はてなキーワード: 設計思想とは
あらかじめ、簡単にまとめておくと、
『けものフレンズ』のOPソング「ようこそジャパリパークへ!」は
その一見人畜無害に見える歌詞に、人類がジャパリパークへ至るまでに辿ってきた道のりや設計思想を隠している。
ファンにとってはもはや常識の部類であろうが、啓かれていない野蛮なインターネットの民衆たちにはまだまだ広まっていないであろう。
人類のよりよき未来のため、「ようこそジャパリパークへ!」の歌詞解説をここに記す。
Welcome to ようこそジャパリパーク!
歌い出し。「ドッタンバッタン大騒ぎ」とは戦争前夜の政治的な混乱を暗示している。
うー!がぉー!
「うー」が「おー」になる言葉とは何か。そう、War である。戦争がはじまったのだ。関係ないが SEKAI NO OWARI というバンド名には NO WAR という文字列が潜んでいる。
「喧嘩してすっちゃかめっちゃか」になった時代を経て、けものへ進化したことで今ではすっかり仲良しになれたことを感謝している。
本当の愛はここにある
「けものは居ても のけものは居ない」は一般的に「みんなちがってみんないい」の謂だとされがちであるが、誤読である。
どんな社会には一定のはみ出し者は必ず生まれる。それが発生しないということは、そもそも排除されているからだ。
ジャパリパークは初めから「のけもの」を拒絶するようにデザインされた場所なのだ。
我々はここでナチスの蛮行を想起し、戦慄をおぼえざるをえない。排他的な国家で称揚される「愛」とはどういった類のものか――?
ともあれ、「ジャパリパーク」建設の理想に燃える人物が現れた。その人物は長引く戦争によって疲弊した人類世界を次のレベルに導き平和をもたらすために、ある行動に走ることとなる。
夕暮れ空に 指をそっと重ねたら
きのこ雲を暗示。
そう、ジャパリパークの設立者は単なる戦争を破滅が約束された核戦争へとひきあげたのだ。
振り向けば あちらこちらでトラブル
みんな自由に生きている
そう 君も飾らなくて大丈夫
我々の生きる現代と遠未来のジャパリパークをつなぐミッシングリンク――核戦争後の『マッドマックス』的終末世界で人々がたくましく生きる様子を描いている。
何を「大目に見る」のかといえば、無辜の民衆から暴力で資源や食料を略奪することだ。万民が「獣」になってしまった世の中だからしょうがないだろババア、ということである。
みんな「獣」になってしまったので「自由に生きている」わけである。
安価で高品質な大量生産の衣料品も失われ、この時代の人々はみな古代人のような粗末で簡素な服装をしている。アクセサリーなどは一部の特権的な支配階級にしか許されていない。だから「君も飾らなくて大丈夫」。
(はいどーぞ♡)
荒廃した世界、蔓延する暴力、無法なる秩序――もはや人類に安息の地はないのか?
絶望にくれた未来人の前に「はいどーぞ♥ はじめまして!」と登場したのが我らが理想郷ジャパリパークである。
いつもいつでも優しい笑顔 君を待っていたの
開かれた扉(ゲート) 夢をいっぱい語ったら
どこまででも
続いてくグレイトジャーニー
Oh 東へ吠えろ 西へ吠えろ
「ヨハネの黙示録」第四章:「見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起こるべきことを、見せてあげよう」と言った。」
まさにその門(ゲート)から旧世界を滅ぼす災厄の獣や四騎士たちが「東へ西へ」放たれたのである。
「世界中に響くサファリメロディ」は獣たちの咆哮であるとともに、天変地異を報せる天使のラッパも暗喩しているものと考えられる。
―Welcome to ようこそジャパリパーク!
サビの一節だけを印象的に挿入することで、新世界の誕生を強調。
うー!がぉー!
ララララ ララララ Oh, Welcome to the ジャパリパーク!
ララララ ララララ Oh, Welcome to the ジャパリパーク!
ようこそジャパリパーク!
「ラララ」というコーラスで、言語や思考の多様性を切り捨て幸福に統一されたユートピア・ジャパリパークの状況を示唆。
そこでは「welcome」されたフレンズが「集まって」わいわいし、いつか「素敵に旅立つ」=死ぬ。それだけでサイクルが成り立つ。
それは完成された世界だ。
それは完成された福音だ。
ようこそジャパリパーク!
すでにある一万個の機能について、うまく共通点を抽出できたとしても
今後拡張する三万個の機能についても同じことが言えるのだろうか?
エンジニアとしては普遍的なテーマだけど、職場帰りに素面でするような話でもなくて。
元東証一部企業の取締役社長より一時間近く時間をお借りしてしまったからこそできた話は、とても面白かった。
経歴がやばい社長がラリー・ウォールlikeな超々やばい人たちに囲まれて、選択した生存戦略。
top1%ではなく10%の山を複数個持つことで、1%のスペシャリストになれなくても凄さをわかるところまで追いつけるからと。
正しい方向で正しい努力をすることで、誰でも10%にはなれるけど、正しさの担保は物事の本質を理解しないと得られない。
じゃなその本質とはどのようなことか?抽象化といった、プログラミング言語の特性に寄らない普遍的な設計思想だと。
程度は違えど、中高と進学校に進んで周りの理三行くような優秀なやつには一生勝てないなという挫折感と劣等感が漫然とあったから、
生煮えのエンジニアから脱却する気づきを得られたことに感謝があった。
この歳になって、また頑張りたいと思えた。
数週間前にボーナスで買ったスマホを割ってしまって、どこに怒りをぶつけたらいいのかわからん状態だから、ダラダラ愚痴を書くぞ。
日頃ポケットに入れて持ち歩くものなのに、表面は落としたら割れるガラスになっているってのはどう考えてもおかしいぞ。
設計した人は落としたらどうなるか、って発想がないのか。余りにも危険予知が出来てなさすぎるぞ。
PSPやVITAも大部分は液晶だけど、あれは基本的にカバンに入れて持ち運ぶものだから問題ない。昔のストレートタイプのガラケーも基本的にガラスの面が少ないので、落としても割れることはあまりにない。
でもスマホは1面全てガラスだから。しかも頻繁に持ち歩くものなのに。一応言っておくけど、液晶保護フィルムはいかに衝撃を吸収することを謳っているものやガラスフィルムみたいに固いものであっても、気休めにしかならんぞ。ソースは俺と友人と上司の3人だ。コンクリートに落とすくらいなら何とかなるかもしれんけど、砂利とか石とか机の脚とか、力が一点に集中するものに向かって落ちると、あっさり割れる。
京セラのトルクみたいに、フレームが盛り上がってて液晶部分がくぼんでる端末なら、落としても割れる心配は少ないかもしれん。まあそんな設計になってる端末はそうそうないけど。
それどころか最近の端末は、淵の部分を曲面ガラスにして、画面がフレームより上になるというさらなるイヤガラセを仕込んでるからな。このタイプは落とすと液晶部分にダメージが行く可能性は、フラットな端末よりさらに上だ。こんなわけのわからん設計にすんなよ。
デザインのため、と言われればほんの少しは納得するが、デザインのために脆くするのかいかがなものか。割れていない状態のiPhoneは非常に美しいが、割れたiPhoneが放つ悲壮感があまりにももの悲しい。割れた後、恐ろしく不格好になって嘲笑の対象になることをデザインした人は考えなかったのか。
しかもあっさり割れる癖に自分で難易度が高いうえに、修理費も高いときたもんだ。だから割れても、そのままな人が多いんだろ。
ともかく、スマホメーカー各社は落としても液晶が割れない設計にして頂きたい。
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追記:7/11 1:04
スマホの画面を割った怒りで勢いで書いた愚痴でしたが、想像以上にコメントして頂けたので、補足をしておきます。皆様、色々な意見をありがとうございました。
まず割ったスマホはiPhoneではありません。「Black Berry Priv」という端末です。かなり良い値段がするSIMフリー端末なのですが、スライド式キーボードが気に入り、奮発して買ったものです。
そして、ちゃんとカバーもしていましたし、フィルムも貼っていました。だからこそ、「何で割れるんだああああっ!!!」と八つ当たりに近い怒り方をしていたわけです。とはいえ、本文中にも書いたとおり、友人や同僚2人もフィルムを付けているのに画面を割っているのを見ているので、本当に気休めにしかならないと今回の件で思ったわけです。ただ、落として割らなかったことの方が多いので、基本的に付けるべきであるとは思います。
今回、スマホを割った原因は胸ポケットに入れたスマホが落ちたからです。詳しくは公式サイトなどで「Black Berry Priv」の写真を見てもらえればわかりますが、この端末はふちが曲面になっており、画面がかなり盛り上がった構造をしています。だからカバーをつけてたって、画面の方が位置が高く、落としてしまったときに画面からぶつかり割れちゃったってことです。
トルクを使えばいいというコメントをたくさん頂きましたが、手元に初代(SKT01)と2代目(G01)がすでにあります。実を言うとスマホの画面を割ったのは2回目で(こっちもAndroid。このときはケースを付けていなかった)、以降は反省して、スマホにはケースをつけ、そしてトルクと2台持ちしています。日ごろポケットに入れて使うのはトルクで、それ以外はハイスペック端末という風に住み分けていたんですが、今回は何気なくBlackBerryの方を胸ポケットに入れてしまったばっかりに……。
ちなみに初代トルク画面の周りに金属の枠が埋め込まれているなど、分かりやすく頑丈さを感じる端末ですが、現状では1万円台で買えるスマホとスペックがほぼ変わらないので、今使うのは非常にキツイです。タッチパネルの反応も鈍いですし。G01はミドルスペック並みの性能はありますが、初代機と比較すると、ふちが余り高くなくて金属も埋め込まれていないし、なによりSIMピョン問題があり、堅牢性には割りと疑問があるので、あまりお勧めはしません(今のところ、自分の端末では発生していませんが……)。3代目のG02はスペックも外観もG01とあまり変化がないので食指が伸びておらず、まだ購入していません。
あと、GalaxyActiveやTouchPadについては使ったことがないので詳しくは知りません(中古でも余り見かけないので)。
レターズ/ヴァニシング2を読んだ。一作目から尖った作風が露呈してたけど、二作目になって更に吹っ切れたのかな。個人的に結構読みづらいSFになってた。
ラノベと文芸書の中間って感じの内容だった。綿密に配置された設定と、ところどころ散見された学術的な引用がスワロウテイル人工少女販売処を髣髴とさせる小説だったんだけど、一巻との直接的な繋がりが希薄だったから世界観に浸るのが少し難儀した。
ぽつぽつと各章で提示される情報が最後の方で一本にまとまっていく様子が良かった。少し前に書かれていた発見がここに繋がるのかってわくわくした。
一方で人間描写に難有りというか、どいつもこいつも人格形成に問題を抱えている上に未成熟でいびつな偏り方をしてるもんだから、あんまりみんな好きになれなかった。
突き抜けてるキャラクターしか出ないところがラノベらしいと言えばラノベらしいのだけれど、生身すぎる。どんな心情なのか分かりやすいんだけど、痛ましくて見ていられない感じがした。
また文体が硬いことも相まって、設定の説明が多く感じられた。人工知能の生命性や、臓器培養における倫理観など、生命に関することなら興味深く読み進められたんだけど、ハッキングの技術やソフトウェアの設計思想など、モノへの技術的アプローチの話になると、あんまり興味がわかないので集中できなかった。いい意味でも悪い意味でも過剰かなって思う。
とは言え、なんか脱獄しそうな人もいるし、三巻が出たら読みたいと思う。
ちゃんと出るんですよね?
というか今のスマホは俺が今まで使っていたスマホにあった便利な機能が全部削ぎ落とされた。
来月でスマホ歴10年だが今のスマホは昔(iPhone3G以前)に比べて本当に不便になった。
いや便利にはなったと思うがそれはそういうアプリがあるからっていうだけの話で
OSレベルやそれに伴うハード周りの変遷では確実に不便になったと思う。
まずタッチパネルが全部静電式になった。この時点からスマホに価値を見出せなくなった。
俺にとっては感圧式タッチパネルがスマホのスマホたる絶対条件だった。
スクロールバーはどこへ消えた。小さいボタン押すのに爪が使えないとかアホか。テキスト選択するのに長押し?ふざけろ。
キーボードショートカットが使えないことに絶望した。ソフトウェアキーボードにCtrlがないとかなんだよそれ。
Ctrl+A Ctrl+C Ctrl+X Ctrl+V Ctrl+Z 最低でもこの5つくらいは使わせろ。
ショートカット使えるか調べてもiPhoneもAndroidも、Windows 10 Mobileまでもがアプリのショートカットしか検索結果に出してこない。違う、そうじゃない。
ハードウェア画面ロックがいつの間にかなくなっていたときにはもうだめだと思った。
ロック設定してもポケットに入れてて着信あると何かの拍子にロック解除されてアプリ誤起動するのホント頭来る。
何のための画面ロックだよ。画面を操作してロック解除できる仕様じゃ画面ロックの意味ねえだろ。
あとスマホじゃなくてガラケーで使ってた機能だけど、スマホ汎用の日本語T9入力はいまだにないのか。
ドコモのNスマホ?あれはAndroidの時点で却下だ。それ以前にキャリアのゴミアプリ満載の時点でさようなら。
今はFSKAREN使ってるけど、あれのワンタッチ変換は辞書が貧弱すぎて文節区切りまくらないといけないから到底使いものにならない。
今のスマホはOSとして持っているべき機能をサードパーティーのアプリに頼ってるアプリありきの設計思想が気に入らない。
自作スマホが手軽にできるようになれば少しは欲しいスマホも出てくるだろうに。
ワイモバイル、次の機種が消去法で何も残らない。iPhone5sが使えるようになった今日の時点でだ。
どうするかなこれ。
http://twinavi.jp/topics/news/55ed5ffc-0a30-4ffc-a057-3b8eac133a21 これ。
なんとなれば「T」に隙間の無いステンシル書体が存在することは、リエージュロゴがステンシル書体をモチーフにしていない理由にはならないから。
元記事(よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?)では、名刺やデザイン展開を根拠にリエージュロゴはステンシルをモチーフにしている、としていて、そうすると「Théâtre de Liège」の頭文字TLを合わせたあのロゴの隙間が論理的整合性を保って説明できる。
一方反論記事(デザイナーの『ごまかし』 本当に「五輪とリエージュのロゴは似てない」か?)では、
リエージュロゴについて言えばむしろ、(佐野氏が五輪エンブレムのモチーフとして紹介した)DidotやBodoniのようなローマン系のフォントのセリフ(文字の端のヒゲの部分)から発想し、エリアを囲む四角形を外円の円周をあてて切り抜いた、と考えるほうが自然に思われます。
となっていて、その根拠が全く示されないため「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」と言わざるを得ない。
そして反論記事後段の「ごまかし」の指摘。ここも微妙だったりする。
「似てない」根拠は、「似て見えるか、似て見えないか」でも、エンブレムのデザインそのものではなく、デザインする上での「設計思想」のみと言うことになります。
──つまるところ、この記事の解説は、佐野氏が会見で行った解説に、自分に都合のいい事例だけを付加しただけの「ごまかし」ということになるのではないでしょうか?
反論記事の筆者は上記のように元記事を批判しているわけだが、ここに反論記事自身の「ごまかし」がある。元記事の主張に向き合わず周辺箇所にレッテルをはることで矮小化しようとしている、とでも言えばいいのか。
どういうことかというと、元記事の主張は、両ロゴはコンセプト(=設計思想)が違うため、「似てない」とするデザイナーが多い、である(個人的には「似てるけど設計思想が違うから別物」と表現した方がいいとは思う)。
これが元記事の根幹であり、元記事を批判するのであれば最初にツッコミをいれるべきだと思うが、反論記事はここをスルーする。そして逆に、元記事におけるステンシル書体や商標のくだりを「自分に都合のいい事例」と批判する。
しかしステンシル書体のくだりは、リエージュロゴ側のコンセプトを推論したものであり、主張の根拠となり得るものだ。他方、商標のくだりは何故事前に類似を見抜けなかったのかや、何故ロゴを事後修正したのかという疑問に答えるためのもの。
いずれも元記事内での役割があり、その役割に妥当性もある。決して「自分に都合のいい事例」でもなければ「ごまか」すためのものでもない。逆にそうレッテルをはってしまう反論記事に「ごまかし」を感じてしまう――のだが、はてなの諸賢にはどう映っただろうか。
日本は宗教に寛容な国であるので、境界線もあやふやで、曖昧だったりする。
例えば、イスラム教徒のことをムスリム(Muslim)と呼ぶということは知っていても、
その認識は、回教徒と呼んでいた頃から変わっていなかったりすることが多い。
襲撃を受けたフランスの新聞が、ムハンマド(Muhammad)を風刺画に書くことの何が問題か、
できるだけ、テロとは距離をおいた形で、少し話してみたい。
イスラームの話をする前に、我が身を振り返ってその曖昧ぶりを思い返してもらいたい。
まあ、宗教のテクニカルな話をすると、はてな村のギーク達は「あとで読む」を付けるだろうから、ちょっと例えてみよう。
まず、仏教には「世界はこういうものだ」という物理層がある。輪廻だとか解脱だとかだ。
モノリシックカーネルもマイクロカーネルも、OSの設計思想も、
結局のところ、ノイマン型アーキテクチャを基にした世界観の上に構築されているわけだ。
宗教とは、目の前に存在する「現実」をリバース・エンジニアリングしている。
その構造分析の結果、あるモデルにピッタリハマれば「悟った」と言われる。
般若心経は、Z80の手書きのニーモニック表と同様だと思えば、親しみも湧くだろうか。
さて、「現実世界」は中々簡単にディスアセンブル出来ないので、
できればインテルから直接、回路図なんかの技術資料をもらうみたいに、
「現実世界」を作り上げたり、その内部構成を知ってる相手に教えを請いたい。
その教えを請うことに成功したのが、預言者であるムハンマドだ。
大天使ジブリールに出会い、アッラーフの啓示を受けたとされている。
電気屋で悩んでたら嶋正利さんにCPUの論理設計について教えてもらえた、みたいなものだ。
まあこのへんでやめとくが、この教えてもらった世界の仕組みを書き留めたものが、クルアーン(コーラン)だ。
血なまぐさい話になるのでさらっと流すが、まあ日本でも大覚寺統と持明院統とが大揉めに揉めて南北朝同時成立したりしてたわけだ。
さて、「現実世界」を理解しハックしたのがムハンマドってことは、クルアーンに従って生活するのが良いわけだ。
つまり、本質的に宗教は「現実世界への関わり方」を示していることになる。
(残念ながら注釈でしか読んだことがなく、その美しいアラビア語による原典に触れたことはないが)
世界への関わり方は、時として人によって酷く違った解釈をされることがある。
デヴィット・フィンチャーの「セブン」という映画を観たことがあるだろうか?
キリスト教の七つの大罪をモチーフにした連続猟奇殺人事件と、それを追う刑事達の物語だ。
フィクションでは分が悪いと思うのであれば、エド・ゲインを思い出しても良い。
母親が狂信的なキリスト教信者であり、女性は悪魔だと教わって育ったと言う。
彼らは、その教えを忠実に守り、どちらかと言えば善意からその行為を行っている。
こうした連続殺人を観て、キリスト教信者をなじったり、キリストを風刺するのは、あまり面白いとは言えない。
彼らは、キリスト教信者ではあったかもしれないが、本来の教えとは異なる解釈をした、単なる犯罪者だからだ。
まあ、現代でもキリスト系のパロディー映画には苛烈な抗議文が届いたりするようだが、
過去、キリスト教会に対する風刺や批判は、即刻刑罰の対象になっていた時代が確かにあった。
「聖☆おにいさん」を書いたら暗殺され、それを民衆が支持する時代だ。
これは信教の自由と、表現の自由の、長い戦いの歴史がもたらした冷戦構造でもある。
表現者は、今回のフランスの新聞社への襲撃は、反対の異を唱えるだろう。
端的に言えば「オマエの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」だ。
疎い人ほど、「ムスリムはそういう過激な宗教の人なんでしょ」という理解をする。
また、「その風刺はいかがなものか」と「表現の自由を守る」が、矛盾なく同時に主張できると判らない人も居る。
そうすると、「表現の自由を尊重しない宗教が、テロに走った」と捉えられてしまう。
「表現の自由を守るためには、テロに屈せず、また風刺画を描く」のが正しいと思われてしまう。
人は理屈ではなく感情で行動するので、こうした時に、出来る事はほとんど無い。
淡々と、「その風刺は侮辱なので訴えます」とフランスの法律の範囲内で行動するしかないのだろう。
ブリジット・バルドーは、何度もそうやって訴えられ、フランス司法はキチンと刑罰を下している。
(またフランスはユダヤ人に対する人種的差別には敏感で、割とちょくちょく出版社に罰金刑を出している)
日本人が日本を馬鹿にした出版社を襲撃する事件があれば、その日本人を非難し、襲撃された出版社側に立つだろう。
その後、日本を馬鹿にした出版社の表現の自由を守りつつ、淡々と法律に則って侮辱されたとして訴えるしかない。
今回、欧州の各種ムスリム団体がテロ行為を非難している事は、忘れてはいけないと思う。
Je suis Charlie(私はシャルリー)とつぶやく前に、Je suis Ahmed(私はアフメド)として呟いたムスリムの言葉も聞いて欲しい。
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so.
アルゴリズムがわかってるにこしたことは無いけど「コンピュータってやつの根っこ」ってそれだけじゃないし。
コンピュータアーキテクチャとかネットワーク/プロトコルとかもわかっててほしいし、各種OSでそれぞれのコマンド使って情報引き出すノウハウも持っててほしいし。
プログラムに限定しても、アルゴリズムの知識以上に、名前付けのセンスとか、分割・整理のセンスも重要だと思うし。
データベースの設計だって、アルゴリズムがわかればできるってもんでもないし、業務ロジックと独立に正規化して設計するのが原則のRDBと、あらかじめクエリを想定して設計するドキュメントDBだと、全然考え方が違うし。
オープンソース活用にしても、今のフレームワーク・ミドルウェアって、アルゴリズムレベルの知識だけじゃあ、ソース読んでも設計思想とかわからなくてPoEAAとかのアプリケーションアーキテクチャの設計の知識も必要だし。
実際使おうと思ったら、ソース読むだけじゃなくて、ドキュメントや開発者ブログやメーリングリストもチェックするべきだし。
色々考えると、英語、ソースコード、問わずに原典にあたって必要な知識を増やす姿勢と、それを整理して伝える力が重要ってことになる。
こういう言い方はなんだけど、女性の就労が進まないのは、労働力として女性が男性に比べて「無能」だからだと思う。
「無能」って言葉悪い?単純化するために使ってるんで我慢して。
「無能」ってのはテストの成績がいいとか悪いとか、営業成績がどうだっていう話だけじゃなくて、全部ひっくるめてリスクの問題だからね。
ここんところを、女性のプライドを尊重してぼやかしているから本当の原因が曖昧になるんであって、女性が「有能」なら企業は女性を争って獲得しようとするから。
「女性の就労が困難なこと」と「女性が有能な労働者である」ことは両立しないんですよ。
男性の方が力が強い、体力があるということだって、女性はいまどき原始時代じゃないんだから力が強くたってと、軽視するけどさ、健康リスクとか、海外赴任が出来る出来ない(たとえば女性をナイジェリアに転勤させるってちょっと難しいでしょ?)、体調不良で休まれる頻度とか、残業の時、深夜に帰宅するリスクとかね、雇う側からしたら決して無視できないデメリットなんですよ。
それに妊娠リスク、子育てリスク、更年期リスクが発生するわけでしょ?
女性が労働者として「無能」なら、市場に任せるんなら、方策はひとつしかないわけ。女性の給与を引き下げることですよ。あと、企業の解雇権を絶対的に強化して、実質、どういう理由であれ解雇できるようにするとかね。そしたら、女性を雇うリスクは大幅に引き下げられるね。ま、でもそれは現実問題無理だね。
無能有能ってのは相対的だから、女性が男性と同程度には有能な労働者になれないなら、男性が女性と同程度に無能になるってのもひとつの手。たとえば妊娠リスクはともかくとしてさ、仕事か育児かの問題が女性の問題として捉えられてるってのはおかしいでしょ?大体の場合は、父親がいるわけじゃん。これが、子育て世帯と小梨世帯の対立になるなら分かるんだけど、男性と女性の問題になっているのは専業主婦になるのはおおむね女性だからでしょ?これは女性の専業主婦と言う形を許容しちゃっている政府の政策や世間の見方のせいもあるけど、一家を養う覚悟が女性にないのも原因だよね。
仕事の人間関係に疲れたら家庭に入りますなんて選択肢を持っている人と持っていない人、企業はどっちを雇いたいと思うのよ。考えりゃわかるでしょ。
「女を養う気がない男とは結婚したくない、だって女にはいろいろ大変なことがあるんですからねっ」
なんて言う言論を、そうだそうだなんて女性が言っていたらどうにもならないよ。少しはやせ我慢しようよ。
ま、でも仮に、ここらへんの世間の見方やら制度やら女性の意識やらが改善したとしても、女性の「有能さ」が男性に追いつくか、あるいは女性の「無能さ」にまで男性を雇用するリスクが増大するかって言ったらそこまではいかないでしょうね。だって生物としての設計思想が違うんだもの。
女性を男性と同じ条件で雇用することは無茶苦茶リスクがあるんだってことは、これはもう生物としての前提なんだからどうしようもないのね。いやそうじゃない、女性は有能だって言うならあなたが起業しなよ。起業して女性ばっかり雇用してみな。頭のレベルで言ったら男性よりもはるかに優秀な女性が男性よりも雇用しやすいんだから、「労働者として」女性が男性よりも有能なら成功間違いなしだよ。
女性が労働者として男性より無能なんだよ、ってことを無視しているか、分かっていても見て見ないふりをしているから、全然うまくいかないんだよ。日本よりはうまくいっているように見える欧米だって、やっぱり無理があるよねってことになってるから。国が背負うべき責任を企業に押し付けてるから逃げたもん勝ちになってるんだよ。
あなただって縁もゆかりもない障害児の面倒を見れと言われても困るでしょ。国が面倒みろよって思うでしょ。企業だって同じよ。ただかねもうけのために集まっているだけの私人なんだもの、企業なんてものは。
妊娠しました、育休とりました、また妊娠しました、また育休とりました、妊娠しました、なんてのを繰り返されてみ。5年も6年も席を空けておいてまあ、減額されてるけど給料払えって言われてみ。
女性はひとりでも少なくしたい、なるべく雇いたくないって企業が思うのは当然じゃないか。
この辺は国と企業のババ抜きだわな。どっちも負担を負いたくないわけ。
ま、だから「妊娠しました」のところはしょうがなくても、「育休取りました」のところはせめて男女が半々にならんといかんですね。男女と言うか、パパとママがね。体調悪かろうが、「ママ、おしごといかないでー」って子供に泣きつかれようが、乳がはってようが、一家の大黒柱になる覚悟をやっぱり女性も持ってもらわないとどうにもならんよね。金持ちのマダムがさ、自宅で趣味で英国風午後の紅茶の手ほどき教室なんてやってるのが女性のロールモデルになってるようじゃ、だめだよ。夫のカネでぬくぬく暮らして、あんたペットみたいなもんだねーと社会全体がそういうマダムをさげすむようにならんと、そこまで意識改革しないとどうにもならんですよ。
あと、やっぱり負担は国が主体になって負わないと。女性を雇用するリスクの部分は国が負いましょうってならないと、企業がよろこんで女性を雇用するはずがないじゃん。
酔った勢いで書く。数年前の断片的な事実を繋ぎ合わせた、あくまでフィクションとさせて頂きたい
情報工学に基づいたエレガントな設計思想。いいじゃないですか、我々はあなた方のその「スキル」を尊敬してさえいますよ。
だがあなた方は我々が手にする「LAMP」と「JavaScript」いう非常に便利な道具を「スクリプト言語だから」というまさにその1点だけで
「そんなおもちゃでシステムを作るなんてありえない。勘弁してくれ!」と言い放った。正直ショックだった。
しかしだ、あなた方のそのエレガントな設計思想で作り上げた完璧な設計書とそのコードは
いま全く動いていないただのバインダーになっている。色々な外的な要因はあったにせよ
今事実としてそうなっている。
一方、ビジネスは止まらないので、我々はそのあと、その一笑に付された道具を使って2か月でプロトタイピングを行った。
何しろ時間の制約もあったので全然完璧ではなかったし、まともな設計書すら書けなかったが、
2か月後ユーザは This is it ! と言ってくれた。
そしてその出来上がった試作品を進化させて、現在稼働しているシステムのベースとなって今日も動き続けている。
中身は決して綺麗じゃないかもしれないが、もちろんたまに出るバグにも真摯に向き合い
頻繁に発生する変更要件にも耐え抜き、鍛えられ、その結果、ユーザの満足度と何よりやり遂げたという
「信頼」を得ることができた。
話を戻そう。我々は今でさえあなた方の「設計思想」を馬鹿にするつもりはない。少しでもその知見を学びたいくらいだ。
色々な耐え難い変更要因があったのかもしれないし、今更責めるつもりもない。
だが、あなた方が嘲笑ったあの言葉を今も忘れることができない。どうかその一点だけは撤回して欲しいと
今でもたまに思い返す。
アイデア一緒=セーフ
コード流用=アウト?
http://d.hatena.ne.jp/gorokuma/20130804/1375643345
悪質デベロッパーによる「アイコンメモ」の丸パクリ、「アイコン付箋紙」
Appleに直訴してもメール中継してくれるだけでなんにもしてくれないそうです。これは悪質。
パクられ元は「Tinder」
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/21521
公開は春だそうですが、ここまでインターフェイスが同一でも独自性をアピールして良いものなんでしょうか?日本人離れした印象。
以下開発者の方の主張
https://www.facebook.com/ko.miyagawa.roadofhope/posts/10203040745246465
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なんでわざわざ出会い系やるのってあたり、今年の抱負がてら話させて下さい。
出会い系。
婚活/恋活という言葉が出てきて、出会いのためには何らかのアクションが必要だと認知された現代ですが、残念ながら、出会い系という言葉には未だ、胡散臭いイメージが付きまとっているようです。また、過去15年ほどは、胡散臭さに見合う実態もありました。
ですが、実は、それら出会い系サービスが抱えていた問題、ソーシャルが前提となった今の時代には、ほぼ完全に解決することが出来るようになっています。
詳しく説明します。
従来は、素性が分からない相手と会う必要がありましたから、ウェブ上でメッセージのやり取りを1カ月程度続けて、女性側が信頼できそうだなと思ったら、会ってみましょうかという流れでした。
それが、変わりました。
素性を明かせる人間のみとやり取りが出来るようになりました。ウェブベースだと誰が使ってるかわからないのでそれが無理なのですが、facebook認証や、アプリの認証を活用することで、未成年は排除できますし、経歴詐称はほぼ防げるようになりました。
にもかかわらず、既存のサービスのユーザー体験はというと、従来型の素性が分からない相手とのやり取りを前提としたものから変わっておらず、ウェブ上で相手との相性を見極めるという非常に難しい作業を強いる仕組みになってしまっているのが出会い系領域の現状です。
ウェブ上のみで理想の相手を見つけたり、相性を見極めるって面倒だし、不可能に近い。
となると、出会い欲求が異常に強い人、リアルで良い出会いにめぐり合うのが難しい人しか使いません。面倒くさいですから。 そんなサービス、クソですよね。
実は、出会い系は真面目に・・・という方向性ではなく、カジュアルな方向性に進化していく必要があるのではないかと思っています。アメリカでは2500万人程度がオンラインデーティングサービスを利用していますが、日本だとコアユーザーは100~200万人程度。そうじゃなく、一般に使われるサービスになっていかないといけない。アプリ使った出会いと、偶然をベースとした出会い、変わらないじゃない・・・となっていかないといけないと思っています。じゃないと、リアルで偶然会うよりリスク高いはずですよ、今の現状だと。
そんなことを考えながら・・・
世の中、良く観察してみると、街コンとかって、その場で知り合った初対面の人と30分程度しゃべるじゃないですか。そこで、会話を楽しみながら、相手を知る。前提共有なしで、いきなりしゃべっても結構、コミュニケーションって成立するみたいなんですよね。
となると、従来型のウェブ上での面倒くさいやり取りって何なんだ、男性からメッセージ送信あたりで課金し、女性にメッセージが届きまくるあの仕組みって何なんだ、あんなんじゃ、出会い欲求が異常に強い男しか利用しないじゃないか。となりまして。
そう、相手が素性のわかる相手であれば、まず会ってみたらいいじゃないっていう設計思想へと至った。やり方次第では、カジュアルな出会いを、安心/安全に演出できるだろうと。それがこの、「恋カフェ20」です。
プロフィール入力すら必要ないくらい、これ以上ないというくらい、極限までプロセスを削り、儲けを求めることなく、素敵な出会いをたくさん生みだすことを目的に、作り込みました。
出会い系のイメージを変え、世の中をもっと楽しい場に変えることができるか。
ps マーケティングはもっと柔らかい感じでやりますw が、理念とか信念とかを大切にして日々を生きたいお年頃なので、説明しておきたいのでした。
なるほど。電動機側のトルクカーブというか馬力カーブ(出力曲線)が化石燃料側と合っていないのか。
それは、ハイブリットの問題ではなく、EV側の設計思想の問題だね。
おそらく、バイリニアに電動機の回転数をアクセルに直結してるんだろうけど、それが間違いで、アクセルを踏まれた時の回転数の引き上げにトルクカーブの逆関数?を掛けあわせろって事なんだろうね。
電動と化石で出力カーブが違っているのを放置しているからそんなことになってるんだね。
別段、電動機側の回転制御に、トルクカーブの逆関数?を掛けあわせても燃費に影響はしないと思うんだが・・・なぜそんな制御に?
時速100km/hもだすなら問題だろうけど、一般道ぐらいの速度でそこ(トルク制御をしないこと)って問題になるんだろうか?