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また長いので要約すると
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前記事でコロンブス問題について取り上げた際、現地の当事者目線を強調し、説得力のある解釈に直面した。Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題や感謝祭に関する記事では、先住民視点の重要性を感じさせられたが、ファクトチェックが難しく、一部は陰謀論のように感じられる部分もあった。特に感謝祭の起源に関する記述には疑念が残る。感謝祭はアメリカの文化・経済に深く根付いており、その負の歴史を直視することは容易でない。感謝祭をやめることは難しいが、少なくとも先住民の立場を認識する必要がある。フランスの植民地主義も同様に、進歩的な価値観と結びついており、正義の名のもとに歴史を再評価する動きに対する警戒が求められる。正しさのもつ危険性を認識し、多様な視点を大切にするべきだと感じた。
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慎重な立場で検証すべきという姿勢には同意するけど、結局「現地民を類人猿として描いている」ように見える時点でアウトに違いないので、それ以降はキャンセル側も批判側も重箱の隅をつついているだけなのではないのかね。
「知性的な判断とは、できるだけ詳細な知識による理解に基づくべきだ」「そのための学習と、当人による体験を重視すべきだ」という点は見習うべきだと思った。
500リットルの冷蔵庫買って、一夏分の麦茶買って可能な限り冷蔵庫に詰め込んでおけば2日に一回チェックくらいまで省力化できるだろ
前記事で、コロンブス問題、サヨクめ!と散々書いて、当事者目線を強調しつつ最後に野沢直子の回答で締めくくっていたら、
まさに現地の当事者目線で、ぐうの音も出ない解釈を目にすることになった。
先住民目線で語る、Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題 | ユロックの母
ほらみろや、と今頃、新たに手にしたポリコレ棒で気持ちよく机をバンバン叩いているに違いないと思うと、うぐぐ、な思いはあるが、この記事はとても説得力があった。
ファクトチェック全部はできないし、3割程度は陰謀論ばりのこじつけかなぁ?という印象ではあるものの、確かにそう見える、というのは、正直、とても説得力がある。
それにしても、この当事者目線というのはとても大切だと思うし、亜希ダウニングさんの他のアメリカ先住民を取り扱った記事も大変興味深いものだった。
特に、おお、と蒙を開かれたのは、感謝祭に関するアメリカ先住民の視点。
【感謝祭の本当の起源】ネイティブアメリカンの悲しい真実の物語とは | ユロックの母
これは考えるヒントがたくさん詰まっている記事だと思った。
ただ、これもコロンブス記事同様、3割程度はエイヤと断定してしまっている部分が少なからず見受けられ、必ずしもファクトを確認できない感じではあった。
(例えば、1637年のピクォート族虐殺=John Winthropマサチューセッツ湾植民地知事による征服祝いが感謝祭の起源である、と同氏は断定しているが、アメリカ先住民よりのメディアを検索しても「このピクォート族の虐殺と土地を奪ったことを讃える1637年の宴が最初の感謝祭であると、後に公式に決定」とまで断定しているものは見つけることはできなかった。もっとも保守派よりのファクトチェックサイトでは、1637年の征服を祝福、感謝したのが感謝祭の発端とする説に「事実無根だ!」と、それこそむきになって根拠なく反論しているのもみつけたので、右派にとって、痛いところを突かれれているのだろうとは思う)
というのは、感謝祭という、入植したアメリカ人の原点ともいえる巡礼始祖の心温まるエピソードで、かつ「アメリカ人」というネイションとしてのアイデンティティ形成にも寄与してきた感謝祭、そして現代では商業的にもブラックフライデーなど非常に重要な感謝祭が、実はアメリカ先住民の視点からみると、自分たちが虐殺されてきた血塗られた歴史の一コマだったというのは、ポリコレ的にどう扱うんだろうと。アメリカ先住民の立場としては、感謝祭の日は喪に服す日だとして、負の歴史を直視するよう求める主張も行われている、という。
これは、ポッと出てきたアニメやMVなどのコンテンツと違って、ポリコレ的にあかんから、といって引っ込めるわけにはいかない。
感謝祭はそれほどまでにアメリカの文化・経済社会に深く浸透している。巡礼始祖の思いというのはある意味、合衆国憲法起草にも関わってくるものなので、巡礼始祖の神話をその一部であれ、修正する、というのは容易なことではない。いかにキャンセルカルチャー全盛の昨今といえども、感謝祭、裏側からみれば虐殺の歴史、というところに目をつぶり続ける時代はしばらくは続くだろうと思う。
だから、アメリカ先住民としては、感謝祭やめろ、とまではいえないが、少なくとも私たちは喪に服すよ、ということをアピールする、というところなのだろう。
問題は、自分たちのアイデンティティ形成に欠かせないものをキャンセルできるのかというテーマだ。
そもそも、植民地主義の反省というのがアメリカのみならず、ヨーロッパ社会でもなかなか直視されないのは、それが自分たちのアイデンティティに組み込まれているからだというのは、例えばフランスの植民地主義を振り返るとわかる。
例のコロンブスMVでは、類人猿に音楽を教えたり文字を教えたりする場面があるが、ダウニングさん的にはネイティブアメリカンの歴史が最初に思い浮かぶのだろうけれども、俺はどちらかというと、未開な社会を文明化する、というテーマはむしろ、フランスの植民地政策がどんぴしゃりなイメージだったりする。前記事でそんなことを書くと、そういうお前も知識ひけらかし野郎だろが、といわれるので書かなかったが。
ひとつ前の記事で永井陽右氏の言葉を引いて、「外付けされた人権」という安易さを戒めるようなことを書いたんだが、外付けの元祖は実はフランス革命だ。
人権の出発点のひとつともいえるフランス革命では、当時、海を隔てたイギリスからこの革命の様子をみていたエドモンド・バークは、革命で掲げられたフランス人の新しい概念について、外付けはおろか、「発明されたもの」とまでいっている。褒めているのではない。「発明された概念」のもと、フランス革命では、反革命派が次々と断罪されている様をみたエンモンドバークは、なんでも進歩的なものが素晴らしいわけではないし、なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤべえと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、伝統や文化と結びついた自分たちの偏見を生かした社会を目指すべきだ、という考えを進めた。
つまり、「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な文化や価値観で自己実現をしたいひとだっているってことだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。それをかつて中島みゆきは「世情」という歌のなかで、
学生運動のシュプレヒコールの情景をみながら、「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」とうたった(哀しい思いをするのは学生たちに打倒される守旧派側でもあり、衰退する運動にしがみつく左翼くずれの末路でもある。あ、俺の解釈ね)。20代の頃の中島みゆき、すごいぜ。
エドモンド・バークに戻ると、彼はいわゆる、保守主義の元祖みたいに言われることが多いが、フランス革命による激しいポリコレにビビったというのがそもそもの出発点なのだ。
*教養なんて外付けだろうってブコメに★がたくさんついているが、エドモンド・バークの見方は、そういうことを少し考えるヒントになったりしないかね。
もうひとつ興味深いのは、フランスの人権の歴史は、実は植民地主義と深く関わっている、ということだ。
フランス革命後、自ら編み出した自由博愛平等という「人権」という概念をより普遍的な価値に高めるために、文明化の推進という旗印のもと、未開社会の啓もうにいそしんだのがフランス植民地主義の大きな側面だからだ。特に、フランス語の普及は博愛の精神の名のもとに、当時フランスが支配下においていたアフリカ地域で推進された。確か、昔読んだ本で手元になく記憶があいまいだが、当時の知識人ヴィクトル・ユゴーは奴隷制に反対しつつも、フランス語の普及にはむしろ賛同していた、と聞いたことがある。ユゴーではなくジャン・ピエールだったかもしれないが。いずれにしても当時の一級の知識人が植民地におけるフランス語推進の旗手だった。
こうしてユニバーサリズムの名のもとに、フランス人の精神の普遍化を推し進めた、というダイナミズムがあったこと、そして、隣国の保守知識人からはフランス革命のその後の経過は「発明された概念」による野蛮なポリコレとして映じていたりしていたことは、「人権を普遍的なもの」として習ってきた学生が、次のステップとして教養として知っておいてもいいことだと思っている。
人権の普及と植民地支配が地続きであるというのは、フランス社会での植民地支配への反省の足かせになってきただろう。それは博愛を友愛とポリコレ的に言い換えても同じことだと思える。
これはある意味で、感謝祭が国民意識の醸成に関わってきたことと、その負の側面を直視しにくいアメリカの状況と、状況は異なるが、抱えている課題は共通する。
昨今のコロンブスMV叩きについて、得体の知れない違和感を覚えるひとは、俺も含めてなんだが、恐らくどちらかというと、人権の普遍化のプロセス(進歩主義)と植民地主義が一心同体というところに気持ちの悪い類似性をうすうす見出せるのではないかと思う。エドモンド・バークほどはっきりと「人権よりむしろ偏見のほうが大事!」と180度振り切るまではいかなくとも、正しさのもつ禍々しさを何か表現できないかというモヤモヤがあるはずだ。
自らの存立基盤をポリコレ的に正す究極が革命というものだとすれば、それに対する警戒感というのは埋もれてはならないものだと思う。
そういうモヤモヤは大切にしてほしいし、アメリカ先住民の立場からみたらやっぱり、という記事を見つけたとしても、そこまで確信をもって解釈できなかったし、寄り添えない、という部分は残しておきたいと思う。それに対して「貴様、アメリカ先住民の心情をないがしろにする気か」という反応は、ある意味、表現の自由の乏しかった80年前の戦時中に、「兵隊さんご苦労さん」といって国民を一斉に同調させたダイナミズムとよく似てくる。何が正しいかについて翌々考えず、適当にポリコレ棒を拾って叩いていると知らず知らずのうちに、みなが操られた正義に踊らされてしまうというのは危機感としてもっていい。
社会のIT化、省庁再編、金融再編、平成の大合併などの小さな変化・進化はもちろん進んでいる。
少子高齢化、人手不足、産業空洞化、低成長社会、デフレ、東京一極集中、インフラ老朽化。
これらの問題は20年以上に渡って取り組んでいるが、一向に解決していない、解決する気配すらない。
なぜ1998年という年を出してみたかというと、この年が戦後初めてGDPがマイナス成長となった転換点だから。
経済はどん底なのに、テレビや音楽などのエンタメだけは最高潮の盛り上がりだったのも印象に残っている。
資源価格の高騰によるインフレ、ドイツにDGPで抜かれた、東京の人口1400万人、観光業で食っていくしかなくなった。
そこまで人口要因が経済に与える影響の比重が他の要因が影響を与えられないほど大きいならマクロ経済学とかもう要らんな。人口増やす方法だけ考えとけばいいんだから。まあ私は主流派はほぼフィクションと思ってるが
直視したところで高齢化率を為替や財政ほどコントロールできるわけではないんやから無駄ではないと思うけどな
91年ごろはバブル崩壊後の後処理が主因
今は少子高齢化が主因
30年も経ってるんだから同じ不況でも主要因が違うのはまあ当然
そして少子高齢化の方がタチが悪い
何故なら、不良債権はある程度の人間を自殺必至の経済状態に追い込む覚悟で処理することができる(実際やった)が
高卒のおじさんがTwitterで得意げに経済を語って二百もリプライがきてるのを見ると目眩がする
正鵠を射ているならまだしも、それなりの大学の経済学部を出た自分からすると、大学1年の前期生より更に酷い
床屋談義、とはよく言ったものであんなのは床屋かパチ屋か場末の飲み屋でひっそり幕を閉じるべきレベルの議論でしかない
しかしこの世界の大半は愚民なのでみんな上手く反論できないしあまつさえ賛成している人間も多い
人文系の学問は不要だとよく言われるけど、もし経済学を学ぶ人間がエリートだけになったらこういうおっさんが支持を集めて愚民社会が形成されるんだろうなと思う
自分も愚民の一人だけど、この分野に関しては体系的に学んだから得意だしこの分野に関しては素人と一応は弁えている
しかし世の中の少なくない数のアホなおっさんは幼児的万能感の中で生きているので全ての分野において自分は偏差値60くらいあると勘違いして生きている
ゆとりってバカにされてるけど、今はもう日本経済を単独で支える奴隷世代だよ…
けっこう読んだ方だと思うけど
妻側が言う旦那の暴力にあたる行動は壁に穴あけと、軟禁と、妻が嫌がってるのに脱がしてセックスしようとするとか。(しか見当たらなかった。もう少し過去に遡ればあるかもしれんが。)
妻は旦那より稼いでるけどほぼ全て生活費や家のローンに消えるのに、旦那は給料のだいたい1/3しか入れなかったり、商品券1万円分を渡してきたりで少ない時もあったり。子供3人いるのと家のローンで厳しいらしい。
職場のおっちゃんが昼休みに食堂のテレビに野次飛ばしてる時に「安倍さん」だったら良かったのにな―と「岸田」の批判をしてるの聞いたことあってビビるで。
一部の奴らにとっては「安倍さん」はアベノミクスで日本経済を救ってくれたヒーローなんやで。
ほんま謎。
いまではさまざまな企業とコラボし、なんでもかんでもグッズ化されている。人気グッズは転売ヤーによって駆逐され、
オンラインストアに関しては注文したものは数ヶ月経っても届かないことがザラにある。殿様商売だ。
アニメも放送され、お台場や各ポップアップストアでイベントが開催され、子どもから大人まで、そして日本だけでなく海外でも人気だ。
もの凄い盛り上がりを見せ、日本の経済はちいかわによって動かされていると言っても過言ではないほど影響力を持っている。
だけど、僕が好きだったあのころの「ちいかわ」はもういなくなってしまった。
僕が好きだったのは、可愛いグッズとかアニメとか撮影イベントとかそんなものじゃない。その世界観だった。
ちいかわの世界は、僕らが生きているこの世の中の縮図だと思っている。
ちいかわの世界でも労働によってお金を稼ぐ。登場人物のほとんどは日雇い労働者だ。
日本にもこういった世界はいまだに存在している。山谷・西成・寿町など日本三大スラム街では見慣れた光景だ。
ちいかわちゃんたちは「草むしり」や「討伐といった仕事をすることで報酬をもらえる。特に討伐は危険な仕事で、大怪我をしたり、最悪「死」となり帰らぬこともある。
その労働で得たお金を使う先にはいつだって鎧さんたちがいる。鎧さんたちが、ちいかわの世界を牛耳っている支配者だ。
鎧さんが募集する仕事をこなし、そこで得た報酬を鎧さんが運営するお店で使う。まさに食うもの・食われるもの、僕らの世界そのものだ。
見た目はかわいいが、この世界の縮図そのものなのだ。それこそがちいかわの根底に眠る物語の面白さだ。
いまのファンのほとんどは、ストーリーはよくわからないけどかわいいからグッズを購入している人がほとんどだろう。
部屋に大量のグッズを並べて写真をアップしている人たちもよく見かける。表面だけを見て本質を見極められていない、薄っぺらなファンばかりだ。
よく中国人転売ヤーについて文句を言っている人がいるが、日本人もたいがいだ。
代理購入したり転載禁止の画像を転載してアップしていたりする。やってることは転売ヤーと変わらないだろう。
結局さ、これに対する反応見てもわかるんだけど、日本のカス論壇で一番嫌われるのが「エリートの責任」を語ることなんだよね。
両方からあの手この手で無効化されて、結局エリート(権威)に求めるべき責任が何かという話はいつも曖昧に終わる。
すべての基準でそう。金持ちも、政治家(既得権益)も、学歴集団でも。
「お前、恵まれてんだから社会に責任果たせよ」って言う、日本以外の国では当たり前にある(経済が『実力主義』でも、宗教的な喜捨の精神はアメリカにすら残っている)恩返しの精神が、日本人にだけは、右も左も男も女も老人も若者も吃驚するほどない。
こういうのが「他人を助けない日本人」みたいな指標にも現れてるのに、何故か学力エリートは「そうそう日本人(田舎者で無学で自民党支持者の愚民)は他人に冷たいよね」と自分がほとんどボランティアや寄付もしないのに、批判だけする側で平気で居られる。
まあこれ、自分で考えた持論ってわけでもないんだけどね。
大学の指導教官が数学者なんだけど思想的な部分があって、「日本には本来のエリートがいない」とか「大学院の研究分野くらいになれば、世界でも数十人数百人しかいない専門家であることを自覚しなさい」とかまあまあ言われたので、今になってみると本当にそうだなって思ってるだけ。
大学の専門家が専門分野に関してツイッター(X)で言うことが、「世の中こんなことも知られてないんだねえ(他人事)」みたいなの、死ぬほど見てきた。
そりゃそうだよ、お前が専門家だってのは、みんなが知らなくて、お前が教えなきゃいけないってことだよ。そんなことが本当にわからない奴だらけなんだ。
自分がリーダーにならなきゃいけないのにリーダーになろうとしない奴が、誰か良いリーダーいないのってネットで喚いて憂さ晴らししてる、本当に希望のない国だよ。
だって、文系は「社会科学」なんだよ。「社会」を生きるために必要な科学なんだから、主権者が情報のアップデートをしなかったら当然批判される。社会を広い意味でよりよくするための学問なんだから、「べき」が存在するのは当然だろう。
一番わかりやすいのは法学だ。学校で刑法を読み通した奴なんていないが、刑法を知らない人間は逮捕されたり罰金を払わさせられたりする。刑法は随時改正されるが、どう改正されたかニュースで把握するのは国民の義務だ。
経済学もそう。たとえば、今回の、選挙目当ての一か月だけの定額税戻しがマクロ経済にどのような影響を及ぼすか正しく評価することが有権者には期待されている。少なくとも、有権者だったら、対立する言説を読み、どちらがより妥当か判断できるくらいの知識を持っている「べき」だ。
今回のミセスの炎上は社会学の範疇になる。問題は、コロンブスが500年前に何をしたかの評価のアップデートがなされていなかったことじゃなくて、BLMとか、現代の世界的な差別撤廃の運動のうねりを知っている「べき」なのに、今回のMVを見て、リスクを感じて公開前に専門家に聞こう、という判断もできなかったことだ。
差別の文脈では特に「べき」が強い。なぜなら、差別において無知であることは、自分にとって不利益になるだけでなく、他人を害することになるからだ。フーリエ級数を知らなかったことで他人の尊厳を踏みにじることはまずないが、差別に対する無知は、多くはその人が差別する側に存在し被差別者の存在を透明化していることを意味し、強い批判の対象になる。