はてなキーワード: つまみ食いとは
でも真っ当な批判ではなくて蔑みを持った悪口だってことをちゃんと自覚してないように見えるのよ
女のつまみ食いとかいう理屈を持ってきて、まるで批判したような気分になってるように見える
普段は男という社会的強者として女性にあれこれ指図して抑圧している立場のくせに、ちょっと気分転換で女装☆という女のつまみ食い感に苛つく。あんなに偉そうに女の容姿を品評しているくせに自分が女の装いをしたらそんなにクオリティが低いんですね…という呆れでもある。
先ほど見た増田で「クオリティの低い女装を叩くのは、女性は美しくあるべきという抑圧と同じこと」みたいな主張を見た。
「いやいや!それとこれとはまた別だろ」と思ったのでしばらく考えてみた。
まずはこれ。レディースのファッションが純粋に好きというよりは女装で性的興奮をしているのが透けて見えて気持ち悪いのだ。
レディースファッションが好きなら服選びもメイクも勉強しているはずだし、スネ毛ボーボーでメイド服やらロリータやら現実の女が着ていないような服を着ている女装男を見ると性癖を見せつけられてるみたいで心底不快だ。
あとこれ。普段は男という社会的強者として女性にあれこれ指図して抑圧している立場のくせに、ちょっと気分転換で女装☆という女のつまみ食い感に苛つく。あんなに偉そうに女の容姿を品評しているくせに自分が女の装いをしたらそんなにクオリティが低いんですね…という呆れでもある。少しは女性たちが普段受けている社会的抑圧や性的視線を味わってみろという気持ちになるのは分かると思う。
そもそもブスな女性よりも女装男はよっぽど醜いのだ。ブスな女性には何も言わない人でも女装には思わずおえーってなる。骨格からして男って分かるしそのくせ無駄にブリブリした格好をしているからまじでキモい。ブスな女性は身の程を弁えて地味な格好をしていることが多いのに、男は無駄に自己評価が高いのだ。こんな醜い女装をしている男も自分のことを可愛いと思っているんだろうなと思うとゾッとする。
金ローを録画しておきながらプライムビデオで見るのが最近のパティーン
細田監督はここ何回かの「家族観が合わねえな」って感想が重なったせいで全然期待してなかったんだけど、竜そばは主人公とその周りの関係が家族じゃなかったので良かった
そこだけを評価軸にしてる訳じゃないけど、とりあえずそれがラストに絡まなかったので気にならなかった
話は良くあるというか色々な過去作のつまみ食い。これはわざわざ語るほどでもないくらい知られた事だろう
主人公がクラスで炎上した時がイメージとしてボードゲームが描写されてたのがボドゲ好きとしては嬉しかった。ラストのその後が再炎上だったのかは知らない
主人公たちの声の演技に関してはまあしゃあない
忍のあご上げて話すザ・イケメン!って感じのしぐさはやっぱ慣れない
「女になりたい」「外見だけ女の格好をしたい」
「自分は生物学的進退は男だけど精神は女です」と言う人はすごく多いのに
その逆は男装趣味もトランスジェンダーもすごく少ないという事実だ
男というだけで無自覚に得してる奴や高慢になってる奴は多いはずなのに、だ
要するに
――と、書くと
その男らしさの呪縛から逃れたがっている女性化願望の男性というのは
要は上から目線で「女は楽でいいよな」と思ってるわけだろ
***
俺だってスネ毛ぼーぼーでくさくて汚い自分(男)の肉体は嫌だぞ
そら外見だけに関しては女の方が不快ではない
うまいこと女の外面的な快楽(きれいな外見でチヤホヤされたい)だけ
だったらバーターに男性としての利得をいっさい全部捨てる覚悟は示して頂きたい
***
男から見ての女性の楽さ(そんなの外見だけ楽そうに見えるだけ)と
実際に俺は実例を知ってる
マウント取って威張ってたくせに
ちんこも金玉も切除手術しない自称TS(肉体は男)を実際に見たことあるよ
無論、世の本物のトランスジェンダーの大多数は
そんな卑怯者ではないと思いたいけど
反論になってるよ。
そもそも「女は○○」という発言は、普通は「男と比べて」とか「男とは違って」という意味だから(男女平均と比べて、という意味もありえるけど、人類はだいたい男女で半々に分けられるので主張内容としてはほぼ等価)。これは論理学以前の国語の問題。これが分からないなら、あなたの国語力が低い。
特に「女オタクって顔の良い悪役を偏愛する傾向にあるよな」という文だと「傾向」の高低の話をしているんだから、どういう属性と比べて傾向が高いか低いか、という話をしないと意味がない。そのとき、「女オタク」の比較対象として考えられるのは誰かというと、「男オタク」か「オタクでない女」といったところになるが、文脈的に「男オタク」と比較しているのは明らか。
話題作とか、そう言った類のものでも全然観てこなかったからさ。
それで500mlのお酒とおつまみ用意して、飲みながら2、3作品を観てみたんだよ。
そしたらさ、今のアニメって凄いんだな!
CGとか、カメラワークとかさ、すげぇ凝っててまるで映画みたいなクオリティが普通に地上波で流れてたなんて知らなかったよ!
あーでも、なんか同じような声ばっかりだな~って思ってさ、クレジット見たらやっぱりそうなの。
1作品目のときと同じ人がまた出ててさ、売れっ子なんだな~って。
そのときは思った。
で、3作品目。
デモ自然な感じでそこまで気にはならなかったけど、やっぱり声に特徴あってさ。
すぐに分かったよ。
あ、あの人だろうなって。
そのあとも話題作とか、人気作とか、全部じゃないよ。
とりあえず少しだけという感じで、つまみ食いみたいにさ、いろいろなアニメを見てみたんだよ。
あれ?と思った。
まただ。また同じ人が出ていたんだ。あの作品にも、この作品にも。
おいおい嘘だろ、あ、この作品は毛色が違うから流石に……と思った。
でも、出ていた。
俺は怖くなってきた。
だから今度は最近のアニメをランダムに、話数もランダムに視聴したんだ。
やっぱり居た。
何が起きているんだ。
正直混乱した。いくら売れっ子だとしても、こんなことがあるだろうか?
ありえない。
いや、偶然だよ。たまたま。こんなことにビビるとか、酔っ払ってんのか?
だが、結果は同じだった。
ありえない。偶然。そんな風に思っていた俺をあざ笑うかのように。
気付けば彼女の声が俺の鼓膜にこだまし、彼女の台詞が、俺の耳に彼女の声が張り付いた。
もやめろっ!!!!!
静まり返る家の中。俺は息を切らしながらもようやくホッとした。
「すいませ~ん」という声が聞こえた。
とても聞き覚えのある声が。
答え.現実のセックスは基本的に痛くて傷つけあう行為だからです。
子供にとっては恐ろしく、かつ、不潔なのが本来のセックスの姿です。ほとんど洗ってないスネ毛や陰毛がもじゃもじゃこすりつけあうだけでも正気の沙汰ではありません。
なお、犯罪がふくまれない、体のうち手、頭や顔や肩を触る(キスする)などの行為は私はエロコンテンツとはおもいません(ピクシブの投稿基準でもそうなっています)。下半身やおっぱいの見えている絵や、影にかくれていても明らかに触ったりするものはエロコンテンツです。
2・なぜ未成年がエロコンテンツを嘘とわかっていて楽しんではいけないのか?
答え.現実のセックスは互いへの信頼関係と合意がないとやってはいけない難しい行為だからです。
大人でもこれを理解しないまま強引に全部OKとおもいこんでお巡りさんに捕まる人がいますが、子供だと余計にこういう誤解がありがちです。
もっといえば、無知なこどもへのいじめとしてセックス知識はとても有効な武器になります。今いる特定の子供が2~3人合意したといっても、あとから必ず後悔します。
たとえば友達からまわってきたとってもかっこいいセックスの漫画や小説は、「友達からまわってきたテストの答えを絶対にカンニングできる方法」「先生にないしょで気に食わない友達をいじめることができる方法」のようなもので、信じたり実行すると必ずあとで子どもやまわりの人が後悔することになります。
答え.現実のセックス(偶然触るだけでなくゲイセックスやSM行為や快楽を含めて)に関する正しい知識は未成年では得られないからです。
読んでいてプッと笑っちゃうような場所に笑っちゃうような棒や穴がかいてあって大げさにうめいているイラストや漫画や小説があります。あるいは人体が骨折したようなデッサンもいくらでもあります。ですが、ピクシブをつかっている私たちはお互いに大人だから、指摘しません。へんなの、やめたほうがいいよ、そうおもっても同じものを愛し表現の努力をする戦友への最低限の礼儀だからしないだけです。そこにはイナゴのようにサイトを移動した野蛮な子供たちには理解できない細やかな秩序が存在しています。
「移住してきた子供が書いたもの?大人からみるとかなり笑えますよ。ああ、こんな大嘘を信じちゃったんだ。バカな子だな。背伸びして大人ぶってもたいしたことないのに。」あなたたちはたいていそうおもわれています。
ではクオリティが高ければいいのか? 高校生のときから男性同士の恋愛を描いた同人誌で何万部も売り上げていた人を知っているのでいいとおもいますが、その人は無理によく知りもしないセックスのシーンを入れようとはしていませんでしたね。(その前後、つまりキスや恋愛のシーンはとても上手に書いていました)
4.なぜ未成年がエロコンテンツを友達に教えてはいけないのか?
現実のセックス(ここはエロといっても偶然触るだけでなくゲイセックスやSM行為や快楽をひっくるめて全部)に関する誤った妄想をまきちらすことは実在の愛情やセックスを馬鹿にしています。
愛をもってまともなセックスをして、あなたたちのような子供をつくって一生懸命に育てている大人への差別や心を傷つける行為だからです。お父さんお母さんにも喜ばれるようなコンテンツをお友達におしえてあげてください。
また、どんなにいい作品でも、子供同士シェアをすることができないページからコピペをして勝手にもってきてみせることは著作権侵害であり児童虐待にもあたる可能性があります。おまわりさんにつかまってもしかたがないことです。
5・なぜ未成年が成年といってサイトに登録してはいけないのか?私は自分を、十分にセックスを楽しめる年齢だと思う。
好奇心だけのためにセックスに関する秩序をネットでの嘘というズルをつかって踏み荒らすことは、子供への信頼を失い、より厳しいコンテンツ規制(「子供にスマホをもたせるな!」)につながるからです。
私の子どももオタクコンテンツが好きなので同人誌を買っていますが、未成年も買える同人誌(というのがいっぱいあります)しか買ってはいけないといって守らせています。R18には理由があるので、適当につまみ食いするような真似はやめてください。
6・なぜ自分の日記や学校情報をコンテンツだといってピクシブに投稿してはいけないのか?
あなたは論外のバカです。もういちど登録時の規約をよく読んで下さい。読めないのならどうなってもしりません。インターネットではどうなろうと自己責任です。
もっと優しいのがいい人へ
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=18119350 (わたしじゃない人が書いたもの)
ネタ被りはある程度許容されるべきというのはわかるけど、その昔盗作をしてきた相手が「影響を受けやすくて」と言いまくるタイプだった。
20年くらい前の大昔でサイト全盛期だったけど、そいつはクロスオーバーと言いつつ色んなところからネタをつまみ食いしてオリキャラをぶちこむタイプの女だった。
当時少し付き合いがあったけど、チャットや掲示板で話しをするとすぐに「影響」とやらを受けてこっちのネタを勝手にとっていく。
当時から既にもう子供だとか年のせいにできない痛々しいオタクだったからこちらも関わりたくなく(かといってネタを盗まれているので放牧もイヤだった)、ゆっくりフェードアウトした。
…のだが、ここ最近になってそいつがツイッターを名前を変えてやっていることを知る。
で、こいつは反省してるだろうかとツイートを検索してみたら唖然とした。
「ぶっちゃけちょっとでも影響受けたら烈火のごとくキレる人間と数年付き合ってた」
ちょっとでも?
少なく見て40、もういいトシになってるハズなのにいまだにこんなこと言う?
呆れてものも言えない。
ロクに文章も書かないで他人のネタのいいところだけツギハギしてたくせにね。盗人猛々しいとはよく言ったもんだ。
しかも胸糞悪いのは、自分以外にも被害者が絶対にいるはずだということだ。
自分のケースとは違う盗作の指摘があったから、これは確かだ。(私よりもより悪質のようなのも辛い)
こいつの発言を目にした被害者は私と同じ気持ちになるかもしれないし、もっとショックを受けるかもしれないと思うと気の毒でならない。
幸い盗作をするような人間なので影響力や作品の魅力が乏しく、関わる人間が少ないのが救いだが、久々に不愉快なことを思い出した。
占星術に関する本を何冊か買ったりして、
https://twitter.com/yoppymodel/status/1548848031826870272
それ以上にこの話題で噴出する「占い」というものへのコメント群が
「占い全然知らんし興味もない人がイメージで言ってるな〜」と思ってちょいイラッとしたので
分かる人向けに書けば
「ホロスコープの読解は自分や友人のネイタルを中心に何度か試したことがあるがアスペクトを絡めて読むのは難しく勉強中。
トランジットにはあまり興味がなくて心理占星術関係に偏り」です。
わからん人向けに書くと入門書の内容を舐めた程度で占いの実践としては素人。
未来を知りたいとか隠された真実を知りたいとかいう願望はない。
なので以下間違ってる可能性は大いにあり、詳しい人からの異論は歓迎です。
朝の星座占いランキングに代表される12星座占いというのは、その人の持つ「代表的な星座」だけを見ている占星術の簡易版に過ぎない。
本来はその人が生まれ落ちた瞬間の惑星の位置や惑星同士の配置から読み取る。
占いなんて根拠なく適当言っているだけだろう、という人もいるが、
この「生まれた瞬間の星の配置」については誰が計算しても同じものが出る。
(※正確にはハウスの分割方法とか小惑星とか読み取り方に流派はあるけどめんどくさいから割愛)
ゆえに、占星術とはみんなが同じ星の配置を見て、それをそれぞれが言語に翻訳して伝えているものである。
星の配置から何を読み取るか、というのも、ある程度セオリーがある。
たとえば月※や金星や水星、火星といった地球に近い星は、地球から見たときの位置の移り変わりが激しく、感情や気質といったパーソナルなものの象徴として扱われる。
対して冥王星※※、海王星、天王星といった遠い星は、移動する周期が数年〜数十年単位なので、例えば世相の変化や世代の意識のようなより大きなものの象徴として扱われる。
そういったそれぞれの要素が、相互に影響したり、人生のどこかで強調されたりするのを、星の配置――位置や星同士の角度から読み解いていくのが、占星術といわれるものだ。
ネットの無料占いの範囲でも、少し詳しいサイトを見ればバーナム効果で片付けきれない結果を見ることができると思う。
(※占星術は天動説の世界なので太陽や月も「惑星」と呼ばれる。チ。)
(※※冥王星は占星術の世界では今のところまだ惑星扱いである。)
前述のとおり占星術とは「惑星それぞれが象徴するものと、その位置関係」を読み解き言葉に翻訳して伝えるものだ。
そこには、図を見て言葉で伝えるような、翻訳段階のズレが生じる。
また、どの星を読み取るか?も個人の資質に左右されるところだ。
恋愛運を見てください、といったとして、その占い師が「恋愛」が何から構成されていると考えているか、で伝え方は変わってくる。
例えば、
……なんて言われ方をする。
それは、占い師が恋愛というものの構成要素をどう考えているか、に左右されてしまう。
少し昔の本ならば、
なんて断言していた本も多かったが、
そういう一律な読み方を支持する占い師ももう少なくなっている気がする。
占い師は適当を言ってるから結果がぶれるとは一概には言えない。
占い師の考え方自体が、「読み取り」「翻訳」に影響を与えるのだ。
「運がいい」とは星がどういう配置にあることか?という占い師の解釈によって順位が異なるから、結果が異なる。適当に並べているからでは、ないことのほうがおおいだろう。
(余談だが、少し占いをかじるとそのへんのアルゴリズムがなんとなく見えることがある。順位予測など可能である)
ここまでつらつら書いたとおり、私の知る限り、占いとは「象徴の読解」という営みそのものである。
なので占いに関して「当たる」「当たらない」という言い方自体に個人的には違和感があったりする。
人の性格や世の中の動きといった、混沌として一概には言い切れない茫漠として掴みどころのないものを、
占星術の様式に沿って分類し、その関係性を図に表されていると仮定し、それを解釈したもの。
だと私は思う。
とここまで説明されたところで、
「そもそも星の位置が、人の性格だの世の中だの象徴してるわけなくね???」
と思う人はいるだろう。
私だってそう思う。
太陽も月も冥王星も惑星で、地球が宇宙の中心にあるという仮定で導き出された図が世の中の何かを「象徴」してるだなんて、
それが「科学的」に「正確」なわけはない。
けれど大昔の人たちはそう思ったのだ。大真面目に。
そして、世の中の物事を観察し、分類し、星星に振り分けて、関係を考え抜いてきた。
「人の性格」とかいう多面的なものを、占星術の世界ではどのように分類してきたのか。
「世の中の動き」とかいう無数の歯車の噛み合った膨大な機械を、占星術はどのように分割してきたのか。
その、この世に向ける眼差しの果てない努力の痕跡が私は好きだし、
それはときどき、現代の日々を生きる私のことを励ましてくれたりもするのだ。
北京の蝶がニューヨークで嵐を起こす、その間には無数の細かな歯車が噛み合っていることだろう。
カムチャツカの若者がきりんの夢を見たりする理由は、若者自身も知らないところにあるんだろう。
そういう、茫漠とした、人間個人では把握しきれない物事を、なんとか星に仮託して把握しようとするのを、馬鹿馬鹿しい振るまいとは私は思わない。
そういう「考えたってわからないこと」「人間の力では及ばないこと」を忘れ、目の前の物事だけに没頭して生きるのはあまりに荒涼としていないかと私は思う。
そういう、「向こう側」をみんなシャットアウトして生きるほうが、私には特殊に思える。
ときどき星を見るとかして、その中の一つとして自分が位置づけられているのだとおもうくらい、正常な人間の営みではないかと、私は思う。
星の話をしてるから仕方ないな。ゆるしてほしい。
さて、ヨッピー氏の主張は
「とはいえ、占いみたいな非科学的なものを電波に乗せて、カルトへの忌避感を下げるのはどうなの?」
というところだと思うのだが、私はこれについては明確におかしくないか? と思う。
そもそも「科学的な話」「論文などのエビデンスがある話」ならいいのかというと、
「エビデンスとなりうる論文はあっても効果としては現実的ではない話」はいくらでも電波に乗っている。
あれらは健康食品詐欺のゲートウェイになっていないと言えるのか?
彼らはおそらく自分たちのことを「科学的に」思考していると思っているのではないか。
あるいは散々指摘されている「サウナでととのう」なんて明らかに医学的に警鐘が鳴らされてもいるが、「自律神経がととのう」とかいうよくわからんゴリ押しがなされているだろう。
そもそも「科学」とは絶え間なく検証と訂正が繰り返されるものだが、
その大部分は電波に乗ることなく、どこかの商品に都合の良いところ、テレビで視聴率の取れそうなところだけが編集されつまみ食いみたいに放送されるのが現実だ。
でも、それがない放送大学オンリーみたいなテレビを望むかといえば望んでいないだろう。
私が何を言いたいかというと、
「情報がどれほど科学的か」という点では、電波に乗っているものはさほどの差がないのだ。
結局我々はそれを選んで、検証し、学び、考え、実践して自分なりの判断力を養っていくしかない。
すべての情報は自分の判断のための「材料」だと割り切ることだ。
それを放棄して、自分以外の誰かに判断を委ねきってしまったとき、
占いだろうが「科学」だろうが、少なくともテレビに乗っている情報という土俵においては変わらないのではないか。
……と締めようと思ったが、
カルトの怖いところは
「自分で考えろ 自分で考えて私達と同じ結論になれ」なところだし
たとえば反ワクチンやカルト宗教による輸血拒否だって当人たちにとっては自分で考えた結果なわけで
「自分で考える」が絶対の解決策とも思われないのが難しいところではある。
健康診断で医師に不安を煽られないと運動不足の解消に向かうのは難しいし、
ならば医師になら全権委任していいかというとアカン医師をツイッターからいくらでも引っ張ってこれてしまう。
あるいは、飛行機が飛ぶ原理って科学的に立証されてないらしいよ……という情報の正誤を私は確かめられていないが、移動したいときはその判断をすべて棚上げにし、自分の命を航空会社に委任して飛行機に乗る。
委ねるべきときはあるけど、その相手は見極めなければならない。
というなんとも煮えきらない結論で終わる。
名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita
この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから,安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である。
初期の UNIX の歴史について興味がある向きには次の書籍をお薦めする。
Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)
和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書は The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。
また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。
元記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計の基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。
https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date
ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。
もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX の開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T の定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事で言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。
この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDF は OCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX の論文なのだ。もちろん論文の性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイの哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白い。UNIX の開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然な時代だったことは間違いない。
UNIX が認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイの論文に影響を受けた布教のためのああいう説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本で最初期の UNIX 解説本のひとつである,村井純・井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。
オペレーティング・システムは,コンピュータを使うものにとっての環境を形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性を尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIX のオペレーティング・システムとしての個性ではないだろうか。
「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能のコマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性を尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである。
そしてじつは UNIX の場合,布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。
UNIX は PDP というミニコンピュータ(ミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校の教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイとキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校にコンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器はコンピュータではなくコンピュータに接続するための端末装置(ターミナル)だ。端末装置のキーボードで打った文字がコンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 Unix 系 OS で CLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置のエミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。
さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥や洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっともコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥が CPU でそっちの洗濯機がハードディスク,あの机に置かれているタイプライタが管理用コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代のお話だ。
端末装置それぞれから(USB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。
結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。
当時の UNIX の評価を一言で表すと〝自由で不安定な OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由。さらに他のメインフレームやミニコン用 OS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロ用 OS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番のディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。
こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌『UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイの1986年11月号から1988年10月号掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器で1980年ごろから UNIX サイトのスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX の自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。
CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU を実質的に停めてしまうことが UNIX ではいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンドを10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに vi のカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトでログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX は破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているときに勝手をやられると非常に困るのである。当人の仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。
ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイルを自由に作ることができる。したがって,自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソール・タイプライターにエラー・メッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソール・タイプライターが一晩中エラー・メッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図も完璧に打ち砕かれてしまうのである。
そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンドを10個くらい同時に走らせ」たり「自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイトの利用者全員に UNIX の設計の基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX の伝道がより苛烈だった理由のひとつがここにあるのだ。
ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代の UNIX は Research UNIX と CSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX と記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIX のライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研で発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。
もっともそういう70年代風味の牧歌的風景はミニコン世界限定の話であった。BSD そのものはミニコン用のものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSD 系 Unix や AT&T が推し進める System V などがワークステーション市場を舞台に80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PC 用 Unix であるマイクロソフトの XENIX も当然参戦した。ミニコン世界が牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争はあくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&T と BSD 系 Unix の Sun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。
こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unix そのものや文化にも変化をもたらした。まず激しい競争は Unix の高機能化を加速した。商品として判りやすい惹句が「あれもできます,これもできます」なのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者の自由を制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix は現在の Unix 系 OS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教の必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unix のシステム管理の入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空のソフトウェアハウス(開発会社)を舞台に新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。
当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイの論文の結論部分に書かれたそれは,1973年に出版されたイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハーの著作の題名で,中学生の英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。
Small is beautiful.
マキルロイは『人月の神話』を引いて一定の留保をつけてはいるものの,これが UNIX 哲学の背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•cs のアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?
ひるがえって現在の Unix 系 OS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX が仮想敵とした OS そのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在「UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。
【まさか】「お腹が減って・・・」警察官が容疑者向けの弁当を”つまみ食い” 窃盗容疑で書類送検 群馬県警
https://news.yahoo.co.jp/articles/acbede47e719e4027b17a971e6890817c0e8b4b5
調べに対して、男性巡査は「おかなが減ったので食べた。バレないと思った。警察官として許されないことをした、責任を取って辞職します」などと話していて、きょう付けで辞職したという。
バレないと思ったってこち亀を思い出すな。
少しならばれないだろうみたいに言って、部長から頼まれた人形焼きをつまみ食いするとか。いやばれるから。
そういえば「食べだおれ」の出前をつまみ食いするって話もあったな。