はてなキーワード: フィルターとは
これ以降、「無数の本をどのようにフィルターするか?」という話を書いていく。
以上。
私も氷河期世代だったが運良く内定を3つ貰えた。更に私はこの人よりも恐らく愚かな学生だった。Fランクとまでは行かないが微妙な偏差値の私立文系で、しかもサボること遊ぶことばかり考えている典型的なバカ学生で真面目ですら無かった。おまけに就職活動も30社ぐらいしか受けなかった。しかし幸運なことに就職浪人にならずに済んだ。
まずほんとうにあるかどうか知らないが、どう考えても学歴フィルターがありそうなところは避けた。よくある失敗で、ポンコツ大学生が記念受験的に次々に有名企業にエントリしてはESで弾かれるというのがあるが、そういうことはやらなかった。ESを書くのも労力がいるし、受かる可能性が0に近いところにエントリするのは時間の無駄である。万が一、何かの間違いで書類選考を通ったとしても、筆記や1次面接で落ちる。そういう会社は既に自分よりもハイスペックな学生が沢山エントリしているのだ。レベルの違う相手との戦いを避けるのは当然である。
私は当時「事務職=オワコン」と考えていた。当時から事務職は派遣社員や外注、更に中国などへのオフショアが始まっていて、はっきり言って未来があるとは思えなかった。また、父親が某電機メーカーで総務をやって、パソコンや机や蛍光灯をロットで購入して事業所に分配するなどという仕事の話を聞いて、はっきり言ってつまらなそうだと思った。
一方で学生が嫌がる営業や販売、ITは積極的に受けた。ものを売る仕事や作る仕事はなくならないと思ったからだ。ただ文系なので作る仕事といえばITぐらいしか無かったのだが、それでも自分が作ったものが世の中に出て行くというのは非常に魅力的に感じた。
しかし外食産業や介護、運送業は受けなかった。理由は後述する。
就活が始まって最初の頃は、興味のない会社や業界の説明会にも積極的に参加し練習代わりに面接も受けていたのだが、やはり興味のない会社の説明会ほどつまらないものはなく、電車賃の無駄と感じるようになり、興味のある会社だけ受けるようになった。要は「受かったら入りたい会社」だけ受けるようにした。入りたくもない会社に入っても仕事が苦痛になるだけだし。
外食・介護・運送といえばブラック企業という言葉が一般化する前からブラック業界で有名だったが、これらも単に興味が無いから受けなかっただけである。
内定をもらった会社は、いずれのところも人事と仲良くなった。自分が入社したらもしかしたら一緒に働くかもしれない相手である。仲良くしておいたほうが得だし、逆に仲良くなれないような人が採用担当をやっている会社は何かヤバさを感じだので辞退したり、面接を適当にして落ちたりした。ただ2社に辞退の連絡をする時非常に心苦しかったが、ちゃんと話をしたら応援してくれた。まともな会社の採用担当はオワハラなどしないのである。
営業職→WEB関連に転じ、何故か人事で採用をやっている。あれだけ事務職はオワコンと思っていたのに仕事はそれなりに楽しい。しかし現場への未練もある。なんというか人生はままならないものである。ただそれでも「この人と一緒に働きたい」と思ってもらえるように努力しているつもりである。
もしお祈りメールに悩んでいる学生がいたら、あまり深く悩まないで欲しい。単にミスマッチなだけで、あなた自身に問題があるわけじゃないから。
http://www.huffingtonpost.jp/gretchen-kelly/thing-all-women-do-that-you-dont-know_b_8735974.html
読んだ。
「耳を傾けない人のためのことばがどこにもなかった」だ。
結局のところ最初から耳を傾ける素地のある人たちのためだけの言葉。
まぁそれはいい。それはもう諦めた。
問題はブコメの方だ。お前らはこんなのをいつまで繰り返す気だろうか。
そんなのはあまりに単純すぎるし、人間の多様性をそんな風に還元できるなら、もう少し人生はシンプルなはずだ。
誰かに発信しなければならない人というのは、信念を抱えた人か、過去の傷を癒せない人か、いままさに被害者としてある人間だ。
そのどれにしたって、その言葉には多くの強い主体が良くも悪くもあふれ出てきてしまうし、そういうものを歪んだり、言葉足らずだったり、狭窄しないかたちで出力出来る人は少ない。
それは個人の能力として仕方のないことだ。
でも、みんな自分のことを考えるのに手いっぱいな社会で、それらの言葉の癖をいちいち解きほぐして、本質だけに寄り添える人なんて、まずいない。
それこそ、精神や時間に余裕があるとか、それ自体を飯の種にしてるとか、あるいは個人的な信条を持っているとかじゃないと、無理だろう。
ましてや、男性的役割を請け負うことに不満を持っている層にとってみれば、その性を理由に糾弾され、「耳を傾けろ」なんてリソースを迫られたら、怒りと反感を感じるのは無理のない話だと思う。
なのに発信側のひとびとがその怒りと反感さえも否定しようとすれば、もう絶対に泥沼だ。
本当は誰しもが、基本原理として、伝え方を工夫する必要がある。
尖りすぎた意見の先端を丸めて、相対化と並列化を用いて、win-winを探って。
余裕のある人だけではなく、余裕のない人が、自らの問題と地続きで考えられるように。
例えば、性的消費のグロテスクさが男性固有のものだと言われることに不快感があるひとは少なくない。
仮に性的優位が逆転した社会が来て、そこで女性が男性を性的に消費して、同様な問題が立ち上がるだろうと、その人は思うかもしれない。
それが嘘か本当か極論かはおいたとしても、その仮定を考慮して、言い訳することはできるはずだ。
「仮に、女性がグロテスクに他者を性的に消費したり、男性がグロテスクに性的消費されようとするケースも、私はどうにかしたい」と。
社会はたくさんの言い訳で成りたっている。言い訳をたくさん重ねることで、誰しもの願いを僅かずつ叶えようとする。
でも、さっきも言った通り、発信者が歪みをみずから相対化して、万人に届くアプローチを心がけなければならないというのも、難しい。
能力と視野に限界のある個人に、それを義務づけるのも、また不合理なことだ。
じゃあ誰がそれを考えなければならないか。
消去法だけど、それは発信者に寄り添おうと思った人間しかいない。
「余裕があるか、飯の種にするか、個人的な信条のある人」たちに。
外側の人として発信者の声を受け止めるだけではなく、内側の人として発信者の声を擁護だけでもなく。
立ち止まって、咀嚼して、双方の立場を考えて、辺りをしっかり見渡して。
外側に向かう声そのものにフィルターを通して、きちんと届く言葉に置き換える、優れた翻訳者としての役割を、私たちが担えばいいのだ。
一番の誠実さを払えるのも、払う必要があるのも、「余裕があるか、飯の種にするか、信条を持った」私たちなのだから。
良さそうな意見はブクマして、ことあるごとにそのURLを持ち出す。
伝え方の工夫を、発信者だけに任せない人の数だけ、耳を傾ける人は増える。
もう何十年も、耳を傾けられない人たちに対して、私たちはあまりに鈍感で、傲慢で、怠慢だった。
だけどもう、こんな繰り返しは、そろそろやめなきゃいけないはずだ。
仕事が一段落ついて、まとまった時間が取れたので、表題のアニメを見ました。
端的に感想を言えば、馬鹿だなあ、ほんと馬鹿だなあということです。絶対に人と一緒に見たくないアニメだね。頭を空っぽにして、美少女の叫ぶ下ネタにひたすらニヤニヤしていればいいという感じです。アニメはどこまで低俗になれるのか、という問いに真摯に答えようとした見応えのある作品です。ただし、無意味にセクシーなシーンをブチこむというよりは、露骨なシーンと一捻りあるシーンが混在して、そこが独特のノリのよさを醸し出していると思う。
作品全体を包み込む雰囲気の良さは、例えるなら男子校のそれだと思う。男子校は下ネタの楽園である。そして男子高校性は密かに権力への反抗心を心中に貯めている。そんな感じがする
主人公は、活動的な美少女に巻き込まれ、ヤレヤレといった感じで騒動に巻き込まれていくというパターンのストーリーになっている。下ネタというフィルターを取っ払ってみると、凄くテンプレっぽい感じがするね。でも、主人公たちの活動のゴールがいまいちはっきりしないので、物語りに終わりがあるのか?という印象を受ける。もしかしたら、原作は状況次第でいくらでも引き延ばしができるように目的指向なストーリーを避けているのかも。
原作は未完らしい。ラノベアニメの目的は「原作ラノベの販促」にあるなんていわれていますが、この作品は本当にその目的を果たせていると思います。思わず、原作は、続きはどうなるのかと気になってしまいます。しかし、テンポ良く、アホみたいに下ネタを叫ぶ爽快さは文章による想像ではなくビジュアルと音声を伴ったアニメでこそ活きるシーンだとおもう。
軽快な下ネタの連呼に、会社で疲れた心に少しだけ癒しを感じた。そんな晩秋の夜であった。
お気に入りは黒髪ロングの白タイツで主人公に電気あんまを喰らったアンドロイド風紀委員です。これはヤバイね、マジで。
丁度、コノアニメを見ている途中で死去のニュースに触れたのでとても複雑な気分だった。アンナ会長の声を当てている人は、もうこの世にいないんだなとおもうと、ギャグも笑えないなあとおもいつつ、でも最後には死ぬ間際まで役者を貫く、それも下ネタをバンバン言っていくというのは凄いことだなと思った。
(不思議なのは荒れる成人式と同じ構図なのに扱いがぜんぜん違う)
みんないい子だから夜のうちに自主的にゴミを掃除夜のうちにピカピカな渋谷になりましたとさ
(翌朝に残ったゴミやそれを片付けたボランティアや地元商店会の人はこの設定上都合が悪いから存在しない)
マスコミ見てるとこんな設定で羽目を外すけどゴミはきっちり片付けた美談として報道するからなんとも言えん気持ちになった
ただ最後に面白かったのは翌朝ゴミを片付けて売名しようとしたキングコングの西野に関しては
このマスコミの設定上翌朝ゴミ掃除された事実は設定に反するから各メディアほぼスルーw
ここに関しては笑ってしまったw
マンガという形式だと、作者個人の主観的なフィルターがかかって表現されてしまうので
そこに描かれている「対話」が本物の対話かどうか読者には判別つかないんですよね
作者が「これはすべて実話でドキュメンタリー」と言うのならそれを信じるしかないけれど
そこに描かれているものは絵だから、いくらでも操作できてしまう
ここが難しいんですよ
作者がどれだけ事実に対して誠実で公平な描き方ができるか
その信頼がないと、ネタにされている人たちが心配になってしまう
ちょっと他の人の批判とはずれているかもしれないけど、自分が見ていて心配になったのはそこです
確かに、それは他人の勝手な心配なんだろうな、と思ったのでは批判はしませんでしたが
そこが引っかかると、手放しで「面白い」と褒められるような作品でもなかったです
ヒモザイルに否定的だった人の意見を見ていたら、西原理恵子、小林よしのり、中国嫁日記にも否定的らしい人が見受けられたので
内容の是非(あの企画が成功するか否か)よりも、実在の知人をネタにしたり、
作者自身がキャラクター化して説教したりする作品が好きではない人たちの目にも届いてしまったことも
批判が大きくなった一因かなと思いました
いや独身のときもモテるほうだったけど、人妻フィルターがかかれば大抵の男は引くようなるだろうと思ってた。安易にお持ち帰りできないし。
つい先日も仕事を手伝ってくれと頼まれている人と飲んでいたら、終電を過ぎたころになって相手の目の色が変わった。
酔っているせいもあったろうけど、色っぽいだの可愛いだのうるさい。
そのとき私はまた反省した。なんで終電までに帰らなくっちゃと言わなかったんだろうと。
浴衣姿で踊るアイドルのPVが頭に流れる。「あなたが思うほど純な女じゃない」
このままノリでホテルいってさっさとすることしちゃえば楽なのにと思った。
でも結局ふりきってタクシーに乗り込んだ。男なんてみんなバカな単細胞だ。
腰ふっただけで自尊心が満たされるなんて楽でいいよね。物理的に受け入れられたに過ぎないのに。
キャバクラや風俗で働く女の子たちが受け取るお金は、この男のバカに笑顔で優しく付き合っている報いだ。
安すぎるくらいの代償。女はみんな受け入れなければいけない自分の宿命と複雑に葛藤しながら生きている。
かわいい声でアイドルは歌う。「もっと好きになったら切ないじゃない。GOOD BYE 夏男」
出会い系というと迷惑メールや犯罪のイメージがあったし、ブスしかいないと思ってスルーしていたんだけど、最近は出会い系サイトを利用する女性も増えているらしい。そして「Pairs」というサイトにはまあまあの女が揃っていると聞いたので、8月頃から2ヶ月ほど遊んでみた。実際それほど悪くない。2ヶ月間みっちり頑張ったら戦果も得られた。長いけど、ここに記録とSEXに持って行くまでのポイントを書いてみようと思う。嫉妬系のコメントがくるだろうけど、そのまま実録だから真面目に読めば情報としての価値はあるかと思う。
30代前半、177cm、筋肉質、顔は下の上くらい。どちらかと言うとゴリラ顔。趣味は女遊び。
初回:ディナー
初回:カフェ→ディナー
相手にペースを握られ、進展なし。
2回目:ディナー→シティホテル
初回:ディナー→路上キス
2回目:ディナー→女の家
初回:ディナー→路上で手をつなぐ
2回目:ディナー→ラブホテル
初回:ディナー→女の家
初回:ディナー
初回:ディナー→シティホテル
初回:ディナー→女の家に泊まるが、キスと乳揉みしかさせてもらえず
2回目:神社巡り→ディナー→シティホテル(彼氏じゃないという理由でやっぱり乳揉みが限界)
以降、徐々に連絡を無視
初回:ディナー→ラブホテル
初回:ディナー
初回:ディナー→バー→ラブホテル
初回:ランチ
2回目:ディナー→路上で手をつなぐ
以降、徐々に連絡を無視
品質、時間、コストを考えるとナンパに叶うものはない。そこまで追求しないなら出会い系でも十分。少なくともキャバクラより遥かに効率がいい。という調査結果です。
★少し前に翻訳調の女言葉は女性差別、って話がホッテントってたみたいね。
でも私としてはそっちよりもタイトルの繰り返しになっちゃうけど、むしろ女性言葉の消失過程を知りたいわ。
と思ってちょっとググったら文献あるのね。
★10年程前の調査だけど、30代前半より若いと概ね女言葉を話さない、らしいわね。
TVドラマでは登場人物の年齢によらず女言葉が多用されている、そうだけど今でもそうなの?
★こちらでは翻訳調の女言葉とは反対に、日本語の小説を英訳すると男女の口調の区別が喪失されることを指摘してるわ。
★先の文献に「アニメやマンガでは、女言葉は子供でも強調され使用される傾向があり」との指摘があるわね。
女児向けアニメに特に顕著じゃないかしら。これと娘に乱暴な言葉遣いさせたくない母親の教育が合わさると
今の時代でも女言葉を話す女児が出来上がると思うの。でも同年代の女児とコミュニケーションするうちに
「そんな言葉遣いは変だよ」と言われて、結局は女言葉を話さなくなっちゃうんじゃないかしら?
★音声を伴う映画やドラマやアニメより漫画が、画像情報を伴う漫画より小説が、登場人物の書き分けに便利な記号として
★同じ漫画でも当の若い女性が読む少女漫画や女性向け漫画と、女性との接触が少ないであろう男性が読む萌え系漫画やエロ漫画では
現実の若い女性の話言葉の登場人物への反映、女言葉の廃れ具合が違ってくる気がするわ。
先の文献に「男性は女言葉を好ましいものと捉えている」とあったから、現実をの違いをわかったうえで敢えて登場人物に
★とは言え、女性が男性に責められてるシーンで「堪忍してぇ」とか言い出したら流石に萎えちゃうと思うの。
そこは「ダメ、許してぇ」ぐらいにしないと。語尾の「かしら」もドラえもんを想起させて萎え要素ね。
★最後に、女言葉が消失した言葉遣いを取り入れたエロ漫画で印象的だった作品をあげておくわ。
土居坂崎「壁越しに見てるだけ」 コミックメガストア 2006年9月号 - コアマガジン
もう9年前の作品になるのね。
基本情報とかだけじゃなくて、JavaとかPHPとか、各DBあたりのベンダー試験なんかも。
むしろJavaの試験に受かってないとコーディングできないとか、ナントカ試験もってないとSE業務できないとか、徹底してほしいわ。
あんなもんじゃ実力がわからないって言うけど、ソフトウエア開発の現場って、どう見ても水準に達してないのに経歴が長いってだけで技術力があるってことになってる連中が多すぎ。
こいつJavaの入門書レベルも読んだことないだろって感じのやつがコーディングルールを決めてたり、VB6の時代で知識止まってるオッサンがC#やらVB.NETのコードレビューやってたり。
認定試験受かってたら、最低限、そういう連中はフィルターに掛けられるしな。
単純にダメな奴には開発をやらせなければいいんだけど、そのダメかどうかを判定する立場に経歴が長いってだけのダメな連中がついてるから、まともな選別とか無理だわ。
「心が叫びたがっているんだ」を観てきた。てっきり平凡な青春ものの作品だと思っていたら大間違い。一筋縄でいかない緻密な描写に裏付けられたとんでもない傑作だった。
この作品の凄みについて説明するには、素直な鑑賞方法の「青春ラブストーリー」としての軸と、「核家族ホラー」としての軸の二つの面から読み解いていく必要がある。
核心はもちろん「核家族ホラー」にあるのだけれど、まずは「青春ラブストーリー」としての軸から順を追って解説したいと思う。当然ながら以下の文章は物語の核心に触れるものなので、未視聴の方は注意していただきたい。
個人的にはネタバレのために面白くなくなる類いの作品ではないと思っているものの、まっさらな気持ちで作品と向き合うチャンスはとても貴重なものだと思う。
まずこの物語は、地元の神様的存在から呪いを受け、声を失った主人公(成瀬 順)というちょっとしたファンタジーから始まる。
最終的にはこれは本人の妄想に過ぎないということが解き明かされるのだけれど、どちらにせよほぼ全くしゃべることができないという現実には少し考えにくい境遇の人物を軸に物語が回る。
ある日学校の交流会、有り体に言えば文化祭的なイベントの実行委員に担当教官から強引に主人公が抜擢される。
抜擢されたのは合計4人で、実行委員になったのは主人公に加え坂上 拓実、仁藤 菜月、田崎 大樹の3名だ。
いろいろあって主人公たっての希望により、交流会の出し物をミュージカルとし、紆余曲折ありながらも4人力を合わせて交流会を成功に導く。というのが大まかなあらすじになる。
ラブストーリーとしては、成瀬は坂上に思いをよせるものの、中学の頃から相思相愛の仁藤という存在があったため、成瀬の恋は片思いに終わり、最終的には実は成瀬に思いを寄せていたダークホースの田崎が彼女に告白する。というところで終演した。
ここでひとつ初見で思いがちなのは、「田崎の告白がとってつけたもののように感じる」ということ。片方がくっついた一方で余りの二人がくっつくという、平和にラブストーリーを決着させるありきたりな手法に思えるし、実際そうなのだけれど、田崎の告白自体はしっかりと序盤から布石がちりばめられていた。
田崎はかつて平凡なチームの一つに過ぎなかった野球部に「甲子園を狙えるかも知れない」と夢を抱かせるほどのスーパーエースだったが、腕の負傷により選手生命を絶たれた男だ。性格は運動部らしくまっすぐ筋を通すことをよしとするスポ根の思想を持っている。
その田崎と引きこもり一歩手前の成瀬というカップリングは奇妙ではある。しかし物語でのファーストコンタクトの時点から、彼女は彼の心を動かし続けていた。
まず田崎が実行委員参加に消極的な当時、交流会の出し物を決める学級会議で成瀬をひどく侮辱するシーン。
このとき田崎は完全に成瀬を見下しており、くだらない存在と思っていた。しかし、そこで突然成瀬は歌い出し、彼女がミュージカルをやる実力があることを証明してしまったのだ。
このあと、田崎は珍しく部活動の参加をせず帰路につく。
彼女を侮辱したとき、同時に田崎は坂上から侮辱をうけており、それが原因にも思えるが、結末から逆算すればここはそうではなく、成瀬の行動に胸を打たれてのことであったのだと考える。
ひどい侮辱を受けても胸を張り、自分の実力でそれをはねのけてみせる。
前述の通り、スポ根の田崎にとって、これほど評価に値する行動はないのではないだろうか。自分が見下していて、それも真っ向から侮辱した相手にそれを見せつけられたとき、田崎は今の自分自身の姿と初めて直面したのだ。「あんな立派な彼女に対して、今の自分の情けなさはなんだ?」といったところだろう。
この後の下校シーンで田崎が仁藤を誘うというシーンが挿入されるため少し混乱するが、これはおそらく「チア部部長と野球部エースがつきあうという伝統」と、仁藤が女性的に魅力があったからという単純な理由による、破れかぶれの軽口だったと考えている。田崎は最初から仁藤については恋愛感情は抱いていない。演技や描写的にも、私には一番腑に落ちる解釈だ。
次にファミリーレストランで会合中、田崎が野球部の後輩と居合わせて喧嘩になるシーン。
ここまで説明すれば明白だが、このとき田崎は成瀬に助けられてしまう。成瀬は「いなくなれ」と侮辱された田崎を必死で庇う。言葉を発するとひどい腹痛にみまわれるというハンデキャップを負っているにもかかわらずである。(実際成瀬はこのために病院に運び込まれることになった)
ここで田崎の恋心は確定したといっていい。
またも彼女は田崎の最も評価する行動を取り、かつそれは自分を庇うための行動であったということ。尊敬に値し、同時に自分を気遣ってくれる存在。もはや恋に落ちるには十分すぎる条件ではないだろうか。
その後田崎は実行委員に積極的に参加するようになった。そこで野球部外の生徒との交流を通して、野球以外の世界、自分のかつて見えていなかった部外の生徒の特技や良いところにふれることで、次第に心を開いていくことになる。
ある日、実行委員の活動から帰路につくとき、成瀬と田崎が二人きりになることがあった。そこで田崎は彼女に今までの無礼を詫び、野球以外の世界を教えてくれた成瀬に礼を言う。ここでついに告白でもするのではないかとハラハラしていたが、それはラストシーンまでお預けとなる。
ところで、「ここさけ」のメインストーリーとして、片思いに終わるものの成瀬の坂上に対する片思いは結果的に彼女と世界を隔てる卵の殻を破り、彼を失う代わりに新しい世界へ足を踏み出すというものがある。
その第一歩が田崎の告白に他ならないのだが、その田崎自身も、野球という卵の殻に閉じこもっていたと考えることができないだろうか。
坂上は終盤直前まで主人公同然の露出率で、意図的に組まれたミスリード的存在であったが、実は恋愛ものとしては同じテーマを抱えた田崎×成瀬こそ主軸のカップリングであったと言えると思う。
その証左として、終盤の「あこがれのお城」での坂上と成瀬のシーン。
成瀬がため込んだ思いを自分の声ですべて坂上にぶつけるあのシーンで、坂上は誠実に聞きに徹する。とても凝った演出で純粋に感動的なシーンではあるのだけれど、私は別の意味でもひどく感動を覚えた。
成瀬の言葉を一つ一つ受け取っていくたび、坂上の存在がだんだんと小さくなっていくように感じたのだ。それまではまるで主人公のように振る舞っていた彼だが、すべてのやりとりを追えた後にはその影はまったく消え失せている。ミスリードの主人公として、成瀬の思い人としての役目を終える瞬間だった。最後に残ったのはただのモブ同然の男子生徒。その後のミュージカルのシーンでは王子という準主役の役目を演じるにもかかわらず、抜きで映し出されているのは成瀬で坂上は声しか聞こえない始末だった。これではDTM研のふとっちょ以下ともいえるだろう。
女性は終わった恋に対して淡泊と言うが、その心理を如実に表しているようにも感じる。ニセの主人公だったのにもかかわらず、ここまで主役のように劇中でふるまってきたのは、恋をしている成瀬のフィルター越しの演出だったのではないかとも解釈できる。
さて、青春ラブストーリーとしての他のカップリングについては、劇中で直接的描写がされているため省く。
次に「核家族ホラー」としての「ここさけ」を解説したいと思うが、その前に一つ念頭に置いておいてほしいシーンがある。それは先述にもあったが、「あこがれのお城」でのシーンだ。
成瀬は坂上に泣きながら言葉をぶつけていた。失恋の結果だし、この感情表現に対してまったく違和感はない。
しかしそれを受けての坂上の涙。これはどうだろうか。
「思ったことを言葉にする成瀬の姿に感動した」というような事を言っていたし、その言葉に偽りはないとは思う。しかし、その説明ではあの涙の十分な説明にはなっていないのではないか?と疑問に思った。ある意味で事実に沿ってはいるだろうものの、本質をかすめてはぐらかされたような気持ちになった。
しかしこの疑問は、成瀬と坂上、二人の家庭環境について読み解いていくことで明らかになる。
以下につづく
今また新しいところに行きたいと思う気持ちと、結局どこに行っても変わらないという諦観との間でゆれている。
地元はどんどん窮屈になっていった。
ここを出たいと思った。
そうすることができるような進路、仕事を選んだ。
この間この地域では一番高い山に登った。
山小屋、というよりも土産屋と飯屋とガイドの待機所、のようなところで、そのオーナーから色々話を聞いた。
その山の歴史、どうしてこういう名前になったのか、伝説のようなウソのような言い伝え、これからの天気がどうかわるか・・・きっと話にはよどみなく、分からない言葉も沢山あったが、彼の身振り手振りと顔の表情で話の内容がそのまま頭に伝わってくるような、そんな洗練された、名人の落語のような話術だった。
天気の回復を待って山をみている独り者の旅行者を捕まえては、毎日のように話をしているのだろう。
「最高の女がいるのに、浮気したら取られちまうかもしれないだろ。それと同じだ」
面白がって聞いてくれたので、自分の旅行の話もしたが、オーナー自身は旅行しないのかと聞いたら、そう答えてくれた。
「表情も毎日違う。来る人も違うし、その人たちが来た理由も、お前さんがしてくれたような昔話も全部違う。毎日が新しいし、ここにいれば世界中のことが分かる」
そんな山を探したいと思っていたはずなのに、自分には見つかっていない。
なぜだろう。
違った世界を見たいのに、結局同じものを多少エフェクトの違うフィルターを通して見ていただけだった気がする。
人と関わるのが苦手だ。
人と話すのは好きだし、調子が良ければちゃんと笑いだって取れる。自分のことを話すのは苦手だが、聞き上手と言われることはたまにある。
たまに同じような人の話を聞くが、コミュニティ内の人の前ではキョドってしまうが、赤の他人の前ではあたかも社交的な人のように振る舞えることがある、というタイプのコミュ障だ。
他人が怖いんじゃんくて、自分がどう見られているのかが気になってしょうがないのだ。自分に自信が無いから。
()
でもそんな自分の自意識過剰さを正当化して生きてきた。社会的な価値観をそのまま受け入れるんじゃなくて、どこまでも疑って、言ってしまえば捻くれた考えを作り上げてく。
自我が強ければ強いほど他人とは違う自分になれる気がした。所謂リア充の話は、世俗的すぎてシンプルでつまらない。
僕が天才ならそのままでもよかったかもしれない。でもどこまでも凡人で他人の評価から逃げられない自分は何も作れなかった。
()
最近思うのは、人は動物でしか無いということだ。ただ欲望を満たすだけ。
何をしても満たされずに心に穴が開いているように感じるのは、行動の規範を与えてくれる宗教的なものが無いからだと少し前までは思っていた。だから不安を覚えてしまう。
でも多分違っていて、人間は常に欠落感があって、それを起動力に穴を埋め続ける。三大欲求も承認欲求も。利他的な行為は他人の穴を埋めてるだけだ。
そう考えれば人間だって動物となんら変わらない。彼らも承認欲求があるは知らないけど、利他的な行為はするものね。
理屈をこねるというのもそうした欲望の一つに過ぎないと思う。例えば、オタクは女に相手にされないから、女を叩いて満たされない欲望を回収する。
どう頑張ってもモテない人はいるから、そういう人にミソジニー辞めろっていうのも酷な話だけれど、やっぱり気持ち悪い。イケメンになっても同じ貞操観念を持ってる自信があるものだけまーん(笑)とか言ってほしい。
自分の自意識がこういうオタクの正当化と同じ機能を果たしてることはわかっていたけど、それを越えた正しさを信じて生きてきた。でも、もう信じられない。
()
人からの評価が過剰に気になるというのも一つ大きな問題点だが、理屈っぽいというのももう一つの問題点な気がする。
何をするにしても言葉で考えてしまう。美味しいものを食べても、料理の蘊蓄のほうが気になるし、映画そのものよりも批評が読みたくなる。社会的意義とか意味を考えてしまって全てが取るに足らないくだらないものに感じられてしまう。好きだったものも色あせて、何も好きじゃ無くなっていく。
自分の友達も大抵、理屈っぽいがだいたい不幸せそうだ(自分の友達が理屈っぽくて不幸せそうな人ばっかりってだけかもね)。世界を言語で分節することなく、ありのままそのまま感じたい。
()
これからどうやって生きて行こう。幸い、いいとこに内定もらえそうなので食べては行けそうだけど、今の状態で働き続けられるんだろうか。卒表間際に何もわからなくなってしまった。
考えすぎてしまう性格も今更変わる気がしない。ここ十年くらいは何かに集中することができなくて常に上の空だ。世界をフィルターを通してみている気分。
そもそも理屈をこねてしまう自分を変えようと理屈をこねるというのが根本的に間違っている気がする。
()
と、とりとめもない長文をすみません。意見やら、参考になる本とか教えてもらえると嬉しいです。
読んでくれてありがとう。