うちの母はスラッとしたカッコいい女性が憧れだが自分はチビデブ(母の談)だからそういう格好ができないといつも口癖のように言っていた。そのせいか、娘である私にボーイッシュな格好をさせたがったし、そんな格好をさせられた3歳の私が道であった外国人に「ボーイ?」とニコニコ声をかけられたというのが、母からもう何千回と聞かされた自慢話だった。
でもその裏で、幼児だった私が欲しいと言ったお姫様ドレスも、みんなが履いていた段フリルのスカートも発表会の花柄ドレスも全部罵倒の対象だった。笑ってバカにして、私にさせてる男の子っぽい格好やスッキリとしたデザインの服が一番可愛いと何度も言った。うちの子が一番可愛い他の子は全く可愛くないと。他の子はダサくて芋くさくてどうしようもないと。私は常に誰かへの否定を聞いて育った。
◇
私は発達の早い子供で、文字が読めるようになるのも抜群に早かった。賢い子ってのが小さい頃からの周りの評価で、周りの多くの人達が「ご両親に似たのね」と言った。母にはそれが最高の自慢だった。でも、私は高学年になる頃には落ちこぼれて、勉強について行けなくなった。
勉強しろと何度も言われたけど、勉強のやり方もわかっておらず、結果は出なかった。そんな中でも自分なりに考えてテスト前に一生懸命作ったノートを母に見せたら「今更そんなことしてんの」とまたバカにされた。机に向かえば「明日は雨が降るんじゃないか」と、わざわざ私の部屋を覗いては、母は何度も笑った。
中3の頃、教室で私立高校の案内本の制服特集を眺めていたら、担任が「ここの制服可愛いよな?どうや?」と私に勧めてきた。可愛い制服がウリの偏差値はお世辞にも高くない学校。今思えば私の学力にちょうどいいレベル。
でも私の答えは「制服がバカっぽいから嫌」担任がものすごく驚いた顔をしたのを見て、自分がひどい事を言ったことに気づいた。二度と口にしなかった。でもこれは母からずっと言われ続けてきた事そのままだった。バカっぽい制服。そんなところには行くな、と。
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結局、私は高校は地元の底辺校に進んだ。その程度の成績しかなかったからだ。入学説明会の日、同じ高校に進む事になった近所の小学校からの同級生の子のママさんが「お互い良かったですね」と母に声をかけたんだそうだ。そのママさんは高校合格を素直におめでとうという気持ちだったんだろう。
入学説明会からの帰りの車の中で「なんであんな子の親に『一緒でよかった』なんていわれなくちゃいけないんだ。恥だ。」と殴られた。この件はさすがに母も後からやり過ぎたんだと思ったんだろう。数年が経った頃に「あの時は悪かった」と潤んだ目で唐突に謝られた。「別にいいよ」と私は小さな声で答えたけど、それ以外の返事が許されただろうか?
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大学は家を出て、実家から離れたところで一人暮らしをした。相変わらず私の成績は悪く勉強も好きではなかったが、大学進学は幼い頃からずっと母に言われ続けてきた進路だった(短大、専門、就職は母の激しいdisりの対象だった)し、一人暮らしも母がそうさせたいと強く希望した事でもあった。なぜなら、母自身がそういう学生生活を送ったからだ。
一人暮らしを始めてから、バイトをしたいと何度も言ったし、実際いくつかしたけど、その度に母は「学生のうちから働くな」「金なら全部出してやる」と繰り返し、実際私がシフトがあるから実家に帰れないといえば「そんな事より家族を大事にすべき」「親不孝だ」と私がバイトを続ける事を良しとしなかった。
それに乗って「じゃあいいか」と甘えた私にも問題はあったのだろう。しかし、それからはずっと「あんたは親に全部金を出させた親不孝者」「あんたは恵まれている。親に感謝すべき」「すねかじりが偉そうに金返せ」と言われ続けている。
自分が認めなかった事も、自分がそうするように私にいい続けた事も、母の中では全部なかったことになって、私の希望を全部言われるままに叶えてあげた優しい親だと自分の事を思っている。そして「子供の犠牲になったかわいそうな私」と繰り返しアピールするのが母のいつものパターンだった。
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同じ頃、父の浮気騒動があった。母は荒れた。何度も実家に呼び戻され、家族のための時間を過ごせと言われた。当時高校生の弟と二人で、母から涙ながらに「お父さんは『エッチはしてない』と泣きながら話した」と聞かされた。何で自分の親のそんな話を聞かなくてはいけないのだろう。心底気持ち悪いし聞きたくもないと思ったが、黙っていた。弟も何も言わなかった。
泣いて喚く母の話を何度も聞き、母を否定しないように過ごした。少しでも母を否定するニュアンスのことを言えば「あんたまで私をコケにするのか」と罵られるからだ。散々罵倒されたあとは「あんなことを言って悪かったね」と泣かれる。そして「いいよ」と私は言わなければならない。おきまりのパターン。そんな気持ちの悪いやりとりをできるだけ避けたかった。
両親はその後関係を修復したようで、この頃の事はなかった事のように蒸し返されることのない家族のタブーになった。
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母は当時はまだ少数派のフルタイムWMだった。父も一流企業の研究者で、高給取りだったので、母は止むに止まれず働きたくないのに働いていた…というわけではない。母も仕事がしたかった人だった。それは別に生き方の一つの選択だと私は思う。
でも母はそうは思ってなかった。働く自分は最高で、専業主婦がいかに無駄で無能か、そんな選択はバカだ、そんなだから○○ちゃんの母親や××ちゃんの母親は…と友達の親の非難を何度も子供だった私に聞かせた。
私が学生の頃も社会人になったあとも母と同じ職を選べと何度も言われたけど、それは断った。資格を取るための金も出してやると言われたけど、その職に興味がないからと避け続けたのは、今となっては本当によかったと思う。
私は妊娠した時に、仕事も辞めて一旦専業主婦になる道を選んだ。旦那の希望でもあったし、私の希望でもあったから、私たち夫婦の中ではそれで問題はなかった。
でも、母は自分が散々バカにしてきた専業主婦の道を自分の娘が選んだことが面白くなかったようで、私が悪阻が辛いと寝ていると聞けば「私は仕事をしていて悪阻なんかで倒れていられなかった」と電話をしてきては繰り返した。
産後、初めての育児がしんどいといえば「専業主婦がしんどいわけあるか」「専業主婦のくせに忙しいわけがない」とバカにして笑った。その後にはいかに自分が働きながらの育児に苦労したか辛かったか、そんな思いをさせたあんたは親不孝、感謝すべきという言葉が必ず並んだ。
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産まれたうちの子供は障害児だった。たくさん本を読んでネットでもたくさんの親子に関する情報に触れた。親子で療育にも通い、子供への接し方についても多く学んだ。そんな事をしながらの第二子の妊娠出産。ここまでそれなりに大変な育児だったように思う。
そして、そんな子育ての中で薄皮を剥がすように少しずつ少しずつ、母の私に対するあれこれはおかしかったのではないか?そういう思いが私の中で浮かんでは消えていた。
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数年前に実家はリフォームをした。私はインテリアや住宅特集を見るのが子供の頃から好きで得意だったのでアドバイスをして欲しいと言われ、何度も実家に通った。担当の営業マンと、ここはこういう風にした方が…なんて話を一生懸命していたら横で聞いていた母が「はっ。偉そうに。」と吐き捨てるように言い放ったのは今も鮮明に蘇る。
自分が手伝ってくれと呼びつけておいたものの、娘が自分を差し置いてイキイキと一人前に話をする姿に耐えられなかったんだろう。思えば、子供の頃から私が何をするにも「偉そうに」「いっちょまえに」「でも○○はできない」という言葉が付いてきたな、と思った。この頃から違和感がはっきりしてきたように思う。
◇
定年を迎えた母は頻繁に我が家に来るようになった。孫へと過剰なほどの物を抱えて「ここに来ると金がかかる」と口癖のように言っていたが、どこにでもいる孫に甘すぎる祖母の姿だと思っていた。
母は会うたびに、私の掃除の仕方、家事の仕方、夕飯のおかずの品数、体型、服装、生活全てを笑いながら否定し、自分はいかに頑張っているかを語っていたが、私は黙って聞いていた。母にとってそれは最高に面白いジョークのつもりだったからだ。
内心では苛立つ事もあったけど、それを表に出せば、それ以上の言葉で否定されるのがわかっていた。母のその性格が治る日が来るとは思えなかった。老いていく母にもうそれを指摘するのも酷だと思っていた。だから私は何も言わなかった。
他人からみれば、楽しそうに会話する仲のいい母娘に見えていただろう。
◇
しかしついに母と揉めた。きっかけは些細な売り言葉に買い言葉だった。私の中で剥がれ落ちた薄皮は相当な量に達していたのだろう。違和感に私が我慢しきれなかったのだ。
私に反発された事で、母は発狂した。浴びせられるマシンガンのような暴言と否定。今までの私の人生を否定し、いかに親不孝かを叫び怒鳴り散らしながら、自分は子供(私)のせいで我慢を強いられているんだと喚き散らす母に「私にだってずっと我慢してきた事はある」と初めて言った。母はその内容を聞く事なく「お前のなにが我慢だ。親不孝め」と、また暴言と否定を吐き続けた。
その場に居合わせたうちの娘たちは、自分の母親(私)が目の前で罵倒される姿を見て、驚いて固まっていた。そして不安がって泣いた。その間も母の暴言は止まらず、うちの娘の障害名まで母は私への罵倒の言葉に使った。娘たちの前でだ。無理だと思った。もう無理だと思った。
母は自分で「どうせ私は毒親だ」と叫んでいた。そんなふうに考えた事は今まで一度もなかったが、その時初めてそうかもしれないと思った。そしてまた、もう無理だと思った。
◇
この先、私はどうするのか。もう答えは決まっているのではないか。本当にそれができるのか。いまはまだ立ち止まっている。
しかし目の前の扉は開いてしまった。扉の向こうの世界は明るいだろうか。険しいだろうか。一歩を踏み出す決意をしたい。それが娘である私の今年の抱負。
とても、よく分かる。 反省は多分しているんだ。そのときは。 でも、カッとなったら又何度も同じ事をする。 駄目だよ、気をつけないと、と中尉をすると、自分を否定されたように感...
親と 相性が 悪いときには 離れること 一緒に 生活していても いがみ合うだけのこと https://anond.hatelabo.jp/20180102031201
子供を産む度に自分の母との関係を洗い出すチャンスはあったのに気づくのが遅いよ。 やられて嫌だった事を母親に叩きつけて(手紙でも日記でもいい)自分の母の子育ては間違っていた...
決意も何も、既に増田は一歩も二歩も踏み出しているように見える 自由になれるよう応援するよ、がんばって
今年も女は毒親叩き
はい創作〜〜〜 スラッとした女性に憧れているが自分がチビデブであるという現実の落差と、娘にボーイッシュな格好をさせることが全然繋がってませんよー? そもそもスラッとした女...
私は自他共に認めるスラッとしたスタイルですがフェミニンな服装もカジュアルで中性的な服装も何でも着ますよ 誰もそんな自分語り聞いてねえ~~~wwwwww 骨格診断して似合...
「代理ミュンヒハウゼン症候群」のやや中度程度の母親。重度になるとわざと娘を病気にして、「懸命に娘を看病する可哀想な母親」を演じ始める。気をつけろ。ひどい場合は娘は巧妙...
詳しいな。と思ったら、俺のコメント?
結局、金がほしいって話?
この増田母って異常に見えるけど 実際世の「母親」ってのはこんなタイプすげえ多いんだよな 義母がまさにそんな感じなんだけど よくあの親からこんなまともな人間に育ったわと会う...
うちの母も元増田の母みたいな感じ(私30代前半、母60代後半) だけど元増田と違うのは、私の場合は不愉快なことを言われたらその場で(あるいは日を/場所をあらためて)確実に抗議...
でも母親が病気かなんかで弱音を吐いたりしたら今までの仕打ちをころっと忘れてまた言いなりになっちゃうんでしょ? 親離れなんて生ぬるい気持ちじゃなくて親死ね、親殺すくらいの...
貴方が考えている行動を、貴方が出来るかどうかは分からない。状況が良くなるか悪くなるかも分からない。 しかし、貴方には、貴方自身の子供が居る。貴方の行動の結果は、貴方だけ...
最初と最後の三行だけ読んだ 母親の呪縛から離れて自らの可能性を模索することに挑戦しはじめたか よかったね
長い。
抱負 2017年末とくらべて2018年末の自分が10%成長する 自分のタスクを棚卸して、使えなくなったスキルを捨てる 残ったスキルの数を数えて、その1/10、新しいスキルを増やす -スキル...
自分の日記かと思うくらい共感できる。 うちの場合も、子供の興味を削ぐような言葉を浴びせることが多く心を折られた事数知れず、男友達ができれば執拗な詮索と着る物チェックなど...
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この先、私はどうするのか。もう答えは決まっているのではないか。本当にそれができるのか。いまはまだ立ち止まっている。 しかし目の前の扉は開いてしまった。扉の向こ...
女性が自身の悩みを文章で吐露すると、はてなーはすぐ、「文中に旦那さん or お父さんが出て来ないけど、男性はどうしてるの?男性はなぜ協力しないの?」 って言うけどさぁ、書...
1/2成人式みたいだよね。 ほとんどの親が子供に良くしていて、たまたま自分の親が毒だったのか。 「親は子供に良くするもの」「それを子供が感謝するのは当然」という社会的な前提が...
どこの親もみんなちょっとずつ狂っている。
どこの親もみんなちょっとずつ狂っている。
どこの親もみんなちょっとずつ狂っている。