はてなキーワード: 暴力的とは
認知が歪み過ぎだと思う
多分なんだけどチー牛弱者男性って「ごく普通に優しい一般的な男性」を誰でも暴力的なDQNだって見なしてるんじゃない?
女にモテそうなイケメンアイドルを見たときチー牛弱者男性って必ず「女殴ってそう」って腐すんだよね
昔、自分の好みのイケメンのイラストを描いてTwitterに上げていた女性にチー牛弱者男性が絡みに行って「影で女殴ってそう」「女のことオナホとしか思ってなさそう」って叩きまくってツイ消しまで追い込んだ事件もあったよね
外に出て彼女連れている男を観察すると、厳ついDQNは少なくて大抵は優しそうな普通の男ばかりだよね?
チー牛って昔いじめられたか何か知らないけどやっぱり認知が歪んでると思うんだよ
チー牛弱者男性の認知の歪みを矯正する第一歩は暴力的な男より優しい男のほうがモテるってことを認めるところだと思うんだよね
ただしここでいう「優しい」ってのは単に大人しいって意味じゃなくて、愚痴を聞いてきちんと共感してあげられるとか女性の気持ちをよく察して先回りして動けるとか気遣いが押し付けがましくないとかそういう意味ね
っていうか人付き合いが苦手なくせに「俺は優しい男だー!」って自認してるの普通におこがましくない?
弟の暴力について
振ってきます。
その頃は私の方が大きく力もあったのでやり返したり止めたり
勝てなくなり
やり返
せば倍以上にして返されて怖いです。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10104546530
弟に暴力を振るわれます。 私は高1の女、弟は中3です。 ずっと前から暴力はありますが、去年くらいから酷くなりました。 私が弟からの理不尽な要求に拒否したりするものならすぐに蹴られたり、かかと落とし(?)もされます。 とりあえず弟の気に触るようなことをすると殴ったり蹴ったりされます。 「やり返したらいい」と思いますよね。でも私にはそれは出来ません。やり返せばその何倍にもなって返ってくるのが怖くて仕方ありません
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14199281724
弟が暴力的で疲れました。
2歳年下の弟がいるのですが、DV気質でモラハラです。 赤ちゃんの時から粗暴で、私は2才の時からずっといじめにあってます
小学校の頃はまだ力で勝てていたのですが、
中学で負けて、息が止まるほどみぞおちを殴られたことがあります
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10238595300
弟からの暴力、暴言について 昨日弟に背中を数か所殴られ、一部が腫れて痛いです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13129177368
私の弟はまだ小学生ですが、ゲームや何か自分の気に入らないことがあると八つ当たりをしてきます。
暴言なんて当たり前で、家族で私にだけ酷く攻撃的な性格になります。私がなだめても聞く耳を持たず一度カッとなると殴る、蹴る、物を投げつける、唾をかける…など散々で気が済むまでずっと休む暇なくその行為を受け続けなければなりません。
まだ小学生の力ということもあり血が出る、痣が出来る、長時間痛む等の怪我で済んでいますが、歳を重ねる事に強くなっていますし、ましてや柔道を習っている男子の力には抵抗出来ず、頻繁なことのため肉体的にも精神的にもボロボロです
https://kids.nifty.com/cs/kuchikomi/kids_soudan/list/aid_200424186946/1.htm
私を殴る弟 気に留めない母親私は高1女、弟は中1男です。
具体的には、殴る、蹴る、馬乗りになり何発も殴る、物を投げる
特に機嫌が悪いときはスマートフォンや椅子などを投げてくることもあります。
弟はとても狡猾で、親が部屋を出て行った瞬間や私の部屋など親の目の届かないところでばかり暴力をふるいます。
それはもう何年も続いていることで、日常になりつつあるのでもう解決することはあきらめています。
母親です。
私が寝転がっているときに暴力を振るわれると、弟には「起こしてくれてありがとう、昼寝ばかりするだらしないお姉ちゃんは嫌だよね」「あんたが寝ているのが悪いんでしょう、いつも寝るなと言っているのに」(部活から帰ってきて一息ついていただけです)
私が親の見ていないところで暴力を振るわれたことを訴えると、「見てないんだから私は何もわからない、どうせあんたが弟の気に障ること言ったんでしょう。殴られないようにしなさい」
https://komachi.yomiuri.co.jp/topics/id/1064584/all/
共産主義は、進化と変革の原動力を、変革の担い手である「主体」に求めすぎているのだろうと思うね。
連帯、戦線、同志、団結これらの共産臭のするターミノロジーは、その時代時代で、変革の担い手と目された人々へ向けられる。
古典的な資本主義の確立した時代に「労働者」という概念を再構成したのが、たぶん最初かな。
日本共産党の歴史をふりかえると、労働問題においても農民組合闘争においても、被差別部落問題にしても、変革の担い手を自分たちに取り込むことに知らず知らずのうちに夢中になっていた。その力ずくなやり方への反発へも少なくなく、運動からの離脱、分派を促進していた。
結果として共産党は思想の核である「労働者階級」すら満足に取り込めず、高度経済成長期が終わると、次第に、連帯のターゲットを主婦とか消費者とか言い始めた。そうした社会階層に媚びを売るために、自らの綱領をあいまいにしてブレた主張を繰り返しては運動の広がりが得られず、連帯の同志候補として次のターゲットを探してきた。
あげくの果てには性的少数者、LGBTQを守る(田村氏)とか言い出して今日に至っている。
他方で、資本主義社会の進歩史観は共産主義のそれとは趣が異なる。
根っこには、社会ダーウィニズム的な、進歩への信頼というか期待がある点では、帝国主義も共産主義も同根。
ただ、その実現が「強いもの」による自然淘汰によってなされると考えるか、闘争によってなされるかの違い。
「強い者」が先験的に理解されてしまうと、「弱い者」を排除してしまえばよい(優生学など)という発想になるし、差別の絶えない社会となる。帝国主義やナチズムは典型。
一方、一体なにをもって「強い者」かを人間は前もって知ることはできない、結果から判断するしかないとプラグマティックに考えると自由主義社会となる。理念ではなく、利害で集う社会はこの考え方から支持される。
先日、福岡支部のどなたかを除籍した日本共産党が今もって理解していないことの一つは、日本国憲法がもつ表現の自由の考え方だ。
実は、憲法第21条の源泉は、「一体なにをもって「強い者」かを人間は前もって知ることはできない、結果から判断するしかないとプラグマティックに考える」自由主義の考え方を基礎としている。
これは、表現の自由をめぐる憲法判例のうち「思想の自由市場」という考えから、典拠をどんどんさかのぼってゆくと理解できる。
そうすると、20世紀初頭の連邦最高裁ホームズ裁判官の考えにつきあたり、そのホームズからパースプラグマティズムに行きつく。
そしてさらにさらにさかのぼると、唯一正しい真理を押し付けてきたカトリックの猛威を振るヨーロッパ、お互い不寛容なプロテスタント同士の修羅場のヨーロッパから逃れてきた巡礼始祖たちの考え方に行きつく。お互いに自分が正しいと言い切れないなかでどういう社会を構築するかを模索したところからアメリカ合衆国は始まっているので、表現の自由というのは、国の成り立ちを土台で支える重要な考え方だということがわかる。
政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー |
---|---|---|---|
自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 |
共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 |
同志の団結を迫りまくるという意味では、根性論とか暴力で一定の方向に人々の顔をむかせ社会変革をしようという路線になりがちなのが共産主義。
多様性を重視するあまり、どんなに社会が乱れようが差別が根深かろうが、偏見による暴力を許容してでも自由に奉じるのが自由主義。
日本共産党は、何かにつけ、ひとの横っ面を自分たちと同じ方向へ向かせたがるが、それは自分たちが嫌われて終わるだけというのは、これまでの歴史が証明している。
日本共産党は、自らの綱領に一言も書いていない、表現の自由の意味を社会のプラットフォームの視点から今一度振り返るべきだと思う。
2ch未満のゴミカスだった所から、インターネットの中でも有数の集合知コメントサービスに進化しつつある。
はてなの連中が建設的なコメントをすることを拒絶し、他人に対して暴力的なコメントを並べる道を選んでいるうちにヤフーは真っ当なサービスになってしまった。
重要な要素としてアカウントがヤフーアカウントに紐づいているというのもあるんだろうな。
はてなのクソどうでもいいアカウントじゃなくて、色んなサービスと連携しているヤフーのアカウントだからBANなんてされたら大変なことになる。
もしはてなアカウントがBANされた所でnoteにでも移ってしまえばいいだけだろう。
みんな、せめてヤフーに移ろう。
【私】 仕事ばかりに打ち込んできた成人男性。弱者男性と言ってもいいよ。
これは私の「逃げ」です。
~~~
1年前に初めて会った女性のことがとても好きでした。
その女性がつい数ヶ月前に破局し、私は彼女にアプローチをかけはじめました。
我慢できませんでした。傷心の所に近付いたこと、お詫びしたいです。
アプローチをかけ始めてほどなく、すぐに気付きました。自分は彼女の恋愛対象の可能性にすら1ミリも入ってないと。
好意だけ伝え、それでもいいからと都合数回目の遊びに出かけたのがこのあいだです。
普段は私が仕事に忙殺されていることもあり、約束をこぎ着けたあとは、当日まで文字通りずっと幸せ気分でいっぱい。とてもとても満足していました。
問題はお盆のまとまった休みに、私の気持ちを誤魔化してくれる仕事が片付いてしまっていたことでした。
その日、自分が彼女の恋愛対象に入ってないことを再確認し、クリアな私の頭はとてもショックを受けてしまいました。マヌケです。
一緒に遊びに出かけた彼女と解散してすぐ、涙が止まりませんでした。
後日、彼女に自分の気持ちを聞いて貰って最後の整理を付ける決心をします。
が、これが本当にグダグダでした。言うまでもなくもちろん、120%私のせいで。
勝手な押し付けですが、彼女は私の理想of理想そのものでした。困りました。離れたくないのです。いい年して心が未熟で決心が揺らぐのです。そんな自分が嫌いだと悪態を吐きつつ期待するのです。次の遊びに出かける約束を。
大変滑稽な成人男性の姿を晒しつつ、紆余曲折、本日、頼み込んで時間を無理矢理空けてもらいました。
普段から暴力的な言動を取ることはない私ですが、男性と女性の最後。少なからず、絶対怖かったはずです。私が何かしでかすのではと不安だったはずです。
更には30分程度と言われていたのに1時間奪いました。申し訳ありません。
彼女は優しく話を聞いてくれました。本当にありがとうございます。救われました。
涙を流したときからこのときまでで、私の顔はとんでもなく老けていました。そこに生活なんて無く、ただ息をするだけの数日が過ぎています。
なので、私に時間を割いてくれた彼女にはいくら感謝してもしきれません。
なのに、最後にそれらの恩を仇で返してしまいました。申し訳ありません。
今は、今後一切彼女に関わらないことが贖罪であると認知しています。
私は彼女に、繋がっているsnsで私を全てブロックするようにお願いしました。
彼女がブロック処理を完遂する前にメッセージを送ったのです。各snsで。
「怖い」と送られてきました。
当然です。当然。最悪なことをしました。身体が硬直しました。私は、犯罪者一歩手前で踏みとどまれているでしょうか。
大変申し訳ありませんでした。
脳が痛い。彼女の生活を脅かすつもりなど本当に一切ないと、私の影を感じさせずに伝えたい。エゴだと分かっています。
沢山間違いました。沢山傷つけてしまいました。申し訳ない気持ちが私の身体を凍えさせます。
神に願うほかありません。どうか彼女が幸せに生きられるようにと。
ただその願いすら、私の心を守るためなのかもと脳裏をよぎると、自分がとても醜悪だと認めるほかありません。
駄/乱/長文失礼しました。我が身可愛さに逃げる弱さをどうか、お許し下さい。
だいぶ違うけど、桜庭一樹の『私の男』をちょっと思い出した。あるいは『ベルセルク』のガッツの義父ガンビーノか。
低学年の局部をじっくり見たりイジったりする点で義父氏の小児性愛趣味は明らか。
が、その義父からすれば、血の繋がってない姉妹を保護し養うのに、何か見返りがないと辻褄が合わないので、姉との性的結合や奉仕で合理化した……とも考えられる。
最初は暴力的ではなく、言葉で説得して自ら行為をさせているところは、罪悪感なのか知能犯なのか、家族という体を維持したかったのかはともかく、狡猾で我慢強い印象を受ける。
ただ、その先に、貴女を妊娠させたり、暴力振るったり、他の友人だか取引先にウリさせるのは余分で、愚かだ。
何かそこで仕事がうまくいかなくなる事件があったのかもしれない。
よくよく考えて見ると、義理の娘を仲間や取引先に売らせる男というのは、どう見ても集団内の下っ端で、舐められてるように思える。
仲間との飲み会で「うちには昔のオンナが置いていった、いつでもやれる娘がいる」など口を滑らせて、「じゃあ俺にもヤラせろよ」という話になったのか、「おいおいそれは犯罪だぞ、黙ってるからヤラせろ」かもしれないが、いずれにせよ下に見てないとそういうことは言われないだろう。
すると、そういう下っ端男性が仕事を回してもらうのに、そのウリ行為が必要だったのかもしれない。
人間はそれぞれ、神様から配られた手札として、体力、知性、倫理性、経済力などの能力に限界がある。
義父氏はもちろん善良で有能な保護者では無く児童性虐待犯罪者だったが、彼なりに足掻いて懸命に生きていたのかもしれない。
義父と貴女と妹は、この社会で弱者3人が利用しあう共生関係だったのかも。
もちろんトータルで貴女の犠牲が一番大きく、虐待され搾取されていたが。
8月末に出る情況って雑誌の特集がトランスジェンダーらしいのだが
連中の言い分だと、トランスに肯定的じゃない連中(連中の定義では=差別主義者)の記事が載っているのがけしからん
トランス特集やるならトランス全肯定でなければ差別!トランス真理教に疑義を唱える連中やそいつらに発言の場を与える雑誌は人殺し!絶対に許すな!ということらしい
まだ雑誌が出ていなくて表紙ぐらいしか情報ない時点で、反トランスの差別的内容だと決めつけできちゃうのは何故なんだろうか
執筆陣の名前から判断しているらしいけど、それってお前らの大嫌いな差別じゃん笑
文章を書かせるな、発言の場を与えるなって、言論の自由とか反トランス差別界隈の連中の辞書にはないのか笑
連中は既にX上で徒党を組んでキャンセル活動のスクラムを組んでいるよ、ほんと暴力的で話の通じないキチガイだよね
はてなの匿名の中でしか言及したくないね、ヒスった病気持ちの陰キャおばさんがメイン層だから肉体的な危害とかは怖くないけど、記名性のSNSで触れちゃうとバカが伝染りそうで怖いよ
某ハラスメント講師の件といい、男女の対立が深まる事は実は良い事だと思うんだよな
今まで男が一方的に殴られっぱなしだったのがようやく殴り返せるようになったというだけの事だから
これまで男は我慢し過ぎた。もっと過激に、暴力的になっていい。
その先にあるのは滅亡だとしても、少なくとも今生きている我々には関係ない事だ。
大事なのは女からの攻撃に対して完膚なきまでに叩きのめすという姿勢を見せる事だ
どんどん殴り合っていこうじゃないか
https://shigakusha.com/special/toitsu/taisaku_print/
これの問7
「さむらいが、すらりと刀をぬいておかあさんと子どもたちの前にやってきました」
とありますが、この時おかあさんはどう思いましたか。文しょう中のことばをつかって答えましょう。
俺「さむらいをきりころしてやりたいと思った」
答え「いねむりのじゃまをした子どもたちを、さむらいがきりころすと思った。」
これだぞこれ。ふざけてんのか。
いや俺は大人になった今この解答をしていると思われそうだが
小学2年生の時もこういう解答をしたぞ
こういうのでアスペだとかなんだとか言われそうだが
おかあさんは普通にブチきれて出刃包丁でも持って「きりころしてやりたい」
とか思ってもおかしくないだろ
文章中の言葉の「きりころしてやりたい」を使っているし正解でいいだろ?
これが×になるんだぞ?
たまったもんじゃねえぜ!
大仏「おかあさんは風邪ひいたときに看病してくれるし守ってくれると考えなよ」
とかそういう感じで俺を諭そうとしてきたけど
俺はこの手の暴力的な問題があると必ず暴力でやり返すべきだって小学2年生の時には思ってたぞ
なんなんだよ国語ってやつはよ!
魁!男塾とか北斗の拳とか聖闘士星矢とかでは絶対にボコボコにしてるだろ!
俺が当時兄貴から借りて読んでいた漫画とかでこういうクズサムライでてきたら絶対にそうしてた!
俺はおかしくねえよ!
な!?
わかってくれや!
教育実習行った時に、実習生全員で職員室の前の廊下にいったら、数名の男子生徒が輪になって一人の男子生徒を蹴っていた
蹴られてる男子生徒はすでに床に背をついてる状態で、状況だけ見たら袋叩きとか、そういう光景。蹴る方も蹴られてる方も無言。
自分は「職員室の前でやってるから、遊びかな?」とか考えた。いやそうじゃない、遊びならラインを超えてるし、はよ辞めさせるか教員呼んでこいって今じゃわかるんだけど、なぜかその時はイジメ=隠れてやるという固定観念と目の前の暴力的光景で堂々巡りして、パソコンで言えば処理中でパフォーマンスが停止してるみたいな状況になってた。
他の実習生も同じだったのか、皆、無言だった。
3分くらいずっとそんな感じで、男子生徒たちは蹴るのをやめて全員で教室に帰っていった。ずっと無言だった。
そのあとしばらくして、指導教員が職員室から出てきた。そのまま何も言わず、教育実習は終わった。
あれ、イジメだったよな……と今は思う。あの蹴られてた子に、目の前の大人に助けてもらえなかったという経験をさせてしまった。
二十代の女が五十代の男を相手にするわけないじゃん!とよく言われるが年上好きの女だっていることはいる。
ただ「若い子がこんなおじさんを相手にしないよ。若い人同士仲良くやんなさいね」と微笑むような枯れてる年上が「素敵!」と思われるのであって、間違っても「やっぱ女は若くないと! 俺ももう一花咲かせてやるぜ」タイプではないのである。
なんで女は純真で真面目な男より暴力的なヤリチンが好きなんだよ!もよく言われるが、はたしてそれは本当に『純真で真面目な』男か?というのはさておくとして、女慣れしてないが異性を意識してる男のおどおどしたり無駄に見栄を張ったり下心を感じさせる言動はもろに「性欲に振り回されてそう」なので反射的にキモいと思われる。
一方モテていたり「別にこの女に執着しなくてもいいや」と雑な態度を取ったりする男は「性欲に振り回されてなさそう」に見える。実際はともかくとして。
ぬいペニも、「この人は性欲抜きで接してくれるな。性欲に振り回されてないんだな」と思っていたら「実は性欲で近づきました」と言われてギエェ!となってしまう現象なんだと思う。
これを避けるには
・最初から好きでしただと「騙してたの!?」ってなるから「接していくうちにあなたの〇〇(性格面のいいとこ)が好きになった」と言う
など、性欲抜きでも親しくしたいことを伝えればキモがられはしないだろう。
つきあえないならこんな女と仲良くする必要ねーや!な人は、どう考えても性欲に振り回されているのでキモがられるのは必然です、諦めてください。
じゃあなんなら好意を示しながら女の気を引けるかというと「君だから好き」「君だけ特別」である。
性欲に振り回されてなさそうな態度→少しずつ仲良くなる→二人で食事やデートぐらいまでいったら恋愛感情を匂わせる(君だけ特別)→良さそうな感触なら「君だから好き」を伝える→相手も同じ気持ちなら性欲を見せても大丈夫(君だけ特別」)
暴力的なチー牛になるだけ
もっと全力で脳内塗り潰すまで布団の中で頭の中で絶叫しろ!!!!!!!
ちょっとでも思い出したら「あーーーーーー!!!!」で毎回強く塗り潰せ!!!!!!
……基本的に自分のやらかしによる後悔って『迷惑かけた相手に謝る』『再発防止策を考えて「もうやらない」と自分に誓う』ことでスッと消えたりするんだけど、今回は謝りようがないのと事故なんで解消しようがない。
ことがことなのでどうしても理性より感情が上回ってしまうし、感情を暴力的感情で抑えこもう。
そもそも迷惑かけたの配送業者だしな。クレームの1本くらいは入れといて許される気がする。あと脳内で配送業者ボコボコに殴っとこ。思うだけなら合法なんで。
このオカシイというのは倫理的なものじゃなくて、コンテキスト的なおかしさのこと。端的に言うと「だせぇ陰キャが流行りの鬼畜系の真似をしてみたイキリ」だ。
https://anond.hatelabo.jp/20240724141703
最近で判り易い例で喩えると、石原伸晃が報道ステーションに出て「ナマポゲット~」とか医療費削減の為に安楽死がいいとか言ってたヤツ。あれだ。
若しくは駅員の注意に弱そうな撮り鉄が細い声で暴言吐いてるのとか、江ノ電ニキに「金か?金なんだろ」と細い声を張り上げてるあれの同類。
伸晃の場合はネットに触れるようになって良い年したオヤジがネトウヨ系サイトに感化されてるのが明白で、当時としても「バカじゃねーのこいつ」と思った人は多かろう。特にネットをよく使う人なら文脈をよく知っているからおさらだ。
だから小山田のQJ記事についても「バカじゃねーのこのダサ坊」という扱いであった。少なくとも神保町の書泉ブックマート地下一階でQJ立ち読みした増田はそう思った。その理由を記す。
90年代の少年マガジンは不良と暴力に全振りしていて、暴走族の抗争とか集団でリンチして半殺し、不良同士の抗争で殺人、それへの復讐というようなマンガで埋め尽くされていた。
そうなると実際の不良文化にも影響は出てきて、どこそこの生意気な女を輪姦してやったぜとか友達の友達が喧嘩で相手の頭を執拗に殴って耳血が出て意識不明とか、そういう自慢が横行していたワケ。
自分が暴力的だ、と云う以外に暴走族や池袋のチーマーなど暴力で傷害、殺人を犯した人間と繋がっている、というのが自慢になり得たワケだ。
同時に鬼畜系というコンテンツも流行ってたのだが、これは背後に外連味があるものだった。「夜想」とか「WAVE」とか「〇〇評論」とか、文化評論系のA5版雑誌が流行していて、それらは外連味が溢れるサブカルものだったのだが、その雑誌群の編集者が興したのが鬼畜系だったのだ。
その代表人物で自称中卒工員の精神障碍者の村崎百郎は『夜想』などの編集者で、外連味サブカルの中心に居る人物でもあった。後に自身が精神異常者だとの嘘を恨まれた読者に殺される事になったが、相応しい最期と言えるかもしれない。
『危ない1号』の青山正明なども模試成績一位になった事がある元優等生であった。因みに青山はロリコンブームの仕掛人でもある。
鬼畜系はゴミ漁りによる個人情報漁り、麻薬、精神世界(綺麗じゃない糞尿垂れ流しの方)、奇形趣味、身体欠損、時代遅れになっていた新左翼セクト、変態セックス(特に獣姦など)を扱っていた。
だが、wikipediaの「鬼畜系」の項には過去の変態春画や無残絵、宮武骸骨などが載っているように、「高尚な文脈」で関連付けがされうるもんである。それは単に良識人が目を逸らす悪趣味の羅列じゃなくて外連味サブカル編集者達が興したブームであり計算されたものであったこと、それまでの文脈を踏まえていた事、それによって高尚な文脈の中で論じることが知的であるという文脈が惹起されるからに他ならない。
マガジンみたいな馬鹿向け暴力賛美と、知的に思われたいがそれは隠したい、自身を個性的と思いたい馬鹿向け鬼畜系、二つの路線が同時に存在するとその中間の路線も活性化する事になる。
それで鬼畜系の中からドラッグやタトゥーなどだけを特集したより実践的な雑誌群が刊行されるようになった。実践的というのは、実際にタトゥーを入れたり骸骨アクセサリをジャラジャラさせたり、アムステルダムで実際に飛びツアーをしたりという実際のファッションやライフスタイルと結びついていたから。
こっちはワルだけどチーマーや暴走族みたいなバカはやりたくない、或いはファッションワル向けだね。
さてそうすると今でいう陰キャとかオタクっていうのはこういうのに絡んでこないって事になる。鬼畜系とは親和性が高そうだが、なに分にもぶっ飛びすぎていて真似するのは難しい。
創刊号はよくあるサブカル雑誌という感じ。だが3号くらいから迷走をはじめるのである。
芸能人のインタビューを入れたり、オウム事件を扱ったり。芸能人の記事を入れるのはメジャー路線化だ。多分1-2号が売れなかったのだろう。一方でオタク路線にも足を踏み込んでいた。その甲斐あって10号でエバンゲリオン特集が組まれてそれで話題になるのであった。
で、こういう迷走と試行錯誤の始まりに収録されたのが件の問題の小山田インタビューだったワケだ。
そもそも小山田のコーネリアスは渋谷系に分類されるが、アンテナショップ的役割のタワーレコード渋谷店でもWAVE渋谷でも「渋谷系」の棚なんて無かった。商業主義のHMVには渋谷系のコーナーがあったが、渋谷に来る若者には「渋谷系」なんて恥ずかしいものだったわけだなw(カヒミカリイやピチカートなどは除く)。
そんな渋谷系の彼がQJに登場して自慢したのが件の障碍者虐めであったワケ。
これはかなり見てられない。そもそもそんな良くない事をすでにメジャーデビューしてる小山田がわざわざいうのは自慢であって、鬼畜系や暴力系標榜のアピールだったのである。
そもそもタトゥ入れまくりだの、悪趣味鬼畜系だのというのは、自分が社会の規範から外れている、反逆しているとのアピールが含まれている。そこで「学校での」「虐め」体験を語るというのは、学校というレールから外れずに来た子供のままで「デビュー」していないという事であって、かなり痛々しい、背伸びした陰キャの行為だ。いかにも悪ぶった陰キャの自慢という痛さに満ちている。
政治家のガキとして不自由なく育って齢50過ぎになってネットに触れて悪ぶって「ナマポゲット~」とか言ってた伸晃の痛さと相同である。
そういう訳でして、小山田の発言は当時の悪趣味、反良識の文脈を踏まえたものだったというのは確かにそう。
でもそこで学校での虐めを誇るというのは当時としても痛々しいし、背伸びしてそれかよというモンであって単に陰キャのイキリでしかない。実に恥ずかしい。
そしてそれが原因で後年に大舞台の公職を解かれるに至っては自業自得の上にバカの屋上屋を架すと言った代物であり、撮り鉄江ノ電ニキ罵倒大会に伸晃(50代)が混じって「金だろ?ナマポゲット~」と一緒に叫んでるような恥ずかしさとバカの煮凝りの如しだと思うのである。
15年以上前、アラサーだった自分は新人文学賞などを目指して小説を書いていた。
土日の大部分は小説を書く作業と、小説を書く人が集まる社会人講座の授業に費やしていた。
5年位は続けていたが、やめてしまった。
自分が書くべきことが次第に思いつかなくなってしまったことと、他の受講者の作品や本屋さんで売っている小説を読んでいるうちに、自分には向いていないしセンスがないことがだんだんわかってきたからだ。
ところが最近、自分のパソコンのフォルダを漁っていたらその頃の小説のpdfが出てきた。書くのをやめてばかりの頃は恥ずかしいし痛いから二度と読むまいと心に決めていたが、今の心情としては死ぬ前にあと1回位は読んでもいいかもしれない、小説の見え方も書いていた当時とは大分違うかもしれないと思い、斜め読みでもいいからとりあえず読んでみることにした。
登場人物やあらすじについては触れない。
A
小説を書いてみたいと思って社会人講座に通い始めて間もない頃に初めて書いた。原稿用紙350枚ぐらい。
登場人物の言葉遣いが汚い。直情的すぎる。登場人物の中でホモと疑われる教師がいたのだが、今の時代ではアウトすぎる表現だった。
物語の展開が都合良すぎる。
恋愛描写がくどい。多分これが、よく言われるところの、素人のおっさんが初めて書く小説にありがちな痛さかもしれない。
書いてる時には恐らく頭の中で見えていたはずのものが文字になっていないからなんのことだかわからない記述がある。
過去の知り合いを物語の中で過剰に美化している。つまり、自分の当時の人生観が未熟で甘いということだろう。
主人公がずっと目指していた目的地がいつの間にかすり替わっているのに物語中では一切理由がわからない。
親の心とかの描写が表面的すぎる。
内容をほとんど忘れていたので次の展開が読めないところは楽しみでもあった。
瑞々しい恋心みたいなのはちょっとよみがえった気がした。今よりも恋愛至上主義が強い世相の中で流されつつ抱いた渇望感みたいのを思い出した。
小説すばる新人賞に応募したが1次選考にも残らず。当時はなんで?なんで?って感じだったが(それも恐ろしいことだが)今読めば選考に残るわけないのは十分納得。
B
Aの2年後ぐらいに書いた。原稿用紙500枚。
主人公の思考、社会への目があまりにもすさんでいる。それは当時自分がそうだったことの裏返しだろう。
弱者を執拗に否定しようとする力の存在をことさら強調し絶大視しようとする描写がいくつかあって、それが自分の人間的未熟さというか卑屈さを浮き彫りにした。
犯罪のトリックが稚拙。USBメモリ紛失をでっち上げただけで大企業の情報漏えい事件発生というのは無理がある。
簡単に人が死ぬ。こんなに登場人物をたくさん殺しているのにその必然性も後片付けもないと、当時通っていた講座の講師にも指摘された。
書いた当時の10年後つまりここ最近の時代が舞台なのに、現代のキャッシュレス社会を予見できなかった。虹彩認証でコンビニで1000万円までの現金を下ろせてしまうという設定にはあまりにも無理があった。
刑事がすぐに暴言を吐き暴力を振るう設定が安直すぎる。下手をすれば職業蔑視とも受け取られかねない。
いい奴の主人公が最初のシーンだけめっちゃ嫌なやつ過ぎてその後のシーンでの性格とあまりにも整合性がつかなすぎる。
氷河期世代負け組アラサー男性の絶望感と人生をやり直しの希望みたいのは出たと思う。
当時の自分は成功したあっち側ではなく、だめなこっち側の人間なんでこっち側の怒りや絶望を描いたつもりだったのが、その描写に卑屈なところがあるため、かえってこっち側の怒りを買いそうでなおかつあっち側からは苦笑いか同情でもされそうな残念感が今も残る。
「このミス大賞」に応募して、もちろん1次選考には通過しない。当時はそんなもんか、という印象だったが、今だったら通るわけないと十分納得。
C
Bを書いた後に、今度は誰も死なない話を、なるべく心温まる話を書こうと奮起して書いた。原稿用紙350枚。
登場人物で、モデルとなる実在人物がそれまでで一番多い。そのためか痛さが際立っている。
物語の展開にAやBほどまでの唐突さはないが、それでも十分唐突。
今どき年寄りしか使わないような方言を若者世代にまで喋らせていてあまりにも無理がある。
難しい命題を掲げておいて導き出した答えがあまりにも安直で稚拙。主人公は大学生なのにこれじゃ中学生かよって感じがしてしまう。
書いている当時は見えていたものを本文に描写していない(書いた気になってる)のでなんのことかわからないシーンが一箇所あった。
主人公のイチャラブシーンがくどい。がそういうのがいい人はいるのかも知れない。ただし、人物描写に深みがないからやはり読む人が読めばつまらない。
もし登場人物のモデルとなる実在人物にこんなのを読まれたらと思うと恐ろしい。
縁あって知り合いの編集者の方に読んで頂いたところ「よいところは何一つない」と断言され、大沢在昌の小説入門のような書籍で勉強することを真剣に勧められた。(一通り読んでみたが実践にまで及ばず自分の血肉とはならなかった)
小説すばる新人賞に応募し、もちろん1次選考に通過しなかった。当時の印象としては、やっぱそうだよなって感じだった。
D
Cを書いてから2、3年後に、通っていた講座の課題として書いた。原稿用紙100枚。
書くことがなくて無理やりひねり出した感が強く出てしまっている。
既存の小説のシーンを堂々とパクっている(ある小説で、土砂を積んだダンプカーが横転して人が生き埋めになるのを見て笑う男のシーンがある)
書いている当時頭に思い浮かべていたシーンと実際に書かれた描写とでまだギャップがある。
(全体を通して…)
読み返す前は「小説家になろう」とかにupしてもいいかなーとか思ってたが、読んでみると、、やっぱり、、、無理だわ💦
(追記)
増田の反応が意外と生ぬるい称賛みたいのが多くて拍子抜けした。
きしょっ💦💦
クソワロタwwwwwww
みたいのを想像してた。
時間と労力をかけて書いたものでも、客観的に見るととても拙く、世に出るレベルに至ってないというのが、趣味としてやるにもなかなか難しいところであることを実感した。
しかもそうやって自分の作ったものをある程度客観視できるようになるのに10年以上も寝かせるというのもある意味めんどくさい。
よく、10000時間修練すればいろんな趣味や技術はモノになる、というようなことを言われるけど、自分の場合、多分10000時間には届いていないのでまだ努力を続ける余地はあったのかも知れない。
(今じゃほとんど)自分より若いデビュー小説家や芥川賞直木賞受賞者の方は努力もすごいがやっぱりセンスとか目指してるものとか見えてるものが自分とは全然違うんだろうなと改めて思う。
あと、時代の移り変わりが早いのを改めて実感した。
LGBT関係やセクハラパワハラ、キャッシュレス社会、スマホや携帯、若者の言動とか、書いてる当時は気にならなくてもたった10年程度で違和感ありありなのがすぐに浮き彫りになってしまう。
(追記2)
ブコメの中で、自分以外の人に読んでもらったほうがいいというアドバイスをされた方がいたので補足すると、当時通ってた講座の受講生の方にはABCDいずれも読んでいただいたし、一部は友人数名に読んでもらう機会があった。授業で頂いた色んな人の講評などがノートに書かれていたはずだから、後でそれも引っ張り出して読んでみようと思う。特に、通っていた講座の講師の先生には要所要所の指摘やアドバイスを頂き、温かい目で見守って頂けたので今でも感謝している。
つまんなそうとかこんな増田じゃものになるわけないみたいなブコメもあったが、まあその通りだと思っている。自分は、仮に誰もが有無を言わさず好きでも嫌いでもとにかく原稿用紙1000枚ぐらい書いてみればとにかく書きさえすれば100人中50人ぐらいは自分のより面白いのができると思っている。本当に違うのは、書くか書かないか、ただそれだけだと思ってる。
(追記3)
E
ABCDより少し後に読み直した。
Dを書いたよりも1年前ぐらいに書いた。原稿用紙360枚。小説すばる新人賞に応募して、1次選考に通過しなかった。
地元に古くからあったドライブインや商業施設などを舞台として、20代の男女の恋愛とか和解などを描いた。
時代設定を明確に2011年としていたので当時と今とでは大きく時代が変わってしまったことを改めて実感した。
ブログとか掲示板、当時のネットスラング、どれもみな、今ではほぼ絶滅してるようなものばかりだった。
登場人物の人間性に触れるような描写はそれまでの中では一番ましだったと思う。
一方で、あらゆる出来事や現象に理由や理屈をつけなければならない、本文に記述しなければならない、というような思い込みを感じるところがあって、それが読者に違和感を感じさせる要因になるのではないかと思った。理屈じゃない出来事を理屈で説明しようとしている感じ。
ファッションや料理に関する描写が出てくるシーンを書くのが難しかった。その方面の知識や経験の浅さ乏しさがどうしても浮き彫りになってしまう恥ずかしさがあった。
書き始めた頃よりは少なくなったが、登場人物の直情的で暴力的な部分への違和感が残った。自分の中で、世の中はそういうものだという固定観念がまだ残っているようだった。
ABCDに比べて、読むときにもっと気恥ずかしさが残っていて、主観的な視点が抜けきれてない感じがした。
物語のテーマが大きく2つに割れてしまっていて、片方は潔く捨てるべきだったのかも知れないが、どう捨てたらもっと面白くなるのかはちょっとよくわからない。