はてなキーワード: 曲解とは
(前part)
https://anond.hatelabo.jp/20231213191557
直情的なタイプだった。怒りだろうと悲しみだろうと、感情の振れ幅が大きいタイプである。
最初の方で説明した場面で、職場のコピー機が置いてある台を蹴っていたのが彼になる。傍目から見ても、「どうして採用されたのだろう……」と疑問が湧いてくるほどだった。
ストレスには耐えられないし、自分勝手なスタンドプレーは多いし、立場が弱い人間には辛く当たるし、自分は凄いといった主張をしていた(「俺の親、若くして自治会長だから!!」など)。相手の意見を曲解することが多かった。
私も手痛い思いをしたことがある。私がいた指導課には住民基本台帳ネットワークシステム(戸籍課や税務課の職員が使っているものと同じ)があったのだが、B君は特に許諾もなくそれを操作し、職務遂行に必要な個人情報を入手していた。本来であれば事前申請を要するし、厳しい自治体だと戸籍課以外の職員によるシステム操作を認めない。これが普通である。
ただ、ほかの部署から個人情報取得の依頼があった場合でも、身内だからということで、口頭による承認で住基システムを使わせることはあった(課員への一言)。能率を考えてのことだ。が、B君の場合は明らかに一線を超えていた。職務遂行に必要であることがわかるが……一度だけ、彼を思い切り叱り飛ばしたことがある。以降は、口頭で課員の承認を得てからシステムを使うよう徹底させた。
ところで、あなたの職場にもいるのではないか? 仕事でも家庭でも趣味でも、何でもいい。ストレスで精神的に潰れかけた人間の姿である。B君は、元々コミュニケーション能力に難があった。いわゆる話がわからないタイプだった。
残業も多かった。指導課や学事課の教員出身者と同程度と仮定すると、おそらく月60h~70h程度か。彼の上司は「仕事をたくさん振っていないのに……なぜ?」というスタンスだった。
市職員の場合は、予算がある限り時間外勤務手当が支給されるという。私が若い頃だと、時間外勤務をしていないのに、予算消化のために闇残業を認めるという慣習があったほどだ。
教員出身者の場合は、月20hまで支給されていた。学校現場から教育事務職に移った者にとって、長時間労働やサービス残業は避けて通れない。この試練があるからこそ、一定の基準に達した教育人材を育成することができている。
人は光を求める。そして、その光の見える方向へ動いていく。教職員にとっては、教育に関する哲学、という光を見出すための修行の場こそが教育委員会である。量・質ともに圧倒的なレベルでの修行。厳しい体験を幾度となく積み重ねるから人格や能力が磨かれ、玉になっていく。
さて、彼の上司はB君を徹底指導して残業縮減に務めた。だが結果は出ない。残業縮減の効果は僅かだった。ところで、B君の場合は学校歴がよかった。地元の名門公立高校を卒業して、大学も相応のところを出ていた。地元的には血筋もいい。それが採用に繋がったのだろう。
縁故が悪いか? といえば時と場合による。一概に悪いとは言えない(ex.公共の学童クラブの指導員は、その多くがスカウトである。特に、男性の場合はほぼ100%だ)。教職員の採用試験においても、学科・面接試験の点数以外で、非公式に評価すべき点というのは確かにある。
行政一般事務の職員のことはよく知らないが、彼らと仕事をしていると、確かに地元において血筋がいいとされる人に仕事のできる人が多かった。※主観的な統計である。
高等学校の入学試験ですらそうだ。学科試験以外で評価される要素がある。内申点などは、その典型である。本人の人柄や人格、学習態度や常識力、社会への順応性が点数化される。内申点以外にも、+-の評価がされる要素も一応はある。
プラス評価の例としては……今では絶滅した慣習であるが、昔は公立校でも縁故による入学があった。とある高等学校の名門運動部などが、どうしても○△中学校のあの子がほしいという場合、事前に保護者・児童や中学校側と話をつけておく。かくして3者が合意に至った場合、入試前に合格が決まっていた。内申点は中三期を満点にするなどして対応する。
マイナス評価の例としては……生活習慣だろうか。公立高校の入学試験の基本は、学科試験+内申点の合計で決まる。とはいえ、点数に関わりなく不合格になるケースもある。こちらは犯罪行為であるとか、補導されるのを繰り返したとか、入学試験の際に相当奇抜なことをしない限りは関係ない。
ただ、その子が合格基準点に達していた場合でも、入学試験の要綱要領に定めのある範囲で不合格になることはありうる。欠席数が極端に多かったり、在学中に異常な行動を繰り返したなどが内申書に書いてある場合だ。学校教育とはいえ、高校側も不用なリスクを取りたくない。名門とされる公立高校に問題児が少ない理由のひとつである。
B君の話に戻ろう。その年の夏頃に聞いたところだと、どうやら事件を起こしたらしい。
梅雨が明けた頃に、霞が関の新卒キャリア官僚が研修にやってきたという。T区の各部署を廻って地方行政の実務を学習するのだ。T区は、その年の中央省庁の研修先のひとつに選ばれていた。
キャリア官僚達は、ごく普通にT区の歴史や成り立ちを勉強して、地方行政の実務を視察して、心ばかりの現場仕事をこなして、一週間ほどで霞が関に帰る――はずだった。
最後の日に行われた交流会(飲み会)で、B君はやってしまった。喫煙所のよもやま話で聞いたところだと、以下の流れだ。
ex.研修先部署の部長の肩に手を置く、女性職員の体に何度も触る、別省庁のキャリア官僚に「ぶっ殺す」と発言するなど
③国交省キャリアが「お前の区の国庫補助金ゼロにするからな」と言ったところで、B君がキャリア官僚を蹴り飛ばし、馬乗りになる
④ほかのキャリア官僚とB君の部署の係長が、彼を羽交い絞めにして止めた
……気持ちはわかる。侮辱されて悔しかったのだろう。だが、いくら何を言われようと、暴力だけは駄目だ。確かに、若手官僚の場合、調子に乗っている者は一定数いる。子どもの頃から勉強に勉強を重ねてきた自負があるとともに、仕事では自分の親ほどの年代から神輿を担がれるような扱いを受けるのだから。調子に乗るのも当然である(上に出てきた国交省キャリアは東京大学卒だった)。
かくいう私自身も、文部科学省の事業査定担当官であるとか、会計検査院の検査官から相当辛辣なことを言われたことがある。だが、怒りの感情に囚われてはいけない。駄目なのだ。
人間はいかなる状況の下においても、自己の衝動をそのまま表に出してはならないし、出すべきでもないし、さらに言えば、出したいとも思わない、という主張はまったくの真実であり、妥当な見解であると私は考える。衝動は制御することができるし、制御しなければならない。それは現実の要請というだけでなく、一人の個人としてのまとまりや一貫性および価値観の要請でもある。突き詰めて考えるならば、人生には実存的葛藤や解決不能な問題、さらには、あることのためには別の何かを諦めなければならないというような状況が数多く存在しているのだ。こうした状況こそ、人間が生きる上での本質的条件となっているのである。何らかの葛藤が常につきまとい、ある方向へ進もうとすれば別の道を諦めざるをえない。人間はこうした状況に苦悶しつつ、自己を制御しながら生きていかなければならないのだ。 完全なる経営(2001) A.H.マズロー (著), 大川 修二 (翻訳) P.295
私とB君が教委事務局で一緒だったのは一年だった。その年は、社会教育課にとって厳しい年だったらしく、彼は相当追い詰められていた。年度末の三月時点では、まるで50代のごとく自分が思ったことを脊髄反射で口に出すようになっていた。
声をかけようか、とも思った。あまりに辛そうだったからだ。係長も課長も、彼を見放しているところがあった。どれだけ残業が積み重なろうと、仲間によるフォローを呼び掛けたりはしなかったし、むしろ失敗に対して反省文を書かせていた。
B君は、口に出すのが憚られるほど救いようがなかった。もし、上司や仲間にとって彼が『かわいい奴』だったら、こんな事態にはなっていない。彼は、実際に不良な人間だった。職場の仲間から非人格的な言動を咎められるのはまだいい方で、はっきりいって見捨てられていた。自業自得だった。
しかし、やはり可哀想に感じることがあって、廊下をすれ違う時やトイレなどで「元気?」「今日は温かいね」「辛くないですか」など声をかけることがあった。
それから、彼がどうなったかというと、真相を確かめたわけではないのだが……私が定年になる前に退職したらしい。別の部署に異動しても活躍できず、しかしながら、何の因果だろうか――霞が関への出向を命じられたという。省庁までは不明。
本来名誉であるはずだが、その出向期間中に退職を申し出たということだ。もしや、生贄型の出向だったのだろうか?
現代社会において、感情が表に出るタイプの人間はしんどいのだと思う。彼が今、どうしているかはわからない。ほどほど幸せにやっていることを祈っている。
先ほどの2.3.でいうところの係長にあたる人物だ。この人は、冷血漢と呼ぶにふさわしい人間だった。サイコパスとは書いたが、私は臨床心理学の碩学ではない。仕事熱心で、結果を求めるタイプだったのかもしれない。目的のためであれば何でもする人だった。思い出してみる。
例としては、部下の叱責だ。普段は物静かで、部下の相談や報告を聞いている。が、一定レベルの何かに触れると怒号を発する。
C係長「お前、こないだできるっていったよな!」
若手部下「すいません」
「なんでできねーんだよ」
「……なんとかします」
「言ったな? じゃあしろよ。今週末までだ」
※部下ができなかった場合は、定時を過ぎても何十分でも説教していた。そして、できるまで残業をさせる。
後は、イベントだろうか。市区町村においてイベントを主催する部署はいくつかあるが、教委事務局もそのひとつである。教育○○大会などの厳かな発表会もあれば、○○総合フェアなど若い人や家族連れが多く集まる文化的なものもある。
さて、そのT区にとっての○○総合フェアの時だった。毎年過ごしやすい季節に、とある大公園で実施されるのだが、50以上もの出店が立ち並ぶ大イベントだった。
その年のイベントは、残念ながら雨天だった。初日は少雨で済んだものの、翌日以降の天気は崩れる可能性が高い。社会教育課は、教育総務課・指導課と並んでイベント主管課のひとつだった。
その初日の、夕方~夜にかけてのことだった。教育長を始めとする幹部級職員が現地に残って、明日以降の対応を話し合っていた(ほかの教委スタッフは全員帰っていた)。主な論点は次のとおりである。
□ イベント会場は維持できるのか?
上記3点のうち、2点目がなかなか結論に至らなかった。イベント会場には、テントも備品も野外展示物も並んでいる。風雨によって損傷する可能性があった。そして、2点目の解決手段を提示したのがC係長だった。
彼は、「業務委託している会場警備員がいるでしょう。数十人。彼らにやらせましょう。折り畳み式テント(※鉄パイプではない)の屋根を低くする作業や、野外展示物の収納もです」といったことを述べた。
私は「それは契約内容に入っているのですか?」とC係長に問うた。すると、彼は「緊急事態です。契約内容にあろうがなかろうが、現場の指示に従ってもらわないと」と言っていた。
教育局長は「後で問題にならないか?」と聞いたが、「私の責任で収めます」と彼は返した。教育長に「本当にできるんだな?」と聞かれると、「問題ありません。警備の発注は当課です」と返していた。ここから先はうろ覚えだが、C係長は警備会社の現場責任者と交渉を始めた。
夜7時頃だったか。私がトイレに行く途中で、社会教育課長とC係長、警備会社がロビーで交渉しているのを見た。当然ながら、相手方は渋い反応だった。
私はそのままトイレに行って、また帰り際にロビーを通りかかったところ、「契約切るぞ。ええんか!?」というC係長の声が聞こえた。この人は、気分が高まると大体こうなる。
以下、会話を手帳にメモしているわけではない。思い返してはいるが、やはりうろ覚えである。
「切るといっても来年からね。今年はもう契約してるし。来年は、こちらの権限でほかの警備会社と契約します。それでいいなら、あなたの判断で断ってください。テントの作業OKなら、これから私の責任で指示しますが」
「いや、でも。ちょっとの量じゃないでしょ? テントの数は何十個もあります。それをひとつひとつ、高さを下げていくんでしょ? それはもう――」
「あなたが決めるしかないでしょ。責任者なんだから。この時間、あなたの会社に上司がいるんなら電話で伺ってください」※このあたりから方言になる
「判断ができません」
「毎年、あんたの会社と契約しとるんやぞ。しっかも言い値で。本来なら正式に競争入札せんといかん金額やのに。こういう時のために、うちは権限使っとるんやぞ。官製談合みたいなこと、してやっとるんやぞ。俺らとあんたの会社のためを思って。で、上の人間に電話するか、あなたの判断で決めるかのどっちかや。あなたが決める場合は、契約切られても全部責任とるんやぞ」
「……」
「俺が責任を持つ。あんたが上司に怒られんようにする。後で言っとく。知り合いだから。頼む!」
「わかりました。指示をお願いします」
C係長のこの判断が正しかったのか、誤っていたのか。今でもわからない。
結果だけ見れば正しかった。その夜は雨も風も激しかった。(鉄パイプ式でない)テントを張ったままだと、風雨で確実に潰れていた。テントや野外展示物を片付けるといった作業は絶対に必要だった。それを怠って、一般スタッフを帰した私たち幹部の落ち度である。
手続き的には違法である。正しくない。警備会社をロハで使ってしまっている。C係長のことだから、きっと事後処理はうまくやったのだろう。あの後、彼やその上司が処分を受けたという話は聞いていない。
個人的には、C係長の行いは正しかったように思える。実際、あの場面だとああするしかなかった。組織のために泥を被ってくれたとも言える。ただ、それが未来に繋がる行為だったかというと怪しい。
例えば、テントが崩壊する未来を選んでいれば――教委事務局が「組織として学習」することができていた。それがいい未来につながった可能性もある。
(次part)
アメリカではよく言われている食事等に関する健康ガセがあるらしい。
そのなかでも栄養学の専門家が選んだトップ10の栄養神話ガセというものを見た。
まあ大体そりゃそうだろ、と思うものでアメリカと日本の食文化の差としても少し興味深く「なんだそれ?」ってのもあったのだが、一つ日本でも多くの人が言っている、サイトやYouTubeにも蔓延しているものがあった。
この豆乳に関して改めて調べるとまあ…
飲んだら即乳がん!
フジッコのサイトがこの噂に関して冷静に詳しく説明している…がこれもおそらく豆乳悪魔説の皆様は冷静に読めないだろうし、読解力が無いので都合よく曲解してしまうのだろう。
まあなんでも程々がいいのではないか(アホみたいに飲むな。しかし1日だけ大量に飲んでもなにも起きん)
という結論にしかならず、健康にいい研究も多くされているので何故証明されきっていない豆乳悪魔説を信じてしまうのかという話になるのだが、
否定すれば神に背いたのと同じ。
敬虔な栄養神宗教にとっては豆乳を許すことなどできないのだ…。
(豆乳飲みながら書きました)
発言者からしてみれば、おそらく当該分野の専門性がないことを普通の人だって言ったのだろうし
増田からしてみれば有名人だから全然普通じゃないじゃんって思ったんだろうし
議論をしていれば言葉足らずだったり誤解だったりでこういう言葉の意味のズレって頻出するから、お互いに細かい揚げ足取りをやらないっていう暗黙の了解がないと話が進まないんだが
今回話題に上がってる人とかは巷で言うところのストローマン論法で、言葉をさらに曲解したり揚げ足取りに終始していて議論する気すら疑わしい(煽る気しかないんじゃないか?)ので顰蹙を買っている
論客みたいな顔をするなら議論をしたいのか論破をしたいのかはっきりしろって感じだし、そもそも全然論破できてないし、論破できてる風の雰囲気をいかにうまく醸し出せるか選手権をやりたいなら時間の無駄だからお笑い番組でやれって話
漫画版のエレンのアルミンに対してのセリフ、エレン「お前なら…壁の向こう側に行ける」をスポイルしたとこ。
このセリフ、素直に捉えると「なんでエレンは壁ぶっ壊すのが確定してるのに"壁の向こう側"なんだ?」
ってなるんだけど、作中の今までの比喩表現の提示だと思うと大分しっくりくるのよね。
エレンの地ならしって、取得しただけで過去も未来も決定づけられるほど、個人が持つには大きすぎる力の比喩...ここではあえて語らないけどまぁ””アレ””だよね
~~脱線~~
実は進撃の巨人の代名詞でもある、「紅蓮の弓矢」でも触れられていて、”宵闇に紫を運ぶ冥府の弓矢”
...これは「二千年若しくは二万年後の君へ」で答え合わせができる。”流星に似た冥府の弓矢”
~~脱線~~
そこから考えると、巨人って武力的な概念の比喩なんじゃないかと思う。
そうすると、今まで周囲を隔てていた壁の正体は「人との境界線的」な概念に見えてくる。
そこでようやく壁の向こう側の話に戻ってくるけど、エレンは結局のところ壁を”壊す”ことしかできなかった。
地ならしで人類8割踏み殺して巨人の力...武力を失わせることによって壁を取り払う形になった。
その上でアルミンに言った「壁の向こう側」が効いてくる。
アルミンは最初から作中の敵に対して、必ず初手対話がお決まりだった。ベルトルトやアニに、ほぼ戦闘になるであろう状況でも対話を求めたり。
そんなアルミンだからこそ、エレンは”壊す”ではない別の方法で「壁の向こう側に行ける」と伝えたんじゃないか、って思うんだ。
けれど、アニメ化に当たって、今まで曲解されかねなかった虐殺部分の表現に加え、
昨今の某諸国の壁情勢(自分で調べて)を鑑みなきゃいけなくなった。だから最終回のアニオリでは
「虐殺の"明確な否定"と、現状の”情勢への配慮"を同時に行わなければいけない」
あまり詳しくは書けないけど、私はホストとか夜職とか全然関わりがなく、そういう界隈(?)にいるわけでもない普通のアラサー女であって、りりちゃんやその界隈を擁護したいわけではない。
のだけど、なんというか、りりちゃんは魅力的な子で、いわゆる「おぢ」が貢いでしまうのもわかるなと思った。人が「沼る」のがよくわかった。
異常にテンションが高くてキャピキャピしている、もしくはだるそうに喋る、みたいなイメージをりりちゃんに抱く人も多そうだけど
肝が据わっているからなのかよくわからないけど、とにかくリラックスした雰囲気で、こちらまでほっとした。「ここにいていい」気持ちになったし、誰にも話さないようなことを話してもいいような気がした。
特に人生に不満もない私でさえそんなふうに思うのだから、生きている意味がわからないとか居場所がないように感じる「おぢ」はりりちゃんに救われたんだろうなと思う。
見た目は派手寄りというか地雷系なのに、ふんわり家庭的な雰囲気なギャップも魅力のひとつなんだと思う。
・仕草の一つ一つが可愛らしい
ホストとか風俗とか裏引きとか、そんな世界に足を突っ込んでいる=下品というイメージを持っていたが(もちろん下品なところもあると思うが)
りりちゃんの話し方や仕草は非常に女の子らしくとても可愛かった。
意識的なのかそうでないのか、まばたきがとてもゆっくりで、節目がちな時とこちらの目をしっかり見るときの時間のバランス(?)が絶妙でとても引き込まれた。可愛らしいし服装も地雷系なのに、セクシーだとさえ思った。
「あなたといれて嬉しい」というオーラが全身から出ているように感じた。書いてて自分でもキモいなと思うけど、そう感じさせる才能がりりちゃんにはあった。一緒にいて楽しいし離れたくない人の気持ちもわかった。
まず、話がとてもうまい。話の組み立て方だけでなく、言葉選びや表現がかなり上手で、地頭がいいのだなと思った。そしてものすごく仕事ができそうに感じた。起業家として成功する道もあったと思う。
とても失礼なことを書いてしまうけど、モテない人って話を曲解したり人の言うことをちゃんと理解できなかったりする人が多いと思うんだけど
そんな「おぢ」でもりりちゃんの言うことは理解できたと思うし、何よりりりちゃんは人が求める言葉を言ってあげるのがものすごく上手いと感じた。
そして、マイナスなことを言わない。別にそれは誰でもできるじゃん?と思う人もいると思うけど、りりちゃんの前向きな姿勢や言葉には哲学のようなものが感じられた。その場に優しい世界を作る空気清浄機みたいな存在だった。なんでも受け入れて明るく変換して欲しい言葉をくれるりりちゃんは、「おぢ」にとってまさに天使だったと思う。
今の時代、ネットを開けば見るのもしんどいような人をバカにする言葉に溢れているし、意識的にポジティブでいようとしないと悪意にのまれてしまうことも多いと思う。
そんな時代に疲れた人がりりちゃんにはまってしまうのもわかってしまった。
もはや何が書きたいのかわからなくなったけど、私含めりりちゃんと話した人は「何かあげたくなった」と言っていた。貢がせ上手、というより、りりちゃんがとにかく魅力的な人で、その対価をあげたくなったと言う感じなのかもしれない。「なんでこんな微妙な女にw」と思う人ほどハマると思う。
誤り
麻薬単一条約によって、「Ⅰ(乱用のおそれがあり、悪影響を及ぼす物質)」と「Ⅳ(特に危険で医療用途がない物質)」のカテゴリが設定され、大麻は両方に登録されていた
しかし、この分類に科学的根拠がなかったことから、2020年にIVからの除外を採択
出典: WHOによる薬用大麻の初の科学的評価:世界的な悪戦苦闘から患者への影響まで (一般社団法人日本臨床カンナビノイド学会)
薬物使用者が死刑になったり、収監時に離脱支援を行わない、先住民の伝統的薬物使用の制限などは重大な人権侵害であるという声明
「薬物使用を犯罪ではなく支援するように」という話はそれだけ薬物使用からの離脱には大きな労力が必要で、依存性への警鐘を鳴らしている
出典: https://www.ohchr.org/en/press-releases/2023/06/un-experts-call-end-global-war-drugs
大麻は依存性のある薬物であることは間違いなく、逮捕によって依存から脱却はできないので支援するべき、という話を曲解しています
大学生のころにカフェ(チェーン)でバイトしてたんだけど他のお客さんと同じように接客しただけなのに気があると勘違いされて
連絡先渡されたり、まあそこまでは良いのだけど待ち伏せされたりとかしつこく付きまとわれたり家特定されたりとか
そういう現実での勘違い被害って男性→女性で頻発するんですよ。これはカフェだけじゃなくコンビニでもスーパーのレジでも発生するし、
フィットネスジムでも結構ひどいのがあるって聞いた。だいたい脈が無いものを有ると曲解して暴走・迷惑行為に走るのは男性。
でもアニメやマンガなどでキャラクター同士の恋愛フラグについて暴走解釈するのって圧倒的に女性じゃない?
男性が存在しないフラグを有ると言い切って陰謀論みたいな考察を垂れ流しているのは見たことないけど、
女性については本当に数限りなくいる…原作の展開を無視して「自分がこうあるべきだと思った」で恋愛の二次創作を作り続ける。
創作物については見ないから別にどうでもいいんだけど、キャラ名でXをパブサすると本当に凄いのがある。
(呪術廻戦)五条がああいう死に方したけど、五条にとって最愛が虎杖で、虎杖を溺愛しているとか、伏黒が最愛で溺愛しているとか、
本気でそういう解釈を垂れ流し続けてる集団があるんだよね。凄いなと思う…本編で意に沿わないことが起こったとき見方を修正しないんだよね。
(水星の魔女)ラウダがグエルを追いかけているようだけど”本当は”グエルがラウダに依存していて強烈な愛をラウダに向けているんだとか言い張っている人もいて、
何が起きたらそんな解釈になるんだろうと…。グエルはファザコンのノンケだし、ラウダがグエルに依存していたし、ラウダのほうもラウペトで終わったじゃないですかと…。
不都合な部分があると見なかったことにするか、強烈な願望フィルターが働いて解釈を被せて否認しだすんだよね彼女たち。
BLEACHの織姫ヘイト(「雨と埃」で検索。織姫アンチのツイートに久保帯人本人Twitterアカウントが反応した)も、
コナンの蘭ヘイト(「蘭厳しめ」で検索。3700件の蘭ヘイト二次創作が投稿されている)もえぐかったし。
でもね、接客業をやってて危険なお客様は男性客ばっかりだった!
女性客でアレなのはドラストでバイトしてる子が万引きババアがいるって言ってたくらい。
近所の店員みたいな、物理的に近いところにいる異性に対して、避けられてるという脈なしな事実があっても謎解釈をしてストーカーを続ける、
性犯罪的な方向にいくのはだいたい男性。そして女性の場合、そういう「狂い」が男性店員ではなく、アニメのカップリングとかに向かうんだよね…。
不思議なのは男性が、アニメのカップリングについては訳わからないことを言い出さずに、冷静さを保って、普通に見れることです。
やらかしから見ていくと、男性が現実の肉体的な性行為に執着していて、女性が非現実のコンテンツ内の概念的な共依存関係と性行為に執着しているように見える。
言いたいことはタイトルで全て書いたので、以下補足にゃーん
まずは、国と宗教団体の関係について日本国憲法第20条第1項後段には次のように規定されている。
これを誤解 (または曲解) して宗教団体が政治活動することにイチャモンを付けてる人が多いが、「政治上の権力」は政治活動ではなく国や地方公共団体の機能としての統治的権力を指すのが通説である。これは勝手に言ってるわけではなく、憲法学者が書いたまともな本であれば同じように解説してある。念のため、図書館に寄って調べてきたので以下に引用する。
「政治上の権力」とは本来国が行うべき統治権力をいい、たとえば課税権の行使や、江戸時代の宗門改帳 (現在の戸籍にあたるもの) の作成のような職務を分担することが禁止される。
また、これは憲法制定時にも触れられており、金森徳次郎 (国務大臣) は以下の答弁をして特に異論は出ていない。つまり、この解釈は制定当時から何ら変わっていない。
○松澤(兼)委員 其の次に「いかなる宗教團體も…政治上の權力を行使してはならない。」と書いてあるのであります、是は外國によくありますやうに、國教と云ふやうな制度を我が國に於ては認めない、斯う云ふ趣旨の規定でありまして、寺院や或は神社關係者が、特定の政黨に加はり、政治上の權利を行使すると云ふことは差支へがないと了解するのでありますが如何でございますか
○金森國務大臣 宗教團體其のものが政黨に加はると云ふことがあり得るかどうかは遽かに斷言出來ませぬけれども、政黨として其の關係者が政治上の行動をすると云ふことを禁止する趣旨ではございませぬ
○松澤(兼)委員 我が國に於きましてはさう云ふ例はございませぬが、例へば「カトリック」黨と云ふやうな黨が出來まして、是が政治上の權力を行使すると云ふやうな場合は此の規定に該當しないと了解して宜しうございますか
○金森國務大臣 此の權力を行使すると云ふのは、政治上の運動をすることを直接に止めた意味ではないと思ひます、國から授けられて正式な意味に於て政治上の權力を行使してはならぬ、斯う云ふ風に思つて居ります
小山@iikagenni_siro_というアンチフェミ論客、最近は社会学批判してるらしい
フェミニズム⊂社会学ということで無意味な学問だと社会学全体を批判してるんだけども、小山の記事を読む限り社会学の手法そのものなんだよな
別に社会学自体の妥当性についてどうこう言うわけじゃない。正直、結論ありきの学問で自分に都合のいい資料だけ採用し、都合の悪い資料は無視する。なんなら曲解までして自分の主張の補強材料にする学問だからクソというのは小山と同意見
でも小山の記事を読む限り(課金してないので無料部分だけだが)、落ち穂拾いの絵を見て女性の労働参画の証拠だと論じたり、イギリスのメイドが増えた理由を産業革命で中間層が増えたからなんて大デマ吹いてるんだよね
小山も自分の主張を補強するためにYoutubeのゆっくり解説でも採用されないようなクソデマを使ってるわけで、こいつこそ社会学のクソそのものじゃないかと
なんなら社会学についてアカデミックな教育を受けてない時点で社会学を学ぶ学生以下の素人論者でしかないんだよな。高校中退してるし、どこの大学かは明言してないけど大学も中退してるらしい
その辺の卒業論文も書いたこともない奴が、他大学の学士、修士論文の形式に対して噛みついてるのは頭が悪いとしかいようがない
というか、こいつは以前大谷翔平に対して高校生みたいな顔だから気持ち悪いと批判した挙句、こいつ自身もほっぺが真っ赤の童顔で「お前が言うな」と炎上してんだよな
https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20231019/1697642206
みなさん本当にこの文章を読んでコメントしてるの?日本語が不得意なのかな?代表の人物像で燃やされて構わないという考え方って会計の問題なんて単なる難癖で叩ければ良いという発想でまさに信者仕草ですね。
彼には会計問題がないから叩かれる要素が純粋に人物像しかない。
彼が嫌われるのはわかるし、おかしいところはおかしいからそれだけ叩けばいいものを。マジで。ガチで。
現地妨害やら初めから批判してるのにそんな輩含めて暇アノンと仲間のように見せかける名称で連呼して印象づけ、曲解し、全ての罪を彼におっ被せようとしてる界隈の私怨ぶりは何なのか?
一方で住民監査に入られた上、勧告まで受けた会計問題を単なる難癖呼ばわりする認知の歪み様も、それこそ信者じゃないと出来んでしょw
俺だったら言えねえわwどんなに恩のある人でも雑な会計が祟って突っ込まれたのをただの難癖呼ばわりは出来ねえわwww
しかも公文書レベルで数字おかしいの見えてたら、あ、証拠揃ってるんだなって観念するわww
更にはそれを私は潔白!指摘はデマ!とか言い通してきたんだろ?最初こそ信じても後は何のフォローも出来ねぇよwwww
せいぜいこんな信者にならないよう気をつけて生きていくわ。
「今は漫画を描く予定は無いが、漫画家になれますか?」と言う問い(A)と、
「漫画はいずれ描くつもりだが、今はそのハードルすら高いので、もっと低くて確実に漫画家に近づける、別のハードルはありますか?」と言う問い(B)は、微妙だが、明らかに異なる。
実は、元togetter記事にあがっている話題の範囲では、そのどちらにも解釈可能である。
しかし、多くの人はAと解釈することを選択し、Bの可能性を無視した。
そこで、とある兼業漫画家さんが、「元記事はBと解釈することもできるよね?しかも、その解釈は無理やりで非現実的解釈ってわけでもなく、むしろ私自身がB解釈で実際に漫画家になれた実例ですよ。」と、わざわざ名乗り出てきてくれた。
「"元記事はBと解釈することも出来、しかもそのB解釈の実例もある"と言う事実でもって、A解釈の反証とします」と言う意味であるはずだ。
にもかかわらず、「んん?それ、A解釈の反証になってなくね?」などとコメントする人もいる。
(ここで問われているのはA解釈の真偽ではなく、A解釈の必然性である。)
結局のところ、元記事はAともBとも解釈可能である。多くの人がAと断定したのは、その可能性が一番高かったからだが、実はB解釈の可能性の目も無視できない程度にはある、と説明してくれた人もいる。
そのような説明にもかかわらず、A解釈の必然性を疑わず、A解釈の真偽のみにこだわることは、大元の論理を捻じ曲げ、曲解し、異なる論理を作り上げ、それを叩く行為に他ならない。
そうだね、藁人形論法だね。