はてなキーワード: 実践とは
前提として、以下を読みました。
1. 元記事 https://nuc.hatenadiary.org/entry/2021/03/31
2. chokudaiさんの返信 https://chokudai.hatenablog.com/entry/2021/04/01/115755
3. nucさんの謝罪(?) https://nuc.hatenadiary.org/entry/2021/04/02
ふだんはインターネットのあれこれについてROM専ですが教育と教育倫理に携わる者の端くれとして3の記事に対し、このような方が教育を大声でかたることの危険を感じたため筆をとった次第です。
私は教員→ソフトウェアエンジニアとして数社→公教育ではないとある教育機関で勤務、といった経歴にあり、大学で学ぶ程度の教育学と小中高領域の教育に関しては多少通じています。ちなみに務めた会社にGoogleは含まれず、競技プログラミングについてはソフトウェアエンジニア時代にちょっとかじった程度で歴史やコミュニティに詳しいわけではありません。
1の記事についても賛同・異論含めていろいろあるのですが、そちらは各個論点についての意見が異なる程度の話ですので割愛します。なお、両者の知り合いでもないので通りすがりによるネットの怪文書程度の位置づけで結構です。
いきなり教育の話から逸れて恐縮ですが、謝罪慣れしていない方がやりがちな失敗がいくつもあり、謝罪文として看過できない点をいくつか指摘します。
教育哲学・児童心理などを学んだり活用する立場にある私にとって、トラブル対応や謝罪について考え実践する機会は山程あるのでその経験から思ったことでもあります。
他人のためを思ってやったことが相手に対して失礼だったとき、傷つけたとわかったとき、「そんなつもりはなかった」と言い放つことがどれほどひどいことか、私は見てきました。
ハラスメントやそれらにまつわる謝罪で最も悪手の1つです。間違えた側にできるのは一切の言い訳なく謝ることです。
https://note.com/tm88817/n/ne5025239f31a から私が肝要と思っている節を引用しました。
この文章がタイトルに示されるような謝罪文であるならば、この一点においてすでに重大な間違いを犯しています。
余談ながら、謝罪の本質を中学生ぐらいの子どもにそのように教える機会があります。経験上、成績がよく普段は問題を起こさないが内実プライドが高く誤り慣れていない子どもは「そんなつもりはなかった」「相手が勘違いした」といった言い訳をする傾向にあります。私の個人的な体感ですので一般化はできませんが。
これについては、意図せず失礼なことを書いたとお詫びしたいと思うと同時に少し背景の説明と本来の意図をご説明させてください。
先述と同様です。失礼なことを書いたと自覚しているなら本来の意図の説明は不要です。
背景と意図を説明するのは「自分に過失がないと確信しており、誤解を解くために誠意を尽くす」場合です。過失が誰にもなくても誤解やすれ違いというのは生まれるものですから、そのときは真摯に伝え直すのみです。
私は、このけんちょんさんのために仕方ないと思って記事を書いたのですよ。本当に面倒で書きたくなくて、他に書くものもあり、ツイッターで書こうかなと宣言して自分を鼓舞までしたのに、2ヶ月以上かかりました。
nucさんがchokudaiさんを不快にさせる文章を書いたことについて謝るために、矛先を向けさせるような形で第三者を巻き込む必要もなければ、あなたの事情を説明する必要もありません。
また、自分を鼓舞までして2ヶ月以上かけて書いた事実があったとして、謝罪を受けた側に何の意味があるでしょうか。過失を避けるように努力したのであれば法的にも情状酌量の余地はありますが、「努力をしてやったことだから引き起こしたことの罪が軽くなる」、なんてことはないのではないでしょうか。
言いたいことはたくさんあるのですが、「教育者として避けてもらいたいこと」に焦点を絞ります。
結論だけ言うと、これだけの悪手を悪意なく行う人に、教育者として後進の育成に関わってほしくないと感じました。成功者だけでなく被害者が生み出されることを危惧しています。直接指導でなくとも、技術力を活かして別の形で関わって頂くこともできるのではないでしょうか。
そりゃそうじゃないですか、「競技プログラミングをする」という表現は当時はなくて、「プログラミングコンテストに出る」と言っていたわけです。だから、競技プログラミングといえば、自分たちが大学生の頃の集まりを指すわけです。
発端となった1の記事では田舎初段といった言葉を用い、まさにそのことをご自身で説いておられたかと思うのです。
特に後者の「競技プログラミングといえば、自分たちが大学生の頃の集まりを指す」は少なくとも私にはまったく自明ではありません。ある程度客観性を持った事実なのかどうかを確認するためGoogleで「競技プログラミング」について検索をかけてもnucさんと同じ解釈を見つけることはできませんでした。
5歳くらい歳が離れると一部の言葉が通じなくなることがあるのは、少し前に「アンチ」という言葉で強く実感したことがあります。これもそうなのでしょう。
唐突に、。穿った見方をすれば、今回のコミュニケーションの失敗の原因を年齢差に帰しており、自身には過失がないといった主張に読み取れます。
歳が離れると一部の言葉が通じなくなることは、年の離れた相手の教育に携わっていればどうやってもわかることです。
ですがこれを理由にしてこちらから対話を閉じたり、「言ってもわからないだろう」といった態度をとるような方に教育を声高に語っていただきなくないです。
私がかつてドラゴン桜に対して抱いた印象を思い起こさせます。東大に入るのは「かんたん」、かんたんには但し書きのカッコが付きます。
ただし適切な素地があり適切な対策を十分かつ継続的に行えた場合、です。場合によっては家庭からの適切なサポート、障害やハンディキャップを持っていないこと、も条件に含まれます。
1の記事で以下のように述べられており、大学院に行くことが人生の選択肢にない人の存在にショックを受けたとありますが、そのときに培われた想像力を今一度働かせて頂ければと思うのです。
まさか戦後生まれで大学院に行くことが人生の選択肢にないことがあるとは思わなかったので、私は本当にショックでした。30を過ぎるまでこれにまったく気が付かなかった自分自身への怒りで、視界がおかしくなっていました。
とある医学部教授から「読んだよー。文章はいいけど、お前が卒業生をひょいひょい適当にエンジニアにすると教授会で問題になることがあるから、するんだったら出来の悪いのにしてよね。いいね。ほんと頼むよ。特にそこにいる生徒会長みたいなのはだめだから。」ということなので、今後は、あらかじめ「出来が悪いかを問い合わせる」約束をしてきました。
ちょっとした怒りが湧きました。
今後nucさんに面接対策を依頼し、OKをもらえた学生は医学部教授が出来が悪いと認定した医学部生になる、ということとなります。
このような文書を公開し、残し続ける限り、nucさんの生徒・元生徒が目にする可能性があります。
教え始める前にせよ後にせよ、もし私がnucさんの生徒としてこの一文を見たらと思うと激しい動悸がします。
この一文をどんな思惑があって追加したのかわかりませんが「諸事情により今後は医学部生の生徒を取ることを控える可能性がある」程度で良かったのでは。
「かわいそうなことに、りりあんさんは、いかれた3人の模擬面接官が今まで何をやっていたんだと慌てふためいたことにより、2週間のリアルタイムアタックを宣告され、無理やりクリヤーさせられました。コスパがよかったですね。でも、こっちの胃までおかしくなるから真似しないでね。」で終わるのですが、これだけ書いてもぜんぜん広まらなさそうですよね。そこに、フィロソフィーと教育関係の問題意識の話を突っ込むとこうなります。
1の記事における教育関係の問題意識の話については首肯できる箇所もあり、志の高い方という印象を受け共感もありました。しかしながら1の記事で持ち込まれた教育関連の話が、自身の記事を広めるための方便・道具であったことをここで暴露しておられます。
自身の教育論を手段として使われることは主張自体の価値や正当性を毀損するものではないですが、3の謝罪文の端々にあらわれる不味さから、教育を声高に語らせてはいけない方だという印象に修正されました。
特に教育と一言に言っても指す領域は広いことを認識されておられない点。アカデミックな領域についてはnucさんは私などより遥かに広く深い見識をお持ちなのだと思いますが、それが全てであるかのようには誤解されたまま教育問題をバズるための方便として喧伝することは事実認識を歪めることにつながります。
以上が教育関連で私が主張したいことです。
逃げることばっかり書いてあって、最初から逃げ道だけ教えてるってマジで駄目って事に気づいてないんだろうなって。
極論で言ったら「明日、月曜だから仕事行きたくないから逃げるわ」ってこの程度で逃げる奴が出来上がるんだけど。
人生楽なことばっかりじゃないって話。
嫌なこともあるけど、逃げてばかりじゃ解決しないものもあるからって話から進むなら分かるよ。
だけど「大半が嫌だと思ったら休職してください。仕事を辞めるか検討する時間を作りましょう」とか言ってる自称人生の先輩様なんてのもいたけど
いや、そんな事で休職するなら数日休むなりして、さっさと仕事をやめろよと。やる気のないのが居たってしょうがないだろう。
散々悩まれた挙げ句に、だんまりしてフェードアウトするくらいなら辞めたほうが企業も本人も得するんだよ。
休職されたら要らない従業員が在籍し続けるわけだ。その上、休職して復帰、休職して復帰のコンボが発生する可能性もあるし。邪魔でしょ。
逃げていいって言葉だけじゃなく、逃げるだけじゃどうにもならないってことも説明しろよと。
どいつこいつも逃げることばっか勧めてるの。逃げるくらいなら働かないでほしいんだよな。
「自分は大丈夫です、即戦力になりますよ」なんて自信ありげな子が初日に客とまともに話すことも出来ないのにクレームくらって逃げるとかね。
こっちはわかってるんだよ。君等新人が即戦力にならないことは。
知識だけあっても実践は出来てないんだから、うまく出来るわけがない。だから、最初に言うんだよね。
「最初はうまくいかないし、うまくいってもラッキーだった程度に考えたほうがいい」
「でも、うまくいったらうまくいった感覚は忘れないでね」
ってね。
それを働く前に「辛くなったら逃げていいよ!(どや」って新社会人に言っちゃう人。
というより「結婚・出産を否定しないフェミ」の方がおかしいのだが。男と番って家父長制再生産してるやーん、加害者としての男児、被害者としての女児を再生産してるやーん、って思う。
他の男と違ってアタシの連れ合いだけはフェミニズムに理解ある彼くんだから法律婚しても家父長制の強化には加担しない、自分の息子は絶対にフェミニズム的にコレクトネスな女性を加害しない男に育ててみせる……バカじゃねぇの?
たいてい自分より稼ぎの良い(少なくとも腕力は強い)夫に庇護されながら妻が子を産み育ててる時点で愛というオブラートに包んだ家父長制なんだっつーの、個人的なことは政治的なことなんだっつーの!
息子を絶対にフェミニストに育てるとか、そこまで子供を親の思い通りにできると思う傲慢が怖いわ。そんな抑圧的な母親に育てられたら、高確率で女すべてを憎むミソジニー・モンスターが生まれるわ。
少なくとも妊娠したのが男児だったら中絶すると言えないフェミは信用に値しない。
もし子供を産み育てるにしても、オスは種だけ絞って殺す、男児が産まれたら殺す、女児だけ育てる、女だけの町で生きる、というアマゾネスであるべき。
刀は足軽でも装備しているのが普通。というか刀はおびただしいほど出回っていてすべての男が装備しているのが普通だった。
槍は「長さをそろえる必要があったので」支給される場合が多いが、使える場面がむしろ局所的(戦の序盤か早期に決着がつくときには集団が密集しているので強いが、だんだん長引いて来ると雑兵は士気が衰え撤退も増えるので槍の特性があまり生かされなくなってくる)。
また足軽はそもそも槍で人を倒すのではなく槍衾で敵の動きを制御して誘導する役割だった。足軽は大した戦闘訓練も受けていない場合が多いからもっぱら補給と戦闘補助。
実質的戦闘員は場面によって槍も日本刀も使う。だが槍はかなり重いので早期に決着がつかない場合はとてもじゃないがいつまでも使えるものではない。そういう実践的な視点がないと槍長いじゃん強いじゃんという短絡的なものの見方しかできなくなる。
設定が雑なので雑に書くぞ。URL貼りすぎると投稿できないから所々自分で見つけて。
Udemy終わったら本
DeepLearning
理論(というか↑で紹介してない本)
韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督の2020年の作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である。
描かれる時代は、アジア太平洋戦争で日本帝国が敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争の責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去を清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。
その標的はまず、戦前は絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前・戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。
戦後日本を象徴する言葉は、長いこと、「平和と民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。
天皇の戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年→1945年)アジア太平洋地域で戦争を続けた近代日本の実像を覆い隠し、この戦争の全体像を、最後のわずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島・長崎の「悲劇」を前面に押し出し、米軍占領下の沖縄は辺境ゆえに無視して、日本全体があたかも戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦・平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。
1960年の安保闘争の時にも、1965年の日韓条約反対闘争の時にも、戦前の日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在を分析する言動はほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会は総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。
1960年代後半、この社会・思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長の過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長の最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。
時代はあたかも米国のベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島に輸送される米軍物資の調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジアの民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。
加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人や先住民族(インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配が人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。
「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本の近代史と現在が孕む問題群に、「民族・植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。
「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み
「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計』から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。
「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係な一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーションで流れる。
多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。
その責任の一端が、「反日」そのものの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。
画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊の大道寺将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係も自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶と悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。
映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えのなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。
「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画を制作したのは、韓国の映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画を制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議=編『支援連ニュース』420号、2021年3月6日)。社会的正義のために、加害国=日本に搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日」メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。
だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場用パンフレット所収)。
74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本の自分たちが戦後の「平和と民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本の植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。
そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現と言論の自由を獲得した韓国の新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画が日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本も韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援連ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。
最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性の存在だと思われる。
刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たちの闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。
キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。
死刑囚の獄中書簡集を読んで、あんな事件を引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつうの青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑囚である義兄とは、媚びへつらいのない、上下の関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。
そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督も女性だ。弱い立場にある労働者の現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規の女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこの作品に脈打っていたフェミニズムの視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。
CMとしての是非もそうだけど(非だけど)、ちょうど今森会長やらオリンピッグやら呉座騒動といった性差別問題が頻発していて、「ジェンダー平等を掲げること」それ自体が必要だ(声をあげることが重要だ)と言われているという背景もあると思う
謝罪文でも「議論を越えた実践」みたいに言われていたけど、むしろ議論が足りてない、まだまだ世の理解を深めていかねば、っていうタイミングでこのCM出すって時勢全然読めてなくて乾いた笑いしかでない
解釈については作り手の意図としては元増田の言う通りだと思うけど、結局は広告なんて見た人がどう捉えるかが全てなので……ちょっと飛躍してでも良い解釈をしてあげるには、CMに誠実さが足りなさすぎる
「女には理解のある彼くんが現れても、男が理解のある彼女ちゃんに救済されることはない」という意見がある。
しかし実際は性別は無関係で、理解されパワーを上げれば理解者が獲得できる。
女性は幼少時から理解されパワー上昇トレーニングを積み重ねているので理解されがち、ということだ。
だから男性も、遅まきながら理解されパワー上昇トレーニングを開始するのがよい。
「男は年収や社会的地位を上昇させることで女を獲得するのであり、それしか方法がない」、というのは間違った思い込みだ。
やってみないとわからない。
「女はチヤホヤされる、男は愛されない」と嘆く前に、理解されプロの理解されビヘイビアをよくよく観察して実践する。
佐々木宏氏の発言やそれへの批判について。ブレスト中の発言なら、差別だろうが何だろうが責任を問うのは、非常にナンセンスだ。
よく知られている通り、ブレストとは、集団で良いアイディアを出す方法で、
1. 粗野な考えを歓迎する
2. 批判しない
3. 質より量を重視する
4. アイディアを組み合わせる
もっとも、今や「ブレスト」という言葉自体はアホでも知っているので、きちんと方法論通りに実践されていることは、むしろ稀かもしれない。
ブレストである以上、一般には、その発言をした本人すら、その提案が良いとは思っていない。
もちろん、全くの粗悪なアイディアを提案するわけはない。「欠点はあって当然」「一部に良さがあるかも」というレベルであっても発言し、聞き手はその欠点を批判することなく、良さ活かしながらアイディアをふくらませるのがブレストの正しいやり方だとされている。
今回の話題で言うなら、差別的だという欠点自体は後で修正するという前提で、例えば
という程度の考えで、渡辺直美に豚の格好をさせる提案をしても良い。
重要なのは、そのような提案をしたからといって、本人すら、その提案が最終案として良いと思っているとは限らないということだ。
実際、私自身もあえて偏見を混じえた非倫理的な提案をすることは多い(その場合、対面コミュニケーションなら、自分で苦笑しながら提案するなど、倫理的に問題があるという認識自体は共有しながら発言することが多い)。
ブレストとはそういうツール/ルールであるということが理解されるべきだ。
したがって、ブレストでの発言に倫理的な責任を問うのは非常にナンセンスだ。
同様に、ブレストでは質が低くても良いという前提で発言される以上、提案内容を切り出して「面白くない」などと質を批判するのは全くの無意味だ。
発言に対しむやみに倫理的な責任を問うのは、みたに議員のツイートの通り、「クリエイターとしての仕事に過大な制約を課すことになりかねないし、将来にわたって大きな禍根を残すことになりかねない。」
一般論として、ブレストの発言に責任を問うのはナンセンスだと書いた。
まず、ブレストを行っていたLINEで、その場でメンバーから批判が出たという点だ。
上で書いた通り、ブレストでは批判を行わないのがルールだ。しかし、今回は批判が出た。
これは、メンバーが佐々木氏の提案を「粗野で良い」「欠点があって良い」「差別があっても後で修正できれば良い」とみなしていなかったということだ。
つまり、佐々木氏は「ブレスト中の発言だ」と弁明しているものの、メンバーはそれ以上に影響力のある発言だとみなしていたはずだ。
そのような文脈下で行われた発言として、佐々木氏の発言が責任に問われるのは理解できる。
言い換えれば、逆説的だが、佐々木氏の発言はスルーされず、ブレストのその場で批判されたからこそ、その内容には倫理的な責任がある。
繰り返すが、だからといって、「一般に」ブレストでの発言について責任を問うのは、非常にナンセンスだ。
ブコメを見ていると、天皇家や自民党議員への侮辱ならOKなんだろうという批判が★を集めている。
所詮はてなとはいえ、個人的にはこんなに愚かな論点ずらしが共感されているのは呆れる。
当然、天皇家であれ自民党議員であれ、ブレスト中なら侮辱してもOKである。それが集団による創造・発想のためには必要だ。
佐々木宏氏の発言やそれへの批判について。ブレスト中の発言なら、差別だろうが何だろうが責任を問うのは、非常にナンセンスだ。
よく知られている通り、ブレストとは、集団で良いアイディアを出す方法で、
1. 粗野な考えを歓迎する
2. 批判しない
3. 質より量を重視する
4. アイディアを組み合わせる
もっとも、今や「ブレスト」という言葉自体はアホでも知っているので、きちんと方法論通りに実践されていることは、むしろ稀かもしれない。
ブレストである以上、一般には、その発言をした本人すら、その提案が良いとは思っていない。
もちろん、全くの粗悪なアイディアを提案するわけはない。「欠点はあって当然」「一部に良さがあるかも」というレベルであっても発言し、聞き手はその欠点を批判することなく、良さ活かしながらアイディアをふくらませるのがブレストの正しいやり方だとされている。
今回の話題で言うなら、差別的だという欠点自体は後で修正するという前提で、例えば
という程度の考えで、渡辺直美に豚の格好をさせる提案をしても良い。
重要なのは、そのような提案をしたからといって、本人すら、その提案が最終案として良いと思っているとは限らないということだ。
実際、私自身もあえて偏見を混じえた非倫理的な提案をすることは多い(その場合、対面コミュニケーションなら、自分で苦笑しながら提案するなど、倫理的に問題があるという認識自体は共有しながら発言することが多い)。
ブレストとはそういうツール/ルールであるということが理解されるべきだ。
したがって、ブレストでの発言に倫理的な責任を問うのは非常にナンセンスだ。
同様に、ブレストでは質が低くても良いという前提で発言される以上、提案内容を切り出して「面白くない」などと質を批判するのは全くの無意味だ。
発言に対しむやみに倫理的な責任を問うのは、みたに議員のツイートの通り、「クリエイターとしての仕事に過大な制約を課すことになりかねないし、将来にわたって大きな禍根を残すことになりかねない。」
一般論として、ブレストの発言に責任を問うのはナンセンスだと書いた。
まず、ブレストを行っていたLINEで、その場でメンバーから批判が出たという点だ。
上で書いた通り、ブレストでは批判を行わないのがルールだ。しかし、今回は批判が出た。
これは、メンバーが佐々木氏の提案を「粗野で良い」「欠点があって良い」「差別があっても後で修正できれば良い」とみなしていなかったということだ。
つまり、佐々木氏は「ブレスト中の発言だ」と弁明しているものの、メンバーはそれ以上に影響力のある発言だとみなしていたはずだ。
そのような文脈下で行われた発言として、佐々木氏の発言が責任に問われるのは理解できる。
言い換えれば、逆説的だが、佐々木氏の発言はスルーされず、ブレストのその場で批判されたからこそ、その内容には倫理的な責任がある。
繰り返すが、だからといって、「一般に」ブレストでの発言について責任を問うのは、非常にナンセンスだ。
ブコメを見ていると、天皇家や自民党議員への侮辱ならOKなんだろうという批判が★を集めている。
所詮はてなとはいえ、個人的にはこんなに愚かな論点ずらしが共感されているのは呆れる。
当然、天皇家であれ自民党議員であれ、ブレスト中なら侮辱してもOKである。それが集団による創造・発想のためには必要だ。
幼少の頃からトロくて不器用で運動できなかったけど、当たり前のように運転もできなかった。
まず状況判断ができてない。
「今行けたな……」「今行かない方が良かったな……」が多すぎる。行かない方が良かったはマジで危ないからやめなければいけない。でも後続車がいるとこいつトロいな……って思われてないか不安になって判断を間違いがち。ヤバい。
もう最近はトロいのでごめんなさい!!という気持ちで待たせてるけどそれでも今日危ないタイミングで出てしまった。本当にごめんなさい。
あと反射神経も鈍い。前で急ブレーキとか踏まれると反応できないからほんとにやめてほしい。左折するのにウインカー出さずに急ブレーキ踏んで曲がってく人マジでやめて。
そういうの嫌だから右車線にいたいけど右車線は右車線で遅くてごめんなさい!!って気持ちになるから無理。
車間距離めっちゃ開けるしかないけど強引に車線変更してくるやつがたまにいる。お前のための車間距離じゃない。
合流とか車線変更今だに苦手なので右折する2kmぐらい前から右車線に移ることもある。高速は絶位乗らない。
ウインカー出してたら入れて欲しい。早めに出すのでお願いします。入れてくれる親切な人ありがとう。私も入れるように心がけています。
あと今私何考えてた!!??って瞬間がある。左折してから今私確認足りなくなかった??!!って青褪める時ある。ヤバい。そのうち駐車場から出る時に歩行者巻き込みそう。見てるつもりなんだけど色々足りてない。
一年間 運転 コツ などググって出てきた答えを実践するようにしてるのに本当に運転が下手。なぜ。人を轢く前に運転やめたい。でも田舎だからやめられない。都会に引っ越して車を手放したい。
解決を拒否し過ぎは同意
『センスメイキング理論』ガーとかいうのもあるけどアレも結論は
センスメイキング理論に関係する諸研究は、組織の構成員をどう納得させるか、説得するかを探究する。それは、それぞれが客観的に状況を理解し、合理的に判断してもらうことを必ずしも期待するものではない。重要なのは、組織の構成員が行動することである。目標に資する行動がとられるのであれば、論理的、合理的な理解は必ずしも必要ではない。
なんだよね、とりあえず動いて貰うところまでしか期待していない
マッキンゼーの『非合理な職場 ―あなたのロジカルシンキングはなぜ役に立たないのか』ってのもあってこちらは未読だけれど
『本物のリーダーは引っ張らない チームをつくる4つの感情スイッチ』(こちらも未読)みたいな結論じゃないかなって思う
イケてるアニキ/アネゴになって『うん、そうだね』の共感をしようが説かれているのだと思う
『なぜ人と組織は変われないのか――ハーバード流 自己変革の理論と実践』はなんか面白そうではある
どんなエリート集団にもアガリ型(ポジションを手に入れたら成長と変化を放棄する)の人たちはいるが
ポジションを得るまでは主体的に動いてきたというのは大きな違いではないか?って気がするよ
そういう人らにも適用できるかどうか