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はてなキーワード: 中二病とは

2016-10-13

荒楠神社十文字家(あれくすじんじゃのじゅうもんじけ)、書肆百日紅家(しょしさるすべりけ)、豪農千反田家の並びって、西尾維新の一から十までの名家団体?に似てる中二病を感じる

2016-10-03

[]鎌谷悠希少年ノート」完結

つのまにか終わってたから改めて1巻から再読した

ショタに目覚めさせられそうになった

最初に読んだときはめちゃくちゃおもしろいと思ったけど、再読するとそうでもなかった

それなりにキャラ掘り下げとかもされてるけど、メインのストーリーで何を描きたかったのかが見えづらかったせいかなあ

とってつけたような工場建設問題からめる必要あんまりなかった気がする

ヒロイン町家さん。中二病の子)も最後なんとなくフェードアウト気味になっちゃうし

途中で結構長い間主人公ひきこもっちゃうし

あと団体コンクールものってことで、今回再読時にはユーフォニアムともちょっとかぶったな

まらなくはなかったけど、読んだ後あっという間に印象が薄れちゃうタイプマンガだったな

ショタマンガってことしか残らなかった・・・

2016-10-02

煽る、論破、診断発言は止めましょう

それ中二病です

自称診断系男【説教編】

水商売をやっていれば、年齢、名前、職歴、学歴現在職業結婚歴、そんな経歴は全部嘘である

ちなみにこれは入店指導ときネットや知人から特定されない様にと言われ推奨されている事。

昨日来た自称診断系男。

それだけでもうざいのに更に説教男だった。

こちらの話し方や外見で「だと思った〜!やっぱり!甘いよ!頭はいいけど馬鹿なんだね!おかしいんじゃない?」と気持ち良さそうに貶して来る。

ちなみに経歴は全部嘘。

何がだと思ったのか?

2.5次元水商売でも痛いのにまさか現実世界でもやってないだろうな…。

論破や診断は中二病である、15歳過ぎたら自重しよう。


水商売に来る男で貶すタイプ基本的に自信が無く、金も無い、年齢は30~45歳くらいの初老

こちらはそういうタイプだと判断すると貶し易い様に馬鹿に徹してやる。

それが仕事からだ。

ちなみにそういう対応ビッチと怒る男性がいる。

落ち着いて考えて欲しい。

こちらはそれが仕事

蕎麦屋に行って蕎麦が出て来たら「どうせ仕事から蕎麦を出したんだろう!」と切れるのと同じである

2016-09-30

虐待親を怨むことが中二病なのか

意味からないわ。犯罪者を怨んだら中二病なのか。意味からないわ。

2016-09-29

あなたはどんな人間か」という問いへの答え方:就活を終えて

面接を終えた後は、いつも携帯を握りしめていた。

日中か、翌日に電話がかかってくれば次の選考を案内されるからだ。3日後までに何もなければ、まず見込みは無い。1週間後、メールが届く。選考への参加のお礼と、「貴殿の今後のご活躍をお祈りします」という空虚文章。返事すら無いことも勿論ある。いわゆる「サイレントお祈り」。

厭なことは沢山ある。

今日、初めて会った人にさも当然のように「自己PRしてみろ」と言われること。

問われたことに馬鹿正直に答えれば怪訝な顔をされること。

素朴に疑問に思ったことを伝えると、機嫌を損ねられること。

自分長所は何か、短所は何か、と問われること。

考えたこともない将来設計を語れと強要されること。

自己分析という単語がいつから多用されるようになったのかは知らないが、今の用語法は恐らく就活ビジネスの暗闇で生まれたに違いない。

分析する自己なんてない」と口にする学生をよく見かける。

やりたいことは無いし、ライフプランキャリアプランもない。自分に何が向いているのかもわからない。中二病発症する時期でなくとも、自分の将来の夢を描けないことは、別段特別な悩みではない。今の時点で自分に向いている仕事確信していても実際にやれば嫌になる、ということも大いに有り得る。「向いていない」と思っていたことが案外楽しいと思えたりすることもある。そもそも配属を決めるのは会社であって社員ではない。

だが、「どんな仕事がしたいか」と面接官に問われれば答えねばならない。そんなの知ったこっちゃない、会社が決めることには何でも従いますからとにかく入れてくれ、と言うだけでは不採用だ。

あなたはどんな人間なのか”、と問われ、必死に答えた挙句自分否定される。

「お祈り」が来ても、自分には何が足りなかったのか、一切わからない。採用基準に達していても自分の他に評価の高い人がいたのか、達していなかったのなら何処が何点足りなかったのか、学生には教えられることはない。だから就活では皆不安になる。

新卒一発勝負のこの国の就活システムは腐っている。

根本的に変えるべき時が来ていると思うし、いつか変わるだろう。しかし、今すぐには変わらない。就活に疲れ、絶望し、リ○ルート本社の前で白昼堂々焼身自殺しようとも、世の中は変わらない。文句を言っても今すぐ内定は出ない。正社員になりたいのなら愚痴を言うのは一旦止め、とにかくやるしかない。

やるべきことは単純だ。とにかく選考に出来るだけ早期に、沢山参加する。行きたくない企業でも面接を受ける。これだけだ。

早めに内々定を貰って就職活動を終えることが目標なのではない。自分の納得できる会社に行くために、早めに選考に参加することが不可欠なのだ

面接は数をこなせば必ず慣れる。馬鹿げた質問への答え方がある程度は分かるようになる。言ってはいけないこと、言うべきことを察知できるようになる。面接官とのやりとりのうすら寒さが気にならなくなってくる。

「親しい友達は多い?何人いる?」「幼い頃はどんな子供だった?」などと滑稽極まりない質問をしてくる面接官に対して、馬鹿正直に答える必要はないと気が付く。面接官が納得する答えを考え、それを表現する。演じ切る。時には嘘も吐く。それが苦にならなくなる。選考に落ちても逐一気にしないようにする。


自画自賛するような歯の浮く文章を書いたり、話したりするのはただでさえ嫌なものだ。あまつさえ沢山の会社お祈りメールを送りつけられ、自分存在否定され続ける中で、自己PR文章を一人むなしく考えていれば鬱にもなる。自分自分肯定できない時は、他人自分肯定してもらうことが必要だ。他人文章を書いてもらうのも良い。家族、友人、先輩後輩、大学キャリアセンター、頼れる人は誰でも頼るべきだ。一人でマジメに頑張る必要はない。


あなたはどんな人間なのか”という問いで自分を苦しめるべきではない。真剣に考えても答えなど出るはずもない。ただ、面接官の求める話をしに行くだけだ。それが就活だ。

実際のところは、4月から働いてみないとわからない。わからないけれど、それでも4月から挑戦しても良いと思える会社を見つけるまで続けるしかない。


当たり前の話と笑われるかもしれないのだが、9月に入りようやく就職活動を終えた今、1年前の自分に言ってやりたいと思うことを書いた。就活が嫌になって何もかも投げ出したくなった人が読んでくれたらいいなと思う。

2016-09-25

[] 池袋

次はロックブーケロックブーケ

地下街があってめちゃ広い。

東京駅と同じくらい混んでる。

東京アンダーグラウンドラーメンかい中二病みたいなラーメン屋があったので行ってみたら、うどんみたいな太くて柔い麺だった(個人の感想です)。

中央2改札付近トイレはわりと広かったがめっちゃ臭かった。

吐きそう(個人の感想です)。

汚れ具合はちょっといか・・・というくらいなのだが。

他のトイレも見ようかと思ったけど人が多くて断念。

2016-09-15

http://anond.hatelabo.jp/20160915153258

自然かつ適切に通過しないとどんな形でも手を加えようとしたら逆効果だよ

中二病概念流行ってそれらへの逆張りが主流化したのが昨今の高二病全盛の原因だから

中二病予防接種

大人になってから中二病発症すると陰謀論疑似科学にはまって周囲に迷惑をかけまくるので、未成年のうちに中二病ワクチンの接種を義務付けるべきだと思う。

2016-09-07

http://anond.hatelabo.jp/20160826235116

女性ありがちな男性アイドルにきゃーきゃーするようなことも無いタイプ

だとしたら、アセクシャルノンセクシャルと呼ばれる第三の性の持主かもしれんよ。

そいうのは、一生治るものではないし、中二病でもない。

「ひとりきり」という感覚

※このダイアリーは長文です

いきなりだが、次の一文を読んでみてほしい。

「私は世界でひとりきり」

さて、あなたはこの一文についてどのような解釈を持っただろうか。少し考えてみてほしい。

らくだが以下の2パターンに分けられるのではないだろうか。

(1)私はこの世界に1人しか存在しない、唯一の存在

(2)私はこの世界に1人だけで存在している、孤独存在

別に心理テストをしているわけでも何でもないのだが、自然に(1)の解釈を持った人は色んな意味幸福人生を歩んできて、今現在も歩み続けている人なんだろうと思う。少なくとも(2)の解釈を持ってしまうような人からすれば、そう思える。かくいう私は「ひとりきり」という言葉を聞いて「個性」よりも「孤独」を連想するタイプ人間である

話は少し逸れるが、数年前まで週刊少年ジャンプで連載されていた「魔人探偵脳噛ネウロ」というマンガがある。知らない人のためにこのマンガをざっくりと紹介すると、「魔界から来たドS魔人女子高生奴隷化して数々の難事件解決していく」SMアクションときマンガである本能に忠実に従って爆弾を爆発させまくる主婦や直接注射すると筋肉ゴリゴリに変身できるスープを作るコック、自分でこしらえた家具身体に装着して戦う家具屋など、常識の枠にとらわれない犯人が毎回登場することで少し話題にもなった。私は中学生のころジャンプを購読していたので、毎週このマンガを読んでいた。別に魔人探偵脳噛ネウロ」が読みたくてジャンプを購読していた訳ではなく、「せっかくジャンプを買ったのだからついでに読んでおこう」程度の気持ちで読んでいたのだが、このマンガがあるエピソードに入ったとき(正確にはそのエピソードが終わった時)、私は強い衝撃を受けた。それは「こんなにも私の気持ちを代弁してくれるようなマンガがあるのか」というものだったが、その衝撃は今でも覚えている。人に「一番心に残っている作品は?」と質問されたとき、すぐに「魔人探偵脳噛ネウロ」と答えるくらいだ(作品自体がめちゃくちゃ好きというわけではないが)。

さて、猿のような中学生にそこまでの衝撃を与えるエピソードはどんなものかというと、以下のようなものである

探偵事務所に超有名歌手の「アヤ・エイジア」という人物が現れ、仕事を依頼する

②依頼内容は事務所で首を吊っていた彼女プロデューサーマネージャーへの警察による自殺判断調査

ネウロ主人公探偵調査を行った結果、実はプロデューサーマネージャー自殺ではなく、他殺だった

④なんと犯人は依頼人であるアヤ本人だった

⑤謎解き終了

私のミジンコレベルの要約能力では読者の方は恐らく何のことかサッパリからないと思うが、興味がある人は原作(2巻だったかな)をあたってみてほしい。

ここまで簡潔・適当に要約したのは、私が衝撃を受けたのはこの事件トリックや謎解き、犯人ではないからだ。私が最も衝撃を受けたのは自身プロデューサーマネージャー殺害したアヤの動機だった。動機については当日記の核心となる部分なのでもう少し丁寧に説明する。

アヤはある特殊能力を持っている。それは「ある特性を持っている人間を、『歌』を歌うことで失神させる」というぶっとんだものである。では「ある特性を持つ」人間とはどんな人間かというと「自分世界にひとりきり」と感じている人らしい。アヤによると、全ての人間の中の数%(正確な割合は忘れた)は先天的にこの特性を持っており、この特性はなかなか消滅するものではないという。そして、アヤ自身も「自分世界にひとりきり」と感じる人間だった。彼女は「ひとりきり」であり、「ひとりきり」を完全に理解できたが故に「ひとりきり」の特性を持つ他人の脳に直接干渉・失神させることができたのである彼女はこの能力歌手としてフルに発揮し、数年のうちに全世界に名を轟かせる超有名歌手になった。

そんな彼女を影で支えていたのがプロデューサーマネージャーだった。両人ともアヤがデビューしたての頃からアヤのことを親身に、時に厳しくサポートしており、アヤにとってはかけがえのない人物となっていたのであるしかし、彼らがアヤに近づけば近づくほど、アヤは「ひとりきり」という感覚を失ってゆく。彼らがかけがえのない人になればなるほど、アヤの能力は弱まり曲の売り上げも悪くなる。アヤは悩みに悩んだ結果、能力消滅を恐れてプロデューサーを、その次にマネージャー殺害した。2人が死んで「ひとりきり」の感覚を取り戻した後のアヤの曲は再び世界的に大ヒットするようになった。

孤独を感じない人間などいない。しかし、例えば恋人デートしていても常にどこか心の中に相手のことを信じていない自分がいたり、友人とどれだけ楽しく話せていても心の中に高い壁があるように感じたり、家族食卓を囲んでいるのになぜか他人食事しているように感じたり…と、明らかに異常な場面・異常な頻度で孤独を感じる人がいる。少なくとも私は「ひとりきり」の人間だった。だからこそ、訳の分からないぶっ飛んだ謎解きマンガに信じられないくらいの衝撃を受けたのだ。今考えれば「中二病」と呼ばれる症状の一種なのかもしれないが、しか20代中ごろを突っ走る今現在も、私自身の「ひとりきり」という感情存在している。さすがにもう中二病卒業していると信じたいのだが…。

私がなぜ数年前のマンガを扱ったこの日記を書くに至ったかというと、アヤと同じで「ひとりきり」の感覚を失いつつあるように感じたからだ。私はこれまで孤独とともに生きてきた。この孤独は常に1人であるという意味ではない、常に1人であるように感じてきたという意味だ(実際1人でいることが多いのだが)。1人でいると心が安定するので勉強仕事捗る学生時代は1人でいたので受験には成功したし、そこそこの職に就くこともできたし、社会人になってからそこそこの仕事もこなしてきた。しかしここ1年ほどで状況が大きく変わった。職場でかけがえのない友人や心から尊敬できる上司出会い、彼らとの交流を深めてゆく中で自分が「ひとりきり」でないように感じてきた。そして明らかに仕事の出来が悪くなった。きっと交友関係無駄時間を割いているからだと自分には言い聞かせている。

他人からすれば「ひとりきり」でなくなることは良いことだろう。しかし生まれからずっと「ひとりきり」だと感じてきた私にとって、「ひとりきり」の感覚を失うことは自分自身を失うようでとても怖い。また、今はまだ問題の無いレベルだが「ひとりきり」でないことが生活にまで影響してきていること、さらに今後も悪化しそうなことも怖い。

もしこの日記を読んだ人の中でこのような精神病を知っている人がいればぜひ教えてほしい。

それにしても、私と同じように自分を「ひとりきり」と感じる人はどれくらいいるのだろうか…

2016-09-04

ポケモンGOやっていたら変な動きのおじさん達に気づいた

 

ポケモンGOをみんな遊んでいるから俺もちっとやってやるかーと思って始めたら、すぐにハマった。インドア派だったのに今年の夏は俺も彼女日焼けして思い出がいっぱいできて良かったんだが、8月の途中、ポケモンやってる俺らと違う動きをする変なおじさんが時々いるのを俺は見つけてしまった。

ポケモンGOをやってる奴はスマホを縦に動かす。だいたい真っ直ぐに投げる。でも、変なおじさん達は真っ直ぐに投げていない。パズドラに近い指の動きをしていて、違ったことをやっているのがわかる。ポケモンの話もしていないしだいたい単独行動だ。

まあパズドラをやっているのかもしれないしtwitterLINEやってるのかもしれんが、どうもそう見えない、暑くて人のたくさんいるところで、場所を変えながらそんな事するか?パズドラだったらもっと落ち着いた場所で止まるだろうし、ねずみみたいに動き回るのは変だ。

おじさん達は周りを気にして立ち止まって何かをやっている感じで、歩きスマホあんまり見かけない。そしてポケモンと違う緑色青色に光る画面を握りしめている。

で、ネットで色々調べたら、おじさん達がIngressってゲームをやっていることが俺にも理解できた。じゃあって事で俺もIngressちょっと触ってみたらトレーニングってのがあって、いきなり中二病全開のメッセージが流れてきて、そのまま街に出てしばらく遊んでいたらポケモンGOはかりの姿で真実エキゾチックマターとかい物質で起こっている怪奇現象なのだとわかって俺はびびった、青い連中と緑の連中が市民洗脳して人間エキゾチックにしているらしいことが俺にも理解できた、実際、Ingressの端末でエキゾチックマターが充満している場所には魂を抜かれたポケモンゾンビどもがたくさん群れている。エキゾチックマターを吸い過ぎて、たぶんやられてしまったのだろう。俺もあのゾンビの一人だったのだ。

街にポケモンGOかい虚構が溢れ出たのもポケモン欲しさにゾンビみたいな連中が街に沸いたのも全部このIngressかいゲーム観測される、エキゾチックマターとそれを利用する連中の陰謀だと知った俺は、インターネット情報収集した。そしたらCERNって書いてあるじゃないかCERNエキゾチックマターを見つけたとか書いてあるが、CERNって、カーブラックホールつくってタイムマシン完成させて世界線を変えたやばい組織でしょ?おのれCERNまたしても火種をばらまいていたのか!

俺は世界陰謀を守るためにポケモンGOをやめてIngressレジスタンスとして戦うことに決めた。世界じゅうで繰り広げられるこの戦いに勝利して夜な夜な歩き回るポケモンゾンビ正気に戻すのだ。ところがゾンビ共のなかでは俺達エージェントの動きはいかにも怪しい。エージェントは怪しいと思っていた俺が、今度は怪しいと思われる番になった。だが信じて欲しい。世界エキゾチックマターに覆われていて、それをコントロールしている連中がいるのだ、俺達の周りの世界は、見たままのものとは限らない。エル・プサイ・コングルゥ

 

2016-09-02

滑稽な女が好きだ

好きな女のタイプの話をしたい。

二つある。

ひとつは、滑稽な女だ。滑稽な女はいい。高慢で、世間知らずで、調子に乗っていて、癇癪持ちで、やたらに自意識の高い女がいい。ずっと自分が十代のつもりでいるような女もいい。延々と中二病わずらい続けていてくれたりすると、なおいい。そういう女を表面上全肯定しつつ、心の中でこっそり嘲笑うのが、俺は楽しい嘲笑うたびに、愛が増す。

もうひとつは、卑屈な女だ。とにかく自己肯定感が低い。他人人生を与えられて生きている。常におびえていて、おどおどしていて、こちらの顔色をうかがっていて、少し優しくするとすぐ騙されて、一度精神的にめげると一週間くらいは浮上してこないような女。あと、やっぱり癇癪持ちだとうれしい。そういう女を上手にあやしながら、時々梯子を外してやるのが楽しい。どんどん不幸になっていく様子を、横で慰めながら眺める。こっそりと心の中で愛でる。

基本的にはこっそりだが、別に声に出しても殺されたりはしない。大抵、こういう女は、口に出して嘲笑っても平気だ。ふんわりした頭をお持ちなので、言っても理解できない。そういうところも可愛いと思う。俺は、そういう女を嘲笑いながら愛でるのが好きだ。

あるいは、向こうも俺のことを嘲笑っているかもしれない。それならそれで、とてもいい。むしろ、それがいい。お互いに心の中で嘲笑いながら、馬鹿にしあいながら、それでも表面上は幸せな顔をして、じじばばになっていきたい。仮に世界中の誰もがたった一人の人間しか嘲笑うことができないのなら、俺を嘲笑うのは俺の愛した女であってほしいと思う。

俺は恵まれている。

幸いなことに、程度の差はあれ、世の中の少なくない女が上記二つのどちらかの女性像には当てはまってくれるからだ。全部の女がそうだという気はないが、通りで石を投げれば一人はヒットする程度にはいると思う。今までつきあってきた女も皆そうだった。そこがとびきり可愛いと思って、告白した。友人の評価イマイチでも、俺にとっては世界一かわいい女たちだった。

おかげで、俺の人生は満たされている。神様がもし実在するなら、抱きついてキスしたい。よくぞこんな絶妙世界を俺にくれた。世の中には、俺の好みの女があふれている。

2016-08-22

シン・ゴジラは、アンチがどれだけ騒ごうが大傑作の地位は揺るがない

いやー、シン・ゴジラ、最高だったね。

邦画最高傑作と言っても過言じゃない。

というか、今までの邦画監督たち、何してたの?昼寝でもしてたの?ってレベル

 

さて、本題。

最近、大絶賛のシンゴジラに対して、逆張り冷水ぶっかけて評判を貶めようと

画策する中二病(むしろ高二病か)患者ネットを騒がせている。

彼らは、必死シンゴジラのアラを探したり、あるいは非論理罵詈雑言

浴びせて、涙目抗議活動を繰り広げている。

だが、そんな投稿は、当たり前だが全て反論され、徹底的に叩き潰される。

当然だ。

 

なぜなら、シンゴジラは「名作」であることが確定しているからだ。

なぜか?名作というのは数の論理で決まるからだ。

少数派が評価しても、多数が評価しなければ、その作品はせいぜい

「隠れた名作」、あるいは「カルト的人気」といった形容しかもらえない。

しかし、多数派評価したらどうか?

これはもう、「名作」「傑作」としか呼びようがない。

なんせ、批評家尊敬され、批評家意見が最重要視された時代が過ぎ去った今、

内容そのものの良し悪しで名作かどうかを判断することは不可能からだ。

 

勿論、個人個人自分勝手判断で「これは名作」「これは駄作」と定義することはできる。

しかし、それはどこまでも主観的であり、客観的評価に進むことはできない。

客観的評価とは、結局のところ、多数の評判によるしか無いのだ。

 

こういうと、観測範囲が狭い、シンゴジラ評価しないコミュニティもあると反論

受けそうだが、観測範囲が狭いのはどちらかな?

シンゴジラ評価するコミュニティと、評価しないコミュニティでどちらの規模の方が

大きいか、小さい脳みそでも考えればわかりそうなものだ。

2chのようになんでも叩くようなコミュニティを挙げても意味が無いので注意してくれよ。

 

よって、少なくともネット上では明らかに多数派シンゴジラ肯定である以上、

これが客観的評価になる。

「傑作」であることは客観的評価なのだから、声高に叫んでも問題はない。

さらに言えば、客観的評価である以上、多少は「アンチ」を貶めても炎上などするはずはない。

「この作品は知性が無いと楽しめない」とか「この作品の良さを分からないなんて残念だ」

とか「この作品批判する奴らは、恋愛描写が入らないと楽しめないスイーツ脳バカ

とか言っても、Togetter発言をまとめられて炎上などしない。

なんせ、多数派から

 

逆に、少数派であるアンチ」や「批判派」、これは黙っているか自分個人的感想

あることを強調した上で、批判はそうとう柔らかく、皮肉っぽくなく、婉曲的にマイルドに、

文章読解力が低い人間には肯定に見えるくらいの勢いで感想を述べなければならないのは当然だ。

なんせ、私達「多数派」が不愉快な思いをしたなら、それをまとめブログまとめサイトに載せ、

叩きコメント殺到させ、炎上させなければならないからだ。

なぜなら、客観的評価を乱した上に、多数派を怒らせたからだ。

 

からアンチいくら騒ごうがその意見否定されるし、その意見シンゴジラ地位

変えないし、ただ惨めな目に遭うだけだ。

 

からアンチは目を瞑ってどっか隅っこに挟まって、

口だけ開けて雨と埃だけ食って辛うじて生きてろ。

2016-08-12

中二病が治りつつある

ずっと、他人の後追いなんて死んでもするものかと思っていた。

流行に流される軽薄な大衆など脳味噌ブチ撒けてくたばりやがれ、などと不遜なことを思ったりもした。

最近では、まあそんなにカッカすることもないんじゃないかな、と思うことが増えた。

軽薄な大衆らしく、ポケモンGO初日にダウロードしたし、ゴジラ映画も観に行った。

もっとも、ポケモンは一日で飽きたし、ゴジラ映画は二度と観ないだろうけども(映画館でずっと座っているのが苦痛だ)。

それでも、俺元々飽き性だし興味のアンテナ低いし、いーんじゃねえの別に、って感じだ。

何が変わったのかといえば、別に何も変わっていない。

「俺以外全員死ねモードも依然として健在である

それも全てひっくるめて、まあいいんじゃないか

中二病特効薬は、エイジングである

2016-08-05

シンゴジラ最高に素晴らしいが、しかしフクイチ原発は…(ネタバレです)

http://anond.hatelabo.jp/20160804171358

自称中二病を脱した23歳増田」に乗っかる感じでシンゴジラ批判エントリーを書きたくなったおっさんです。

(あたしも10年前の20代の頃はてなサブカルおじさんが怖かったからねw)

シン・ゴジラは「日本実写映画」にとってエポックメイキングになりうる最高に素晴らしい作品だと思うが

この大絶賛の嵐に怖くなってきました。左側からのまっとうな批判が見られない。

(今後町山・宇多丸あたりから出てくるかもしれんが)

まずはじめに私の感想とすると「シン・ゴジラ」は素晴らしい映画なのは確かです。

ドラマ人間が描かれていない」という批判がありますが、

日本の実写アクションエンタメ映画」でまともな人間ドラマを描けるでしょうか?

民族イデオロギー宗教対立のない日本殺人を含む強烈なDISの激突による止揚

「個人のエゴイノベーションを起こす」ことを良しとしないし信じない日本社会では

欧米式の人間ドラマなどは描けないのです。大抵は「もののあはれ」みたいなものに落ち着きます

そこで庵野監督です。庵野監督人間ドラマが描けません。人間個人に興味が無いのです。

機械組織ようなもの機能的に動く

電子回路ニューロンのように情報錯綜し、通電し、組織機能する」という

描写」に焦点がいくような人間だと思います

(例えばオネアミスロケット発射の「手続き」や、エヴァ発進の「手続き」、

さまざまな人間連携して大きなことを成し遂げる瞬間のカタルシス岡本喜八沖縄決戦→ネルフ壊滅なら大組織の壮大な敗北

というものに執着している感じです。そして庵野監督はその演出で他を圧倒してきたのです。

通常は連携を2、3回で終わらせるところを、

7、8、9とどんどん数を増やし、しも連携スピード高速化する、

すると人間が居なくなり「連携のもの総体」が残るのです。

それはもう壮大な音楽リズムを鑑賞したようなものです。)

それが今回は最高に上手く行ったと思います無駄人間ドラマを省き、人の群れを

部品オブジェクトの群れ」として描いたのです。

通常それでは作劇できませんが、ゴジラという巨大な災厄を扱うことによって可能になったのですね。

とまあ、褒めるのはこんな感じで。みんな褒めてるし。在来線爆弾最高です。

ここから批判というか危惧を書いていきます。(ネタバレ含む)

シン・ゴジラ」はゴジラを描くとともに、明らかに3・11の震災

そして福島第一原発(フクイチ)のメルトダウンをなぞって描かれています

2016年に公開する映画であり、ゴジラが大災害のもので、

原爆の子であることことからしてそれは避けられないことでありました。

・「想定外」という言葉が何度もでてくるシンゴジラとフクイチ(フクイチ)

放射能を撒き散らすシンゴジラとフクイチ

・そしてその放射能を測定した市民から憶測が飛び交うシンゴジラとフクイチ

自体収集のため米軍が介入してくるシンゴジラ事態収集のため米軍が介入しようとするフクイチ

シンゴジラとフクイチは冷やすと止まる。

シンゴジラホースを突っ込んで冷却材を流すため特攻する自衛隊

フクイチに突撃ホースを突っ込んで冷却する消防

まあとにかくシンゴジラは「動くフクイチ」なんです。

だったら何が問題かというと、シンゴジラでは

自衛隊ゴジラを冷やすために特攻して死んでしまっている」ということなんです。

これは3・11の日本政府はやらなかった。フクイチに自衛隊特攻させれば

チェルノブイリにはソ連政府兵士特攻させています

福島土地は助かったかもしれない。でもやらなかった。

自衛隊員の命」と「福島土地の数十年の汚染」を引き換えにはできないという判断です。

良くも悪くも戦後民主主義判断なんです。

そこをシンゴジラはやった。映画的には、作劇的には正しいです。

いや個人的には私もそういう全体主義の魅力や、

自己犠牲の魅力に惹かれるところもあるんです。

正直「自衛隊がフクイチに特攻して冷却に成功していた」ら、私も絶賛したでしょう。

いや絶賛しかできないんです。選択肢がない絶賛。

その特攻庵野監督はやった。しか恐ろしいことにあっさりと。

(1番隊が全滅したら「日本映画のよくあるパターンのように感傷にひたる」

ことなくあっさりと2番隊がすぐさま繰り出された。

おそろしいですよ。でもこれがかっこいいんですよ。/

この冷徹決断力、かっこよさを恐ろしいと思わないとヤヴァイんですよ。

こんなことできるのはスターリンですよ。スターリンのかっこよさに酔うんですか?)

これは政治的意思表示と考えていいと思います

「当時の日本政府シンゴジラを冷やすために

特攻した自衛隊のように、3、11のフクイチでも自衛隊特攻させるべきだった。」

という政治的意思表示です。

みなさんはそこはあっさり賛同しますか?どうなんでしょうか。

そこはちょっとみなさん悩んで欲しいですよ、いくらなんでも。

そして最後日本政府シンゴジラの凍結に成功します。

まりフクイチの凍結に成功するわけですが…

実際の日本政府どうでしょうか?フクイチの凍結に成功してますでしょうか?

成功してませんよね。いまだに汚染水を流し続けています

からすると今回のシンゴジラ演出エポックメイキングであるとともに、

「3・11の災厄に勝利した日本」の「仮想戦記」にみえしまうんです。

(昔よくあった「第2次大戦日本軍が勝つシミュレーション小説」の3・11バージョンですね。)

このシンゴジラを見て「日本はまだやれるんだ」と思った人がたくさんいたと聞きます

いや、やれてなかったでしょ。と言いたい。3・11で負けたでしょ。無残に。情けなく。

仮想戦記で「日本はまだやれる」って酔ってたらだめでしょ。反省しないと。

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↑というような批判が欲しかったのに全く無くて困ってたので自分で書いてみた。

実際庵野監督はどうなんでしょう。「政治的意志表明」と書きましたが

そこに踏み入れた自覚はないかもしれません。

開き直りがあれば、それで議論の糸口になるのですがそれもなさそう。

そういう自覚のない選択が一番怖い。)

戦闘機オタク左翼宮崎監督のような葛藤は…きっとなかったような気がして。

2016-08-04

シン・ゴジラ」 大絶賛の謎(ネタバレ)

23歳になってようやく、10歳頃から慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。

 

中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、

 「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは

 今日クラスの会話

 あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか

 ま、それが普通ですわな

 かたや俺は電子砂漠死体を見て、呟くんすわ

 it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。

 好きな音楽 eminem

 尊敬する人間 アドルフ・ヒトラー(虐殺行為はNO)」

的類いのものと捉えてくれていい。

 

2016年6月の終わり頃、Twitterトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。

なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。

という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。

が。

観終わったあと、驚いた。全然からないのだ。

どこもかしこも大絶賛の理由である。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである

特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。

いいのかそういう着地で?

多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である矢口」(ハセヒロ)という人物である

会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から想定内」の結論ありきな形式的ものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会から非難を怖れた日和見政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、

派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラ被害を食い止めるための解決策へと動く。

これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくま死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。

「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかある意味では強みになり得るという着地だ。

 

超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。

 

ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクター存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである) 

「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)

これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。

更に、情報や知識の独占の否定矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラ細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。

<超越的>存在であるゴジラ対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」

でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定統合性が取れていないし、

むろんこういうのは、思想的な好き嫌い価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である

 

矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、

「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」

とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)

ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、

 「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、

 放射線流の直撃や、急性被爆の危険性があります

 ここにいる者の生命の保証はできません。

 だがどうか実行してほしい!

 わが国の最大の力は、この現場にあり、

 自衛隊はこの国を守る力が与えられている最後の砦です

 日本未来を、君たちに託します。」

っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)

そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、

まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)

映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。

ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである

しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクション世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものからである

繰り返すが、断っておくと、これはあくま個人的価値観の問題である

しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。

もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか

それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。

 

国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観

いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで

っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつ作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。

これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、

「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」

ことであろう。

 

次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇

「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、

そうか?

前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか

 

が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。

いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。

「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。

更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。

物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。

というのは、2時間映画の構造基本には、

「小・トラブル」と「大・トラブル

そして、「まやかしの勝利」、「から喪失

が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。

小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルであるまやかしの勝利、から喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブル別にあることに気付いてしまったり、大・トラブル解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、

シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。

だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。

突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、

根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法ほとんど気が付いてしまっているのである

ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラ活動を停止するのでは……

っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、

観客は、フィクション鑑賞のルールとして、

「これが正解なのだな」

と思う。思ってしまう。

から、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。

これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである

故に、制作者は、その予定調和思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。

小・トラブルまやかしの勝利⇒喪失⇒大・トラブル解決

というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。

で、

からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである

 

これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、

など少なくとも順番が入れ替わっていれば、

専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。

しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。

主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。

だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである

まりほとんど、「米国核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。

ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。

以上の理由から、「難しいか子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、

「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的作品価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。

けれど、

 

やれ家族の絆恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいもの大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいもの評価できることが~

みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。

分かりにくいことが、「深い」証拠である保証はない。

同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。

 

しろ、近年、「マッドマックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品海外から出て話題を呼んだ中で、

 

まだ、大衆に媚びてないか一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。

大作RPGラスボスってどうして

必ずと言っていいほど中二病をこじらせた中年みたいなことを主人公たちに語りかけてくるの?


奴らが私の大切な人を奪った。だから人類を滅ぼすことにした。とか

どんなに幸せときもいずれ過ぎ去り、いつしか忘れさられていくのみ。とか

ふふふ、それでもあえて滅びの道を歩むか。ならば続きは拳で語ろう! とか

この世の全ての記憶を消し去り、最後は私の存在も消し去ろう! とか

俺は思い出にはならないさ。とか


うろ覚えだけどそんな感じ。何かいい歳した中高年が中高生と同じ精神レベルどんちゃん騒ぎやってる感。

メイン客層が10代で、制作者が20~30代中心だからそんな感じになっちゃうのかもしれないけど、

ぶっちゃけ「その程度の理由人類滅亡させようとか思うなよー」ってゲンナリするラストバトルが多かった。

これ、今の大作RPGでも大同小異なんだよね。

本当に納得して突入するラストバトルってほとんどない。

実際、「ああ、これは人類滅亡させたくなるわー」って同情共感できるようなラスボスっていた?

2016-07-31

ひねくれ、逆張り中二病、斜に構え、誇大妄想

こういうの何人格障害者って言えばいいのかね

明らかに精神は病んでる

いい歳して自信過剰中二病の人っていったいどんな親とか友人に囲まれて生きてきたんだろうなと

単にサラリーマンしてるだけでお前がクリエイティブ仕事して訳でもなんでも無いし知的でもなんでも無いんだけど

からないんだろうなぁ

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