ヒモザイルの休載が決まったそう。残念、わりと楽しみにしてたのと、これを機会に一組二組のカップルが生まれればわりといいことだなと思っていたので。
よく言われていることではあるけど、あの漫画に関して男性はわりと寛容で、女性は厳しい人が多い印象。当方も男性であり寛容派。
正直あの漫画に特に悪意は感じなかった。そりゃ漫画を面白くするために面白可笑しい表現もあっただろうけど、具体的にどれが問題なのかもよくわからない。
最初の、主婦(だったか?)がまずかったのか? しかしああいう人が世の中にいるのは事実だし、それを描くのが悪いというのはよくわからない。(漫画の良し悪しと登場人物の良し悪しを混同してはいまいか?)描き方が悪かったのか? 漫画の中で主人公が納得してしまったことが? しかしこの先ずっとアシスタントではまずいことも確かだし、アシスタントも企画が成功すれば幸福になれるような種類の目標を持っているようだった。
思うに、あの漫画を叩いていた人は作者より「更に」お節介なのだ。
あの漫画の作者への批判は「勝手にアシスタントの幸せを決めるな!」というのがあったような気がするけど、それは叩いてるあなたにも決められないことだ。
そして叩いてる人にそれはできないし、作者にはそれができる(作中でもやっていた)
皮肉なことに、他人の不幸を決めつけて結果的に不幸を呼び寄せたのは(幸福への道をくじいたのは)叩いた側だった。
「あんなふうになったらどうしよう」
そう、それだ。あの作品への叩きは「あんなふうになったらどうしよう」だった。
勝手にアシスタントたちの境遇を「不幸」と決めつけ、そこに「問題」があると決めつけ、対話なしに、ただ自分自身の「不愉快」や「怒り」を根拠にぽろっと出てしまった言葉。
主婦の「あんなふうになったらどうしよう」は結果としてアシスタントを幸せに導こうとする「対話込みの」企画を駆動した。
野次馬の「あんなふうになったらどうしよう」は「対話なしに」「対話込みの」企画を停止した。
この差は何か?
単純に、「対話」をどの程度重要視するか、どの程度重要視する人物が周囲にいて、その人の行動をどのように促したか、だ。
思うに批判するにせよ、叩く側がやるべきは連載を(すなわち企画を)止めることではなく、より詳細な対話を促し「不幸なすれ違い」を無くすことではなかったか。
いまとなっては、遅いが。
■追記
コメント欄にも真っ先にこういう反応が……。
>自分がマンガを面白く読むためなら漫画家アシスタントのブラック作業環境はどうでもいい派か。
「あんなふうになったらどうしよう」と、やはり同じ、ということだ。
マンガという形式だと、作者個人の主観的なフィルターがかかって表現されてしまうので そこに描かれている「対話」が本物の対話かどうか読者には判別つかないんですよね 作者が「こ...
そういう感想はわりとまともだと思うんですよ。そういう心配があるのは納得できますし。 ただその心配が「きっとこうに違いない」「きっとアシスタントは不幸に違いない」となって...
お節介すぎるよなあ周囲 ブラック企業になぞらえるけど、パワハラ相談室だって本人からの訴えが無きゃ動かねえよ んで以下は俺の感想なんだけど デビュー出来ない見込み無いダメ男...
タイトルが悪かったとしか思えないです。 「専業主夫という名の ヒモ を育成しようぜ。」 という意味に受け取られた挙句、 専業主婦を ヒモ 呼ばわりするとは何様のつもりじゃ...