ先へと進む内に限界を味わいそのたびに自分の無能を感じることに疲れたといい膝を抱えてしまった。
もう私はどこにも進めない。
好きな食べ物に好きなお酒を合わせて飲めばいいんだが、鮨と日本酒の組み合わせが至高と語る食通が跋扈しており、その薄っぺらさに対して筆を取る次第。
もともと日本酒は主菜や主食と合わせる食中酒ではなく、塩辛や干物など強目の肴と合わせる食前酒の位置付けが一般的であったと記憶している。バブルの頃ワイン通ブーム(ワインブームでなく通を気取るブーム)があり、鮨に高いワインを合わせる成金趣味へのアンチテーゼとして、鮨には日本酒という主張が強くなった。その代表例は美味しんぼ4巻である(と思っていたが今回読み返したら誤解だった。後述。)。
しかし、日本酒は鮨には合わない。少なくとも多くのネタでお互いを高め合う組み合わせではないと思う。日本酒は甘いし、コクがありすぎる。食事の風味を活かすよりも消してしまう。貝類やカツオなど風味の強いネタをつまみで食うなら良いと思う。スーパーで売れ残って半額になった刺身にも日本酒は良いと思う。
鮨も日本酒も日本を代表するものだから合うか?同じ日本だから合うとはかぎらない。酷いのになるとシャリも酢もコメ由来だから合うなどと言う。素材が共通だと合うというのは根拠なき思い込みだ。日本酒とコメの飯が合いますか?(個人の好みとして合うと感じる人はいるのだろうが)
鮨には日本酒だと言われる結果何が起きているか?猫も杓子も「辛口」である。いつの間にか通は辛口のようになっている。好みを聞かれて辛口以外を言う人がほとんどいない。辛口が美味いんじゃない。日本酒はそもそもお酒の中では甘くてコクが強いので辛口でないと食事に合わないのだ。しかし、どんなに辛口でも日本酒は甘い。だから味の淡いネタ、例えば白身には合わない。光ものにも合わない。日本酒のうち一部である辛口だけに偏り、その辛口ですら鮨の味を活かせるわけじゃない。見てられん。
もう一つの流れが味のクリア化を追求する超高級酒の流れである。銀座やミシュラン星つきはこういう酒を置くところが多い。一昔前の高級酒といえば久保田の万寿が代表的で、これでも随分風味を減らしてクリアにしたなと思っていたが、最近はそういうレベルではない。獺祭の磨きその先へや、黒龍の二左衛門、しずくなど、ほとんど雑味のしないクリアさだ。4合瓶で定価1万円とか、もっとする。ここまでやれば鮨と合うと感じるが、寿司屋では1合3千円以上する。普及価格帯の酒が合わないと、ジャンルとして合うとは言えまい。
今回これを書くにあたり、美味しんぼ4巻をを読み返してみると、日本酒が一般的に和食に合うとは言っていなかった。ワインは辛口の白以外魚介類に合わないと言っているだけで、日本酒は最も辛口でもワインより遥かに甘いと述べ、合うものは限られることを示唆していた。日本酒の力を発揮するとして例に上げたのはカラスミとかクチコだった。ショックである。当時の美味しんぼはかくもまともだったのだ。
鮨や和食のレベルの高さは世界で評価されている。そこに日本の酒を合わせたい、最高のマッチングであるべきだ。分かるよ。ウイスキーは世界レベルになったし、日本固有の日本酒の良さを鮨や和食とともに世界に知らしめたい。すごく分かるよ。でも。
では何が合うか?私は水とお茶だと思う。味の余韻を味わうには水。口をリセットするにはお茶。最強。
そもそもアルコールは味覚を鈍らせる。素材や調理に微細なウンチクを語る人やそれで付加価値をつける店はたくさんあるが、味を最も繊細に味わうにはノンアルコールだという主張は聞いたことがない。その程度の味覚なのだ、実は。ストイックであれと言っているわけではない。ウンチク語るならそっちにも拘れよと言いたくなるだけだ。酒も食事の楽しみだ、酒飲んだ方が食事が美味しく感じる(微細な味の差が分からなくなったとしても)と思うよ、俺も。お店もアルコール売れないと困るしね。
そもそも醸造酒は風味が強いのが魅力なので、鮨や懐石のようにチョコチョコいろんなものが出てくる食事に合わせること自体難しい。フレンチだと、ワインのペアリングは皿ごとに行われる。日本のフレンチは懐石的に種類多くて嬉しいけど、ワインのペアリングには向かない。
アルコールで合うと思うのは、ハイボール、甘みをいれないレモンサワー。辛口淡麗の極みである(笑)。あとは、よく冷えたビール。昔のビールは太めの味で、その流れが変わったのはスーパードライからだが、開発コンセプトは「和食に合うビール」だったと言えば何か伝わるだろうか。
まあ食通的にはそんなものを頼むのは沽券にかかわるだろうし、そもそもハイボールやサワーは銀座の鮨屋に置いてない。だから1合3千円以上払って野趣をゼロにした日本酒を飲んでくれればいいんだけど。実際それはそれですごく美味しいと思うしね。
冒頭にも書いたが、好きな食事に好きな酒を合わせるのが一番だ。そこは誤解しないでほしい。
語学の教科書、参考書、なんでも良いのだがこんな経験はないだろうか。
たまにこれ絶対使わないだろーって文章とかあるし、会話、展開がある。
これはやはり、気を引いてるしか思えない。やっぱり本に閉じ込められてる人からのメッセージなのか。
よくあるのがどこかの謎の組織はみんなに知られずに暗号を出すのだ。まさにこれである。これに似ている。
もし本に閉じ込められたらあなたはどうするだろう。あなたは本の中で演じなければいけない。これは、ルールであり、原則だ。だから言葉を発することが求められる。
しかし安住しない人もいるだろう。その人たちがするささやかな抵抗なのだ。
ただ僕たちはこれに気付いたところでなにもすることが出来ない。する術をしらない。この抵抗に手を貸すことができないのだ。
「救いようのない話」を楽しめたのは、まだ世界の端っこを見に行く途中だったからなんだなあと最近思ったりする。見たことがないものを見に行く途中だから、新しく見るものはなんでも珍しく思えるけれども、そうして歩いているうちに、実は「救いようのない話」なんてのはありふれたもので全然珍しくないんだってことに気づく。そうしてありふれた「救いようのない話」を飽きるほどに見たところで、もうここには目新しいものなんてなにもない、ここが世界の果てだと、そう思って私は帰ってきてしまったけれど、中には「救いの無さ」の果てにまだ何かあるのではないかとまだその先へ歩いていった人もいたのだろう。今となっては私はそんな人の姿を見ても「若いなあ」とつぶやくくらいしかできない。私の世界観は完成されてしまったのだ。
そもそも犯罪ってのが個人にしろ法人にしろ人格に関わるもので集団に定義ができない。
そこで苦肉の策として中に犯罪をするとおぼしき、した経験がある、かさねて犯罪をするおそれがある要因を含む団体としているけどそれでいうと「刑務所からでてきた人を雇う企業」もその範疇に入りかねない。
そんなことは改めていう必要がないと思うけど、その上で団体や組織に対してその時点での構成している個人すべてを対象に行動を起こせる法定義が今論点なわけ。
人で生垣をつくって中でなにかしててもバレないって手段が暴力団で、それを株式会社やら養子縁組で民事にしてたり外部からその犯罪行為が確認できないように隔離しようと集団を使って行動してるのがおおよその暴力団体。
それを認定したものがしてるおそれがあるから立ち入れるって法だけじゃいまつらいって事。
たとえばこわもてのお兄さんたちが並んで立っててその向こうで暴力行為が行われていても通報できない雰囲気とか止めに入れない雰囲気にする、そこで行われたことについて首謀者が代わりのものを差し出して危険要素は社会に放たれたまま、というのが組織犯罪の例だけど、これを特定のそれを目的とした団体以外でも発生したりさせたりする要因が現在にはあるからなんとかする方法はないのかと。
たとえば救急車で救える命が野次馬で道をふさがれてまにあわなかったらどうか。ただの野次馬に人命救助の責任をおわせることはできないけど、ツイッターで「みんな道ふさげwwwwwwぜったい助からねえwwwww助ける意味のない命」などで一般市民で無関係な非暴力層が行動したらどうなるか。人しぬだろ。
同じように「テロ組織の崇高な使命感に感化された」とかいう一般人なんかも発生しえないとはいえないだろ。
そうなったら、首謀者もみつけられないし、実際に行動して問題に関与した人間も関係ないといいきれて、かつ問題行為が目の前で発生したり進行していた場合は何で取り締まってどう救済するんだよって話だよ。
まあSNSで風評炎上のあおりをうけていわれのない被害を一方的にうけるやつがでてきても「残念」で済む国家をお望みならそれでもいいだろうとは思うよ。
以下追記
なんでも悪さをする団体と決めつければ無実の構成員も含め一網打尽にできて抑止力になる危険をはらむという問題について。
基本的に法律に則って、ことに刑法に則って「被害者の発生する事案が犯罪」という定義を改めていえばその先へ理解が進むのでは。
合唱団が犯罪行為とおぼしき隠喩を含む楽譜を持ち集まることは共謀「罪」にはならないが、それが特定個人や団体などを対象に明確な目的があれば「罪」なろうということ。
「本当の正義のために悪人を指摘する行為が結果集団的行動で仮に被害者を発生させる事につながるとはいえ、その善行の芽を摘むことになるのか」については憲法そのものの人権尊重、いくら罪人でも暴力行為などで抑止といった「被害」を発生させることを許容しない、警察に通報しなさいってこと。
東京⇔地方を繰り返してきた自分の販売業、特に服飾系に対する雑感。
イ〇ンに比べて小売りはやっぱり厳しくて、そこで買い物するような人は本当に少ない。そんなことをつらつらと書く。
第一に、若者が少ない。団塊とその上のおじいちゃんおばあちゃんばっかり。
あの人達の保守的な思想は半端じゃない。強固で、染み付いて、それこそ白い服についたシミみたいに、ゆっくりゆっくり時間をかけて出来上がったそれはもう消えない。
第二に、みんなブランドや大手のものが好き。それ以外で買い物をする理由が特にない。
ここで挙がるのはSLPやLV、Loeweじゃなくて、Hareや大手セレクト、ニトリ、スターバックスとか。
一番のブランドはテレビの中の東京なんだな、とあらためて感じる。
第三に、小売りで買い物をするような人も、都内で見るようなセンスがいい一般人、今風にいうとCity boyみたいな、なんて皆無。
ほとんどがコミュニティの中での存在価値を買っているような人たち。
店側も本当はお客さんを選びたいんだろうけど分母が少なすぎる。少し無理をしてでも、コミュニティを作って、売り上げ、生活していく。お店に行っても内輪で会話をしているから自分のような新規はじろじろ見られて終わり。
(誤解がありそうだから先に書いておくけど逆恨みでこれを書いてるわけじゃない。むしろしょうがないと思ってる)
でも「地元」ではそれが売り上げだったり、信用につながるようだからもう抜け出すすべがない。どんどん店としての格や雰囲気はないがしろになっていく。
東京だとお客さんを店がふるいにかけるようなところがむしろ大事だと思っていた。良い言い方をするとターゲットを絞るということだけど、そういう人・力はもう地方にはない。
That's sell out
最後に、買った服を着ていくところがない。これが決定的だと思う。
若い子たちがデートに行く先はカラオケやボーリング、飲みに行くくらいしか選択肢がない。どこも車でしか行けないようなところばかりで、別に着飾って気分を上げてまで行くようなところはない。
地元の大学生の会話はパチンコ、麻雀、競馬、女、カラオケやビリヤードくらいしかない。
だらだらと書いたけど、客の服装を意識させるような良いお店・場所なんか田舎にはない。結局買った服を買ったところに着ていくことくらいしかない、上の話に戻る。
じゃあどうすればいいのかってすごく難しいと思うんだけど、自分は地元にも面白いお店あるじゃん、って言いたい。
若い街だと老舗とかそういったお店も少ないけれど頑張ってるお店は見つけようと思えば、ある。
○朝食:なし
○夕食:スーパーのコーンサラダ(味噌マヨネーズ)、ケンチキ(和風チキンサンド、ポテト、オレンジジュース)
○調子
むきゅー!
まだちょっとわかんないけど、六月末まで今の所でお仕事になるかも。
むきゅきゅー! って感じなので、目覚ましなるまでもう一回寝ます。
ちゃんぽんと中華丼はそれなりに野菜あるかと思うけど、餃子は「野菜入ってるし?」。た・・確かにな(量的に微妙だけどな)・・・ってなります。
ポテトサラダとキャベツやレタスやニンジンなどを総称して、ポテトサラダと呼んでいるわけです。
っていうか、CoCo壱番屋のメニューの商品名を書いただけなんですけどね。
出来る限り野菜も食べたいのですが、サラダを単品で買うのは中々割高なんですよねえ。
かといって、僕は包丁が使えないのでサラダを自炊するのはしんどいですし。
一応、今日はお財布に余裕があったので、買ってみました。
この件についてどう思われますか
ゲームニュースのコーナーで取り上げる予定でしたが、せっかくお葉書もらったので、ここで書きます。
本当おつかれさまでした。
思えば、こうして、ほぼほぼ毎日ゲーム日記を書いているわけですが、
最初はHalo1のリメイクを楽しくプレイするために書き始めたんですよね。
Haloから始まって、FableやブルードラゴンやライオットアクトやForzaやGearsやデッドラなどなど、色々なゲームをプレイしてきました。
もちろん、まだ積みゲーは大量にあるので、これからも遊んで行くつもりですので、
僕が所有している360はまだまだ現役で使い続けるつもりです。
つもりですが、さすがに最近はOneの方ばかり起動してしまいますねえ、Netflixでフルハウス見るのが日課になってますし。
何にせよ、本当に本当におつかれさまでした、
ただ、360の残した物は確実にOneに、そしてその先へ続いて行くと思います。
そしてそれには、旧箱のそれも含まれているはずです。
Xboxの今後が本当に楽しみです。
○ボーダーランズ1
グランディアの世界の果てを超えるシーンは素晴らしい。それと、スーとの別れも印象的
スー(8)は主人公ジャスティン(14)の幼なじみで子供のクセに「ジャスティンには私がついていないとね」的なことを言って保護者ぶるBJのピノコポジション
スーはジャスティンと一緒に旅に出て、世界の果てを越えた後も旅を続けるが、ムリがたたり寝込む。自分は子供でジャスティンたちの足手まといになるからとパーティー離脱を決意。ジャスティンはならばと先へ進むために取ってきたはずの転送アイテムをスーを故郷へ帰すために使うことに
その別れのシーンでプレイ当時、自分ボロボロ泣いて、今もちょっと調べてまたホロっとした
冒険途中でフィーナ(15)という真打ちメインヒロインが仲間になって、バトルでもスーの影が薄くなるんだけど、スーからするとフィーナみたいな圧倒的才能を隣にするプレッシャーは相当だ
増田が「上手が怖い」という流れでグランディスの話を始めたのでスーとの別れが出るかと期待したけど出なかったので自分で書いた
それでも、スーはジャスティンが居なければ世界の果てを越えてその先を見ることはなかったことも事実
世界の果てのその先への冒険を創作に喩えるなら、冒険者には様々な支援が必要で、金銭的なものはもちろん、作品発表直後のポジティブなフィードバックが一番精神的支えになるという言は多くの創作者から聞く
スーはED後美しく成長し故郷でジャスティン、フィーナ達を待つ「港の女」ポジションに収まっているけど、こうして何者にもなれずにボンクラに年を経た自分でも「港の女」になれるなら、それはとても嬉しいことだと思う
昔ちょっとだけでも一緒に冒険した想い出が、冒険譚を語るその舌を少しだけ滑らかにし、彼らが次の冒険へ進む一歩の僅かな助けになるのなら
http://anond.hatelabo.jp/20150910215231
からの続き
自分の本当の想いに気づいたなら、あとは現実的な算段をつけていくだけだ。
僕が主に学びたいのは経済学である。だから経済学部のある大学を目指す。それは確定として、どの大学を目指すべきだろうか。みんなどうやって志望大学を決めてるんだろう。調べても情報が多すぎて混乱してくる。旧帝とかMARCHとかってなんぞ。ゼミとか研究室とか修士とか博士とかもよくわからない。そもそも大学の仕組みがよくわからない。最初のうちは学ぶ側で、そのうち教える側だったり、最先端の研究をする側にまわる、というのはなんとなく知ってる。以前は「4年勉強して卒業」としか思ってなかったので、これでも大学に対する理解はだいぶ進んだほうだけど、やっぱり前提知識がいろいろ足りてない気がする。
いや待て、そういった知識的な問題よりも何よりも、その前にまず僕には大学受験資格がない。僕は中卒なのである。正確には高校中退だけど、数ヶ月しか通っていないので取得した単位なんてないも同然だ。どこを志望するとか、大学に通う資金はどうするとか、それ以前の問題だ。受験資格を手に入れなければ、スタートラインに立つことさえできない。まずはその問題から片づけよう。あとのことはあとで考えよう。
そういうわけで大検について調べてみる。どうもいまは名前が変わっているようで、高等学校卒業程度認定試験、略して高認という名称になっているらしい。試験は年2回、8月と11月に行われる。科目は、国語、英語、世界史A/B、日本史A/B 、地理A/B 、現代社会、政治・経済、倫理、科学と人間生活、化学基礎、物理基礎、生物基礎、地学基礎、数学I。これらの中から8〜10科目を受ける。合格ラインは40点前後らしい。半分正解できればいいのだ。しかし高校で習う教科ってこんなに多いのか。けっこう大変そうだ。文科省のサイトで過去問が公開されているようなのでひとつずつ見ていく。
まずは国語。大問が4つで、現代文が2問、古文・漢文が1問ずつ。現代文のほうは普段から本を読む習慣のある人なら普通に解けそうな感じだ。僕もいちおうコンスタントに本は読んでいるし、現代文に関しては問題なさそうだった。古文と漢文に関しても文章の意味は7割以上わかるし、試しに問題を解いてみたら全問正解だった。あれ? 古文・漢文って中学でやるんだっけ? 独学でやった覚えはないから、中学でやったんだと思うけど、20年たっても意外と覚えてるものだと思った。文法とかはさっぱりわからんけど。
英語に関しても問題なさそうだった。英語は二十代のころに必死こいて勉強した時期がある。1回だけ受けたTOEICは680点だった。そのあと半年海外を放浪して日常会話くらいなら問題なく喋れるようになったし、これで合格点を取れないってことはまずあるまい。
次は世界史。これに関しても最近やったばかりだし問題なさそうだった。AとかBとかどう違うんだろ、と思ったけど、Bのほうが範囲が広く、より深い内容になっているらしい。高認の試験ではかぶっている問題が多いし、そんなに違いは感じなかったけど。ちなみにA/Bどちらを受けるかは当日に試験問題を見てから決めていいらしい。
日本史、もしくは地理。これは願書提出時に事前選択するようだ。日本史はかなり難しい。半分正解できるか、ちょっとあやしい。地理のほうが点数を取れそうだったので、こちらを選択することにした。半分は正解できそうだけど、これに関してはちょっと勉強しておいたほうがいいか。
公民は、現代社会、もしくは政治・経済+倫理から選択する。科目数は少ないほうがいいので、現社でいくことにした。毎日ちゃんとニュースを見ている社会人なら誰でも普通に合格できそうな内容だ。これは勉強する必要はないかな。
理科系科目は、化学基礎、物理基礎、生物基礎、地学基礎のうちから3科目を選択するか、もしくは科学と人間生活+どれか1科目。これも科目数が少ない後者でいこう。
科学と人間生活って聞き慣れない教科名だと思ったけど、理科総合のことのようだ。学習指導要領が改定されて、つい最近こうなったらしい。試験は基礎4科目からそれぞれ易しめの問題が出される感じ。でも半分いけるかちょっと微妙なラインだ。これは勉強必須だなあ。
あとの1科目は地学基礎にした。これも以前は地学Iとかだっけ。地学I→地学基礎、地学II→地学、みたいな感じで変わってるようだ。これも半分いけるか微妙。勉強必須。
まあでも理科系科目がちょっと不安なくらいで、全体的にはけっこう余裕かな。なあんだ、身構えて損したよ。ハハ。ああ、そういや最後に数学が残ってたっけ。まあこれも余裕かな。ハハハ。じゃあちょっと過去問を見てみようかな。
え? これあれでしょ? 東大入試問題でしょ? ちょっと文科省さんしっかりしてくださいよアップするファイル間違えてますよやだなあもうホントかんべんしてくださいよマジで。マジで……。なんぞこれ……。1ミリもわからん……。死にたい……。
マジやばい。本当に本気で1問もわからない。最初のほうのサービス問題っぽいのすらわからない。解き方がわからないとかじゃなくて問題文の意味すらわからない。なにこれマジやばい。というかいまさらだけど自分は文系だったのだとこのとき初めて気づいた。プログラミングで飯を食ってたりするんだからてっきり自分は理系なのだとばかり……。マジかよ……。
嘆いていてもしかたない。これをどうにかしないことには大学には行けないのだ。ならどうにかするしかない。
まずは本屋で数Iの参考書を立ち読みしてみる。なるほど、わからん。よし、次だ。中学数学の参考書。なるほど、わからん。よし、次だ。算数の本。なるほど、わかります。でも、最大公約数とか最小公倍数とか通分とか約分とか、けっこう難しい。小学生ってこんなのやってるのか。すげえな。
参考書とドリルを何冊か買って帰り、勉強を始めた。地獄のような日々の始まりだった。
算数ドリルをやってみると、四則演算はさすがにできるけど、九九がところどころ記憶から抜け落ちてることに気づいた。やばい。そして分数の計算がまったくできない。分数の割り算ってなんだよ。割り算で割るってどういうことよ。意味わからん。と思いつつも、算数についてはなんとかなった。問題は中学数学からである。
算数から数学になると急激に難易度が上がる。なんでマイナスとマイナス掛けたらプラスになるの。分数の割り算が今度は逆数の掛け算になるとかどういうことよ。ちょっともう本当に意味がわからない。そうしているうちに1週間、2週間が過ぎる。やばい。それでもぜんぜんわからない。中学数学の最初の段階でこれだけ時間かかってたら数Iを終えるまでに何年かかるんだ。本当にこんなので大学へ行けるのか。さすがに焦りが出てくる。心が折れそうになる。何より、やっていてまったくおもしろくない。つまらない。こんなの社会に出てから何の役に立つんだ。これを必修にするとか文科省の陰謀だろ。あ、人が陰謀論に走るのは精神的にまいってるときなのか。ひとつ勉強になった。
そんな感じでウンウン唸りながらも参考書を読み進めていると、「-xは係数に1が隠れている」という一文が目に止まった。あ、そうか、-xは、-1x、-1掛けるxってことか。なるほど。でもこれって、マイナスだけじゃなくてプラスでも同じじゃないか? つまり、xは、1掛けるxなのだ。あ、これって文字じゃなくても同じか。つまり、5は、1掛ける5だ。あれ? もしかして、どんな数にも、係数として1が掛かっている……? ああなんだか考えすぎて頭がパンクしそうだ。脳みそがギシギシと軋む音が聞こえる。でももうちょっと考えてみよう。
つまり、つまり分数も同じなのだ。1/2は、1掛ける1/2だ。算数的にいえば、ケーキ1個を半分にしたものがケーキ1/2個だ。うん、それでいい。でもよく考えたら、ケーキを半分にしたあとで他の誰かがやってきたら、その人は最初の大きさを知らないのだから、半分のサイズのケーキを1個とカウントするはずである。1/2個とカウントするには、「半分にした」という事実の認識が必要なのだ。いや待て、そもそも、1/2という数字それ自体が「半分にする」という意味なのだ。これは、「半分」という名詞ではなく、「半分にする」という動詞なのだ。1/2というのは何か実体のあるものではなく、「いまからお前を半分にしてやる」という意思、考え方、概念なのだ。
そのとき「バタン!」と音を立てて扉が開いた。それは数学の扉だった。
そうだ、数(すう)とは概念なのだ。いち、にぃ、さん、とものをかぞえるときに使う数(かず)とは違うのだ。そして前者を扱うのが数学であり、後者を扱うのが算数なのだ。僕はいままで数学をやっているようで、その実、算数をやっていたのだ。ぜんぜん違う教科をやっていたのだから、わからなくてあたりまえ、つまらなくてあたりまえだった。
数とは概念である。その前提を踏まえてみると、これまでとはまったく違う世界が見えてきた。数を感覚的に扱えるようになってきた。数式の手ざわりがわかるようになってきた。なにこれやばい。超おもしろい。いままで「数学おもしろい」っていう人のことがまったく理解できなかったけど、そうか、こういうことか。数の正体を知っている人と知らない人では、同じ数式を見ても、まったく違うものを見ているのだ。
それからはこれまでの苦悩が嘘のようにサクサクと勉強が進んだ。中学数学も予想より早く終わった。よし、ここからが本番だ。と気合いを入れて数Iに突入したけど、参考書をパラパラとめくってすぐに拍子抜けした。なにこれ中学数学をちょっと発展させただけじゃん……。気合い入れて損した……。
よし、最大の懸念だった数学はなんとかなりそうだ。次は理科系科目にいってみよう。
まずはまた本屋で参考書を何冊か購入し、読んでみる。数学のときほどまったくわからないということはないけど、なんだかいまいち頭に入ってこない。原子がどうの、位置エネルギーがどうのといわれても、なんだかいまいち実感がわかない。これはまた数学のときと同じく、勉強の仕方を間違えているのではないかと思った。こういうのを学校で習うときは、実験を行いながら、実感をともなって理解していくもののように思う。本を読むだけではその実感は得られないのは当然だ。でも個人で実験器具を揃えるなんて現実的じゃないし、わざわざこのためだけに予備校に行くのも大げさだ。そうだ、どこかの動画サイトに実験映像がアップされてるんじゃないだろうか。それを見れば多少は実感もわくだろう。
いろいろとネット上を探していると、NHKの高校講座を発見した。どうやらNHKでは放送済みの高校講座をすべてネット配信しているようだ。理系科目はもちろん、文系科目もある。こんなんあったのか。もっと早く教えてくれよ。とかぼやきつつ、さっそく科学と人間生活の講座を見てみたら、バラエティ番組っぽい雰囲気でちょっと面食らった。NHKの高校講座ってこんなんだっけ。講師が延々と解説してるだけの、いかにも教育番組って感じの、おかたい雰囲気じゃなかったっけ。いまはタレントがメインで出ていて、講師はあくまで補佐的な役割のようだ。そのぶん雰囲気はゆるくなっているけど、見ていて飽きない作りになっている。化学や物理の実験を映像で見られるのもそうだけど、習った内容が社会の中で実際にどう活かされているのか、町工場や、最先端の研究の現場のリポートもあったりして、興味をかきたてられる内容になっている。これを無料配信するとか、NHKすげえな。しかしやはりこういう講義形式はわかりやすい。本で独学だと、自分の理解が合ってるのかどうか、不安になることが多々あるし。
よし、どんどんいこう。化学基礎。いまはpHを「ペーハー」じゃなくて「ピーエイチ」って読むらしい。マジか。物理基礎。ダムの水が持つ位置エネルギーは何から与えられたエネルギーか。え、わからん。正解は太陽のエネルギー。マジか。太陽パネェな。生物基礎。呼吸と燃焼の反応式は同じ。温度と反応速度が違うだけ。え? マジで? 生まれたときから呼吸してるのに知らんかった……。ショック……。地学基礎。グリーンランド沖で沈み込んだ海水は、太平洋の表層に達するまでの5万kmを、1000年とか2000年とかかけて流れる。壮大すぎだろ。地球パネェな。地理。お、このケッペンの気候区分ってのは世界一周アプリに使えそうだ。GIS(地理情報システム)を本気で開発するなら、地理に関してはもっと突っ込んだところまで勉強しないといけないかもしれないな。
さらに日本史、世界史、数学I……NHK高校講座おもしろすぎわろた、とかやってるうちに、試験本番の日がやってきた。
試験会場に集まっていたのは、ほとんどが二十歳前後の若者だった。控え室には、参考書と格闘している人もいれば、友人同士で最終的な確認をしあう人たちもいる。そういえばこの人たちはベルリンの壁崩壊後に生まれてるんだよな。それはもはや教科書で習う「歴史」なのだ。そして逆に、僕より上の世代にとっての東西冷戦は、自分たちが生きた時代そのものだ。「あのままずっと世界は真っ二つに分かれたままだと思ってた」というような話はよく聞く。いまとなってはわからない感覚だけど、当時は誰もがそう思っていたようだ。僕はそのどちらでもない。十分に咀嚼された「歴史」でもなく、自分が生きた時代でもない。だからそれについて、誰よりも知らない。しかしだからこそ、誰よりも知りたくなったのかもしれない。そしてそのために、僕はいま、ここにいる。
高認の試験は2日間に分けて行われる。初日の1科目目は現代社会だった。まったく対策らしい対策をしなかったから、ここで初めて気づいたけど、グラフの読み取り問題がやたらと多い。間違い探しのように精査しなければならず、1問にかかる時間が長い。問題よりも時間配分の仕方がわからない。時間が足りない。もっとちゃんと過去問で練習しとくんだった……。
次は国語。問題文にちょっとおもしろい箇所があって、静まり返った試験会場で「デュフフwww」とかキモい笑いを漏らしてしまった。死にたい。しかしおかげで緊張はほぐれた。
英語はTOEICに比べたら楽勝だった。9割はいけたんじゃないだろうか。
そして数学。これがいちばん不安だったけど、落ち着いてやれば余裕だった。これも9割いけたんじゃないだろうか。あらためて問題を見てみると、捻った問題というか応用問題すらないので、基本的なことがわかっていれば確実に解けるようになっている。東大入試問題とかいってたやつ誰よ。
科学と人間生活。範囲が広いのであまり詳しく勉強してない箇所の問題もあったけど、半分はいけたはず。
1日目、無事終了。
2日目。地理。海外放浪のときにまわった国の問題が多く出ていて、なんだか常識問題のようだった。ちょっとチートっぽいけど、こうやって実地で得た知識もれっきとした学力だ。うん。
世界史。これも範囲は広いけど、さほど突っ込んだ問題はない。9割いけたはず。
地学基礎。フズリナと同時期に繁栄した生物は、1.トリゴニア、2.カヘイ石(ヌンムリテス)、3.ロボク、4.デスモスチルス、そこまで詳しくしらんがな。クイズか。そんな感じの問題もあったけど、なんとか半分はクリアできた。
2日目も無事終了。
試験が終わると一気に力が抜けて、何もやる気が起こらなかった。しばらくは勉強もせずダラダラと過ごした。
1ヶ月後、試験結果が届いた。
全科目合格だった。
それが先週の話。
だからこのお話はここで終わりだ。正確にいうなら、ここから先の展開はまだわからない。
数学の扉を開いたとき、数式が以前とはまったく違って見えたように、新しい視座を得れば、世界がまったく別物に見えてくる。世界が変わる。そしてまた、以前は気づかなかった、新しい視座の存在に気づく。
あとどれくらい、そんなことを繰り返せばいいんだろうか。
方程式、定理、法則、電気、磁気、エネルギー、素粒子、宇宙、銀河、太陽、地球、生命、遺伝子、進化、化石燃料、製錬、農耕、富、労働、権力、支配、隷従、社会、自由、イデオロギー、宗教、民族、言語、貨幣、法、国家、議会、政党、福祉、教育、研究、産業、組合、企業、グローバリゼーション、条約、為替、貿易、経済。
時間軸と空間軸を埋め尽くす、無数の点と線。それらが織りなすのは、世界という長大な書物。
そのことを考えると、なぜか胸が苦しくなってくる。無性に泣きたくなってくる。
人生のすべてを費やしても、その書物を読み解くことは決してできないと、どうしようもないほどに思い知らされるからかもしれない。
それはきっと、生まれながらに組み込まれた、僕の中の最もプリミティブなプログラム。
どんな権限をもってしても、そのプロセスを殺すことはできない。
だから僕は、今日も本のページをめくり、旅をする。
先日当落が発表された今夏の夏コミC88において、艦隊これくしょん(略称:艦これ)のサークル数が大方の予想を大きく裏切って前同維持の1846サークルに留まる事態となった。
艦これの同人サークル数は、ゲームのサービスが開始して以来、常に明確な増加の一途にあった。
それが、種々のコンテンツにおける"最大の華"であるアニメ化をもってしてもほとんど増加を維持することができなくなったことに鑑みれば、艦これの同人界隈はついに最盛期を越えて「秋」の時代に突入したと言える。
約2年で成長の限界に達した艦これの同人界隈は今後どうなって行くのか、これまでの傾向を分析しつつ今後について言及してみたい。
尚、本稿は艦これやその他の作品並びにそれらのファンを煽ったり貶したりするものではないことを先に述べておく。
本稿を読み進める方は、あくまで冷静に数字とその結果を見ていただければ幸いである。
序文で「大方の予想を大きく裏切って」と述べた通り、C88の当落発表まで、Twitterや各種掲示板の艦これコミュニティでは「C88では艦これサークル数が2000を超える」ことがほぼ確実視されていた。
読者の方の中にも、漠然とそう思っていた方は多いのではないかと思う。
そのような意見が支配的だった理由を精査してみると、主に以下の2つの要素が根拠として挙げられていることが分かった。
まずは、これまでのコミケにおける艦これ同人サークル数の変遷を見ることにしよう。
・C86(2014年夏):1498 [+362:前同131.9%]
・C87(2014年冬):1840 [+342:前同122.8%]
※註1)C85時点では「301:艦これ」というジャンルコードは存在しないため、有志が計測した実測値となり誤差が含まれる
このように艦これの同人サークル数は毎回約350サークル増という極めて高い増加率を誇っていたことが分かる。
(尚、C84の締め切りは2013年2月であったが、艦これのゲーム本編の提供開始が2013年4月であるため、C84に艦これのサークルは存在しない)
また、2015年は年始からアニメ版艦これの放映が始まり、結果的に賛否は割れたものの大変な盛り上がりを見せていた。
前述したように、ゲームや小説や漫画を原作とする作品において、アニメ化は一般にコンテンツ最大の盛り上がりを見せる場となる。
この傾向は、例えば最近ではアイドルマスター系列作品やラブライブ、進撃の巨人などの作品でも明らかである。
(比較的誰でも簡単に確認することができて、かつこの傾向が顕著に表れる指標としては、pixiv大百科の各作品タグに掲載されている毎日の閲覧数を示したグラフが分かりやすい)
アニメが華と言われる理由はいくつかあるが、本分析のテーマである二次創作や同人に限れば「お金を払ったり特別な装置を用意したりせずとも、TVで見るだけで手軽にその作品の世界に触れることができ、新規のファンが増える」「声や映像によってキャラクターの所作や性格がイメージしやすくなる」という点が大きい。
上述の①及び②のような状況を見て、C88の1846サークル [+6:前同100.1%]という壊滅的な成長率を予想するのはほとんど不可能であろう。
特に②の要素は、他作品の当時の傾向に鑑みれば、本来であれば艦これ同人界隈に大きなプラスの寄与をもたらしたはずである。
C88での艦これサークル大幅躍進を確信する声がほとんどだった一方で、ごく少数ではあるがアニメの出来が良くなかったため、C88ではサークルが艦これから離れるのではないかという意見もあった。
確かに、艦これのアニメに関しては、一部の作画の問題やシナリオの迷走などで賛否が大幅に割れていたことは否定できない。
(賛否の割れた例としては、加賀の弓の構え方、赤城の食べていた大盛りカレーの描写、如月の轟沈、提督が吹雪を採用した理由など、激論が繰り広げられていたのを覚えている方は多いのではないかと思う)
これはニコニコ動画での放送後アンケートの結果からも見て取ることができ、特に3話及び9話以降で顕著である。
しかしながら、アニメが艦これの同人サークル数に負の影響を与えたという考え方には否定的にならざるを得ない。
C88の参加申し込み期限は、郵送が2/4(水)、オンラインが2/12(木)であった。
艦これのアニメ放映開始が、一番早いところで1/7(水)深夜であったため、C88の申し込み締め切りまでに4話あるいは5話まで放送されていたことになる。
アニメの前半期で大きく評価の割れた回は3話の如月轟沈の回のみであり、1~2話及び4話以降はしばらく相対的に評価の高い回が続いたため、サークル数の伸びをここまで抑え込むほどの壊滅的な影響があったとは考えにくい。(則ち、9話以降の影響は申し込み期限の時点では現れない)
もう一つの理由として、堅調なアニメDVD&BDの売り上げが挙げられる。
あれほどまでに賛否が割れたにも関わらず、アニメのBlu-ray Discの売り上げは初巻で2万枚に達するほどの売り上げを見せている。
もちろん、BDの売り上げが艦これの同人界隈の盛衰をそのまま反映する指標であるとは思わない。
また、全巻同時予約かつ予約キャンセルを受け付けない前提で別途特典を付けるなどの一部の販売方法の影響も少なからずあるかもしれない。
しかしながら、それでもなお2万枚という販売数は昨今のアニメBDの中でもかなりの上位に位置しているものであり、それだけアニメに否定的でないファンがいるということであり、言い換えれば艦これファンの絶対数自体がまだ多いということに他ならない。
また、後述するが、同人界隈の動向を調べる上で相関性の高いpixivやニコニコ動画の投稿数等も、アニメ放映中に増加していたことも付け加えておきたい。
以上を考慮すると、アニメがC88のサークル数増加に負の影響を与えたとは言えないと結論付けるべきである。
では、同人界隈と相関性の高いpixiv、ニコニコ動画の投稿数や実際の同人誌即売会のサークル数はどのように変化していたのだろうか。
同人界隈の各種分析を行っているありらいおん氏の所見では、「2周年を迎えた艦これの二次創作は、pixiv・ニコ動とも現在も拡大を続けています。アニメ放送後も、今のところ艦これの二次創作投稿が目に見えて減衰するような様子はありません。(中略)これからの1年も艦これでは活気のある二次創作活動が続くでしょう。」と結論付けていた。
http://ascii.jp/elem/000/001/001/1001334/
しかしながら細かく数字を見ていくと、実際には2月をピークに緩やかに減少を続けていたことが分かり、特に記事の掲載後には一部の指標で前年の極小値を下回る数字が現れていることが分かった。
言い換えれば、兆候はすでに現れていたということに他ならない。
pixivは同人サークルが多く利用している投稿サイトであり、そこでの作品投稿数と即売会でのサークル数の間には強い相関関係が見られる。
【月ごとの週平均投稿数】
・ 9月:3653
・10月:3266
・12月:3997
・ 1月:4089
・ 2月:4516
・ 4月:4001
・ 5月:3790
上記の調査結果から、艦これは昨年10月に極小値を示したあと、アニメ化の影響を受けて急回復し、今年2月にピークを迎え、その後緩やかに減少していることが分かる。
6月現在の投稿規模は昨年9月とほぼ同程度であり、アニメ化によるプラスの影響は全くなくなってしまったと言ってよい。
ここで注目したいのは、C88の申し込み期限であった2月の投稿数が極大値(実際には過去最大値)を示していることである。
C87の申し込み期限は8/21であったが、投稿数が当時の2割増しの状態でなおC88の申し込み数はほとんど増えなかったことになる。
・ 9月:13.15
・12月:13.98
・ 2月:15.61
・ 3月:15.57
・ 4月:13.84
・ 5月:13.02
となり、著しく減少していることが分かる。
特に6月はまだ全体平均が出せないとは言え、11月の極小値を下回る結果が出始めていることは驚きに値する。
pixivの傾向を見れば創作者、閲覧者ともに艦これ離れが進み始めていることが明らかになりつつある。
ニコニコ動画も伸び悩む。
投稿数を見ると、やはり2月の週平均投稿数1200を境に下降の一途をたどり、現在は週平均500未満まで落ち込んでいる。
これは昨年10月~今年1月の平均値とほぼ同じで、やはりアニメ化による効果は消滅したと考えて良い。
閲覧数もアニメ最盛期に週平均約13,500あったことと比較すると、現在の約8800という数字はあまりに寂しい。
これもやはりアニメ化以前の極小値である昨年10月の数字とほぼ同じである。
オールジャンルイベントではない、艦これのみを対象としたいわゆるオンリー即売会が振るわないという話を耳にしたことはあったが、実際にサークル数の増減を検証してみると、
・駆逐してやる!なのです!4:41(-4:前同93%)
・(舞鶴)砲雷撃戦!よーい!16:106(-23:前同86%) ※註2)
・海ゆかば3:133(-74:前同64%)
※註2)「砲雷撃戦」は開催地ごとに規模が全く異なるため、同じ開催地のもので比較
と軒並み前同を割り込む事態となっており、増加したのは
・西海ノ暁5:145(+81:前同179%)
など、わずかであったため、そのような話は強ち間違いではないことが判明した。
参加するサークル数が万遍なく減少しているということは、それだけ艦これの同人サークルが少なくなっていることに他ならず、コミケの参加サークルが頭打ちになっている傾向にも合致する。
無論、艦これはオンリーイベントが比較的多く開催されているためサークルが参加するイベントを選りすぐって見かけ上分散しているという可能性もあるが、昨年と比較して開催されるオンリー即売会の数自体も減少しており、疑問が残る。
コミケと同様に、艦これはその他のオールジャンルイベントでもサークル数が伸び続けていた。
しかしながら、実際に直近のイベントで検証してみると、どうやらすでに頭打ちの兆候は見えていたことが明らかとなった。
・コミックトレジャー:381(-34:前同91%)
直近の同人誌即売会の状況を分析する限りでは、C88での艦これサークル数の頭打ちはむしろ予想されてしかるべきものだった可能性が高い。
上述の各種指標が示す通り、艦これ二次創作の勢力が昨年最も低下した時期と同程度まで落ち込んでいて、尚且つ今もなお減少を続けていることを考慮すると、艦これ同人界隈はすでに成熟期を越えてその先へと足を踏み込んだ地点に達したというべきであろう。
アニメ化を経てその隆盛を維持することが困難であった理由を考察するのは容易ではないが、敢えてその愚を犯して私見を述べるならば、艦これそのものの手軽さゆえに訪れた結末なのではないかと思う。
艦これが多くの人に支持された一番の理由はやはり片手間で遊べる手軽さであると思う。
しかしながら、それ故にシンプルなデザインは大幅な要素の追加を許さず、システムの改良やシナリオの設定・追加などの大幅な改定が行われることはほとんどなかった。
加えて国産艦で追加できる艦は最早ほとんど残されておらず(「信濃」を除けばほとんどが駆逐艦のみ)、海外艦に活路を見出そうと試みているものの、必ずしもユーザーに好意的に受け取られているわけではない。(「ローマ」「リットリオ」などは残念ながらあまり芳しい評価を得られなかった)
イベントや改二、大型建造、キャラクターボイスの追加などで拡大・維持してきた人気を、ついに保てなくなる線まで達してしまったのではないだろうか。
言い換えれば、大変失礼な言い回しであることは承知の上で敢えて使うが、作品としての寿命が近づいているということになる。
再びC88に目を向ければ、半ば公式の同人サークルであるC2機関が落選していることも興味深い。
個別の当落をあれこれと詮索するのは良くないことだが、同規模の「東方Project」で言えば「上海アリス幻樂団」が落選するに等しい事態であり、今後の動向に注目が集まるのは必至である。
以上を踏まえると、今後艦これの同人サークル数が増えるというのはなかなか厳しい想定になると結論せざるを得ない。
これ以降もVita版やアーケード版の発売はあるが、アニメ以上のインパクトファクターになるとは考えにくい。
それというのも、艦これは先述の通りその手軽さがユーザーに受け入れられた大きな要素であり、専用のゲーム機を必要とするVita版、衰退著しいゲームセンターに設置される大型のアーケード版などはむしろその流れに逆行するもので、一時的な話題性はあるにしても、アニメほどの起爆剤には決してなり得ないからである。
各々の創作者に迷惑をかけかねないため詳細は敢えて省くが、すでに一部では「ポスト艦これ」を探る動きも出始めている。
これらは間違いなく即売会のサークル数にも影響してくることだろう。
すでにコミケのサークル数が減り始めている東方Projectの場合は、しかしながら各地のオンリー即売会がなおも堅調で、特に博麗神社例大祭の参加人数が一転して増加に転じるなど一部ではむしろ復調の兆しすらも見られるが、これはひとえに東方ファンが10年以上にわたって積み重ねてきた"基礎体力"とも言うべき根強い人気に下支えされての結果である。
近年のコンテンツ消費サイクルの激しい中、2年もの間同人人気を拡大し続けた艦これではあるが、そのような理由で「単に規模が似ているから」と今後の艦これ同人界隈の行方を東方Projectの現状をもとに比較することは困難である。
伊藤計劃以後とは何か?
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20140323/1395596751
藤田直哉はこのブログの中で、伊藤計劃が自らの死を利用し、死後に作動するプログラムとして『屍者の帝国』という小説を構想したという考えを披露しています。
伊藤計劃が皮肉を込めて描き、死後にまで作動する「悪ふざけ」のプログラムを残し、そして「悪ふざけ/本気」としてそれを実行する/せざるをえない、この社会そのものを相対化するプロジェクトであるのだと、ぼくは考えています。そこで必要なのは、きっと怒りではなく、(冷めた)笑いの共有なのではないかと思います。
そして、死人を利用する資本主義の話である。これが、自身の「死」の物語をどう利用されるか理解し、それを用いてプロジェクトを用いた、伊藤計劃という作家の壮絶なところ。感情や感動、物語に冷淡な目を向けていた。二次創作的な模倣が「感動」を生み出すことを理解して冷めていた。でも、自身の死という、物語ではない、絶対性の高いものを、そういう物語として利用した。そしてその「死」の物語を消費する人をあざ笑うかのようないたずらを仕組んだ。
その結果、伊藤計劃を用いたビジネスもまた、伊藤計劃の仕掛けたいたずらの延長のようになった。この皮肉な仕掛けこそが、伊藤計劃という作家の最大のプロジェクト。
所詮は商業的レッテルでしょ、とか、故人を商売に利用しているんでしょ、という批判があるのはよくわかる。実際そういう側面はあるが、ぼくは、伊藤計劃というのはそれを理解して、わざと仕組んだと解釈する立場。ある意味で、死を贈与した。それがSF界や出版社に利益をもたらしたことは否定できない。その代わり、ぼくらは贈与だけではなく、このプロジェクトという呪いを受けるようになってしまった。「伊藤計劃の言語」みたいなものが、解釈や、資本の中に残って蔓延している状況を作られてしまった。
僕は、この考えというものはとてもグロテスクで不快なものだと思いますが、まあ藤田直哉がそういった考えを持つこと自体は否定しません。人の死に物語を求めてしまうのは、ある程度は仕方のないことではあります。
伊藤計劃は、自らが死ぬことによって作動するプログラムとして『屍者の帝国』を構想した。僕はこの考えにまったく賛同できませんが、藤田直哉の考えが間違っていると断定することもできません。伊藤計劃はもう死んでいて、その真偽を問うことはできないのですから。
しかしながら、藤田直哉はこの妄想を正当化するために、円城塔が自分と同じ見解に立っているという嘘をつきました。
藤田直哉がこのブログに掲載している、「週刊読書人に寄稿した『屍者の帝国』評」に次のような文があります。
悪質な冗談はこれだけではない。伊藤計劃はそのような屍者を労働させるプロローグを、死病に苛まれながら、書いた。まるで、自身の「死」がどう利用され、「物語化=伝説化」されるか理解したうえで、チェシャ猫のような微笑を死後に残そうとしたような「冗談」を伊藤は遺した。それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている。悪ふざけを受けつぐ粋な心こそが、プロジェクトを先に進めるエンジンとなった。
ここで、藤田直哉は「それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている」と述べていますが、そのような事実はありません。藤田直哉は自分の妄想を正当化するために、円城塔の言葉をねじ曲げています。
円城塔は「『屍者の帝国』あとがきに代えて」で次のように述べています。
http://www.kawade.co.jp/empire/
伊藤計劃は『屍者の帝国』を自分の全てを語り切る畢生の作、最後の作品として構想したわけではなく、次へと続く切り替えの場として、むしろ軽い読み物として考えていたはずです。
ここで円城塔は、伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身の最後の作品として構想していた、という考えをはっきりと否定しています。「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解」などしていません。
確かに『屍者の帝国』が発表されたことのインタビューで、「悪ふざけは続けよう」といった言葉を円城塔は語っています。当時のインタビューが乗っていたサイトはもう削除されているため、一部のみの引用となってしまいますが、一応載せておきましょう。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1346917403/
「『死者が動く』話でなければ、やらなかった。当人が亡くなって、冗談のようであっても、誰かが引き受けなければならないだろうと思いました。
追悼というわけではなく、悪ふざけは続けようと」
「死者が動いてる話じゃなければ、やらなかったです。(中略)冗談の中の雰囲気で、中編ぐらいのボリュームで、死者が動く話。それで、当人は死んでしまう。“ええっ、(自分が)動かさないといけないのでは”と(笑い)。それが一番ですよ」
確かにここで円城塔は「『死者が動く』話でなければ、やらなかった」とは述べています。しかし、そのことが円城塔が「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた」ことに繋がるとは思えません。先ほど引用したように、円城塔は伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身の最後の作品として構想した、という考えを退けています。
確かに円城塔は、伊藤計劃の死によって中断された小説を書き継ぐ、という状況を『屍者の帝国』を書くにあたって利用しています。
しかし、『虐殺器官』で言葉による人間社会の崩壊を、『ハーモニー』で人間の意識自体の喪失を描いた伊藤計劃が、「死んでしまった人間を労働力とする」物語を構想した以上、その先へと進もうとする意図を読み取らずにいることはとても難しいのです。また、その脈絡を受け入れない限り、わたしが『屍者の帝国』の続きを書くという仕事を受ける意味はないとも考えました。なぜなら、『屍者の帝国』の続きを書くということはそのまま、「死者を働かせ続ける」作業となるに決まっているからです。偶然にも与えられたこの図式を最大限に活かすことが、わたしの作業目標になりました。
しかし、その図式は「偶然にも与えられた」ものでしかありません。伊藤計劃がこの状況を意図して作り上げたという考えは明示されていません。
円城塔は「『屍者の帝国』文庫本あとがき」でもこのように述べています(藤田直哉がブログを書いた後に発表された文章ですが)。
そもそも自分の死の可能性が確率として高まっている状態で、次回作は死者を労働力としている世界について書きます、と嬉々としている時点で人の悪さも極まっている。
ここでわたしは、伊藤計劃が自分の死を見越して、そのあとに展開するはずの「死者を素材として利用する世界」を書こうとしていたといいたいのではない。
まあ、とりあえず藤田直哉が自らの妄想を正当化するために円城塔の言葉をねじ曲げた、ということはご理解いただけたのではないかと思います。
藤田直哉は伊藤計劃の「計劃」というペンネームに無理に意味を求めようとしたことが原因で、このような妄想を抱いてしまったのではないかと僕は妄想してしまいます。ペンネームはペンネームです。伊藤計劃がプロジェクトという呪いをSF界にかけたなんていうのはただの被害妄想にしか思えません。