はてなキーワード: 悪阻とは
少なくとも日本人には無理だと思う。
自分は有名でも大手でもなく、業界4番手だか5番手だかよく分からない企業で働いてた。
新卒で入り、労働契約の意味も分からぬまま、会社に言われるがままにサインし、定額働かされ放題はスタートした。
裁量労働制は本来、裁量があり、遅刻早退という概念がなく、そもそも出勤するかどうかさえ自由なはずだと思うんだけど、そんなものは幻だった。
裁量労働制は柔軟な働き方云々という話があるけど、少なくとも自分が働いた企業は女性活躍は建前だった。働いてる女性も、転職する手間暇をかけるより慣れたところのほうがマシと割り切って働いている感じの人が多かった印象がある。
このへんは裁量労働云々よりも、コンプライアンスというか人権というか、管理職レベルの人間が何も思わずこういうことを言ってしまう程度の学のなさ、もしくは罰せられない環境のせいだとは思うけど、「定額働かせ放題」の悪影響だったと自分は感じた。
どれだけ面倒な仕事だろうが、どれだけ時間がかかろうが、上司がやりたいと言ったらやる。
基本は人件費は「定額」なので、仕事を時間換算して生産性アップという発想がない。
人事評価制度が形骸化しお友達内閣的になっているので、長く会社にいるほうが偉い(直行直帰は悪)という謎の社風になる。
なぜなら、早く帰ると「あいつは仕事をしていない」と後ろ指を指されるから。
上司が帰るまでは帰れないという裁量労働制とは真逆の文化が醸成される。
どこの会社でも似たようなものだとは思うけど、処理速度が早い人ほど多くの仕事をやらされる羽目になる。
裁量権などなく、上司の指揮で上から降ってくるのでやらざるを得ない。
なんなら仕事ができない人間の間に合いそうにない仕事まで間際で振られたりする。
仕事の中身は上司が理解してない。なぜなら上から下に振るだけが管理職の仕事だから。
このような様々な形骸化を経て、人事はお友達内閣と化す。イエスマンしか生き残らない。
NOと唱えた人から辞めていく。
目標達成が50%でも、遅くまで残って努力してる人の方が偉い、なぜなら努力してるからという理由で後者の方が査定が高かった。
前者は目標達成してない上に定時で帰るなんて何様、という謎の評価。
このような様々な無駄とコンプライアンス等を無視した謎の“社風”によって、仕事ができる人や転職できる人は転職していく。
残るのは、この社風に感化されてゾンビ化した人や、ランナーズハイになってこれが最高と思っている人たち。あとはご家庭の事情などでやむを得ない方々。
F1からレースクイーンがいなくなるという飯ウマ面白いニュースを目にしたので、匿名ダイアリーにレースクイーン時代やグラビア時代の実体験と私が思ったことなどを書いていくのでお付き合い頂けたら幸いです。詳しいレースの専門用語などは全部省略してますのでご了承ください。
私は元レースクイーンです。
スペック的には以下。
F1、superGT、motoGP、S耐、鈴鹿8耐、東京モーターショーなど色々なレースやモーターショーにでたレースクイーン。
プレイボーイ、ヤングマガジン、ギャルパラダイスなどで多々ページを頂きグラビア活動をし、CDやDVDにでたりもしていました。
終末期の方はアイドルユニットを組み下手くそな歌を唄いながら地上波のレギュラー番組にも定期的ポツッと針の穴程度に出演していました。
元々は芸能事務所には無所属で赤文字雑誌(JJ、cancan.rayなど)のモデルをしていて、編集部の人の紹介で大手芸能プロダクションに所属することになりました。
当時20代の私は見た目の清楚さ(一緒にお仕事したことある高部あいちゃん並みのギャップを兼ね備えていた)とは裏腹に、中身は超絶パリピな上に今で言う港区女子?でした。
糞ビッチだったのでご了承下さい。
(追記2月4日: https://anond.hatelabo.jp/20180204023951 レースクイーン業界闇深4にて詳しい写真付きの記事をうpしました )
ちなみに先日SAKURAまなちゃんがAV女優だからといってセクハラしていい女って訳じゃないという意見に同意しています。
元始、女性は太陽だった平塚らいてう先生のおっしゃる女性解放運動ってやつで、はあちゅうが如く私なりの#metooのヒトカケラです。
さて本題に入ります。
グラビア、モデル業界と同様で事務所総勢のスポンサー接待、枕営業への誘導があります。
サーキット外では西麻布六本木で事務所主催で連日スポンサー接待です。
私がいた事務所はかなりの大手でチームも有名でしたが、裏側は本当ヤバいです。
1.屋内イベントの東京モーターショー、オートサロンなどでパンフレット配布や受付の仕事。オーディション有り。(これはやってない為詳細以下略)
↓
2.各ブースのステージにあがり車やバイクの横でフォトセッションタイムをひたすらニコニコ笑う仕事。なかなか厳しい水着オーディションを受け、私服のセンスなどもちゃっかり審査されている。
ひたすら覚えた原稿botになり、色んなメーカーや車やバイク、選手、部品などを教わる。ついでにカメコ対応などを学ぶ。男性マネージャーが鬼だったので上場企業のポートフォリオまで渡されたりしていました。
↓
3.当時レースクイーン業界で絶大な権力があったオールアバウトのヤザワさん、ギャルパラダイス編集部、日刊新聞系担当記者、一般有名カメコブロガーたち(モンブランなど)の目につき爪痕を残す。
↓
4.各自動車メーカー、部品メーカーなどスポーサーに3の方々や芸能事務所の営業名前が伝わりほぼ出来レースの様々なモータースポーツオーディションで受かる。
↓
↓
6.一定のファンと人気がつくとスクール水着を着て例のプールでグラビアの撮影があったりする。
ここで伝家の宝刀、海外でDVD写真集撮ろう!と芸能事務所のマネージャーに誘い出され気をつけないとAVに出る羽目になる事になるんですねー。
パリピだった私は当時、鈴木麻奈美さんと元祖レースクイーン出身のセクシー女優さんに可愛がっていただいたこともあり、見抜くアドバイスを教わっていました。
このレースクイーン闇深スポットに香西咲ちゃんや月見栞ちゃんほしのあすかちゃんなどは完全にハマってしまったのかな?と最近の報道を見て思いました。
同期のグラビアの子は私より先に写真集とDVDを販売していましたが、見事に手ぶらお尻丸出しで友人バレし在籍していた大学からもお叱りを受け引退していきました。
↓
7.色々なオーディションに受かりAV女優ルートを回避すると、私が知っている子は愛人ルート(大物お笑い芸人愛人)、覚せい剤ルート(高島礼子の元旦那愛人)、女社長転身ルート(レースクイーンオブザイヤー)ママタレセレブ専業主婦ルート(モカちゃん、ちえぴょん)、プロ彼女ルート、女医ルートとハッピーエンドはごく稀なのです。
実話ナックル並みの濃い内容が体験を沢山書きたい事が、今回はレースクイーン発祥の鈴鹿8耐での体験を書きますね。
※皆さん事件です。
レースクイーン新人で鈴鹿8耐レースには選ばれし者と言われる某チームのレースクイーンに何故かこのゴッドオブビッチが選ばれてしまいました。
先にスケジュールが抑えられていたsuperGTのレースと日程が被っていても、8耐のそのチームならぜひそちらに!と言っただけるクラス。
8耐の会場には某チームレースクイーンたちが印刷された団扇一色になる日。
自己顕示欲を満たされ、日給は馬鹿みたいに高い桁、前日入りで鈴鹿、ロッシとか言う選手見てみたーい、オーストラリアの選手イケメソ〜と熱い暑いの鈴鹿8耐に頭が沸きとにかく楽しみでした。
いざ参戦。
いきなり同じチームのレースクイーンが行きの新幹線車内で嘔吐です。酔いかと思いますよね。
実は彼女妊娠3ヶ月の悪阻真っ最中で鈴鹿8耐に参戦していたんです。
彼女も他の誰にも言えずいたんですが、仕事で一緒になり本性のビッチを出していなかった私には気を許して話してくれたんですね。
同伴の男性マネージャーには結局言えず私がバックアップすることになりました。最後までカメラの前以外では具合悪そうで可哀想でした。
#metoo 発動していいですか?
妊婦さんとは知らなかったとか関係ないですからね。キモいから。
レーサーたちの間では、性欲を高めて高めまくると勝ちやすくなる!最終日前に射精すると勝つというジンクスがあるからこういったセクハラ行為をするんです。
このレーサーさんは特に酷くて毎年いろんな子にお手手を出しているようで、鰻屋を経営しているらしく性欲がチンパンジーなんですね。
私も1日目の夜にエレベーターで相乗りした時2人きりでいきなり壁ドンされて股間触られて最後は半ケツで逃げ出しましたもん。
ほっぺたぐーでなぐりましたけどね!
妻子ある身で信じられないです。
男性マネージャーは枕営業については触れない人でしたが、所属するレースクイーンたちを束ねてスポンサーさんにお披露目して営業かける熱心な人でした。
四泊五日目の鈴鹿8耐の夜はビッチなりにもまぐわる相手を選ぶ権利はあるわけで、自分の身を守るためにこの男性マネージャーと同じ事務所の子と毎晩接待接待。
歩くキャバクラ嬢ですね。
千葉船橋にあるトップレースクイーンだけが許される?みたいな専用のスタジオはAVの撮影もやっているところで、しみけんに遭遇した時は本当にヤバいかもと思いました。
女がプロデュースしているレースチームだからといって安心してはいけません。
女社長、女がオーナー、女プロデュース系はイジメが半端ないですし。
何がレースクイーンオブザイヤーじゃ。
レースクイーンの傘はレーサーへの日陰、バイクの場合はエンジンやタンク部分に日陰を作る意味もあります。
あんな糞みたいな飾りの日傘さっさと廃止にしてくれてGJです。
結論として私が言いたいのは、容姿端麗を仕事にするのは悪いことでは無いしレースクイーンやグラビアに限らず芸能人はキラキラ輝いて見える。
しかし裏側では魑魅魍魎の集まりだということ。レースクイーンという枕営業薬物汚染が当たり前にまかり通っている悪しき風習を、みなさんに知っていただきたい思いから書き綴りました。
女性たちが病んで枯れずに、ヒマワリのように燦々と照りつける8耐の熱い日差しを浴びながら#metoo セクハラのない日が来ることを強く願います。
結論的には妊婦は見えるところにつけて堂々立ってればいいと思う。あれは「席を譲ってください」じゃなくて、気持ち悪くて立ってられなくて座り込んじゃったときに「マナーのなってない最近の残念な若者じゃないんですよ。体調悪いからですよ。ほらみてマタニティマーク!妊婦妊婦!」に使うもの。気持ち悪くなったら席を譲ってもらえるよう自分から言うか座り込んでください。座り込むのが恥ずかしい方、吐くよりましですよ。
===
マタニティマークつけてて立っていた場合、目の前の人が席を譲ってくれたのは数えてないけど肌感覚1~2割てかんじでした。辛いときは恨めしや〜世界は妊婦に厳し〜て思っちゃうけど、いま思えばそこそこの割合のような。
ちまただと「男は譲らん!」ていうけど、譲る人譲らない人に老若男女関係なかった。疲れ果てたサラリーマンでも譲る人は譲るし、美人なお姉さんでも子育て経験ありそうなお姉さんでもチラ見して無視するひとは無視する。男は譲らん!て決めつけ記事はよくないよね。一回、離れた場所に大声だす怖いオッチャンが座ってて、ヒィィて思ってたら「座りなさい!」と大声で呼ばれてヒィィてなったことがありました。ありがとうございます。
で、これは私の経験談なんだけど、譲らなかった8~9割の人が、全員が全員、悪人だったり、ふて寝したりしてたわけじゃないんだろうなと。
なぜかって言うと、譲られるぶん座ることが増えたのがあるのだけど、マタニティマーク時代、圧倒的に私自身が「席を譲る」回数が増えたので。
席を譲られると感謝の気持ちか、私も誰かに譲ろうとなるので、目の前を気にするようになって。そうすると目の前にご老人、私よりお腹の膨らんだ妊婦、怪我をしてる人体調悪い人に気付くようになりました。そのとき自分の体調がよければ声をかける気分になるようになりました。まぁ、私も妊婦なんで断られるときもあるし、なんとなくマタニティマーク見えないようにして声かけたときもあるし。
席を譲っちゃうほど割と元気な妊婦は、ある意味で「やっぱ妊婦に譲る必要ねーじゃん」風潮呼ぶから、妊婦の敵になるとは思うのだけど。譲れるときは譲ってました。半年で5回は譲ったと思う。私の人生のなかでも異常に多い。やっぱりこれは譲られるようになったから、私も譲れるときは譲ろうという気持になって、見るもの変わったからだとおもう。マタニティマーク以前の私もその姿勢はあったけど、レベルが違うよね。だからついスマホに熱中してマークに気付かなかったり距離に臆して、悪意はないけど譲らない側に入ってたのかなぁと今更思う。じゃなきゃこの時期の譲り率は異常。
とはいえ、辛いときは本当に辛いので、目の前の人が譲ってくれないと世界が全部敵になったような気になるしネットに呪いを吐きたくなるのも本当です。車内で吐きそうになって座り込んじゃっても譲ってもらえないどころか周りはチラチラ見るだけで声かけないこともあったし(体調わるいと被害妄想はいるから冷たい視線に感じたし)。もうダメだ〜てなって途中下車したけどトイレまで辿り着けず座り込んじゃって周りにチラチラ見られて恥ずかしいけど動けなくて駅員さん来ちゃったこともあったし。もうホントだめだかくなる上は金の力〜てなってタクシーのって車内で堪えきれず吐いたこともありました運転手さんごめんなさいビニール袋ありがとうございます。
何が言いたいかわからなくなったけど男は譲らねぇとかじゃなくて世の中いろいろだよねと。譲られる経験あるぶん、今後は余裕あったら譲りたいよねと。とはいえ皆余裕あるわけじゃないから譲ってくれない人もいるけど、譲る譲らない関係なくマークはつけといたほうがいいよ車内で吐きかけた場合の免罪符になるからということです。
あとこんな道徳の教科書みたいなことが書けるのは妊婦時代が遠い昔になったからで妊婦だった頃はそんな余裕ないし悪阻辛い時代はただただ辛かったし私は妊婦だけど体調悪くない時代あったけど妊婦だしずっと体調悪い…て人もいっぱいいるからやっぱマタニティマークには譲ってあげてほしいし優しくしてほしいです。あとそもそも妊婦で悪阻でラッシュアワーに通勤したくないし私内勤だったしフレックスなんで認めてくれなかったの前職〜!他社でやってる話を聞いてないといわれたときあぁ社会は厳しいなぁと思いました。つらたんつらたん。
うちの母はスラッとしたカッコいい女性が憧れだが自分はチビデブ(母の談)だからそういう格好ができないといつも口癖のように言っていた。そのせいか、娘である私にボーイッシュな格好をさせたがったし、そんな格好をさせられた3歳の私が道であった外国人に「ボーイ?」とニコニコ声をかけられたというのが、母からもう何千回と聞かされた自慢話だった。
でもその裏で、幼児だった私が欲しいと言ったお姫様ドレスも、みんなが履いていた段フリルのスカートも発表会の花柄ドレスも全部罵倒の対象だった。笑ってバカにして、私にさせてる男の子っぽい格好やスッキリとしたデザインの服が一番可愛いと何度も言った。うちの子が一番可愛い他の子は全く可愛くないと。他の子はダサくて芋くさくてどうしようもないと。私は常に誰かへの否定を聞いて育った。
◇
私は発達の早い子供で、文字が読めるようになるのも抜群に早かった。賢い子ってのが小さい頃からの周りの評価で、周りの多くの人達が「ご両親に似たのね」と言った。母にはそれが最高の自慢だった。でも、私は高学年になる頃には落ちこぼれて、勉強について行けなくなった。
勉強しろと何度も言われたけど、勉強のやり方もわかっておらず、結果は出なかった。そんな中でも自分なりに考えてテスト前に一生懸命作ったノートを母に見せたら「今更そんなことしてんの」とまたバカにされた。机に向かえば「明日は雨が降るんじゃないか」と、わざわざ私の部屋を覗いては、母は何度も笑った。
中3の頃、教室で私立高校の案内本の制服特集を眺めていたら、担任が「ここの制服可愛いよな?どうや?」と私に勧めてきた。可愛い制服がウリの偏差値はお世辞にも高くない学校。今思えば私の学力にちょうどいいレベル。
でも私の答えは「制服がバカっぽいから嫌」担任がものすごく驚いた顔をしたのを見て、自分がひどい事を言ったことに気づいた。二度と口にしなかった。でもこれは母からずっと言われ続けてきた事そのままだった。バカっぽい制服。そんなところには行くな、と。
◇
結局、私は高校は地元の底辺校に進んだ。その程度の成績しかなかったからだ。入学説明会の日、同じ高校に進む事になった近所の小学校からの同級生の子のママさんが「お互い良かったですね」と母に声をかけたんだそうだ。そのママさんは高校合格を素直におめでとうという気持ちだったんだろう。
入学説明会からの帰りの車の中で「なんであんな子の親に『一緒でよかった』なんていわれなくちゃいけないんだ。恥だ。」と殴られた。この件はさすがに母も後からやり過ぎたんだと思ったんだろう。数年が経った頃に「あの時は悪かった」と潤んだ目で唐突に謝られた。「別にいいよ」と私は小さな声で答えたけど、それ以外の返事が許されただろうか?
◇
大学は家を出て、実家から離れたところで一人暮らしをした。相変わらず私の成績は悪く勉強も好きではなかったが、大学進学は幼い頃からずっと母に言われ続けてきた進路だった(短大、専門、就職は母の激しいdisりの対象だった)し、一人暮らしも母がそうさせたいと強く希望した事でもあった。なぜなら、母自身がそういう学生生活を送ったからだ。
一人暮らしを始めてから、バイトをしたいと何度も言ったし、実際いくつかしたけど、その度に母は「学生のうちから働くな」「金なら全部出してやる」と繰り返し、実際私がシフトがあるから実家に帰れないといえば「そんな事より家族を大事にすべき」「親不孝だ」と私がバイトを続ける事を良しとしなかった。
それに乗って「じゃあいいか」と甘えた私にも問題はあったのだろう。しかし、それからはずっと「あんたは親に全部金を出させた親不孝者」「あんたは恵まれている。親に感謝すべき」「すねかじりが偉そうに金返せ」と言われ続けている。
自分が認めなかった事も、自分がそうするように私にいい続けた事も、母の中では全部なかったことになって、私の希望を全部言われるままに叶えてあげた優しい親だと自分の事を思っている。そして「子供の犠牲になったかわいそうな私」と繰り返しアピールするのが母のいつものパターンだった。
◇
同じ頃、父の浮気騒動があった。母は荒れた。何度も実家に呼び戻され、家族のための時間を過ごせと言われた。当時高校生の弟と二人で、母から涙ながらに「お父さんは『エッチはしてない』と泣きながら話した」と聞かされた。何で自分の親のそんな話を聞かなくてはいけないのだろう。心底気持ち悪いし聞きたくもないと思ったが、黙っていた。弟も何も言わなかった。
泣いて喚く母の話を何度も聞き、母を否定しないように過ごした。少しでも母を否定するニュアンスのことを言えば「あんたまで私をコケにするのか」と罵られるからだ。散々罵倒されたあとは「あんなことを言って悪かったね」と泣かれる。そして「いいよ」と私は言わなければならない。おきまりのパターン。そんな気持ちの悪いやりとりをできるだけ避けたかった。
両親はその後関係を修復したようで、この頃の事はなかった事のように蒸し返されることのない家族のタブーになった。
◇
母は当時はまだ少数派のフルタイムWMだった。父も一流企業の研究者で、高給取りだったので、母は止むに止まれず働きたくないのに働いていた…というわけではない。母も仕事がしたかった人だった。それは別に生き方の一つの選択だと私は思う。
でも母はそうは思ってなかった。働く自分は最高で、専業主婦がいかに無駄で無能か、そんな選択はバカだ、そんなだから○○ちゃんの母親や××ちゃんの母親は…と友達の親の非難を何度も子供だった私に聞かせた。
私が学生の頃も社会人になったあとも母と同じ職を選べと何度も言われたけど、それは断った。資格を取るための金も出してやると言われたけど、その職に興味がないからと避け続けたのは、今となっては本当によかったと思う。
私は妊娠した時に、仕事も辞めて一旦専業主婦になる道を選んだ。旦那の希望でもあったし、私の希望でもあったから、私たち夫婦の中ではそれで問題はなかった。
でも、母は自分が散々バカにしてきた専業主婦の道を自分の娘が選んだことが面白くなかったようで、私が悪阻が辛いと寝ていると聞けば「私は仕事をしていて悪阻なんかで倒れていられなかった」と電話をしてきては繰り返した。
産後、初めての育児がしんどいといえば「専業主婦がしんどいわけあるか」「専業主婦のくせに忙しいわけがない」とバカにして笑った。その後にはいかに自分が働きながらの育児に苦労したか辛かったか、そんな思いをさせたあんたは親不孝、感謝すべきという言葉が必ず並んだ。
◇
産まれたうちの子供は障害児だった。たくさん本を読んでネットでもたくさんの親子に関する情報に触れた。親子で療育にも通い、子供への接し方についても多く学んだ。そんな事をしながらの第二子の妊娠出産。ここまでそれなりに大変な育児だったように思う。
そして、そんな子育ての中で薄皮を剥がすように少しずつ少しずつ、母の私に対するあれこれはおかしかったのではないか?そういう思いが私の中で浮かんでは消えていた。
◇
数年前に実家はリフォームをした。私はインテリアや住宅特集を見るのが子供の頃から好きで得意だったのでアドバイスをして欲しいと言われ、何度も実家に通った。担当の営業マンと、ここはこういう風にした方が…なんて話を一生懸命していたら横で聞いていた母が「はっ。偉そうに。」と吐き捨てるように言い放ったのは今も鮮明に蘇る。
自分が手伝ってくれと呼びつけておいたものの、娘が自分を差し置いてイキイキと一人前に話をする姿に耐えられなかったんだろう。思えば、子供の頃から私が何をするにも「偉そうに」「いっちょまえに」「でも○○はできない」という言葉が付いてきたな、と思った。この頃から違和感がはっきりしてきたように思う。
◇
定年を迎えた母は頻繁に我が家に来るようになった。孫へと過剰なほどの物を抱えて「ここに来ると金がかかる」と口癖のように言っていたが、どこにでもいる孫に甘すぎる祖母の姿だと思っていた。
母は会うたびに、私の掃除の仕方、家事の仕方、夕飯のおかずの品数、体型、服装、生活全てを笑いながら否定し、自分はいかに頑張っているかを語っていたが、私は黙って聞いていた。母にとってそれは最高に面白いジョークのつもりだったからだ。
内心では苛立つ事もあったけど、それを表に出せば、それ以上の言葉で否定されるのがわかっていた。母のその性格が治る日が来るとは思えなかった。老いていく母にもうそれを指摘するのも酷だと思っていた。だから私は何も言わなかった。
他人からみれば、楽しそうに会話する仲のいい母娘に見えていただろう。
◇
しかしついに母と揉めた。きっかけは些細な売り言葉に買い言葉だった。私の中で剥がれ落ちた薄皮は相当な量に達していたのだろう。違和感に私が我慢しきれなかったのだ。
私に反発された事で、母は発狂した。浴びせられるマシンガンのような暴言と否定。今までの私の人生を否定し、いかに親不孝かを叫び怒鳴り散らしながら、自分は子供(私)のせいで我慢を強いられているんだと喚き散らす母に「私にだってずっと我慢してきた事はある」と初めて言った。母はその内容を聞く事なく「お前のなにが我慢だ。親不孝め」と、また暴言と否定を吐き続けた。
その場に居合わせたうちの娘たちは、自分の母親(私)が目の前で罵倒される姿を見て、驚いて固まっていた。そして不安がって泣いた。その間も母の暴言は止まらず、うちの娘の障害名まで母は私への罵倒の言葉に使った。娘たちの前でだ。無理だと思った。もう無理だと思った。
母は自分で「どうせ私は毒親だ」と叫んでいた。そんなふうに考えた事は今まで一度もなかったが、その時初めてそうかもしれないと思った。そしてまた、もう無理だと思った。
◇
この先、私はどうするのか。もう答えは決まっているのではないか。本当にそれができるのか。いまはまだ立ち止まっている。
しかし目の前の扉は開いてしまった。扉の向こうの世界は明るいだろうか。険しいだろうか。一歩を踏み出す決意をしたい。それが娘である私の今年の抱負。
まぁ、これは、未婚の20代半ばのまだまだ若い女のひとつの考えです。
夢物語かもしれません。
お互いの両親と都合をつけて、挨拶をするでしょう。
そのあとは、両家の両親とわたしたち揃っての顔合わせがありますよね??
具体例は知りませんが、わたしはここに半年くらいかかるのでは??
とおもうのです。
つまりまず、プロポーズから入籍までには半年かかるということです。
同時進行で、といっても、せめてお互いの親への挨拶だけでも済んでから結婚式について考えていきたいところです。
これはきっと考え始めてから1年後くらいが式の日になるとおもうのです。
計算してみてください。
仮にここでは、プロポーズから1年2ヶ月後に結婚式を挙げたとしましょう。
そして子供です。
だいたいの女性はそう思っているのではないだろうか、とおもいます。
(でも子連れ結婚式も楽しそうだし自分の子供のドレス姿はきっと死ぬほどかわいい)
なんなら、新婚旅行が終わったタイミングで妊娠できるのがベストなのでは、と思うのです。
最短の期間を算出したいので、今回の設定では結婚式後そのままハネムーンにも行ってしまいましょう。
結婚式とハネムーンが済んだ次の月、思惑通り妊娠したとしましょう。
「30までに子供を産みたい」
逆算しましょう。
つまり、27歳の最後の月にはプロポーズされなくてはならないのです。
「30までに末子まで産みきりたい」
どうなるでしょう。
もちろんデキ婚や、結婚式なんてしない、ハネムーンも別にいいのでは?入籍したら子供はいつでもいい!とかとか
元々は子供は要らなかった、つーか喪女で結婚も出来ないと思ってたしどうでもよかったが妹が子供を産み、その赤子が超絶可愛かった。
この子の為なら死ねると言ってたら妹から「そういうのは親がやるからおばさんが重い愛をそそがんといて自分の子供を作れ」と言われた。
それもそうだ子供が欲しいと思ったのでギリギリ二十代で結婚する事にし、幸い母親の新しい友達にお見合いおばさんがいたので紹介してもらい結婚、相手も高齢童貞だった。
毎晩頑張ったが痛そうな顔をすると夫が萎えて終了を半年ほど毎晩続けた。
子供はまだなの?若いから気楽に思ってるかもしれないけどそろそろ孫が見たい。と言われる度に処女懐胎は無理と思ったが高齢処女で旦那も高齢童貞なのでやり方が解らないのは人には言えない話題だった。
一人で行ったそうは手術の麻酔からさめたら、カーテン越しに妊婦さんが血液検査で明るく「血管には自信があるんです」と笑っている声が聞こえて辛かった。
最初は辛い程度だったのがぶどう子で異常に分泌されてた妊娠ホルモンが一気に消えた影響と流産のショックでその晩から不眠に苦しみ鬱のようになり、死ねお前のせいで子供が死んだと夜中に幻覚幻聴が聞こえ気絶するように眠り朝起きたら絶望を感じ地獄だった。
悪阻がきつくて妊娠してない体に戻りたいと思っていた事を思い出しては泣いた。
旦那の親に妊娠を伝えた直後の流産だったので旦那に流産を伝えるように頼むと「病気で流産した」と電話で話しており、その言い方だと性病と勘違いされるだろうが!!!と腹が立ったのを覚えている。
その後ガンになる危険があったので検査のために医者に子作りをしばらく止められ、やっと出来たがまた流産をしてと数年経った頃に旦那が睡眠時間も足りない程の超激務になりセックスが出来なくなった。
親は孫を見たそうだったが、セックスせずに子供は出来ないとは言えなかった。
その後運よく正月休みに体力回復してやったセックスで子供を授かったが、ある日夜中にトイレに行くと真っ赤な血が大量に出てきた。
旦那は過労死が心配になるレベルの睡眠時間だったので伝えてから家で寝かせて、母に電話をして泣きじゃくりながら病院に行きそのまま入院、看護婦さんがお腹を温めるカイロを持ってきて聴診器で赤ちゃんの心音を聞かせてくれた。
また長期の入院になり今度は退院したらそのまま私の実家で寝たきりになるように指示された。
薬は飲んだら冷や汗が出るくらい副作用が強い、横向きになったら腹がはるので上向きで姿勢が固定され、トイレ食事風呂以外ずっと寝てるので大きな腹に圧迫されて背中やお尻は真っ赤に腫れて痛かった。
ギリギリで子供が逆子になり帝王切開で出産、顔を見た瞬間に幸福ホルモンが脳に溢れて物凄い愛しさと幸福感に包まれ涙が出た。
不妊様の精神的なつらさは努力至上主義みたいなものにある気がする。
つわりのつらさが人それぞれなように、不妊治療の体のつらさも人それぞれで、軽い人も重い人も居るんだろうと思う。
ちなみに、悪阻は一番ひどい場合、母体の生存が危ぶまれるからと中絶することがあるらしいね。
真面目な人ほど「努力は報われる。成果が出ないのは努力が足りないからだ。」にとらわれてしまって、それをこじらせると「私よりも努力していないはずにやつが報われるのはおかしい」という呪いが生まれるのではないかと思う。
不妊治療をする人のステレオタイプを勝手に予想すると、それなりの学歴があり、それなりの職歴もあるようなある種の成功者で、努力が実ってきたタイプのように思う。それ故に、努力が実らないという人生であまり経験したことの無い現象に戸惑い、こじらせてしまうこともままあるのではないかと思った。
たぶん、努力が実ってきたのは男女雇用機会均等法(とその改正)によって、女性の登用を積極的に行っていこうという時代の下駄があったからというところもあるんだろうな。50代-60代が成功したのと同じように。
http://anond.hatelabo.jp/20160427195509
また芸能人のゲス不倫がどうとか話題になってるけど、もう皆気づいてるよね?
日本人男性は子供を授かっても「金食い虫が増えるなあ」くらいの感想で喜びなんて一切ないし、
自分の出したもののせいで妊娠して悪阻に苦しむ妻を見ても「やれない女が家に居て邪魔だなあ」としか思わないんだよ。
今後日本人男性と結婚を考えている女性は、上記のような生き物だってゆう前提を忘れないでほしい。
少なくとも、「まともな人間の父親」になることを期待しちゃいけない。
追記
おばさんは既婚の選択子梨です。若い女性と性交渉することしか考えられない男性には理解できないかもしれませんが、
妻の悪阻が、割と重い。
悪阻が始まって1ヶ月と言う期間ですでに8kg痩せた。
でも、悪阻って結局入院してもブドウ糖+ビタミン剤レベルの点滴で
僕は自営業で自宅作業がメインなので、妻が妊娠してから基本的にずっと側で見ながら仕事をできている。
会社勤務の方に比べれば、妻にとっては側に居てくれる事自体ありがたい事だと言ってくれる。
側に居られても、できる事は、基本的に、背中さすってあげたり、食べたいと言った物を用意して上げるくらい。
痛みや苦しみは変わって上げられない。
僕の母は悪阻が一切無かった人だし、親戚も、そこまで重い悪阻になってないので
女性からの意見でも何となく遠巻きな「大変だねー」っていう一般的な一言を頂く事が多い。
逆にそれが辛い。
と、言いたくなる。
そして、周りの子持ちの男性達に聞いても意見は皆そろって、そのリアルを見た事が実際に無いんだろうなという話ばかり。
まるで誰にも理解されず、僕らだけこのリアルに直面し続けている。
もう、この辛さを止めて中絶してくれと、言いたくなるときがある。
嬉しいはずなのに。
こんな気持ちになった人は居ないのだろうか。
試行錯誤して、痩せないように食べられそうな食べ物を試作しては試してもらい、また吐かれ・・・
諦めない僕が人生で初めて心が折れそうになる日々だ。
1日、1日と生理が来ない日を重ねて気分は重くなっていった。
観念してついに検査薬で陽性が出た時、やっぱり喜べない自分に泣きたくなった。
契約社員ながらも色んな人と関わりあって、大した仕事ではないけれど頼りにしてもらって、
カツカツだけど自活して自由に過ごしていた独身時代のことがどうしても懐かしい。
それでも、母親業も馴染んできた。
三ヶ月頃までは愛猫の方が可愛いと思っていたけれど、今では我が子は愛らしいと思う。
子どもを持つ喜びも実感するようになった。
良いお父さんをしてくれていると思う。
一歳を過ぎてやっと少し自由が得られるようになったのに。
また悪阻の辛い日々が来る。
悪阻を過ぎても、身体が重くなるにつれ、地味なしんどさが増していく。
出産の大変さは言うまでもなく。
睡眠不足の日々がやって来て、きっと産まれたばかりの赤ちゃんに、私は愛情を持てない。
新生児に外の刺激を与えたくないとの夫の希望で、外に出ることを許されず家の中だけで過ごす数ヶ月。
昨日の夜、中絶手術を受けた。
経済的に幸せに育てるのが難しいこと、お互い同棲だけで結婚してないことから中絶を選択した。
手術の日までは悪阻もひどく、少し動いただけですぐ疲労してしまったり仕事もなかなかこなせなかった。
中絶という最低な選択を取ったけれど、手術日までの間だけでも名前を付けて可愛がろうとしていた。
エゴだけど。
当日、術前術後のベッドで彼に付き添ってもらえるかと思っていたが病院川に拒否され、彼には病院外で待って貰うことになった。
私は昔から相当なビビリで病院が苦手なので、かなり不安感があったが、子供も一緒だと思うと頑張るしかないという気持ちになった。
分娩台に乗せられ、右腕に注射をされた。
駐車をされている中、左隣でおばちゃんの婦長さんが「二度とこんなことやっちゃだめよ。」
と言っていた。
私は「もう一度妊娠することは可能ですか」と聞いた。
婦長さんは「出来るわよ。ちゃんといい人と巡り会って、恋愛をして結婚して、それから子供三人ぐらい産んでね。その時はうちの病院に来てね。」と言った。
怖かったので彼の顔や、家族の顔を一人ずつ思い出していた。
貧血で倒れるときに似た感覚で、注射後すぐ手がしびれ、耳が遠くなり意識が無くなった。
真っ白な景色の中、親戚一同、死んだはずのおじいちゃんやおばあちゃんも勢揃いしていた。
私の名前を呼んでたくさんの愛情を貰い、すごくふわふわした気持ちになれた。
皆揃ってるから彼を紹介しなきゃ!行こう!と彼の手を引いたところで目が覚めた。
意識は戻ったが体がまだ動かず、なんとかしてスマホを取り彼に連絡した。
後から見返すと日本語がうてておらず、さらに途中で時間が飛んでいたので連絡中何度もまた寝ていたのだろう。
お腹の痛みはあまりなく、元々生理痛がひどい私にとってはどうってことない痛みだった。
診察を受けるため着替え、歩いて診察室に向かおうとしたが、尋常じゃない吐き気と動かない体に驚いた。
看護師さんは「麻酔きいてなかったからいっぱい投与したからねぇ」と言っていた。
診察でお医者さんにふらふらしながら「すみません。ありがとうございました。申し訳ないです。」と言ったが無視された。
その後は彼にタクシーを呼んでもらい、起きあがると気持ち悪かったのでアパートの三階まで恥ずかしながらお姫様だっこで持ち上げてもらい、全部の世話をして貰った。
そして眠りに落ち、目が覚めて今に至る。
以前までは起きた瞬間悪阻が酷かったのだが、今は全くなく、お腹の痛みだけがある。
妊娠発覚から術前日までに三キロ増えていた体重が、さっきは二キロ落ちていた。
言い方がおかしいかもしれないが軽い。
これで本当に子供が亡くなってしまうのか、あの幸せな夢を見ている間に私の子供は辛い思いをして死んでいったのかと思うと変な気分になる。
よくわからない。
腹が出ているならともかく何で妊娠初期の普通と変わらん女がマタニティマークをつけるんだ
みたいな話を見ると、妊娠初期は流産しやすいとか悪阻で苦しいと知らんのだろうなぁ
電車に乗るなと言うのを見ると会社は初期から休めないと知らんのだろうなぁ
タクシーに乗れと言うのを見るとタクシーの値段を知らんのだろうなぁ
ベビーカーを使わず抱けと言うのを見ると子供の重さを知らんのだろうなぁ
子持ちが百貨店に来るのは非常識と言うのを見ると百貨店は子供超ウエルカム体制と知らんのだろうなぁ
ベビーカーをエレベーターでたたむのがマナーと見ると一日何度も畳んだり赤子を起こす苦労やエレベーターは車椅子ベビーカー優先と知らないのだろうなぁ
最近の赤子のおもちゃは原色で下品と言うのを見ると赤ちゃんはぼんやりした色が解らないと知らないのだろうなぁ
まぁ産まないとわからないわなぁと思ったら、叩く人たちが一番怒り狂う単語がそれで、しかし産まないと解らないんだろうなぁとしか言いようがない事ばかり言ってるし何なんだろうなあの人たち。
悪阻で入院する事もあるが出来るのは点滴での水分栄養補給くらいだ。
入院した母や数ヶ月38℃以上の高熱で炭酸水しか飲めなかった姉に比べ、私は楽な方だったが毎日が二日酔いのような最悪の体調に数ヶ月耐えた。
何でこの苦しみを楽にする方法が開発されないのか解らない。
出産にしてもそうだ、人間以外の動物はまっすぐな産道でスルッと出るように出来ている。
人間は二足歩行のせいで産道はS字になりお尻や太股の筋肉や贅肉で産道は細くなっている、しかも赤ちゃんの頭は大きい。
陣痛の長さも哺乳類最長、しかし人類が二足歩行を始めてどれだけ経ってると思ってるんだ。
そろそろお産が楽になるように進化をしてもいいはずだ。
ウサギみたいに餌を食べながらスルスル出ましたってなってもいいはずだ。
そう考える人が多いので言わせてください。
世の中には様々な理由で主婦している→資産を夫名義にしている人
たくさんいると思います。
子供が学童で居場所がなくて帰宅してくるから パート程度しかできない。
双方の親の介護 不登校 習い事の送迎 病気がち 産後うつ 強烈な悪阻
他にもさまざまな事情があるでしょう。
妻の相続分は守られているという人もいるけど、
自分の子供のために心身ともにボロボロになっても耐えてきたんです。
家庭を維持してきたんです。
その労働や労災を金銭にかえて 夫に支払わせたら破産してしまうでしょう。
なんで努力して努力して積み上げた財産を他の家庭の子供に持っていかれなければならないのですか?
夫にのみ責任があるのですから摘出子の二分の一が妥当でしょう?