2016-05-06

http://anond.hatelabo.jp/20160505165536

自動車の運転は、戦略戦術の双方において、紳士的に他人の利をおもんぱかりつつ、自己の利の駆け引きを行うということを、大いなる責任をもってリアルタイム処理するという、とても素晴らしい技能行為だ。自分の知性と意欲を用いて何らかの成果を出したい人間であれば、ぜひ皆にお勧めしたいことだ。

もちろん何事にもリスクはあり、特に自動車の運転は、一市民が指先つま先の操作で1トン以上の装置を公の場で縦横に操作できるという権利行使することである。そのリスク行使することに耐えられないという人がいるのは理解できる。

だが、そういう人の比率は、私の感覚では人口の1割程度ではないのかな。人が触ったドアノブを触れない、人が料理した食事を食べられない、尖った物を見ると気持ち悪くなる。人の心の動きと閾値はさまざまだ。各個人の身体能力もさまざまだ。

リスク低減のみに着目するならば、自動運転の更なる品質向上と発展、法制とのすり合わせをぜひ進めるべきであるし、これはまさに善き技術進化である。加えて、上記のようなメンタルのかたが不本意ながら自動車の運転を避けられない、というケースへの救済ともなる。自動運転の発展に伴って新たなリスクも各種発生するであろうが、各個検討解決していけばよい。それらのリスク低減がどうしても難しいのであれば、自動運転社会実現の優先度を下げればよい。

このように、人を自動車の運転リスクから遠ざけるという命題検討実施していくだけでも、各種リスクは生まれ、それらを迅速に利得と人徳をもって判断し、実行していくことが必要だ。

メンタルレベルリスクを取れない、判断責任を恐れる種類の人には、こういった物事の推進を期待することはできない。つまり自動車をちゃんと運転できるレベルの人が、この手の人たちに対しても、なんとかしてやらねばならない。

社会には、残念ながらこの軸の役割分担も存在する。

このメタファーが腹に落ちるか、このメタファーに腹を立てるかが、ひとつ分水嶺でもある。

記事への反応 -

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん