はてなキーワード: 分水嶺とは
許容するべきだと思うのは社会全体であって企業は然るべき損害に見合っただけの対処すればいいと思うよ。
騒動にかこつけて厳格すぎる処分をして世間の溜飲を下げて評価を逆に高めるみたいな、逆境を利用するようなパフォーマンス?
なんかアップルっぽいやり方(実際知らんけど)がどうも社会全体にとってマイナスな気がするんだよ。
最初の一社は確かにそれで評価が上がるかもしれないけど長期的に見ると社会全体のリスクとコストのほうが上がりそうでさ。
そうやって息苦しい社会になって苦しむのは社会全体なんだから、罰することと許容することの分水嶺を量るのも大事だと思うけどね。
自分が感じてる感情はうつ特有の一過性の気分の落ち込みによるもので
現実は悲観する程悪くなく、しかし楽観できる程良くもなく、誰の助けが期待できる訳でもなく。
自力で何とかしなければいけないし、自力で何とか出来るかどうかの分水嶺に立っていると言うのは
理屈の上では分かるんだがそれでもネガティブな感情に支配されて動けない。
もう34だ。今しかないのは分かっている。
やることはたった2つだ。
・現在の職を保持し、職歴に空きを作らない為に上司に睨まれない程度の最低限の労働義務をこなす
・並行して転職活動をし、職と環境を変えて徐々に悪化していく精神状態に歯止めをかけ、あわよくば好転させる
現状を維持し続けることは不可能だと理解しつつ変化を恐れて動けない。
スクリーニングに使う言葉として適切じゃなくなるからめんどくさくなるっていうのはあると思う
哲学用語でも歴史用語でも会社名とかCDタイトルとかにされて検索で関係無さそうな団体が引っかかることはよくあるし。
もしバズワードカッコ悪いっていう流行を作ってもそれがバズワード的用法なのか、ある場面で有益に使われる専門用語的用法なのか明確な分水嶺はわからないし
そもそもカッコイイと無知な人が思って伝播していく過程で専門家のコスト増加を考えろってのは無理がある。
結局自分が普段使ってる言葉がバズワードになるのは運悪くうんこ踏んだ位の感覚でいるしかないんじゃない?
バズワードにした人間をバカにしたり恨んだりして村社会的監視網を作り上げれば、ある程度知的な層ではバズワードを作りにくくなるんだろうけど
総合的に見ると有能な人間が自分の専門分野について公に発言しにくくなるだけだし恨み節言ってもいいことない気もする。
まぁ、どっちのコストがより大きいのかなんてわかんないけどね
http://anond.hatelabo.jp/20130224011240
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20130228/1362046536
http://d.hatena.ne.jp/toshi_suzuki/20130301/p2
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20130304/1362393613
↑
超適当に要約すると、撮り鉄はアスペの話題で盛り上がり以下の流れ
差別用語は使われ方によるので変えればいいという考察→差別語は使われ方によるので言葉自体を変えることに意味が無いという意見→差別語を適宜変容させていくことこそが言葉そのものにとって意味のある変化であるという反論
差別語が生まれる流れはいくらでも考えられるし、たしかにその全てに対処していれば不効率が起きて問題が起きる。
コレは間違いがない。
例えばノビーという愛称が侮蔑語になり差別語として使用が禁止されれば池田信夫を呼ぶときになんて呼べばいいのかわからなくなり日本中が混乱するだろう。
そういうどうでもいい部類の穢れ方は小学生の口論でも生まれるし老人ホームとかでお年寄りも日々大量に生産してたりするかもしれない。
つまり、上の記事の中でも言われているように言葉なんていくら変えてもきりがないし生産性を下げるだけなのだ。
けれど「ご飯」という単語がある日突然悪いイメージを帯びてしまったらどうだろうか?
たとえば何かの超大作映画かメガヒットドラマで「ご飯」を連呼する気持ち悪い男が登場してあまりの印象の強烈さで「ご飯」という単語を使用したために
翌日から「ご飯」という単語を聞くだけで相当な人々が気分を悪くしてしまうのだ。
アスペやノビーならまだいいが、「ご飯」という単語は我が国の主食である。それが気分を害する言葉に変化してしまえば人々は食事のたびに気分を悪くしてしまい
まどろっこしくて面倒くさい語り口で文章を書いて疲れたので、簡単に言ってしまうが差別語が差別語になるのは差別される側の影響力次第だと思うのだ。
どれだけ世間に向かって自分たちが差別されることが不利益かアピールできるか、それが差別語が生まれる分水嶺じゃないだろうか?
ノビーという愛称を差別語にしても全体の効率性を下げるだけだが、差別語にして全体の効率性が上がる言葉もきっと存在するし、それは積極的に差別語にすべきなのだ。
では、そこら辺の判断は誰がするか?
きっとそれは世間ってやつなんだと思う、だから、自分たちが有益で影響力があり価値があると世間にアピールできれば自分たちへの悪口を差別語に登録できるし、力がなければそれが出来ない。結構現状のシステムはそうなっているように思うし、このままでいいのではないかと思うのだ。
基本的に賢い奴は反応しないわけ。政治研究家でもない限りな。利害からんでないのに反応する奴は負け組。糞の役に立たないこと考えるより自分のことやれ。まず考えるべきは自分のことだろ。
それは自己中って意味じゃなく。地震にしてもそう、何でもそうだけど。大震災起きてから大騒ぎ。騒ぐからメディアも取りあげる。それにまた過剰反応する民衆たち。悪循環な。いじめ問題もそう。賢い奴ならスルー安定なの。
そんなものイジメなんていつの時代もあるわ。地震もあるわ。分かってるの。ワーストシナリオって専門的には言うんだ。そんなの当たり前なんだけどな。最悪のシナリオも描けない奴に仕事任せられない。
リスク管理なんてできて当たり前。当たり前の感覚あったら地震だろうが中国だろうが驚かないの。ああそういうこともあるよねの世界であって「そう」の一言で終了なの。
ちゃんと自分のやるべきことに集中してるから。それは自己中なんじゃなくて。むしろそういう奴こそ夜のため人のためになるもんだ。ニュースに反応する奴おおすぎんだよ。騒ぐな。囀るな。もっと自分のこと頑張らないといけないだろ。
人のこと世の中のことギャーギャー言い立てるな。まず自分だろが。自分のこと見えてなさ過ぎるだろが。まずそこからだろ?
いま人類はそこに気付くべきステップに差し掛かっている。日本人は特にそうだ。21世紀の人類がワンステップ高みに昇れるか地の底に堕ちてしまうか。いま分水嶺に差し掛かっている。
物事を細分化して、それぞれを深く考察して現象に解釈を与えるのが学問だとするならば、社会問題って学問じゃ解決できないような気がする。
なんて言うか、たくさん言葉を使って、切り分けて輪郭をはっきり捉えていくに連れて、どんどん元々の有り様から変質してしまっていると思えて仕方がない。
放射能云々でカンニング竹山に放火した人たちやら瓦礫受け入れに反発する人たちってのは、もっと単純な理由から反応しているんであって、難しく考えても意味はないんじゃないかな。
人間が死を恐れる理由と似てると思う。なぜか、よりも先に、怖い、がある。だから通じないし、解決できないし、面倒くさいんだ。
そもそも解釈を与えるのが学問だと仮定したんだから、解決なんてできないって端から結論は出ているわけで。
だからといって考えることをやめてしまったらうんぬんかんぬんではあり、困難な物事にぶつかったときに考えることと知識としての学問は必要なんだろうけれどもさ。
どこが分水嶺なのかは人によってまちまちなんだろうけど、争っている人、火病ってる人がいるのを見ると、傍観者としてしか関われないなあって思う。
いつ当事者になるともわからないからこそ、安全な場所にいるうちに対策を考え、できるのならば矯正したり排除すべきなんだろうけれども、それもまたどうなのかなって思うしなあ。
私の安全を確保するために、あなたを排除します、なんて論法は通じないだろうし、ともなれば共生するか、住み分けするかしかないんだけれども、そんなに簡単なことでもないし。
概念としての住み分けや共生は可能だろうけれど、実生活でとなると問題は立ちはだかるわけで、そういうことするのは途方もないからなんか面倒で、好きにやってなよって思ってしまう。
楽だし、ある意味では賢い処世術なのかも知れないけれど、常にいつくるともわからない危険に晒されているわけでもあって、だとすればその危険を回避するためにいよいよコミュニケーションを閉ざす必要も考えなければならなくなって、なるほど傷つかないための非コミュなる分類もあり得るのだろうななどと思い至るわけだけれど、そう言った非コミュにはそもそも発言権なんてないだろうし、ますます悶々と思い悩むしか方法はなくなって、相談しようにもその窓口へ行くまでに精神的な敷居ができてしまっていて、そう言った状況下において増田や2ちゃんは甚だ住みよい住環境を提供してくれているのだなあと気が付かされるわけなのであります。
ものすごい自己愛と表裏一体の自己嫌悪が渦巻いているような感じなんだなあって思って、それはつまり厨二病にも通じるのかも知れないし、高2病にも通じるのかも知れないし、大二病にも通じるのかも知れないし、要は内向的なナルシストでしかないのだろうなと、やっぱり前にも達した結論に帰結するわけで、ほらみろ考えるだけ無駄だったじゃないかと思う一方、なんで厨二病に然り高二病に然り、二年次に掛かる概念なんだろうと思って、いやいや違うぞ、そもそもの起源が中『二』であっただけでそこには何も意味なんてないんだよって考えつつも、三年制の学校における二年生の自由さ、気楽さ、目的も意義もない自己反芻の多様さを想定すると、あながち関係がないとも言えないんじゃないかとなどとも妄想が膨らみ、なんて言うか、二っていう数字はとてもいいなと、零と合わせて素敵な数字だなと感じていることに気がついた折に、数字に意味を見出す働きってどこからくるのだろう、社会性からか人間性からかとか無謀な問題を提起してみたりして、そんなことどうでもいいやないのと思い、でもきっとどこかしらにはそういったものを研究した文章が残っているんだろうなあ、すげえなあと感心する次第なのであります。
頭の中で文章をうんたら考えるより、浮かんだ文章をそのまま書き出している方が楽しいなって思うのです。もちろん、ひどい文章、無残な表現、ぐだぐだとして読みにくい構造になることが多いでしょう。反対に、短すぎたり、突飛すぎたりしてついていけない文脈になっていることだって多いことでしょう。直前の文章における、逆説の使い方が適切なのか、もっといい言い回しはないのだろうかととか考え始めると、わたしの場合は根を詰めすぎてしまって訳がわからなくなるのです。だから、あんまり気負い過ぎないほうがいいのだと思う。こうやって、意味もなく、意味のない長文を書きたれているこの時間こそが至福であり、なんていうか久々に楽しくて止まらなくなっているのです。
読む人のことを考える文章は、書くのがとても難しい。それこそ、文章と向かっているだけのはずなのに、コミュニケーション能力を測られているような気がします。それが一体誰なのか。わたしが想定した架空の誰かなのか、どこからともなくやってきていつの間にか培われてしまった常識というものなのかは知りませんが、とにかくまあ面倒で、厄介で、鬱陶しいわけなのです。無論、悩んでいる最中にそんなことに気づいているわけがありません。気づいていないのですが、とにかく苦しいわけです。産みの苦しみってやつとは違います。もっと煩雑な、ごちゃごちゃとした混沌が頭を塗りつぶしてしまうのです。
だから何なのだろう。分析したつもりになって悦に入って何がしたいのだろう。修造さんに叱られるかも知れないけれど、やっぱり色々思ってしまうなあ。全てにおいて理由があるなんて限らないのかも知れないけれど、大抵の物事については確かに理由や動悸があるはずだもの。例えば衝動的にこの文章を書いているのだとしても、その衝動はどこから来たのか、なぜ生まれたのか、どうして依然としてとどまるところを見いだせないのか、考えることはできるし、一応の答えを当てはめることは可能だと思う。
問題は、その答えに納得できるかどうか、その答えが適切であると認められるかどうかなんだよなあ。認められないんですねえ、わたしは。優柔不断だから。そうなのかな。もっと正しいものがあるように感じることが多い気がする。自分で出した答えに正しさが見いだせず、そもそもに於いて自分の中に確固とした正しさを確立できていない人間が、正しさについて悩むなんて馬鹿げてる。でも、正しさについて確固とした答えを持っている人って脆いと思うなあ。固いだろうけれども、ダイヤモンドみたいなものだと思う。無論、それだけの輝きと価値を合わせもってはいるのだけれど。
ダイヤモンドにもなることができないクズ石が何を語るのかという自虐が出てしまう。いやいや、クズ石ですらないかも知れない。では一体何なのか。わからないなあ。卑下する必要はないのかも知れないけれど、自分が何なのかなんて誰にもわからないんじゃないかなあって思う。例えば学生とか、どこどこの社員だとか、夫だとか、身分を示す言葉はたくさん纏っているだろうけれど、その言葉を纏っている本体は一体何なのかと問われたたらみんな答えに窮すると思う。デカルトかって感じ。デカルト知らないけど。
知らないことがたくさんあって参ってしまうわ。こんなくっそくだらないチラ裏書き散らして恥ずかしく無いのって、それ一番言われているから。
コミュニケーションのパロディ化って、いつから始まったんだろうね。
平安時代とか、書籍が普及しだした時点で広まったのかな。それともテレビやインターネットみたいな映像メディアが台頭してきた辺りからなのかな。
パロディ化したコミュニケーションって、黎明期やじわじわと広がり続けている最中においてはそのコミュニティを閉鎖的に表現するくせに、
一旦分水嶺を超えると一気にキャラクターの固定化に流れて行ってしまうのが興味深い。まあ当たり前の事なんだけれど、そう言った名残が語尾表現なんかにあると想像すると面白い気がする。
パロディ化したコミュニケーション方法って、どうして広まるんだろう。どうして人は面白いって感じた表現方法を自ら取り入れて発言してしまうんだろう。
学習ってのは、それ自体が普遍的に行われ更新されていることなのかもしれない。パロディとパロディとを組み合わせた表現がオリジナルになるのかどうか。あちこちに考えが飛び火してる。
高岡騒動からの花王不買運動って、今後のメディアの分水嶺だよね。これだけ2ちゃんで祭りになっても、フジテレビ本体や花王含めスポンサーにも何も影響が出なかったとしたら、今後ネット上の声なんて誰も気にしなくなるだろうなぁ。
http://twitter.com/#!/hamusoku/status/98264598980984832
思いあがるのもいい加減にしろ。クズが。
あんたはこの騒動を(中東各国で起こった)ネット革命と同列に見たててるのかも知れんが、あんたらがやろうとしてる事は、ただのリンチだ。いじめだ。しかもその大元をたどれば、「韓国嫌い」という民族差別だ。それも、三流芸能人のつぶやきによってやっと燃え上がる程度のカジュアルなヘイト。
こんな糞みたいな運動を実現させ、大企業に損害を与えるのがネットと言うメディアの役目と言うなら、そんなメディアはいらない。
浮上する「6月総選挙」のシナリオ 世論調査から見える菅民主党勝敗の分水嶺 ~小林良彰・慶応大学教授に聞く (2011年1月18日)
http://diamond.jp/articles/-/10786?page=3
生活実感はきわめて悪い。景気自体はそこそこに回復するだろうが、自分の生活は悪くなってしまうと感じている人が3分の2以上いる。職を失う。あるいは、可処分所得が下がり続ける。そうした状況が続いているのだから、将来の生活に対して悲観的にならざるを得ないのだろう。
「自分の生活は悪くなってしまうと感じている人が3分の2以上」というのはたしかに高いが,
これだけ景気が悪い,将来が不安,とあおっているのに景気将来感で47.5%,生活将来間で34.4%が「良くなると思う」と回答しているのは,
それなりに前向きな気分になってきているのではと解釈できそうな気もするが,どうなんだろう.
まぁ前回調査結果がわからないのでなんともいえないけど.
書いている内容はなるほどなるほど.
公明党が仲間になる可能性が出てくるし,ということで戦略的に必然なのね.
小沢さんはこの後,どう戦うんだろう.
>あー・・・。と思ったときには事態は分水嶺を越えていて
>というかまず、「そんなミスどんなアホならするんだよ」ってレベルのミスであって
>しかも、それは確かにミスといえばミスなんだけれども、ある種の『手抜き』(よく言えば効率化)に根ざすものであって
>会社的に「ごめんなさい」で済むものでは決してなく。というか、屋台骨は揺らがないにしても部署一個くらい消し飛ぶんじゃないかこれ。
あー・・・。と思ったときには事態は分水嶺を越えていて
というかまず、「そんなミスどんなアホならするんだよ」ってレベルのミスであって
しかも、それは確かにミスといえばミスなんだけれども、ある種の『手抜き』(よく言えば効率化)に根ざすものであって
会社的に「ごめんなさい」で済むものでは決してなく。というか、屋台骨は揺らがないにしても部署一個くらい消し飛ぶんじゃないかこれ。
いやもちろん、必死にフォローに入って「この先三日は布団で寝ない」くらいの覚悟があれば多分
上司を救助することもできたと思うんだ。今日の時点なら遡及してなんとかすることは出来たと思う。
でも残念なことに、俺はその上司が超大嫌いなんだよね。
「あー、この人がこの会社で大きな顔出来るのも今日までか。明日には自殺を考えるだろうなぁ」と思いながら、今さっき帰宅した。
自分には人並みの情けとかそういうものが備わってるかと思ってた。
大体、上司が気に入らないのも「喋り方が気に入らない」とか「ワイシャツのセンスがウザい」とかそういうレベルで
別段悪い上司だというわけでもない。嫌いだけど。その「嫌い」っていう一つの要素さえあれば
他人の人生一つくらい切って捨てても俺の良心は痛まないんだなぁ、というのが今日の発見だった。
とりあえず、今日は「ここ一年有給とってないんで、明日明後日いいっすか。最近暇ですし」と断って休みをいただいた。
有給消化しろと総務からせっつかれてたからとてもすんなり。
そして、俺は明日朝一で旅行に出る。一泊二日で温泉に行くんだ。帰って来たら会社がどうなってるかなぁ。
なんだろうこのなんともいえない快感は。良心とかいう次元でなく、三日ぶりにシャワーを浴びて新しいパンツを履いたような爽快感なんだけれど。
まぁ、運が悪ければ旅行先から呼び戻されるだろうけど。
それでもまぁ、どっからどう考えても俺に責任は1ミリもないし。まぁ、明日俺がいないと最低限打つべき手がほぼ全部打てなくなるけど。でも俺のせいじゃないし。あー、明日は金目鯛のしゃぶしゃぶ食おう。あー、せめてデスクの鍵開けて来てやれば打つべき手一個くらいあったのかな、焼け石に水だけど。でも施錠はしっかりするべきだと思ったんだ、社会人として。
ttp://www.nomusan.com/~essay/index-jubilus.html
私はこの問題を、単に疑獄事件というより、日本という國がこのままモラルの面から衰退していくのか、辛うじて踏み止まるか、その分水嶺と思うからです。
それを許容すれば、日本は、道義=背骨、から腐るでしょう。
私は深刻に見つめています。危機、と捉えています。
小沢さんへの疑惑は総選挙前からありました。現在問題にされている不明朗な金の動きは、この人には常につきまとっていました。二十数年前、自民党田中派七奉行と言われた時代から、いつも煙は立っていたのです。
政党助成金の問題も、最近突然話題になった訳でありません。公共事業への介入は周知のことでした。深沢の土地は数年前から週刊誌でも取り上げられました。 その週刊誌(「週刊現代」)を名誉毀損で訴えた小沢さんは「敗訴」しました(確定)。普通に考えて報道が疑惑を伝え、疑惑の対象者がその報道を名誉毀損で 訴えた、しかし裁判所は名誉毀損に当たらないとした、これはその疑惑に根拠のあることを、裁判所が認定したことではないでしょうか。
私は「国税」が、当然動くと思いました。しかし知る限り、動きはありませんでした。
2007年2月20日の小沢の説明は、到底納得できるものでありません。
ある著名な女流作家はその説明を、私の記憶では、人をバカにしている、といいました。
私は直後、その20日の夜に、下のような発信をしています。
ttp://www.nomusan.com/~essay/jubilus2007/02/070220.html
ここで小沢さんは「確認書」を見せました。極めて胡散臭いものですが、報道陣はそれで納得してしまいました。
(いま、この日の小沢会見のビデオで確認してみますと、「公正証書のようなものは作ってあるのか」と質問した記者がいます。公正証書はなくとも、当然の常 識として「確定日付」の認証は、あるはずでした。しかしその後、その点を突っ込んだジャーナリストを知りません。私はこの会見以降、日本のメディアに絶望 したのです)。
この「確認書」は偽造であったと、最近報じられています。当然想定されたことです。小沢さんはいけしゃあしゃあと、それをかざして十分な説明をしたとしました。
そのような人物が総指揮を執る選挙で、しかも甘い言葉の羅列された「マニフェスト」を、疑わず、国民が圧倒的な支持を与えたことは、私には衝撃でした。私は日本国民の退化を感じました。
小沢問題がどのように進展していくのかは分かりませんが、私たちは今、小沢・鳩山という、私たちの常識や良識とかけ離れた異常人を、権力のトップに置いています。鳩山総理のことは末尾で少し触れます。
小沢一郎氏の特異さは、公衆の面前で平然と嘘をつけることです。彼がウソをついていることは、ほとんどの人が、報道陣を含めて、そう思っているでしょう。 そして、そう思われていることを、彼は十分に分っているでしょう。人々の疑いの目に動じることなく耐えられる人です。
小沢さんは幹事長を辞めないと言っています。これは、「今は辞めるに辞められない」ということがあると思います。おそらく今までやってきたように、民主党の代表・幹事長としても、同じ可能性のある立場に立てば、同じことをすると思います。
彼が自分の罪業を押さえ込むためには、絶対的な権力が必要です。
彼は圧倒的多数党の実力幹事長として国会(立法)を押さえました。内閣人事に強い関与をすること、あるいはそれ以上に「陳情一元化」によって、行政を牛耳 りました。仕上げは「司法」の制圧でした。それが今の状況でしょう。悪人が絶対の権力を握る。恐ろしい状況が現実になろうとしています。
鳩山総理の脱税も決して小さいスキャンダルではありません。小沢の巨悪に紛れているだけです。
鳩山首相の、先の「施政方針演説」は、実に気持ちの悪いものですが中でも、自身の巨額贈与受け脱税問題を棚に上げ、
資本主義社会を維持しつつ、行き過ぎた「道徳なき商業」、「労働なき富」を、どのように制御していくべきなのか。人間が人間らしく幸福に生きていくために、どのような経済が、政治が、社会が、教育が望ましいのか。
と演説できる神経は、並のものでありません。羞恥心の欠落した人物です。
ttp://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/201001/29siseihousin.html
私たちは今、二人の異常人のもとにいます。
元増田です。
全自動なわけがないだろ。大嘘。実際は、逮捕+身柄送検に匹敵する「犯罪かそうでないか」の分水嶺。
というブコメがついているのを見て、なぜここまで強固に思い込んでしまっているのか怪訝に思っていたんですが、コメント主kentultra1氏のブログを見て納得。
http://d.hatena.ne.jp/kentultra1/20090307
こういうエントリを書いてたんですね。
この「瀬戸大橋光ケーブル切断」の書き込み程度で「警察沙汰」になること自体不当だ!という考えから、捜査・(書類)送検が一連の「不利益処分」のようなものだと思い込んだまま、あるいはこの件をきっかけにそう思い込んでしまい、それを前提に警察署に電話をかけるに至ったということかな。
そして、電話を終えて、「書類送検(という不利益処分を)したことについて納得のいく説明がない!児島署の連中は何もわかってない!」という思いを強めてしまったように見えます。
でも、警察官の「お兄さん」と「おじさん」とのやりとりを読むと、たしかに「捜査を始めちゃった以上、書類送検をしないで済ますということはできないんだよ」的な説明はされていないようですが、それを確認するための質問もkentultra1氏からはないし、警察側が誤解を助長する積極的な説明をしているわけでもない。
よく解らないまま、人を送検して良いのかというのは大きな問題ではある。
という問題意識をせっかくもっていたのであれば、警察に電話した際に、それを正面から尋ねていれば、この今年3月の時点でkentultra1氏の誤解は解けていたかもしれない。惜しい。(警察が「こういう手続だ」と噛み砕いて説明してくれたら、の話だけれども)
「こんな増田のゴミ記事なんて参考になるか!ソース出せソース!」ということであれば、もう一度児島署に問い合わせてみるなり、何でもいいのでリアルのソースに当たってみるといいと思う。
批判する対象については、ちゃんと調べてからに越したことはないよ。
「ネットの実情を知らずにこんなくだらんことを大事にしやがって!」というような批判をするなら、なおさら。
で、その後この件がどうなったのかググってみましたが、不起訴になったのかどうか、続報が見当たりませんでした。事案からすれば、まず間違いなく不起訴になるべき事案だとは思いますが。
もう一つ、やや誤解かなと思うブコメもあったので一緒に。
unknownmelodies 確かに逮捕と同一ではないけど。「起訴するかどうかは、全部、検察で判断する」から、後で逮捕もありうるはず
たしかに、書類送検した後で、改めて逮捕となる可能性はゼロではないです。少なくとも制度上禁止はされていない。
でも、捜査の流れからすると、あまり、というかまずありえない事態。
警察>検察>裁判所、という順でフィルターがかかる。つまり、警察が一番「こいつ処罰したれ」という網を広くかけていて、それに検察がダメ出しをするという構図なわけです。基本的・相対的にですが。
なので、警察で「身柄事件にする必要はない」という前提で、自分のところで捜査を終えて検察に送った(書類送検した)後、検察のほうで、「これは逮捕しなきゃダメだろ」という判断に至る場合は、通常はまずありえないといえます。
ありうるとすれば、書類送検後に余罪が発覚したような場合に限られるでしょうね。
いずれにしても、「書類送検という手続それ自体が何か不利益な効果を生むものなので、警察は可能であればそのような措置をとるべきでない」という考えがまったくの誤解である、という元エントリの趣旨との関連は小さい論点です。
【追記20091128】
早速ご本人からブコメいただいたので返答を
そんな役人理屈で、不当に送検された者の不利益はどう回復されるのか。
「役人理屈」と言われても、「立件して捜査を開始したら送検まではオートマチック」である以上、「ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします」としか警察は言えないんじゃないかと。
結果的に不起訴になろうとも、犯罪の嫌疑を受けて「警察沙汰」にされること自体、被疑者扱いされる人にとっては手間と精神的苦痛を伴うものではあるけれども、それを否定したら、じゃあ世の中の治安はどうやって守るねん、という話に。
結局、kentultra1さんの不満というのは、「書類送検」段階に向けても意味がないんですよ。批判を向けるべきは、「立件」(捜査を開始)した段階。いくら通報厨からの電話やメールを受けても、該当スレの流れを見たら、「あー、こんなの本気じゃないに決まってるだろ」と見抜けよ、と。そういう意見には私も反対ではない。
警察にフィルタ機能がないならポリにお世話になった酔っぱらいは全員送検されているのか?
「酔っ払った」だけで何か犯罪に該当するわけでは、ない。だから、警察・検察が「犯罪があると思料」することはありえない。「捜査」がそもそも開始されない。
酔っ払いは、「保護」の対象になるだけ。
警職法第3条と、「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」第3条をそれぞれご参照。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO136.html
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S36/S36HO103.html
「トラ箱」の根拠法がこれらね。
だから、「ポリにお世話になった酔っぱらいは全員送検されて」いない。
酔っ払って、暴行、傷害、器物損壊、公務執行妨害なんかを働けば、逮捕されて「留置場」に入れられる。
でも、逮捕はされても、常に「身柄送検」になるとは限らない。酔っ払っての悪さで、酔いが覚めたら反省して、身柄引受人もすぐ来てくれるような人なら、在宅事件に切り替えて、勾留請求はしないで釈放。
でも、そういう場合であっても、「書類送検」だけはきっちりされます。検察庁から呼び出しがかかって、「任意の取調べ」を一度受けます。で、悪質じゃなければ不起訴。ちょっと悪質だと、略式起訴(罰金納めておしまい)。
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51525927.html
処女厨にとって、たとえば「めぞん一刻」とかはどう映るんだろうな?
俺も最初自分が処女厨なんだと思ってたけど、よくよく考えてみると
貞操観念云々は重要視してても処女であるかどうかはわりとどうでも良いことなんだよな。
好いた惚れたの結果として女の子の初めてが頂けるなら、それは有り難いことだが必須ではない。
ただ、そのありがたみが軽視されすぎてる部分から過剰反応としての処女厨は結構多い気がする。
"処女性"を忌避する奴は女性を道具として見てるし、"処女"を重視する奴は女性を所有物と考えてると思われる。
どっちもどっちというか、オッパイの善し悪しやチンコのよしあしと同様に、
"無くても良い" とか、"あったらいいな" 程度に考えてる人間が同じ男としても信用出来るかも知れない。
年を取るごとに処女厨ぶりが緩和される奴と悪化する奴と居るんだが、
処女性を気にしないって言ってる奴は単に無自覚なだけで後でどう転ぶかわかんないので注意が必要。
そんなにいろんな人とまぐわりたいならスワッピングみたいな趣味持った旦那でも作りゃ良いんじゃないだろうか、
ただし、他にも機能があればOK
その表現だとOKて事はないと思うが?
コンパイラとかが良い例で、本来コピープロテクト解除機能は持っていないが、ユーザがプログラムを作ってコンパイラを使うことで、
コピープロテクト解除機能を作ることは可能これはセーフ。
要するに、コピープロテクトを破る道具なのか、コピープロテクトを破る道具を作れる道具なのか?
という点で、他にも機能があればOKが誤解されている。
汎用的な機能があって、ユーザーがそれを利用して、結果プロテクトが破れるなら、道具に罪はないが
プロテクトを破る機能と、独立して他の機能がある製品なら、プロテクトを破る機能が焦点となって、その回路単体がのみといわれてアウト。
MODチップ系のプロテクトを破るチップはアウトだけど、汎用のマイコンが積んであって、MODがソフトで行われていて、そのソフトはユーザーが入れる場合は
マイコン自体はMODにも使えるし他の機能も有している、たとえ100%MODに使われるとしても、プロテクト解除機能はどうみても有していない汎用品なのでセーフ。MODソフトがアウト。
という分水嶺では?
この論を読むにあたっての前提
・「バカ」とは単に学力に限らず、知的活動全般(コミュニケーション,芸術なども含む)における能力が劣っている人物を指す
・「美人/ブス」をx軸、「賢い/バカ」をy軸とし論を進める。(「学力/EQ(学力以外を暫定的にこう括る)」というz軸は議論を煩雑にするので省略する)
・「不幸」の定義が非常に曖昧ですが、「幸せが少ない」よりも「苦しみが多い」寄りのニュアンスで捉えてください
自意識を植え付けられた現代人に共通すると思われる欲望の一つとして、「自己承認欲求」というものがある。これは己が他者から承認されたいと思う欲望である。これが満たされない場合、人間はフラストレーションを募らせ、不安定な状態に陥りやすい。
しかし、当然ながらこの自己承認欲求は万人に対して保障されているわけではない。ここの自己承認欲求の不均衡が起きる。そして、危険なことに、この自己承認欲求を満たすために女性には安易な「性」という交換価値が与えられている。
しかし、「性」を交換して得られる自己承認欲求は概して薄っぺらく浅いものであることが多い。「性」と交換に承認を得た女性たちは、結果的により深い、より切迫した欠乏感に苛まれる。
典型例としては、「ヤンキー娘が男をとっかえひっかえした挙句に妊娠して高校中退」のようなものである。この場合、彼女は「勉強ができない」という劣等感や、不幸な家庭環境による愛情への飢餓を、「性」というエサに群がる男性から求められることによって補おうとしたものと考えられる(ヤンキー娘の家庭環境が不幸とは限らないという反論に対しては、前提条件で挙げた「バカ」が知的活動全般を含むという点に注意を喚起しておきたい)
しかし、概して、このような過程を経た出産、それによって形成される家庭というのは同じ末路を辿りやすい。これが文化の再生産・階級の固定である。彼女の、「性」をエサにして自己承認欲求を満たすというプライドのファストフード店は、妊娠・出産というクライマックスを経て閉店に追い込まれる。生まれる子供が女子であれば、その子供も「バカ」で「美人」である可能性が高い。
では、「バカでブス」の場合を例にとってみよう。彼女たちも「自己承認欲求」が満たされず、苦しい時代を余儀なくされるという点ではバカな美人と同じである。しかし、この場合、彼女たちには交換価値となる「性」がそれほど高い価値を持たない(まあそもそも若いってだけでブスであろうとデブであろうと性的価値はあるんだろうなとも思ったけど、飽くまで二者間の比較において)
よって、どうなるか。彼女たちは男性たちから得られる浅薄な愛情すら受けられず、非常に厳しい環境で生育することになる。最初は男性から求められるバカな美人を見て羨望に身を焦がすこともあるだろう。しかし、やがて気付くのである。あんなことをしても何にもならない。
器質的に同等の知力を持つと仮定した場合、大人と子供では大人のほうが賢い。なぜならば、それはそれまでに培われた経験、そしてそこから得られた「情報」が存在するからである。よって、「子供でバカでブス」よりは「大人でバカでブス」の方が賢い。そしてこの場合の「経験」は必ずしも自分自身によってなされる必要はないのである。バカなブスはバカな美人の失敗を見て学ぶ。
ここで、「でば、バカな美人であっても、経験によって己をブラッシュアップすることは可能なのではないか」という質問が成り立つ。それは正当な反論であり、その場合は「美人」というカードが役に立ち始めることもあるだろう。しかし、彼女たちの場合、それ以前に妊娠や結婚において、人生の再チャレンジにおける不利なカードを引かされている可能性も高いのである。
バカなブスは少しだけ賢くなって漕ぎだしていく。
バカな美人は錨を下してしまったため港から離れられない。
そのような意味において、「バカで美人」よりも、「バカでブス」のほうが、不幸に「なりづらい」という結論が成立する。
以下は余談
平たく言えば「同じバカならモテるよりモテないほうがむしろ幸せなのでは…
幸せが言い過ぎなのだとしたら受ける傷は少なくて済むのでは…」ということを加護さんについて考えて思ったのでした(彼女はそれで生活の糧を得てるから上の論には必ずしも当てはまらないけど)。しかし、「モテ」を分水嶺にすると知的能力云々のあたりがややこしくなるので(「モテる時点でバカではないんじゃん」等)今回は容貌を用いました。
とりあえずイメージとしては、
「高卒派遣OLひとりでバラエティ番組を眺めながら食べるオリジン弁当の夕食」
と
「ヤンキー上がりシングルマザー母子家庭でワーキングプア水商売はじめました」
の対比としてイメージしてもらえるといいと思います。
それでも「ひとりじゃないだけ後者のガマシ」という人に関しては私とは価値観が違うとしか言えない。
「賢くて美人」と「賢くてブス」とを考えた場合は、個人的にそこに(不幸になりやすいかどうかという点において)あまり差はないんじゃないかと思います。幸せになるために踏まねばならない手数の多さという意味では「賢くてブス」のほうが上だろうけど、それをきちんと踏襲するというニュアンスも「賢い」にはこめてあります。
そもそも、(前提で述べたような極端なケースを除けば)「美人」と「ブス」という分け方が極めて恣意的なものなので、この場合の「美人」というのは単に「多くの人がその人を美人と思う」という事実に過ぎず、また「ブス」も然りです。そして、重要なのは、「需要の多寡は必ずしもそのものの優劣と比例するわけではない」という点です。
よって、例えば「ブス」だったとしても、自分を需要する層というのを的確に判断する能力があれば、それは決して弱いカードではなく、単に使いどころの難しいカードであるに過ぎないのです。むしろ、場合によって強いカードにもなりうる可能性を秘めているのです(RPGで、人魚のキャラが陸上戦ではHP少なくて弱いけど、水中戦では無敵みたいな感じ)
以上をまとめて「不幸になりづらいランキング」を作るのであれば、
という図式が成立するのではないかと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20080611041657
82年生まれです。
ニコニコ動画のゲームカテゴリで見ても、以下のゲームが頻出するのにちょっと違和感が↓
これって、85年生まれ以下の価値観な気がするんだよなあ。
「クロノトリガー」
そして忘れちゃいけない「初代ポケモン」
85年生まれ以下にとって、これら後期SFC作品は小学校高学年。まさに「傍らにあったゲーム」なんだろうけど、
このころちょうど中二病のきらいがあった自分は、イマイチ「乗れなかった」んだよなあ。
「DQ5」(「エスタークをXXターン以内で……」は、もはや都市伝説)
「FF5」(こっちもモアイ像の内部に入りたくて、宝箱回収率100%を目指したっけ)
「聖剣伝説2」(漢字のテストで「せいけん交代」を聖剣と書いた男子、続出)
でもこの辺の中期SFCソフトは、ニコニコの字幕なんか見ても、それほどピンと来ていない人が多いように感じるんだ。
何も調べていない印象で語って、申し訳ないんだけど。
自分のリアルにいる85年生まれ以下を見てて思うんだけど、彼らって団結が強い傾向にあるのね。
同世代での協調意識が強い、というか。
85-88年辺りの奴らは、日ごろから本当によくつるんでいるように感じる。
それに比べると、82-84年生まれはそんなに「群れない」印象があるなあ。
さらにその下の平成生まれは、よく分かりませんw
ネットの世界でも、2chのvipなんかに見られる纏まりの強さやフットワークの軽さは、85年生まれ以下っぽいなあと感じる。
そして彼らがそのままニコニコに流れ、現在の雰囲気を作っているような気がするのです。
この辺の「クラスター感」が、82年生まれの自分からは少し羨ましいなあ、と。
ついでに言えば、オタク第3世代と第4世代を区別する分水嶺も、この85年辺りにあるような気がする。
あと思ったんだけど、82-84年生まれはマーケティング的に「忘れられた世代」なのかもしれない。
90年代の中後半で、コギャルだなんだとメディアにはやし立てられたのが、自分たちよりちょっと上。
6ポケット(両親、両祖父母)と言われ、子供の消費動向に注目が集まったのは、前述した85年生まれ以下。
ちょうどその境目にいるのが、82-84年生まれというイメージだったり。
終始まとまりの無い、くだらない世代論になってしまった。
申し訳ない。
「ヴィレッジヴァンガードに入るとつい舌打ちしてしまう」コミュニティとかどうでしょうか。