はてなキーワード: イコールとは
相手の内に貯め続けた抑圧がついに破裂して私の頬を切り裂いた瞬間に感じた、あの胸の軋み、頭と身体に血が逆流したかのような感覚。
この断絶される瞬間を私は望んでいたのだろうと思わざるをえない高揚。
私が幸せにならないように行動を抑制妨害してくる自分が確かに居るのだと知覚する。
社会的にも家庭的にも破滅してしまったことだし、もう許して幸せにさせてはくれないものだろうか?
(できることなら、失ってしまった社会的地位や家族を再獲得したい。幸せになりたい。)
(ああでも、マイナスから立て直すというのは酷く面倒だよね。頑張りたくないから壊したくなかったのに。)
自分で自分の足を引っ張るという性質は、弱者の“言い逃れ”のための衝動だとか。
確かに、“私の妨害をしてくる私”とのバトルを最重要問題にしているうちは、頑張らないと掴めない理想の幸せ獲得へ立ち向かわない言い訳になる。
誰からだろうと全ての電話に出ないし、全てのメールを読まない・返さないから、「あなただけ特別無視している」のではないのだと言い逃れしている。
(しかし実際のところ、電話やメールなどの予告ナシに他者から切り込まれる行為に対して、めちゃくちゃ磨耗疲弊するという部分はある。)
『逃げ恥』原作の「なんだか 俺はいつも逃げている」からのくだり、すごく好きなんだよね。身に染みた。
(女だけども、感情移入自己投影するのは圧倒的に平匡さんの方で、みくりちゃんは理想の王子様に見えている。)
私だって、もう戻りたいよ。(でもどうすればいいかわからないんだ)
教会とかで懺悔をすることで、自罰衝動が癒されることもあると聞く。
試す価値あるのかなぁ…という考えを今こうやって増田にぶつけてる。
涙が流れるほど心震えるのは、“正しいこと”が肯定されるシーンと、美しい男性が自意識拗らせて破滅する物語、に触れた時。
“正しいこと”を正しいと認め合うことってさぁ、仕事してるとびっくりするほど少なくない? 私が働いていた環境下がブラックばっかりだっただけかな?
なんかもう生活しているだけで恒常的に信念とか倫理観とか自分の柱を削られまくっていたんだろうね…
綺麗事が王道歩いてる職場って何系に多いの? 転職するから教えてほしい。
美しい男性が自意識拗らせて破滅するっていうのは完全に自己投影の道ずれ慰めだよね。
(文字や絵のイケメン描写よりも、現実の美丈夫が演じている方がたぎる。)
彼らの嘆きがすごくよくわかる。わかるからこそ、“美しい彼らでさえも”救われないということに癒される。私たちの敵はこんなにも強大なのだと(だから負けても仕方がないのだと)。
たぶん女性の物語では駄目なんだよね。破滅する女性では“私の道ずれ”ではなくて私自身とイコールになり、ひとりぼっちになってしまうから。
ねぇ、私はただ、私が考え得る最善な行動をしたいだけなの。
それを自分自身に阻害される・阻害したいという衝動を消去したいだけなの。
どうすればいいの?
麺のないラーメンは単なるスープである。麺の不在(言い換えれば空なる麺の存在)によってそこには「スープ」という概念が存在している。そこに麺が投入される。すると瞬時にしてスープが消失しそこにはラーメンが誕生しているのだ。このとき、麺は単なる麺という物であることを越えて、全く別種の存在、すなわち「替え玉」になるのである。
もう少し丁寧に述べてみよう。いまそこにスープがあり、未投入の麺玉がある。この時点では、スープはスープであり麺玉は麺玉。すなわち単なる「スープ と 麺玉」であって、イコール「ラーメン」ではない。しかし、麺玉をスープに投入した瞬間、概念Aとしての「スープ」は概念Bとしての「ラーメン」になる。この「なる」という現象に着目したい。言っておくが、客の目の前にスープがありそれをラーメンと交換したのではない。実体としてのスープと実体としてのラーメンの交換ならば、それは単に「ラーメンの追加注文が来たので器を下げてラーメンを出した」のと同じであり、そんなものは「替え玉」ではない。替え玉の替え玉たるゆえんは、一瞬前まで単なるスープ概念に過ぎなかったものが一瞬後にラーメンに「なる」ことにあるのであり、そこで交換されているのは実体ではなく概念である。すなわちスープ概念とラーメン概念の概念交換が発生しているのである。そこで投入されるのは単なる麺ではない。
この概念交換を成立させる「麺玉」は単なる麺ではなくメディア、すなわち概念交換の麺触媒(メンディア)であるというべきであろう。一瞬前まで単なるスープだった液体は一瞬にして「ラーメンの汁」に変貌する。麺は麺のまま物質的には何一つ変化しないにもかかわらず、麺触媒としてあざやかにその機能を果たす。「替えの玉(麺)」ではなく「替える玉」。すなわち「替え玉」である。この「替え玉」がまた一つの概念であることは言を俟たない。
さて納得されたであろうか。こうして麺という単なる実体が麺触媒としての「替え玉」に変貌するとき、我々の内なるラーメン概念もまた現象学的還元を経てゲシュタルト崩壊を起こす。なぜなら、この触媒によれば一杯のラーメンは(人間の食限界を超えることで)無限のラーメンへと拡張されるからである。そうなればそれはもはやラーメンであってラーメンではない、形而上学的存在、あるいは宗教的イコンと化す。だがこのことはまた別に紙幅をとって論じたい。
だが、私の感覚としては汗と同じだ。
だいたい緊張したとき、興奮したとき、1分以上自分の話をするとき、などなど恐らくは交感神経というものが高ぶった時脇汗同様に目汗がでるといった感じ。
仕事で1分以上話が長引くとじわりじわりと目から汗(もう面倒だから以下涙)がでてきて、目に涙がにじんでいるのが相手にも認識できる程度にまでうるっうるになる。盛大なあくびのあとみたいな目といったらわかるかな。
これが中途半端に優しい人に見つかるとやっかいで、「増田ちゃん大丈夫?オロオロ」と突っ込まれる。そっとしておいてくれ、これはただの汗なんだ。
上司と面談をしているときや、転職の面接をしているとき、ハローワークの人と話しているときも泣きそうになるのをこらえるのに神経が行って話したいことも堂々と話せない。次第に泣く方向に身体がシフトし始めて涙声になっていく体たらく。
情けなくて、ほんとう恥ずかしいんだ。
こんなんだから、転職に至ってはどういう仕事をすればいいのか考え始めてしまう。
プレゼンなんて(やったことないけど)もってのほかだし、対面で長時間対話しないといけないシチュエーションも恐らく難しくなってくる。
自分としては、人と話すのは嫌いではない。人嫌いとかではなく、むしろ好きなほう。
仕事上でも、会議とか打ち合わせとかの場面は好きで、無駄な会議とかでも楽しむことができるほど。
上司と面談していたとき、自分の仕事状況を話していたら目からあふれ出た涙がこぼれて、つー、と流れていった。上司はさすがに大丈夫か?と心配してくれたけど、私としては泣くほどの精神状態ではなかったので大丈夫です、心の汗ですとしか言いようがない。
話している最中は
「あ、やばいまた涙腺ゆるんできた、ああいま目に涙たまってきてるの課長気づいてるかもなあ、あ、なんかきづいてるっぽい表情してる…はずかしいーおさまれおさまれここで泣くとか意味わからんそんな状況じゃないからとにかく淡々と、淡々と語ってこの場を去ることのみイメージするのだ…。」状態。
そして最近、涙がでるパターンが以前よりなんとなく掴めてきた。
交感神経が高ぶるだけではなく「自分の話をするとき」「自分の話を親身に聞いてくれる状況のとき」そして「受け入れられている感覚を覚えるとき」に特段の感情がなくとも自然と涙が出てしまう、とわかったのだ。
昔から泣き虫だったので、親からはよく「泣いてすむと思うな」「お願いだからすぐ泣くな」といわれ続けてきた。思春期も「あんたはすぐ泣くから大変だった」といわれ続けてきた。そんなこと言わんといてお母さん。
そういったことを言われる度に、誰だってそんなつもりで泣くんじゃないよね、time will tellって心境だったから、泣いて迷惑かける私は悪い子、イコール大人になっても泣き虫なこの状況は自尊心に悪影響を与えているんだ、と思う。
私が子供のころに泣いていたのは、身体的な特徴としての涙腺の弱さ(そんなものがあるか知らんけど)と、精神的な弱さ(心を言語化できない、わかってもらえないもどかしさ)が原因ではないかと思っている。
つまり、人に自分の話を聞いてもらうことが、自分の中で至上の喜びに位置づけられていて、元来の感受性の強さ(人の気持ちに敏感だった。持病で人目を気にして生きてきて自尊心が低い等)から脊髄反射的に涙が出てしまうのではないか??
*
私は女だが、世間にはびこる「泣けば済むと思っている女」というレッテルが大嫌いだ。だが、自分は傍からみれば「すぐ泣く女」なのだ。
だから治したい。泣かないことが、自分を強くするのではないか、そう思っているから。
涙腺を除去する手術もあるかもしれないけど、怖くて調べられない。
できればほかの方法で、と思いつつもあとは心療内科程度しか思いつかない。認知行動療法なら少しずつとか効果があるのだろうか?
一眼バリバリ使ってる人でも、出来上がった写真はスマホと大して変わらんとか言いはじめて頭痛がしてくる。
そういう人は意味もわからず一眼買って、市場活性化に貢献してくれたらいいと思います。
所有欲を満たすことも大切なこと。どうぞどうぞ。レンズ沼はこちらです。
一番に言われるのは画質の違い。
で、これをわからんと言っている人ははっきり言って一眼レフを使う必要がない人です。
言い換えると、写真を撮るということイコールシャッターを切ることと思っている人。
そういわれてピンとこない人はカメラ向いてない。スマホで撮ってSNSにアップして狭い世界で駄サイクルを楽しんで下さい。
カメラというのは、基本的に全て絵作りがされています。これは例外なく全てのカメラがそう。
細かい話は端折るけど、理由は単純。今の技術では現実に存在する全ての要素をカメラで写しきれるわけがないから。
わかりやすいのはダイナミックレンジや色空間。それでわからんて人は勉強してこい。
さらに、ただでさえ絵作りされている中でデジカメが画像データを作成する上で現像という避けて通れない過程がある。
それをカメラ内でしている人は、さらにカメラメーカーの意図による絵作りがされた写真を撮っていること。
もう少し言えば、RAWデータ撮影、現像という行為をしたことがない人。
つまり、画質の違いがわからんという人はこのあたりにいる人たちと置き換えて支障がない。
メーカーは、撮影された写真を少しでも綺麗と感じてほしくてあの手この手で元の写真をカメラ内でいじり倒します。
その傾向の違いによってメーカーの好き嫌いが別れたりするわけです。
そうして作られた写真を見て、画質の良し悪しを議論しようとしても、それはカメラそのものの画質について議論しているのではなく、処理ソフトの性能について議論しているに過ぎません。
つまり、君たちはカメラの話をしているようでソフトウェアの話をしていたというわけ。
そんなものは同世代のカメラ並べて大差があるわけがないし、スマホがその性能を上回ることがあるのも当然といえば当然。
そうやって作られた写真をさらにレタッチしておりじなりてぃとか言ってしまうのよね。うぇーい。
以上。コレで納得できた人は帰ってよし。
でももし、写真を撮るということイコールシャッターを切ることとから脱したい人は、これから先に目を通しておくことをお勧めする。
頑張ってまとめてもこの長さだから無理強いはしない。早く帰れ。
中級機以上のカメラに備わっている機能で、最近ではスマホでも撮影できるようになった。
それこそカメラの素子(フィルムにあたるもの)の性能と、レンズの性能、絞り、シャッタースピードだけで作られた色すら決まってないデータです。
写真にするのに現像という作業が必要で、その差によっては出来上がりの違いに大きな差ができてしまうもの。
カメラの仕組みを理解していないと結局カメラ任せの現像と同じものかそれ以下になってしまうという、まさに初心者お断りながら基礎的な仕組み。フィルムのままでは写真にならないように、これをしないとそもそも写真は出来上がることはない。
でも写真なんて綺麗ならいいんじゃね?って思った?
おめでとう!その通り!それこそが消費者の本音!クライアントも同じこと言う!言うよねー!
だから最初から言ってる通り、そういう人には一眼レフは必要ありません。
スマホで撮って、あとでぼかしエフェクト入れるのが一番安いし綺麗で簡単。
だけど、表現したい人は違う。
メーカーが作った絵作りに乗って、それが自分の作品だなんて口が裂けても言わない。
最後まで人の作ったものの上に乗っかることしかできない世界だけど、少しでも多くの要素を自分でコントロールしておきたい。
そんな人のためにあるのが一眼レフであり、RAW撮影という機能のついたカメラ。
それで、その基本となるRAWデータの画質は、カメラの性能=価格に基本的に比例する。
それが分かる人のために、高いカメラは存在するし、それがわからない人がどれだけいらないと言ってもなくなることはない。
これはレンズにも言えること。
交換レンズもものによって同等のスペックでも価格が全然違ったりする。
違いがわかる人、そういう性能を求めている人がいる以上存在するもので、それがわからない人には不要なもの。それがわからない人は沼に落ちる。それが分かる人の養分になるために。感謝。
まとめると、出来上がった画質はそれほど大差ないということ。
だけど、そこに至るまでに通る道筋や目的が全然違うのだから、そもそも議論が不毛だという結論。
それがわからない人間だけがとやかく言っている問題で、プロが見分けられなかったからって、それはそれで優れた性能ですねって言うだけの話。
もちろんダイナミックレンジやノイズ量、ボケ味などカメラの価格に比例して有利になるものはある。さらにこれは光学的な問題なので物理的に解決することはできない。
ただ、それだからといって写真的に優劣が生まれるかどうかは別。
特に写真には撮影者と被写体の関係性が色濃く現れるもので、写真の評価はどちらかというとそちらに重点を置かれる場合が多い。
そうなればそもそも画質に対する議論なんて不毛そのものでしかなくて、つまりは撮りたい写真に応じた機材を選べばよいということになる。
ただし、そうしたコンパクトで安価なカメラやスマホに比べて、基本的に高級なカメラには圧倒的な違いがある。
決定的瞬間とはまさに瞬間である。
その瞬間を逃さないためには、カメラに高い信頼性が必要となる。
起動の速さ、ピントの精度と速度、連射速度、バッファ枚数、カメラにおけるシーン判断力、あらゆる要求に答えるシャッター速度、暗所における感度とノイズ量、長時間露光に対するカメラの安定性、カメラの操作性、要求に応じたカスタマイズ性、過酷な環境下で耐えられる堅牢性、、、数え上げればまさにキリがないほどの機能がカメラには集約されている。
それに価値を見いだせない人間にしてみれば、高級カメラを買うということはまさに無駄遣いでしかない。
しかし、様々な環境下で失敗の許されないプロが機材を選ぶとするならば、どちらを選ぶかは言うまでもないことだ。
様々なプロがいる中で一眼レフを選ばないプロも当然存在する。それはつまり自らのニーズを正確に判断できているからの選択であって、だからといってプロすら一眼レフを必要としないという結論にはなるわけもないのだ。
カメラメーカーもその辺を曖昧にすることで素人に高級機を売ろうとするのもわかるが、そろそろこんなつまらない議論には終止符を打って頂きたい。
結局はこの辺のことを理解できない層が虚栄心やら妬みなんかの薄汚い感情で、目を輝かせる初心者立ちを追い払っているのが現状ではないか。
そもそも機材は自由だ。
自分がいちばん使いやすいもの、愛着を持ったものを使うのが一番だ。
それでもし、進んでいく先に不満や問題を抱えたのであれば、具体的な悩みを持って色々なお店や信頼できる経験者に相談してみるといい。
もしかしたらそれはカメラではないかもしれない。でもとにかく探すことが大切だ。
カメラ店以外にも、色々な思いつく限りの売り場を回ってみよう。
そうしてはじめて、自分の表現を自分でコントロールしていると言えるようになる。
それは、どんな高級なカメラを使って表現者を気取ることよりも大切なことだ。
はじめに、写真を撮るということイコールシャッターを切ることではないといったのはそういうことだからだ。
表現とは道具の選び方から始まっているし、被写体との関係の築き方、撮影状況に合わせた機材の選択、そのための下見や事前準備、現場に合わせた状況判断、一瞬を逃さないための機材の習熟度、撮影後の現像による仕上げ、人の目に見せる瞬間の演出、運など、数え切れないほどの目に見えない労力を投じてはじめて完成に近づけるものなのだ。
あとの言いたいことは前回とおんなじだ!
"人の気持ちなんて...それが普通" 故に生計を共にする集団を固定する方がおかしいとすれば、結婚だけでなく家族制度そのものが否定されるがその辺は?一部の機能不全な例をもって制度自体を否定するのは無理があるな
そしてこれ。
「「結婚をする人の…」を書いた者だけども。」を書いた者だけども。
実際フランスのように婚外子の権利が認められて事実婚でも税制、待遇が変わらない社会になったら結婚は減るだろな。今の日本では「夫婦も子もおトクだから結婚する」でいいじゃないか。
要するに、この増田の言いたいことがわからない人は、フランス人の結婚観を知ればよいかと思う。ネット上には日本人とフランス人の結婚観の違いを書いた記事がたくさんある。
私が最も訴えたいのは、今の日本の制度では、結婚と子育てをイコールでとらえている点が、時代に合ってないのではないかということ。
たしかに、一人の人間が育つにはお金と人手が欠かせない。無責任に産み落とされて、育てられずに死んでいくような人間がいれば、同じ人間としていたたまれない気持ちになる。
だからこそ、一組の男女が契約を交わし、協力して子供を育てる環境を整えてから出産するのが一番合理的だとは思う。
しかし、結婚しようがしまいが、一組の男女がいれば子供はできる。
子供を育てるために、社会的に保証を受けるためにデキ婚するというのはよくあるが、そもそも生んだ以上は結婚してもしなくても育てなければならない責任からは逃れられないのだから、社会的な保証を受ける際に結婚の有無で差があるのがおかしい。
認知という制度もあるが、そもそもあれは任意ではなく強制にすべきだ。
子供が生まれるからには必ず男性も関わっているのだから、認知さえしなければなんの責任も負わずに済むなんておかしい。
結婚していようがしていまいが、一人の子供に対してその遺伝子を与えた一組の男女を明らかにし、その子に対する責任の所在を明らかにすること。
そして生まれてくる子供に対して、その親の如何に関わらず、社会的な補償はみんな平等に受けられること。
結婚とは関係なく、子を作った男女がそれぞれに子に対する育児の責任を果たし、さらにその両親の子育てで不足する部分があれば社会が補い、どの子供も平等に手を施されるシステムをつくってほしい。
「好きだから結婚する」なんて平気で言い切る人には心から共感できない。
確かに、結婚に関するいろいろな責任を負ってもよいほど好きだという心意気を相手や周囲に知らしめることにはなるが、その心意気が一生心変わりしないとは限らない。
恋愛感情は一生保証できるものではない。恋愛感情が冷めようとも、結婚は継続する。だからこそ、結婚の理由は恋愛であってはならないのだ。
もちろん、きっかけは恋愛でもよいが、結婚の理由としては、その相手と一生助け合って生きる覚悟を決めたからでなくてはならない。
たとえ好きでなくなっても一生助け合うという契約こそが結婚なのだ。
にもかかわらず、結婚する覚悟があると言って、まるで恋愛感情のゴール地点であるかのように、相手や周囲に見せびらかし、挙げ句に愛が冷めたから離婚するなんていう、恋愛の満足感を満たすために結婚を利用する行為には嫌悪感を感じる。
家族も他人も関係ない、好きもきらいも関係ない、同じ人類として生まれた仲間として助け合える制度を作ってほしい。
とはいえ、最後には「赤の他人になぜそこまで手を貸す必要がある」とか言い出すのが人間の本質であるから、それはなかなか難しいと思うが。
今日先輩のFBを見ていて思ったことをつらつら述べてみようと思う。彼女曰く「〇〇という本屋が閉店となってしまうそうです。活字離れが問題で、出版界はかなり厳しい状況下に置かれているそうです。だから云々」という部分に関して少し違和感を覚えたのである。例えば、この部分「活字離れが問題とされていて、出版業界はかなり厳しい状況下に置かれている」という部分。まずは「活字離れ」というのは何のことを表すのだろうか?もしそのままの意味で受け取るならば、「活字離れ」というのは「文字離れ」のことを意味するのでは、と考え少し調べてみると「活字」に関する明確な基準は無く曖昧な定義であった。このままでは話にならないので、「活字離れ」イコール「文字離れ」と仮定する。そうすると、あら不思議、「活字離れ」と言うのは実におかしい言葉だとわかるのである。例えば、僕らが日頃から接しているツイッターやFB,ネット記事に至るまで、すべてが文字情報で、みんながつかう「LINE」だろうと、僕らの周りをとりまくすべての情報が文字でまみれているのである。そう考えると、「活字離れ」「文字離れ」なんてものは存在しないのではと思ってしまうのである。
また、彼女の話の中で、「活字離れ」が問題とされていて、出版業界がかなり厳しい状況に置かれている、と書いているがこれはとんでもない事実誤認であることがわかる。何故かと言うと、出版業界を衰退にみちびくのは「読書離れ」であり、「活字離れ」では決してないのである。おそらく出版業界が倒れそうになっているのは、昔からある出版業界の古き因習によるものであると推測しているが、この話をすると長くなりそうなので止めておくことにする。そこで、今回の本題に入ると、「若者の活字離れ」が叫ばれている中で、それに反論するような形になるが、おそらくこの「若者の活字離れ」は勝手に頭のわるいおっさんどもがこじつけでやっているに過ぎないと思っている。しかし、そこに関して堀さげることに意味があるとおもうのでやっていようとおもう。彼らが、「若者の活字離れ」を叫ぶことによって、我々若者に求めていることとしては、「本という紙の媒体を見る」という行為を我々若者に強いたいのである。ではなぜそれを強いたいのか。それは次回のお楽しみである
いろいろと誤解も多いのだが、いわゆるオタク文化というのは元来「少年漫画を読む女と少女漫画を読む男」の文化である。その点においてジェンダー規範からの逸脱が気持ち悪がられ、長らく迫害の対象となってきた。いまも特に女性のオタクたちはその趣味を秘匿してる人たちが多い。
なんだこれ雑だなあ。あるいは主従が逆転してる。
引用文における「少年漫画を読む女と少女漫画を読む男」ってのはセーラームーンを見るような少年と、キャプ翼とかスラダンとか幽白とか封神演義を見たり読んだりする少女のことを指してるんだろう。“長らく”とあるし、最近のみならずコミケが晴海でやってたような頃のことももちろん含んでるのだと思われる。確かにこういう連中はオタク扱いされた。
しかしながらそれがオタク文化とイコールで結べるかというともちろん結べない。エヴァを好んで見てた連中は男だろうが女だろうが“教室”でモロにオタク扱いされたし、ときメモなんてもっとヤバかったし、シスプリなんて最悪だ。こういう連中がオタクとラベリングされることから逃げるのは、90年代当時不可能だった。
また、「ジェンダー規範からの逸脱が気持ち悪がられ、長らく迫害の対象となってきた」というのもかなり語弊があるというか端的に言って間違ってる。というのはオタクが迫害されたのは社会的弱者が社会一般から見て理解できない、迫害側が見たことのないアニメのような気持ち悪いものを愛好してるからだ。ドラゴンボールは許されるけど、エヴァは許されない。ジェンダー規範からの逸脱が許されないのではなく、所属するコミュニティの文化から逸脱すると攻撃されるのだ。そこに「少年漫画を読む女と少女漫画を読む男」というのは含み得るが、レイヤーは一段下がる。含み得るというだけにすぎない。
ところでいちばん鼻につくのは「いろいろと誤解も多いのだが」という表現。ここでいう「誤解」が何を指すのかわからないが、引用した「いわゆるオタク文化というのは~」以外のオタク文化に関する言説と理解しうるのが普通の読みだろう。しかし「ジェンダー規範からの逸脱」うんぬんはすでに述べたように低レイヤーの事象を拡大解釈して一般化するという誤ったものであるし、誤ったものを真のオタク文化みたいな言い方をしてしまう言説は非常に劣悪だと思う。
元記事は劇場アニメ『聲の形』評であって、オタクうんぬんはその前口上にすぎないようだが、しかし『聲の形』を評するために現実を歪めて解釈することは、むしろそれがいちばん罪深いことだ。
自分は技術者と言えるレベルなのか迷うレベルのエンジニアです。
というのも最近就職した。ここで叩かれてる所謂常駐SEの会社。
定期的な会合はあるが、この先輩の名前なんだっけというのがほとんど。
かといって苦しいということはない。いや、今のところはない。
しかし技術に関しては、大丈夫なんだろうかと週3回ぐらいは思い悩んでいるこの頃。
自社の人間はある分野においては長けているようで結構強気である。
まだ就職したばかりだし断言は出来ないけど。
この間なんか自宅で仮想マシン立てるなんて考えたこともないと言われた。その人インフラ屋ですよ。
これは異常でしょう?もうわけがわからない。この時は早く転職しなきゃと本当に思い悩んだ。
常駐SEの欠点で最大なのはもちろん自社という場がないことだと思う。
ノウハウがたまりにくい、だいたい一年に数回しか自社と話す機会がないのだから
当たり前だろう。そして評価制度が謎である。だって数回しか自社と話す機会がないのだから。
時々同じ年に入った人達と会話するけどすでになんでこいつらと給料一緒なの?ってイライラする。
まだ働いて少しだし、いまどうすればいいのかわからない。
行楽シーズン到来で、これから旅行に行こうなんて人は沢山いるのではないでしょうか。
さて、勢いに任せてカメラを買ってみたけど実はあまり写真に自信がないという人も多いかもしれません。
そんなあなたに、即効性のある今すぐにでも写真が上手になるポイントを3つご用意いたしました。
1.大胆にアイレベルを変えてみる
3.日の丸を捨てる
ピンボケや手ブレ写真はだいぶ減ったのに、なんとなく自分の写真がつまらないというレベルの方が対象です。
1.大胆にアイレベルを変えてみる
写真が単調だと思う人はいつも自分の目線で写真を撮っているのではないでしょうか。
被写体によって適切なアイレベルがありますが、もっとも簡単に意識できる方法は、一体その写真は誰の目線で撮らているかということを考えることです。
例えば子供の写真を撮るとき、親目線で撮ると見下ろす形になります。そうなると、子供の背景には地面の要素が多く写ってしまい何だか面白みのない写真が出来上がります。
そこで立ったままではなくしゃがんでみることで、子供の視点から撮ることを意識してみてましょう。
子供の背景には空や景色が入り込みます。子供がどんな場所で遊んでいるかという情報が写真内に流れ込んできます。
さらに親を見るときの見慣れた見上げるような表情も、真正面から捉えることで意外な表情を映し出すことができます。
花を撮る時は土の上にいる虫の目線になって見上げてみたり、蝶の視線になって真上から見下ろしてみたりと様々な表現のヒントになるはずです。
写真をある程度撮り慣れてくると、失敗を避けるために強い光を求めるようになるはずです。
そうなってくると、十分な光量を確保するために知らずと順光=正面から光が当たった写真ばかりを撮ってしまっていることも少なくありません。
様々な角度から当たる光と、それによって作られる陰の妙を楽しみましょう。
例えば逆光で撮影をする時、スマートフォンなどのカメラだと被写体が黒く潰れてしまうことがあります。
しかし、測光をしっかりと陰側で行なうことで、被写体の周りを優しく光が包むような幻想的な写真を撮ることができます。
例えば花を撮るときも、順光ではのっぺりとした面白みのない写真になりやすくなりますが、逆光で撮影することで透明感のある写真に仕上げることができます。
これは、透過光という光が被写体を透ける効果を利用したテクニックで、写真の世界では当たり前のように活用されているテクニックといえます。
横からの光は、光の当たる側と陰の強い側とが同時に存在するドラマティックな写真を撮ることができます。
窓際に食べ物を置いて撮るときも、窓と直角の位置から撮影してみるといつもと違う写真が撮れるかもしれません。
真上からの光源は意味ありげな陰を落とし、下すぎる光源は被写体に非現実的な雰囲気を生み出します。
風景など自らが光源をコントロールできない状況では、今度は完全に受け身になり、仕上がりを意識しながらシャッターを切るようにしましょう。
光源によって作られる雰囲気をレタッチで変えることは困難です。それならば、光源の持つ雰囲気を活かすことのできるレタッチを行うことができれば、写真はより完成に近づくというわけです。
斜め方向からの光や、ストロボなどの補助光を使ってみるなど、光源に関する知識はとても奥の深い世界です。
まずは自然光とどのように向き合うことができるかチャレンジしてみましょう。
3.日の丸を捨てる
被写体を中心において、何も考えずにシャッターを押すと出来上がるのが日の丸写真です。
日の丸写真自体が悪いわけではありませんが、全てにおいて通用する万能な構図でもありません。
最近のカメラでは簡単にグリッドなどを表示させる機能が備わっています。
縦横それぞれに均等に三分割する位置に線を引き、その線上、もしくは線同士が重なる交点に被写体を持ってくるというテクニックです。
例えば左向きの人物を撮影する時、縦三分割の左に配置すれば、被写体の背中にドラマが生まれます。
逆に右側に被写体を配置すれば、被写体の前にドラマが作られるわけです。
例えば背中には過去や後悔、おってくるものなどが表現され、前側には未来や希望、目指していくものが表現されます。
被写体が真ん中のままでは、見る側がストーリーを描きづらくなってしまう。それが日の丸構図の難しさといえるわけです。
ある程度三分割法に慣れてきたら、開いている空間の別のラインや交点にストーリーを表現するものを配置してみましょう。
それによってその写真が持つメッセージ性は、無限の広がり持つことになります。
しっかりと身に付けておきましょう。
わかったらさっさとカメラ持って外に出やがれ!
こんな文章いくら読み込んだって実践がなきゃうまくなるわけねーだろ!
1日100レリーズ!シーンに合わせたモード切り替え素振り1000!写真1枚に付きレタッチパターン最低5!
悩んだ数だけ答えが用意されてるのがこの世界だ!カメラ任せでボケボケ写真とってうまくなった気でいるんじゃねぇ!
奴隷制に関してはマジョリティとマイノリティの立場が逆転したからという話で済む。
今奴隷制を導入しようとする国家があったら間違いなく国際問題&経済制裁でデメリットしかない。
そこに至るまで順を追ってマイノリティでなくマジョリティへと支持率が増えていった結果の変化であって
南北戦争でいえば、ちょうど南と北とで奴隷がある・ないで利益が2分したから引き起こされた戦争と対立だし、
だから奴隷制撤廃に関しては心理的な多数派・少数派ではなくて、お金の多数派・少数派の対立で多数派が勝った話になる。
なのでここでは正しく、マジョリティ側の最大公約数の幸福が通ったと考えて不自然ないと思うよ。
心理的でいうなら結局奴隷というカテゴライズが消失した今でもアメリカ合衆国では有色人に対する差別が根強く残る地域もある。
これは未だに問題解決できてないので心理的な要因も後押しして奴隷が解放されたと言い切れないところがある。
うーん、何がいいたいのか分からなくなってきた。
なんだったか。
まあ、お金を基準に考えれば、大体お金が大きく生まれる方向に向かえば人間は幸せになりやすい。
だから社会全体の幸福を考えたとき資本主義社会においては経済効果をまず第一に考えなければいけない。
満足とは「快」の感情に集約する。
人格により「快」ではなく「不快」に感じる商品があっても、マクロ視点で「快」>「不快」なら確実に社会を幸福に導いている。
そして、商品は一つではなく八百万に存在するので、別の商品では同じ人の中では逆転している場合もある。
世の中のコンテンツを全て「快」>「不快」の評価に落とし込むことができれば、個人レベルで何かしらの恩恵を受けることは約束されている。
それが社会全体の幸福であり、個人の幸福にもイコールで繋がってくる。
しかし、ノイジーマイノリティはこれではなく「不快」にしか注目しないため、
それはノイジーマイノリティ同士でも不快認定の選別が違うからだ。
結局、全て根絶やしになる以外にはこの流れが止まることはない。
心理的に止めることはできないわけではない、
お互い不干渉であるべきだというまともな大人の対応を知ればいいだけだし、
ネットでノイジーマイノリティの主張がこれからも大きくなるだろうけど、
マネタイズの観点・マクロからの視点で正論を根気よくぶつけ続けていけば
ノイジー市民が馬鹿でも国は理解しているので簡単に規制強化されない理由は歴史を勉強して
つまるところ市民の安全と健康も経済の障害となり得るから極力排除したいのであって
個人の鈴木さんや佐藤さんが死のうが生きようが当たり前だがどうでもいい。
出勤と仕事の違いがわかりますか?ってきくと、たいていの人はバカにすんなみたいな感じで説明する。でも実態としては、なぜか出勤を仕事と捉えてるような人が多い。出勤している=仕事している、というような認識の人だ。会社に居さえすれば仕事したことになると考えている人は周りにいくらでも見つかるだろう。
そういう人でも冒頭の質問にはきちんと答えられる。出勤は職場に到着すること、タイムカードを押すこと、仕事は事務なら事務、営業なら営業として業務をまっとうすることだと。
例えばコンビニの店員のように、出勤しなければ仕事のしようがない職業もあるけれど、仕事は必ずしも出勤とイコールではない。直行直帰が明確に許可されている営業のような職種でなくとも、出勤せずにできる仕事は世の中には多い。出勤したからといってそれが仕事の一部になっているようなことはあまり多くないとも言える。
その仕事は何のためにやっているかというと、商売を回すためだ。電化製品を開発して売る、という商売を考えたとき、開発する、製品を売り込む、伝票管理や法的書類の作成などの事務作業を行う、といったことをやらなければいけなくなる。そのために開発部、営業部、経理部といった部署を設けて、その中で働いてもらう人を雇用し、開発部所属なら開発という仕事をしてもらうわけだ。
その人にやってもらいたいことは開発という仕事であり、備品の使用のために出勤してもらう必要はあるかもしれないが、出勤それ自体に価値はない。会社としても、法的にはともかく心情としては、対価を払いたいのは仕事に対してであり、出勤に対してではないだろう。
会社においては商売が至上命題としてまずあり、その実現のために必要な作業が仕事として腑分けされ、それを実施してもらう人を雇用する。職場でなければできない作業であれば出勤してもらう。これが大原則だ。
ところが、その肝心の商売を忘れて仕事しか見えてない人が居る。悪くすると出勤しか見えてない人すらいる。それが別に経営者ではなく雇用されたいち労働者であるのなら非難されるいわれはない。労働者は開発や営業は事務の仕事をするために居るのであって、経営をするために雇われてはいない。会社の商売について考えるのは経営者の役目であり、それが経営者の仕事である。
さて、では仕事ができる人は高給取りになれるだろうか。また、そうであるべきだろうか。
給料は会社の儲けから支払われる。儲かっていない会社が高給を出し続けるのは難しいだろう。いくら仕事のできる人がいても儲かっていなければ意味がない。完璧な書類仕事を迅速に行える経理や、高性能で安価で安全な電化製品を実現できる開発者がいたところで、営業がいなければ売上は上がらず、つまり儲からない。営業がいても、その製品を欲しがる顧客が圧倒的に少なければやはり儲からない。潜在顧客は見た目がダサいとか巨大すぎて部屋に置けないとか消費電力が多すぎるとかいった様々な要因で減っていくので、もっとも費用対効果の高い施策となるのは何かを見極め、例えば見た目が最重要で他の欠点は当面無視できると裁定するようなマーケティング部の働きによってようやく商売が軌道に乗る。その儲けをどの部の誰にどのように分配するかを考えるために人事評価を行う必要がある。
10年ほど経ってすっかり大所帯となると、各部署の人間は自分の仕事にだけ邁進しても回るようなシステムになっている。開発者は突然の電話対応に邪魔されずに開発に専念できるし、経理も必要に応じて外注やクラウドサービスを使っていて引き継ぎも簡単になっている。このころには人事評価で考慮すべき事柄の膨大さが人智の及ぶレベルではなくなっており、公正さは失われ、社内には不満が溜まっている。会社はより明確で納得感のある評価を行うため、誰にでもわかるようなことを重点的に採点するようになる。いわく、遅刻はたとえ1秒であっても減点評価となる、などだ。
仕事の内容が評価されず(評価されていないと感じて)、バカでも指摘できるところだけが給料に直結し始めると、仕事のできる人はとっとと辞めていくだろう。1秒も遅れずに出勤することを自分の強みにしたいなどと、仕事ができる人なら思わないからだ。
商売の良し悪しとはあまり関係ない勤怠のようなものを重視していれば、勤怠は優秀だが業績には貢献しない人が出世ないし昇給していくことになる。業務の出来不出来は二の次だ。その波が経営者すら飲み込んだとき、自身の仕事、すなわち商売について考えることを放棄して、社員全員が皆勤賞を取るにはどうすればいいのかといったことばかり考えるようになるだろう。
若いというだけで下駄を履かせてもらえている面もあるという点については同意します(男女両方にあることだとも思いますが)。
ただし、下駄を履かせてもらえる場合もあるという事と、チート状態であること、また結婚相手が選べるという事はイコールではないというのが私の意見です。
今回は少年ジャンプ+
一撃のパンチでアグニが住宅側に吹っ飛ばされて大炎上し、あっという間に阿鼻叫喚の地獄に。
これがファイアパンチという奴か……。
まあ、そのパンチがアグニではなくて、敵側のパンチによってもたらされるってのが笑えるが。
その光景を眺める時の表情が呆然といった具合で、かえってリアリティがあるかもしれないな。
ユダの諦めは、現状に元々ウンザリしていたからってのもあるのだろうけれども、大氷河の事実と、今回の積み木を土台から跡形もなく壊されたような結果がきっかけってことなんだろうかね。
タバコを捨てる描写は最初ピンとこなかったが、そういえば少し前の話で再生能力を持った祝福者の吐くタバコの煙を、周りがありたがるみたいな描写があった気がする。
要は今回のあの描写は、タバコを捨てるイコール特別な祝福者として崇められたことへの脱却という解釈でいいのかな。
正直あの部分って、そんな強調して描かれた場面じゃなかったから、ここでタバコを捨てる描写入れられてピンと来るほど印象に残っている読者ってどれだけいるのかなあ。
それとも、コミックスとかで一気に読む場合は、また印象変わってくるのだろうか。
黒霧……。
罰ゲームを食らいまくった状態の黒霧の姿には、不覚にもツボってしまったが。
私はこういうのはツボじゃなかった筈なんだけれども、どこの琴線にふれたんだろう。
それと相まって読後感自体も悪くない。
逆に言えば、それ位しか特筆して褒めるところが見つからないってくらい、特徴がない。
な、なんといえばいいんだろう、今回のエピソード。
メインキャラのアクが強かったのもあるんだけれども、展開といいアンサーといい、理屈といい、紡がれるものが私の中にスッと入ってこない。
すごく歪に感じた。
1話と2話でバックボーンが語られたキャラが、早速バトルロワイヤルして、片方が感慨もなく死ぬというのは、作風であったりこの漫画の方向性を読者に伝える上では機能しているとはいえる。
ただ、まあそれが読者の何割が求めている展開かっていうと疑問符がつくが。
登場するキャラに愛着が湧くかっていうのは購読していく上でのモチベの一つになりやすいから、今後も愛着が湧く前にこういう展開で物語から退場するようなら、気持ちの持っていきように苦労しそうだ。