2020-08-08

[] #87-1「保育園ドラキュラ

俺の通っていた保育園にはドラキュラがいる。

そのことを知らされたのは俺が保育園に来て数ヵ月後のことで、その日は何もかもが不自然だった。

保育士先生紙芝居の続きを読み聞かせると言って、俺たち園児を物置部屋へと連れていったんだ。

そこは園内の裏口近くにあり、あまり馴染みのない場所だった。

廊下からして人けがなくて暗がりだったから、みんな怖がって通らないようにしていたんだ。

「入る前に言っておきたいことがあるんだけど……この部屋の二階にはね、とっても“こわーいヒト”が眠ってるの」

先生はおどろおどろしく言った。

「そのヒトはね……青白い顔で……牙があって……人間の血が大好物なの」

勿体つけて、重苦しく、先生は“そのヒト”の断片的な特徴を紡いでいく。

ドラキュラ! ドラキュラだ!」

園児の一人が声を荒げた。

ドラキュラ……その化け物の名前らしい。

「そう、ドラキュラ! 彼は太陽の光がダメから朝は寝ている。でも、あまり騒ぎすぎると……さすがに起きちゃうかもね」

聞き慣れない情報に正直ピンとこなかったけれど、それでも俺たちは震え上がった。

とにかく恐ろしい化け物が、この物置で眠っている。

現実的で、捉えどころのない存在が身近にいるかもしれないという感覚

俺たちが怖がるには、それで十分だったんだ。

「さあ! 紙芝居アリババと350gの野菜』の続き、読んでいきますよ~」

先生意気揚々と読み始めたが、俺は終始ドラキュラ存在が気になって紙芝居どころではなかった。

結局、モルジアナが熱々の油で野菜をどうするのかは今でも分からずじまいだ。

倉庫室へは、それから紙芝居の度に足を運んだけれど、俺は何とか卒園することができた。

あの保育園には今でもドラキュラがいるのだろうか。


…………

この話をすると、兄貴は肩を震わせて笑った。

「真顔で何を話すのかと思ったら……それはズルいぞ、お前……」

俺は戸惑った。

いつもの兄貴は、あまり感情を表に出したがらない。

せいぜい口元を歪ませるくらいで、それだって手で覆い隠して見えないようにする。

そんな兄貴が憚らずに笑うのだから、よっぽどだ。

「何がそんなにおかしいんだよ」

「いや、そのつもりで話したんだろ」

「そのつもりって何だよ」

「ん?」

「は?」

やりとりが噛み合わず、少しの間、沈黙流れる

まさか……マジで言っているのか、弟よ」

さっきまでニヤついていた兄貴怪訝そうな表情に変わった。

哀れなものを見るような目で、こちらを伺ってくる。

ドラキュラがいるってのは、ガキを怖がらせて静かにさせるための作り話だろう。あの頃のお前が真に受ける分には可愛いもんだが、今のお前が言うとさすがに……可哀想になってくるぞ」

そう言われてみると、確かに信じられない話だと自分でも思う。

けれども、兄貴の言い方には向かっ腹が立った。

ドラキュラを見たこともないのに、何でウソだって決め付けるんだよ」

「見たことないから、いないって言ってるんだよ。お前だってたことないくせに何を根拠に信じてるんだ」

俺は反射的に噛み付くが、マトモな反論は何一つできなかった。

「千歩譲ってドラキュラがいるとして、それが一介の保育園で眠ってる意味が分からない。そんな場所紙芝居読み聞かせ先生メンタルどうなってんだよ」

「ぐう」

ぐうの音を出すのでやっとだった。

兄貴に理詰めで返される度、自分の首はどんどん絞まっていく。

「そこまで言うなら証明してやる! 神妙に待ってろよ!」

まらず啖呵を切って、俺は家を飛び出した。

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