はてなキーワード: 湾岸戦争とは
近年になって、LGBTなどの性的少数者に対する社会の理解がクローズアップされているけど、そうなった経緯について皆分かっていないと思う。
一番の転機は、1991年の湾岸戦争と2003年のイラク戦争である。
イラク戦争以前のアメリカ軍では性的少数者の入隊を認めておらず、イラク戦争時に初めて、米軍にLGBTの人達が軍務に就いたのだ。
彼らは、健常者の兵士や黒人の兵士達と一緒に勇猛果敢に戦い、その戦果を挙げたことを認められた。
その経緯があって、イラク戦後のアメリカ社会では性的少数者達を自分達と同等だと認め、待遇を改善していこうという流れが生まれたのだ。
逆に言えば、LGBTの人達を自分たちと同じ「アメリカ国民」のサークルに入れてあげるということ以上のものではなく、性的志向そのものについては受け入れているわけではない。
星条旗の下に、あらゆる属性の国民が団結するためのLGBTの支援運動に過ぎず、性的志向そのものについては今でもアメリカは分断されている。
1.黒人~奴隷解放宣言後のアメリカの黒人の立場は非常に低かったが、第一次世界大戦と第二次世界大戦に従軍したことによって、アメリカ国内における黒人の地位が向上するようになった。第一次と第二次の当時は、指揮官になれる黒人はいなかったが、湾岸戦争時のパウエル元国務長官をはじめとして、黒人のエリート軍人も現れるようになった。
2.女性~第一次世界大戦と第二次世界大戦は国家総力戦であり、女性も銃後を支える戦闘員と見なされるようになる。しかし、女性の徴兵は実現できなかったので、戦後も女性の地位は低いまま。北欧では女性も平等に徴兵しているので、女性の社会的な地位が高い。
3.東北人~明治維新後の東北人は、戊辰戦争の賊軍の子孫として扱われていたので、日本では東北人と言うだけでバカにされる風潮があった。日清・日露戦争においては、伝統的に弱いと言われる西日本部隊を差し置いて、戦況を変えるほどの活躍を見せた。第二次世界大戦時には、東北人の総理大臣を輩出するほどまで、東北人の名誉は回復された。
・『愛情=カネ』という女性が予想を遙かに超え世間にたくさんいて辛い
http://anond.hatelabo.jp/20170605190352
・奢りに関する私の「常識」が間違っていたんかなぁ
http://anond.hatelabo.jp/20170608120939
http://anond.hatelabo.jp/20170605190352
私の父親は、収入だけはそれなりにある男だったが、「カネだけで面白みのない、家族を大切にしない男」として、母親からいつも馬鹿にされていた。
仕事ばかりで趣味も持たず、全く家に帰ってこない父親に、家庭での居場所はなかった。
それを見て育った私は、カネと愛情は別モノだということを学んだ。
私は元記事で↑のように書いた。
http://anond.hatelabo.jp/20170606122403 の増田は「カネで愛情は代替できる」と言うけれど、私はカネで愛情は代替できないと思う。
ソースはうちの両親。
でもこれは、私の両親が特別毒親だったという話でもないと思う。
私が青春時代を過ごした90年代、「カネだけで面白みも愛情も無い夫」を妻が侮辱する描写は、ドラマやニュースでよく見かける定番ネタだった。
これに限らず、90年代は「カネよりもココロが大事」という空気が強い時代だったと記憶している。
湾岸戦争では「金ばかりで人を出さない」という論調で日本の態度が批判され、
「エコノミクスアニマル」という言葉で日本の経済大国化が海外から揶揄された。
「カネがいくらあっても、愛がなければ人は幸せになれない」「カネで人のココロは買えない」という論調が支配的であり、
「お金なんかは ちょっとでいいのだ!」(大迷惑) 「財布の中身が あいつの中身なの?」(HEY MAN!)と、奥田民生は唄った。
カネは、どちらかといえば「薄汚いもの」だったのだ。
今にして思えばあの時代は、カネの価値があまりにも軽視されすぎていた時代だった。
カネを稼ぐことが、現在と比較してあまりにも簡単だったからだろう。
その後の不況により、カネを稼ぐことの難易度は、あの時代とは比べ物にならないほど高まった。
カネを重視する人間が男女関係なく増えるのは、当たり前のことなのかも知れない。
あの飽食の時代の価値観を、私は内面化し、真に受けすぎてしまった。
だから私は、女性からカネを求められることに、必要以上に潔癖になってしまっているのだろう。
カネに対してもう少し割り切った態度を、私は持ったほうがいいのかも知れない。
悪いけどもう手遅れだよ。
もうすぐヨーロッパでアメリカと同じ現象が起きる。自国第一主義、保護貿易。
アメリカの選挙だがその影響がアメリカだけで済むはずがない。アメリカを追い出された移民は自国に戻って何をすると思う?アメリカと同じことをするのだ。自国にいる移民や海外から働きに来ている人たちを追い出さないと仕事がないから。そして追い出された人たちは自国に戻ってまた同じことをする。もともと仕事のない国から来た人たちはどうするかというとグループを作って食料を奪い合う。民族対立、内戦。そしてそれはそれらの国から搾取してきた経済大国にも影響し、その国の経済も傾くようになりアメリカと同じことが起きる。これからこういうことが繰り返されていくのだ。経済国は搾取してきた国を安定させるために平和維持活動の名の下に武力介入をし内戦に巻き込まれ泥沼となり気が付いた時には黙って撤退することができないほどの損害を出し後には引けなくなる。もしくは自国第一主義の中で勝者となる国が現れ、周辺諸国が富を奪うために武力侵攻をする可能性もある。アメリカだって経済不況の不満を内部の敵、移民に向けて彼らを追い出したところで経済は回復しないだろうしそうなると次は外の敵を求めるようになる。日本だって怪しい。アメリカで多様性主義と保守主義が対立したのと同じように「正しくあろうとする人々」と「信じたいものを信じる人々」の対立が起こっている。放射能、水素水、WELQ、似非科学、人には感情がある。どれだけ科学的な証拠がないと言っても人は不安になるし希望があればすがりたくなる。そういったことを無視してあくまで間違っていると声高に叫び、それを信じる人たちを正そうとする姿勢もまた対立を産む原因となっている。そして放射能の影響や水素水の効能を信じる人たちのグループと、あくまで正しくあろうとする人たちのグループができ対立するようになる。経済的には貧困層、働いているが経済的な余裕がない層の人たちはその不満を生活保護受給者に向けるようになり生活保護受給者は不満を国内の移民や外国人、また都市部の人たちは自分たちが多くの予算を払っているのにそこから地方にも税金が行き渡ることに不満を唱えるようになり都市部と地方で対立するようになり、不満をぶつける相手を求めるようになる。
これがこれから世界中で起きるのだ。この流れは気づかなかっただけですでにできていた。トランプの勝利もこの流れの一つの結果に過ぎないし、今回の選挙ではヒラリーの方が得票数が多かったと言ってもあまり意味がない。トランプが勝つのが今回の選挙なのか次の選挙なのか、時間の問題でしかなかった。
この流れはいつからできていたのか。それは前回の第二次世界大戦の後からだ。朝鮮戦争、湾岸戦争、米ソの冷戦、911、イラク侵攻、ISISの台頭、こういった出来事のすべてか今回の選挙の結果、そしてこれから起こるであろうことに関連している。専門家や評論家は具体的な原因を求めてどこかで結果が変わっていればこうならなかったと話すだろうが長い目で見れば特定のできごとの結果が変わったところで大きな流れは変わらないということに気づくはずだ。
我々はこれからどうすればいいのか。むしろ問いたい、「まだ間に合うと思うのか」と。すでに流れはできてるし今更止めることもできない。すでに賽は投げられているし、歴史は繰り返す。
人類は進歩したという人もいるだろうが、銅が鉄になり、弓が銃になり、紙が通信になったように技術こそ進歩したが、中世のキリスト教会が国際連合になり、十字軍が国際連合軍へと名称を変えただけで行なっていることとその本質は何も変わっていない。
終末のイゼッタは視聴後の余韻が心地よく毎回楽しんで見ているので、中間報告ってことでメモを残しとく。
今期のアニメを見ている本数は数本なんだけど、このアニメは続きを一週間じっくり待ちながらリアルタイムで見て良かったと思う。はじめは「原作なし」と知らなかったので、「どうせ原作読者は結末知ってんだろ」と思いながら冷めた気持ちで(姫様目当てに)見てたんだけど、オリジナルと知って俄然結末を待つ楽しみも増えてる。
で、このアニメの魅力は綺麗な暴力性とカワイイセクシャリティとの2点に尽きると思う。
綺麗な暴力性のところは、言うまでもなく戦争と兵器。ネットを見ると比較的ミリオタ諸兄には好評の描写が多いんだけど、私はそのへん知識も見識も無いんで評価できん。ただ、実在らしい兵器を使って戦争っぽいことしているのを見るのはスキ。このアニメを思わず見入ってしまうのは、リアリティは差し置いて戦闘するイゼッタの立ち回りがとっても綺麗に纏まってるからなんだよね。剣で戦闘機を貫き、槍で戦車を射止め、対物ライフルに乗ってそれを発射する。そうかと思えば、剣で戦車の砲弾を弾き返し、戦車を横転させる。ついには、空母のエレベータに魚雷を打ち込み轟沈させる。次々と手を変え品を買え、視聴者に息をつかせぬ映像を見せてくれたと思うけど、バトル物に目の肥えた諸兄からはどのように見ているのだろうか。
ついでに言っておくと、兵器の部分は表層的な暴力性と映像の快感だけじゃなく、アイデアとしてもきちんと練られているんじゃないか。魔法というフィクションを利用して物語を進めながら第二次世界大戦とか現代の兵器やらからアイデアを入れてまとめ上げているのは見ていて本当にテンションが上がる。空を飛びながら戦車を一方的に攻撃するのはイラク戦争での航空機からの映像を彷彿とさせるし、魚雷を連れて地面スレスレを飛ぶのは湾岸戦争でみたトマホークじゃないかと思って思わず関心してしまった。
「性的」の部分はフィーネもとい早見沙織大公とイゼッタの百合絡みだよね。百合は物語の本筋としては関係ないし、それを作中で意識されることもないが、視聴者としてはこれは最高と感じてる。当然のようにレズっ気を発露する女王様とイゼッタ達は見ていて落ち着くんよ。フィーネとイゼッタのどちらかが男だったら、ゴチうさのような安心感を戦争アニメで見ることはできないよね。つくづく思うのは、アニメキャラってのはカワイイだけじゃやっていけない時代になったんだなあ、声優のように積極的に百合営業していかないとアッピールできんのかいなあ、としみじみ思う。
まとめると、「パワフルさ」と「ちょっぴりエッチ(百合)さ」、男の子がスキな要素を大盛りで盛り込んだアニメが終末のイゼッタなんだろうと思う。つぎはどんな魔法(兵器)でワクワクさせてくれるのだろうか、そして物語の結末はどうなるのだろうか。そんなふうに期待しながら次回を待ちわびている。
個人的にはオタク向けのアニメとして、よく纏まった作品、あるいは佳作レベルとして十分魅力的になる可能性を秘めていると思う。あとはストーリーのまとめ方次第だと思う。今後の展開にワクワクしてる。
暴力としての戦争という快感、かわいい美少女、そして「これトマホークじゃん!」と突っ込む楽しみを提供してくれたこのアニメに期待している。
まるで集団的自衛権よりも高い精度で戦争を防ぐ別の手段が実在するかのような言い方だなあ
そんなドクトリンが存在するなら世界中の国がとっくの昔に採用してるだろうに
「憲法9条で平和が守れるんですかと馬鹿にする人は、それを盾にして朝鮮戦争にもベトナム戦争にも湾岸戦争にも、日本の若者は行かなくて済んだことを忘れていますね」
という話も成り立つわけだよね。
成り立たないよ
ぶっちゃけ憲法九条あろうがなかろうが、朝鮮戦争もベトナム戦争も湾岸戦争も日本の若者に参戦するチャンスはなかったし、今後も当分は来ない
身も蓋もない言い方するなら、日本国憲法ってのはアメリカの戦後の世界戦略を構成する要素の一つでしかない
つまり「世界の揉め事に日本は関わらせない。その代わり日本のケツを持つ」というのを体現させたのが今の憲法なわけ
だから憲法の条文がどんな内容になっていようが、日本が軍事面で海外に出ようとしたらアメリカがなんだかんだと難癖つけてストップかけてる
実際アメリカってのは、PKO法案成立の時代から日本の再軍備には割と冷ややか、建前レベルの歓迎コメント出すなら御の字レベルの反応しかしてない
佐々木俊尚が「集団的自衛こそが国際社会の軍事的常識」ってやってて(http://togetter.com/li/992818)
その「国際社会の軍事常識」で「戦争」を防げている国がないということも、国際的には常識だと思う。
彼の意見は「現実的」なようで、「現状をただ追認する意見」に過ぎない。「こうあるべき」を論じてる人に「仕方ないじゃん」という話しかしない。だから相手を切れさせる。
そこが、どれだけ丁寧に説明しても、突っかかっている人を説得できない理由だと思う。
また、
「集団的自衛や軍事力が戦争を生むと勘違いしている人は、それらが戦争を防いでいることに気付いていない」
というけれど、それはちょっと卑怯な論法だと思う。それを言っていいなら
「憲法9条で平和が守れるんですかと馬鹿にする人は、それを盾にして朝鮮戦争にもベトナム戦争にも湾岸戦争にも、日本の若者は行かなくて済んだことを忘れていますね」
という話も成り立つわけだよね。
歴史上の出来事は仮定を許さないのだから、「あったおかげで起きなかった」なんてことを言っていいなら、いくらでも勝手な主張はできる。このあたりにくると、もう詭弁比べになってしまってる。
佐々木さんは、だいたい、何かを論じようとすると、冷静に見えてすぐ感情的になり詭弁を振りかざし始める、そんな、論争が下手…を通り越して「論争できない人」としての馬脚を現すというのが、自分の中の彼のイメージ。おとなしくルポだけ書いていればいいと思う。
パリにおけるテロの一報を聞いた時、シリアやイラクの『まっすぐな国境線』を私は思った。
『ISを空爆しているからテロに遭った』という単純な話ではないのだ。
その『国民国家』が軍事力で相互に牽制し合う秩序、『ウェストファリア体制』ができたのは1648年。西欧という、極小の地域で生まれた。
18世紀以降、西欧諸国はこの『国』という真新しい概念を世界中に押し付けていく。
日本も例外ではなく、武力による恫喝でウェストファリア体制に組み込まれた。
明治維新と言えば聞こえは良いが、列強の外交圧力に屈服したにほかならない。
ウェストファリア体制の押し付けで、最も割を食ったのは中近東とアフリカだろう。
かの地域に『国』などなく、あるのは氏族社会(日本では部族(tribe)社会と呼ばれるが、国際的には氏族(clan)を用いる)だけであったし、今もそうだ。
氏族社会にとって『国』は不要どころか、不自然な国境線と独立・民族戦争を生んだ悪魔と言って良い。
うまく想像できない人は『明治維新に失敗した日本』を想像すれば良い。
成り上がりの強国に植民地支配され、解放後もモノカルチャー経済で貧困に喘ぎ、近代化できずにいる日本を想像すれば良い。
恨みを持たない方が不思議だろう。
英仏露が中近東を引っ掻き回した、100年前の一次大戦も『国』の押し売りであった。
同情しなくもないが、被害諸国から見れば悪の統領である。9.11は必然だった。
時に米国と対立するフランスだが、両国の同盟関係は100年以上も続いている。
サルコジ以降はNATOにも復帰したから、軍事同盟国でもある。
パリにおけるテロは、9.11をスケールダウンさせただけで、構造は同じだ。起こるべくして起きた。
日本は?
考えるだに恐ろしい。
フランスと同じではないか。違うのは『ISを空爆していないこと』だけだ。
日露戦争の時は『列強に一矢報いた第三世界の星』だったかもしれない。
しかし、その栄誉はすっかり摩滅し、今は跡形も無い。
イラク戦争を支持・派兵し、米国の同盟国で、米軍海外基地(規模では世界第二位)を有している。
湾岸戦争の時のように、大金をバラ撒くのか? 口だけの『平和外交』を続けるのか?
馬鹿にされるだけだろう。
「戦争反対」のムーブメントが起きているわけだが(もう下火?出遅れてすいません)、なんだか重大な矛盾があるように見えるし指摘もされてる。アメリカにくっついちゃうと戦争しちゃうよ(この70年でアメリカは何度か軍事同盟国を動員して戦争してる)、それはやだ、ってわけだけど、アメリカにくっつかないと中国に戦争しかけられちゃうかもよ(この70年で中国は自分より弱い国に何度か戦争しかけたり侵攻してる)、それいいの?ってとこがどうも無視されてる。
いや、無視してんじゃないと思う。そこ、本質じゃないと思うんだよね。
いろいろな考えを持ったいろいろな人が参加してる。それは当然だと思う。大きなムーブメントにおいてすべての人の意思が統一されてる、なんてのはフィクションであり北朝鮮だ。いろいろな考えを持ってるのは当然。戦争しちゃうかもを最重要視してる人もいれば、違憲性を最重要視してる人もいるだろう(個人的には後者の立場の人には共感する思いが強い)。
でも、そういう人たちを結びつける何かがないとムーブメントにはならない。それはなにか?このムーブメントの本質とは?なんだか戦争反対・平和主義っていうのは語感がいいからスローガン化してるように見えるが、冒頭に挙げたようにそれが本質であるように思えない。もちろん、単に騙されてる(あるいは暴走してる)人も多いだろうが、頭のいい人達もかなり動員されてるので、みんながみんなそうではない。
何が彼らを結びつけているのか?
結局、反米じゃね?
って思った。
証明手段はない。個人の感想。すまんね。しかし、過去の日本のムーブメントを観察し、それで今のムーブメントについても同じ特徴をもつ蓋然性が高いだろう議論は可能だと思う。ちょっと言葉を変えると、尤度ベースで考えてみよう、みたいな感じのことだ。専門家からバカにされるだろけどね。だから増田に書いてるわけさ。
さてどうだろうか。戦争については、起こしたかったり起こしたくなかったりいろいろだ。護憲主義かどうかについては、冒頭の明治維新がすでに国体をひっくり返してる。しかしどれも明確に同じであるのは、反欧米の姿勢じゃないですかね。過去の大きなムーブメントはどれも反欧米の姿勢であって、それが過去の3つの大ムーブメントのどれにおいても起こっていることから、ベイズの定理によって反欧米姿勢があるために大きなムーブメントが起こったのだとする仮説の事後確率が高いのだと思えますね。問題点:観察したイベントが3つしかねぇ。超事前分布を置こう。めんどくさいからやんない。
他に日露戦争後の三国干渉への強い反発・日比谷焼き討ちだとか、湾岸戦争・イラク戦争時のアメポチ批判とかは、強いか弱いかにかかわらずやはり反欧米的姿勢に見える。太平洋戦争の本とかよむと、国際連盟脱退して帰国した時、松岡洋右は非常な非難を覚悟したのに、大歓迎されて却ってとまどったとかいうのがあったが、それもこれかもだ。太平洋戦争時には他に、満州事変から日中戦争の時には日本国民はあきらかに戸惑っていたが、太平洋戦争開戦時にはだれもが意気揚々として喜んだというのも読んだ。
さて、まともな議論のような皮を被った確証バイアスだらけのようにも思われる話はここまでで終わり。みんな批判的思考を持ちましょう。
あとは完全に個人の感想。
逆に親欧米にはどういうのがあるかっていうと、
ってとこでしょうか。
さて単純にどう思うかって話なのだ。
私がどう思ったかは、もうわかっていただけたと思うけど、日本国民を感情的に動かしてムーブメントを作りやすいのは反欧米的姿勢だけど、日本国を繁栄させてるのは常にアングロサクソンにくっついてる時じゃないのってことです。明治維新なんて説明するまでもなく、ムーブメント自体は尊皇攘夷運動だったはずが、最終的に親欧米政権つくって西郷さんと大久保死んじゃったみたいな話なわけで。
さてこういう話をするとき、明治維新のときから続く歴史の長いレッテル貼りがあって、それは今で言う「アメポチ」ってやつだ。言ってみれば、アメポチ初号機は井伊直弼であったともいえよう。戦時中には、鬼畜米英とか言ってる人を非難するような人は「非国民」とか言われていた。もちろん逆方面に対してはチョンとかなんとか言ってたわけで、究極的には自分最高って思ってるだけだろうけど。
で、アメポチ。アメポチ悪いの?ってこと。ていうか犬バカにしてね?まあそれはいい。
「情けない」とか帝国軍人みたいなこという人もあろう。でもさ。国家がアメポチであってそれが情けないなら、個人でアメリカいって勝負すればいいだけじゃないか。本当にアメポチにならなくて済むような有能な人は、当然アメリカで全くやっていけるし、あの国は人種や国籍にかかわらず、能力だけで天下を取れる、そういう国だ。ヨーロッパ人だってそうしてるよ。われわれ極東の日本人が「あれはアメリカ人」と思ってる人たちの中の相当数に、元ヨーロッパ人が相当隠れてる。ドイツ・オーストリア系とか特にね。敗戦国ですし。日本もだよ。
それだけの能力がない人は?そうやって能力もないのにこの冷酷な世界の中で平和を望む・・・そんならアメポチになれってことなわけ。自分一人で世界の中でアメポチにならずに立ち回れる能力がないくせに、日本国家に守られてアメポチではない立場になりたい、でも日本国家は嫌いだ、とかそんな都合の良い話はあるめえよ。
この世の中はローマ帝国と漢王朝の時代からまったく変わっていないと僕は思う。コーカソイドと東アジアに2つの帝国が出現するところまで変わらない(たぶん、20世紀のある一時期には日本がそれになりうる可能性を考えられていたかもしれないが、今は誰もそう思ってないっちゃ、ライジングサン)。
「戦争法案反対」論者の中には一定数、「すぐに中国が世界最強になるから敵にするのはまずい」と思ってる人がいるかもしれない。こういう人とは酒は飲める。まあわたしはそんなの数十年先以降なんじゃねーのって思うけど(だって科学力が違うからね〜)。
ヤ「面白そうじゃねーか、虐殺の文法とやらを俺にも掛けてみろよ」「はい、掛けます」10;…ぎゃわー10;10;「だいたい、あいつら文法以前に言葉も通じないし、言語もない、原生生物みたいな脳してるんじゃよ」— kash06(ジュスト) (@kash06) 2015, 8月 17
記号的な差別はしないけど、話してわかる人とわかんない人の区別はするよ?話してもわかんない人に説明するのは誠意ではなく、不毛なだけだから。— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2015, 8月 20
最初はある思想から発言していても、敵対する論者の中で極論を言う人間を見つけては嘲笑するという楽しさにどんどんのめり込んでいくと、だんだん思想関係なく、この嘲笑行為が楽しくなってしまうという— 加野瀬未友 (@kanose) 2015, 8月 20
昔はてなダイアリーで、時事ニュースやネットで話題になった事件について、ずっと言及している人がいたんだけど、っていうとそういう人は別にいっぱいいそうだが、当人の生活や趣味の話はほぼなく、とにかくダイアリーでニュースなどをずっと批判しているだけだったのが印象的だったのだ。もぐもぐさんが言うような「ずっと怒っている人」である。毎日、自分が怒りたくなるようなニュースを探しているみたいだけど、疲れないのだろうか…?と疑問に思っていたのだが、ある時疲れたのか、プライベートモードになった。と思ったら、その後、はてなハイクで似たようなことをやっていた。調べたら、東日本大震災のあと、しばらく続けていたが、震災から半年ぐらいでやめていた。Twitterも併行してやっていたが、そちらもやめたらしい。現在はそういうネット活動に飽きたのか、それともTwitterなどサービスを変えて同じようなことをやっているか…。それはわからない。浅羽通明氏が、湾岸戦争の時の新聞投稿欄を元に「新聞投書に見る『発言したい欲望』という記事を書いているのだが、昔ならこういう人は新聞投書をしたのかも知れない。ブログという没のない新聞投書欄を得て、「ずっと怒っている人」は可視化される。
虐殺の文法とは
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150803/k10010176121000.html
これは非常に興味深い。
特にこの部分
『「アメリカが原爆を投下したことについて現在、どう考えていますか」と聞いたところ、
「今でも許せない」と答えた人は、広島で43%、長崎で46%、全国で49%でした。
一方、「やむを得なかった」と答えた人は、広島で44%、長崎で41%、全国で40%で、
広島では、ごく僅かですが、数字の上では「やむを得なかった」と答えた人が、「許せない」と答えた人を上回りました。』
小学生まで広島にいて、中学生から関西の進学校に通った個人的な経験から思うことを書いてみる。
(僕の小学校だけではなく広島がそんな感じだった、のを前提とする。経験からおそらく正しい)
まず、中学生の時に驚いたのは、同級生が原爆が落ちた日を知らなかったことだ。
もちろん全く知らないわけじゃなかったが、知ってる人でも、笑いながらあれ広島9日だったっけ?
というようなレベルだった。
広島の公立の小学校では、ほとんど全員知っていたし、知らなかったとしてもそれが何か恥ずかしいことである、という雰囲気があった。
それが、知的レベルが相当高いはずの進学校でこんな感じなのか、というのは、良い悪いではなく、単純に驚いた。
広島で原爆が落ちた日、というのを他のことで例えるなら、たとえば、阪神大震災が起こった日、東日本大震災が起こった日。
それが近いと思う。その地方にいた人はおそらく起こった時間まで覚えているだろう。
それと同じ。広島では小学生でも、原爆が落ちた時間まで覚えている。
広島では小学生はどんな感じだったかといえば、ことあるごとに原爆の話を聞くし、戦争についての話も聞くことが多い。
それは、反戦教育、という言い方になるのかもしれないが、小学生からしたら客観視はできないし当たり前のことのようにその中で育った。
中でも、僕の小学校では、僕が3年生の時から「平和集会」というイベントが1年に1回開催された。
それまでは学年ごちゃ混ぜの運動会みたいなものが開催されていたのだが。
平和集会というのは、各クラスで、平和に関するプレゼンをしあうものだ。歌や劇や朗読や方法は自由。
その結果、僕はどうなったか。
ほんとうにうんざりした。
それは小学校6年生の作文に書いてあったのをこの前見つけた。(写真で出しても良いぐらいだ)
何年も続けてやってたら、同じ話ばかりだしプレゼン作るのもうんざりする。
おそらくこれは僕だけではなかったと思う。
一つの例として、小学校6年生の時に、湾岸戦争が始まったのだが、その時クラスの男子何人かは「やったー」と叫んでいた。
僕は叫ばなかった。そして、女子はもちろんたしなめたが。
それは単純に幼さとも言えるが、その背景に平和教育への反発があった気がしてならない。
やりすぎは良くないのではないか、と思っていた。
原爆に関しても、そんな感じだった。
原爆原爆うるさいよ、と。そんなに言ったって、落とされる方にも問題はあっただろ、と。
そんな気持ちになっていた。
で、このアンケートの結果。
もしかしたら、そういうことなんじゃないか、という気がしてしまうのだ。
原爆落とされた日はもちろんおぼえているけど、だからって今でも許せないとは言い切れない。そんな空気を感じてしまう。
一応、これでは終わらない。終われない(笑)
中学生ぐらいまでは、そんな風に、今言われているのとは違う意味での「自虐史観」のようなものを持っていた。
僕が大学に入った頃、98年ぐらいから右傾化ブームが訪れる。きっかけはおそらく小林よしのりの「戦争論」だろう。
僕もなんとなく読んだし、そんな雰囲気が自分にも周りにもあった気がする。京都大学でも。
そうすると、だんだん核武装論みたいなことをいう人も出てきて、口に出してもおかしくない雰囲気が出来てきた。
それはおそらく今にまで続いているだろう。
たとえば、石原慎太郎なんかが言ったりする。
ところがだ。
核武装については完全に反対だ。
よく言われるのは、持っても誰も使えないんだから大丈夫、国際的な地位を高めるためだけだ、という理屈。
でもそれは明らかにおかしい。本当に使えないなら初めから核の脅威などない。本当に使えないなら持つ意味もない。
で、持ったとして、もしも打たれたら打ち返すのか。ちょっと待ってくれ、と思う。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑の碑文がある。
時に右寄りの人から、これは我々は被害者であり自虐史観だ、という意見を聞くことがある。
それは違うと思う。
原爆というのは、誰がやったとか、誰が被害者だとか、そういうレベルの話ではないのだ。もう絶対的な破滅的な悲劇なのであって、その点において人類全員の罪なのだ。
そういう発想なのだと思う。って今調べたら、広島市のホームページにもそう書いてあった。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1137568968454/index.html
ということは、だ。これは、仮にもう一度原爆を落とされたとしても、自分たちが打ち返す、なんてことはありえない、という意味であるはずだ。
誰が落とすとかではなく、もう一度原爆が落ちる、ということ自体を否定する、そういう気持ちを表しているはずだ。
なんなら、どこかの国がどうしてもどこかに落とすというのなら、それならもう一度ここに落としてくれ、と。そんな気持ちにすらなる。
もう一度、原爆が落とされるような世界なら、もうここにはいたくない。そんな気持ちにもなる。
で、ここが重要なところ。
僕がこんなことを思えるのは、おそらく、本当にうんざりするほど、勢い余って落とされても仕方なかったんじゃないか、と思ってしまうほどに、
原爆について、その悲惨、ありえなさ、どうしようもなさ、を叩き込まれたからではなかろうか。
体験こそもちろんしてはいないが、理屈ではなく、肌感覚としてそれを学んだからではなかろうか、と。
そんな気がするのである。
実は僕は自衛隊を持つことには一概に反対はしない。だが、核武装は絶対反対だ。
これを説明するには、たぶん刷り込まれた肌感覚としか言いようがない気がする。
ということで、この理論を裏付けるための一つの予言をしてみよう。
おそらくかなりの数、下回ると思う。
ナザルアハリ大使は「イランは有数の原油輸出国。(核開発疑惑を巡る)制裁で輸出額が半減し、これから輸出を増やそうとしているのに、なぜ海峡を封鎖する必要があるのか」と強調。
駐日イラン大使:ホルムズ機雷敷設例示に「全く根拠ない」 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/select/news/20150724k0000m030046000c.html
見解の内容は、これまでの政府の説明を繰り返したものにすぎません。いろいろ書いていますが、憲法解釈変更の根拠として挙げているのは、結局のところ、安全保障環境の根本的な変容という抽象的な言葉だけであります。午前中からの議論でも、変化の中身についていろいろと議論がありましたが、具体的な説明はありませんでした。
そこで、政府が集団的自衛権行使の具体的な事例として挙げている、ホルムズ海峡における機雷掃海の問題で聞きます。
まず、この議論自体は今に始まったものではありません。イラン革命以降、イラン政府がホルムズ海峡の封鎖に言及したことは数え切れないほどあります。しかし、実際に封鎖したことはありません。イラン自身の石油輸出に致命的な打撃を与え、みずからの首を絞めることになるからです。
中谷大臣に伺いますが、ホルムズ海峡の問題をめぐって具体的にどのような変化があったんですか。
○中谷国務大臣 一九七〇年代の半ばに日量約五百万バレル弱あった原油の輸入量は、オイルショックを契機とした石油代替政策また省エネルギー政策の推進によりまして、一九八〇年代の半ばには日量約三百二十万バレルまで減少しました。その後、一九八〇年代後半には原油価格の下落に伴って原油輸入量は増加に転じましたが、一九九〇年代の半ば以降は石油の代替エネルギーの利用進展などによりまして減少基調で推移いたしました。
二〇一〇年代には日量約三百六十万バレルとなっておりまして、石油需要は近年減少傾向にありますが、今後もその傾向は続くと考えておりますが、非常に我が国にとりましては中東に対する原油の依存度は高いままで来ているということでございます。
○赤嶺委員 いや、私が聞いたのは原油の話じゃなくて、ホルムズ海峡をめぐって、イランは機雷の封鎖ということは今まで何度も言ってきたけれどもそれを実行に移さなかった、なぜならイランにとっても自分の首を絞めることになるからだと。安全保障の環境の変化と言うのなら、何があったのか、どんな安全保障上の環境の根本的な変容があの海峡であったのかということを聞いているんです。
○中谷国務大臣 現在も、中東情勢というのは混沌といたしている現実がございます。
冷戦のときは、アメリカとソ連という超大国の力のバランスによって、いろいろな地域紛争、宗教紛争、民族紛争、こういうことは如実に出なかったわけでありますが、冷戦が崩壊した途端に湾岸危機が発生をいたしました。また、グローバルなパワーバランスも変化してきておりますし、弾道ミサイルの配備、中国の台頭、そしてアルジェリア、シリア、チュニジアにおきまして邦人が犠牲となった国際テロの脅威などが挙げられるし、海洋、宇宙、サイバー空間に対する自由なアクセスなどいろいろなリスクというものが深刻化しているということで、こういった国際情勢が変化をしてきているということでございます。
現に湾岸戦争が発生したときは、イランはクウェート、イラクに対して機雷をまいたという事実もございます。
○赤嶺委員 私がホルムズ海峡の安全保障環境をめぐる根本的な変容は何かと聞いたら、宇宙、サイバーの話まで飛び出してくるものですから。私が聞いているのは、ホルムズ海峡に機雷が設置されて、日本が集団的自衛権を行使して機雷の掃海に至るような根本的な変容。まさにあの海峡にとって。中東の話でもないんです。やはりイランをめぐる国際社会の話だと思うんですよね。
衆議院会議録情報 第189回国会 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第10号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/189/0298/18906150298010c.html