私は文章を書くのが上手いと言われて育った子供だった。この場合の文章というのは、いわゆる作文や感想文だ。
最初は単なるリップサービスだと思っていたのだが、小学中学高校と時を重ねていく中で、教師からも同級生からもそう言われ続け、作文コンクールの賞もよく貰っていたので、ああまあ平均よりは書けている方なんだろうな、と思うようになっていった。
誰もが面倒臭がるであろう読書感想文の課題も、面倒くさいとは思っていたが、決して苦痛ではなかった。本を読んで思ったことをそのまま書くだけだったからだ。鉛筆を持って、頭の中に出てきた文字をどんどん書いていけば、気がついたら全体のまとめに入っている。少なくとも、何を書けばいいのか分からなくて手が止まってしまう、という経験はなかった。
ただ、苦手なことが一つあった。それは、作文のタイトルを決めることだ。同級生はみんなタイトルを最初に決めてから本文に入る、もしくは最後にずぱっとすぐタイトルを決めていた。私の場合、本文を書き終えてから最後にうんうん悩んで微妙なタイトルを無理やりひねりだすのが常だった。
「書き終わった文章をざっと読んで、心の中に残った言葉をタイトルに使うといい」とアドバイスも受けたが、私の心の中に残るものは大抵さまざまな要素が複雑に組み合ったモヤモヤしたもので、一つの短い言葉に変換できるようなものではなかった。
「このタイトル、他にもっといいのがあるんじゃない?内容はいいのに」と教師から言われたことも何回かある。
そのような経験があったので、文章は書けるほうかもしれないがネーミングセンスはない人間だと自認していた。
高校に入って、初めて授業という形で文章の書き方を学ぶことになった。「まず」と授業の初めに教師が話しはじめた内容に、私は人生一番の衝撃を受けた。
教師によると、文章を書くときは、書き出す前にまず「書きたいこと」を決め、そしてどういう論理展開でどういう結末に持っていくのかも決めておくものらしい。周囲の同級生たちは全員「だよねー」という顔で頷きながら聞いており、それにも驚いた。私が今までやってきた文の書き方はなんだったんだ。
要するに、それまで私は後先考えずにその場その場、心の内にある思考や感情を原稿用紙にぶつけて文章にしてきていただけだったのだ。書きたい軸の内容を事前に決めることもしていなかった。だからタイトルもなかなかつけられなかった。
本来ならば、もっと早く、義務教育のどこかで論理が破綻しているだの筋がブレブレだのと教師から添削を受けて、直されていくべき悪癖だったのだろう。そうした癖を持つ人々の中で、自分はたまたま「まあまあの外見の文章」を書けていたから、チェックに引っかからなかっただけだった。
その授業を受けて以降、「まあまあ文章が書ける人」から「帳尻合わせがうまい人」へと自己評価が変わった。
改めて書き出してみると、本当に当たり前のことで、よく高校生になるまで気づかなかったなという感想を抱くのだが、当時の自分にとっては世界がひっくり返ったような衝撃だった。
かと言って、構成を決められるようになるわけでもなく。今でもタイトルをつけることも内容構成を事前に決めることもいまいちなままである。