はてなキーワード: 読書感想文とは
思い付かなかったので大仰なタイトルにしてしまったが、大した話ではない。
日頃疑問に思っていることがあったのだがひょんな会話から糸口が掴めたというだけの話。
私はあまり夢女子の素養がない腐女子で、夢小説全般が苦手だと自己分析していたが若干違うような気がしてきたので脳内整理を兼ねてつらつらと書く。
pixivの小説デイリーランキングを夢小説が席巻するようになって数年。
旬ジャンルは変われどその勢いは衰えない。
苦手意識故にあまり読むことはないがたまにランキングを眺めてみることもある。
そうすると主人公以外の夢作品もランクインしていることに気付いた。
そこで過去を振り返って考えてみると夢が苦手なのではなくオリキャラの登場比率が高い二次創作が苦手なのだという結論にたどり着いた。
ここからはゲーム(特にソシャゲ)ジャンルの二次創作に絞って話を進めていく。
昔から主人公=プレイヤー自身というゲームはあるが、ソシャゲの隆盛で主人公の外見が定まっていないゲームが生まれた。
ゲームの主人公絡みの二次創作を楽しむ上で、恐らく私の中では主人公の外見が定まっているかどうかが重要な要素なんだと思う。
根本的に夢女子の素養がないというか、登場キャラクターに自分が好意を持たれるというシチュエーションに耐性がない。主人公の外見が定まっていれば主人公を自分分身ではなく独立したキャラクターと捉えられるので主人公絡みの恋愛作品も楽しめる。
公式で外見が設定されていなくても、二次創作の作品内で外見の描写があれば自分ではないと思って楽しめる。主人公一人称視点の漫画とかは苦手かもしれない。
自分不在の物語を楽しみたいのだ。自分は物語の外側にいる観測者でありたい。
そして主人公はゲームの登場キャラクターの良さを引き立たせる存在と見なしている。言ってしまえば舞台装置の一つだ。
そうなると主人公以外のオリキャラメイン作品に違和感を感じてしまう。失礼な表現で申し訳ないが、オリキャラは完成された物語の世界に介入する異物のように見える。少なくとも主人公は物語を構成する要素として公式に定義されているからだ。
本題に入る。
小学生の子持ちの知人の愚痴を聞くことがあった。読書感想文の課題に苦戦しているという。登場人物の言動に対してすごいという一言で感想を終わらせてしまう語彙力を嘆いていた。
愚痴は続く。その本の中では挫折した主人公に友人が声を掛けて励ますというシーンがあって、知人は自分の子供にもし自分がこの友人ならば主人公にどのような言葉を言うか聞いてみた。すると子供は作中で友人が既に声掛けしているから自分はいいと答えたそうだ。知人は子供の共感性のなさを嘆いていたが私は少し違うと思った。自分もその子供と同じように物語を読むからだ。物語で起きた出来事を自分の中に取り込んで共感はできても、物語の世界に自分がいることは想像しづらい。物語の流れは決まっているのに自分の言動が介入した結果、起こりうる変化を想像するのは難しいのだ。
知人は苦労することなく自身を物語内に送り込んで主人公に掛ける言葉を思案するだろう。物語に向き合う姿勢にも種類がある。
話が飛躍するのはわかっているが腐女子と夢女子に通じるものがあるのではないかと思ってしまった。
これだけで腐女子と夢女子を分類するのは強引すぎるが、元々人によって物語の読み解き方が違うということに気付けてよかった。
[追記]
このサービスを使うのも文章を投稿するのも初めてだったので反応を頂けて驚いています。
様々な視点からのコメントを読んで考えさせられると共に、自分の文章が下手なせいで上手く意図が伝えられてないと反省するところも多かったです。勉強になります。
上手く書けなさそうなので本題に入る前に削除した文章がありました。簡単に書きます。
自分はどうしてもオリキャラを異物と思ってしまうが、夢女子の方々はどのタイミングでオリキャラ妄想をするのだろう
→しかし自分も腐女子なので普通に楽しんでいるつもりでも男同士でくそデカ感情をぶつけ合ってると脳内でさらりとカップリング変換してしまうときがある
→この腐女子の性というか癖のようなものが夢女子の方々にもあるのではないだろうか
とぼんやり考えているときに読書感想文の件がありました。そもそも普通に読むときも二種類の読み方というか視点があって、腐女子と夢女子の入り口は分かれているのかもと思った次第です。
それとコメントを受けて色々思い返していましたが、登場人物に共感して読書感想文書いたり、国語の授業で登場人物の気持ちを答えたりはしていたと思います。ただそれはあくまで課題や試験のためであって、それらから解放された現在において物語を読むときは客観的に読むことが多いような気がします。
また没入感がすごい据え置きゲームにはまっていたときはおじさん主人公=自分の状態でめちゃくちゃ楽しんでいました。自分のせいでキャラクターが死んだときなんかは大層落ち込みました。評価されるのを避けているという指摘は最もで自分でも言語化できていないところだったので大変ありがたいですが、媒体にもよるのかなぁという言い訳です。ゲームは能動的な娯楽で読書は受動的な娯楽とカテゴライズしているので比べるのも変な話ですが。
たぶんもっと打率が高い人はいくらでもいるだろうけど、俺は生産スピードの速さに自信がある あと地味に嘘をほとんど書いてないのも誇りだ
ホッテントリに二つ、新着エントリに1つ自分の増田を送り込んで悦に入ってたこともあるくらいだ
文才は我ながら全然ないと思う ガキの頃は読書感想文とか作文が本当に嫌いで泣きそうになりながら書いていた
ってことは何か優れてるとしたらテーマ発見力みたいなものだと思うんだが、これってなんとかして活かせないだろうか
(でもTwitterやっててバズったことはほとんどないんだよな そもそもフォロワー増やそうって気持ちがないというのもあるかもしれないが こんな匿名サービスでいくらバズってもなんの得にもならない だからこそ良いのかもしれないけど)
小学校〜中学校の夏休み、どこの学校でも自由研究が宿題に課されていたと思う。
私はそれがひときわ苦手だった。
まず、テーマが出てこない。自分が何をやりたいかが出てこないのだ。
出てきたとしても、それは既存の実験やら本に記載されたアイデアの焼き直し。
小学校の頃は、親に渋々手伝ってもらって、テーマを一つに固定して行ったことを覚えている。
中学の頃は、統計のような資料を基にしてある種あたりまえのようなことを述べるだけだった。
そしてそのどちらも、テーマに関する考察や疑問が設定できず頭を抱えたものだった。
今になって思えば、ああいう課題は子供の発達障害(の一部)を見分けるために出しているのかもしれないと邪推している。
紋切りや媚びた文章で覆い隠されがちな読書感想文よりも、よっぽど自己発露が試されるからだ。
ちゃんと自発的に考えられるか、きちんと疑問を持ち、それに対して解決できる小柱や実験を計画できるか。
そういったことを見定めるある種のファクターとして活用できる、もしくはされていると思う。
ただそれは、研究室時代に子供の頃から矯正を放棄されていた考え方を改善されたから。
教授や先輩にミッチリしごかれたからこそ、無事論文を提出し、就職できたと思っている。
今でこそ研究テーマを自分から持っていき、質疑や討論を出来るようになったものの、
(たまに重箱の隅をつつくような意味なし質問をしていまうこともあるけれど)
配属当初はアウトプットがボロボロすぎて「君はなんのために研究をして学問を学ぶのか」と詰問された程だ。
法律ギリギリの苛酷な労働環境、杜撰なスケージュル管理などを赤裸々に書いた暴露本は物議を醸しました。
田尾:以前から意識にズレは感じていました。『Mの活劇』は皆で作りあげるものなのに。
菜華役の田尾さんは、暴露本を書いた経緯をそう語りました。
田尾:現場で働くスタッフたちの苦悩を、世間の皆様に知って欲しくて書いたんです。
津久田:(彼女が暴露本を出したことについて)驚きはしませんでしたね。同級生だし、長いこと一緒に仕事をしてる仲でもありますから。
増林:あの子はそういうので承認欲求を満たしたり、お金を稼ぎたがるタイプ。普段から不満が漏れ出てた。
影田:ちょくちょく講習会なんか開いちゃったり、ニュース番組でコメンテーターとして出演したり、「とうとう、そっちに行っちゃうんだ」っていう。
『Mの活劇』チームと、撮影現場の雰囲気は良くも悪くも変わりませんでした。
AD:現場の空気を悪くしてた常習犯は彼女(田尾さん)でした。部屋が乾燥してるだとか、ケータリングが気に入らないだとか。テイク数が増えると、露骨に態度に出てくる気難しい人でした。
プロデューサー:本の内容自体、上手く誤魔化してはいるけど極めて恣意的で、要はただの愚痴です。そういう自覚が多少あるからこそ、一般大衆を味方にしようと考えたのでしょう。
ディレクター:彼女は某所で意識の高いことをよく言っていますが、本を書いたきっかけは出番が少ないことと、ギャラが減ったことへの当てつけでしょう。そもそも端役だから出番が少ないのは当たり前だし、ギャラが少ないのは彼女が演じるキャラクターの関連商品が売れないからです。
津久田:あの本も、八割がたゴーストライターが書いてるだろうね。あの子、学校の読書感想文いつも最低評価だったから。
「よし、そろそろ行くか」
最後の一人が蕎麦を食べ終えるのを確認して、俺はおもむろに立ち上がった。
「えー、もう行くの? ドキュメント番組終わってからでもいいじゃん」
「こういう番組は、どうせ最後は前向きなこと言って終わりだ。後はせいぜいVTRを見た人が、それっぽいこと言うぐらいだろう」
皆が上着を着始めているのに、弟はコタツに入ったまま、ぶーたれる。
日の出を見ることは以前から決まっていたし、そのために俺たちは集まった。
何より、それを真っ先に提案したのは弟だ。
「早めに行かないと混むかもしれないし。どうせ日の出を見るなら、いい場所で見たいだろ?」
「そうかもしれないけどさあ、なんか体が動くことを拒否してるんだよ。自分でも上手く説明できないけど、何か医学的な理由があるに違いない」
だからといって、容赦するつもりはないが。
「このまま、なあなあにすればワンチャンあると思っているのかもしれないが、言いだしっぺが不参加なんて許さんぞ」
弟は体のほとんどがコタツに取り込まれており、頭以外は露出していない状態だった。
そこに身内への慈しみは存在しない。
「ぎゃあっ」
抵抗むなしく弟は引きずり出された。
現在私は工場勤務で、昼勤夜勤を繰り返す部署にいる。工場の御多分に洩れず、最寄り駅に各駅停車しか止まらないような田舎に職場があり、住んでいるのも各駅停車しか止まらない安さだけが売りのアパートである。夜勤の場合、いつ終わっても30分は電車を待つ必要がある。
私は、かつてこの30分が嫌いで仕方がなかった。
工場勤務は退屈である。ただ同じ作業を繰り返すのみ。作業をしながら考え事をするか、うるさい環境を利用してそこそこの音量で歌うくらいしか退屈しのぎがない。そんな退屈が終わった後に30分も無為な時間を過ごしたくない、早く帰って飯食って酒飲んで寝たい、以外の感情がなかった。
去年の今頃、勤務中退屈しのぎに考えていたことを、30分の退屈しのぎに文章に起こすことを始めた。工場勤務者の御多分に洩れず、私は頭が良くない。私がそれまでに書いた文章なんて、2ページと1行の読書感想文が恐らく最長だろう。四苦八苦しながら、勤務中もどう表現したらいいかを考えて考えて、駅最寄りの喫煙所でタバコを吸いながら文章に起こす。あっという間に1000字、2000字くらい書けてしまう。2ページと1行の3倍以上の長さを、なんの苦労もせずに書けてしまうのだ。
かくして私は、この30分を文章を書くためだけに使うようになった。それからというもの、30分のために書くことを見つける、勤務中に考える、実際に書く、という日々を過ごしていた。誰にも見せない、自由に書く文章の楽しさを垣間見てしまったのだ。
そして今、初めて他人に読んでもらうことを意識して文章を書いている。
12月初日、4月から夜勤のない部署への配置換えが決まった。去年まで待ち望んだ常昼勤務だが、4月以降私は文章を書くことを辞めてしまうかもしれない。そう思うと、誰かに読んでもらいたいという感情が湧き出てきた。
この文章の書き始めが12月2日、夜勤9回=4.5時間かけて、ここまででおよそ800字。奇しくも2ページと1行に近い。誰かに読んでもらいたいと思った瞬間、文章を書くのが非常に難しく感じる。しかし、かつての2ページと1行とは比べ物にならないほど意味のある文章だと自負しているし、何より書いている間、ずっと退屈しなかった。
いい読書感想文が書けたじゃん
まさに「人間失格」。
面白い小説ではあったが、これを延々と高校生たちが読書感想文の題材にするのはいかがなものか。
それから数十年経て初めて読めるようになった。
読後感としては、そこまで警戒すべき作品でもなかった気がする。
同じ男として、あそこまで女にモテるのは、正直、妬ましい。
が、この男のクズなところは、女性にここまで愛されても、それを自分の幸せには一切役立てることができなかった点だ。
太宰治という男もろくでもないと思った。
ポルノやら萌え絵やらを問題視するなら、よほどこんなくだらない小説を発禁処分にでもしたほうがいいのではないか。
これが名作だの、太宰治が文豪だの、イケメンだの持ち上げられている世の中もいかがなものかと思った。
追記:
「人間失格」は誠に胸クソ悪いクズオブクズな話であるが、そのクズ度の純度が高いゆえに、反面教師としては利用価値が高い気がしてきた。
この主人公は、物語のあらゆる分岐ポイントで、不幸になる方向に進んでいるので、常にその反対を選択し続ければ幸福になれるということであろう。
この主人公がクズであるゆえんは、とにかく人間と一度もまともにコミュニケーションをしたことがないという点である。
「本音を伝え、本音を受け取る」という普通の assertive なコミュニケーションを一度たりともしたことがないのだ。
だから、本来ならば、この主人公は、人生の重大な分岐点において、その選択にかかわる重要なステークホルダーたちと腹を割って本音を話し合うべきであった。
そうすれば、あんなに風に追い込まれて廃人になることはなかったであろう。
太宰治も当然そのことはよくわかっていて、それでもどうしてもできないので、せめて小説の形で書き残し、後世で反面教師にしてもらおうとしたのかもしれない。
例えば、ものすごく良い人で会えば皆良く言うのに発言がアレな人なんてのは多い。
そして、とても明晰で仕事も確実で信頼性の高い取引先が、飲みに行くとアレな話をすることも多い。
そして、人はみなスティーブン・キング程には表現が上手ではないので、
「うわヤだな」と思ったことに後から理屈をつけて話す事が多い。少なくとも自分はそうだ。
最初に「宇崎ちゃんは遊びたい!献血ポスター」論点を明確にしよう。
DCコミックスのワンダーウーマンは、その物語がある程度北米で共有されているため、特に男性から消費される性の対象として描かれているとはみなされない。
しかし、イスラム圏のポスターにワンダーウーマンを描けば非難の対象になるだろう。
だから、「あのイラストがエロいかどうか」は、時と場合による。
つぎにB、宇崎ちゃんを好ましく見る人に届けば良い、そうでない対象外の人は見なければ良い、とする意見である。
公共のポスターであり、ゾーニングされているわけではないからだ。Bは対象外の人も見えてしまうとする方が自然だろう。
つぎにCだ。知り合いの医療従事者もこの立場だったが「血が足りないのだから手段を問うている場合ではない」。
外科医はその職責において傷害罪に問われないという点から考えても、一考の余地がある。
待ったなしの局面において、明確に違法でなければ何をしても良いと考える医療従事者は、割といる。
半裸の男性のカレンダーが、売上が慈善に繋がる場合かなり好意的に受け止められている。
つまり、公共性の高さ、公共の福祉というのは、他よりも優先度を上げるという考え方は、社会によっては有り得る。
つぎはDだ。表現の自由は、公共のポスターにも適用されうるか。
表現の不自由展は、「芸術作品の表現が、制限される」という点で問題視されていた。
宇崎ちゃんは遊びたい!が、例え半裸のポスターであっても、適切に販売されるなら検閲すべきではない。
クリムトがウィーン大学向けに描いた作品が論争を引き起こして納品されることが無かったのは有名な話だ。
ポイントは、「作品」ではなく「掲示する場所」だ。争いの余地がある。
職場にヌードポスターを貼るのは、環境型セクハラに該当する、とされる。
Aの論点において「性的なポスター」であり、Bの論点において「嫌なら見るな」は否、ならば環境型セクハラに該当するだろう。
つまり、性的か否か、対象外の人に見えるか否かが、Eの結論に影響する。
性的なポスターであっても、該当の人にだけ見えれば良いという論陣なら、やはり該当しない。
最後にFだ。環境が女性に好ましくない状況である中で、それを維持強化して良いか、である。
これは、「その環境にある、ない」か「強化するか否か明確でない」か「強化はする、強化しない」の論点がある。
強化しない、強化する、いずれも明確に証拠を提示するのは、とても困難な作業になる。
女性が男性よりも性的に消費されやすいとする証拠もまた、提示が難しい。
よってこれは、「その可能性がある」とする立場で考えるのが一番自然だ。
その場合であるときに、他の論点がどう変化するかが、論点となる。
さて、こうすると、例えば自分の立ち位置は、以下となり今回の件はOKという立場だ。
B「ゾーニングはできていない」
C「医療は許容度が高い」
これは端的に言えば「環境型セクハラで女性の不当な扱いを強化する可能性があるが、表現の自由に加えて公共の福祉(医療)の方が優先度が高い」とする立場だ。
自分は、全く同じ図案のポスターが「読書感想文全国コンクールのポスター」であればNGとする立場だ。
環境型セクハラに該当する図案の場合、表現の自由よりも子供の教育環境は優先されるべきと考える。
つまり、同じポスターも時と場合によって許容度が違うと考えている。
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さて、長い前フリを読んでくれてありがとう。
JOKERは、アーサーという中年男性が、コメディアンになる夢を追いかけ、他人から利用されるだけであることをやめ、自分の悲劇が喜劇的であることに自覚的になる、悲しい物語だ。
JOKERはそのスタッフクレジットも、全体として「喜劇」のフォーマットで作られている。軽やかな曲とともに始まり、明るく楽しげな音楽で終わる。
そしてその悲劇が、喜劇的なエンターテインメントであることを理解している。
アーサーは人を笑わせるコメディアンになりたいのであって、人から笑われるピエロであることは望んでいない。
アーサーは人からはわかりにくい障害を持っている。緊張性の発作のように、自分の意志と無関係に笑ってしまうのだ。
劇中には小人症の人物も出てくる。その特性(障害)はわかりやすい。それでもソレは笑いのネタにされる。
現代では、小人症の人物を揶揄するのは不謹慎だとされるだろう。
同様に、アーサーの症例が精神病として一般に認知されていれば、当然それについて差別したり揶揄するのは、社会的に許容されない。
社会的に許容されないというのは、そんな現実がない、ということとは明確に異なる。
たぶん、アーサーは、現代でも差別され生きにくさを感じると思う。
もちろん表立ってではないし、合法的になんの問題もない理屈の上で、差別されると思う。
アーサーがJOKERになったゴッサムシティと、宇崎ちゃんは遊びたい!献血ポスターが掲示される現代は、とても遠くて、実はすごく近い。
医療のための緊急避難だと考えている人が多ければ、たぶん遠く、
オタクにとってTwitterはヲタ活動の必需品である。Twitterは凄い。クリエイターに直に感想を送れるし、同志が良いツイートを回してきてくれる。凄い。時間が無限に欲しくなる。
でも、俺はTwitterを使いこなせなかった。FF外から失礼できなかった。FFでもふぁぼするだけの関係になってしまった。どうでもいい呟きが並び続けるノイジーなタイムラインを眺められなかった。絵や漫画に付くリツイートとふぁぼを同時押しするイラストにイライラした。そのくせ自分から発信できるコンテンツも無かった。
なんだこれ、Twitterやらなくていいじゃん、俺…
結局俺は気になる人のツイートとか、追ってる作品のハッシュタグとmin_faves:100とか付けた検索結果を他ツールに通知させてるだけで満足してしまった。俺にとってTwitterは二次創作や作品を収集するだけの検索エンジンとなり、そこに会話は無かった。
Twitterを本拠地としないオタクも勿論居る。ブログをコツコツ書く人も居れば、掲示板に住み着いてる人も居る。彼らは彼らで凄いと思う。媒体は違えど発信が出来る人種なのだ。俺も彼らになろうとしたが、やはり駄目だった。というか、やはり発信ができない人種は、媒体に限らず発信ができないのだ。嗚呼。
話が逸れすぎている。もちろん俺は今の状況が良いと思ってない。作品を見て、二次創作や感想を漁って、自己完結する事はそれなりに楽しい。でもやはり発信したくなるのがオタクの性なのだろう。それゆえTwitterに適応できないのがイライラするような、心が沈むような感じがするのだ。
さて、Twitterで発信できないなら、やはり挑戦するべきはブログだろう。なぜ俺は発信できないのか?それは単純で、まともな感想文が書けないからだ。Twitterでなら気軽に「ここすき」と鳴き声の如く書いていただろうが、俺はFF外からも引用RTも出来ない人間なのでここで八方塞がりだ。残念。
感想文を書くことは、それはそれは難しいことだ。夏休みの読書感想文のことではない。あれは文字数を稼げばいい文章の宿題だろう。俺が言いたいのは、作品を見て感じた、ときめきや尊さを表現することはとても難しいってことだ。加えて作品のどこに感動したか、それを書こうとすると作品のあらすじがうまく説明できないときた。表現したい気持ちはある。でも自身の表現も、ストーリーを纏める技術もまったく追いついてこないのだ。これに悩んで感想文は完成文にはならない。途中でゴミ箱行きになる。
感想文をしっかり書く技術が欲しい。しかし何を鍛えればいいかも分からずとりあえず感想を書き、捨て、書き、捨てている。そんな苦悩を心の片隅に感じつつ、今日も自己完結するオタクとして過ごしている。
「字なんて誰でも書ける、絵は描けない」
痛いほどわかる。
すごくすごくわかる。
いままでテストの回答や読書感想文、私たちはどれだけの文章を書いてきたのか、どれだけの文章を読んできたのか、もうわからない。
それが面白いかそうじゃないかは知らんが、日本人が読んで意味を理解できる文章は書けるでしょ。
少なくともTwitterをやってる人たちならね。
では絵は?
絵を描く機会、文章を書く機会と比べてどれくらいあった?
ほとんどの人は図工の時間と美術の時間、後せいぜいノートの端っこの落書きくらい。
でもクラスに数人はいる、絵を描くのが大好きで、何度も何度も白いページを埋めてきた人たち。
そりゃ上手くなる。たとえ描いてるその時上手くなくたって。
私は絵を描けるようになりたくて高校の時にほぼ0の状態からワンドロめちゃくちゃ描いてみたりしたけど上手く描けない自分に嫌気がさしてやめちゃった。ずっと続けてたら今は見れるレベルの絵が描けるようになってたのかな。それはわからないけれど。
絵も文章もみんな何度も繰り返し繰り返し書いたり描いたりしてきたから、今上手になったんだよなぁ。
ただ文章は書ける人が圧倒的に多くて、絵はそれに比べると少ない。そういう話。必修じゃないから。
あれ、なにを言いたいんだっけ。本題とか何も考えずに書いてた。本題、なんだっけ。
ま、文章書けるって言ってもセンスの違いとかあるよね。「日本語として読める」文を書くことと「面白い」文を書くことってハードルの高さ相当違うわけで。
面白くない文章はその辺にいっぱい転がってる。この文章もそう。
でも誰かが、義務でもないのに、最後まで読んでくれる文章を書けたなら、それは誇っていい。人に興味を持たせる文章を書くことに成功しているのだから。
たとえ文章を書く能力を持っている人が沢山いて、自分がその中の小さな小さな一人だったとしてもそれは────ここまで書いてさ、文章書くの飽きたわ。ごめん。
最後まで完結させられる人、天才だよ。えらい。最後まで書けない人、多いよ。私みたいにね。
でもここまで読んでくれてる人がいるってことが、この文章が人の感情をマイナスかプラスかに1ミリくらい動かしてるって証明よ。
この文章を読むことは決して強制されたことではない、ここまで読んだ人はみんな能動的に読んでる。
最後まで読んでくれてありがとね!閉廷!
https://twitter.com/SHINCHOSHA_PR/status/1180023713581809664?s=20
潔癖症の読者だけじゃなくて出版関係者からも出ていることにわたしの理解が追い付かない。
本の帯とか解説とかネットの宣伝によくある「〇〇先生絶賛!」みたいな推薦文の中にも
「仕事か付き合いで仕方なく書いたんだろな~」とか思わず邪推しちゃようなものは前からあったじゃん。
自分たちが今までやっていた役割を、他の人に奪われた気持ちになっているのかな。(これはわたしがひねくれ過ぎ?)
他にもアマゾンのやらせレビューと関連付けている人もいるけれど、
寄せられた感想文の中から、作品を読んだ上でまともに書かれた感想文を見つけ出すくらいは
わたしの考えに何が足りてないのか誰か教えてほしい。