はてなキーワード: 役者とは
はてブのコメントを見て、とんでもないドラマなんだろうと思って観てみたんだけど、どこがひどいのかさっぱり分かりません。
もしかして、観ずに書いてるの?と思って。
これは、ポスト自身が「親と決別するために、唯一もらった『名前』を自分で捨てた」って言ってます。
最初は自虐的に名乗ってるんだと思ったけど、最後の方では、自分の運命を受け入れてこれから幸せを掴むんだ!という意思を感じました。
と思ったんですが、最後の最後に他の女の子から「本当の名前はゴニョゴニョゴニョ」っていうシーンがあります。
ここは、「親からもらった名前が気にいらないなんて!」と感じる人が居るかもしれません。(最初のほうでも、「月姫と書いてカグヤって…DQN!」ってシーンがあるので、いわゆるDQNネームに関する問題提起をしてるのかも?)
三上博史「さあ泣け!そしたら食べてよし!」(今日はマキが来て最初の日。これからつらい事もあるだろうけど、くじけるんじゃないぞ!そのために、一発かましてやろう!)
ポスト「(ん?ああ、いつものあれね、こうでしょ?)う、うう…うううう…うわーん」
三上博史「ん!(ちょ、なんだよおまえ…おれがかまそうとしてるの分かってるくせに…)」
三上博史(うわあ、マキとポストが喧嘩してるよ…)「どっちが先に手を出したんだ?」
ポスト「私です」
三上博史(良かった…いきなりマキを怒るわけにもいかないし)パシッ!(うわあ、殴っちゃった…ごめんよ)
演出家(今時バケツの水持たせるってのは、さすがにギャグとしか思われないだろう)
三上博史(あの優しそうな夫婦の所から逃げ出したって…どうしたっていうんだよ…心配で、もう2時間も玄関で待ってるよ…)
ガラガラッ!
三上博史(うわあ、岡持の中でラーメン散乱してる…怒られると思ったんだろうな…でも、あの夫婦なら、こんなことぐらいで怒るはずがない)
「おい、ここにはもうおまえの居場所はないぞ!」
男の子「うう…」
ガラガラッ!
ラーメン屋夫婦「ごめんね、いきなりお父さんお母さんなんて呼べるわけないよね…」
三上博史(よかったよかった)
三上博史(小学生の女の子がこんな時間になっても帰ってこない…マキは来たばかりだし、心配でしょうがない…もう三時間も玄関で待ってるよ…)
ガラガラッ!
三上博史「なにやってたんだ、こんな遅くまで!」
ポストたち「…」
三上博史(この様子を見ると、マキに何かあったんだろう…でも、女の子同士、なんとか解決したみたいだ…しかし、他の子どもたちの手前、このまま許しては…)
演出家(さっき一回使っちゃったけど、今時バケツの水を持たせて立たせておくって罰は、ギャグにしかとらえられないですよ、三上さん、バケツで!)
これ実際に観たら、一番悪く描かれてるのはマキの母親です。
→施設に預けた(というか、行き場がなくなって知らない間に預けられてた)娘を訪ねる
→「彼の傷が治ったら結婚するわ。あんたは邪魔だから施設で生活してね(^^)」
鬼畜だわ、これ。
このところ、英米の大手マスコミのウェブサイトのニュースを私はまた読んでいるのだが、日本国内のマスコミとの世界観の相違が激しいことを再認識させられる。
話題のずれ、例えば中東やアフリカの話題への関心の高さというのもある。
だがそれだけではなくて、日本のマスコミでは言ってはいけないことがどうやら多いようで、情報操作された、「よく洗脳がゆきとどいた国ですね」と皮肉られてもしかたないような社会だなと思う。
先日やしきたかじん氏が亡くなったが、彼が生前に大阪の地元テレビ番組でほとんど言いたい放題でやっていたのに対して、東京のマスコミ(全国ネットも多いだろう)における「自主規制」(という無言の圧力、「空気」のたぐい)は、やはりびっくりだ。
役者で現参議院議員の山本太郎氏が、以前に原発反対を言ったときに仕事を干されたという話もあるが、なかば被害妄想もありなん。だが、タレントの立場でファストフード反対だとか酒反対だとかパチンコは違法ですだとか言い出したら、おそらくマスコミや広告代理店のブラックリストに載る、広告塔としての価値はほとんど無くなってしまうだろう。藤原紀香氏だったかが先日にしんぶん赤旗(日本共産党の機関紙)の日曜版に登場した際にもいささか揉めたらしいというのも、話に聞く。
私とて、せいぜい英米の大手マスコミしか目にする機会がないのだが(関心はあるのだが、ドイツやフランスすらも日常的には読んでいないし、ましてや世界各国のを確認してまわれない)。しかし、The Times(英国)のウェブサイトをこのところ見ていたら、砂糖の依存性の話題で議論が巻き起こっていたり、「ADHDの診断名が付けられる小児は多いが、そんな疾患は本当は存在しないと書いてある専門書もある。診断名を付けることで気休めになり、そこで投薬に移り云々。診断名を付けたがる症候群なのだろう」と大要そんなことを書いているオピニオンがあったりする。日本の大新聞やテレビ局ではおそらくそんな記事はそうそう出せないだろう。
在京一般紙でも、サンケイと読売が似たようなもので、日経はもろに資本主義バンザイで、朝日はこのところ元気がなくて、毎日はまあまあ活躍していて、それらが超えられない壁の先に東京新聞(名古屋中日系の東京地方紙)がある気がする。さらに言えば、大新聞と比べて、宮城や福島地域の地方紙や、沖縄県の地方紙なんかは、世界観がまったく異なっているように思う。
要するに嫌だからやりたくない、ってだけじゃん。
問題意識を持つなら、なんで問題なのか言えよ。
それ言えないなら、単に「僕はやりたくないからやらない」っていうただの我侭じゃないか?
「答え」を求めてない、ってなんだ?
「問題だ」と思うっことはそこに何かしらのおかしなことがあってそこを改善できる可能性がある、ってことだろ?
それを示せよ。
出来ないなら単なるわがまま以外の何物でもないだろ。
私が思う問題はまず、「様々な場面での合理性の欠如」であって、
そこまではわかりますか?
要するに嫌だからやりたくない、ってだけじゃん。
問題意識を持つなら、なんで問題なのか言えよ。
とあなたは発言しているが、
なぜ問題なのかというと、「無理矢理やらせることで人を人として扱ってないからだ」、とも述べていた。
「答え」を求めてない、ってなんだ?
「問題だ」と思うっことはそこに何かしらのおかしなことがあってそこを改善できる可能性がある、ってことだろ?
それを示せよ。
それに関して言うと「なぜを答えられる必要がある」というのが回答である。
つまり、上司は部下に、それがなぜ必要か「問われたら返せる必要がある」とさんざん言ってきた。
部下は常に「なぜこの仕事をするか」疑問に思っている。
疑問に思うとやる気も出ないし、生産性もあがらないし、生産性があがらないと長期的に見ても不利益だ。
だから、部下がなぜか?と聞いたとき、「これはあの大事なプロジェクトで、こうこうで必要なんだ。それできみに任せている」
むしろ、それもわからず部下に仕事をさせているようでは、どうかと思う。
2〜3秒ですむ事だ。
そして、もし例えば何か上から下の者へやらせることが「伝統で続いているもの」であったとき、
そこには初めてその行儀なり行動をした人たちが考えた思想がある。はずだ。
もし、その思想がわからないまま、ただ闇雲にその行事を継承しても価値がないので、
即刻やめるべき。
私が言いたいのは「なぜかよくわからないけど、とりあえずやっている」とか「常識だからやっている」って言う事が、
それに一切役者は答えられなかったそうだ。
今やっている事はなんのためで、そのためにやらなくちゃいけないんだという
これまで似たような価値観の集まりだったから、そういう発想も出てこなかっただろう。
しかし、今後日本人だけで何かをするというわけにもいかなくなってきた。
だから価値観の違う人間には「論理」でコミニケーションをとる必要がある。
本当にそれでいいのか、フィーリングに頼っていいのか?
と私はこれまで主張してきた。
http://anond.hatelabo.jp/20131210194845 に引き続き論じていく。
では、サードブロガーたちが、釣り・PV稼ぎ・キャラ作りをやっていると仮定して、なぜそれらの行為がいけないのかを説明する。
まず、私の前記事を基に、いろいろと考えてくれた人がいる。
「釣り記事」と「かわいい女の子」とには、共通点があるのかも - ただの通りすがり
http://anon.isc5.com/2013/12/turikiji-kawaii.html
人気のある女子になるために、演技をすべきなんでしょうか?そういう疑問を抱く人もでてくるだろうけど、
そんなの誰もわからないというか、演技したほうが有利なのは事実だと思うけど・・。
本当の自分自身でなくて、演技の部分を好かれても、満足できるの?こういう感じで、いろいろ誘導的な話をしても、
まあ、純粋な僕の気持ち(心)を裏切ったなという部分はあるとは思う
でも、騙されていてもイイと思う人もいるのは事実だとは思う。
裏切られた気持ちというのも微妙な感じだと思う。
私はネット上でのステルスマーケティングやアフィリエイトブログを憎んでいる。
ステルスマーケティングやアフィリエイト目的の記事・発言は、誠実さに著しく欠けているからである。
誠実さとは何か、という話になるが、それは「ブログ論争 個人的まとめ」で
ブログとは必要に駆られて書くものだ。何気ない数行のブログでも、誰にも見られていないブログでも、それが必要に駆られて書かれたもの、
と書いたように、心から溢れ出たもの、その人の「真」が出たものに私は誠実さを感じる。
だからたとえばネトウヨの罵詈雑言も長文陰謀論も、その発言の正誤・質は置いておいても、その人の「真」が出ているという点で、私は誠実さを感じる。
ステルスマーケティングをする者やアフィリエイトブロガーは心から文章を書いているだろうか。何か一本通った信念を持っているだろうか。
信念というのは別に堅苦しく考える必要は無い。思想・スタンスなどはコロコロ変わって良いものだ。ただ、
「その文章を書いたとき、それを言ったとき、俺は本気だったのだ」
と言えるだろうか。ステマ業者やアフィブロガーにそれは感じない。彼らは時流を読み、人の流れを読み、
それに最適の発言(自分たちにとって都合がよくなるように・お金の流れが産まれるように、大声で叫ぶ)をしているだけだ。
私はそういう彼らを 「演技をしている」 「狡猾な」 「インターネットには必要の無い」 人間だと考える。
であることは間違いない。私のような考えをする人間はこれからもっと減っていく。
私はこの類のことを考えるとき、いつも「トゥルーマンショー」という映画を思い出す。
ジム・キャリー演じる主人公トゥルーマンという男性が居る。この男性の住んでいる地域は超特大の撮影セットである。
彼の妻も彼の友人も、みな役者である。演技で付き合っているのである。それを知らないのはトゥルーマンだけなのだ。
私は、これをなんと悲しい映画なのだろうと思った。また、西洋の映画に見られる「人がほんとにされて悲しいこと・人が体験して本当に悲しくなることは何か」
をよく描けている映画だと思っている。
友達だと思って、一緒にお酒を飲んで笑い合って、こいつは親友だ、そう信じていた友達が役者だったのである。
ステマ業者やアフィリエイターがやっていることは、我々インターネットユーザー1人1人をトゥルーマンにすることである。
我々は彼らによって分断されつつある。アニメについて本当に楽しく語っているとき、サッカーについて熱く語っているとき、
我々は心の隅で思わなければならない。「こいつもしかして商売で俺と話してるのかな」
だから私はステルスマーケティングやアフィリエイトブログを憎んでいるし、もしサードブロガーがそのような業者もしくは「お金目的の個人」であり、
だからあのようなハチャメチャな記事を書いているのだとするならば、
私はもっと彼らを苛烈に攻撃するだろう。しかし今のところ彼らにそのような悪意は無いと私は見なしている(彼らは単に文章力が無く、かつ成り上がりたいだけなのである)。
狙わずに隙のある日本語書く人って意外と少なくない気がする。外から見て筋の通らない言動をする人も/それが本気だから性質が悪い、と言うこともあるわけで。
http://b.hatena.ne.jp/murishinai/20131210#bookmark-172779102
万が一彼らが業者だったとして、はてなもそのような「商用人種」ばかりになってしまうのなら、私のような「妖怪」はまた失望に襲われるだけだ。
私たちは2ちゃんねるでも、ニコニコ動画でも、いろんなサイトで、そのような「真」を表さない商用人種ばかりになっていく光景を見てきた。
私たち妖怪の住処はどんどん無くなってきているし、妖怪から商用人種(一般人・健常者)に転身する人もたくさん見てきた。
はてなも妖怪の住処でなくなるのなら、それはとても悲しいことだ。
話は変わるが、この文章の前半で挙げたネトウヨのことであるが、最近は「カズヤチャンネル」「テキサスおやじ」とか「竹田うんぬん」が
目立っているが、どうも彼らにも「ネトウヨビジネス」疑惑が持ち上がっているらしい(ビジネス右翼なのでは?と)。
そういうふうに、人のやることなすことを何でも「ビジネスなのでは?」などと疑いたくはないのである。
そういう風に、いちいち他者を疑わざるをえない世界にしたのはステマ業者とアフィブロガーであり、だから私は彼らを憎悪しているのである。
https://twitter.com/souretu_bot/status/409150258795401217
[2005/11/13(日) 22:21:36]若い頃の思い出って大切だと思う。てか、老人にとってそれが全てだろ。 青年時代に恋愛の一つもなかった、愛してくれた女性の一人もいなかったという記憶が、 老人喪男にどう圧し掛かるんだろうな?その前に狂ってしまってるかもな。
そっか。そうなんだな。正規化すると、「自分を愛してくれた女性」という体験も原体験も、自分の人生には無いのだ。母親も、親友も、恋人も。
Tumblrで見かけたんだと思うけど:
「ブサメンの末路は、告白せずに嘲笑されるか、告白して嘲笑されるかしかない」
まさにこれ。
https://twitter.com/syakekan/status/409158707444854784
https://twitter.com/syakekan/status/409158195995607040
女の子と話をしていて、非モテブサメンを嫌いだという人の多くが、そういう人と話したこともない、という事実を目にするたびに、人間の洗脳ってきっと簡単なんだろうなって思う。
これは本当。女子大生がな、悪気もなしに非モテブサメン嫌いって言うんだよ。で、「実際イヤな思いさせられたの?」って聞くと「存在自体がキモい」って言うんだ。 こういう洗脳は大人がひとつひとつ解いていくしかない。この年齢のうちに。>RT
あたまでっかちになっているんだよね。
「自分の体験したことだけを信じろ」「歴史や偉人や他人に学べ」
どっちの極端に偏ってもダメだと思うけど、そのバランスが後者に偏重してしまってるんだよね。
あとアイドルとか役者とかの、美しさへのブームの弊害もあると思う。
「美しくないものは、存在価値がない」という思想。それが自身や他者や世界観に影響を及ぼしている。
まあ自分もその頭でっかちになってるんだろうけど、もう「恋愛しよう」とかいうモチベーション、気力と体力、リソース配分の優先度設定、そういうものがなくなってしまった。
恋愛を意識するとつらくなるから、既婚者や恋人がいる女性のほうが安心して話ができる。変な気を起こさないから。
フリーな女性だと変な気が起きやすいので、その場合は「俺は嫌われている」という仮想敵国みたいな設定をしている。
そのほうが「恋愛本能」のようなモノが働かなくなるのでオススメ。それが働いてしまうと、つらい思いしかしないし、つらい結果しかないから。
17歳女、Cカップです。
「推定無罪」ってあるじゃん、とりあえず、有罪と宣告されるまでは無罪みたいなやつ。
ソースが匿名の情報、例えば2ちゃん、増田、小町なんかは、「推定釣り」で良いと思うわけ。
釣りじゃないことが確定的に明らかなソースが出てくるまでは、推定釣り。
2ちゃんで良く飼い慣らされたやつなら、id書いた紙と妹のパンツ一緒に撮った写真見るまではとりあえず釣りって思いながら見てるじゃん。
「釣り判定けしからん!」ていう人いるけど、釣られる方がけしからんよ。
「釣りかどうかはともかく、なんだか強く心を揺さぶられた」ていう人いるけど、やばいよ。
その人達が示してるのは「嘘の情報で人の心を動かすことができる」ていう事実。
洗脳よゆーぢゃん。
オレx2詐欺超よゆーぢゃん。
映画とか本とか小説で、「作り物」で強く心を揺さぶられることあるけど、
「作り話をさも事実かのように話す」ことに心動かされるのとは全く別だかんね。
「Based on a True Story」の映画でも、役者が脚本通りに演じてるだけだから。
その話のソースが映画・本・小説であること。その時点でわたし達とその話の間には一発フィルターかましてあるの。
うわさ話で、「いや、嘘じゃねーから」て言うこと。
受け取った情報との距離感がもうね、全然ちがくなっちゃうゎけ。
わたしの中学生の頃、部活の後輩に変な奴がいて、そいつがガチ創価学会員らしいっていう噂がいつの間にか広まっていて。
ある部活終わり、その子とたまたま片付けで二人きりになったとき、わたしは創価学会のことについて無性に聞きたくなって。
「◯◯くんって創価学会なんでしょ?」
って聞いてみたら、
「え?違いますよ!誰がそんなこと言ってるんですか!?俺創価なんて大っ嫌いなんですよ!」
てすごく怒って、トランペット叩きつけて帰っちゃったことがある。
現実でだって、簡単に嘘の情報が広まって人を傷つけてしまうことがある。
いわんやネットをや、でしょ。
以上、17歳女、Cカップより。
こちらからは以上です。
( 追記 )
なんでもかんでも「はいはい釣り乙(ドヤ」ていう風潮にも、ムカつくのもあるけど。
なんでもかんでも「やべー!」って心動かされてるよりは、まだましかな。
と思ってのチラ裏でしたー。
チャンネル分離が難しいならば、バラエティには、次の注意のテロップを最初に入れてみてはどうか。
特別に訓練された芸人・役者が放送作家によって綿密に書かれた台本にしたがって、高度な演技をしています。
番組内容の真似をすることは、命にかかわる事故の危険性があり、対人関係において信頼を失う恐れがあります。
十分に注意してください。
また、未成年者の視聴は、保護者の監督下のもと、教育的要素を含んだ適切なコミュニケーションをとりつつ行ってください。
そんな野暮なこというな、お約束だろの反論はあると思う。
でも、子供は信じてしまうことが多いのが問題。リアルガチ風演出のようなドキュメンタリー風バラエティがおもしろいことはわかるけど、グレーゾーンはおもしろいけど問題が多い。
素人風の劇団員を使った映像作りや普段テレビに出ない素人対して、リアルガチ風演出にしたがってくれと指示を出すのは、問題がありそうな気がする。
報道にはマーケティング要素を除いたほうが望ましいが、新製品の扱いや国民的ムーブメントの扱いが難しいかもな。
速報性が必要ないものは、半年後とか1年後ならばOKとか無駄に人の動きをあおることはしてほしくない。
民放ならしかたないと思えるけど、公共放送で「Appleが新型iPhoneを出しました」と朝のニュースで流れる違和感。
みんなが欲しがっているから、乗り越えられる壁なのかもしれない。他のメーカーじゃそこまで報道されない。
みんなという仮想ペルソナの知りたいことが拡大解釈されているのかもしれない。
なんかさ、自発的にやりなさいって 呪いだよな。
ヤリたくないことを、自発的にやりなさい。
嫌なことを 自発的にやりなさい。
ひどくね? やりたいことなら、自発的にやってるだろ。ふつう。
構造や設計が間違えてるのに、役者のせいにする。それってどうなの?という感じ。
愚痴だけどな。
理由が書いてないからなんともいえないけど、なんとかなるさ。
逆に言うとそうとしかいえない。
正しく生きないと、とか、失敗しちゃいけないとか、何かそんなことに縛られてる風にも感じるけど、逆に考えれば良い。
正道なんかない。好きな事やって何度も失敗してそれを経験として生かせれば、これからも何か人生が楽しくなる道はあるんじゃないか。
とはいっても、こういう風に考えてしまう人はもう価値観が固まってて駄目なのかもしれないけど。
俺なんか役者なんかやってるから、役者の道を志した時点で真っ当な人生には出来ないなと腹をくくったし、だからこそ少しでも真っ当になれるように頑張れたりもする。
俺の言う真っ当ってのは生活できるだけの金を定期的に手にする事が出来るってだけなんだけどさ。
少なくともこういった告白を茶化したり揚げ足取ったりするような人間にはなりたくないね。
増田にはそういうの多いけど。
ここ1年ほど、趣味の延長線でOB・OGを集めて定期的に舞台をしている。
プロの頃はスタッフがいたので、役者は演じることだけに専念していたけど、趣味となると全部自分達でやらなきゃならない。
私以外は殆どと言っていいほど何もしない。
小道具や衣装、音響機材なども「お金が無い」と言って一切お金を出さない。
毎週やっている自主練(ワークショップ)にも参加しないし、音の編集もしないし台本も書かない。
仕事が忙しい、主婦で母親業が忙しいと理由を付けて、舞台前のリハーサルも1回やる程度。
そのまま本番に臨んで、大体ダメ出しだらけのしょうもない舞台になって連中は凹んでいる。
よくイベントなんかで無償出演するんだけど、主催と対等な立場(むしろイベント盛り上げに協力してあげている)なのに
みな「出演させていただいている」などと卑屈な態度で、とんでもない悪条件でも「ありがたい、ありがたい」と言う。
私は、クソみたいな扱いされるぐらいなら協力しない方がマシと思って断ろうとするんだけど、そうすると
「せっかくいただいた出演の機会なのに、なんて礼儀知らずなんだ!」と罵倒される。
私は
毎回後片付けも洗濯も一人でやっているのに、
口ばかりの連中に翻弄されてばかり。
実にバカバカしい。
地域独占企業である電力会社は競争がないのだから、コマーシャルの必要はない。
それにもかかわらず膨大なコマーシャル費用を使ってきたのはマスコミに対する支配力を確保するためだ。
電力業界に都合の悪いことを言う役者やコメンテーターをテレビ番組から外してきたのはコマーシャル費用の力だ。
そして電力業界のテレビコマーシャル費用は発電のための原価として電力料金に上乗せされてきた。
批判する政治家もかつての福島県知事のように陰謀によって失脚させられてきた。
一部マスコミを使ってスキャンダルをでっち上げる陰謀がたくらまれているという、うわさが流れている。
原発ゼロ実現のためには、原子力ムラのマスコミ支配をまず打ち破らなくてはならない。
http://ameblo.jp/n-kan-blog/entry-11653842872.html
そんなバッシングをした人たちに紹介したい映画がある。 プライドである。
http://www.youtube.com/watch?v=83vTdrqDPZY
金持ちのお嬢様と貧乏から這い上がった女がオペラ歌手になるために蹴落としあう少女漫画原作の映画。
今をときめく満島ひかりも出ているんだけど、主役のステファニーが本当に酷い!
ステファニーは当時事務所からプッシュを受けていたようで、Mステとかにも出演したことがある。
http://www.youtube.com/watch?v=ji6f7MIKN-k
常に棒読みの演技でカメラに映っているだけで「ドスン」という効果音が聞こえそうな悪い意味での存在感がある。
だけどこの映画凄い面白いのだ。 ステファニーの演技のひどさが映画のバランスにばっちりハマっていているんだ。
映画にはバランスというものがあるしその為にうますぎる役者が必要でない時もある。
酷いけどそれがハマっている、もしくは逆に良い。そういうことがあるからなるべくやさしい目で見てほしい。
タレント全般が出している『私は才能で飯を食ってます感』がウザイ。
アイツ等の価値なんて、いわゆる『動物タレント』の価値と何ら変わらないのに
『私は才能と努力で今の地位を手に入れました』ヅラしてる所が。
『どれだけ露出するか』『時代の流れに乗れるか』で決まるんだから、
たくさん露出する事で
自身の『個』に価値があるように見せかけ『愛着』で商売してるだけで、
本人の才能や努力なんて、
大多数は平凡な才能と努力しか持たずに色んな流れに上手く乗れただけの存在)
と言ってもタレントが嫌いなワケでも
その仕組み(芸能界全般)自体に不満があるワケでも無い。
ただTV番組などで
『私は成功者です』みたいな顔をして
あまちゃんのステマが発覚した。たぶんどこもやってることで氷山の一角なんだろう。
2ちゃんでも●?とかが流出していろんな人の書き込み内容もバレたしね。
そういうことを知ったから最近、アニメ板とかドラマ板とかに居ても、「最終回に向けて盛り上がって来たね!」とかいうコメントでも、なんか白々しく感じちゃう。
「これもお金もらって書いてんのかなぁ」って感じて落ち込む。俺は本当の気持ちを書き込みたいけどこの人の書き込みはノルマなんだって。
それに今の2ちゃんは、なんか一方向に一致団結した不自然な書き込みが増えた。なんか「カタギじゃない」って感じがする。
昔の2ちゃんだってカタギじゃなかったけど、その頃とはなんか質が違う。今は皮を一枚向いたらロボットの集団が出てきそうな不気味さがある。
Youtubeもすごく酷くなってる。動画再生前のCMはもちろん、再生中も変な画像が浮かび上がってきて、それをクリックで消さなきゃいけない。
お目当ての動画を見るために何秒も待ち、何回もクリックしなきゃいけない。広告ブロック入れろよって言われるかもしれないけど
そんなことしなくてよかったのがインターネットじゃないのか。
そういえばスマホでも、ロックを解除するたびに広告を表示するアプリが開発されたらしいね。
みんな本当にそんなのを望んでるの?
マイノリティ・リポートっていう映画がそういうのをもっと発達させた世界観らしいね。
疲れた状態でネットをやると、広告のギラギラした色彩にめまいがする。必要な情報だけを見て、広告は排除しようと脳が頑張ってるけど、防御しきれない。
安心してページ全体を見ることができないし、昔と比べて、今のネットは一画面中の情報量が減ってる。情報量が多いのに情報量が少ない。
http://anond.hatelabo.jp/20130913110646
この人の言うことは凄くわかる。
トゥルーマン・ショーの主人公のジム・キャリーになっちゃう感覚だよね。
「親友だと思ってた人が、父親だと思ってた人が実は役者だったんだよ」って凄いショックだと思う。
掲示板で感動的な話を書いて人を騙したり、スクリプトでブログに書き込むってそういうことだよ。
人だと思って話しかけて、人だと思って話を聴いてるのに、その相手が「残念、ロボットでした~」って言う。
そんなことされたら、もう二度と騙されない為にその界隈には近づかない。侮辱だよ。
インターネットっていうものがどんどん変わっている気がする。それもたぶん面白くない方向に。
俺たちは一体どうすればいいのかなぁ?
たいていの友情は見せかけであり、たいていの恋は愚かさでしかない。
7 : ペスト・コントロール・オペレーター(長野県):10/07/27 16:27 ID:VXzEcToP
俺も人を信じないけど表面上は信頼してるように見せないと色々面倒だろ
すべてこの世は舞台、男も女もすべて役者に過ぎない。シェイクスピア
町山智浩氏「同じようにシナリオに問題があっても『ガッチャマン』は嫌われて、『パシフィック・リム』は気にならないのは何故だろう」 - Togetter
興味本位で観に行くのはデビルマンで懲りたので、ガッチャマンは観に行っていない。
だから、もしかしたらガッチャマンも作りこまれててスタッフに愛されている駄作なのかもしれないからそこは割り引いて聞いて欲しい。
元々、町山さんのつぶやきを素直に読むと、
という疑問だと思う。
是非劇場で観て欲しいから、映画の楽しさを損なわずに出せる具体例だと、以下の辺だろう。
まず、パシフィック・リムでは、登場人物たちは巨大ロボット(劇中ではイェーガーと呼ばれる)に対して、自虐的に説明しない。
「こんなのってまるでアニメみたいだな」のような逃げを打たない。
搭乗者たちはイェーガーに対して誇りや愛着を持って接するし、待機するイェーガーをゴツく雄々しくまるで鉄の塊のように表現する。
イェーガーこそが人類の切り札で、怪獣に対抗できる唯一の手段だということを、変に照れたりギャグに走ること無く、丁寧に見せてくれる。
搭乗者が歩くとイェーガーも歩くというシステムに対して、観客は笑うが、登場人物たちは笑わない。
パシフィック・リムは、深海の裂け目から怪獣が次々と湧いて出て沿岸地域を襲うので、巨大ロボットを作り運用し戦うという、特撮映画だ。
その冒頭、怪獣が現れ始めたという状況を説明するニュース映像に、ほんの一瞬だけ「カイジュウ・ブルー」という単語が現れる。
確か、字幕でも触れられていないくらいの短さだ。
正確に覚えているか自信はないが、「倒した怪獣の死体を処理するのに苦慮している。強酸性の血液は処理をより困難なものにさせ」という感じだった。その中でカイジュウ・ブルーと言っているのだ。怪獣の流す青い血液が、カイジュウブルーとメディアに命名されている。
この設定自体は使用されているので完全に無駄ではないのだが、このニュース映像、誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せる。
それを、倒れた怪獣の死体とともに、処理している人物たちを映し出すほんの一瞬のニュース映像をキチンと作りこんでいる。
設定に矛盾があったり、工学的にも技術的にもありえなかったとしても、その世界の中でそういうものであるということ、丁寧に丁寧に作りこんである。
「2つ、言っておく事がある。1つ、二度と俺に触るな。2つ、二度と俺に触るな」
不承不承返事をする主人公に対する対応も、コメディではなく真面目に演技をしている。
司令官の演説を熱いと思うのは、そこに至るまでにパシフィック・リムの世界にどっぷりと浸かれるようになっているからだと思う。
司令官は一貫して怪獣に対抗するにはイェーガーの運用が必要だと信念を持って行動しているし、世界を救えるのはイェーガーしかいないと信じている。
少なくとも「そういうキャラクターなんだ」と観客が思えるような台詞と演技をしてくれる。
名前すらないような登場人物ですらそうだ。
劇中「良いニュースと悪いニュースがある」と言う、これまた典型的な台詞を吐く人物が出てくるが、丁寧に演技をしている。全く雑さがない。
そこに現代ではないパシフィック・リムの世界があり、その世界の人物がコミックのキャラクターのようにしか見えなくても、彼らがそこで生きていると信じられるとすれば、彼らはそこに生きている。
幻想を現実へとすり替えるのは、7年の月日でサビが出始めた操縦席かもしれないし、猛威を振るう怪獣の姿かもしれないし、絶望的な表情でテレビを見上げる労働者の姿かもしれない。
それぞれは本当に小さな事だ。
(裏取りしたことはないけど)開けない箪笥の中に着物を入れたり手紙を入れたりしたことは、エピソードとして結構有名だ。
プライベート・ライアンで、本物さながらの過酷な訓練を救出側の役者に行わせ、救出される側のマッド・デイモンには一切行わせずに途中合流させて、凄まじく険悪な雰囲気の中で撮影を行ったというのも、またそこそこ有名な話だ。
それらは一切、画面には表出しない。
いや、正確に言えば、本当に微妙な形では表出する。
動くときの所作だったり、唇の皮肉な皺であったり、疲れた目で相手を睨めつける仕草に。
それぞれは指摘するほどのこともない、指摘できない、本当に微妙な差だ。
でも、その積み重ねが、妥協しない作りこみが、圧倒的な熱量の愛情が、我々の心に届くのだ。
シナリオの不出来をねじ伏せて余りある情熱を感じ取れるかどうかが、きっとその差になっている。
ギレルモ・デル・トロの脳内にしか無かった怪獣と巨大ロボットとが大乱闘する特撮ファン垂涎の世界がスクリーンに現れたのは、間違いなく情熱を持ったスタッフの手腕によるものだ。
まだ間に合う。是非、大スクリーンで観て欲しい。
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そこまでして、芸能界入りするもトークが下手でタレントとしてバラエティに定着できず
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一発屋として消えるかと思われたが、意外と役者の才能があり俳優業へ
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俳優業のほかにNHKでも番組の司会を務めるなど、そこそこやっていけるようになる。
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衆議院選で石原伸晃と同じ選挙区の東京8区に出馬。当然落選。(が、大差とはいえ次点に付けた)
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ざっと書いたこの経歴だけでも面白いが。他にもメロリンQ、衆議院落選時の勝利宣言、新党今はひとり、円形脱毛症、妻の話など小ネタには事欠かない。
こういうトンデモでエキセントリックな人物って同時代の自国の人間じゃなければ結構、いや相当おもろで愉快なキャライズムだと思うのよね。-
今後山本太郎が教科書に載るような歴史的にメジャーな人物になるとは思えんけど、1000年後の歴史マニアな漫画家ねり小説家が見つけ出して掘り起こして、山本太郎をモチーフにしたキャラとか作りそう、いや作ってほしい。
1000年後の歴史マニアに見つかるためにも、山本太郎にはこのままただのトンデモサヨクなどという小さな枠にとどまらないダイナミックな活躍を期待したいところ。
自由な校風が売りの旧制中学の流れを組む都立トップ校出身だけど、自由すぎてドロップアウトした人とか、非モテもたくさんいる。だから、リア充かどうかって意味じゃ、新興私立と公立の違いはあってないようなものではある。
でもそのほかの部分で、私立の受験マシーンな人とは大きな差はある。
高校のころから好きなことを自由にやることに慣れてる、しかもそれが人と違っても教師も友人も気にしないことから、「みんなと同じ」に対する執着が少ないこと。人と違うことをするリスクが取れること。周りの目を気にせず好きなことを追求できること。
このアドバンテージはかなり大きい。
同級生には、みんなそこそこの大学を出てるけど、普通の会社員もたくさんいるし、会社を興したやつやNPOの代表がいれば、留学してそのまま海外で働いてるやつもいる。もちろん医者も弁護士もいる。漫画家もいる。役者のたまごもいる。失敗したやつも、そこから本人の才覚と努力で復活したやつもいる。この多様性こそが彼岸の差を分けるもっとも大きなものなのだ。何よりみんな楽しそうにしている。
世間の目なんていうつまらないものを気にせず好きなことをする。失敗しても成功しても、辛いことがあっても、それ以上に楽しい瞬間がある人生。それこそが豊かな人生というものでしょう。
一時期西部劇ばっか観てたんだけどまとめてくり~とかよく言われてたんでまぁ雑に挙げてみるかって感じで10分ほどで書いた。
西部劇も西部劇でマニアがうるせぇ分野だから文句はあるだろうけど,ロクに観てない人はこれを上から順番に追っていけばそれなりに文脈は追えるんじゃねーかなと思う。
クライマックスにおける馬上の闘いが(当時の技術水準としては)大迫力。
ハワード・ホークス監督による傑作。ジョン・ウェインの本格的な出世作でもあり,彼の役者としての方向性を決定づけた。
簡単に言えば牛追いの話なのだが,「カウ・ボーイ」がそもそもどういうものなのかよく分かると思う。
ちなみに都内のレンタルだと渋谷TSUTAYAくらいにしか置いてない気がする。廉価版は500円しないのでどうしても観たい人は買おう。
ジョン・フォード×ジョン・ウェインの代表作としてよく挙げられるもののひとつ。
当時のアメリカ人視点における先住民への意識も読み取ってほしい。
遠景の撮り方などは『アラビアのローレンス』のデヴィッド・リーンやスピルバーグも参考にしたとされる。
まぁベタな名作。これを原型とした作品も多いのでとりあえず観ておけ的なもの。
セルジオ・レオーネによるマカロニ・ウェスタンの嚆矢。黒澤明『用心棒』の盗作として話題にもなった。
チープなセットに単純なストーリー,ハリウッドのヘイズ・コード下では不可能な暴力表現などが特色。
主演クリント・イーストウッドは以降西部劇における大スターとなり,本家ハリウッド西部劇にも影響を与えた。
セルジオ・コルブッチ監督。マカロニ・ウェスタンの代表作としても名高い。
ちなみに『荒野の用心棒』とはストーリー,キャスト,スタッフどれもまったく関係がない。
レオーネ以上に徹底的な娯楽志向で,歴史考証など本当に適当,とりあえず決闘がカッコよければよいという感じ。
この前タランティーノがジャンゴを作ったが,それの元ネタがこれである。
レオーネ後期の代表作。
他の監督なら20秒で済ませるようなカットを無駄に5分以上使ったりと,現代人にはちょっとしんどいくらいの長回しが大きな特徴。
配給もハリウッドであり,大予算がかかっているため「マカロニ」の趣は既になくなりつつある。
スローモーションと巧みなカット割が最大の特色。香港映画のジョン・ウーにめちゃくちゃ影響を与えた。ということは『マトリックス』とかもこれの系譜ってことになる。
アメリカ映画もレーティング制になったため,暴力表現が解禁され血みどろの演出がなされるようになった。
ラストの破滅感は「アメリカン・ニューシネマ」というムーブメントにおける文脈からもよく語られる。
『駅馬車』,『捜索者』などで見られるインディアンへの扱いを再考させられる作品。
ベトナム反戦運動とかそういう文脈でアメリカ人が自分らのアイデンティティを見つめ直していたってことも念頭に置いて観るとよい。
ちなみに『明日に向って撃て!』や『やつらを高く吊るせ!』でもそうだけどこの頃から徐々に黒人兵も作品に出演するようになる。
古きよきハリウッド西部劇,マカロニ,ニューシネマなどといった一連の西部劇史を包括する超名作である。
ちょうどここらへんから彼も文芸性の高い監督と見られるようになってきた感もある。