はてなキーワード: 逆撫とは
「そうやな」
「本来、想定されているであろう食べ方を尊重しようとは思わないのか?」
「好きに食べさせてや~」
「へえ、それじゃあ、いただきます」
「なんで」
「なんで、ってそれが想定されている食べ方やからやろ」
「……お前、個人の価値観なあなあにしとこうっていう思いやりはないんかい」
「好きに食べさせてや~」
「逆撫でトッピングしてくる!? はいはい分かった、分かった、今度からは可能な限り想定された食べ方するから」
「そういう柔軟なところ、良い事だと思うよ」
「混ぜなかったのはお前に思い知らせるための行動であって、混ぜて食べることを想定しているなら混ぜて食べるよ」
小学生の頃は他人に罵詈雑言やワガママをぶつけながらその自覚がなく、当たり前のように孤立していた。
中学時代にこの言動でトラブルを起こしてからは一転して徹底的にいい人を演じるようになった。高校生のときは自分から頼まれてもいないクラスの仕事をどんどんやって、聖人扱いされた。だけど受験前に心の余裕がなくなっていった。偏差値が上がらなくて泣いているクラスメイトに余計な言葉をかけて神経を逆撫でしてしまったこともあった。化けの皮が剥がれて、卒業するときは周りの人から話しかけられることも少なくなっていた。
大学に入るときにはリセットしようと思って焦りすぎた。空回って周りと打ち解けられず、気づけばみんな仲の良い友達を見つけていた。周りが談笑しているときには何が面白いのかわからない。サークルの新歓でも私が喋ると空気が冷える。高校生のときよりずっと寂しいけど、もう取り返しがつかない。誰とも会話がかみ合わない。まともな人間関係が成り立たないのだ。
幸いなことに、長期休みごとに遊びに行くような友達は片手の数ほどだがいる。けれど、その人達にはもっと楽しく笑って遊べる別の友達がいて、私はお情けで一緒にいてもらっているだけな気がする。その友達が悩みを私に話すことがなく、息のあった会話もできないのは、私が自分のことで精一杯で人の悩みを聞いたり、その人の1番いってほしいことを言えるような人間ではないからだ。自覚はある。でも、どうすれば他人が気持ちよくなれるのか、私にはどうしてもわからない。頭でわかっていても実行はできない。
そして、私も遠慮と不信感が重なって本当の悩みは言えないし自分は出せない。心を開いていないことを悟らせないように、口から次から次へと薄っぺらくてつまらなくてひどい言葉が湧いてきて、止めることも誤魔化すことも下手だ。そのうちに話すことに疲れて、相手にも興味が持てなくなる。そのことを相手もわかっているから、お互いに心の扉は閉じたままだ。
もう20歳になるが、心から笑って話せるのは家族だけだ。精神的に疲れたときに甘える相手は母親しかいない。それ以外の人だと、相手の許容範囲がわからずに疲れさせてしまうから。
周りの同級生は、やすやすと人と打ち解け、スケジュール帳をびっしり埋めて、楽しく生きているように見える。彼らにも彼らなりの悩みはあるはずだ。でも、私はそこにすら到達できない。いたずらにだした話題を面白いと思っているのかつまらないと思っているのかわからない。相手の話題に素直なリアクションがとれない。何もかも壊れたあとで気づく。
こんな私でも中学のときよりはマシだと思う。結果が残せたとは言いづらいけど、それでもあのとき変われたのだから、とも思う。けれど、20年も続いてきた自分本位な考え方を変えたり、あるいは誰かに依存せずに済むように自分の足で立つことが、果たして社会に出るまでにできるのだろうか。
要領は悪かったけど勉強だけはできたから、そのことで自尊心を保っていたけど、大学に入った今、私より頭のいい人が星の数ほどいることぐらいはわかっている。それなのに自分の知識を無意識のうちにひけらかしてしまうこともある。技術も社交性もない私に一体なんの価値があるのだろう。頭でっかちで半端な知識を撒き散らす壊れたスピーカーだ。
幸か不幸かギリギリのところでレールからは降りずに生きているけど、そろそろ限界が見えてくる。いつまでも親に甘えて頼り切ってしまったら、いつか親が私を支えられなくなったときに共倒れだ。そのときに親を支えられるような人間になれるだろうか。そして辛いときに支えになる人を、大人の世界で私は見つけられるだろうか。そしてその人が倒れそうなときにも支えられるようになれるだろうか。その人を笑わせたい、悲しませたくないと素直に思えて、そのために心を尽くせる人はできるだろうか。
今すぐにでも動かなきゃいけないはずなのに、エラーしてでもトライしなければならないのに、さもなければもっと知識や技術をつけて強くならなければならないのに、そのどれも私はできずにいる。永遠に家で何もせず暮らせていけるものだと心のどこかで信じている。そんなことはないのに。
一体私という存在にどんな意味があるのだろう。ネットの海で痛みをごまかそうとしたけど、無数の「ふつうのひと」の言葉がますます無力感や自己否定を招くだけだった。こうしている間にも夜が明けて、私はまた1日を無駄にする。足踏みを繰り返す。頭だけが空回ってオーバーヒートする。なんの解決にもならないパニックを起こす。
頭で考えたことを実行するのがいつからこんなに下手になったのだろうか。
このまま消えてしまいたいけど、それも勇気がなくてできない。こんなの20歳の悩みじゃない。真面目なせいで単位は揃っているから、順調に大人の世界が近づいてくる。
(ブログを書くと文章力上がってプログラミングうまくなるって聞いたから)
最近不眠だったり、会社から帰ってきてすぐに寝てしまい夜中に目が覚めてそのまま朝に~ってことが多かったのだけど、ゆうべは久しぶりにいい時間に眠りにつけた。(と言っても結局入眠したのは2時頃)
たぶん一昨日眠れなくて貫徹したからだと思うけど。
とにかく本当に体調が良くない。今日も11時半ぐらいに出勤。道中、ずっと吐きそうだった。お昼ごはんも本当は何も喉を通りそうになかったけど、無理やりパックゼリーを流し込んだ。上司はいつも「無理すんなよ」と優しく言ってくれるものだけど、自分自身は罪悪感でいっぱい。ちなみに、前期休みすぎて今期分の有給を支給してもらえていないので、休めば休むだけ給料が減る。今月の給料は(1万円の通勤手当を含めて)5桁だった。多分来月もそれぐらいになるだろう。
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10/1のイベント合わせで友人と共同作業していた原稿がゆうべ11時頃にやっと入稿できた。当初、締切を9/18と取り決めていたのだけど、自分が早々に原稿を仕上げておいただけに、まさか約1週間も遅らされるなんて思いもしなかった…。
「8日間仕上げ」と書いてあったのでまだ間に合うだろう…と思っていたが、同人印刷所によくある「イベント合わせ締切」のページ。それを見たら9/21AMだったんだって。笑っちゃう。元々の9/18締切を遵守できていたら、入稿用データへの変換込みでも余裕で間に合っただろうに。でもきっと、あそこの印刷所は優しいから指定納入日に間に合わせてくれる。以前自分が営業事務をしていたときに、顧客要望の規格外の納期に困らされていたことが幾度となくあったので、それをよもや自分(たち)がやってしまうなんて、胸が痛む。「短納期で申し訳ございませんが宜しくお願いします」なんて謝罪文を入れても、業者の窓口担当者の神経を逆撫でするだけなんで、何も書かなかった。
イベント当日に向けて、まだまだやらなくてはいけないことが山積みだ。他に作るグッズは缶バッジ2種、缶バッジ型のボトルオープナー、ポストカード、ダイカットステッカー、トートバッグ、フリーペーパー。あとそれから、展示ブースを飾り付けるためのポスターを何枚か。
人の心配ばっかりしてしまう。ただでさえカレンダーの納期を1週間も遅らされたんだ。上に書いたグッズ類の原稿データは、まだ友人はほとんど完成していないだろう。特に気をつけなくてはいけないのが缶バッジ系のグッズとトートバッグだ。
缶バッジはこれも印刷所への発注が必要で、納期が4~5日かかる。友人は上記のものに付け加えて缶バッジミラーも1種類作りたいという。ぶっちゃけ57mmサイズの350dpiなので原稿サイズはそんなに大きくなく、作成は困難ではないと思うけど… 日曜までには入稿するから間に合わせてくれ、と連絡し、自分は3種中の2種ゆうべのうちに終わらせておいた。今日帰宅したら残りの1種も完成させ、他のグッズ原稿に取り掛かるつもりだ。
それから、トートバッグ。友人の希望で合作イラストにしたいという。これは業者への発注ではなく、自分達で無地のトートを購入してアイロンで転写する方法で製作するのだが、材料が何も用意できてない。原稿イラストも、合作するならするで個人で作るものよりも早めの話し合いが必要だと思う。今日まで全く話題に出していないけど……。
それ以外でも、各自家で印刷できるとはいえど結局それぞれ原稿データを作成しなくてはいけない。果たしてこんな物量が当日までに間に合うのか?
最悪、間に合いそうに無ければ自分が手伝うと声もかけてあるし、助けることも出来るが、なにせ自身の状況(忙しいとか、体調がどうとか)を話してくれないし、どこかで言及しているわけでもないので、手の差し伸べようがない。
昨日も似たようなことをしたけど、こうして現状を書き出してみると改めて危機感を持てるので、相方のケツ叩きもできるし自分の筆も乗ってくる。相方から見えない場所ではあるけど、毎日進捗をまとめてみようか。
2日に渡るイベントが終わったら、一緒に晩ごはんを食べながら反省会をしよう、なんて死亡フラグみたいな約束をした気がするけど、増田に書いてることをやんわりと伝えてみようか。その前に、フラグ回収して本当に死ななければいいんだけど。
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アスペとADHDを併発してる夫に、カサンドラ症候群になって別居中の妻が最近言ったり送ったりしたことをまとめなおしてみた。
あなたはいつもデフォルトの「あなた」がしっかりとあって、基本的に寝て起きるといつも同じ「あなた」からスタートする。
昨夜言い争った内容も、私の涙も、出ていない結論も、あなたに訪れた幸運さえも、きれいに「解決」「終わったこと」になっていて、
「えっ、なにそれ?」「ごめん、思い出せない」「いつの話だっけ?」と忘れ去り、毎日まっさらな気持ちで気持ちよくニコニコ笑っている。
私はこんなに悶々と悩みを抱えているのに。まだ、何も解決していないのに。
どうしてあなたはそんなに幸せそうな顔でいられるのだろうと、私は静かに憤りを感じる。
そのことに、あなたは気付かない。気付けない。
でも、私の雰囲気の変化を敏感に感じて、だけどそれが何かわからないので、
「どうしたのー?」とニコニコしながら頭を撫でてもらっても、今は私の気持ちを逆撫でするだけだというのがわからない。
私が「今はやめて」と言ってしまうと、あなたはどうすればいいかわからなくなって、泣きそうな顔でフリーズする。
そして明日になって、今日が昨日になってあなたがリセットされるまで、身体的接触自体に消極的になってしまう。
あまりに純粋すぎるあなたを前に、私はまた罪悪感から自己嫌悪に陥ってしまう。
あなたが「昨日」を引きずるのは、心身の調子がとても悪いときだけ。
常に私が話すとその場その場では真剣に考えてくれているのはわかるのだけど、何かで気が散ったりしてその場で結論に至らなかった場合、話が翌日に引き継がれることはなかなかない。
引き継がれているとき=考えすぎて身体にも異常が出てしまっている(大体急に40度近い高熱を出す)ときなので、
あなたが苦手な分野の話をするのはとても億劫になるし、熱を出させてしまうと申し訳なくなる。
毎日リセットされるので、行動も思考もほとんど変化がなく他人に影響されない。
ブレない自分を持っているあなたは、その基準の中で厳格で明快な判断を下す反面、
まるで精密機械にように、同じ結果、同じ結論に達するために同じ経過を幾度も辿るので、何度も何度も同じやり取りをして、同じ失敗をする。
あなたは気付いていないかもしれないけれど、私からは、毎日同じ段差に躓き、毎日車輪を再発明してニコニコ喜んでいるような生活を送っているように見える。
だから、最初からできることは確実にできるけど、できないことはなかなか、時には年単位で時間をかけてもできるようにならない。
実は前の失敗を踏まえてアプローチの仕方が変わっていたり、つまずくポイントが微妙に違ったりして、あなたなりに変化が全くないわけじゃないのはなんとなくわかるんだけど、
一度失敗したら、気を付けていれば普通二度と失敗しないだろう。と思うようなことで何度も失敗しているのを見ていると、面倒くさくなって頼むのをやめたり、つい手を出してしまう。
私が手を出すと、あなたはペースが乱れて混乱し、蓄積されかけていた経験値はあっという間にゼロに戻る。
あなたの歩みを見守るには、私には忍耐強さが足りないのだと思う。
一つ新しいことを覚えるのに、時間をかけて体と脳に染み込ませる必要があるし、大抵のことはリセットされて翌朝には元に戻ってしまうので、
一緒に暮らしていて相手として、相手に影響を与えている感じがしない。まるでよくできたロボットと暮らしているような気持ちになる。
カレーを焦がさず作る練習の為に毎日カレーを食べ続けるのはさすがに苦痛だし、仮に特訓の果てにカレーの玉ねぎは焦げなくなっても、野菜炒めはやっぱり焦がしてしまうのがあなた。
特に苦手な、自他の心情や情動の絡むことになると、そもそも全く一般的でない、突拍子もない考え方でこれまで生きてきていたりして、
一般的な感覚やリアクションに至る理由が全く理解できなかったり、「その発想はなかった!」ということばかりのようで、教えようとすると大変労力がかかるし、それも徒労に終わることの方が多い。
すごく頼れてしっかり者で、同年代の人よりはるかに精神的に大人な部分と、普通の人は当たり前にできることができない小学生並の部分が混在していて、そのギャップが激しすぎる。
だから、「ただもう少し気を遣ってほしい」とか、「こういうことを察して行動して欲しい」というような小さな不満が、
元の不満が小さいからこそ、『なぜこんな簡単なことが何度言ってもできないのか、それは私が大切にされていないからではないか』とどんどん膨らんでいく。
診断がついて、頭ではあなたの特性によるものだと理解しているつもりでも、あなたの優秀な側面も知っているからこそ、「そんな馬鹿な」「できるはずだ」「私でもできるのに」と、どうしても心が納得させられない。
あなたがもっとポンコツで、スッパリ諦めがつけばいいのに、諦めきれない。
あなたが私を愛してくれていることは、あなたの態度や行動からとてもよくわかるのだけれど、
あなたの表明してくれる愛情と、そういった未発達な部分からくる対応の齟齬で、私の心はひどく混乱し、罪悪感や自己嫌悪に蝕まれ、疲弊する。
口に出して頼みさえすれば、なんでも喜んでやってくれるのはわかっているし、その都度私があなたに言うようにすれば家庭が円滑に回るのはわかっているけれど、
全部言葉にして言わなければ伝わらなかったり、項目や手順を紙に書いて掲示しなければいけなかったり、やってくれても思わぬところで失敗したりするのがしんどくて、つい、言うよりも自分でやってしまう。
伝える労力と我慢を天秤にかけて、我慢を選んでいるのは私自身なのだけれど、それでも不満が蓄積されていく。
もっと早く診断がついていれば、言わなければわからないものなのだと知っていれば、まだ言っていく方向に頑張れたかもしれないけれど。
ずっと「普通は察して自発的に動けるハズで、それをしないのはやる気がないからだ」と思っていたし、
「なぜ私ばかりが言うという労力を払わなければならないのか(なぜ分からないのか)」
「なぜ書かないとわからないし、今から書く必要のある話をするということも察せないのか」
「なぜ記録を残さないと忘れるのか」
「なぜコミュニケーションをするために、準備に労力を払って、テンポの悪いやり取りをしなければならないのか」と、今もどうしても思ってしまう。
普通じゃないのがあなたの魅力でもあり、弱点でもあるのに、私はあなたに私の思う「普通」であることを強く望んでしまう。
カウンセラーとのやり取りの中で、あなたがあなた自身あまり意識はしないままに、幼いころから自分はなんとなく社会の中で居場所を確保できなさそうだと気付いて、
時間をかけ、工夫を重ねて、人とは方法が違っても概ね同じ結果が得られるように様々なことを訓練してきたことを知った。
その結果、表面上「ちょっと変わった普通の人」風に振る舞えるように努力し続けて、今現在社会的に自立した生活を送れていて、
それが同じような特性による不自由さを持つ人たちの中では、カウンセラーや医師が投薬を渋って今後に期待をかけたくなる程度には上々の成果とされることもわかっているつもりだし、
実際、なにが問題なのかさえ正しく認識できれば、大抵のことをゆっくり解決に向かわせられるだけの自己分析能力も問題解決能力もあって、
生活を改善する意識もかなり高い部類であることも、本などに出てくる様々なケースを読む中でわかってきた。
けれど、それでも、私が無意識に求めてしまう「普通」と、あなたの演じられる「普通」には大きな隔たりがあって、その溝はきっと今後も埋まらなくて、それがとてもつらいし、不安になる。
http://anond.hatelabo.jp/20160621003527 の追記
あの記事の趣旨は、まだ気づいていない同じような加害者たちに伝えるためで、懺悔のためではなかった。だから、ブコメで真っ当な人たちにボコボコにされているこの反応は当然だと受け取っている。犯罪者だな、と言い捨てられるような、真っ当な人たちには理解できなくて当たり前だよ。真っ当な素養を持って生まれた人には、崖の端っこを歩いている、若しくは踏み外してしまった人間の思考回路はわからないんだと思う。でも、そんな真っ当な人間ばかりじゃないんだよ。犯罪者の素養という爆弾を持っていても、それを外から見つめてうまく自分をコントロールして、何とか普通に社会で、胸を張って生きれるようになりたいんだよ。俺は、ボコボコにされるとわかっていながらも、こういう文章を書く。同じような過ちを犯しそうな奴らには早く気づいてもらいたい。それが俺が社会に対してできることだと思っている。じゃないと叩かれると分かってて書かない。俺の文章は、まともな人たちに向けて書いたんじゃない。俺の文章は、俺のキモい思考回路がそのまま入ってくるような、同じようなやつのために書いたものだ。なぜ俺が「皆」と、呼びかけたのか。それは、ただ「DV加害者の皆」と呼びかけても、当人たちは気付いていなわけで、一般化することで、自分のこととして考えて欲しかったからだ。それが、誰かの気を逆撫でたかもしれない。
その後、被害者側に立った話もあるけど、ずっと後の話で、俺はその人を変えられなくて、そもそも人を変えることなんて無理で、そこからは離れた。だから被害者側の気持ちも多少なりと分かるけれど、それとこれとは別の話だし、「本当の意味でお前は分かってない」と結局罵られる。だからその話はしない。一人っ子だったことだけが原因ではないことは理解してるけと、半生を語るわけにもいかないから、その話もしない。人は逸脱行為の理由を、単純化や抽象化して理解したがるものだから、そういうものだと思っている。
例えば「恋人と貴方のやりとりは、友達にそのまま見せられるか?」と問われて気付いて、行動を変えて、それから「成長した俺、かっこいい」と思っていたとして、それはキモいことだけど、それでDVが止まれば、結果的に社会にとってはいいことじゃないかなと思う。
あの記事で謝罪したところで、彼女には届かないし、あの記事で謝っても話の焦点がブレてしまうし、俺のための懺悔にしかならないから、あそこでは特別に謝っていないけど、俺はあの後数年かけて彼女に謝り続けたんだよ。書かれていない背景を想像して徹底的にコメントで叩かれているけど、それは書いていなかったことだから仕方ない。もう別れていてたけど、学校という同じ空間にい続けた。言葉だけの謝罪なんて意味がなくて、自分が変わりつつあること、変わったことを示し続けることでしか、信頼を回復できないと思った。最初は口も聞いてくれなかったし、怯えた目で俺のことを見ていた。けど、数年経って、態度が柔らかくなってきて、それからはお互い恋人がいる状況でも困ったことがあれば相談してくれてそれを本気でお互い解決したりもして、お互い結婚した今は向こうから声をかけてくれるくらいのお茶友達だよ。実際心の底で許してくれてるかなんてわからないし、許して欲しいと思っていないし、許されないことをしたことは変わらないけど、それ以上どうしたらよかったんだろうか。
「またきっかけがあればきっとやるよ」「殴る相手がいなかったから殴らなかっただけ」「サイコパス野郎」と言われても、その後同じようなタイプの大人しい子とも付き合ったけど殴らなかったし、暴言も吐かなくなったし、今は本当に大人しい奥さんだけど、同じような状況になっても殴る気持ちなんて起きない。そういう人は俺が刑務所に入れば満足するんだろうか。その人は、俺が刑務所に入っても、当人たちがもういいと言っても、俺がどんなに変わっても、きっと満足しないで、犯罪者のレッテルを張り続けて、俺を社会に参加させないようにするのかもしれない。10年そういった行為をしないでいるけど、それでもお前の本質は変わらないよと言われる。俺は、どんなに更生しても一生犯罪者と呼ばれて、やり直せないのかもしれない。
犯罪心理学にラベリング理論というものがある。非行に走る者に非行者というレッテルが貼られて、社会からつまはじきにされるせいで、非行者たちが自暴自棄になって非行を繰り返したり、非行者たちが集まって更なる非行行為に走るというものだ。おそらく貴方たちの中で俺のレッテルは、一生剥がれないのだと思う。もうそれでいい。周りが何と言おうとどう見られようと、俺は俺の意思で、もう二度と人を傷つけない道を選び続けるから、それでいい。素質や頭の中がどうであろうと、俺はもうやらないし、今目の前にいる人たちや、当時被害者だった彼女をかけがえのない友人として大事にするから、それでいい。
何度も言うけどDVは加害者が加害者であると気づかないこと、密室内で行為が行われて第三者が介入できないことが深刻な社会問題だ。そして、被害者側からはそこから逃れられない。手が出なくても、機嫌が悪くなったり、舌打ちや態度で威圧して、相手をコントロールするだけでもそれは精神的なDV(モラハラ)なんだよ。一度もそんなことをしたことがない人間っているのかな。いるのかもしれない。多分そういう人は聖人なのだと思う。そういう人が社会の大部分なんだと思う。手は出ないけど、そういう理不尽な親父とかたまにいるじゃん?それで、家族が顔色を伺って、気を使うというやつ。あれもDVで、その家族はDV被害者なんだよ。そしてその家族たちも、それがDVであることに気付いていなかったりする。それ、DVだから気付いてくれよ。加害者が変わんないとダメなんだよ。
ガキのころと違って、社会に出たら自分の思い通りにいくことなんて少ないし、人の心なんてコントロールできるものではない。世界は自分の思い通りになんかいかない。自分を守るために、人を傷つけるようなことはしてはいけない。15のガキだった俺に説教しても分からないかもしれない。俺はただ、とにかくこういった行為が無くなることを望む。
まず、くだらん書き込みをしてくれた自称「保守」諸君、どうもありがとう。諸君の行為によって、100年前の日本人の恥ずべき行為に対して、人々の関心が再び集まった。歴史を直視することはどのような集団にとっても重要なことであり、ことに自分たちに都合の悪い歴史を直視するのは勇気のいることである。諸君の書き込みのお陰で「震災+虐殺」で検索する人々は増えたであろう。このような機会がなければ、どんどん風化していく過去であるが、極めてショッキングな形で、これを改めて日の下に引きずり出してくれた。感謝したい。
また、その上、現在の自称「保守」の皆さんのいわゆる民度が100年前のそこから一歩も出ていない(ジョークとして消費できるというその感覚!)上に、歴史に対するどのような反省もないという点で、お仲間の市会議員・新聞社メディア等を巻き込み、極めて悪質であるということを満天下に知らしめた(http://b.hatena.ne.jp/entry/ironna.jp/article/3143)。この点においても、その功績は大である。おそらく、先日の「保育園落ちた」騒動と同じように、国会で取り上げられるなりすれば、ヘイトスピーチ規制を一段と進めるよいキッカケとなるだろう。『ヘイトスピーチが蔓延した結果、このような言動をする人間が実際に出てきているんですよ!どうですか!』…と言われて、公にヘイトスピーチ規制に反対できる人はいるまい。
正しい保守の皆さんも、さすがに「こんな連中と同一視されたら、ちょっと困るんで…」という引き気味の反応になっており、大変望ましい状況である。自称「保守」の諸君が、その仲間内で極めて醜悪なコトバを日常的に消費しているのは知っているし、もちろんそれは自由である。そして、それが自由であるということは、結果としての他者からの視線や批判を謙虚に受け止める責任も負うということである。諸君がどのように見られるかは、諸君の言動にかかっている。それは誰の陰謀によるものでもない。自業自得である。
なお、親切心から少しアドバイスをしよう。諸君への批判者=左派だとどうも諸君は信じているようだが、左派が自分たちに対してそのように敵意むき出しでかかってくると実際に思っているところを想像すると、いささか滑稽な感があるのは否めない。諸君への批判のうち、大変純真な反応を示しているごく少数を除けば、半数は一般的な「良識」からの拒否反応であり、残り半数は「保守を名乗って醜いことをするな」という保守の皆さんからの批判であるとお見受けする。社会の片隅でひっそりと左派を自認する立場からすると、諸君がまき散らしているヘイトスピーチ自体には特に『興味がない』。当初はその傍若無人さや余りな不勉強に眉をひそめることもあったが、いまでは諸君のことを「理屈ではなくそう信じている人たち」として心静かに眺めるようになった。信仰ならば、どのような非合理的主張も行動も、そういうものと思って眺めるのみである。「神は存在する」という主張に対して「反論」をする意味がない。
そんなわけで、自称「保守」の諸君が左派を攻撃するつもりで今回の件において自分たちへの批判者を攻撃すると、随分的が外れるどころか、ごく普通の保守の人たちの気持ちを逆撫でする結果になるだろう。その結果、諸君はますますカルト化していくことになり、最終的には保守的潮流自体を退潮させる結果につながるだろう。そのことは、少し自覚しておいた方がいい。
左派の側として、実は政治的に一番困るのは、今回の件について諸君に「謝罪」されたり「素直に反省」されたりすることである。自称「保守」の諸君にも一片の理性があるではないか…という雰囲気になると、本当のところ大変困る。なのになぜ正直にこんな話をしているかというと、まずそういうことは起こらないだろうと安心しているからだ。そもそも、自称「保守」の諸君は、私が左派であると知った時点でもうこんな文章を最後まで読んだりはしないだろう、それどころか、一行目を読んだ辺りでもうタブを閉じているだろうから。さらに、私がどんなに理のとおった有用な忠告をしたところで、諸君が私の忠告を受け入れるはずがないということについてもほぼ確信している。左派の言うことを聞くくらいなら死んだ方がマシだと思っているだろう。全くそれで構わない。そもそも、私も諸君に話しかけているという体で、本当のところはここまで読んでいるであろう一般の保守及びノンポリ良識派のみなさんに語っているのだから。だから、自称「保守」の諸君はそのまま変わらないで構わない。まあ、私が構おうが構うまいが変わらないことは変わらないだろうが。
というわけで、今回の件は、自称「保守」のカルト化の進行が、保守潮流全体の行き詰まりや退潮の兆しを明らかにする段階に至ったことが見られたという意味で、印象的な出来事となった。本屋などでも、自称「保守」の諸君が喜びそうな本を並べたコーナーは最近縮小しつつあるように感じていたが、その理由が今回の件でよく分かった。あとは、カルト化した連中による「事件」が起これば、それが決定打となるのだろう。それはおそらく1、2年のうちではないかと踏んでいるのだが。
最後に…最後まで読んでくださっている、自称でない普通の保守、またはノンポリ良識派のみなさんの、そのうちの極めて読解力の高い少数の人……私の皮肉に満ちた冷たい言い草から、それとはまた違った気持ちを汲み取っていただける人がいるとすれば、その方々にはこう申し上げておきたい。ご批判は甘受します。ただ、私がしているのは、今ではなくその先に向けた準備なのです。
①『明らかな』異常を認めません
つまり、「異常ありません」と言ってしまうともし異常があったときダメなので、
『明らかな異常』を認めません、と言えば、微少すぎて物凄く頑張ってみないと100人中50人見落とすようなそういう異常に対しては言い逃れできている。
この言い回しをすることによって、「ガイドライン」を作ることができる。
つまり、ガイドラインを作るときに『明らかな』異常といえるものを定義する(C-Pアングル、第○弓突出、心胸郭比≦50%など、見る部分を明確に定義されている)ことによって、『明らかではない』あるいは『非典型的な』異常を逆に定義できている。
医療訴訟になったときも、カルテにこのような記載をしていれば大丈夫という共通認識もある。
患者さんに説明するときは、「大きな異常は特に見られませんでした」くらいの言い回しにする。
②『○○は否定的』『○○を否定できない』『鑑別として○○を上げる』『○○を疑う』
医学ってのは、何がおこるか分からない。どーみてもインフルエンザの人が肺がんだったりする。
そういうときに、カルテに「インフルエンザではない」とは書けない。インフルエンザのとき責任問題になる。
そういう時は、『インフルエンザは否定的』という推論形式に保留する。これなら仮にインフルエンザだったとしても、「その時の検査や身体所見から積極的に疑うものではなかった」と言うのがもし正論だった場合には責任を逃れられる。
また、いくつか原因が絞れない場合は、すべて書いておくけど、症状から一番確率が高いものを3つくらいと、症状から緊急性が高いものを3つくらい頭に浮かべる。そういうのを『鑑別』っていうんだけど。そういう風に、いくつか考えて検査中ですよっていう記録を残しておく。どれかが原因で仮に不幸な結果になったとしても、「その他の病気を考えるべき状況だったし、他の病気の検査も進めていたので、対応が遅れた、でもそれは論理的に時間的にしかたなかった」と責任を逃れられる。
③『時間をください』
でも、告知するタイミングってのもある。突発的に自殺とかってありうるから。
そういう場合に、「病状をもう少し見させてください」的な会話はありうる。
これもうまいなあと思う。
④『一秒を争うという話ではないですが』『一日を争う話ではないですが』
つまり、明日には病院行くべき、とかそういうことを伝えたいわけですね。
はっきりと行けというと、これは営利目的じゃねーの?とか問題になるから、言えない。
患者さんも自分で治療を決定する権利を持つべきだから。治療したくないなら自己責任で判断してもらう。
⑤共感的態度を取る
自分でもこれがどの程度有効なのか分からないんだけど。確かに自分が患者になってみたときはこれは大事だなと思う。
共感的な態度を取ってることで、相手が気分よくなるってのもあるのかもしれないが、俺にはそういうのは無い。
無いんだけど、共感的態度は責任を逃れやすいと思う。なぜなら患者が自己決定しているのを促すから、医者の独断っていうことになりにくい。
責任の所在をはっきりさせずに事を進めるっていうのが本懐なのかなって思う。
医学教育ではこの当たりは目的をはっきり言わずに、「やさしさ、思いやりのある医者になろう」ってことになってるけど、そっちが本当にメインなんだろうか。
なんか、ホストになってる気分なんだよねー。おじいちゃんおばあちゃん相手のホスト。
ホストとか、ホステスとかって本当にそういうハイハイみたいな共感とかで客は喜ぶんだろうか。
でも、確かにホステスには話しやすい雰囲気は出るよね。そういうことで、患者に話してもらうほうが医者はノーリスクで事を進められるね。患者も話しやすいから自己決定しやすいし。
そういう意味だろうね。やさしいどうこうって話では無いと思うんだけどなー。
患者さんが何か言ったときの返しを選ばせるんだけど、オウム返しを選ばせる。
これで、患者が話しを続けやすくなりますよってことらしいけど。
当の受験生や医者からも馬鹿にされてる。なんじゃそりゃってw話すすんでねーよw
⑥何かあったらスグ来てください
何かあっても、医者の自分ですら、仕事即効中断で医者行くとかできねーのに。ましてや普通の人には無理だろって思うんだよなーw
あと、救急なんかで、処置しても、それが正しい処置だったか分からない。なんたって夜に非専門が見るわけだからさ。そういう場合は、「早い内に専門の先生に診てもらってください」とか治療前に「現在居るのは非専門医だけです、ですので専門的な処置はできかねますし、応急手当しかできませんが、よろしいですか」と必ず了解を取る。まあ責任逃れだよね。
⑦とりあえず全部認める
ミスがあったら、さっさと腹ばいになって、全部正直に話す。正直にありのまま言う。
嘘ついたらアウト。
で、嘘つかないメリットは何かって言うと。ガイドラインどおりやってれば訴えられても問題にならないこと。
あと、裁判に成るかならないかってのは別に医療ミス関係無いことも多い。裁判のあの場所に医者をよんでやるっていうそのためだけにやる人が多い。
だから、患者感情を逆撫でせずに訴えられないことが大事であって、医療ミスしたしないはあまり重要ではないって論文がある。
だから、医療訴訟になっても負けることは無いんだからとりあえず嘘なんかつかない、ガイドライン通りにやってればまずまず大丈夫。
問題は、裁判に時間をとられることやストレスや体力奪われること。
ってかさ。これ言ったらアレなんだけど。医者の1日って結構な人数の命を救うわけだからさー、法廷に呼ぶっていう行為自体が殺人的だよね。そう思うんだけど。そういうの関係無いからねえ。純粋に法律で裁かれるわけだし。
あと、医療ミス関係無いって書いたけど。ぶっちゃけ医療ミスなくても有罪になるときは成る。だって、法律はゲーム化しちゃってるから。腕のいい弁護士やとわれたら終わり。そういう理不尽な運ゲー感ある。
いやだよねえ。
別にオタク男子が何で抜こうが、お見合いしようが結婚しようが子供産もうがあるいは孤独をエンジョイしようが、お前ら自身がどう生きようと、そんなの興味もない、知ったことじゃない。
ただ、一般向け作品だからといってそのキャラがストレートかどうかなんて作中ではっきり言わない限り、男女カップル「確定」っていうのだってお前らの"魔改造"だかんな?
その作品本来のファンの神経を平気で逆撫でしておきながら「自分は絶対的神であるから、俺の気に入らない物、受け付けないものは排除する」とかって贅沢いうなっていうの。
それをいっていいのだとしたら、一次創作のエロゲとかのヒトタチだけ。
あるいはオタク男子御用達の作品の中でのみ自己完結してるひとだけ。
他人の作品に寄生して勝手に"魔改造"してるのは別に腐女子だけじゃねーだろ?
それを周囲に「この(本編では誰と付き合ってるとも性的嗜好がノーマルだとも明言されていない)ただのエロ本をお前らは認めろ!公式はもっと男の好むエロシーンよこせ!俺ら金払いいい優良顧客なんだからな」って言ってるのが多くのオタク男子。
妄想するなとはいわん。するなら、閉じこもってろ、そういうのが好きな身内だけでやれ。周りに触れ回るな、公式に突撃するなっての。
ここまではSNSで見かけた要約すると「腐女子は出てくるな」という意味で書かれた文章の内容をだいたい逆にしたものである。
この分野で必要なのは「年令によるゾーニング」と「嗜好によるゾーニング」の2つなんだと思うけれど、前者はともかく後者が実現するのは100パー無理だろうから、両者を規制するか、両者を開放し(てお互いに見たくないものは見なかった振り)ていくことなんだろうなと思ってる。
この意見にいっせいに批判を寄せるのも「同調圧力」の一つだろ。
この人は「大衆」に深く信頼を寄せていて、誰でも関心があれば発言すべきだと気付くだろうし、発言せずにはおれないだろうと考えている。また、そうでなくては伝わらないし何も変わらないと考えている(それは実際、おおむね正しい)。だが、世の中には、「大衆」に深く絶望する見方もあり、軽んずる立場もあり、そして、同情を寄せる立場もあって、社会問題に関心がありそのことについて表現しようと考えていても、「あえて一切語らない」「ミスリードを誘うような言い方をする」「表面的には気付かれないような言い方を選ぶ」、また、その他にも、ヒネクレた立場(「『正しい』振る舞いを常に選ばない」)とか、釣り師(「人の神経を逆撫でする言動を選んで騒ぎを楽しむ」)などもいて、反応は千差万別になる。
今回のV6のコンサートで多ステをしたことを「反省文」として詫びているブログを読み、なんとも言えない気分になりました。もしかしたら、そのブログを書いた方は周りに「そんな入るとか今すぐ詫びろ」と言われたのかもしれません。ですが、「行った」ものに対して申し訳なく思うのってすごくもったいない気がするし、思い出のひとつのうちに「謝罪」が入ってしまうのってすごく悲しい気がしなくもないです。
わたしは関ジャニとV6が好きなジャニオタなのだけど、なんというか回数とかそういうのって個人の価値観にもよるから別にそこまで過敏になって謝罪するものじゃないよなあ…V6だと1公演しか行かなくても満足できる(その1公演に入れないと絶対にいやだけどね)ようなファンだけど、関ジャニに関しては複数公演入ってるし何なら遠征だってしてるわけだし…。わたしは一体何枚反省文を書かないといけないんだろう…。
1つ書いてみるならば3年ぐらい前の関ジャニさんの8周年イベントに当たってそれなりに肩身の狭い思いをしたことがあるのだけど、それについて「デビュー当時からのファンではないにも関わらず応募してしまっただけでなく、皆様を差し置いて当選して大変申しわけございませんでした。でも参加させていただきます。」ってところでしょうか。ものすごく神経逆撫でする文章だな!
今話題のパクリ騒動で厄介なのは、色々な争点がごっちゃになっていることだと思う。佐野氏を擁護する意見に対して、擁護の主旨から外れた批判を浴びせるという状況もしばしば目にする。祭りに乗じて誰かを叩きたいだけの人からすれば、これぐらい混乱していたほうが楽しいのだろう。
折角なので、この騒動における争点を簡単にまとめておきたい。
(1) オリンピックのエンブレムが (個人の好みとして) ダサいから嫌だ
(2) オリンピックのエンブレムが、(素人目には) パクリであるように見える
(3) (2) の騒動を受けて、佐野氏や大会組織委員会が行なった弁明が迷走中
(4) 何人かのデザイナーが、単なる感情論で佐野氏を擁護したり、素人を見下したような発言をする
(5) 佐野氏の名義で世に出されたデザインに、他人の著作物が無断利用されている
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佐野騒動は、少なくとも上記の5つが絡み合いながら拡大を続けている。
(2) は、相当厄介な問題。シンプルな幾何学模様のデザインだから、似通ったものが偶然見つかったというのは、それほど不思議なことではない。デザイン業界の人たちが言うには、ぱっと見で似ているかどうかではなく、デザインの背後にある考え方やメッセージというのが本質的に重要らしい。
(3) では、なぜか、佐野氏の立場が悪くなるような燃料が、本人側から次々と投下されている。すでに、主張に整合性を持たせるのが苦しくなってきているし、コンペティションの公平性も疑問視される事態を引き起こしている。これは明らかに不自然な状況なので、何か、単純かつ重大な事実を隠しているのではないかと勘ぐってしまう。
(4) は、擁護する側の気持ちになってみれば、自然な反応だと思える。佐野氏の個人的な知り合いや、彼を尊敬するデザイナーからすれば、この騒動に関して感情的になるのが当たり前だ。また、(2) のような状況でエンブレムが取り下げになると、デザイン業界に悪しき前例ができてしまう。だから、佐野氏個人に全く興味が無いとしても、(2) に関しては擁護しておきたいデザイナーが多いはず。ところが、デザイナーとしての理屈を、慎重な言葉遣いで、素人の神経を逆撫でせずに語ることのできる人は少ないようだ。世の中には、自分が見下されたと感じると物凄い勢いで怒るひとが結構いるので、迂闊なことを言うと、むしろ火に油を注ぐことになってしまう。
(5) は、擁護のしようがない。佐野氏の普段の仕事における雑さや倫理観の欠如が、絶妙なタイミングで表に出た形だ。もちろん、理屈の上では、これはオリンピックのエンブレムの正当性とは全く関係がない。だが、大抵の人は理屈よりも感情を優先する傾向にあるので、信用出来ない人が作ったエンブレムは、やはりいかがわしく思えるだろう。
以上の騒動は、佐野氏のデザイナー生命にとって致命傷になりかねないし、ひいてはデザイン業界に大きな打撃を与える可能性がある。
小保方氏の論文不正が発覚した後、早稲田大学で受理された過去の博士学位論文をはじめ、他研究者の論文不正が数々掘り出された。デザイン業界でも、今後同様の現象が起こると予想するのは、ごく自然なことだろう。
店頭で接客した店員の「お店に来ていただいて説得しようと思ったんだと思います」という言葉からも増田の返品についての話は内部で連絡されてないことが分かる。
原則として返品は不可だけど今回の増田は返品を許容できるケース(電話応対者の判断)なのか、
原則どおり一切の返品は受け付けない(店頭接客者の判断)のか。
返品できるとの連絡を受けて店に出向いた増田への説明も、心情を逆撫でするようなもので、クレーム対応教育ができてるとは言い難い。
電話応対者が判断を誤っていたなら、素直に謝罪しとけばお客さんを怒らせることはないし、
逆に接客担当者が勝手な判断で返品拒否したなら、後から店からの謝罪があるもんだと思う。でもどちらもない。
その辺、作話事情を知らぬ海外の人たちからは「『わが国では誘拐婚は合法』とか『だんなの不倫は女性側がムチウチで罪をつぐなうことが伝統で合法』とか言われてもね。未だにそんなこと考えているのか?最悪だなおまえら」と思われるのが実際のところだろう。
もちろん、当時の時代背景を(そいつら自身の当時の世相を思い出させつつ)説明しつつ事実を伝えていくことはとても重要。
正しいと思われる反論は「お前ら、当時有色人種差別してたじゃないか?謝罪や保証はしているのか?」「魔女狩りとか最悪な女性蔑視だったよな」「植民地で何していたんだ?植民地を今でも持っている上にそこで核実験なんかして、反省していない証拠じゃないのか?」「ベトナム戦争では偽旗作戦してたんだよな?太平洋戦争より新しい時代だな」とか言ってやることなんだが、本邦は直近の戦の敗戦国でもあるし、軍事的宗主国さまのお気持ちを逆撫でするには勇気がいることで...
絶歌を読んだ。
この本はあの酒鬼薔薇本人が書いただけあって、ぶっ壊れた部分と、理解可能な部分がごちゃまぜに同居して読むのは疲れる。おすすめできない。
ぶっ壊れたままというのは、出所後も基本的に他者への関わり方が分かってない点と、パニックに陥ったときに暴力衝動が抑えらていない点だ。さらっと描写される他者への無関心とあたりまえのように描かれる暴力描写に、とてつもない違和感を覚える。
それでも矯正されたというのは、出所後はそういう自分の弱点を認識して、他者をなんとか理解することで社会に関わっていこうという意思を感じるから。14歳の頃にはそういう姿勢はなかったと思われるので、これは矯正プログラムの成果だろう。ただ彼にとっての社会復帰とは、正解を探す作業なのだ。職場の人にお茶を勧められ休憩しようと言われても「喉乾いてないからいいです」と断るのは「間違い」だと認識して正していく、それが彼の社会復帰の方法だ。その方法はやはり普通の感覚の社会生活とは違うので、更生していると思う反面、そのぶっ壊れ具合に衝撃をうける。
酒鬼薔薇は根本的になぜあのような凶行に自分が及んだか分かっていないようだ。
理性のたがが外れて、性的衝動と殺人衝動に自分の行動が支配されてしまった。なぜそうなってしまったのか、自分のことなのにわからない。だから理解したい。自分で自分を理解したい。
理解したいから、何度も何度も自分の記憶を掘り起こす。何度も思い出すうちに記憶は強化されていく。過去のシーンは安っぽい比喩と装飾にあふれているが、美しく描写されるのは記憶の中の自然であり他者だ。酒鬼薔薇は基本的に自分と関係ないものへは無関心を貫くが、自分を無条件で受け入れてくれる他者や場所には強い愛情を感じる性質がある。そうしてそれを美しいものだと認識している。だから自分を受け入れた美しいものをケレン味たっぷりに飾り立てて描写する。それは記憶の掘り返しが何度も繰り返され強化された証拠だと思われる。だって酒鬼薔薇が美しく描写したタンク山とか池は当時の報道で何度も観たけど、なんてことはない風景だったもの。
逆に自分のことは徹底的に醜く汚いものとして描写される。美しい他者と醜い自分、この断絶が凶行の原因だと認識しているようだ。そんなこと言われて誰が納得するだろう。また文中、他の文学作品からの引用が多数あるがそれも自分を知る手がかりだ。自分の記憶を掘り返し、また文学作品に自分を投影することで、なんとかして自分を理解したいのだ。
自分を理解することで心の安定を図りたい、というのがこの手記を書くモチベーションになってることはたしかだろう。ひどく利己的で、被害者感情を逆撫ですることは確かだけども、もともと自意識しかないぶっ壊れた人間なのだ。今の他者を理解しようという姿勢は矯正プログラムの成果でしかない。
ところで、この本で笑うべきでないのは十分分かっているが、どうしても笑ってしまった箇所がある。
それは彼が捜査員や検察官、カウンセラーといった大人たちに最後まで内緒にしていたという、彼の中で性衝動と殺人衝動が結びついた原体験だ。
小5のとき、最愛のバーチャンを亡くした彼は思い出に浸ろうと入ったバーチャンの部屋で電マをみつける。電源を入れ興味本位で股間に当てた彼は今までにない快感に身を震わせる。小5の彼は電マオナニーで気絶するほどイクという壮絶な精通体験を得たのだ。それはバーチャンの死と深く結びつき、性的快感と「死」が関連付けされてしまったのだ。その後も電マオナのとりこになり、その行為は強く死を意識させる冒涜的な行為であったので、それが猫殺しの時にもイッた原因になったと彼は自己分析してるのだ。
この本から教訓を得られることがあるとすれば、電マは年頃の男の子の手の届かないところに保管しなければいけない、ということだろう。