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はてなキーワード: 理性的とは

2024-06-27

anond:20240625171138

スパコン事業仕分け予算削減をしてHPC分野が大いに遅れることになったみたいなのは明らかにミスリードかつ結果論で、そもそもスパコン事業問題が噴出しまくりだったので、予算削減についてはふつうに考えて合理的理性的判断だったと思う。

あと蓮舫はほぼ空気で、鬼詰めしていたのは金田評価である。その合間の「2位じゃだめなんですか」発言なので、議事録の音声を聞いたことがある人ほど蓮舫発言を「助け舟」と取るんじゃないのかな。

というのを昔書いたから読んで:https://anond.hatelabo.jp/20190904173524

2024-06-26

anond:20240625191650

「アホの文系がのさばる日本社会で不当な扱いを受けている凄腕理系エンジニアなボクちん」みたいなセルフイメージ持ってそうなチー牛をファビョらせまくる名文ですね😌

文章おかしいだのマウントされる方が悪いだの、そうやって感情的で幼稚な反応を示すばかりで理性的批判を受け止め自らを改善しようとしないから世の中で受け入れられないのだと猛省いただきたいものです😉

2024-06-20

anond:20240619133321

でもさあ、伝統的な文化価値観が人を蔑ろにしてる場合はどうするのって疑問

わかる。ほんとにそうなんだよ。元増田だけど。

世の中が保守一辺倒というのもそれはそれでどうしようもない社会だ。伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとをどうすんのと。

さすがに、公平性については、国の制度が、最低ラインとして補助線というか設計図を引かないと、いつまでも伝統的な価値かいっててもしょうがない。

ポリコレというのは、反省せよといって圧力かけるような動きよりは、むしろ制度としての公平性、機会としての公平性という観点に話を限定しておくのがいいってことかなと思っている。ジェンダー問題もそうだ。もちろん、制度機会平等を「合理的に」「理性的に」討議したとしても偏見がなくなるわけじゃない。

偏見はなくならないけど、近代が補助線として引いた制度の普及・概念進歩に伴い、ひとの意識は変わっていくだろうと期待する。

実際、それだけでよく、それ以上のことはあえてしないほうがいいのじゃないか

俺のほうがより反省してるぜ、なんならブラックフライデーだってキャンセルするぜ、とか、そういうポリコレ合戦不毛みえる。

普遍的価値を錦の御旗に、ひとはすべて進歩した価値観にもとづいて幸福を追求しなければならない、みたいなのは押しつけがましい傲慢と思う。

だけど、繰り返すけど、合理的にアウトなラインを引いておくということは大切と思うよ。

その合理的ラインあくま政府制度という視点限定しておかないと、市民社会の人々がお互いに印象だけでこれはセーフアウトということになると、声デカな奴の言ったもの勝ちになって暴走する、と。

以上は補足・蛇足だけど、前2件の記事を書いた意図は、そういう意図

ルーデンス(深慮)による対話と調整を訴えたエドモンド・バーク和解演説1775年3月22日イギリス議会下院)は彼の保守の出発点なんだけど、

バーク和解演説英語なら簡単に読めるし、増田が読んだ論文の背景にあるものから、もし興味があるならprudentというキーワードあたりを検索で拾って軽く流してみるのもお勧めします。

2024-06-19

anond:20240619202419

同意

男性が本当に理性で性欲をおさえてるなら、理性の大小と性衝動の大小が人それぞれなのを計算に入れて、緊急手段としての性欲抑制剤が必要だと訴えるはず。

下痢止めはドラッグストアにあるのに、性欲止めはネット議論するのさえ思考停止するのって理性的じゃない。

経験上、一般男性が理性で性欲を十分抑えてるってウソだと感じる。

anond:20240616124255

記事で、コロンブス問題サヨクめ!と散々書いて、当事者目線を強調しつつ最後野沢直子の回答で締めくくっていたら、

まさに現地の当事者目線で、ぐうの音も出ない解釈を目にすることになった。

先住民目線で語る、Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題 | ユロックの母

ほらみろや、と今頃、新たに手にしたポリコレ棒で気持ちよく机をバンバン叩いているに違いないと思うと、うぐぐ、な思いはあるが、この記事はとても説得力があった。

ファクトチェック全部はできないし、3割程度は陰謀論ばりのこじつけかなぁ?という印象ではあるものの、確かにそう見える、というのは、正直、とても説得力がある。

それにしても、この当事者目線というのはとても大切だと思うし、亜希ダウニングさんの他のアメリカ先住民を取り扱った記事も大変興味深いものだった。

特に、おお、と蒙を開かれたのは、感謝祭に関するアメリカ先住民視点

【感謝祭の本当の起源】ネイティブアメリカンの悲しい真実の物語とは | ユロックの母

これは考えるヒントがたくさん詰まっている記事だと思った。

ただ、これもコロンブス記事同様、3割程度はエイヤと断定してしまっている部分が少なからず見受けられ、必ずしもファクト確認できない感じではあった。

(例えば、1637年のピクォート虐殺=John Winthropマサチューセッツ植民地知事による征服祝いが感謝祭起源である、と同氏は断定しているが、アメリカ先住民よりのメディア検索しても「このピクォート族の虐殺土地を奪ったことを讃える1637年の宴が最初感謝祭であると、後に公式に決定」とまで断定しているものは見つけることはできなかった。もっと保守派よりのファクトチェックサイトでは、1637年の征服を祝福、感謝したのが感謝祭の発端とする説に「事実無根だ!」と、それこそむきになって根拠なく反論しているのもみつけたので、右派にとって、痛いところを突かれれているのだろうとは思う)

そういう面はあるものの、テーマ自体が非常に興味深い。

というのは、感謝祭という、入植したアメリカ人の原点ともいえる巡礼始祖の心温まるエピソードで、かつ「アメリカ人」というネイションとしてのアイデンティティ形成にも寄与してきた感謝祭、そして現代では商業的にもブラックフライデーなど非常に重要感謝祭が、実はアメリカ先住民視点からみると、自分たち虐殺されてきた血塗られた歴史の一コマだったというのは、ポリコレ的にどう扱うんだろうと。アメリカ先住民立場としては、感謝祭の日は喪に服す日だとして、負の歴史直視するよう求める主張も行われている、という。

これは、ポッと出てきたアニメMVなどのコンテンツと違って、ポリコレ的にあかんから、といって引っ込めるわけにはいかない。

感謝祭はそれほどまでにアメリカ文化経済社会に深く浸透している。巡礼始祖の思いというのはある意味合衆国憲法起草にも関わってくるものなので、巡礼始祖の神話をその一部であれ、修正する、というのは容易なことではない。いかキャンセルカルチャー全盛の昨今といえども、感謝祭、裏側からみれば虐殺歴史、というところに目をつぶり続ける時代はしばらくは続くだろうと思う。

からアメリカ先住民としては、感謝祭やめろ、とまではいえないが、少なくとも私たちは喪に服すよ、ということをアピールする、というところなのだろう。

問題は、自分たちアイデンティティ形成に欠かせないものキャンセルできるのかというテーマだ。

そもそも植民地主義の反省というのがアメリカのみならず、ヨーロッパ社会でもなかなか直視されないのは、それが自分たちアイデンティティに組み込まれいるからだというのは、例えばフランス植民地主義を振り返るとわかる。

例のコロンブスMVでは、類人猿音楽を教えたり文字を教えたりする場面があるが、ダウニングさん的にはネイティブアメリカン歴史最初に思い浮かぶのだろうけれども、俺はどちらかというと、未開な社会文明化する、というテーマはむしろフランス植民地政策どんぴしゃりなイメージだったりする。前記事でそんなことを書くと、そういうお前も知識ひけらかし野郎だろが、といわれるので書かなかったが。

ひとつ前の記事永井陽右氏の言葉を引いて、「外付けされた人権」という安易さを戒めるようなことを書いたんだが、外付けの元祖は実はフランス革命だ。

人権の出発点のひとつともいえるフランス革命では、当時、海を隔てたイギリスからこの革命の様子をみていたエドモンド・バークは、革命で掲げられたフランス人の新しい概念について、外付けはおろか、「発明されたもの」とまでいっている。褒めているのではない。「発明された概念」のもと、フランス革命では、反革命派が次々と断罪されている様をみたエンモンドバークは、なんでも進歩的ものが素晴らしいわけではないし、なんでも理性的判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤべえと考えた。

偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、伝統文化と結びついた自分たち偏見を生かした社会を目指すべきだ、という考えを進めた。

まり、「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な文化価値観自己実現をしたいひとだっているってことだよ。

進歩的価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。それをかつて中島みゆきは「世情」という歌のなかで、

学生運動シュプレヒコールの情景をみながら、「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」とうたった(哀しい思いをするのは学生たちに打倒される守旧派側でもあり、衰退する運動にしがみつく左翼くずれの末路でもある。あ、俺の解釈ね)。20代の頃の中島みゆき、すごいぜ。

エドモンド・バークに戻ると、彼はいわゆる、保守主義元祖みたいに言われることが多いが、フランス革命による激しいポリコレビビったというのがそもそもの出発点なのだ

教養なんて外付けだろうってブコメに★がたくさんついているが、エドモンド・バーク見方は、そういうことを少し考えるヒントになったりしないかね。

もうひとつ興味深いのは、フランス人権歴史は、実は植民地主義と深く関わっている、ということだ。

フランス革命後、自ら編み出した自由博愛平等という「人権」という概念をより普遍的価値に高めるために、文明化の推進という旗印のもと、未開社会の啓もうにいそしんだのがフランス植民地主義の大きな側面だからだ。特にフランス語の普及は博愛精神の名のもとに、当時フランス支配下においていたアフリカ地域で推進された。確か、昔読んだ本で手元になく記憶あいまいだが、当時の知識ヴィクトル・ユゴー奴隷制に反対しつつも、フランス語の普及にはむしろ賛同していた、と聞いたことがある。ユゴーではなくジャン・ピエールだったかもしれないが。いずれにしても当時の一級の知識人が植民地におけるフランス語推進の旗手だった。

こうしてユニバーサリズムの名のもとに、フランス人の精神普遍化を推し進めた、というダイナミズムがあったこと、そして、隣国保守知識からフランス革命のその後の経過は「発明された概念」による野蛮なポリコレとして映じていたりしていたことは、「人権普遍的もの」として習ってきた学生が、次のステップとして教養として知っておいてもいいことだと思っている。

人権の普及と植民地支配が地続きであるというのは、フランス社会での植民地支配への反省の足かせになってきただろう。それは博愛友愛ポリコレ的に言い換えても同じことだと思える。

これはある意味で、感謝祭国民意識の醸成に関わってきたことと、その負の側面を直視しにくいアメリカの状況と、状況は異なるが、抱えている課題共通する。

昨今のコロンブスMV叩きについて、得体の知れない違和感を覚えるひとは、俺も含めてなんだが、恐らくどちらかというと、人権普遍化のプロセス進歩主義)と植民地主義が一心同体というところに気持ちの悪い類似性をうすうす見出せるのではないかと思う。エドモンド・バークほどはっきりと「人権よりむしろ偏見のほうが大事!」と180度振り切るまではいかなくとも、正しさのもつ禍々しさを何か表現できないかというモヤモヤがあるはずだ。

自らの存立基盤をポリコレ的に正す究極が革命というものだとすれば、それに対する警戒感というのは埋もれてはならないものだと思う。

そういうモヤモヤは大切にしてほしいし、アメリカ先住民立場からみたらやっぱり、という記事を見つけたとしても、そこまで確信をもって解釈できなかったし、寄り添えない、という部分は残しておきたいと思う。それに対して「貴様アメリカ先住民の心情をないがしろにする気か」という反応は、ある意味表現自由の乏しかった80年前の戦時中に、「兵隊さんご苦労さん」といって国民を一斉に同調させたダイナミズムとよく似てくる。大東亜共栄圏思想は、欧米帝国主義アジア諸国文化経済搾取し、独立を妨げているという考えから出発している。何が正しいかについて翌々考えず、適当ポリコレ棒を拾って叩いていると知らず知らずのうちに、みなが操られた正義に踊らされてしまうというのは危機感としてもっていい。

記事感謝祭トリビアは、そういう意味で、考えるヒントがけっこう詰まっていると思った。

2024-06-18

anond:20240618191707

しろいろんな人と理性的対話して「本当に正しいこととはなにか?」ってことを考えていくことこそがリベラリズムの真髄であると思うんだけどな…

なんかやたらひとりよがり自称リベラルかいるよね。

anond:20240617230419

コロンブス」にそれはあったか炎上してすぐ引っ込めたことも含め、私はあったというのは苦しいと思う。

こういうのが一番きったねえとおもう

意図説明なんかされても納得もしないし引っ込みもつかないでしょ?

炎上させる奴らってそんなに頭よくも理性的でもないじゃん

炎上させたことが間違いだったなんてなればプライドのために一層むきになって攻撃が長引くに決まってる

炎上したらパッと引っ込めてその話に触れないのが一番

もうクレーマー対策なんか完成されてるってだけのこと

anond:20240617221705

話し合いとかじゃねーんだよセックスは!!

「話し合って今後はしないことを約束した」とかじゃねーんだよ!!

本能なんだよ!動物になれよ!

理性的な態度でセックス続けるとか、無理だから!!

理性と話し合いを重視した人間的な姿勢と、セックスをしたくなる、

メスが抱かれたくなるような動物的な姿勢

根本的に相反してるんだよ。

推しが弱すぎる姿勢がオスとしての性的魅力が弱く見えるんだよ!!

お前に性的魅力を感じないことをうまく言語化できないから話し合うと顔が暗くなるんだよ

「俺に性的魅力を感じてくれない?」て話し合いでできると思うか?

できるわけ!!!!!ねーだろ!!!!!

カウンセラーだってそんなことはぜっていにできんと断言する!!

お前の体と行動で感じさせるんだよ!!性的魅力を!!!

2024-06-17

anond:20240616124255

長いので要約すると

 

——————————-

キャンセルカルチャーは、内面的な倫理に基づかず表面的な知識依存するため、自己満足に過ぎないことが多い。無知な者攻撃し「正しい側」に立つことで安全地帯にいる感覚を得るが、それは理性的正義ではなく感情的共感に基づくものだ。外付けされた倫理人権意識は暴発しやすく、実際の問題解決には繋がらない。社会では、表現の自由が失われると簡単プロパガンダに流されやすくなる。倫理教養は、その背景を深く理解し、自分の生きる社会でどう受容するかが重要だ。キャンセルカルチャーに参加する者は一時的な満足感を得るが、根本的な理解解決には至らない。

——————————-

 

もっともだと思う点もありつつ、では「キャンセルに抗議する側が、感情論ではなく知性とロジックにおいて議論できるのか」「抗議する側が倫理教養の背景を深く理解し、その原理において受容しているのか」という点は疑問だわね

2024-06-16

anond:20240613203515

追記)ユロックの母さんの記事面白かったので続きを書いた。

https://anond.hatelabo.jp/20240619014605

本文)

キャンセルカルチャー問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。

どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものからキャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。

まり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。

その程度の教養正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャン謝罪に追い込む社会なわけだね。

かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的正義感情的正義区別し、自分のことでもないくせに感情的共感によって主語がでかくなるのが感情的正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。

もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、

共感にあらがえ - 内田樹の研究室

のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。

増田へのレスなかに

コロンブスナポレオン他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw

というのがあるね。

正直、なんとも思わないねというのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省まり

俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないもの批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判内面化されていないわ。

そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。

しろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆハチマキをした類人猿兵士を抱きかかえる類人猿兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍兵士連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。

類人猿ベートーヴェン指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。

そう、まさに「つまり解釈余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。

rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。

Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments


もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権歴史教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。

https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301

みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。

しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に歴史修正主義というドイツで使われた文脈言葉安易日本南京虐殺否定文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。

俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史文脈のなかで生まれ言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか教養」として普遍化するなかで、その歴史固有性が失われ、あたかハンディ批判ツールになり下がることだった。

村上春樹2009年、イスラエル文学賞を受賞したときはてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯意味するとまで言った人もいた。そのとき村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹言葉のほうがよっぽど覚悟必要だ。それでも村上春樹攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。

追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。

???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。 - tick2tack のブックマーク / はてなブックマーク

tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。

すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれ修正主義はその後、ソ連中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。

まり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態からな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。

(/追記2)

お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史知識開陳する態度。

てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。

サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。


言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹文章

そのなかで対談相手永井陽右氏は次のようにいう。

永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います大学1、2年の頃、大学平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。

じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います

「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。

そういう義憤の正体って何だろう。

最近朝日新聞人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者コメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。

[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン

元の人生相談とその回答はこちら。

https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA

不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性相談

個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから

これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。

新聞で得た世界出来事いか正義言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。

現場にくると世界は反対側からみえることもある。

かつて、北アフリカスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺国際問題となったことがある。

日本ブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。

最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域仕事上関与するようになってからスーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブダルフールキャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。

それは当時のバシール大統領断罪をはじめ、現地武装組織悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカNGOキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争実態はもう終わっているにも関わらず紛争継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGO広告費に回っているという話まで聞いた。

正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。

弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。

今、現在スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争ときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいか危機的かがわかる。

しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトトルコスーダン国軍支援アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的顧客武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争様相を呈している。





ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義歴史を知るとか、外付けの倫理いか理解しているかという意味ではない。

普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本である自分自身いかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。

そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。

表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍価値から、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。

なぜアメリカ判事歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。

なぜドイツではホロコースト否定表現の自由に当たらないのか。日本公共の福祉解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会文脈がある。少なくとも自分社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的共感というものだと思う。

少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。

表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義ますます膨れ上がるだろう。

表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単プロパガンダ誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。

MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員不倫していたことをネタ糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。本格的な右派政党が台頭したらそいつらを味方につけるだろう。不謹慎厨の本質正義の中身を大して気にしてないことだ。日本中が沖縄を踏みつけにしても気にしないが、よその国の自分とさして関わりのない先住民のことは気に掛けるふりができる。

世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMV植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。

サヨク知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。

朝日新聞人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端ポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。

2024-06-09

ミクロ経済学(?)の、人間が取る行動は全て合理的であるっていう前提は無理があるだろと思ってたけど、最近になって割としっくり来た。

今までは合理的という概念をふわっと捉えていて、なんかこう社会規範美徳等も含め)を基準として物事序列化しつつ、個人的な快不快だとかの定性的な要素は全無視した上で、定量的な部分だけ見て考えた損得を最大化するような、いわゆる理性的だとか「生産的」とでも呼ばれるような態度を合理的ものと思ってた。

でも突き詰めて考えていくと、その重大な諸々の前提を成り立たせる揺るぎない要素なんかどこにもない。

であれば「合理性」は普遍的な前提・目標に対する普遍的ものじゃなく、個々人が持つ行動原理に対するものだと考えるのがよさそうだ。その目に見えない行動原理を最も明らかに描き出すのは原理に応じた結果として出力される選択肢な訳だから、逆説的に全ての行動は合理的だと考えるのはもっともだ。

プロ棋士になりたいと言っている人間将棋ルールすら知らなかったとする。少なくとも外部からは、目標実現に向けた努力の(面倒臭さのような精神的なものを含めた)諸コストが実現への願望を上回るような力関係で行動原理存在していると判断されるはずで、つまり合理的な行動だとみなされるはずだ。

本当は努力を避ける事で浮いた精神快楽なんかよりも、目標達成によって期待される快楽を優先したい。これは矛盾した状況であって、非合理的選択に甘んじてしまっているんだ。プロ棋士になりたい気持ちは本物なんだ。

そんな風にたとえ本人の中で認め難いものがあっても、客観的にそう捉えられる事はなさそうだ。

でも個人の行動原理といえど常に一定基準を示す訳でもないだろうし、同一人物ですらやっぱり同じ基準での合理性で考えるのは難しい気がする。

気分による変動なんかザラで、そうでなけりゃ人間自分基準に基づいて最も快楽をもたらす同じ音楽を常に聴き続け、同じ映画を常に見続けはずだし。

状況に応じて都合よく基準を反復横跳びさせる事だってあると思う。

まあでも瞬間瞬間においては常に合理的選択を取って居るんだとは思う。

2024-06-08

anond:20240607143200

言い方は悪いけど嫁は学歴高い(頭が良い)ですか?

昔は学歴なんて関係ないと思ってたけど、

似たような状況(白黒思考他責思考感情的になって解決に向かわない言い合い、罵詈雑言)で

頭の良い人ならこうはなってないのかなって思うようになった。

頭の良い人なら理性的論理的でこうはならないのかなって、どうなんだろう。

少子化の原因はまぎれもなく男

まず大前提として、どれだけ理性的論理的な女でも「出産」という行為を前には野生動物に戻る。

強いオス(集落の中でのヒエラルキーが上のオス)の子供以外は産みたくないと考えるのが女という生き物。


強いオスかどうかは、時と場合によって

・力強さ

容姿

・知能

年収

コミュ力

技術

独創性

など色々な能力判断されるけど、基本は「他のオスにも舐められないオス」じゃないと、子供を産む気にならないのがメスの本能

この本能は変えられない。可愛い子の裸を見ると勃起する男と同じ。


昔は男同士で力比べをして、女のお眼鏡に叶う男になろうとみんなが努力したり

あるいは女の行動を制限したりして、子孫繁栄できるような仕組みを上手く作ってたりしたが

現代社会では軟弱な男が増え、さらフェミニズムがはびこり女を甘やかした結果、

女にとっての「強いオス」が減って、今こんな状況になってるわけだ。


これで女が変わればよかったけど、残念ながら女の本能は変わらないので、

未だに「強いオス」を求めた上昇婚か、ヤリチンによるシングルマザー量産くらいしか子供を産む手立てが残ってない。


結局女を変えようとしても無駄なので、男の方を変えるしかない。

2024-06-06

ノットオールメン」は通用しない

「息子を持つ親は息子を性犯罪者予備軍だと思って育てるべきだ」」という主張が盛んになされている。

それで思い出したのだが、経験上あれはあんまり楽しくない。

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俺の母親は当時としてはかなり「先進的」な思想を持っている人だった。

SNSなどない俺の幼少期、彼女は既にミサンドリーを体得しノットオールメンを否定する段階にも到達しており、

息子である俺を「お前も女を見下してるんだろう」とか「男さんは理性的から失敗しないんじゃなかったのか」みたいな事を言って悔い改めよとシバきまくって育てたのだが、

ぶっちゃけ一つも身に覚えがない事だし思った事すらない事なので、普通に辛かったしそうした事で謝罪させられたりするのはまるで納得がいなかった。

しかし俺がどんなに違うと言って泣き叫んでも母は信じてはくれなかったので俺は毎日シバかれて枕を涙で濡らしていた(弱者男性)。

かに俺は「女はバカだ」とか「男は理性的から失敗しない」みたいな主張は今日でもしていないけど、それは元々俺はそういう事を思わないタイプだったからというだけで、普通ならむしろ復讐心に駆られてミソジニストになった可能性の方が高いと思う。

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こんな話をすると「要求しているのはそんなシバきなどではなく、加害者なのだ自覚させるだけでいい」という声が聞こえてきそうではある。

しかし(いじめ虐待全般がそうで、今の𝕏ミサンドリストの汚言症なんかを見るとわかりやすいが)躾と称して難癖をつけて裁く行為はかなり気持ちいいので中毒性があり、適量でコントロールするのは難しい。

とりわけ母親が息子を「男」という属性に基づいて「お前は犯罪者予備軍だから戒められねばならないのだ」と教えていく行為は、その属性自分と重ならず悪魔可能なだけに、ストレスなどの要因ですぐに「お前の今日の振る舞いは性犯罪者の気配があったから罰されねばならないのだ」に派生するし、

子供にとって納得できない言いがかりであっても、親子の力関係では抵抗できないので結局それは無限エスカレートしていき、最終的に本人なり親子関係なりに修復不可能ダメージが入る事になる。

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「ムチュコタン特別扱いするな」という主張も盛んではあるが、俺を特別扱いせず忠実に主義に基づいて裁いた母親は完全に言いがかりをつけるモラハラクソ女であり、その息子である俺も普通にモラハラクソ野郎ではあるし、そのモラハラロールの学習元は明らかに母親だったので、やはり親はある程度子供特別扱いした方がいいと思う。

そもそも大抵の母親自分の娘を特別扱いしており、いじめ被害者になる心配はしていても加害者になる心配など殆どしていない──少なくとも「お前は加害者予備軍だ自覚しろ」などと教えて育てはしないではないか

2024-06-05

anond:20240605153620

いーや、お前より若いけど大人が頼りなく見える

z世代の方がよほど理性的な時あるし

2024-06-04

[]靖国神社への落書き 中国政府理性的表現するよう注意」

中国外務省の3日の記者会見では、靖国神社石柱への落書きや尿をかけるような行為めぐり

記者から中国人海外でどう振る舞うべきか」と質問が出ました。



これに対し、毛寧報道官靖国神社について「日本軍国主義が発動した対外侵略戦争精神的道具とシンボルだ」と非難する一方、

外国にいる中国国民が現地の法律法規を遵守し、理性的要求表現するよう改めて注意する」と述べ、不適切な行動を控えるよう呼びかけました。

2024-06-01

anond:20240601110639

マジメな話、語源エロ差別だとしてなんか問題ってあるの?

女子高生を「JK」と略すのがエロ由来だとか気にしてる人なんて言葉狩り気持ちよくなってる異常者だけじゃない?

元がなんであれば便利なら使うのが理性的な態度でしょ。

そういえばインターネットって人殺しの道具として生まれたらしいけど、そんなの使って君の心は傷まないのかい

anond:20240601002155

結果だけ理性的に見たら、彼氏のした事は全く正しくないです。

彼氏自己満足な行動によってその子供は泣けば何とかなるという成功体験を積み、親は周りの人が何とかしてくれるという甘さを得ました。

女だったら若くとも子供の将来の事まで考えてるのが普通なんだよなー。

その場しのぎの自己満足を見て、結果だけ理性的に見て正しいなんて思わないと思う。

男の成り済ましだとしたら馬脚現してんねーって感じ。

彼氏が正しすぎて別れたことある

anond:20240531110922

これを読んで昔の彼氏のことを思い出したのでちょっと書く。この増田の話と私の話が同じとか言うつもりはない思い出しの書き散らしだ。

私の元彼優先席でなくても電車でお年寄り子供連れを見つけたら速攻で立って譲るとか、ゲームセンターで取れたぬいぐるみ子供にあげるとか、街中で迷ってるぽい人がいたら声かけて道案内するとか、お年寄り荷物持ってあげるとか、フィクション登場人物か?ってくらい人助けをする人で、それは別にデート中とか関係なく行われる超正しい人であった。そういうところが好きだったんだけど、そういうところが原因で別れた。

ひとつのことが原因というより積み重ねだったのだけれど、一番決定的だったのは彼と私が好きだったキャラクターショップ限定商品を求めて並んだときのことだ。この手の行列にしては短いのかもしれないけど、一時間半くらい外で並んで整理券を手に入れた。一人一枚なので彼と私で二枚。

記載時間までかなり時間があるからどうしようか、って歩いているところで整理券が終了したこと店員に告げられて泣いている子供と慌てている親がいた。正直に言って超嫌な予感がした。案の定彼氏はその場で店員に一枚で親子が入れるか確認したうえで自分の分の整理券を譲った。二人分の個数制限分ほど買わないからこれでいいよね、外で待ってるから俺の欲しいものもお願い、と言われた。

彼氏の行動は今考えても間違ってはいないと思う。一人分の購入制限で欲しいものは足りるのも、子供がメインターゲットに含まれているようなコンテンツだったので、子供を優先する態度を取るのも正しい。

でも綺麗にかわいくラッピングされたりオブジェが置かれた店内を一人で回って、なんで私は今これを一人で見ていて、かわいい素敵だなって彼氏と言い合えていないんだろう?と思った。それを彼氏に伝えた。でも子供優先じゃん。俺が見られなくても、その分あの子たちは楽しんだと思うからよかったよと言われた。喧嘩した。たぶん幻滅された。別れた。

よく女は感情(笑)って言うけど、そうなんだろうなーと思う。結果だけ理性的に見れば、彼氏の行動は超正しい。むしろ利益を生み出している。私たちは欲しいものを全て買うことができた。譲られた親子も欲しいものを買うことができただろう。私が一緒に店内を見たかったとか、買い物がしたかったっていうのは感情の話だ。彼氏にとってその感情他人のために我慢できる範囲であった。皮肉でもなんでもなく素敵な価値観だと思う。

でも私はそうなれないなと思った。テーマパークで一日遊んだあと、足が痛くて疲れてるのに優先席でもない席でお年寄りに席を譲れるほど、美味しそうって事前に言ってたのに後ろの人が食べたがってるからってビュッフェで残り少ないケーキ我慢できるほど、頑張って朝から並んで手に入れた整理券を知らない子供に譲れちゃうほど、他人のために我慢できないのである。それが当たり前だって言えない。

彼氏は当然私にもその飛び抜けた善性を期待するが、私は利己的な人間のため、電車を一本見送ったら座りたいし、自分の順で食べられるものは食べたいし、ゲームセンターで二人でとったぬいぐるみは思い出に持って帰りたかったし、朝から並んだら一緒に店内を見て回りたい。それも伝えたがわかりあえず、私は彼氏の当たり前の基準値の高さについていけなかった。

たぶん人によって他人のためにどこまでリソースを払えるか、損を許容できるかってちがって、それがずば抜けて広い人と私みたいな狭いカスが付き合うと破綻する。

私はおばあちゃんの迎えが来るまで待ちながらイライラしてしまった彼女さんの気持ちがわかってしまう。好きな相手との初めてのデートで、二人で楽しく過ごす時間というリソースがどんどん他人のために払われていくことが辛くて、辛く思ってしま自分の心の狭さを感じてさらに辛くなったのだと思う。私もそうだった。聖人カスは付き合えない。

2024-05-29

anond:20240528193933

男女とも典型的な状況にしか見えんのだが……別れろとか煽り散らす人らってマジで言ってるん?


そもそも指輪刻印入れ」イベントなんて所詮宝石屋の仕掛けに過ぎなくて、社会的結婚必要不可欠な手続きでもなんでもないよね。それを「人生一度きりのイベント」とまで思い込んじゃうのもちょっとおかしいし、ましてそれが体調の都合で延期せざるを得なかったというだけの(これも必然・不可避の)出来事を、さも自己尊厳に関わるように語ってしまうこと自体、端から見ると「何言ってんだろ」案件なわけだよ。でも、大体の人はそれに対して同情を示したりもする。俺もそうだよ。なぜって、そういうのって典型的マリッジブルーの症状だからだ。

結婚前は、たとえ同棲期間が長かろうがなんだろうが、多かれ少なかれ不安になる。もともとそういう気質を抱えているならなおさらだろうけど、こんなことで悲観的になってる増田自身も含めて、「果たして結婚して大丈夫なんだろうか」と不安になるのは、ごく一般的な心情だ。それは、体調に現れたり心境にあらわれたり、言いようのない不安だとか、訳の分からない衝動だとか、現れ方は様々だけど、共通するのは「今まで感じたことが無いような、抑えきれない、結婚に対するネガティブイメージが押し寄せてきた結果としての行動」である点だ。不機嫌になったりわがまま言い出したりパートナーに冷淡になったり、なんなら不安から逃げだそうとして別の異性に目が向いたり……みたいなことまで含めて、世間でざらにある話だ。俺自身も、「まさか自分がそんなことにはならねー」って思ってたけど、まあ婚約結婚中間地点過ぎたあたりで見事になった。仕事柄、気分に左右されて行動することがないように心がけて生きてる人間だけど、その期間の自分思考とか行動とか、振り返れば全然理性的ではなかった。以来、10年以上経って振り返って思う

そんで、それらは全て「結婚というものを、真面目に、真剣に考えているから」起きることなんだ。

たとえば、受験したことあるなら、そんな時期に家族イライラしたり当たったりわがまま言ったり一人になりたくなったり、果ては普段しないような趣味とかしたくなったりしたことあるんじゃないだろうか。でもって、大学とか合格した後は訳の分からないはっちゃけ方したりしたこともあるのでは? それと同じだよ。人生の行く手に、まだ体験したことの無い、しかも今後の人生を左右し大きな責任を伴う出来事存在するというプレッシャーは、大抵の人を少しおかしくさせる。とはいえ、そんなのは大抵の場合一過性の症状なんだ。

から、そんなのに浮かされて人生大事決断をするのは、あまりおすすめできない。なんといっても、今このときを過ぎた「普通」の状態人生の方が長いわけなのだから。なんというかみんな、ネットで極論書いていけないわけじゃないよ。ただ、人の人生に口出ししようとするなら、もう少し慎重であってもいいんじゃないかと思うんだ。

anond:20240528193933

男女とも典型的な状況にしか見えんのだが……別れろとか煽り散らす人らってマジで言ってるん?


そもそも指輪刻印入れ」イベントなんて所詮宝石屋の仕掛けに過ぎなくて、社会的結婚必要不可欠な手続きでもなんでもないよね。それを「人生一度きりのイベント」とまで思い込んじゃうのもちょっとおかしいし、ましてそれが体調の都合で延期せざるを得なかったというだけの(これも必然・不可避の)出来事を、さも自己尊厳に関わるように語ってしまうこと自体、端から見ると「何言ってんだろ」案件なわけだよ。でも、大体の人はそれに対して同情を示したりもする。俺もそうだよ。なぜって、そういうのって典型的マリッジブルーの症状だからだ。

結婚前は、たとえ同棲期間が長かろうがなんだろうが、多かれ少なかれ不安になる。もともとそういう気質を抱えているならなおさらだろうけど、こんなことで悲観的になってる増田自身も含めて、「果たして結婚して大丈夫なんだろうか」と不安になるのは、ごく一般的な心情だ。それは、体調に現れたり心境にあらわれたり、言いようのない不安だとか、訳の分からない衝動だとか、現れ方は様々だけど、共通するのは「今まで感じたことが無いような、抑えきれない、結婚に対するネガティブイメージが押し寄せてきた結果としての行動」である点だ。不機嫌になったりわがまま言い出したりパートナーに冷淡になったり、なんなら不安から逃げだそうとして別の異性に目が向いたり……みたいなことまで含めて、世間でざらにある話だ。俺自身も、「まさか自分がそんなことにはならねー」って思ってたけど、まあ婚約結婚中間地点過ぎたあたりで見事になった。仕事柄、気分に左右されて行動することがないように心がけて生きてる人間だけど、その期間の自分思考とか行動とか、振り返れば全然理性的ではなかった。以来、10年以上経って振り返って思う

そんで、それらは全て「結婚というものを、真面目に、真剣に考えているから」起きることなんだ。

たとえば、受験したことあるなら、そんな時期に家族イライラしたり当たったりわがまま言ったり一人になりたくなったり、果ては普段しないような趣味とかしたくなったりしたことあるんじゃないだろうか。でもって、大学とか合格した後は訳の分からないはっちゃけ方したりしたこともあるのでは? それと同じだよ。人生の行く手に、まだ体験したことの無い、しかも今後の人生を左右し大きな責任を伴う出来事存在するというプレッシャーは、大抵の人を少しおかしくさせる。とはいえ、そんなのは大抵の場合一過性の症状なんだ。

から、そんなのに浮かされて人生大事決断をするのは、あまりおすすめできない。なんといっても、今このときを過ぎた「普通」の状態人生の方が長いわけなのだから。なんというかみんな、ネットで極論書いていけないわけじゃないよ。ただ、人の人生に口出ししようとするなら、もう少し慎重であってもいいんじゃないかと思うんだ。

2024-05-28

anond:20240528160457

感情的な人」の閾値をどこに設定するかの話でしかない

感情的な度合いを1から100に区分するとして

男性100人が1から100にひとりずつ、

女性は41〜60に5人ずついるとすると

平均値は同じぐらい

 

感情的な人」を「極端に感情的な人」と解釈して81以上に設定すると女性は0で男性20となる

「成人は常に理性的であるべし」として41に設定すると男性感情的でない人が40人いるが女性100人全員が感情的ということになる

anond:20240528155914

男性は極端に理性的な層と極端に感情的な層に分かれ、女性はその中間位置している。

学校の成績でも同じ傾向がある。最優秀層と最劣等層は男性女性はその中間が多い。

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