はてなキーワード: 土地とは
この1か月、あらゆる国の観光客が大勢この工場付近を白い恋人の濃紺の紙袋持って楽しそうに歩いてる
今日の夕方、仕事帰りにいつものとおり地下鉄駅直結の西友に寄ったら、店頭の果物売り場に中国人観光客の団体がいて大きな声で談笑していた
しばらく見てるとどうやら目玉商品の旬の山梨産白桃で盛り上がってるらしい
もうしばらく見ているとみんな2個入り4個入りのものをそれぞれ手にとって店の奥へ歩いて行った どうやら買っていくみたい
国に送るのでも持ち帰るのでもなさそうで(そもそもそういうことできたっけ)、きっとスーパー直結の地下鉄からどこかの駅近のホテルまで帰って、そこで食べるのだろう
中国の人の間で日本の果物、有名なのかな?スーパーで買って食べるみたいな旅行の仕方、流行ってるのかも
考えたら日本人もハワイとかヨーロッパとかで同じようなことやってるしね
でもその桃山梨産だよー北海道もっと味わっていって~今メロンがめちゃ旬だよ!!と思ったけど、例えばソウル行って済州名物みかん買って食べるとか多分普通にあるもんね
自国で買うより新鮮だろうし手に入りやすいだろうし、日本の色んな土地のものをできるだけ手軽に楽しもうと思ったらいい手なんだろうな
私はこの季節桃よりスイカやメロンだな~と思うけどなんなら個人的にプラムにハマってるけど、日本の桃っていま中国で特別有名なんだろうか
中国なんて桃の本場みたいなとこなのになんか不思議な気持ちになった 年配の方多かったけどあれ食べきれるかな、ともあれ楽しんで帰ってほしい
(とはいえ観光客のいない頃の白い恋人パーク近辺、とても静かでよかった コンサドーレ練習場横のレストランもすきすきで眺めいいとこでめちゃゆっくりできてよかったな たまに練習見たりとか
もう二度とあのゆったり感戻ってこないんだろうな……と思うと寂しくもある)
「人殺しの顔をしろ」ってそういう意味じゃないだろ……って見かけるたびに思っている
このフレーズってこのブログの記事がきっかけで広まった認識なんだけど
https://goldhead.hatenablog.com/entry/20101212/p1
言っておきますが、この記事にはお化粧も、予定調和もありません。いつものように、人間のふりをしていません。私は人殺しの顔をして書いている。だから、さらに話を広げてしまうとすれば、私にはこの記事の町内会長の男性(62)のように持ち家も土地もありませんし、おおよそ年収200万円程度の人間に過ぎませんが、私も失いたくないし、私のこの生活が成り立つためであれば、どこかの誰かが職を失ったり、人格が破壊されるほど惨めな目にあったりしようが、知った話ではありません。ましてや、日本であるという程度の理由でこの王侯貴族のような暮らしが成り立つなら、どこかの国で悲惨な児童労働が何百万件行われていようと、知った話ではありません。知った話だとしても、知った話ではありません。せめて、人殺しの顔をしたい。
「今の私の暮らしは他の誰かが犠牲になることで成立している。だが私自身が代わりに犠牲になりたくない。しかしせめて誰かを犠牲にしたという自覚を持つ。」って意味だと思うんだよね
それが芸能人が自殺して、批判だか誹謗中傷だかしてた人に「人殺しの顔をしろ」って言うのは……
「自身の行為が悪だと自覚せよ」って意味で言ってるんだと思うんだけどね
そりゃ「自身の行為が悪だと自覚せよ」って意味の大意は同じだけどさ
生活を成り立たせるためにやむをえず行う「人殺し」と、積極的に批判だか誹謗中傷だかをする「人殺し」は違うだろ
まあミームってのは意味がどんどん変質していくものだから、これは当たり前の事ではある
だが元々のブログ記事が言いたかったことが忘れられているような気がしてちょっと悲しくなってしまう
(それとも私が知らないだけで「人殺しの顔をしろ」ってセリフは他に元ネタがあったりするのかね、だとしたら納得ではあるんだけど)
https://anond.hatelabo.jp/20230713110743
id:goldheadはその前から「人殺しの顔」論法を使っているが、
https://goldhead.hatenablog.com/entry/20101003/p2
たとえばこちらの記事では、横浜市が「市民の半数がアダルトビデオを問題視するように教育する」ことを目標にしていることについて、
とし、
と結論している。
教えてくれてありがとう
肉:潰したての豚レバーに胡麻油と塩をかけて食うやつ、安全性は知らん
魚:どっかの居酒屋で出てきた鮎の塩焼き
米:2004~2008年ぐらいのどこか(正確な年は忘れた)に出来た福島県産コシヒカリの炊きたてご飯、これはマイ(米)人生のベスト・オブ・ベスト、まじ美味かった
マシだがまぁまぁマンションに比べると戸建ての居住性は悪くなりがちと言うと、
今時の戸建ては〜とかいう人たちがいるが、気付いたんだよな
もしかしてこの人たちって首都圏のペンシル建売住宅を見たこと・・・・ない?????
首都圏のペンシル建売住宅はなぁ、壁厚を確保する気があったら、
出窓にするか、そもそもそこには窓はつけられない! っていうところに窓が付いてたりするんよ
そう、高断熱・高気密・防音以前にくっっそ壁が薄いんだね。10cmくらいしかなさそうな家とかあるぞ
それもぜんぜん大昔に建てた家じゃない
2010年代、なんなら2020年代に建てられた建売住宅でめっちゃ壁薄い
つか、明らかに築20年内の家で石油ファンヒーター使ってる!豪雪地帯じゃないのに!
耐震性については、建築基準法や地方自治体の条例によって明確な基準が設けられているので、
断熱性能については、耐震性と比べて明確な基準が設けられているわけじゃないのでまぁ仕方ないね
早く義務化するべきやね
父が死んだ。葬式もした。
喪主ではないし長々としゃべっても飽きられるだけだからここで自分の整理がてら、書いておこう。
父という人間のことはなんといって表現していいかいまだによくわからない。というのは母が強烈すぎるからである。
父は1940年代生まれの日本人男性である。出身地は西の方の川沿いの豊かとはいえない田舎町である。
6番目の息子である。工業高校に通うために下宿がてら養子に出されるまでは、兄の一人に小遣いや親の愛を搾取されていた。
(おそらくそのせいで自分へのいじめにはとてもドライである。いじめが嫌いだし、「ズルイ」という言葉も苦手である。)
工業高校卒業後は、工場のあった景気のいい化学系メーカーに就職した。読書が好きで(速読で)すこし本で勉強すればペーパーテストはたいてい受かる。
職場ではじまった国内留学のような制度の初年度生にえらばれて会社のカネで大学の化学科に進学した。
学費の足りない分や生活費は賭けマージャンで補っていたという。のんびり無口なくせにダマテンかメンタンピンか即降りの雀風である。
趣味は登山で、安くて黒いカメラも一応持っていた。(父が人生でもっともイケイケだった時代かもしれない)
そこで一学年年上にあたる女性と出会った(大学では同学年)。九州で育って浪人して偏差値で選んで入った教育学部にいた女性は、はきはきとしゃべり美人で笑顔が気さくだった。
怒るとまくしたてて手が付けられないが、おこっていなくても気を許した人間の前では延々とラジオのようにしゃべっている。
話すうちに多少の脚色も入って来る。それを父はわかっているのだがいちいち訂正しない程度にはおおらかな父と女性は気が合ったようだ。
1960年代?の大学には学生闘争が(東京でとくに盛んに)あった。田舎の大学にも多少の余波はあったが、両方とも危うきに近寄らずで敬遠していた。
父は卒業後化学企業にもどり、女性は数か月だけ「印刷会社の腰かけ事務職」をして寿退社。初任給で洋裁用ハサミと広辞苑を買ったという。
二人は親へ挨拶をすませ神前式で結婚式をあげた。新婚旅行(国内)ではパンタロンにネッカチーフなど流行の服をきたイケメンの父が観光名所の立て札の前でまぶしそうに笑っている。
1970年代。m市の社宅に二人暮らしで妊娠。里帰り出産でまるまるとふとった増田を生んだ。ぴかぴかの母の笑顔は(そのころまだモノクロ写真しかなかったので)モノクロームである。(追記:よく考えてると写真現像紙の質が悪くて色褪せてただけで新婚旅行も出産も一応カラーだ)
夏だが一般家庭にはクーラーがないころだ。産院にはあったそうだが、おくるみでぎっちりくるんだ写真をみるに母には赤ん坊を薄着にするという考えがなかったようだ。
(なお増田は今も超絶汗かきである。失うはずの汗腺が全部残っている)
二人目もm市在住で西に里帰り出産した。このときは増田も母実家に連れていかれた。
このころ叔父が浪人してから医大に入って実家から通っていた。叔父はマンドリン部に入ったといって増田になにかを弾き語りしてくれた。あと本好きの増田に学研の漫画の植物百科を買ってくれた。
三人目を生む前に父は関東のk市に転勤になった。おそらくこのへんで、父は化学から離れたようだ。(父、転身)
というのは、データベースで父の名を探したことがあるのである。染料の特許か論文かに1-2件だけ名前があってぷつりと途切れた。
というわけでk市で三人目が生まれた。そうして5人乗り自家用車を買っていろんなところにつれていってもらった(なおそのころベビーシートはない)。
だが車内で父はタバコを吸った。車内はひどい匂いでひどく揺れ、子供たちはぐったりしていたし従兄弟などはゲロを吐いたこともある。あまりいい思い出はない。
(母は父に「ニヒルなくせに私にだけやさしい大人の男性」というイメージを抱いていた。一時期はタバコも容認~勧めたことがあったようだ。実際は父のほうが年下で気弱ですらある)
そうしているうちに二人目がアレルギーという未知の病気にかかって(そう、1980年代にはアレルギーによる気管支喘息すら新規だった。父も母も本を買いあさった)、
そのころの(無鉛ガソリンとも限らない)車の排気ガスがアレルギーのもとだ、という説にすっかり怯えてしまい、「もっと田舎っぽい場所に家を買いましょう」となった。
とはいえ社宅だって、そこそこ郊外で、隣は竹の子がとれる竹林だったのだが。
まあ、3人の子育ての忙しさの中で狭い金魚鉢みたいな社宅でのハイソ自慢、愛され自慢だの、昇進自慢に母が飽き飽きしたんだろう。
そこで知ったのだが父はいつのまにか一級建築士になっていたそうだ。意気揚々と自宅を設計し現場監督がてら家族をつれてわくわくとみせにいった。
(このへんで、のこり全部の西にいる親類から「東京の叔父さん」と呼ばれはじめる。後日つくば万博やディズニーランド、成田への前泊などで宿をお貸ししたこともあるようだ。)
お礼にとめてくれる親戚をたどってお盆に西をめぐったこともあったがそう回数は多くない。いつも核家族の5人が一緒であった。
そのあと増田はなんとか就職して、ひきとめたがる母親と喧嘩しながら「自分の金で」一人暮らしをはじめ、あまつさえ恋人ができたというと、
母が「空の巣症候群」というやつでいろいろとヒステリックになりはじめた。
子供が「いやもう自分は大人だから口出しをするな、するなら人生の最後まで口出しする覚悟をしろ。恋人よりよい伴侶候補がいるならいますぐつれてこい」とブチ切れてやると、
父親に「ウエーンくやしい!」と子供のようになきついていた母を思い出す。
その後も「恋人を家につれてこい紹介しろ」というからそのとおりにしたところ「こんにちははじめまして」の二言目に「うちの教育方針は!」とはじめたのでみんなでドードーしたのをおぼえている。
子供を教育することが母の生きる目標だった。母には並列処理はできないのである。教育となったら教育だけをするのだ。
「もういいから子供にかかわらず好きなことをしな」というと……。
しばらくしてようやく、母は広い庭をいじりたいから、もう一軒家を建てて引っ越すといいだしたのだ。
庭で草花をそだてていれば嫌なことはすべてわすれられるという。
父は母のことを浪費家だと数度指摘した由来はこの辺にもあるとおもう。
(ほかにもファッションや作り付け家具など、彼女なりの「上質な暮らし」イメージを達成するために骨身をおしまなかった母だ。
今で言う「お値段以上」なのだろう、「モノはいいモノだから3人の子供に使うのならこの値段は惜しくない」という言葉を母から何度も聞いた。
学校の縄跳びなんか子供向けのすぐ切れるプラスチックじゃなくてボクサーが訓練に使うようなものをもたされ重かった。)
母にしてみれば教育費を払いきれたのは自分の塾のおかげもあり、父はケチだというのである。どちらが正しいかは…。
ところがしばらくすると、父自身が肺の難病にかかった。タバコは肺にはよくないということはわかっていた。
父は早期退職制度で、ただ社外顧問で数回きてくれればという職だけをのこして闘病に入った。
幸い年金ももらえる。子供への仕送りもぱったりとまってお金には余裕がある。
郊外というよりもはや森の中を切り開いてつくった庭の広いおしゃれハウス(建築中)は、たちまち父の療養ハウスに方向転換となった。
手すりやら風呂やら改築し、母は断捨離をし、こだわりより健康を優先し…。
そこで難病なのに20年も生き延びたのは確かに母のおかげであろう。
ただ母はだんだん父が自分より弱い生物になりさがっていくことがなかなか納得できなかったようだ。
母にとっては子供は庇護すべきで、父は母を庇護すべきだったのに、すべてが逆転してしまったのだ。
母の癇癪は昔からものすごく、感情の嵐の生のままの奔流であって、いうことがよくまとまっていない。
Aといった直後にいいかえすとじゃあ反Aだと躊躇なく言えてしまう。もちろんきっかけはあるのだが。
母がなんでタバコを吸ったの!と責めて、理由をはっきりいわないと納得しないので父は「母も勧めたではないか」と言い返すのではなく「社内政治に参加するためだ」と説明した。
「なんで私を浪費家だというの!」「なんで感謝してくれないの!」には、
それぞれ「幼少より母の愛に飢えていたため」などの適当な理由がつけられ、反省書となった。
反省書はなんども日記にかきつけられ、こどもたちへも父がこんなに反省したとメールで送った(母もいつでも読めるようccつき)。
まるで自首後の犯人に動機を言えと迫る刑事のようなやり取りである。さしずめ母は愛情刑事であった。
この「なんで」期の母は2人だけの蜜月のはずがいきなり愛情が枯れ果てたかのようなふるまいをしたので子供たちにも影響があった。
あるときなど増田が呼び出されて母と東京のカフェであった遠かったねよく来たねの二言めで「今日ね、おとうさんをいじめてきたの」というのである。
どのように苦しめたか。それがどれだけ自分の恨みを買った人間の正当な末路なのか。話はじめると30分以上いきつぎもしないでとうとうとやる。
増田や父は、そういう手の付けられない母をどうしていいかいつもわからないで黙っている。
ただただ、ああ、となりのテーブルの客が居心地悪くて逃げたなあときょときょとしながら口をはさむ隙を探す。
やめてくれ。あなたたちは善良で努力家で思いやりある人間だっただろう。泣きたかった。
カフェの次は庭園つきフランス料理で父もいるときにニコニコと「お父さんに遺言をかかせたの。私に全部残させるって」というのである。
増田は遺産も愛も父からはあたえられない子供になったのだと、増田当人にむかって心から嬉しそうにいうのである。
理由を聞いてほしかったようだが「ふーんそう」というのがせいぜいだった。
後日やっぱり何十回もしつこく聞かされた。あれもこれも、…、わたしはケチといわれたのよ!!父は母に愛情がない!
父は平謝りするしかなかったらしい。
でもその場で諭そうにも耳も悪い。
「その話は今聞きたくない」と穏やかに告げるとまるっと無視された(なんなら常にセリフを母にカブせられているし慣れてるけど)。
もう一度はっきり言うと「え?」といわれ、もっと大きい声でいうと「大きな声を出さないで!心臓がどきどきする!」と泣き出すのである。
補聴器をすすめたけど、ぼわんぼわんして不快だとつけたがらない。
それに庭に出ている間も補聴器をつける必要がない(むしろつける必要がないから庭がすき)だから悪くなる一方だ。
子供たちは私を味方してくれない、おとうさんばかり味方して、おとうさんがだましているからだ!ということで本当に手が付けられなかった。
でも素直な母は、父をいじめるだけではなくまっとうに、増田ら子供たちに直接説得も試みた。
ところが増田も子供がうまれて送迎などで忙しいのに、携帯(業務用)に電話をかけることがつづいたのである。
運転中は出られない。うるさくて運転に集中もできない。ガチャギリするしかない。それでもかけてくるのでやむを得ず「固定電話にかけて」と携帯ではブロックをした。
このことは増田に子供の送迎がいらなくなりガラケーとアイフォンをのりかえるまで続いた(のりかえたときにブロックは解除した)が
半ボケ?もとから機械音痴?の母は下の兄弟や増田の伴侶に「増田ちゃんがわたしをブロックしたの!解除するようにいって」と何年も頼み続けた。
父はじわじわと悪くなった。3年に一回ほどのペースで入院するたびに母から死にそうな声で「おとうさんが入院したの、もうだめかも」といわれて子供たちが全国から新幹線などでとんでいった。
父は母に「浪費家だ」といったことを老後一生かけて平謝りし続けた。
酸素マスクが一日中必要になっても、下の世話はしないからと母にいいわたされると一回30分かけてでも一人で家のトイレにいった。
母はトイレにいく父の血中酸素モニターが鳴る音だけはよくきこえたらしくて「いつもピーピーうるさいから本当に止めさせたかった」のだそうである。
ほかにもブザー音がなると死んでいるかもしれないし、地震があると停電したら酸素送風がとまってしまう。そうすればすぐに酸素濃度がさがって窒息死だ、ということで不眠ぎみであったという。
なるほど不眠であれば気が狂うほど老々介護はつらいだろうというのはさっせられた。
途中で増田は「あなた(母)はもう後期高齢者だし、父はさっさと介護認定を受けるべきだ。他人を入れろぜひ入れろ、入院や介護施設はないのか」とアドバイスをしたりもした。
父も早く「介護認定を」といえばよかったのだが母だけに甘えていたかったのかもしれない。
母親の認識は古くて「介護=認知症=施設にいれられ毎朝チーチーパッパと歌わせられる」というなんかアレな印象しかなかったのだが、
父も「自分=強い=介護うけられない」とおもってた節がある。いいコンビだよあんたら。
まあ、実際、肺病で介護認定がそんなに高くなった父という存在はチバラギ地方では珍しく、認知症むけばかり取り揃えられている施設からは選びづらかったようだ。
母は一度、「もうすべてをほうりなげたい。お父さんなんか死んで良い」と増田にドライに告げたので増田は市役所を通じてケアマネに緊急電話をした。
実際病状がすすんでいるのも理由にあったようだ。
父は身の回りを手に取ることすらおぼつかない。あれをとって、かわりにこれを置いて、の命令の繰り返しの24時間。そりゃ気が狂う。
頭がはっきりしているだけに介護をうけておきながら「あの礼状は出したか」などと口うるさいこともこまごまという。
ケアマネ介入後はデイステイのできる施設をいくつかめぐって、母に介護休暇をあたえ父の入浴はステイ先で複数人で介護をうけることにして解決となった。
他人の手が入ったあとはなんとか母の忍耐がたもったようだ。
ラインでこまめに連絡をとると、お互い聞き取れない・聞いてもらえない長話のストレスと徒労感も解消された。
コロナのおかげで世の中全体が肺病に警戒しており、
ストレスのたまった母親の消費欲やお出かけ欲も「コロナは怖いから」と唱えるだけでだいぶ抑制された。
母はユーチューブをおぼえた。
コロナワクチンはふたりともいち早くうけられた。怪我の功名である。
増田の残りの二人の兄弟も子育てに忙しい中でガス抜きに付き合ったらしい。なんとか二人の生活はつづいた。
そうして2*年の闘病、*年の介護認定と酸素マスク、90日の入院のあげく父は体重が半分になって逝去した。
母は感情が高ぶると耳が全くなにも聞こえなくなるので、増田は葬式の打ち合わせに逐一ついていってすべてをメモにして渡してやった。
父がなくなって重荷が下りても母はやはり理不尽であり、やはり葬式の相談のあとにも爆発した。
かねて希望していたように「全部の遺産を母の元に相続させつつ凍結などの不愉快な事態にさせない」ためにはなるべく資金を動かさないほうがよいのに、
母はいますぐ資金をすべて自分の口座に動かそうというのである。
それなら司法書士とか頼んだ方が楽だよというと、母の感情は爆発するのである。「高いでしょう!?」3万でいける「デモデモダッテ」。
今すぐにでもATMにいってお金をおろしてあつめたいというのである。(父は箪笥貯金を高額な葬式分くらいはおいてあったし互助会にも入っていたから葬式費用ではない。)
なぜと問うと、「子供たちに私からお金を送りたいから」。はあ~~~???だよ。じゃあ法定相続割合でよくない?父もそれが一番簡単だからのぞんでいたんでしょう。
最近調子が悪く、「自分に向き合う」ということをせざるを得なくなった。私はずっと自分を直視することから逃げてきた。
幼い頃に両親が離婚し、私は母親と母方の祖母に育てられた。母は父親から慰謝料を受け取ることを拒否し、公務員として働きながら私を大学に進学させてくれた。家は過疎地帯の小さな町にあり、まともな進学が叶う高校へは片道1時間かけて通う必要があった。祖母は60歳で余命半年を宣告されるレベルの胃がんを患った。寛解はしたが、体力的には勿論大きなダメージがあっただろう。しかし祖母は毎日5時に起き、私を起こして朝食を食べさせてくれた。
私は物質的には何不自由なく育てられた。勉強ができることを常に歓迎されたのも、私が女であることや時代や地域性を考えればとんでもない僥倖だ。母も祖母も(田舎の人間としてはかなり)知的好奇心や教養を重んじる気持ちが大きく、そういう家で育てられたことも幸運だった。ただ、嫌なことも山ほどある家だった。
祖母は80歳を過ぎるまで苛烈な自意識を悪気なく振りまき続けた。とにかく華やかなものや高級感のあるものに目がなく、目立つことが好きで驚くほどの見栄っ張り。そして私からすると異常に闘争心が強かった。祖母にとって他人は「常に勝つべきであり決して負けてはならないもの」「自分を当然に認めて賛美するもの」「自分のお眼鏡にかなうのはほんの一握りしかいないもの」と認識されていた。そして厄介なことにこのような性質を全く客観視できず、自分の考え方に沿わない人間は「馬鹿」もしくは「おかしい」とジャッジした。孫の私でさえもだ。
物心ついた瞬間から私は常に周囲の子たちと比較され、劣っている点を突きつけられた。ゆきこちゃんのように可愛らしくない。さきちゃんみたいに上手な字を書けない。ようこちゃんと違って美人じゃない。ともかちゃんのように性格が良くない。めぐちゃんみたいに明るく如才なく人と接することができない。みゆきちゃんみたいな勝ち気さがない。かなちゃんみたいに女の子らしくない。話はいつも「おばあちゃんは、ああいう子がよかった」と締め括られた。祖母の考えでは、私が奮起して「よし、頑張ってあの子を超えてやる!」とがむしゃらな努力をするはずだったのだと思う。でも私は祖母じゃない。他人と争うのが何より嫌いな、内向的な人間だ。生まれたのは燃えるような向上心などではなく、凍えるような自己否定感と身を焦がすような憎しみだった。憎しみは祖母に向かい、名前を挙げられた女の子たちに向かい、祖母を止めない母親に向かい、自分にも向かった。
私はいつも祖母の虚栄心を満たす在り様を求められた。勉強ができるという点は合格、他は総じて不合格。容姿も趣味も人間性も。私が太っていて内気で運動が苦手で片付けができなくて愛想が良くなくて放っておくと黙っている子供であることが「恥ずかしい」と祖母はいつも言っていた。大学時代に一時的な過食傾向に陥ったことがある。7キロくらい太って帰省した私に、恥ずかしいから日が高いうちは近所を歩くなと祖母は言った。心配はされず、「どうしたの」「何かあったの」と訊ねられすらしなかった。私は常に祖母の虚栄心を損なう悪者だった。
肝心の学業成績も褒められたことは皆無だった。1位じゃない、満点じゃない、進学先がトップ校じゃない。それを論拠に「私の血縁者だけあって頭が悪くはないが、取り立てて優秀でもない子供」と判断された。何かができるようになると、次の瞬間には「それじゃあ次は」と言われ続けた。ゴールがない。苦しかった。
私の母は、その祖母の娘である。私が1歳に満たない頃に私の父親と別居を始め、実家に出戻った。
土地が二束三文で買える田舎町にある実家は敷地が広く、母屋と離れがあった。離れは母屋より小さいが、リビングとベッドルームと和室がひとつ、風呂も台所もあった。母はそこに住んだ。私を母屋に残して。役所勤めから帰ってきて、母は毎晩ひとりでレコードを聴いたり古い映画を観たり純文学を読み耽ったり、妻のいる男の人と長電話をしたりして過ごした。平日に私が母と会話できるのは、彼女が許した1、2時間だけだった。それが限界だったのだろう。
母が娘に求めたのは豊かな感受性、繊細さ、抑制が効いていながら豊かな感情表現、心の優しさと清らかさ、従順さ。母の心情に関心を寄せ、いつも注意深く観察し斟酌し、そこに寄り添い肯定すること。母はそれを「素直」というタームで表現した。私は小さい頃から「素直じゃない」と詰られた。自分を偽ってもいないのに素直じゃないと言われるのは心底不可解だった。4歳か5歳の誕生日、私は母からメッセージカードを貰った。「○○ちゃん、たんじょうびおめでとう。○さいのテーマは、すなおになることです」。そう書かれていた。そこから先は「素直とはどういうことか」が説かれていたが内容は忘れた。心臓が止まるかと思うほど嬉しくなかった。
母は癇癪持ちで、定期的に不機嫌の発作を起こした。自分の不手際が契機となり、怒鳴られ人格を否定され「縁を切る」「家から出ていけ」と言われ、数日間まともに話してくれない。そういうことが日常的にあった。ヒステリーを起こすきっかけなど何でもよかったんだと気づいたのは実家を離れて何年も経った後だった。天災のように気まぐれに降りかかる不機嫌の発作を、子供だった私は心を殺して耐えることしかできなかった。
小学校5年からは学校でいじめの標的になった。担任の女性教師から私はすこぶる嫌われていて、ほとんど彼女の主導のもとに王道のいじめを受け続けた。中学は町に一つしかなく、選択の余地がなかった。その女性教師の夫が進路指導主任を務める公立中学に進学した。いじめの続きは入学初日から始まった。合計で5年間、私は一日も欠かさず死にたい死にたいと思いながら生きた。
家族に言っても碌なことにならないと子供心に判断していたが、耐えきれずに吐露したことが2回だけある。最初は祖母に。「そんなのやり返せばいいだろう」と私の弱さを叱責されて終わり。予想どおりだった。絶望はしたがショックではなかった。母に話したのはしばらく後。おそらく苦しくて仕方なかったのだろう、母がいる離れの呼び鈴を夜中に鳴らした。泣きながら「もう何年も学校でいじめられている」と話した記憶がある。母は私を離れの中に入れなかった。玄関先で立ち話をした。片親であることを攻撃されていると話した。「それが何だ」と母は言った。わたしなんか学生運動がいちばん盛んな頃に短大に進学して、父親が警官だって言ったら「お前、『犬』の娘か」って嗤われたんだから。どんなに嫌だったかお前に解るか。腕組みしてまくしたてる母を冷えきった気持ちで見ていた。
それから長い年月が過ぎた。
祖母は80過ぎで二度目の癌を患った。退院した頃から加速度的に穏やかになり、最終的には少し気弱で優しく品のいい老婆として94年の人生を終えた。亡くなる数ヶ月前に実家で倒れて寝たきりになり、帰省した私が「おばあちゃん、私のことわかる?」と問いかけると「わかるに決まってるだろう、たった一人の孫だもの」と必死に笑みを浮かべて私に答えた。帰り際には「そんなに肌が綺麗だったっけ」と言われた。私の見た目を褒めるなんて、おばあちゃん目が悪くなったんじゃないの?と笑って憎まれ口を叩き、来月も来るからねと告げて東京に帰った。それが最後の会話だった。
母は合わない職務で鬱病を患い、50歳を前に役所を辞めた。その数年後には妻子持ちの男とも別れた。相変わらず自意識過剰で感情的で面倒な人だ。でも面白い。知的好奇心を保っているのも心強いし、化粧っ気は全くなくなってしまったが今でも綺麗だ。私は母の顔と字が無類に好きだし、無類に好きなところは他にもたくさんある。今はそう思う。
この度よくよく自分の内心を見てみたら、あまりに汚く混乱していて自分でも驚いた。段階的に補強してきた自己肯定感は思っていたよりもまだまだ脆い。自分を憐れみ庇う気持ちはあるが、これを自分への愛と呼べるだろうか。するべき(と思われる)ことは容易に把握できるのに「したい」ことは分からず、なのに無欲ではない。綺麗になりたい。痩せたい。頭が良くなりたい。お金がほしい。休みがほしい。美味しいものを食べたい。俗な欲求は人並み以上だ。それを捨てることも開き直ることもできない。
脳内には14歳の私が世界の万物に向かって「私に謝れ」と怒鳴る声が反響している。それを恥じて隠蔽しようとしている成人の私がいる。隠蔽しようとする私を「卑小でつまらない人間だ」と蔑視する私もいる。世界観のベースに「私は素敵な誰かの下位互換であり欠陥品だ」という根深い諦念がある。刷り込まれた規範は私の血肉となっていて、私はそれを憎悪しながら切除できない。「本当の自分」とは何か、皆目見当がつかない。
ならば、その正体不明の混乱しきった人間を許してやろうかな、と考え始めた。そしてあわよくば愛してやりたいと。
私は凡庸だ。狭量だ。いろいろと不出来だ。根気がなく三日坊主だ。いい歳して自意識過剰だ。かっこわるい。けれど、別にそれでもいい。誰に馬鹿にされても見下されても、私は「なんでよ、別にいいじゃん」とケラケラ笑いながら私自身を全力で抱きしめる。
すすきのは飯屋や大人のお店が多い。新宿みたいだ。新宿を半分くらいの大きさにした感じ。
アイドルとかが売り子したりしてて、都会なんだな〜と思った。
札幌は、いろいろな企業が、新商品を全国に出す前に、札幌で出してみて反応を見たりするらしく、やはりいろんな新商品が置かれていた。
コンカフェで楽しめたが、コンカフェは東京よりレギュレーションが激しいというか、変なサービスは一切なかった。ちなみに、日本一すごいという噂のダークマターというコンカフェも札幌で、そっちはリスカで作ったドリンク提供で一時閉店などで話題になっていたところで、逆にすごいらしい。
札幌は、レベル高いところと新しい突飛なものが交錯するカオスでいい感じだなあって思った。
ホテルは高くて予約も一杯でなかなか泊まれないが、ニコーリフレってカプセルサウナは安くていつ行っても泊まれたので、ニコーリフレに宿泊がおすすめか。
二乗市場ってのが海鮮で有名らしいが、夏は時期じゃないのか、そこまで海鮮がうまいと思わなかった。昔、春先に函館で食べた海鮮は美味しかったのになあ。
東室蘭は、札幌(北海道の真ん中らへん)と函館(北海道の下の方)の中間地点くらいにある。
札幌と函館の中間地点は結構寂れたエリアなんだけど、登別や洞爺湖やニセコなどの温泉やキャンプやスキーで有名な場所がある。
その辺りの地域には、東室蘭という、埼玉の田舎くらいの栄え具合の街がある。東室蘭からなら、登別や洞爺湖にはバスで比較的簡単にアクセスできる。
ちなみに、東室蘭は本当に泊まるだけだったが、住むだけならギリギリ行けるかなくらいの坂ええ具合がある程度なので、東室蘭を目的に観光は微妙。
今回は登別へ。
温泉は改装中とかで入れない温泉が多かった。夏の時期はそんなもんなのかな。
入れるところもあったので、入ってみた。登別温泉は確かに一流温泉だなあとは思った。
ただ、バスでの移動に数時間とかかかるエリアなので、東室蘭以外からだときついかも。
東京理科大の基礎工学部という学部の生徒は、東京で入学式の途中に、長万部に連れていかれるという謎の制度がある。
1年間、長万部の校舎で寮生活をするらしい。ちなみに現在では基礎工学部ではなく国際デザインという学部が長万部流しにあうらしい。
そういう、変な制度があると聞いてから、一度は見てみたかった東京理科大長万部校舎。
結構小さい建物で過ごしてるんだなという感じ。東大とかの建物1つ分くらいの中で、講義があって、食事があって、体育館があって、寮があってって感じ。
駅前で有名だというカニめしを買って食べたが、う〜ん、普通の駅弁のカニめしって感じ。
ニセコはスキーで世界的に有名で、英語バリバリ通じる地方とのことだが、マジで普通の田舎だった。
外国人が土地を買いまくって、億ション立ちまくりだ!みたいな話を聞いてワクワクしていたが、景気の良さは一切ない。単なる本当の田舎。
夏はキャンプ場が有名らしい。
小樽は飯を食うだけで寄った。
飯は美味かったけど、飯屋の女主人の絡みがうざかった。
小樽の印象はこの飯屋の女主人一発で最悪になった。
富良野のラベンダー畑はyoutubeで見れるような感じまんまが広がっている。
観光客は無茶苦茶多く、噂では1日数千万円の売り上げとかってタクシーの運転手が言っていた。
まあでも、田舎は田舎って感じではある。一面ラベンダーというより、一面田んぼと水平線の向こうまで続く山々って感じ。その中にラベンダー畑がある。
旭川は、東京でいえば駒込くらいの栄え具合だった。ホテルはどこも高くて予約でいっぱいだった。星野リゾートがあるからかな?
旭山動物園は、展示頑張ってるなあと思ったが、小さめだから時間的にはすぐ終わってしまう。
夜のニュークラ(キャバクラ)では、苦学生が多くて、ビビった。旭川には塾講とかで稼げるところはないのかなあ。
旭川に、銀座があるとは、、、銀座って感じはないが、なんか、こち亀で出てくる昔の浅草みたいな素朴な通りが銀座って呼ばれてる。
男子生徒の猿のような声が聞こえてきて、微笑ましい。
こじんまりした感じ大好きだ。
女の子たちは、就職終わったばっかりらしく、弛緩した雰囲気の子たちが多かったね。
これマジ??
ニセコって駅に行って、心配になる程駅がど田舎駅そのもので、わけわからん鐘が置いてあるところが寂れた村感マシマシで。
「村役場があるじゃん、ここにいけば、流石にニセコの中心でしょ」ってニセコ村役場まで歩いて。
マジで単なる田舎で、「ニセコの億ションどこよ?」で帰ってきてしまった。
まさか、ニセコ駅ではなく、全然ニセコ駅から遠い倶知安町駅にニセコがあるってそんなあ。。。
そんなあ。。。
これトラップすぎない?すすきの駅降りたら、二条市場が呼びまくってる感じマシマシの看板群なんだけどお。
なんだよあの「海鮮ならここ!!」!みたいな案内。
トラップすぎるじゃん。
しかも、「千歳空港の佐藤水産でもなんとかなる」ってなにそれえ。空港で食べれるんなら、北海道旅行の意味ないじゃないですか、地元で最高の海鮮出してくださいよ!
>元旭川民から ラーメンで辛いってどこで食べたんだろ 濃いはあっても辛いラーメンがよくわらん
新子っていう、鳥の丸焼きに照り焼きソースかかったやつがラーメンと一緒に出てきて。
ホルモンが塩辛くって、新子も塩辛くて、ラーメンの味がしないくらい塩辛かったです。
でも、たくさんラーメン店があったから、あれは旭川ラーメンじゃなかったのかも。
旭山動物園の旭山ラーメンの方は、普通に美味しい味噌ラーメンでした。
>「北の国から」の舞台の辺りは富良野の市街地から山の中に大分入らないと行けない。