はてなキーワード: アタリとは
普通に素で・見て絵が描ける程度の画力がある方が補助として3Dモデル使うのは問題ないのですが
お絵描き初心者の方が3Dモデルを「なぞる」という形でご使用にになられますと
その方の画力レベルに対して妙に立体感のあるポーズが描けすぎてしまいますのと
3Dモデル特有の不自然さも再現されてしまってめちゃくちゃ浮いてしまっていることがよくありますわ。
なので、お絵描き初心者の方が3Dモデルを使うときは、3Dモデルをそのままなぞって下描きにするのではなく
次の工程を踏むと絵になじんで良いのではないかと思いますことよ
3Dモデルを元にアタリをとる(そのままなぞらないでちょっと肉付きのある棒人間くらいにする)
↓
3Dモデルのレイヤーを消す(なぞってしまうのを防止するため)
↓
ご参考になさってくださいまし~
「こんなはずじゃなかった……」 新入社員を悩ます“ガチャ”の正体
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2205/30/news010.html
例年なら新しい環境に適応できずに心身に不調が現れる「五月病」の時期だが、近年は「配属ガチャ」「上司ガチャ」に頭を悩ます新人も増えているという。
配属ガチャとは、入社時の配属先がどうなるのか分からないことをソーシャルゲームの「ガチャ」になぞえたもの。希望の部署は配属された場合は「アタリ」、そうでない場合は「ハズレ」。
運良く希望部署に配属されても、ちゃんと指導してくれない、あるいは先輩や上司の高圧的な態度についていけない「上司ガチャ」に悩む新人もいる。“ハズレ”を引いてしまったら早期離職の引き金になる可能性もある。
配属ガチャ問題はネット上でも「希望していた仕事ができるものと思っていたが、全く違う部署だったのでがっかりした」「実家から通勤できると思っていたが、入社したら地方の営業所に配属され、転職を考えている」という声も挙がっている。
産労総合研究所が実施した「2022年3月卒業予定者の採用・就職に関するアンケート」によると、配属(職種・勤務地)に関心がある学生は企業の採用担当者の回答では「増加」が20%、「やや増加」が40%。計60%が増加していると答えている。同様に大学キャリアセンターの回答でも63%が増加していると答えている。
その背景には何があるのか。
大学でキャリア教育を担当している講師は「取りあえず配属ガチャを避けたがる学生が少なくない。『一生この会社でお世話になりたい』と思うほど、企業に対する信頼度が低くなっている。『長く勤めたくても、そんな時代ではないんでしょ』という感覚が大きくなりつつあり、やりたい仕事でキャリアを積みたいという思いがある」と解説する。
実際に前出の調査によると、学生に入社予定の企業で「何年程度働くつもりでいるか」という質問では「できるだけ長く」が45%と多いが、5年以内に転職を考えている学生が25%、10年以内では36%に上る。
つまり現在でも、学生では「できるだけ長く働きたい」と思う人が多い。しかし、「そんな時代ではない」という不安から、配属で失敗せずに自分に合った職種、やりたい職種を新卒時から経験したいという意識が高まっている。
https://anond.hatelabo.jp/20220418214932
に便乗。
5路を極めてもべつに囲碁が強くなったりはしないけど、短時間でサクッと終わるので、ちょっとした隙間時間に遊ぶのにはよい。
ここでは、交点の座標を縦は上から順にアルファベットで、横は左から順に平仮名で表すことにする。つまり、いちばん左上隅の点は〈a-あ〉、いちばん右下隅は〈e-お〉、ど真ん中(天元)は〈c-う〉ということで。
解説の()内の数字は何手目かを表す。対局再生画面で碁盤の上にある数字だよ。
囲碁の棋譜では「黒1手目、白1手目、黒2手目、白2手目……」というのではなく、黒から始まって交互に打っている前提で「1、2、3、4、5……」と表す。
では早速打ってみよう。
実戦に勝る修行はない(キリッ!
https://www.cosumi.net/replay/?b=You&w=COSUMI&k=0&r=b6&bs=5&gr=ccdccdcbbbdaddbaabebedecbccaaatttt
オーソドックスに盤面の真ん中一直線に境界線を作りたいなと黒は思ったが、それじゃ当然白は勝てないので(4)でハネ(斜めに着ける打ち方)を打ってきた。
(7)で〈d-え〉と曲がった。これがたぶん闘い易い手なんじゃないかな。ここで〈a-い〉に伸びるという手もあるんだけど、すると終盤で初心者には厳しい詰碁問題みたいな展開になる。
また、(7)では〈b-お〉に打つという手もある。〈b-お〉は白の「3目の真ん中」だ。3目の真ん中は地の急所。ここに黒が打てば白は死ぬし、白が打てば白は生きる。白が打つと2眼できるから。
(13)は切られるのを防ぐ「ツギ」。この時点ではすぐに取られないのだけど、予防的に継いでおいた。(15)黒パス、(16)白パス。両者ともパスをしたので終局。
(13)では、継がないでパスをして相手が本格的に取りに来てから継ぐのでも遅くはない。これ↓は(13)で継がずに放置して後から継いだバージョン。結果は変わらない。
黒……8目(8もく)
白……2目(2もく)
アゲハマ……0
8-2=6 で、黒が6目勝った。
序盤は先ほどと同じ進行だが、(7)で〈b-い〉に曲がらず〈d-お〉と伸びた。こっちに打つと面倒臭いことになりがちなのだが……。
(9)から(13)まで、黒は意欲的に白地を減らしていき、(15)で継いで取られないように守った。この時点で、境界線はくっきりと引き終えたかのようにみえる。
黒……8目
白……2目
アゲハマ……0
なので、8-2=6。黒6目勝ちで終わるかと思いきや……。
(16)で白は〈e-い〉と打ってきた。ほぼ確定した陣地に打ち込むなんて、無駄な悪あがきだろうか? それとも、〈d-う〉の完全には繋がっていない部分を切ろうとしている?
ちなみに、〈e-い〉はいわゆる「中手(なかで)」ではない。中手は「6目中手」が最大だが、ここの黒地は8目もあるからだ。
何だか知らないが、無謀にも白は黒の連結が弱い部分を切ろうとしているようだ。だから当然に黒は(17)で弱い所を継いだ。
ところが!
(18)で、白は変な動きをしているが、黒は(19)で2眼(2がん)を作ってこれで「生き」のはずだ。なのに白は(20)と自殺手を打ってきた。しめしめと思って黒は(21)でアゲハマ1個ゲット。アゲハマはその数ぶんだけ終局後に相手の地を減らせるので、取らない手はないはずだけど?
黒……5目
白……2目
アゲハマ……白3目(盤上に残った2つとさっき取った1つ)
アゲハマで白の地を減らせるので、白地は-1。黒はそのまま5目の地なので、つまり黒の6目勝ちということになるはずなのだが……。
結果を見てみればなんと、「白1目勝ち」となっている。黒負けてんじゃん!? これはどういうことか?
結論からいうと、終局時の盤面の状態は「セキ」という。「セキ」とは、お互いに次の1手を打ったら相手に取られてしまうので、お互いにこれ以上手を出せないという、硬直したした状態のことをいう。
右上の白地はしっかり2眼を持っているので「生き」である。(2目の地)
問題は左下の黒地。一見2眼持って生きているように見える。だが次に黒から〈d-い〉に打てば白〈e-お〉で黒は1子残らず取られてしまうし、白から〈d-い〉に打てば次に黒〈e-あ〉で白2子を取って終わる。黒も白も、どちらも取りにいけば取られるので手が出せない。
「セキ」になった場合は、両者を「生き」とするものの、そこはプラマイ0ということで、最後に地の計算をするときに「セキ」の部分は数えないことにする。要はこの対局の場合、黒は完全に地を無くしたわけではないのだが、黒地にカウント出来る地が実質なくなっている。一方、白は黒を全部取り上げることが出来なかったものの、右上隅に2眼を持った確定地は持っている。つまり、
黒……0目
白……2目
アゲハマ……白1目(さっき黒が取ったやつ)
ということなので、黒が1目負けた。なお、囲碁の勝敗は勝者の結果で表すので、この対局では私が黒番だったけれど、対局結果は勝者の白にあわせて、「白1目勝ち」と記す。
この対局でセキにならないようにするには、どう打ったら良かったのかというと、(13)で〈a-い〉などと欲張らずに〈e-い〉と打てばよかった。これはまさに白がセキにしようと仕掛けて来た時の1手。自分が打たれてアイタタタ! となる手は是非とも先にそこへ打っておくべきだ。
といっても、初級者がセキにされるポイントや石を殺されるポイントを見抜くのは容易ではない。そこで、5路盤で対局する場合は、実戦経験を積み、ありがちな地の形と、打たれて死んだ(セキにされた)場所を記憶してしまうのがいい。
https://www.cosumi.net/replay/?b=You&w=COSUMI&k=0&r=b6&bs=5&gr=ccbcbdcbdcabdbadbebadacacdacaetttt
(3)で伸びずに果敢にハネ(跳ね)を打ったが、最終的には第1局と同じ結果となった。囲碁対局の結果は、どんな手順で打っても石の形が全く同じであれば、同じ結果となる。
(3)はまたやる気満々に〈d-い〉とハネた。何故ノビよりハネの方が威勢がいい手なのかというと、敵石にくつけていくのは不利だからである。ハネると、相手の石のHPを1減らせる一方、自分の石のHPも1失われるからだ。また、ハネは断点が一ヶ所増えて不安定な形でもある。
(5)で相手の断点を切った。黒白四つの石が組み合っているこの形を「キリチガイ」という。激しい闘いになりがち。広い碁盤ならやるだけ無駄なこともあるけど、5路盤の場合は狭いので、積極的に敵石を取り行かないと勝ちづらい。まあ、5路盤は激しく闘わなくても、打ち方さえ間違わなければ黒の必勝ではある。でもそんなお行儀よく打つばかりでは退屈だもんね。
(6)で白が「アタリ」(あと1手で取られる状態)をかけてきた。黒はすぐ〈c-あ〉で先に白を取るという手もなくはないけど……、
ただでさえ5路盤は黒有利なところをキリチガイでバトルを持ちかけたので、(7)では堅実にツギを打って守っておく。ここでうっかり白石を取って乱戦になると、面倒臭いぞ。
そして白は(10)と地を作ろうとしている。だがまだ2眼は出来ておらず、隙のある形だ。でも黒は今回は(11)ではノビで普通に地を拡げた。アンパイな打ち方だけど、(11)でノビずに〈a-え〉と白をぶっ殺しにいくという手もある。
〈a-え〉は、白に囲まれた4目ほどの地のちょうど真ん中である。地の真ん中は急所で、そこを自分が打てば生きるし、敵が打てば殺される。「我が急所は敵の急所」だし「敵の急所は我が急所」だ。
でも今回は激しくやるのは序盤だけであとは淡々と打つと決めていたので、穏やかに終局。
黒……7目
白……2目
アゲハマ……白1目
なので、7-(2-1)=6 で黒6目勝ちとなった。
今日はこれまで。
コウに限っていえば、繋がらないはずの石をつなぐため、生きないはずの地を生かすために、いちかばちかの賭けとして、石を放り込んで取らせることにより、作り出すもの。
しかも、単にその石が繋がった場合、地が生きた場合の得と、盤上の他の部分での得を天秤にかけながらコウ争いを行う。
コウは連続して取ってはいけないルールだから、コウを取り返したら別の戦いをして、コウを取り返して別の戦いをしてっていうのを繰り返す。コウ争いという防衛戦を闘いつつ、同時進行で別の局面では猛攻しかけることも可能だ。コウ争いで勝った方が得なら死ぬ気でコウを争うが、別の場所での局地戦で勝つ方が得と見れば、コウ争いにはキリの良いところで喜んで負ける。
コウに限らず、石が取れる(アタリになる)時は駆け引きを仕掛けるチャンスが生まれる。
そういう事を意識しながらプロの碁を観戦すると面白いよ。取れる石を何故か取らないとか、取らなくても良さそうな石を早々に取るとかいう時には、なんか思惑があってそうしているものだ。その思惑とは何なのか、盤上をじっくり眺めてそれが解った時の気分たるや。
多分男性専用車両(もっと進んで男性用女性用が分かれる)は導入されるし、満員電車は避けられる傾向になる。
ただ、逆に痴漢の当たりや的なのが頻発するから、監視カメラは必須で、警察はアタリヤか否かの検証に追われることになるだろう。
そうすると、「思考実験として、痴漢は即罪に有罪という概念を無くす」ことを思いつく増田が誕生してくる。
「痴漢冤罪という概念」を無くすのとは少し毛色は異なるが、「男性側からの女性の体を触りたい欲求」や「女性が男性に触られる嫌悪感」を無くす等の方向にシフトしていくことも考えられる。
ただその頃にはもはや満員電車みたいな時代遅れの状況は残ってないだろう。
仮想空間で、自分の性別がどちらでも、男性、女性、あるいはそれ以外のアバターで、パラメータ変更で相手との距離感を設定でき、
もっと言えば、各自が自分の望むNPCに囲まれて生活できるような。
これは男にだけ責任があるわけじゃなく、頻繁に電車を利用しない女性が団結してないところも問題。
半数は居るのだから、そのうちの半分でも全鉄道会社に要望すれば、(電車内での)痴漢は無くなるだろう。
複数車両ある路線は、毎年(か四半期毎に)男女比率で車両を割り振る。
田舎とかで一両で走ってるやつとかは、ダイヤ毎に男性用、女性用が分かれる。本数が少ないと凄く不便だ。
結局、男性からも、痴漢とは無縁の女性からも、痴漢を自衛出来ている女性からも、支持は得られれない。
それってつまり
「障害がないのに、人並みの事ができないやつは『努力不足のクズ』である」
って思想がソイツの中にあるってことだと思うんだけど?
病気について調べるのはいいけど、それとはまた別にその歪んだ認知を治そうとしたほうがいいんじゃないかな。
人間にはそれぞれ得手不得手があるんだから、それが障害として認知される所まで個体差大きくなくたって苦手なものは苦手でいいじゃん。
みたいなポーズしてるけど、それは結局周りにそういう思想を押し付けていることになっていることに気づいてほしいな。
アタリマエのことが出来なくて怒られた記憶が自分にあることは、周りがアタリマエが出来なかった時に自分がキレちらかす側になることの免罪符にはならんよ。
自分の障害について調べるような人って、立場から言えば世の中の許す人間らしさの許容値をめっちゃ緩くする方向に持っていったほうがいいのに逆のことしてるよね。
世の中に責められることにおびえて先回りで自分が悪かったですと謝り倒して置こうみたいな極端な思想に走りがち。
それが結果的に周囲の環境におけるアタリマエの許容範囲をどんどん狭めていくことになって自分だけじゃなくて他の人も苦しめてる。
ゲスの勘ぐりかも知れないけど、そうやってアタリマエから弾き出される人が沢山出てくるのを見て楽しみたいって所まで心が歪んでしまっているんじゃないだろうか。
自分がやられて辛かったことを他人も辛くなっているのを見て安心したいのかな。
生きづらさとやらの原因は障害の有無だけじゃなくてそういう心の持ちようにもあるような気がするなあ。
世間で「トレパク」と呼ばれている行為は、単なるイラスト制作手法のひとつに過ぎず、それ自体は何ら咎められるものではありません。悪いのは、
です。つまり、きちんと法律に準拠して作品制作を行っており、人としてのマナーを弁えていれば、「トレパク」だからと謗られる筋合いは無いということです。
以下では、多くの人が「トレパクは悪」と思い込んでいる要因を指摘し、それらが間違っていることを説明します。
現状、非の無いクリエイターたちが「トレパク認定厨」の嫌がらせに遭ったり、彼らの嫌がらせに怯えながら活動しています。自分では何も生み出さず、他人の成果物に難癖を付けるだけのならず者どもが幅を利かせています。このような不条理は正されなければいけません。以下に述べるような正しい認識が普及し、健全な創作活動が行われることを望みます。
まず、認識に齟齬が生じないよう「トレパク」という言葉の定義をはっきりさせておきます。以下に述べる定義は、「トレパク認定厨」が警察ごっこの対象にしている行為の特徴を、過不足なく正確に表していると思います。
他人の視覚的な著作物(*1)の全部または一部、またはそれを編集(*2)したものを、「トレース元」と呼びます。
「トレース元」に描写された物体と、空間または他の物体との境界線(*3)を写した(*4)曲線のことを「トレース線画」と言います。
(*2) 拡大、縮小、回転、反転、トリミング、色彩の変更、その他視覚的効果を加えることなど
(*3) 輪郭線が明示的に存在しない絵であっても、色の区別や錯覚等を利用して、物体の境界が存在すると理解できるものを含む
(*4) 模写する、思い出して描くのではなく、トレース元の境界線が認識できる状態で、それをなぞって線を描くこと
ポイントは以下です。
まず、「トレース元」が他人の著作物またはそれを編集したものであることです。自分が過去に描いた絵、または自分が撮影した写真などであれば、「トレパク」とは言いません。
また、他人の作品をそのまま使う場合だけでなく、サイズ変更や反転してトレースした場合も「トレパク」になります。
また、トレース元の境界線をなぞって描いた場合のことを指します。模写した場合、思い出して描いた場合は「トレパク」に含めません。また、線画が部分的にでも一致していれば「トレパク」になります。たとえば、顔や手だけ一致した場合、複数の「トレース元」をキメラ的に組み合わせたものも「トレパク」です。
多くの人が「トレパクは悪いこと」と誤解する原因は、下記の3つに集約されます。
「トレパクかどうか」が「著作権侵害に該当するかどうか」の基準になることは、法律的にありません。著作権侵害に該当するのかどうかの基準は、「表現上の本質的な特徴を直接感得することができるか否か」です(下記サイト参照)。「トレパク認定厨」が指摘する「線画が一致するかどうか」と著作権侵害はほとんど無関係です。
イラストの類似が著作権侵害になるかどうかの基準は、たとえば以下のページ等で弁護士が詳しく解説しています。
法律的な観点からは、「トレパク認定厨」が騒ぎ立てるような「手の線画が一致している」とか「背景の小物の輪郭が一致している」とかいう要素が、著作権侵害に該当する可能性はほぼありません。それらが「作品の本質的特徴」とは言えないからです。
特に、構図やポーズなどは著作権で保護されません。それらは単なるアイデアに過ぎないからです。たとえば、「男女が目を合わせるのをローアングルから描く構図」とか「顎に手を当てて考えるポーズ」などは、美術表現上ありふれたものであり、著作権で保護されません(こういうものまで著作権で保護されたら、誰も絵を描けなくなるでしょう)。
そもそも、「著作権侵害である」と指摘したいのであれば、その要件に該当するか否かを議論すればよく、「トレパク検証」は全く無意味です。トレースであろうが、模写であろうが、思い出して描いたのであろうが、著作権侵害の要件を満たしていれば違法であり、そうでなければ違法ではありません。
「トレパクは著作権侵害」という風潮は、単に法律的に間違っているだけでなく、「トレースさえしていなければ、著作権侵害にはならない」と言った誤解を誘発する恐れがあります。こういった認識は、クリエイターの法律リテラシーや遵法意識を低下させるため、有害でさえあります。
一部の人は、「資料、素材、ツールを使って描いた絵は、本来の実力ではない」と思い込んでいますが、これは間違いです。
この誤解の根本には、「"実力"のある人なら、資料などに頼らなくても、あらゆる構図やポーズが描ける」という思い込みがあります。特に、絵の経験が浅い人ほど、こういう思い込みをする傾向があります。しかしこれは間違いです。頭の中だけであらゆる構図を絵の中に再現するのは、プロでも不可能です(もちろん、プロの方が見ずに描ける構図は多いでしょうが)。むしろ、実力のある人ほど、きちんと資料等を活用する傾向にあります。
「資料を使わずに上手い絵が描ける」というのは一つの芸ですが、「それが出来なければ"実力"が無い」ということにはなりません。魅力的な絵を描く人でも、「スケブ」などで一発で描くのは苦手な人はたくさんいます。一発で描こうが、アタリやラフを何回も描き直そうが、資料を使おうが、最終的に完成した絵が、そのクリエイターの実力です。
そもそも、デジタル絵を描く人であれば、誰でも「選択範囲」や「レイヤー」などのツールに頼っています。アニメや映画では、建物の崩落とか爆発とかを描くのにCGを多用します。「それらのツールの機能を自分の手で再現できなければ実力ではない」などと主張する人はいません。
「トレパク」は資料を活用する手法のひとつに過ぎません。そして「資料を使ったら実力ではない」などという主張は間違っています。したがって「トレパク」だからといって、クリエイターとしての技量に難癖を付けられる謂れはありません。
上記2つの理屈が通用しなくなると、「トレパク認定厨」が最後に縋るのが、この種の「モラルの問題だ」という論拠です。
はっきり言って、「トレパク」をモラルの観点から問題視しているのは、ネット上の一部の「トレパク認定厨」だけです。
普通のイラストレーターが、「あなたが以前描いた絵と、手の線が一致する絵を書いた奴がいますよ」なんて報告されたところで、「知らんがな」と思うだけでしょう。趣味で日記を書いてる人が、「あなたが以前撮った写真に写ってた桜の木と、背景の木の輪郭が一致する絵を描いた奴がいますよ」なんて報告されたところで、「だから何だ」と思うだけでしょう。普通の人は、見るからに盗作を疑われるようなものでもない限り、ある絵が「トレパク」かどうかなんて、どうでもよいのです。
プロであれば尚更です。プロは、あるモチーフを描くために既に確立された表現があることを知っています。したがって、それに類似する作品が多くあることを知っていますし、自身もそういう作品を多く生み出しているという自覚があります。だから、絵が似ているなんてことは当たり前のことだと理解しています。
同時にプロは「何がオリジナリティなのか」ということも良く弁えています。「トレパク認定厨」にはそれが足りていません。彼らは、線画が一致したり、絵柄が似ていたりすると、すぐに「パクリ」だと騒ぎ立てますが、その中にはアマチュアが見たって明らかに異なるものが多く含まれます。「トレパク認定厨」は、絵に関する知識も眼力も足りていないから、異なる絵が一様に同じように見えているのです。
もしかしたら、「トレパクは悪」と思い込んでいる無知なクリエイターも、一部にはいるかも知れません。しかし、法的には「自分の絵の線画や構図をマネされない権利」は存在しません。存在しない権利を主張するのはただの我が儘です。鉄道会社に「遅刻しそうだから、電車を30分遅らせろ」と要求しているようなものです。
そして、繰り返しになりますが「トレパク」は盗作でも著作権侵害でもありません。また、「トレパク」をしたからと言ってクリエイターの技量が低いことにもなりません。事実に基づかずに、「あいつは盗作をした」「あいつは絵が下手だ」と他人を貶めるのは、単なる誹謗中傷です。
なぜ「トレパク認定厨」は、「トレパク検証」とかいうネットサーフィンの傍らにできる単純作業に夢中になって、他人を貶すためにネットの海を奔走するのでしょう?おそらく、思うようにならないことが鬱積しているのでしょう。その欲求不満を、生産的な活動で晴らさずに、「トレパクは悪」というドグマに縋って募らせているのが、「トレパク認定厨」という存在です。
最後に、「トレパク認定厨」に言っておきたいことがあります。それは、
「卑劣なことをするな」
と言うことです。
「トレパク認定厨」のしていることは、クリエイターへの侮辱、嫌がらせ、誹謗中傷以外の何物でもありません。
彼らの手法は、「線画が一致している」ことを以て、「この絵は盗作だ」とか「そのクリエイターは画力が低い」と論理を飛躍させること、あるいはその結論を言外に仄めかすことです。これは既に述べたように詭弁です。彼らは、法律や絵画技術の議論を避けるために論点をずらし、何の意味も無い「トレパク検証結果」をあたかも重要証拠かのように演出し、クリエイターを貶めています。これは卑怯です。
また、そもそも法律的に問題があるのは「トレパク認定厨」の方です。彼らは、クリエイターの名誉を不当に傷付けていますし、「トレパク検証」と称して作品の無断転載を行っており著作権侵害も行っています。実際に、「トレパク検証」のまとめブログの管理人が訴えられて負けた事例もあります。前科持ちになりたくなければ、そういうことは今すぐに止めなさい。
「トレパク認定厨」へ。匿名だからといって、何でも許されると思うのは止めなさい。自身の言動が、親や友人に見せて恥ずかしくないか、胸に手を当てて顧みなさい。人の道を踏み行いなさい。
以上です。
【追記】追記編と初手編、日常用語編、国際編、人物編、二眼の説明を加えた。
anond:20220131231934にインスパイアされてやってみた。
省力のために一部wikipediaからの引用も交えながら独自の解説を記した。
一手で隅をほぼ専有できてしまう反面、中央から遠く発展力やスピードに欠ける。
江戸時代以前の古くから打たれている手であり三々よりは中央に近く、星よりは地に近いバランスの取れた手。
隅を占めるのに二手かかるのが欠点。
4・4の地点で碁盤の目印のある部分のこと。
後述の昭和の新布石時代からよく打たれるようになった手。それ以前は置碁くらいでしかあまり見られなかった。
地に甘いというのは、相手に三々に入られるとほとんど地を奪われてしまうためである。
碁盤において、この地点がもっとも高い地点であり、端は地面という概念となっている。
後述の厚みが確定地ではない未来への投資であるのに対し、序盤から陣地になる可能性が高い場所を実利という。
実利をとれば厚みを作られ、厚みを作ると実利をとられるという表裏一体な関係にある。
盤上において影響力を及ぼすことのできる、しっかりと連絡して眼形の心配もない強力な石の集団である。
「厚み」は「薄み」に対する対義語である。囲碁で「薄い」というのは連絡が十分取れていない形、眼に不安がある石のことであり、相手に攻撃される可能性を持っている状態を指す。
これに対して強力な「厚み」は相手からの攻撃を受ける可能性が低く、周囲に近づいた敵の石に対して攻撃するための基盤となる。また、相手が近づいてこなければ大きな模様や地を形成する拠点となる。
大きな地になりうる可能性のある勢力圏のことを指す。多くの場合、隅から辺、中央へ広がるものを呼ぶ。
手の順番や形を変え、定石等と比べることで本来の形に対して余計な石があることなどを評価し、効かし効かされを判断する。
1933年(昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁の布石のスタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央に雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。
またAlphaGoの台頭以後、新布石時代に負けるとも劣らない布石の変化が囲碁界を席巻している。
例えば星への三々入りを序盤に行うの「ダイレクト三々」は相手に厚みを与えるため不利と言われていたがそれが平然と行われるようになった。
隣り合った隅・辺・隅の星を占める布石である。辺を打たず、隣り合った隅の星を占めるのは二連星と呼ばれる。中央に大きな模様を張ることを主眼としたスタイルで、武宮正樹が有名な使い手である。
安永流ともよばれる。星・小目・辺の星脇を組み合わせた配置である。
小目からシマリを省略して星脇へヒラく手法は、江戸時代初期に本因坊道策が使用している。
本格的な中国流の開祖は安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。1965年の日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本に逆輸入された。
右上空き隅、小目、相手の星へのカカリから星脇へのヒラキまでの一連の配置を指す。下図下辺の黒の配置がミニ中国流である。右上隅の着点は必ずしも決まってはいないが、星との組み合わせが最もよく打たれる。平成期に流行した構えだが、すでに400年ほど前に本因坊道策が試みていた。このため道策流とも呼ばれる。
序盤早々、周囲にまだ石がない段階で、相手の星に対して直接に三々に打ち込んでいく手段を指す。かつては全く考えられていなかった戦法だが、AlphaGoなどの人工知能がこの手を打つことから注目され、人間の棋士の間でも広く採用されるようになった。ダイレクト三々の名称は、2018年5月から河野臨によって週刊碁の連載のタイトルに使われ、定着した。
囲碁の基本的な手筋のひとつである。アタリの連続で、逃げる側は盤がある限りは逃げることができるのだが、盤の端まで到達してしまうとどうにもできず、石を取られてしまう状態をいう。逃げきれるつもりでこの手順に入ると非常に大きな被害を受けること、シチョウアタリという攻守が全く逆転する危険な変化があることから、「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言もある。
シチョウの追いかける先に相手の味方の石がある場合シチョウが成立しないので、この手を選ぶことが多い。
相手の石にフタをするように斜めに置き動きを封じる。
一旦相手のふところに石を打ち、一度は取られてしまうが取った後の姿がアタリになっていてすぐに相手の石を取り返すことができる。
漢字表記では「追い落とし」となる。 ツグ手を打っても引き続きアタリになり、取られてしまう状態をいう。別名をトントン、ツギオトシ、バタバタとも。
相手の石にも自分の石にも触れないような位置に、文字通り「置く」ように打つ手のこと。動詞では「置く」となる。多くの場合一線や二線など辺の低い位置の、敵陣の急所に打つケースを指す。
相手の二団以上の石を同時にアタリにし、二眼を確保する手段。文字通り相手を押しつぶすイメージであることからつけられた。着手禁止点を利用して生きる手筋である。
相手の石をアタリにし、自分の石を相手に取らせた上でもう一度相手をアタリにする一連の打ち方を指す。途中、さらに捨て石なども交えることもある。多くの場合、相手を凝り形にし、自分が形を整える目的で打たれる。また、攻め合いの場面で相手の手数を詰め、攻め合い勝ちに導く手筋としても用いられる。また、あまり効果のないシボリを「西洋シボリ」と称することがある(前田陳爾の造語)。
ある石のダメが詰まることで、各種の不都合が生じる状態を指す。「ダメの詰まりは身の詰まり」という囲碁格言があるように、不必要にダメを詰めてしまうことは身の破滅につながり、碁において戒められる事柄のひとつである。
駄目については後述。追記編を参照。
ヨセ(終盤のこと)において相手の陣地を侵食するための鮮やかな手筋。
一見繋がってないようなところに打つのだが、見事に繋がっていて相手の地をかなり減らすことができる。
盤上にある石の一団は二眼(空間が2つ)ないとゆくゆくは駄目(呼吸点)が詰まり必ず取られてしまう運命にある。
これはルールとして定められているというよりは、石は呼吸点を有してないと取られる、着手禁止点には打てないという2つのルールから導かれる定理のようなものである。
2つ眼があると、駄目が最低でも2つある状態と着手禁止点が2つある状態が存在するため、着手禁止点を同時に2つ塞ぐことはルール上できないので必ず取られない最強の存在となるのである。
この取られない石の状態のことを「生きている」と言い、この「生きている石」の内側の領域が陣地となる。
この石の生き死にさえ理解できれば、初心者の、どっちがどっちを囲んでるのか、これは内側も外側も囲んでると言えるのではないか、という疑問は消えるだろう。
相手にそこを継がれると眼となる部分に先行して打って欠け目にすること。
「打って欠く」(打ち欠く、あるいは内欠く)の意
相手にそこに打たれると完全な二眼ができてしまう部分に先行して打てなくする、相手の石の一団を殺す必殺の手。
隅に打った既存の石から陣地を確保するためにもう一手かけて領域の守りを固める手
ふたつ隙間を空けて打つ手
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自分の石の斜めひとつ空けた場所に置くこと。●から見て★の手のこと。
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相手の石の隣にくっつけて置くこと
相手の石を挟むように置くこと
相手の石の斜めに置くこと
相手の石のつながりを断つように斜めに打つこと
相手の石がそれ以上侵入してこないようにせき止める位置に置く石
相手の石を押すように平行に打たれる石
目外しへのカカリから発生する定石を指す。派生する変化型が多く、複雑な戦いになることから、大斜百変、大斜千変とも呼ばれる、難解定石の代表的なもの。天保頃より特に研究が進み、現代でも多くの変化が生まれ続けている。
小目への一間高ガカリに下ツケする形から発生する定石を指す。最初から接触戦となり、また変化型が多い難解定石の代表の一つ。石が接触しながら戦いになっていく様を「ナダレ」と形容された
小目への一間高ガカリに二間高バサミして生ずる一連の変化を指す。難解で未解明部分も多く、また変化型が多いために誤ると自らも傷を負うところから、村正にちなんでこの名が付いた。大斜、大ナダレとともに三大難解定石とされる。
竹の節のような並び。
一間空けて2:2で平行に並んだ形で、その間をどちらかを相手に打たれたらもう片方で繋がれるので絶対に切られることがない。
仏教用語ではひとつの宇宙が始まって終わるまでの途方も無い長い時間のこと。
囲碁においては、どちらかが譲らない限り永遠に循環してしまう特別な形があり、その形をコウと呼ぶ。
コウの形で石を取られた側はコウをすぐに取り返してはならず、一手別の場所へ打つ必要がある。
通常、白石はハマグリのくり抜きによってできているがそれが語源か。しらんけど
冒頭で説明。
限られた局面、特に序盤においてある程度決まった一連の手の応酬のこと。
定石は手練の碁打ちの長い研鑽、研究により成り立つもので、お互いに必然の手を打ち、双方ほぼ互角のワカレとなるのが定石の前提である
どちらの陣地にもならないどうでもいい地点の事を指すことから日常用語に転じた。
または、石から出ている呼吸点(全部塞がれると相手に取られてしまう)のこと。
囲碁において死活問題とは、相手の石を殺す、あるいは自分の石を活かすための問題(クイズ)のことである。
現代では上手(うわて)が白を持つが平安時代期には強いほうが黒を持っていた。
そのため
と転じたと言われている。
自分が第三者となった視点で戦いを見ると手がよく見える、あるいはそう錯覚すること。
一目は一子(石ひとつ)の意。
囲碁においては強さに差がある場合、相手より多く先に石を置いた状態で始めることから、相手の実力を認め敬意を示す意味に使われるようになった。
手を省くこと。
力を抜くことではなく、相手の打った手に付き合わず、その場所よりも価値の高い場所へ向かうことを言う。
囲碁にはいくつかルールがあり、基本的には江戸期~昭和期まで囲碁の第一人者であり、世界に囲碁を広めた日本のルールが用いられている。
日本ルールは盤上の囲った陣地(目)のみをポイントとするのに対し、中国ルールではそれを含め置いた石の数もポイントになる。
この2つの大きな違いは、日本ルールが自分の陣地に自分の石を置くことがマイナスとなるのに対し、中国ルールではマイナスにならない点である。
このことが死活に関わる局面や終盤の局面での手入れ、手抜きにおいて大きな違いを生む。
日本ルールでは曲がり四目と呼ばれる形が出現した場合、手を入れるのがマイナスになるためそれが死であることの証明を用いないと議論が生じる。
そのため中国ルールのほうが初心者に優しく、コンピューターにも優しい。
他には日本ルールでも中国ルールでも禁止されている自殺手がOK!というルールもある。
碁打衆を保護、「御城碁」の基盤を築く。近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。(日本棋院表彰ページより引用)
永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日)
江戸幕府における囲碁の最高位だけにとどまらず、将棋の最高位も得た二刀流。
大橋宗桂との将棋対局は将棋の現存する最古の棋譜でもあり将棋界においても重要な人物の一人。
正保2年(1645年) - 元禄15年3月26日(1702年4月22日)
手割りや布石など、数々の発明を生んだ天才棋士。史上最強という呼び声も高い。
文政12年5月5日〈1829年6月6日〉 - 文久2年8月10日〈1862年9月3日〉
ヒカルの碁で著名。
1874年(明治7年)6月24日- 1940年(昭和15年)1月18日
またタイトルとなる前の、「名人は一世に一人」の終身名人制時代の最後の名人でもある。
引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。2008年囲碁殿堂入り。
「オマ●コ」発言など、昭和の棋士らしい数々の破天荒なエピソードが有名。
棋聖 6期 (1977-82)
名人 2期 (1962・70)
天元 1期 (1975)
だと思ってる人はヤバイぞ☆
主要キャラの喋り方は奇人変人にも程があるのでそこの違和感で躓く人多数。
ストーリーはどこまで刀持って鬼をぶっ殺して回りますがメインテーマだから「悪人やモンスターをぶっ殺して回る」に興味がない人は何を楽しんで読めばいいのか理解不能で詰み。
バトル物自体は読み慣れている人も主人公たちの匂いや音によって状況判断するという固有能力を「ちゃんと理解しようとしすぎて」合わなくなってしまう人もいる(アレは「隙の糸が出たら○ボタンを連打しろ!」ぐらいの認識でええんよぶっちゃけ)
敵のボスは逃げてばかりのダセーオカマでパっと見オーラも感じないし、鬼は序盤こそ可愛そうな奴らだが後半に行くほど人格破綻がヤバすぎて読んでて不快感が凄い。
修行して強くなったからリアルとかいうけどそもそも人間が刀でズバズバ岩をぶった切ってる時点で何がリアルなのかとなるわ、水や雷はあくまで演出ですと言われてもじゃあどれが現実の攻撃なんじゃないという。
挙句の果て後半になると敵が弾幕シューティングみたいに遠距離攻撃連打するけど、アレは演出じゃなくて実際にああいう攻撃らしいがそれズバズバ食らって生きてる鬼殺隊も普通に人間じゃねえだろと。
読者の心が折れたり離れたりするチャンスがあまりにも多いのが鬼滅なんだよね。
「起承転結でオチがついたら笑いましょう」という文脈を理解すればオッケー。
逆に言えば、どんな漫画にもその漫画特有の文脈やコンテキストがあるからそれを読者はまず共有する必要があるんだよね。
ちなみに最も簡単に楽しめる漫画は「絵が綺麗なのを楽しんでいただければよろしいのですが、一応文字を読むと話が繋がります」になるやつだよ。
つまりは単なるイラスト集として読んでもいいぐらいに絵がきれいな漫画だね。
実際、IQのめっちゃ低い人や子供が絵はキレイだけど話はグチャグチャの作品を「中身はわからんけど絵が綺麗!しゅき!」と評価することはあるんだよ。
アルジャーノンでバットマンを読んでた低IQチャーリーはまさにこの感覚だったね。
「でもそれって漫画読めてないですよね?」と思ってしまうなら、君は物の価値を自分のものさしだけで決める癖が付きすぎてるよ。
商品をどう使うかはユーザーに委ねられているというアタリマエのことを理解しなきゃね。
たとえば、ハンドマッサージ器具は「コリをほぐす用途」だけじゃなくて「エッチな用途」を期待して買われることがあって、「エッチ目的の人」からの評価は高いが「健康目的の人」からの評価は低い商品とかもあるんだよね力の具合とかで。
俺のような可処分所得が多少ある限界独身中年も中にはいるだろう。
「ガチで可愛い」ってどんなもんよと思うだろうが、どれぐらい可愛いかといえば
街で見かけたら一瞬振り返るぐらい、学校だったらクラスで1~3番目ぐらいの子は、高級店でなくてもそこそこいる。
かつてお笑い芸人が「コロナ禍で可愛い子が風俗に入ってくる」といって大炎上したが、あれはガチだ。
一度マジで可愛い子と当たって天国を経験してしまうと風俗から抜け出せなくなるので注意してほしい。
■高級店に行く必要はない
60分¥4万みたいな高級店だからといって、びっくりするほど可愛いとは限らないし、
「ハズレは来ない」ってぐらいでコスパが悪すぎるし、むしろ「高い金払ってこれぐらいか…」のガッカリのほうが多かった。
かといって、60分¥1万は「ハズレしかない」。
狙うは60分¥15,000-¥20,000 のクラスの店だ。普通の女の子が一番いる価格帯だ。
ハズレも多いが、しかしガチのアタリも結局このクラスの店に多い。
以下、アタリの引き方。
■当日の勢いで呼ばない
そもそもデリヘルなんて勢いで呼ぶものだろうが、これが一番ダメだ。
優秀なお前らなら、仕事だったら事前のリサーチは欠かさないだろ?
いつか自分が呼ぶ日に備えて、お目当ての店でじっくり目星をつけておく必要がある。
以下、目星の付け方。
■紹介文は嘘、口コミも当てにならない。予約状況を見ろ。
基本として、まずCityHeaven掲載店に絞れ。
お店で直で予約を受け付けているところは、店と客で情報格差が大きすぎて勝ち目がない。
CityHeaven掲載店を見繕い、そして嬢の写真で「この子は可愛い予感がする」「この子は好み」という嬢を見つけたら、
先の日付まで予約が入っているようなら、その子はまずはハズレではないことは確定だ。
なぜなら先まで予約が入っているということは、本指名の客がついているということだからだ。
指名を取れる嬢ならまずハズレない。
時間を使って、予約状況を丹念に見ていけば、どの子が真に人気なのかがわかるようになる。
店のランキングは当てにならない。あれは、出勤頻度が多大に影響するからだ。
出勤頻度が少なめでそんなにスれてない可愛い子はランキングには入ってこない。
そして、その子の出勤通知をメールでもらうようCityHeavernで登録するところが第一歩だ。
以下、そういう嬢の予約の取り方。
■お前の予定に合わせるな。お前が嬢の予定に合わせろ。
まあ、これが一番ハードル高くて脱落するヤツが多いだろう。特にサラリーマンなんかはな。
出勤通知や、あるいはシフトアップの予告に合わせて、予約競争をで勝つ必要がある。
この予約競争にほぼ絶対勝つ方法があるんだが、これは企業秘密なので教えられない。
レア出勤を雇っておくというのは、店は通常は嫌がるものなんだが、それが許されているということは、
レベルの高い嬢だということだ。
そしてレア出勤なので他の客に知られてない可能性が高く、意外に予約が取りやすかったりする。
今の俺は、基本はレア出勤嬢狙いで遊んでいるが、
たとえるなら、性欲の強い宇垣美里、キス好きな上白石萌音にそっくりな女子大生、モデル並のスタイルの橋本マナミ、愛嬌たっぷりの長濱ねる…
嘘じゃないぞ、可愛い子こそ裏でこういう仕事をして稼いでいる。
風俗に入れあげて愚かだなって?
全くその通りだが、風俗で可愛い子ばかりを選べるようになると、
それじゃあみんな、楽しんでくれ。