はてなキーワード: 読書感想文とは
読書感想文の季節なので、学生時代に読んだ記憶を頼りに感想文を書いてみる。
マドンナが出てくるという事前情報だけで読み始めたが、結局マドンナは端役に過ぎなくてがっかりした。
坊っちゃんは住んでる土地をボロクソ言うし、やたらと人を嫌う。赤シャツは何の先生か忘れたが高圧的な体育教師のイメージで好きになれない。とは言っても、坊っちゃんみたいに嫌って見下すのは理解できない。うらなりのことも坊っちゃんは見下している。自分は見下されるのが嫌いだから、人を見下す描写がストレスだ。
坊っちゃんは自分はこんなド田舎で埋もれる人間じゃない、周りはバカばかりというのを隠さない。それが痛快なんだろうか、坊っちゃん好きの読者は?
学生時代から自分はどうしてこんなにダメなんだろう、どうしたらいいんだろう、また失敗した、うまくやれない…と思っていたので、坊っちゃんの自ら恃むところ頗るあついのが共感できなかった。むしろ「友が皆われより偉く見える日よ」に共感していた。
いや、坊っちゃんだって表向きは強がりだけど内心は不安だらけなんだとか、自分は自己卑下してるつもりかもしれないが突き詰めると自分だって人を見下してやしないか?等と考えれば、坊っちゃんと自分は実は相似形で同族嫌悪という説も成り立つかもしれない。だが、それにしても、実際描写されているような「あからさまな」見下しはどうにも不快だった。
やめてくれ、辛い、その見下し描写は子供の頃いじめられたのを思い出す、という気持ち。
今でも自分の中の坊っちゃんは、人気者で人をイジってゲラゲラ笑い、ちょっといけ好かないやつには面白おかしいいたずらを仕掛け、それがやり過ぎになっても気にしない、自分以外に心があるとは思ってない人だ。
漱石はそういう人物として描いたんだろうか?それとも痛快なお話を書いたらそういう人物になっちゃっただけなんだろうか?漱石は坊っちゃんに好感を持ってるのか、批判的なのか?
再読してみたいようでもあり、読んだらまたしんどくなってしまいそうで読みたくないようでもある。
「坊っちゃん」好きの人はどのように読んでいるのだろうか。また、「坊っちゃん」嫌いな人は自分と同じポイントが嫌なのか、また別の引っ掛かりがあるのだろうか。
最初に言うが、これがそういうタイトルの増田文学で、全部単なるフィクションなんてことはない。紛れもない事実だ。
私は今年で40になる。これはちょっと嘘。±30歳ぐらいの範囲で嘘をついてると思って欲しい。
そこそこ安定した業界の安定した職場で正社員をやっている。給料は良くない。
ぶっちゃけこの仕事は嫌いだ。まず面白くない。労働時間も長めだ。スキルの身につきも悪く同業他社への転職だって苦しいだろう。なまじ安定してるせいで変な人間だけが居着いて、ちゃんと他所で生きていける人間は逃げていく。
こんな妄想にいつも取り憑かれている。
夜中にアイディアをひらめいてプロットエディタに設定を並べて、次の日見たらつまらなすぎて消したことが10回ほど。
それとパロディ小説が流行っていた頃に、真似事をしようと匿名掲示板の書き込み欄に妙なものを打ち込んで5分後に完全に飽きて消したのが3回ぐらい。
ハッキリ言って、この小説を書く以前の行為の段階で自分には才能と呼べるものがないことがハッキリしている。
アイディアは思いつかないし、文章力はないし、情熱も続かない。
小中学生の頃は青い鳥や角川の文庫をよく読んでいたので同級生よりはちょとばかり文章は上手かったが、それでも読書感想文の賞すら貰ったことはない。
ある時提出した宿題の出来が良かったのか論文コンクールへの応募を薦められ、好きにしてくれと教師に伝えたら後日参加賞をそっと渡されたことはあった。惨めだった。
ブログの投稿内容を10年前と見比べると露骨に語彙が減ってきたなと感じる。
そんな状況なのに、私は今でも「私はいつか作家になるのだ。超売れるのだ。そして仕事をやめるのだ」と思い込んでいる。
信じられるかい?
ツイッターで面白い(と自分では思っていること)を呟いた時にいいねが2個ついたら喜ぶような人間が、作家として大成する可能性があるのか?
もうこんな妄想ぐらいしか自分には残ってないからなんだろうな、と。
あまりにも毎日が惨めすぎるから何かしら妄想に縋ってないともう限界なのだろう。
たとえばこれが「仕事で大成功する」とか「エンジニアとしての才能に目覚める」だったりすれば、きっとそれはもっと生々しい実感を伴って日々何も積み重ねていない自分の姿を映し出すことになるのだ。
「小説家になる」というアホみたいな夢だからこそ、本当に何もしてないままでなんとか夢を見続けられているに違いない。
なにせこうやってどうでもいい言葉を書いたり読んだりするだけでも「読み書きの練習」だと言い張れるんだから。
インプットはともかくアウトプットにはそれ相応の労力が必要になる。
昔ネットにプログラマーにもイラストレーターにもなれない奴が小説家を目指すというフローチャートが貼られたが、そのどうしようもなさがいい方向に働いているのだ。
とにかくこの妄想は私が死ぬか、次の妄想に取り憑かれるまで続くのだ。
むしろ、私の人生を貶めるような妄想から私を守ってくれているのがこの妄想と言える。
宗教や薬物や恋愛に人生の逆転を求めてのたうち回らぬようにするためのものだ。
自分の人生に余計な劇物を混ぜ込まれないよう、なにかコントロールしづらいものが始まらぬよう、不活性な夢を詰め込んで空虚なままにしているのだ。
昔2chでみたコピペ「人生を壺に例えるのなら、小石や水を詰めてしまう前に大きな岩を入れなさい」。
あの話における岩を自分の人生に入れることも出来ず、かといって手頃な石を必死に集めて人生の価値を取り繕うのも面倒だから、風船を一つ押し込んで人生を終わらせることにしたのだ。
このままつまらない仕事を続けて、結婚もせず、大した趣味も持たずに死ぬ。
酔生夢死を夢見ながら実際にはそれなりの苦痛を緩やかに味わい続けて命が潰えるのを待っていく。
そのための連れ合いとして必要不可欠だから生まれた夢だったのだと思う。
全て忘れたい。
こんな程度の人間に生まれたことも、生きるために人波の中でゆっくり針のむしろを感じて生きる時代の中に生まれたことも。
何もしたくない。
何もせずに生きていたい。
だけど、いつか何かが起きて生きててよかったと思えるからと自分に騙されてここまで生きて、今更何もなくて終わらせるのは耐えきれない。
それで選んだ夢がこんなものか。
それで結局、何もやっていない、と。
どうすればいいんだ。
駄目だ。
自分で書いて読み返すのもキツい。
今年の夏の課題図書が図書館に置いてあった。小学校高学年が対象の本で『飛ぶための百歩』というタイトルだ。翼を広げた平べったい鳥の後ろ姿の曲線がに惹かれ、手に取った。なお、私は小学校高学年の少年少女ではない。夏休みの苦行、読書感想文を書かねばならぬ彼らがこれを必要としていることは認識していた。罪悪感はちゃんと持っていた。多少の良識がある大人だと、自分に言い聞かせた。
本の貸し出し、一番乗りだった。ごめんなさい。
この本は、目の見えない少年が人付き合いが苦手な少女に出会い、絆をつくる、ボーイミーツガールの物語だ。
タイトルにある「百歩」は山小屋の名前とラストでの「ここまでちょうど百歩だった」ことのダブルミーニングと思われる。ラストの舞台は1年後の話になるので、困難を乗り越えたあと、彼が良好な状態になる「ための百歩」だろうな、とタイトルの考察をした。
ただ、「飛ぶ」がわからなくて、いやラストシーンで”飛ぶ”んだけど”トぶ”にしか思えなくて、飲み込めなかった感あり、今もなお喉奥に引っかかっている。
この物語は、タカのひなが密猟者にさらわれ、それを救出し、巣に戻す、という事件があるのだが、都度、主人公の驚異的な聴力と、驚異的なモノマネ力が爆裂し、困難を乗り越える。その過程で主人公と少女はお互いの悩みをぶつけ合い、自身の在り方を見つめ直していく。
いいでしょ。いいんですよ。少年少女なんです。
でもね、1年後のラストシーンで主人公が上空を飛んでいるタカを「ぼくに会いに来た」とのたまい始めて、様子がおかしいと不安になる。よしんば、空を飛んでいるタカがその時のひなだったとしても、ひなは君を認識していないだろう。双眼鏡でヒロインに実況してもらわないといけないほどの距離にいたのに。
さらに彼は、崖に向かって走り、崖下へ飛び込んでしまう。空を飛んでしまう。比喩である。比喩であった。しかしこの描写は、私を完全に置いてけぼりにするには十分だった。
これは自論なのだが、舞台装置としての魔法・奇跡といったものは、冒頭の設定で使われるか、事件解決のために”1度だけ”使われるべきだと思っている。(SAVE THE CAT が言ってた)
この場合、事件解決に使われた主人公の驚異的な〇〇が魔法だとしたら、2回目が使われたのは残念に思ったし、なにより、最後の最後で突然、前触れもなく白昼夢のような魔法の世界が描かれ始めてしまったことで、今まで読んできた現実的な世界観との温度差が生じ理解が追いつかなくなった結果、本当に崖下にジャンプしたのだと解釈したほど混乱した。
それまで、物語の傍観者だった私は、彼が飛び立った崖に取り残され、空から降ってくる立方体のキャラメルを眺めていることしかできなかった。
さて、ラストシーンから書いてしまったのは悲しみが深かったからで、文字数的なノルマはまだ残っているので、この物語が課題図書たるゆえんっぽいところについて、述べたいと思う。
作中に明記されているが、この社会はマジョリティーが便利なように作られている。その中で、マイノリティはサバイブしていく作戦を練り続けなくてはならない。主人公は、このサバイブしていく少年である。しかし、ヒロインもまた自信のなさをを抱えたマイノリティでもある。
誰しもどこかにマイノリティを抱えている。その部分を痛むのではなく、誰かに助けを求めたっていい。また、マイノリティな部分を自覚して向き合うことも大事だ。
ボーイがガールにミーツして成長する話ですが、この成長は冒頭に述べた"崖からトぶ"力を得る、ではない。当然である。
ヒロインのキアーラは、男子に憧れられ、女子に嫌われるタイプのミステリアス引っ込み思案クールビューティーなわけですが、無言でジェスチャーをしたところで目の見えない主人公には何一つ伝わらず、口に出して表現せざるを得ない。その状況に置かれて初めて、言葉に出さないと気持ちは伝わらないことに気づく。
これは、万人に対してそうであることはご承知のとおり。しかし、ひるがえってみれば「言葉がなくても理解できる」と錯覚するほど、ジェスチャーやアイコンタクトからは多くの情報が得られる、ということなのだろう。
私の会社の営業が「付き合いの長い取引先とはWebミーティングでもいいけれど、新規さんは相手のクセが分からないから、やりづらい」と言っていたのを思い出した。だから”最大の理解者”というのは尚早すぎると思うよ、キアーラ。
主人公のルーチョは、目が見えないことを"アクセサリー"と考えている(この表現は好きだし、私もハンディは個性の一種だと考えている)のに、周りが「目が見えない」ことを前提に自分を見ることに怒りを感じている。
ルーチョは誰かに頼ることを極端に嫌う、意地っ張りで頑固な少年だ。でも、その意地っ張りは、誰かに頼ることなく、自分でできることは極限まで自分でやれるように訓練する努力にも結びついているのだと感じて、だれか、彼の頑張りを称賛して欲しいとずっと思っていた。
それをやってくれたのが、キアーラだった。私は心のなかで拍手喝采した。ありがとうキアーラ。ルーチョが君にミーツしてよかった。
キアーラが「口に出さないといけない」と気づいたのと同様に、ルーチョも「人は誰かに頼らないと生きていけない」と気付いてくれて、私は少年少女の成長の瞬間に立ち会ったことに感動した。青春だ。これが。
道中ギブアップしたルーチョのおばのベアは、彼ら二人が戻ってきたとき、どんな反応をしただろう。彼女はルーチョのこれからを誰よりも案じていたから、帰ってきた甥が自立への一歩を踏み出した様子を見て、泣き出さん勢いではなかっただろうか。
私だったら泣いてしまうだろう。自分では何年かけても気づかせることができなかったことを、甥に気づかせてくれた、昨日今日会ったばかりの少女と、それを受け入れた甥を全力で抱きしめたい。
靴ずれでズルむけになったかかとが痛いと言いながら。
まあ、1年後、なにわらってるの?と青ざめるのですけど。
余談
ボーイがガールにファーストコンタクトしたときにツンな反応をされたのを「質問4回でノックアウト」と表現していて、イタリアーノだなぁ、と思った。日常的に口説いてんの?
また、地獄のオタクなので、高校デビューした美少女キアーラがとんでもないギャルになっていて、初恋?をきび砂糖のごとく粉々に砕かれるルーチョはアリかな、と思いました。でも、見た目ヤマンバになってても関係ないのか、内面が見えるのは良いことだね。
夏休みですね。
お久しぶりです。
小中で、親にこういう事して欲しかった(して欲しくなかった)、などあれば教えてほしいです。”
https://anond.hatelabo.jp/20170515072109
とお尋ねした派生で、
オススメ書籍情報をお願いし一度購入報告もしていましたが、あの質問から3年。
https://anond.hatelabo.jp/20170726094325
中学生になり、コロナ休校期間は彼にとっては楽しい時間(学校行けなくてもなんら影響ないっていうね…友達に会いたい、とか思わない)で、自学が進み、
と言っています。
しかし、
参考にその後の息子
・順調に(?)プログラミング大好きのまま成長し、某国内コンテストの小学生部門に応募したら入賞はした
・ある言語のコミュニティに入り、バグを見つけては報告している(最初の報告メールだけ書き方で相談を受けたので把握した。後は自分でやっている)
・部活で「好きなものプレゼン」というお題で「公式」を選んで僕の好きな数学の公式を解説するという発表していた…
今のところ、息子的にはそこそこご近所に幸いにして高専があるので、そちらに進もうと思っている様子です。
読書感想文に使えそうな、
よくある意見に、「さすがに東大法学部と底辺理系なら、東大の方が上だろう」みたいなのがあるが、間違いだ。
もちろん「底辺」というのが「ボーダーフリー」の意味なら話は別だが、偏差値50前後の誰でも行ける大学という意味なら、
だ。
まず、日本の大学の文系と理系とでは、卒業に課せられる要件がまるで異なる
ほとんどの理系学部では、卒業するためには学位論文(学部なら卒業論文、大学院なら修士論文・博士論文)を書かねばならず、その前提として求められる専門知識も高度である。
一方、文系は遊んでいても単位は取れるし、卒業するための「提出物」も簡単に書ける。
一方、文系の卒業論文なんて、先生の指定した文献(素人でも読める。というか、卒業するだけなら読む必要すらない)を読んで、サーベイもどきの読書感想文を書くか、アンケートかなんか取って小学校レベルの算数でまとめるだけ。
思えば子供の時代に、親なんかに今日あった楽しいことや、友達とどんなことを話したかなどの会話がほとんど思い出されない。
楽しかった。面白かった。で終わる。幼少の頃の記憶があんまり無いのもアウトプットしていないからではないかと思う。
だから大人になった今でも、身近な話題でさえもネタの引き出しに入れず、そのままゴミ箱へ直行している。
何とか話題を探して頑張って言葉のキャッチボールをしてみても、相槌と言葉を拾って質問したりするだけで精いっぱい。
ではどうすれば良いのか考えても、普段から物事や感情をアウトプットする癖が無いと、なかなか改善できない気がする。なかなか難しそうだ。
私は文章を書くのが上手いと言われて育った子供だった。この場合の文章というのは、いわゆる作文や感想文だ。
最初は単なるリップサービスだと思っていたのだが、小学中学高校と時を重ねていく中で、教師からも同級生からもそう言われ続け、作文コンクールの賞もよく貰っていたので、ああまあ平均よりは書けている方なんだろうな、と思うようになっていった。
誰もが面倒臭がるであろう読書感想文の課題も、面倒くさいとは思っていたが、決して苦痛ではなかった。本を読んで思ったことをそのまま書くだけだったからだ。鉛筆を持って、頭の中に出てきた文字をどんどん書いていけば、気がついたら全体のまとめに入っている。少なくとも、何を書けばいいのか分からなくて手が止まってしまう、という経験はなかった。
ただ、苦手なことが一つあった。それは、作文のタイトルを決めることだ。同級生はみんなタイトルを最初に決めてから本文に入る、もしくは最後にずぱっとすぐタイトルを決めていた。私の場合、本文を書き終えてから最後にうんうん悩んで微妙なタイトルを無理やりひねりだすのが常だった。
「書き終わった文章をざっと読んで、心の中に残った言葉をタイトルに使うといい」とアドバイスも受けたが、私の心の中に残るものは大抵さまざまな要素が複雑に組み合ったモヤモヤしたもので、一つの短い言葉に変換できるようなものではなかった。
「このタイトル、他にもっといいのがあるんじゃない?内容はいいのに」と教師から言われたことも何回かある。
そのような経験があったので、文章は書けるほうかもしれないがネーミングセンスはない人間だと自認していた。
高校に入って、初めて授業という形で文章の書き方を学ぶことになった。「まず」と授業の初めに教師が話しはじめた内容に、私は人生一番の衝撃を受けた。
教師によると、文章を書くときは、書き出す前にまず「書きたいこと」を決め、そしてどういう論理展開でどういう結末に持っていくのかも決めておくものらしい。周囲の同級生たちは全員「だよねー」という顔で頷きながら聞いており、それにも驚いた。私が今までやってきた文の書き方はなんだったんだ。
要するに、それまで私は後先考えずにその場その場、心の内にある思考や感情を原稿用紙にぶつけて文章にしてきていただけだったのだ。書きたい軸の内容を事前に決めることもしていなかった。だからタイトルもなかなかつけられなかった。
本来ならば、もっと早く、義務教育のどこかで論理が破綻しているだの筋がブレブレだのと教師から添削を受けて、直されていくべき悪癖だったのだろう。そうした癖を持つ人々の中で、自分はたまたま「まあまあの外見の文章」を書けていたから、チェックに引っかからなかっただけだった。
その授業を受けて以降、「まあまあ文章が書ける人」から「帳尻合わせがうまい人」へと自己評価が変わった。
改めて書き出してみると、本当に当たり前のことで、よく高校生になるまで気づかなかったなという感想を抱くのだが、当時の自分にとっては世界がひっくり返ったような衝撃だった。
かと言って、構成を決められるようになるわけでもなく。今でもタイトルをつけることも内容構成を事前に決めることもいまいちなままである。
まず初めに、お気持ちでもなんでも、意味の通る長文を書けるだけでそれは「能力」である。内容がいくら恥ずかしいものでも、長文を書くことは決して恥ずかしいことではない。そして長文を「書ける」能力があることは、「書けない」自分の上位互換である。大富豪で超有名なローカルルールに8切りがある。殆どの場合場を流したほうがお得だが、「流さない選択もできる8切り」があったら、「絶対に流す8切り」の上位互換であることは間違いない。使い所はわからないが。書けるという選択肢は、あって損はない。得はわからないが。
第一に、お気持ちの種がないとお気持ち長文は生えてこない。種があれば2000字くらいはサクッと書ける私でも、種無しでなんか書けって言われてもパンティーって5文字書いて終わりだ。なんでも良い。好きな作品の心にひっかかった展開でも、嫌いな作品の嫌いな一コマでも、どうにかしてぶちのめしてやりたいノロケ増田でも、なんでもいい。何かしらの種を拾ってこよう。やる気があるなら、日々それを貯めておこう。いつかそれが、面白い短編小説になることがあるかもしれない。
お気持ち長文に必須なのが自分語りだ。自分に全く興味のない生きてるのか死んでるのかよーわからん人間でも、「自分がなぜこんな考えを持ってるのか」くらいのことは語れるのだ。ちゃんとした秀才か天才でもない限り、人は何かを「自分が体験したこと」に全てをなぞらえがちな傾向がある。恥ずかしいことではない。そういった類推ができることも、立派な能力だ。わりと誰でも持っている能力であることも事実だが。その誰でも持っている能力が、実は結構他人にとって価値があったりもする。なぜなら、当人が「しょーもない自分のしょーもない体験」と思っていることでも、他人にとっては「その人として生きていないのに、その人の追体験ができる種」になるからだ。自分語りはどんどんしていけ。ここはアノニマスダイアリ、匿名の掃き溜めだ。お気持ち自分語り長文がかければ、お気持ち長文初級編の免許皆伝だ。
ここから中級編。好きなもの、嫌いなものに関して言いたいことは皆様多々あるだろう。全部書くと、ほんとに散漫なお気持ち長"駄"文になる。1つにトピックスを絞ろう。一番好きなところ、一番気に食わないところが良い。それを言いたいがために自分語りも引用もする、ということができると、ビシッと焦点の合ったいいお気持ちが書ける。そして重大なポイントだが、これをタイトルにするんだ。タイトルっていうのは、読み手が「これどういう意味だ?」ってなったときの手助けになる。この暗喩伝わるかな、って思ってもタイトルにヒントがあると意外と読めるし、それを読めた人は文章をちょっとだけ好意的に読んでくれる。読み解けた俺スゲー、が続きを読む原動力になる。これが出来ると、「長文なのにスッと読めた」とか、「この比喩までこだわってるのイイね」みたいなコメントが付き始める。意図して出来たら中級免許皆伝だ。
上級は?と聞かれるかもしれんが、私もまだまだ修行中の身。中級も頑張っているところだ。世界に広がるお気持ち長文の文化、みんなも試していいんじゃないか。
ところで、この文章の書き方は、読書感想文コンクールで無双できる書き方でもあるのだ。本の中でひかかったワンフレーズに対して、あーでもないこーでもないと持論と自分語りをペタペタくっつけていけば、国語教師が花丸をくれるようなものが書ける。そこに社会問題とかでも絡めておけば、ナントカ賞みたいなゴミも貰えたりする。少なくとも、2ページと1行のイヤイヤ書かされた悲惨なものにはならない。何でも良いから書いていこう。
文章を書くのが苦手だ。
この文章というのは、主に読書感想文や、お礼状、反省文といったものの文章だ。
逆に小説的な、作り話を書くのは得意だ。恥ずかしくなって消すことはあれど、書いているときはとてもするすると言葉が出てくる。
なぜ文章を書くのが苦手なのだろうと考えた。毎度毎度文末が考えています、思います、感じました、などというあやふやなものになってしまうからではないか。
それ自体が悪いわけではなくて、それらしか使えないことで何度も繰り返すような文末になってしまうのが良くないのだ。
誰だって、だろう、かもしれない、と思われる、とかの非断定的な言葉は読みづらい。
中途半端に趣味で文字を書いているせいで、読み返して読みづらさを痛感して、やっぱりダメだと苦手になる。悪循環。
改善したいが、そもそもが私は自分に自信がない。自分のやっていること言っていること自分の考えそのものに並べて自信が持てない。
できることでもできると思います、と余計な言葉を付け加えてしまう。自分に自信がなかったとしても、周りにもそれを押し付けるような言動はダメだ。内心に関わらず他人には安心を与えなければならない。
どうしてこんな思考になったのかなどという犯人探し原因探しは二の次だ。今は少しでも、言い切る言葉に慣れなければならないのだ。
例えば、
東日本大震災で、目の前で肉親が死ぬのを見届けた人がいるとする。
傷が癒えないからと、その苦痛を少しでも降ろそうと、増田に書き込んだとする。
もちろん、それに対して悪意ある書き込みもあるだろうが、同情の書き込みや、どうにかして傷を癒そうという書き込みもある。
そういう中に、たまに、
「感動した」
どういうつもりで書いてるんだ、こいつは?
悪意ある書き込みの方がまだマシ。
お前の感動の為に、地獄を味わったのか?
お前は読書感想文のように、人の不幸話をウマイと言った。それによって、話し手がどう思うかさえも考えた事が無いのか?
当人は善意の書き込みのつもりでも、散々相手を傷つける事もある。
それを指摘しても、自分は悪くないと逃げ回る。
>だいたい、新しいフレームワークや言語を覚えるために写経することなんてよくある
そう思うし、それが必要だとも思う。その段階が
↑これにつながってると思ってて、その先の応用課題みたいなものが「作りたいもの作る」になるんじゃないかなあと思ってた。
ちなみに読書感想文の例えに関しては俺もその教師側の思考だから書けない人にはごめんねって感じてた
読んでの感想が「つまらなかった」の一言でも、じゃあどこがどうつまらない?どうだったら面白い?で原稿用紙2枚くらいいける
ただ元増田は「良い読書感想文」を勝手に自分で求めてた傾向があって、延長で「良いプログラム」に執着して無駄に苦しんでいるように見える
「良い読書感想文を書いてください!」なんて言われてないから「思ったこと書けばいい」とか言われるんだろうしね
自分でゴミプログラム生み出しまくってからどこを改善したり何を応用できるかを考えるのも「良いプログラム」に近づく道の一つだし
どうやってゴール見つければいいかなんて、課題出されてもおなじだよ
だいたい、新しいフレームワークや言語を覚えるために写経することなんてよくあることなので
お手本を学ぶことで、どこを改善したり、何を応用してできるようになるかがわかるんだろうよ
読書感想文、すげえつらくなかった?
教師は「読みたい本を読んで、思ったことを書けばいい」とか言うわけじゃん
それと同じこと言ってる自覚ある?
良い読書感想文書けるやつは、普段から本を読んでいたり、人と喋ったり、文章書いたりしてるか、攻略本を読んでるか、親に書いてもらった奴。
文章には論理や構造や、多種多様な表現があって、そういう知識もないのにできるわけない。
おけパや読書感想文必要不要論争で、様々な増田やツイートが上がった。
おけパの夢女子になる人、誰かのおけパだったと言う人、七瀬/友川の気持ちが分かると言う人、長文感想の書き方をまとめてくれる人。
でも、根本的に感想が書けないというツイートはほとんど見かけなかった(あくまで私の目の届く範囲だが)。
「長文の」感想が書けない、(解釈違いが怖い、長文が気持ち悪いと思われたら…と不安になる、などの理由により)送るのが憚られるから書けない、は見かけたが、そうじゃないのだ…。そうじゃ、ないんだ…。
共感してくれる人がいるといいな、と思ってこれを書いている。
学生時代、大好きな小説を読んだにも関わらず、読書感想文をあらすじと概要で埋めてきた。
自分の好きなシーンを細かく説明して、「良いと思った」「素敵だと思った」と付け足すだけ。
これを5セット~7セットくらい繰り返すと1600字が埋まった。
長文感想の書き方の「感想とは」の項目で、次のような書き方が載っていた。
①「どの部分に」
②ーa「どう感じたか」
③「そのように思った理由」
① 「どの部分に」
これは分かる。
②ーa 「どう感じたか」
これは分かる時と分からない時がある。感情が動いたことは分かるが、何を感じたかは分からないことが多い。
「エモくなった」「嬉しかった」「悲しかった」くらいしか自己の感情を認識できない。
感情の分類が5歳児である。(昔よりは分かる様になったけどね)
ここは完全お手上げである。何も解釈していないし、理由なんてない。本当に勘弁して欲しい。
そんな私が感想を書こうとするとこうなる。
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○○さんの新刊、読みました!
イチャラブっていいですね…。
次作があれば楽しみにしています。
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…こんなん、本読んでなくても書けるやん?!?!
私は本当に読んだことを伝えたいし、どれだけ悶え狂ったのかを伝えたいのに、1ミリも伝わらない。なんだこの文章は。
ソシャゲをやっている。高校生のヒーローたちに指示を与える指揮官となって彼らを導き、世界を救うゲームである。ポチポチゲーだけど絵はキレイだし何よりストーリーが良い。世界観は重厚だしキャラの心境変化や成長の描写が丁寧で、終末に向かう世界の謎がだんだん解けていくという展開も面白い。大好きだ。
金と引き換えにレビューを書く感想屋というやつが話題になった。当人がどういおうとそういう形態であることは否定できない。
感想屋がそのソシャゲのメインストーリー一章を読んで書いた感想のタイトルがこれだ。なお※には作品名が入るが削除した。
キャラクターを貶めている。
多少なりとも注目を集めた(ツイッターを開設して一週間足らずのうちに900人近いフォロワーを獲得した)身として、個人的な感想だから何を言っても構わないだろうとか、見たくなければ見なければいい、といった言説は受け入れがたい。(そういった弁明すらないわけだが)
感想屋がこのゲームをやっているという内容をつぶやいた時点で戦々恐々とし、いざ感想が公開されれば推しへの言及が少なかったことに胸をなでおろしつつ、他担に対する罪悪感と雑で下品な内容に怒りが湧いた。
これは感想屋自体には直接は関係ないことだが、自ジャンルが炎上に巻き込まれてる時点ももうめちゃくちゃ悲しいしめんどくさい。別で言ってるがこのサービスは問題がありまくりだ。
それにひとつも気づかずサービスをおっぱじめた感想屋も憎ければ依頼した人間も憎い。できれば平穏に過ごしたいと思うのはどんなオタクもそうだろうが、とくにこのゲームはサ終が決まっていて本編もクライマックスであり、金で感想を書く配慮の足りないサービスに荒らされるのは時期もあいまって不快極まりない。
布教だの感想を書けだの、そういったことは片道フォローだろうがROMだろうがどうでもいいがとにかく自発的な行動が契機となっていなければ中身を伴わない。金で書かれたレビューはサクラだ。その人が自分で「いい」と思ってくれるから嬉しいのに。
感想の内容によってはそれが誠実であればまた気分も違っただろうがよりによって「むちむちメイド」だの「カーセックス」だの下品なジョークがウケると思ってるイタイオタクの日記以下の言葉が並んでは、原作が好きと言う立場から肯定できる要素は皆無である。
月並みな言い方になるがゲームに登場するキャラクターたちは魅力的で、それは彼らが世界観に基づく血筋や派閥、家庭環境、才能といったそれぞれのハンデを背負いながらそれでも世界を救うために戦おうとするからである。その姿勢は文字通り命がけだ。
私はこのゲームが大好きで、彼らの戦う姿をかっこいいと思うし、尊敬する気持ちすら抱く。そして彼らがまだ高校生であることを思い出して、背負うものの大きさ思って胸が苦しくなる。しかしそういった同情心もまた、彼ら自身によってある者は無粋である、ある者は不要であると跳ねのけていく。
それを「キャラが割と見た目と中身にギャップがある子たちなので、そういうのが好きな人は結構好きだと思います」とかいうクソみたいな定型文でまとめられたのクッソ腹立つわ。ふざけるのも大概にしてほしい。ポジティブな感想とか言いながら影が薄いだの印象がないだの他キャラsageしないと自分の目が引かれたキャラの話もできてないし。
というかカーセックスより原作名を隠せ。「人の心がない」のは感想屋の方だろう。せめてこのゲームの話をしているときにたかだかCVつながり程度で他ゲーのリンク貼るのはいろんな意味で無礼だからやめてくれ。できればサービスもやめてほしいけど。
では。
【追記】
なんか「一般向け」と称して感想の第二弾が出てたが腐るほど言われているように一度ネットに上がったものは消えない。まあもとの記事も消してないから何がしたいのかよく分からんが。内容も読書感想文にネットで探してきたあらすじ切り貼りする小賢しい小学5年生レベルでキャラ紹介は公式サイト見ればよっぽど分かりやすい。500円だか1000円だかで書いてもらったあらすじとしては妥当なんじゃないですかね。
火消しのつもりなら火消しの体をなしていないしアレが対価としてお出しされるのに金払うやついるの?
はからずもこのゲームがサンプルのようになってしまったこと本当に悔しくてたまらない。地獄の果てまで忘れん。一生恨んでやるからな。
TLに流れるおけパ・おパ島への楽しそうなお気持ち文を読んで、私も真田(@sanada_jp)さんの『秀才字書きと天才字書き』『神字書きがジャンル移動する話』を読んできた。以下は私の長文お気持ち読書感想文である。
結論から言うと、私にはTL上でみなさんが呟いていたような悲鳴はあげられなかった。作中の登場人物全員の気持ちを推察したうえで誰にも強い感情を持つことはなかった。私も悲鳴をあげたかったのに。
私だけが作品にのめり込めなかったという状態になるとなんだか悔しいので、せめて私がこの作品に特別な感情を持てなかった理由を考えてみたい。
まずは主人公だ。『秀才字書きと天才字書き』の主人公である七瀬から見ていこう。彼女は綾城の二次創作に心を打たれて文字書きとしての努力を重ねたが、おけけパワー中島と綾城の交流を見て何かが切れたかのように創作に専念するようになってしまった。
初めて読んだときから『自分はこうはならないな』とハッキリ思った。自分も文字書きではあるがそれ以前に、人並みに努力をすると3日で体調を崩すような人間だからだ。しかし一方で交流が苦手な人種でもあるので、互いに話したことがない推し作家と知らん奴が仲良さそうに喋る光景は何度か遭遇している。そんな二人を大した感情を抱くこともなく見守っているのが私である。そういうときの知らん奴は大抵推し作家の昔からの知人か推し作家のめちゃくちゃなファンである。つまり同じ作家を推す者、同志だ。敵対の感情はない。それに嫉妬の感情から生み出した作品は虚しい。読む側にとってはそれを神作品と感じることもあるし、私も嫉妬が全面的に出た作品を称賛したことがある。だが作品を書く際はせめて作中人物に集中したいものだといつも思っている。ゆえに七瀬には共感できない。
『神字書きがジャンル移動する話』の主人公・友川はどうだろうか。彼女は綾城の書く小説でA×BのCPにハマったが、当の綾城は流行りのジャンルに移動していた。その後おけけパワー中島が流行りジャンルを綾城に布教していたことが分かり、友川は自分がA×B作品を書くことで綾城に戻ってきてもらおうと画策する。
友川の考え方はよく分かる。私も自ジャンルから一次創作へ、別ジャンルへ行く者を何人か見てきた。もしかしたら数年付き合ったフォロワーさんが別ジャンルに移動するとき、私も同じ行動を……取らないな。そういう人がいたとき、私は引き留めない。沼に落ちるのは一瞬だ。外部の人間ごときに助けられるようなものではない。下手したら自分も引き込まれる。そういうものだ。
だが、それでフォロワーとの関係は終わりではない。なかには『もう自ジャンルで書かないのなら興味ない』という人もいるかもしれないが、私はフォロワーがジャンル移動しても見守るタイプである。その理由は人柄だったり絵柄だったり言葉選びだったりと、多くはジャンルではなくフォロワー本人の魅力に惹き付けられているからである。友川が不幸だったのは、綾城の書く特定CPの描写に惹き付けられてしまったことではないだろうか。あくまで『綾城が』『このジャンルで』書かなければ、友川が幸せになることはない。なんとなく哀れだ。とは言え、私の中ではその程度だ。
次に綾城。天才字書きである。私もこうなりたい。他に何か書くことはない。
最後におけけパワー中島(以下おパ島)。綾城に二次創作の感想を述べる、流行りジャンルを布教するなどの行為をする。綾城とは通話をするほどの仲である。綾城との会話では砕けた言葉使いと敬語が入り交じっているため、綾城へのストレートな好意と尊敬をともに持つ人間であることが分かる。もちろんおパ島自身も創作者である。七瀬・友川を狂わせたきっかけになった人物だ。
私のTLにはおパ島に嫉妬する人間や綾おパ過激派の人間など、おパ島周辺への強い感情を持つ方がたくさん現れた。作品を読む前からおパ島に関する考察はいくつか読んだが、ピンと来なかった。原作を読んでいないからかと思ったが、原作読了後もピンと来なかった。おパ島は推し作家と交流して感想を送りあっている、文字を書く能力もある人だ。すごい。私もこうなりたい。でも同時に、私もおパ島に嫉妬して狂ってみたかった。自ジャンルが超大手だったらそういうこともあったのだろうか。私が特定のCPに何年もハマるような人間だったら嫉妬できたのだろうか。
そうだとすれば、おパ島嫉妬民はきっと何年も夢中になれるようなジャンルを見つけているのだろう。とても羨ましい。私もこうなりたい。
(追記)
この増田、はてブではあんまり勢いないけどTwitterですごいことになってる。一応言っておくと、この文章はかなりぼかしたりフェイクを入れてる。「うちの界隈じゃなくて良かった」って言ってる人も結構いたけど、本当に対岸の火事ですか(笑)?
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主に女オタク界隈で感想をもらえないことがどんなに作者を苦しめるか、みたいなエントリがたまに上がるので自分の経験を書く。
とあるマイナーカプにハマっていた。ここではA×Bとする。ジャンル内ではA×Cが王道で、A×Bはわりと決まったメンバーが細々と創作を続けている感じだった。
界隈は少人数ながらも、ハイレベルな絵描き・小説書きがいて、読み専の私でも彼女らと仲良く推しカプトークができて居心地が良かった。年齢層が比較的高めなのもあったと思う。
でもある時から、ひとりの女(たぶん)によって空気はガラリと変わってしまった。私は彼女を内心『感想屋』と呼んでいた。
感想屋は読み専アカとして現れた。絵も小説も書けないが、絵描きや小説書きがTwitterに上げた作品について、めちゃめちゃ感想を書く。
わたしを含め、創作のできないオタクは主に人の作品にいいね!をし、RTをし、感想を述べるのだけど、語彙力があれば小説を書くなどしているわけで、「最高」「好き」「可愛すぎる」という言葉しか出ないことも多々ある。それでも言うだけ喜んでもらえたりもするので毎回呟くんだけど、感想屋の感想はレベルが違っていた。
「あなたの描いた何ページ目の何コマ目のAの表情に切ない葛藤が現れていてうんぬん、指先の表現がどうこう、コマ割りが、余白が、言い回しが◯◯で××なところがすごく素敵で……」
とか、
「小説のここのシーンでは◯◯で△△な情景が伝わってきました。まさかあの伏線がここで回収されるなんて…!最後の台詞は〜〜という解釈をしたのですが、ーーとも……とも考えられますね。最高に面白かったです」
みたいな感想を、140文字を超えprivetterやふせったーを使って書く。ほぼ読書感想文。他人から見ても、作者のツボを抑えていると言うか、そういう風に感想をもらえたら嬉しいだろうな、と思う。一方私は同じような感想を抱いていても(だから感想屋の感想には普通に共感するし、いいねで同意を表す)、うまく言葉に出来ずに『最高です』に一言二言付け足すことしかできなかった…。
絵師や文字書きたちはもちろん喜んで、お礼のリプを送って感想屋をフォローしたようだった。それを見て羨ましい気持ちにはなったけど、最初のうちは界隈に良い人が来たなとしか思わなかった。
感想屋は、TLに上がる作品すべてに感想を送るわけではなかった。少なくとも長文の感想を送るのは、A×Bでも彼女の好みにガッツリハマったものだけ。その他はわたしと同じようにいいねだけだったり、感想を書いても「めっちゃ好き…」程度にとどめた。ちなみに彼女は、A×Bだと盛大にイチャイチャしている作品よりも、友達感強めでその上にほんのり恋愛が乗っかっている、みたいな作品が好みらしかった。だから、長文感想は友達感強めの作品だけ。するとどうなるか。絵描き、小説書きが彼女の好みに合わせて創作をするという逆転現象が起きてしまったのだ。
感想屋が現れるまでは、わりとイチャラブ作品が多くTLに上がっていて、私もそれが好きだった。いいねやRTもその方が稼ぎやすいと思うが、マイナーカプだと多少のいいね・RTよりも長文で的を得た感想の方が嬉しいっぽい…。感想屋は絵も小説も書かないけど、「こういう2人の絡みが見たい」ってツイートをすることは結構あって、それを絵描きが書いて、別の人が小説を添えたりする。オーダーメイド同人クラブだ。そして長文の感想。感想をもらって喜ぶ神たち。その流れがどんどん嫌いになった。
感想屋とカプ観が完全一致してれば最高だったろうと思う。彼女が来てから(傾向は偏ったが)作品がアップされる頻度が明らかに上がったので、マイナーCPとしては感謝すべきなんだとわかっている。でもやっぱりモヤモヤが止まらない。
自分のツボに入るイチャラブ作品に感想屋みたいな感想を送れたら、と思ってしまうし嫉妬する。
しかも、感想屋に媚びている(?)絵師・小説書きはマイナーの中ではトップの実力者というか、すごく上手い人たちなもんだから、界隈のスタンダードというか公式カプ観が「ABは『友達』が大前提。その上でほんのり気持ちが通じて……」的な空気が流れている。それを感じる度に「それ!感想屋個人のカプ観だから!」「感想屋がくるまでイチャラブ妄想めっちゃしてたじゃん!」とひとりでお気持ち大爆発をキメてしまう………………つらい…………
何が言いたいかと言うと、感想を細かく書けるのも才能だし界隈によっては覇権もとれます(鼻ホジ)ってことです。感想屋は全然悪くないけど、私はクソだと思いました。クソ根暗で感想書けないくせに増田で長文書く系腐女子からは以上です。
以下追記
そりゃ〜〜〜〜そうでしょ いや普通に考えて好きな作品の作者への長文感想とかラブレターでしょ。増田は広場のゴミ箱。
ラブレターはさぁ、相手に喜んでもらえるように、ウザがられないように細心の注意が必要なわけ。
原作の作風の影響もあって(?)界隈のトップ、特に小説書きの人は考察の余地を残すっていうか、余韻を持たせる作品が多い。感想屋の感想が優れている点は、見当違いの解釈をしないこと(多分ね)。作者の意図を正しく汲み取って、あらゆる可能性に「〇〇でもいいし、××でも最高。でもまさか△△ってこと…!?だとしたら新しい世界の扉が開きますね…」的な言及をする。悔しいけど読解力と、言語化能力に優れているのは認めざるを得ない。
しかも感想屋は真面目な考察、感想にオタク的なユーモアやネット的な言い回しを混ぜるのが上手くて、なんて言うか、重くない。だから感想屋の感想ツイートも伸びる。我々下々は感想屋へのいいねによって、「私たちも同じ気持ちです」を表現する他ないからだ。
こっちは作者の意図を正しく受けとれてるか、端的に言って自信がないわけ。変な解釈だったら、「そこじゃねーよ」的な気に入らない感想だったら……みたいなことを考えてしまうし、そもそも感じたことを上手く纏められないからクソでか感情を「最高……」の一言にまとめる他ないんだってば。
>他の界隈では絵が上手い人が空気を作ってる
こちらもそうです!が、その『絵の上手い人』が感想屋に支配されているのでした〜完〜
>死ぬほどめんどくさい
>感想屋悪くないやんけ
悪くない……全然悪くない……。これは感想も書けないオタクが外野から嫉妬に狂って発狂しているstory……増田だから許してほしい
さらに追記(はてぶよりTwitterでバズってんなと思いながら)
>神たちは感想屋に媚びてるんじゃなく、単にそういう解釈が気に入って書いてるのでは?
あると思う。少なくとも100%媚びではない(そこは勢い余って書いたごめん)。感想屋の解釈、悪くないもん。私も10本推しカプ作品読むなら2本くらいは感想屋的なテイスト(友達感強め)でも良いと思ってる。でも8本はイチャラブがいい。以前はそういう感じだったのに逆転してる。この気持ち悪さって、ご飯とデザートの分量が入れ替わった感じに似てると思う。杏仁豆腐美味しいけど杏仁豆腐ばっか食いたくないんだよ!小さいカップにちょこんと入った麻婆豆腐じゃ足りないよ!ていう。
話がズレたけど、100%の媚びじゃなくても感想を期待してるのは絶対ある。それはビンビンにわかる。わかるとしか言えないが、『わかる』。
最近急にタイムラインで読書感想文に対するツイートをよく見るようになって
なんでだろうと思ってたら、ついさっきこれがおそらく話題の大元になったツイートを見つけた。
https://twitter.com/nanngin/status/1276943146639749121
たまーーーーに国語の授業の「作者の気持ちを考えましょう」の無意味さを皮肉った話とかバズってるし
定期的に小学校の国語教育の話は出てくるけど、読書感想文、よっぽどヘイト買ってるんだね。
私は小学生のころ読書感想文が大好きなこどもだった。だからちょっと不思議だ。
他の教科はてんで駄目な中で、人以上に好きなことが作文を書くことだった。
これは今この文章を見ている人ならわかると思うけど、私は特別文を書くのがうまかったわけでもない。
国語の点数も……私は漢字の形を覚えるのがとにかく苦手なこどもで、今考えれば私はディスレクシアなんだけど
何度事前に予習や復習をしても授業で習った範囲の二割くらいしか覚えられなかった(今でも得意ではない)
じゃあそんな中でなぜ好きになれたのかというと、
単純に私を受け持った先生や小学校の教育方針が徹底的に「褒めて伸ばす」方針をとっていたからだ。
ただ、空想や自分の気持ちについて突き詰めて考えることは好きだった。
読書感想文においてもそれは同じで、本を読むこと以上に本を読んだあと、
「自分はどう思ったか、読む前と読んだ後でどのような心情の変化があったか」考えるのが好きだった。
私が作文や読書感想文を嫌いにならなかったのは、先生が誰も作文での自己表現を一度だって咎めたことがなかったことが大きいように思う。
添削やアドバイスをくれた先生はいたような気がするけれど……それでもあくまで私の文章をもっと伝わりやすく、もっと良いものにしようという意思のものばかりで、最終的に私の伝えたいことや表現しているものが曲げられたりするような添削をする先生は一人だっていなかった。
先生の求めるようなことを器用に書けていたこどもだった記憶もない。題材や思想や内容に対するお咎めや修正もなかった。
どんな作文や読書感想文を書いても、先生はみんな私の書いた文章をちゃんと読んでから褒めてくれた。
元ツイを見るとどうもそうでない?学校や先生が多いのかもしれない印象を受ける。
実際のところそういうものなんでしょか。
読書感想文についても同じで、普段私が本を読むのはもっぱらマンガや図鑑、絵本や辞典の方が圧倒的に多かったので
「物語」が他者の手によって選書されているのが新鮮でこういう機会でもないと読まないこどもだったので大変ありがたかったと、それについて生徒が三者三様の自分の意見を書く、という部分が楽しくて好きだった。
その本を自分が選んでいないのに読書感想文全国コンクールの文章読むのも好きだったな。
映画や本のレビューサイトに書いたことがある人ならわかると思うんだけど、同じものを見た人でも全然意見が違うことへの面白さって確実にある。そしてその面白さは、まず自分がその作品を見て自分自身の意見を持っていないと感じることが難しい。
その楽しさを身につけられたのは今思えば読書感想文のおかげかもしれない。
(元ツイにあった「感想文集の売上が図書館担当の先生たちの研究会の出張費用になってる」ことは知らなかったけど、その研究会がこどもたちの図書館教育や国語教育に有用に使われているのなら、私は別に……というかそこに何の問題があるのかわからない。生徒に直接売上が行く方がいいということなら大賛成です)
ただ、みんな同じ教育を受けていたのならみんな私のように文章を書くのが好きだったり読書感想文に嫌悪感を抱かずに済むように思えるけれど実際そうではなかった。
私がそう強く記憶してるのは、学校の何かの催しの時に、作文とそれをスピーチする生徒が必要で、立候補制だったがなかなか手が上がらず、その時私が引き受けた思い出があるからだ。
この時は作文を書くのと全校生徒の前でその内容をスピーチするのがセットだったので後者の部分が重荷になって誰も手をあげなかったのかもしれないけど、とにかく進んで誰も作文を書きたがらなかった。
「作文を書けば先生に褒めてもらえる(しかもテストと違ってここは間違ってるとか言われたり減点されることがない)」という
文章を書くことに対しては全方向ハッピーな考え方をしていた当時の私は多少不思議だったけれど、いくら学校方針でツイートに挙げられたような堅苦しい自己表現としての作文を許さないような教育を受けていなくたって、
そもそも大半のこどもは「できることなら作文なんか書きたくない」のかもしれない。
だから教育方法をいくら変えたところで作文や読書感想文が苦手な子供は一定数は減らないかもしれない、と少し思っている。
こどもはそもそも面倒なことなんて進んでやりたがらない。好きでもない限り。
作文書くのは好きだったけど、そんな私でも原稿用紙何枚も書き上げると腕が疲れてじんじんした。それでも私は好きだった。
私は学校でも家庭でも褒められることが少ないこどもだったのと、たまたま書くことに対するハードルが低かったので
「書けば無条件に褒められる」作文や読書感想文がとにかく好きだったしそれに救われていた。
元のツイートにあった、
「原稿用紙はこう使いなさい」「作文はこう書きなさい」という形式的指導が子供を読書感想文嫌いにさせてる?
っていう部分について、私はかつてのこどもとしてこれは必ずしも正しくないのではないかと思ってしまった。
本当に何度も言うけど私は特別文章を書くのが得意だったわけではない。
けれど、この「原稿用紙の使い方」や「作文の書き方」を小学校のうちに教わっていなければ、
教え方に問題がある(それに従わなかった生徒に厳しく指導する)だけで、内容自体はとても重要なことなんじゃないか。
これは教育としては非常に重要なことなのではと思ってしまうので、現役国語の先生からこの言葉が出ることに
私はちょっと驚いている。
原稿用紙の使い方や作文の書き方というのは「そう書かなくちゃいけない」というものよりも
「ある程度のルールに沿って書いた方が、見る人は見やすいし、書き手の伝えたいこともより伝わりやすくなる」という
学校教育の中でいうと採点側のためにあるのではなく、生徒のためにあるものだと思っていたからだ。
これは私の小学校時代の先生の、私の文章を見てくれるときの態度がずっとずっとこうだったから、という影響が大きいと思う。
でもこのツイ主の先生の辟易した書き方からするに、きっと現場ではそうではないんでしょうね。
「自由な自己表現をする」ことと「文章表現としてある程度の形式を学びそれに従った作文をつくる」ことは矛盾しないと思うんだけど、この矛盾しない教育がきっと難しいんだろう。
私の小学校でできていたことがそんなに特殊だったようには思えないから、その学校の方針や先生個人の考え方にも左右されるとは思うんだけど……。
あと私が小学校を卒業してからもう十年以上が経っているので今の学校教育ではなかなか同じようには出来ないかもしれない。
ただ、私みたいに作文や読書感想文で救われたこどももいるにはいるのだ。
「みんな嫌いになる」ものとして普遍的に槍玉に挙げられてるのを見ると、偶然私が幸福なこどもだったのか、それとも異常だったのか、よくわからなくなってくる。できるなら前者であってほしい。