はてなキーワード: 交流とは
安倍首相がプーチン大統領に向かって呼びかけたのが、冒頭のポエム「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」「ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」だ。
首脳会談後に同じウラジオストクで開かれた国際会議「東方経済フォーラム」にプーチン大統領とともに出席した際に披露したものだが、よくもまあ成果ゼロ会談の後にこんなセリフが言えたものだ。
このポエムにはウラジーミルことプーチン大統領も失笑。ちなみにプーチン大統領は、6日にはウラジオストクの市民との交流会で「スターリンがすべてを手に入れた。議論は終わりだ」と語り、北方領土について第二世界大戦の結果、ロシアがすべての領有権を手にしたと主張した。
でも Vtuber がゲームをパクって外野が炎上させてた事件があったよね。
スパチャがある分、営利だとは言えるけど、あの企画自体は単発のお遊びだった。
Vtuber が出てきたのはここ数年だし、それでもう文化的価値が一定水準に上がったとみなされてるのか
?
むしろ twitter で観客同士の交流が加速したせいで、モラルがエコーチェンバー効果で肥大化しているのではないか。エンターテイメントとしての社会的制裁が隆盛してきていて、その口実になる文化的価値観の方がより敏感に、先鋭化した。
東京オリンピックが閉幕したら死のうと思っていたのだが、あれよあれよという間に結婚していた。妻と出会ったのはほんの数ヶ月前のことだったのにも関わらず。
この北京オリンピックも盛り上がりを見せてきたところで、自殺願望もとりあえず重箱の隅に仕舞いこんでおける水準になっていることに気が付いた。
経緯を増田に簡単に書き残しておくことで、誰か必要としている人に届けば良いと思う。
僕はかなり重度の自殺願望の持ち主だ。
いや、正確に言い表すのならば、「自殺願望の持ち主だった」。
元々、どこから湧き出てくるか不明な死にたい気持ちの源泉を抱えて生活してきた。精神強者にはあまりわかってもらえないことなのだが、「生きていること自体が自傷行為」なのである。
学生時代も挫折と絶望の繰り返しで、それなりに死んでしまいたくなることはあった。なんとか資格で食っていける学位を命からがら取得し、赴任地や所属といった諸々の見通しがたった後は、気を紛らわすような生きて行くための指標を見失い、ずっと「一体、これから俺は何のために生きていけばいいのだろうか?」と迷子になりかけていた。
趣味でも、恋愛でも、誰かこの人に尽くす為に生きてゆきたい。そういった、生きる痛みを和らげ覆い隠すだけのわけが必要だった。
私にはこれといった趣味がない。何か気分がいい感じに紛れるモノを探す努力もしてみたが、一向に見つからなかった。元々根は不真面目な社会不適合者なので、昇格昇進を目指して仕事に打ち込むことも出来なかった。恋活はじめいわゆる婚活と呼ばれる活動にも参入してみた。だが、案の定誰からも愛されることは無かった。
誰からも求められず、自分は何のために生きているのかわからないまま大阪で過ごす日々は、着実に心身のHPを削っていった。
婚活で出会う女とやり取りするうちに残りギガも減りゆき、やはり自分のように価値のない人間が愛されるにはネットだけでなくリアル対面が必要なのだと思うようになった。そして、遠隔でもいいから分かりあえるパートナーと生涯を共にしたいと熱望するようになった。
いっそのこと手っ取り早く障害者手帳を取得し、ハートフル割でTwitter婚活に専念しようかと考えた。しかし手帳を申請する前段階の診断書ゲットで躓き、身動きが取れなくなってしまった。
処方薬の大量服用を試みた。失敗した。目が醒めたからだ。次はもっと致死率の高い量と血中濃度を計算しようと誓った。
いずれにしても、「実行できなかった」。自殺願望を持つ者の中でも、思い描くことと実行することには大きな隔たりがある。「俺は本当にいつでも死ぬことの出来る人間なんや!」という思いを確かにし、ずいぶん勇気づけられた僕は、急な断薬をすることにした。
サナトリウム的な保養所に連絡してサポーター氏と減薬調整を進め、彼らから「お前の寛解を認める」という言葉が得られたのは、雪がとけゴールデンウイーク目前となった頃で、私は44歳になっていた。
「寛解」という言葉の軽々しさに、「これが誤診だったらいいな」と執着心を捨てきれずにいた僕だったが、そこから次元を上昇するかのように幸福が立て続けに起こった。
元職場の上司が菓子折りを持って過去を詫びにきたり、身内が出産したり、別の身内が学会で表彰されたり、海外の親戚が帰国し、その勢いで一族での花見をやったりした。短い期間に懸賞に連続で当ったことも、一度や二度ではない。
そのわりに仕事がうまく行くようなことは無く、再開した婚活でも坑精神薬の服用歴があり厳密には完治したといえない僕のような人間を愛する異性なんているはずもなかった。
そうして悶々としているうちに、疎遠になっていたそういう友人たちのうち何人かと交流を再開するようになった。しかし僕の心の隙間は一向に満たされる気配はなかった。
もう何をやってもこの人生はなるようにしかならないと悟り、私は何を思ったか一匹の保護犬を引き取ることにした。ミニブタの飼育もはじめようと思い付いた。
そんな折、婚活仲間として意気投合し、一緒に遊んでいるうちに希死念慮を打ち明け合うようになり親しく付き合っていた友人から連絡が来た。私の数少ない、大事な親友だ。
それは、「一緒に死のう」という申し出だった。「さもなければ一人で死ぬ」という話だった。
私はその申し出を断固拒否した。その代わり、友人と
文章はここで途切れていたので、今こうして続きを入力している。
私は友人にとって特別な存在になることができた。それだけでもう、苦しんで生きた甲斐があったというものだ。そしてもう私の生きる意味も役目を遂げた。
ここから先にあるのは、更に苦しく孤独な未来しかないと思った。私自身の心ももう、本当に限界を迎えていた。
もういつ死んでもいいと思っていたが、最後にせめてやり残したことを全て終えてからにしようと思った。
さらに文章はここで途切れていたので、今度は私がこうして続きを書き込んでいる。
文章の推敲をしていると、近所に住んでいるというフォロワーの方から連絡をもらい、会うことにした。
私は彼女のことを何度も見たことがあった。見るに耐えうる程度には美しく、刺身の上にタンポポを載せるような仕事をしている人だった。
彼女は、「あなたのファンです」と言った。何故か僕が近くに滞在していることを知っていたのだという。そして彼女は、「私は、あなたの人生に責任を負う覚悟があります」と言った。
だが、僕は自分で言うのも何だがわりかし顔の造形が整っていて陰キャでコミュ障傾向にあるが自殺願望や希死念慮から起死回生を図った逞しいマッチョである。彼女のようなどこか気が抜けていてポンコツで味のある(一応誉め言葉だが彼女に文意が伝わるか定かではない)女が、僕のことなど好きになる知能を持ち合わせているはずはない。分かり切っていた。
しかしまあ、騙されても奪われるものなど無い私は、彼女の言うがままデートを重ねた。そうして数か月経った頃、気付いたときには結婚し、主夫になっていた。息子と娘も誕生した。
人生は塞翁が馬みたいな感じだ。こうなるのには奇跡のように途方もない強運が必要なのは間違いないが、しかし一つ言えることは、私は、「ぎりぎりまで生きるのを延長していた」ということだ。
私はこの人生をもはやどうでも良いと思っていたが、ひとまず「とりあえずこれをやる」というものを探し、生きるのを何度も延長した。
死ぬ前に、小説を書き上げようと思った。コロナ対策をしつつ旅に出ようと思った。ブログを書こうと思った。ふわっちやInstagramをやろうと思った。とりあえずなるべく他人と会おうと思った。
そうして何度も何度も生を僅かずつ、ほんの少しずつ延長していなければ、妻が私を見つけることは無かっただろう。
そして妻の人生もまた尋常なものではなく、私に共感を覚えるような深い悲しみを抱えている人だった。そして全てのタイミングがピックアップしたパズルの破片のように奇跡的に当てはまり、ネットの海から掬い上げられた。
自分のことを特別にして求めてくれる誰かに愛され生きることは、思っていた以上に私を楽にしてくれた。
妻は、私がナルシストでニヒリズム主義でいることを許してくれるし、妻にとって私は、今のところ良い主夫として何とかやれているみたいだ。来年の春には新しい職場で働くことが決まっている。きっと能力者扱いされると思うけれど、なろう主人公程度には大丈夫だろうと思えるくらいにはなった。
だから死にたいなんて甘えだとか、問答無用に生きるべきだとか、大事な人が悲しむだとか、生きてることに感謝しろだとか、そんなトンチンカンなことを言うつもりは金輪際ない。
一度「死ぬ」ルートに入った人間を掬い上げるのは本当に困難だし、何の代償も支払うことなく他人の人生を救うことなんて、基本的には誰にも出来ない。
だけど、もしこれを読んでいる人の中に死にたいと思っている人がいたら、死ぬ前に、何か言い訳をしてみて欲しい。
あのYouTuberが配信するから今日はとりあえず夜までは死なないだとか、映画を見まくって、芸術に触れて、ときには創ってみて、食って寝て、会いたい人に会って、未練が残らないように、ギリギリの本当にギリギリまでやることを見付けて、やり尽くして、それでも未だ死にたいと思うのなら、好きにしたら良いと思う。
その最期の一瞬までに、これを読んだあなたのことを誠実に見てくれている誰かがいて、手を差し伸べてくれることを切に願う。
北センチネル島とは? 上陸しようとした宣教師殺害。現代社会との接触を拒む「世界最後の秘境」
センチネル人以外の者が上陸しようとすると矢で追い払うという。
原始的な生活をする部族が住む島に上陸して、キリスト教を布教しようと試みた宣教師が殺害された。まるで大航海時代のような事件だが、西暦2018年11月の出来事だ。ニューヨーク・タイムズなどが報じた。
ジョン・アレン・チャウさん(右)本人のInstagramの投稿より
インド洋に浮かぶ北センチネル島は、現代社会との接触を拒み、石器時代に近い生活を営む部族「センチネル人」が住んでいる。11月17日ごろ、この島に上陸したアメリカ人宣教師のジョン・アレン・チャウさん(26)が殺害されたとみられている。
彼はキリスト教の布教活動をするために、北センチネル島に向かっていた。CNNはアンダマン・ニコバル諸島警察当局のデペンドラ・パサック長官の言葉を、以下のように伝えている。
「チャウさんは現地に住む友人を通して、北センチネル島に連れていってくれる地元漁師を雇った。漁師によると、11月15日に漁師と木製のモーターボートで北センチネル島に向かい、島の沖合い500〜700メートルで停泊した。そこからはチャウさんはカヌーで島に一人で向かったが、部族からの矢で傷を負って帰ってきた。16日に再度、島に向かったが、カヌーを部族に破壊されたため泳いで帰ってきた。11月17日、彼は戻ってこなかった。漁師たちはその後、チャウさんの遺体を部族の人々が引きずっているのを見た」
警察はチャウさんの死を完全に確認できたわけでないが、漁師たちへの聞き取りの結果、殺害されたのは確実とみており、チャウさんの遺体を回収する捜索隊の編成を計画している。
センチネル島は部族の生活を守るため保護区域となっており、約9キロ以内への進入は禁止されている。チャウさんの訪問を手助けした7人の周辺住民は全員逮捕された。インディアン・エクスプレスによると、センチネル人に関しては、接触すること自体が違法であるため訴追は不可能だという。
■禁断の島「北センチネル島」とは?
DigitalGlobe/ScapeWare3d via Getty Images
北センチネル島は、ベンガル湾に浮かぶインド領アンダマン諸島の一つ。産経ニュースでは「世界最後の秘境」と報じている。
「絶対に行けない世界の非公開区域99」によると、面積は72平方キロで、東京都の八丈島と同じくらいだ。ほとんどが密林で、周囲をサンゴ礁に囲まれている。先住民で狩猟採集の生活をしているセンチネル人が50人から400人ほど住んでおり、数千年にわたって近隣の島と交流を持っていなかったとみられる。
インド政府は1960年代からセンチネル人との接触を試みてきた結果、91年に初めて友好的に接触できた。しかし、他の島の先住民と交流をはかった際に島民が病気で死亡するという惨事が起きたこともあり、交流プログラムは1996年に中止された。
センチネル人は現代社会との接触をかたくなに拒んでおり、自分たち以外の人間が上陸しようとすると弓矢で追い払うことで知られている。
1974年にはドキュメンタリー映画の撮影スタッフが襲撃されて、腿に矢が刺さった。2004年のスマトラ沖地震の翌年には、島の津波被害を確認するためにインド沿岸警備隊のヘリコプターが上空を飛んだ。その際、ヘリコプターに向かってセンチネル人が弓矢を構えている様子が確認されている。
2006年には地元漁師2人が北センチネル島に漂着した際に、部族に殺害された。
ヘリコプターに向かって弓矢を構えるセンチネル人(2005年12月28日撮影)
https://www.huffingtonpost.jp/2018/11/22/what-is-north-sentinel_a_23597582/
一人でたのしんでいる。
別の趣味で仲良くなり、飲みに行っても話が盛り上がり楽しいし、漫画を貸し借りしている。
話してて楽しかったので、今はとあるジャンルのオタクをしていることを伝えて一人でしている活動の話をした。
友達はちゃんと物語があるコンテンツを好きになるタイプだけど、私が今いるジャンルはキャラクターコンテンツ。
布教したわけでもないのになぜか友達は興味を持ったらしく、物語らしい物語はない私のジャンルのアニメを全話見たらしい。
怖い。話を合わせるために見てくれたのかと思うと。私のジャンルに触れてこなくても楽しく別の話はできるし、気を遣って私のジャンルの話をしてほしいとは思わない。
私一人で楽しくやってるから
私が人に勧められたものにあまりハマれる人間じゃないから理解できないだけ?
この友達が次に会う時私のジャンルの話をしたら、どう返せばいいの?
分からない 助けて
同人誌即売会に現物無しで参加して「読みたければインターネットでデータ購入してね!」ってやったらぶっ叩かれるだけじゃすまないのに
インターネットで同人誌の宣伝して「欲しかったら同人誌買ってね!」ってやる行為は普通に認められてるのが異常に気に食わない
ゼロコロナで期待されていたのはーゼロコロナを目指す人にもいろいろいた*わけだがー
だろうか
当初のゼロコロナのモデル国としてはNZ、Taiwan, R.O.C.などが挙げられ、「ゼロコロナを達成した国は(いろいろ対策をしながらも)こんなにハッピー」のような情報が回されていた。公園には子供がもどり、街角のカフェでは(ソーシャルディスタンスに注意しながら)歓談する姿が・・・のように。
①の意味で恐れられていたのは 何と言っても「医療崩壊」であろう。医療崩壊にもさまざまなレベル/グレードがあり 自宅放置中に死亡はすでに医療崩壊という見方もある。一方、感染者が何百万人生じようと全員注意深く医療が受けられ、その中から重症者が何十万人生じようと、全員速やかにICUでちゃんとした-1,2週間程度で社会復帰できるような-治療を受けられればいいだろうという考え方もあり得る。
もう一つあり得るとしたら「後遺症」の恐怖であろう。ECMO、全身麻酔で3か月がんばって命が助かったとしても、肺は瘢痕化し、発症前レベルまでに完治できるとは思えない。少なくとも足腰はへろへろだろう。倦怠感の持続、脱毛や不治の嗅覚脱失の惧れも含まれる。
*ゼロコロナ過激派には「2019年秋(夏)以前の世界を取り戻す。ワクチンも手洗いも不要、ソーシャルディスタンスも不要な世界の再来を」という人もいた可能性がある
【追記】追記編と初手編、日常用語編、国際編、人物編、二眼の説明を加えた。
anond:20220131231934にインスパイアされてやってみた。
省力のために一部wikipediaからの引用も交えながら独自の解説を記した。
一手で隅をほぼ専有できてしまう反面、中央から遠く発展力やスピードに欠ける。
江戸時代以前の古くから打たれている手であり三々よりは中央に近く、星よりは地に近いバランスの取れた手。
隅を占めるのに二手かかるのが欠点。
4・4の地点で碁盤の目印のある部分のこと。
後述の昭和の新布石時代からよく打たれるようになった手。それ以前は置碁くらいでしかあまり見られなかった。
地に甘いというのは、相手に三々に入られるとほとんど地を奪われてしまうためである。
碁盤において、この地点がもっとも高い地点であり、端は地面という概念となっている。
後述の厚みが確定地ではない未来への投資であるのに対し、序盤から陣地になる可能性が高い場所を実利という。
実利をとれば厚みを作られ、厚みを作ると実利をとられるという表裏一体な関係にある。
盤上において影響力を及ぼすことのできる、しっかりと連絡して眼形の心配もない強力な石の集団である。
「厚み」は「薄み」に対する対義語である。囲碁で「薄い」というのは連絡が十分取れていない形、眼に不安がある石のことであり、相手に攻撃される可能性を持っている状態を指す。
これに対して強力な「厚み」は相手からの攻撃を受ける可能性が低く、周囲に近づいた敵の石に対して攻撃するための基盤となる。また、相手が近づいてこなければ大きな模様や地を形成する拠点となる。
大きな地になりうる可能性のある勢力圏のことを指す。多くの場合、隅から辺、中央へ広がるものを呼ぶ。
手の順番や形を変え、定石等と比べることで本来の形に対して余計な石があることなどを評価し、効かし効かされを判断する。
1933年(昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁の布石のスタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央に雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。
またAlphaGoの台頭以後、新布石時代に負けるとも劣らない布石の変化が囲碁界を席巻している。
例えば星への三々入りを序盤に行うの「ダイレクト三々」は相手に厚みを与えるため不利と言われていたがそれが平然と行われるようになった。
隣り合った隅・辺・隅の星を占める布石である。辺を打たず、隣り合った隅の星を占めるのは二連星と呼ばれる。中央に大きな模様を張ることを主眼としたスタイルで、武宮正樹が有名な使い手である。
安永流ともよばれる。星・小目・辺の星脇を組み合わせた配置である。
小目からシマリを省略して星脇へヒラく手法は、江戸時代初期に本因坊道策が使用している。
本格的な中国流の開祖は安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。1965年の日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本に逆輸入された。
右上空き隅、小目、相手の星へのカカリから星脇へのヒラキまでの一連の配置を指す。下図下辺の黒の配置がミニ中国流である。右上隅の着点は必ずしも決まってはいないが、星との組み合わせが最もよく打たれる。平成期に流行した構えだが、すでに400年ほど前に本因坊道策が試みていた。このため道策流とも呼ばれる。
序盤早々、周囲にまだ石がない段階で、相手の星に対して直接に三々に打ち込んでいく手段を指す。かつては全く考えられていなかった戦法だが、AlphaGoなどの人工知能がこの手を打つことから注目され、人間の棋士の間でも広く採用されるようになった。ダイレクト三々の名称は、2018年5月から河野臨によって週刊碁の連載のタイトルに使われ、定着した。
囲碁の基本的な手筋のひとつである。アタリの連続で、逃げる側は盤がある限りは逃げることができるのだが、盤の端まで到達してしまうとどうにもできず、石を取られてしまう状態をいう。逃げきれるつもりでこの手順に入ると非常に大きな被害を受けること、シチョウアタリという攻守が全く逆転する危険な変化があることから、「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言もある。
シチョウの追いかける先に相手の味方の石がある場合シチョウが成立しないので、この手を選ぶことが多い。
相手の石にフタをするように斜めに置き動きを封じる。
一旦相手のふところに石を打ち、一度は取られてしまうが取った後の姿がアタリになっていてすぐに相手の石を取り返すことができる。
漢字表記では「追い落とし」となる。 ツグ手を打っても引き続きアタリになり、取られてしまう状態をいう。別名をトントン、ツギオトシ、バタバタとも。
相手の石にも自分の石にも触れないような位置に、文字通り「置く」ように打つ手のこと。動詞では「置く」となる。多くの場合一線や二線など辺の低い位置の、敵陣の急所に打つケースを指す。
相手の二団以上の石を同時にアタリにし、二眼を確保する手段。文字通り相手を押しつぶすイメージであることからつけられた。着手禁止点を利用して生きる手筋である。
相手の石をアタリにし、自分の石を相手に取らせた上でもう一度相手をアタリにする一連の打ち方を指す。途中、さらに捨て石なども交えることもある。多くの場合、相手を凝り形にし、自分が形を整える目的で打たれる。また、攻め合いの場面で相手の手数を詰め、攻め合い勝ちに導く手筋としても用いられる。また、あまり効果のないシボリを「西洋シボリ」と称することがある(前田陳爾の造語)。
ある石のダメが詰まることで、各種の不都合が生じる状態を指す。「ダメの詰まりは身の詰まり」という囲碁格言があるように、不必要にダメを詰めてしまうことは身の破滅につながり、碁において戒められる事柄のひとつである。
駄目については後述。追記編を参照。
ヨセ(終盤のこと)において相手の陣地を侵食するための鮮やかな手筋。
一見繋がってないようなところに打つのだが、見事に繋がっていて相手の地をかなり減らすことができる。
盤上にある石の一団は二眼(空間が2つ)ないとゆくゆくは駄目(呼吸点)が詰まり必ず取られてしまう運命にある。
これはルールとして定められているというよりは、石は呼吸点を有してないと取られる、着手禁止点には打てないという2つのルールから導かれる定理のようなものである。
2つ眼があると、駄目が最低でも2つある状態と着手禁止点が2つある状態が存在するため、着手禁止点を同時に2つ塞ぐことはルール上できないので必ず取られない最強の存在となるのである。
この取られない石の状態のことを「生きている」と言い、この「生きている石」の内側の領域が陣地となる。
この石の生き死にさえ理解できれば、初心者の、どっちがどっちを囲んでるのか、これは内側も外側も囲んでると言えるのではないか、という疑問は消えるだろう。
相手にそこを継がれると眼となる部分に先行して打って欠け目にすること。
「打って欠く」(打ち欠く、あるいは内欠く)の意
相手にそこに打たれると完全な二眼ができてしまう部分に先行して打てなくする、相手の石の一団を殺す必殺の手。
隅に打った既存の石から陣地を確保するためにもう一手かけて領域の守りを固める手
ふたつ隙間を空けて打つ手
●┼┼┼
┼┼┼★
●┼┼┼
自分の石の斜めひとつ空けた場所に置くこと。●から見て★の手のこと。
●┼┼
┼┼┼
┼┼★
相手の石の隣にくっつけて置くこと
相手の石を挟むように置くこと
相手の石の斜めに置くこと
相手の石のつながりを断つように斜めに打つこと
相手の石がそれ以上侵入してこないようにせき止める位置に置く石
相手の石を押すように平行に打たれる石
目外しへのカカリから発生する定石を指す。派生する変化型が多く、複雑な戦いになることから、大斜百変、大斜千変とも呼ばれる、難解定石の代表的なもの。天保頃より特に研究が進み、現代でも多くの変化が生まれ続けている。
小目への一間高ガカリに下ツケする形から発生する定石を指す。最初から接触戦となり、また変化型が多い難解定石の代表の一つ。石が接触しながら戦いになっていく様を「ナダレ」と形容された
小目への一間高ガカリに二間高バサミして生ずる一連の変化を指す。難解で未解明部分も多く、また変化型が多いために誤ると自らも傷を負うところから、村正にちなんでこの名が付いた。大斜、大ナダレとともに三大難解定石とされる。
竹の節のような並び。
一間空けて2:2で平行に並んだ形で、その間をどちらかを相手に打たれたらもう片方で繋がれるので絶対に切られることがない。
仏教用語ではひとつの宇宙が始まって終わるまでの途方も無い長い時間のこと。
囲碁においては、どちらかが譲らない限り永遠に循環してしまう特別な形があり、その形をコウと呼ぶ。
コウの形で石を取られた側はコウをすぐに取り返してはならず、一手別の場所へ打つ必要がある。
通常、白石はハマグリのくり抜きによってできているがそれが語源か。しらんけど
冒頭で説明。
限られた局面、特に序盤においてある程度決まった一連の手の応酬のこと。
定石は手練の碁打ちの長い研鑽、研究により成り立つもので、お互いに必然の手を打ち、双方ほぼ互角のワカレとなるのが定石の前提である
どちらの陣地にもならないどうでもいい地点の事を指すことから日常用語に転じた。
または、石から出ている呼吸点(全部塞がれると相手に取られてしまう)のこと。
囲碁において死活問題とは、相手の石を殺す、あるいは自分の石を活かすための問題(クイズ)のことである。
現代では上手(うわて)が白を持つが平安時代期には強いほうが黒を持っていた。
そのため
と転じたと言われている。
自分が第三者となった視点で戦いを見ると手がよく見える、あるいはそう錯覚すること。
一目は一子(石ひとつ)の意。
囲碁においては強さに差がある場合、相手より多く先に石を置いた状態で始めることから、相手の実力を認め敬意を示す意味に使われるようになった。
手を省くこと。
力を抜くことではなく、相手の打った手に付き合わず、その場所よりも価値の高い場所へ向かうことを言う。
囲碁にはいくつかルールがあり、基本的には江戸期~昭和期まで囲碁の第一人者であり、世界に囲碁を広めた日本のルールが用いられている。
日本ルールは盤上の囲った陣地(目)のみをポイントとするのに対し、中国ルールではそれを含め置いた石の数もポイントになる。
この2つの大きな違いは、日本ルールが自分の陣地に自分の石を置くことがマイナスとなるのに対し、中国ルールではマイナスにならない点である。
このことが死活に関わる局面や終盤の局面での手入れ、手抜きにおいて大きな違いを生む。
日本ルールでは曲がり四目と呼ばれる形が出現した場合、手を入れるのがマイナスになるためそれが死であることの証明を用いないと議論が生じる。
そのため中国ルールのほうが初心者に優しく、コンピューターにも優しい。
他には日本ルールでも中国ルールでも禁止されている自殺手がOK!というルールもある。
碁打衆を保護、「御城碁」の基盤を築く。近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。(日本棋院表彰ページより引用)
永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日)
江戸幕府における囲碁の最高位だけにとどまらず、将棋の最高位も得た二刀流。
大橋宗桂との将棋対局は将棋の現存する最古の棋譜でもあり将棋界においても重要な人物の一人。
正保2年(1645年) - 元禄15年3月26日(1702年4月22日)
手割りや布石など、数々の発明を生んだ天才棋士。史上最強という呼び声も高い。
文政12年5月5日〈1829年6月6日〉 - 文久2年8月10日〈1862年9月3日〉
ヒカルの碁で著名。
1874年(明治7年)6月24日- 1940年(昭和15年)1月18日
またタイトルとなる前の、「名人は一世に一人」の終身名人制時代の最後の名人でもある。
引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。2008年囲碁殿堂入り。
「オマ●コ」発言など、昭和の棋士らしい数々の破天荒なエピソードが有名。
棋聖 6期 (1977-82)
名人 2期 (1962・70)
天元 1期 (1975)
以前は「推しカプ欲しい」とよくわめいていたが、最近はやめた。
交流が億劫なので同CP推しの人と絡むつもりもなければ、厄介かつ固定厨なので、少しでも趣味やキャラ観が違う人の作品やツイートにはブクマやリツイートをしていない。
反応しないくせにクレクレばかり言っていると、他の人の作品を無かったことにしているような気がしたので、「推しカプ欲しい」と言うのをやめた。
本当は隅から隅まで出来る範囲で検索して読み漁っていて、その上でスルーしているんだ。
ごめんね、私へのエアリプでの感想に、自分の作品の宣伝を盛り込んでいた同CP創作者の人。
こんなこと、顰蹙ものだから堂々は言えないけれど、欲しいのは推しカプじゃなくて「公式、または自分好みの推しカプ」なんだよね。
ただの吐き出しでお気持ちです。
まず最初に、TRPGはわかるけど企画って何ぞや?という方のために一応説明をしておきます。
企画とは。
Twitterやpixivなんかで誰かの考えた世界観を面白いと思った人がそれに合わせたキャラクターを作成し、その世界の中でキャラクター同士を交流させて作品を作ったりする一次創作な遊びです。
また、管理運営がされている企画であれば、途中でイベントがおこったりして交流のきっかけがあったりします。
うちのことよそのこの間で関係を作ったりすることからいわゆる「うちよそ」といわれるものになります。
世界観や決め事に背かなければどんなキャラでも作って遊べるので、キャラデザするのが好きな人や交流したい人なんかが集まっている印象です。
で、タイトルです。
どちらも「他人の作った世界に」「キャラクターを参加させて」「物語を作る」遊びです。
でもって、最初からドラマチックなストーリーが用意されているため、世界観に合わせたキャラクターを用意すれば自動的にそのキャラクターの物語が作られます。
最初から知り合い同士であれば、二人だけで遊ぶこともできるし、他の人には居られる隙間を作ることもない。
つまり、長々と知らない人に絡まれたくない、知り合いだけで遊んで関係作りたい。そういう人はそりゃぁもうハマるわけです。
その結果、クトゥルフ神話TRPGにおけるタイマンシナリオや性癖を前面に押し出したシナリオや神格そっちのけのふたりの関係をどうにかするようなシナリオの氾濫につながったのかな、という印象。
しかもクトゥルフ神話TRPGはKPがルールブック持って説明さえできれば参加者全員が持ってなくてもオンラインでできる程度に環境が整ってます。他のシステムだとスキルとかいろいろあって難しいんですけど、一覧で最初からあるので、とても誘いやすい。……無料でできるエモクロアTRPGやりません?
なので最初は誘われて、んで自分でもKPやりたくなったりシナリオ作りたくなったり、で購入して他の人を誘って、のループ。
人口が増えるのは歓迎です。市場が広がるのは大賛成です。7版ならスターター無料なので6版じゃなくて7版やりませんか。
ただ、ね。
ただ、そうやってハマった結果、帰ってこないんですよ。企画に。
あなた何枚事前にこういう関係やろうって人と約束したキャラクターシートをためてますか?
うんうん、楽しそうに卓報告してるね。いいとおもう。で、返事する時間はないんですか?
お前がそれだけの魅力がないだけだろと言われればその通りなのですが、だいたいそういう人たちって、TRPG垢つくりました~っていって帰ってこないんですよね。
一旦ハマると延々そればっかやって語ってるし。あ、そのキャラの語り興味ないんでよそいってもらえます?
それもあって、企画に参加してまだやったことない、あんまりやってない、という方を、誘いたくない。トラブルの元なので。
もともとそれなりに遊んでいてっていう方は両立できてるからあんまり気にしない。むしろ遊んでほしい。
っておもってるんですけど、そういう人たちほど「やってみた~い」って言うんですよね。
よろしくないことを整理してみる。
○数日間ずっとイライラしている
→過去の嫌なこと思い出し&そこからさらにネガティブ妄想繰り広げてイライラするのをやめられない。
→掲示板や増田を眺めても半数以上がネガティブな情報だと分かっているのに見るのをやめられない。
→勉強内容が過去の大きなストレスと繋がっているので勉強中どうしてもイライラする。
→(解決)ツイッターの勉強アカウント界隈の人達と交流して、勉強中に考える人間関係がその人たちになるようする。
→スマホばかり見ている。
→掲示板でレスバしたらスッキリした。昨晩に引き続き今日の午前中ずっとレスバしてしまった。
→嫌な考えから逃げるようにスマホでYoutubeや掲示板を開く。
→youtubeで人の話し声を聞くのはネガティブ断ち切るのに効果的。掲示板だけやめたい。
→(解決)0よりはいい、の考えでやった方がいい。計画通りにならなくても、進捗を知るのが大切。進捗確認が重要。
○イライラした態度を姉だけの前で出す
→姉に言いたいことが山ほどあるが言えない状況なのでこうなった。
→同じことを前の職場の上司にやられて鬱になったのに、結局自分も同じことをしている。
→しかも姉は今日から本番、大事な1日目なのに目の前でイライラして怒鳴ってしまった。
→(解決)こちらから謝罪する。明日からは姉が頑張れるようにする。
○食欲がおかしい
→金が無い
→(解決)ヨーグルトと玄米ブランとドライバナナ買ってきた。これらを食べる。
→食欲が強すぎるのは気の緩みでは。忙しければ金使わない。
→欲深いから気が散るんだと思う。質素で地味な暮らしに満足したい。
・瞑想する
→イライラがおさまる。
→これもサボりがち。できるだけやった方がいい。
https://togetter.com/li/1835946
表で書くことでもないしこっちで書く
個人的にこれは当事者同士も悪いと思うしそれをおもちゃにして盛り上げた周囲や著名人も悪いと思う。
事の個人的な要約
・学校の同期が著名な会社に内定出た!すごい!を自慢したら微妙な反応された~みたいな感じ
・学生側が会話なりたってねーんだけどって言ってレスのまとめを晒した
・レスバトル勃発
どっちも悪いし双方問題があるしどちらもSNSの利用を改めてほしい
まず、ゲーム開発者であるなら相手がどう受け取るかをもうちょっと想像してほしい
長年の開発経験を経て見ず知らずの赤の他人から突然飛んでくる説教が受け入れられると思っているならそれは大きな問題。
また、その後に人格面の否定に取れる発言もしている事は大きな問題である。本人はそう思ってないかもしれないがそう受け取られた言葉はそうなってしまうので言葉には気をつけてほしい。
自身が正しいと思っている内容が正しく適切に伝わることは無い、それはゲーム開発という密接に人とコミュニケーションをとる業種である以上避けて通れないものであると筆者は経験から思っているが、ゲーム業界人側はそういったところが無いのは非常に悲しい。
(筆者と業界人側の方は過去に面識があり、交流は無いのだけど時々こういった口論的なことを起こしていた印象がある)
あと余計な情報というかところどころで自分の情報をだして意図してるかしてないかしらないけど地位的優位をちらつかせるな。意図してないなら最悪だからまじで改めてほしい。
訴訟をちらつかせるのは脅しになりうるので本当よく考えてくれ…
特に顔を出して外見から女性であると判断された場合に男性がよってくるということは度々あるし、こういった面倒もあると思うのでさっさとブロックしてほしい。
煽るような発言…と言ってもどういった言葉が煽ると捉えるかは難しいと思うけど、人は反応があるものに対して反応・行動をするので話が通じないと解釈したならブロックしてほしい。
ただ、引けない精神状態になってるかもしれないけどとにかくブロックしてほしい。
後会社は多分守ってくれると思うんだけど会社以外は多分守ってくれないし当事者以外を持ち出すと余計にこじれるので入れるにしても中立的な人を入れて合計3人でやりとりしろ。ほかの人を巻き込むな。
個人間のトラブルに過度に反応するな。この舞台をつくったのはこの二人だけではなくこの双方に部外者のくせにリプを飛ばしているお前たちだ。やめろ。有名イラストレーターもわざわざ引用RTするな。自分のRTで変な業界人に絡まれてごめんとか言ってるけど結果としてさらに注目集めてるぞ!!やめろ!!
もしこの発端として1レス目がクラスメイトがフロム内定はすごいですね!とまず肯定しつつレスの内容につないでいれば穏便な未来もあったのではないだろうか…後の祭りなので今は何を言っても仕方ないですが。
授業をどうするかについては、塾長になって以降、各学部の代表者が頻繁に集まって、徹底的に議論しました。その結果、教員が学生全員の顔を見ながら教え、場を共有することが大切だ、このままだと教育の質が落ちかねないという結論になりました。一方で、最先端のツールを使って新しい授業をすることも必要で、両方をミックスすることにしました。最終的に、この4月からの対面授業は9割とし、昨年12月24日に大学ホームページで公表しました。
慶応大「4月から対面授業9割に転換」 その理由を伊藤公平塾長に聞く(朝日新聞EduA) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/3c21c256ab97b33e7e8d7b9a944532d868a92ffc
一方で、
「2022年は、どのように授業を受けたいか」を550人に聞いたところ、「ハイブリッド授業希望」38%と「オンライン授業希望」36%が同程度で、「対面授業希望」26%が最も少ない結果となった。
ハイブリッドという特殊な授業形態が最も期待される背景には、友人と交流する、そして通学時間を短縮させることを共に叶えたいといった、大学生たちの願いが込められているのかもしれない。
また、複数人の大学生に話を聞いた結果、同じ「ハイブリッド授業」という言葉を使用していても、実際の実施形態は異なることも分かった。
オンラインと対面授業から柔軟に選べる形式、各科目でオンラインまたは対面のいずれかを実施方法とし、複数の科目を合わせて数えると体系上ハイブリッドとなる形式、そして1つの科目の中で、授業内容によってオンラインまたは対面授業を使い分ける授業形式もあるという。
大学生が受けたい授業、「ハイブリッド」38%、「オンライン」36%、「対面」26% =Dtto調べ= | ICT教育ニュース
企業の人事もそうなんだけど、バブル世代の対面幻想って何なんだろうね。大教室で何百人も集まってただ教員の話を聞くような必要はないじゃん。新人研修も、今年は「万全の対策をとって対面で」とかいうだいきぎょー、結構多いみたいよ。