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2022-07-20

我々はなぜ統一教会が嫌いなのか

近代合理主義者と化した保守

安倍晋三暗殺事件きっかけに統一教会世界平和統一家庭連合)に注目が集まっているが、保守系(反リベラル、反ポリコレ反中韓)に分類できる文化人のなかで、はっきりと統一教会批判を行なっているのが旧2ちゃんねる(5ちゃんねる)関係者ひろゆき山本一郎なのは興味深い

一説によれば、旧2ちゃんねるは一時期、統一教会に乗っ取られかけたという噂がある。この点を抜きにしても、基本的1970年代まれ以下の世代は、保守愛国を唱えていても頭の中は近代合理主義者で、土着的・伝統的な家族観とか道徳観はちっとも好きではないのだ。

無論、1970年代まれ以下の世代でも立場はさまざまだ。

東浩紀1971年生)は統一教会を「カルトかどうか判断できないだけ」と述べてひんしゅくを買った。ただ、これは統一教会擁護というより、スターリニズム連合赤軍のような原理主義的なドグマに陥ることを恐れるあまり、「二項対立に囚われないように判断保留する」というポストモダン思考原理主義的なドグマにしてしまった模様。

一方、三浦璃麗(1980年生)は、何やら統一教会利害関係があるらしい。

https://twitter.com/333_hill/status/1300961546693083137?s=12

http://japanhascomet.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-e4d640.html

東や三浦はさておいても、高度経済成長期以降に育ち、冷戦体制崩壊後に成人した団塊ジュニア以降の世代は、基本的統一教会的なものが嫌いだろう。俺もな。

今では忘れ去られているが、2000~2006年ごろの2ちゃんねるでは、韓国中国民主党だけでなく、森喜朗代表される体育会系マッチョ価値観自民党重鎮も不人気で、平然と皇室コケにする書き込みだって多数あった。非合理的宗教団体は嫌われ、前近代的な家制度の束縛とかブラック企業的な上下関係肯定する主張は評判が悪かった。

かつて2ちゃんねるに大量にいたネトウヨことネット右翼は、なぜ韓国人や中国人を嫌悪したのか? 戦前戦中の日本に対する非難自分個人への非難のように思えた点に加えて、韓国人や中国人の振る舞い(声が大きい、言動が粗暴、上下関係がきびしい等)に「前近代」の臭いを感じ取っていたからではないか

ネットでは保守愛国を主張して戦前日本を賛美ながら、平然と「中国韓国儒教国家からダメだ」と言う人間が少なくない。お笑いである戦前までの日本だって支配階級の基本思想儒教だった。幕末尊王攘夷運動が起きたのは江戸時代朱子学が普及して、「幕府天皇から権力を奪っているのは忠義に反する」という考え方が広まった結果だ。明治維新後も、明治天皇教育係の元田永孚西洋嫌いの儒学者で、名君の教科書として唐代の『貞観政要』を読ませたし、教育勅語は儒教価値観産物だ。

だが、どうやら団塊ジュニア世代以下のネトウヨの頭の中にある理想日本は、最初から西洋価値観近代国家だったらしい。彼らには古代中世日本伝統価値観を本気で学ぶ気などなく、和歌能楽歌舞伎浄瑠璃より、漫画アニメゲームが好きなのが本音だろう。そういえば橋下徹も、平然と文楽予算を削減しようとしてたな。

保守愛国を唱えながら近代合理主義何が悪いの?」と言う人もいるだろう。世の中には、何も悪いことをしてない人間にも病や死や不幸が降りかかったり、不合理がいくらでもある。何でも理性で解決できると思い、現代から見れば非合理な考え方に従っていた古代中世人間を愚かとしか見なさないのは、思い上がりだ。そうして過去時代の人々という他者への想像力を持とうとせず、過去世代が積み重ねてきた道徳観への敬意がなくなると、経済的な損得ばかりが最優先の価値観になる。「皇室の維持は国費の無駄から天皇制反対」と言い出す者も出てくるかもしれない。

そうなれば、単に力(財力、権力情報発信力)がある奴が勝ちだ。日本でもドナルド・トランプのような男が国家元首になるかもしれない、トランプならまだ人物的に面白味があるが、竹中平蔵ワタミ大統領になったら本当にイヤだぞ。

共産主義統一教会環境産物

統一教会2015年世界平和統一家庭連合改名した。団体名に「家庭」とつくのがポイントだ。自民党による憲法改正案で、第24条に加筆された「家族は、互いに助け合わなければならない」という一文は、統一教会の主張と同じだといわれる。また、「こども庁」の名称が「こども家庭庁」となったのは統一教会の影響という説もある。

https://twitter.com/izumi_akashi/status/1548537253018103808

まり統一教会はとにかく家族の重視を唱える。彼らの教義は、俗流キリスト教と、家父長の権威先祖供養を重んじる東アジア的な儒教道徳の混合物で、教祖の故・文鮮明をお父様、その妻の韓鶴子をお母様と呼ぶ。このような教団組織という大きな家族への絶対服従を唱える思想が、皮肉にも結果的山上徹也個人の家庭を破壊した。

週刊文春7月21日号では、橘玲が「リベラル化した社会に敗れた男の”絶望”が暴発した」と題して、安倍晋三暗殺した山上徹也のことを論じている。現代は家制度の束縛などが機能しなくなった「自由」な社会だが、それゆえに自力自己実現できなかった孤立した人間が増えているといった内容で、その極端な暴発例に2008年秋葉原通り魔事件や、2019年京アニ放火事件を挙げている。指摘自体はおおむね間違ってないだろうが、なぜそのような世の中になったか説明が抜けている。

リベラル思想以前に、社会構造の変化がある。そもそも伝統的な家族観、家父長の権威とか、早く結婚して何人も子供を産むのが良いことだという考え方は、近代以前の農村社会が前提だ。農家個人経営で、家父長のもとで妻子が一緒に農作業し、働き手として子供の数は多い方が都合よいから多産が奨励された。そして、農地という生産手段継承するために血統の存続が重視され、先祖から連続性が意識されていた。漁村商家も同様に家族経営が基本で、船や商材を継承するため家制度が重視された。

ところが、産業革命期以降になると、農村の余剰人口都市に流れて工場労働者となり、先祖代々の土地と家から離れて生きるようになる。労働者はみんな家庭外で雇用され、子供家族から切り離され、父親母親子供も(昔は各国で児童労働が横行していた)ばらばらに働くようになり、自宅の窯でパンを焼いたり時間をかけて食事することもできなくなった(『世界歴史 第25巻』(中央公論社)270p)

統一教会のような反共主義者は、「左翼リベラル思想伝統的な家族観破壊した」と主張するが、この解釈因果関係が逆転している。共産主義は、工業が発達して伝統的な家庭を成立させる農村社会から切り離された都市労働者が世にあふれた結果からまれ思想だ。マルクスより先に、経済的利益のために伝統共同体解体して蒸気機関工場労働者を世に広めた資本家がいたのである

逆に、農村社会に戻れば前近代的な家父長制は復活するだろう。だったら、商工業全否定して国民農村強制移住させたポル・ポトカンボジアこそが理想かよ?

先進国では工業社会さらに進むと、世の中は第三次産業中心になり、庶民はみんな勤め人の都市生活者となっていった。これは産業社会要請によるものだ。以前も書いたが、(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20170522/p1高度経済成長期に中卒や高卒都市工場商店就職していった女性は、左翼リベラル思想に影響されて社会進出し勤め人は世襲家業ではないから、妻子が家に従属する必要はない。リベラル思想関係なく、前近代的な家制度の束縛が弱くなるのも当然だ。生まれた時からこういう環境に慣れきって育った世代が、家父長の強い権威やきびしい上下関係を嫌うのは必然だろう。

こう書いている自分も、会社員の家の次男坊で、実家従属する義理はないか上京以来ろくに親元に帰らない。長男長男だった兄まで、ついに生活のためやむなく父の墓がある土地を離れてしまった。先祖代々の土地家業を持ってるのではないのだから仕方ない。

統一教会のような保守派は、家族大事だと主張するけれど、口先の精神論ばかりで上記のような社会構造問題にまったく踏み込めていない。

信者にとってのカルト宗教の魅力とは何か?

困ったことに、農村社会や家制度のような伝統的な中間共同体が力を失うと、その代替物として、一足飛びなナショナリズムカルト団体帰属意識を求める者が増える。

エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書)で、宗教伝統が衰退すると代わりに排外的ナショナリズムが台頭すると述べていた。何でも、ドイツでは19世紀から1930年代昔ながらの教会を中心とした農村共同体が弱体化した代わりに反ユダヤ主義が台頭し、ナチス支持につながったという。

統一教会をめぐる報道で、山上徹也の母のように財産すべて差し出す信者気持ち理解できないという人は多い。しかしながら、外部から見ればいか狂信的な団体でも、内部の信者には何らかの「魅力」がある。

先に述べたように、世の中にはいくらでも非合理的なことがある。それまで合理主義者だった人間が、病や死のような自分の力に直面していきなりオカルト宗教に走った例は少なくない。帝国海軍の名参謀だった秋山真之や、アップルスティーブ・ジョブスのような英才も、最期近代医学に頼らず怪しげな方法に頼って病を治そうとして、かえって早死にした。こういう極端な思考に走らないためにも、世の中は理性で解決できないこともあると頭の片隅に置いて、合理的ものへの免疫をつけておくこと必要だ。

そこまで追い詰められなくても、「大きなものにつながりたい願望」を抱く人間は多い。人には何かに帰属することによって得られる充実感というものがある。これは左派陣営団体も同じだ。

こう書けば左翼リベラル派は激怒するだろうが、世の中には男尊女卑や家父長制に身をゆだねることに安心感を抱く者もいる(俺自身は嫌いだが)。いか社会制度近代化しても、誰もが自立した個人になれるわけではないのだ。

あの気持ち悪い集団結婚式にしても、なまじ自由恋愛の時代になると結局誰も選べずに結婚相手が決まらず、いっそ超越的な立場第三者一方的に決めてもらう方が安心、という人間も世の中には一定数いるのかもしれない。

これも以前に述べたが、カルト宗教などが行う洗脳とは、命令に従わせることではなく、被洗脳者が自発的洗脳する側に忖度するように”誘導”することであるhttps://gaikichi.hatenablog.com/entry/20121101/p1)。

その手段として「場の空気」の力がものを言う。場の空気を使った洗脳はじつに簡単だ。こんな話がある、皆さんはカップ入りアイスクリームを食べるとき、どこから食べるだろうか? たいてい最初カップの縁にスプーンを入れるだろう。あるとき数人の集団で、1人を除いた全員があらかじめ示し合わせて、みんなカップの真ん中にスプーンを入れて食べ、残った一人を「端っこから食べるなんてセコいなあ」と言ってからかった。仲間外れにされた1人は本気で、自分の方が異常で、アイスクリームは真ん中から食べるのが世間常識だと錯覚したという。

これと同じように、閉鎖的な教団内では容易に「みんな多額の献金をしてるんだから、そうしない自分の方がおかしい」と思い込むように仕向けられる。宗教団体も、ネットワークビジネスも、会員制オンラインサロン商法も同じだ。

信者教祖や教団幹部個人命令に従っているというより、信者集団の「場の空気」によって献金しなければならない気になっている。周囲にいる人間が競い合って同じことをしているのに、自分だけそれをやらないと自分の方が変だと思い込んでしまうのだ。そりゃ「空気を読む」ことが至上の美徳という価値観で育った日本人なら従ってしまうだろう。

思想だけで世の中は動かない

2022年現在の状況では、まだまだ自民党に対する統一教会の影響力は強そうだ。しかし、このまま上記に述べたような近代社会構造が続くのであれば、20~50年ぐらいの長期スパンで見た場合統一教会的なるもの――家父長制バンザイカルト宗教は徐々に人気を失っていくだろうと考えられる。

実際、100~200年ぐらいの視野で見れば、左翼リベラル陣営はずっと勝利し続けている。世の中は、近代的な商工業が発達すればするほど、上下関係は緩くなり、男女は平等に近づき、セクハラパワハラは嫌われ、体罰理不尽校則廃止される方向に進んできた。

ただし、それは必ずしも自由平等人権といったリベラルイデオロギーの魅力による勝利ではない。単に文明の発展によって、人間が図々しくなっただけだ。

近代以前はあらゆる労働が筋力中心だったから、無条件に成人男性が一番偉くて、女子供は成人男性に従うものだった。しかし、そのような価値観は、スマホコンビニAIドローンの普及と引き換えに後退しつつある。あるいは、汗臭い筋肉労働人件費の安い海外アウトソーシングしたり国内視野から消し去っただけだ。外国人技能実習生世界では、依然として日本相手なら許されないパワハラが横行している。

いか自由平等人権といったリベラルイデオロギー字面が美しくても、思想だけで世の中は動かない。民主主義古代ギリシャにもあったが、あらゆる労働が人力の時代だったから、ついぞ奴隷制廃止されなかった。19世紀に入るとイギリスアメリカ奴隷制廃止したが、それはリベラル人道主義者の主張より、奴隷を使うプランテーション農場比較して工場経営のほうが儲かると判断されるようになった影響が大きい。

統一教会による霊感商法、巨額の献金要求は許しがたい犯罪行為で、自分もこういうカルト宗教は大嫌いだ。ただ、統一教会的なもの嫌悪する自分たちは、たまたま土着的な農村社会崩壊して家制度の束縛が機能しなくなった時代に生まれ育ったから、統一教会的な家父長制価値観へのPermalink | 記事への反応(1) | 23:06

2022-07-18

anond:20220718105702

おそらく財産があり狙われる家系がある

議員候補になる可能性が高いからね

日本2世議員らは、ライバル氏族を潰したい

戊辰戦争後に、革命政府幕府側の上官を何十名も死刑にし、少なくとも家を没収した例もある(子も殺したかもしれない)

裁判による合法的暗殺があったことは教科書に載らない

2022-07-09

明治新政府は、幕府大和国奈良)に大本営大和鎮台を設置した(西暦1868年2月明治元年旧暦1月)。のちには「大和鎮撫総督府」(やまとちんぶそうとくふ)と改称し、有栖川の東征軍で東北北海道に侵攻(西暦旧暦2月)。そして中国四国九州方面には「裁判所総督」兼「鎮台総督」(各軍司令官)を送って日田一揆などを潰し、裁判所技能地元の実力者やカトリック信者死刑にしていった

最高裁判事全15人を勝手に任命して退任した安倍晋三が、銃撃されて人工呼吸も受けずに死んだ場所は、そういうことで、死刑執行軍の発祥地でもある奈良だったとか

裁判所軍の工作員もいたんじゃないか

2022-07-02

anond:20220702094553

幕府最後つぶれたのも「しぐさ」のしがらみで

黒船来襲に対応できなかったのが原因だったしな

2022-06-28

政府節電呼びかけに反対してる人が多いが

個人的は悪くないとおもってる

なぜかとゆうと日本の歴史上、節電節約倹約が言われない時期はなかったかである

江戸時代以前は幕府守護地頭から

明治以降政府皇室から倹約がもとめられたのである

たとえば味噌汁は1日1杯まで、薪は1日何キロまでといった具合である

ことさら今の時代に呼びかけをされて奇異な行為ではない

しろ日本人伝統尊重した行動だといえるだろう

https://ceron.jp/url/www.sankei.com/article/20220628-LUHG7WMTLVNJ7DSI7PZSDZPRCA/

2022-06-27

anond:20220627233653

日本民衆が求めて民主主義になったわけじゃなくて押し付けられた民主主義から

民衆は今でも幕府朝廷を待っている

2022-06-24

犯罪者物語にする意味わからん

平井権八

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E6%A8%A9%E5%85%AB

1655年

死没 延宝7年11月3日

1679年12月5日(満23-24歳没)

別名 白井 権八 (しらい ごんぱち)

墓所 瀧泉寺 (比翼塚)

幕府 江戸幕府

主君 池田光仲

鳥取藩

小紫

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平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本武士である[1][2][3][4][5][6]。講談浄瑠璃歌舞伎映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる[1][2][3][4][5][6]。

明暦元年(グレゴリオ暦1655年)に生まれた、とされる[1]。「享年25」からの推測である[1]。父は平井正右衛門。

因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄太夫須藤太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した[1][2][3][4][5][6][7]。新吉原三浦屋の遊女小紫と昵懇となる[1][4][5][6]。やがて困窮し、辻斬り強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる[1][2][3][4][5][6]。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたこから自首したとされる[7]。

1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した[1]。享年25(満23-24歳没)[1]。小紫刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる[7]。

これおかしいだろ。130人の未来を奪っておいて英雄気取りか。

2022-06-22

anond:20220622145532

出生

天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安祖父春日大社奉仕する猿楽(現能)金春流猿楽師で、父の信安の時代大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。

武田家臣時代

父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。

ただし一説では、武田勝頼からまれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

徳川家時代

遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行連署傳馬掟書』慶長6年1月個人蔵)[2]。伊奈忠次彦坂元正連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている

甲斐武田家が滅んだ後、長安徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。

長安大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正106月本能寺の変信長が死去して甲斐家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康本多正信伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安釜無川笛吹川堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康関東に移ることになる。この時、長安青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正らと共に奉行代官頭)に任じられ、家康関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。

また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安長谷川長綱彦坂元正伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。

天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。

長安はまた、家康に対して武蔵治安維持国境警備重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後豊臣氏支配下にあった佐渡金山生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月大和代官10月に石見銀山検分役、11月佐渡金山接収役となる。

慶長6年(1601年)春に徳川奉行補佐にて甲斐奉行8月石見奉行9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康長安経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである

慶長8年(1603年)2月12日家康将軍に任命されると、長安特別従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。

慶長10年(1605年)、大久保長安普請奉行として武蔵御嶽神社の本社普請

慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安家康から全国の金銀山統轄や、関東における交通網の整備、一里塚建設などの一切を任されていたのである現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である

これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったこから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的支配を任されていたと言われている。

慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。

しか晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さら正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日中風のために死去した[5]。享年69。

長安の死後に生前不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安嫡男藤十郎(37歳)、次男外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。

人物逸話

ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクション対象となっている。

無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。

金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分遺体黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。

一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗幕府転覆計画賛同していたと言われている。

2022-06-20

黒田騒動は、江戸時代前期に福岡藩で発生したお家騒動

黒田長政は世継ぎ継承にあたり長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西商人になるか、千石知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じて豪華な大船鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽新規に雇い入れるなど、軍縮時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。

ほんとお家騒動の模範みたいな筋書きだな・・・

これを幕府がとりなすシステムを構築したのはさすが家康しか言えない。

まさに久能山東照宮から日本中を今も監視している存在である

2022-06-19

anond:20220616162806

「時は幕末。京の都では、新選組活躍によって幕府権威が揺るがされつつあった頃である

その年、一人の女が京の街に舞い降りた。名は、真野亜希子。後に『黒魔女』と呼ばれ恐れられることになる人物である彼女はある日、京都所司代に仕える父に連れられて、江戸へ向った。目的は一つ。幕府の中枢にいる松平慶永に、ある提案をするためである。その内容は、将軍徳川家茂天皇家養子にし、『徳川将軍継嗣法』を作るというものだった。真野亜希子はこの難題に対して果敢に立ち向かい、見事その役目を果たした。しか彼女の行動には大きな謎があった。実はこの案は、彼女自身アイディアではなく――」

美和子はそこまで読んで画面をスクロールさせた。すると本文が表示された。

真野亜希子は、当時会津藩藩邸に住んでいた斎藤弥九郎から聞かされた話を参考にしたと言われている。そしてその話は、彼女父親会津藩士であったという事実示唆している。果たして本当に真野亜希子はただの民間人だったのだろうか。あるいは、彼女が密かにバテレン降魔術』を学び、それによって得た力で徳川政権転覆を企てたというのは考えすぎなのだろうか。

いずれにせよ、彼女会津戦争の後、姿を消し、二度と姿を現すことはなかった。しか真野家の家族構成現在不明のままであり、彼女が残した日記などの遺品も発見されていない。また、彼女に関して、いくつかの伝説が残っているが、それらの全てが真実かどうかは、今のところ証明されていない。だが、仮に全て事実だとしたら……

そしてもしも、彼女が再び現代に現れたとしたら……

魔女は今もなお、この国のどこかで息を潜めているかもしれない……」

…なかなかの力作じゃない。さすがは元文学少女ね。

美和子はそう感心しながらその原稿を読み終えた。そして次に添付されていた画像ファイルを開いた。

2022-06-11

anond:20220611115823

明治元年1868年)、政府はかつての幕府の直轄地であった地域のうち、重要地域を「府」、それ以外を「県」と定めました。

これにより、箱館府東京府神奈川府越後府甲斐府京都府大阪府奈良府度会府長崎府が置かれました。

その翌年、東京府京都府大阪府以外は「県」に改められました。

2022-06-09

関ヶ原戦後京の守備を命じられた福島正則は所用で

同じく京の守備を命じられた浅野幸長に使番佐久間加右衛門を派遣した。

しかし、この時家康福島等豊臣家譜代の者を全面的には信用しておらず、

別に徳川譜代の臣伊奈昭綱を日ノ岡に急行させ、検問するようにも命じていた。

佐久間加右衛門はこの検問にて通行証を持たぬゆえ通過を認められなかった。

しかし主命を果たそうとする加右衛門は関所の者と口論になった。

「我が主は内府様に命じられての京の守護役であり、これから使いに参る浅野殿も京の守護である

その御用筋にて使いに参るゆえ通されよ。」と頼むが

関所門番は「相成らんと申せば相成らん」と申すばかりで聞き入れない。

加右衛門はさらに強く頼むがついには数人に囲まれ六尺棒で打ち据えられてしまう。

※この時はこれを堪え頭を下げ主命を果たす逸話と果たせず追い返される逸話があるようです。

その後佐久間加右衛門は主君正則に経緯を話し

「あの場で刀を抜いて闘っては相手は多勢であり、手籠めにあえばますます恥をさらしてしまうと思い

刀も抜けずにおりました。なにぶんにも男の面目は立ちませぬゆえ切腹いたします。

されば今生の残る思いに、殿にお願いがござります。事の次第を殿より伊奈昭綱殿にご通知くだされ、

佐久間加右衛門は臆病者にあらず、立派に腹を切って果てたと。」

正則は加右衛門の話を聞き、加右衛門の名誉のためには立派に腹を切らせてやらねばならぬと思い

切腹を許しこの家来の不幸に泣いた。

そして福島正則事情を書いた手紙を添え佐久間加右衛門の首を徳川家康に送り

代償として関所責任者伊奈昭綱の首を要求した。

家康は加右衛門を追い返した門番達を切腹させ首を送り届けたが

正則はあくま伊奈の首を要求し、正則との関係を悪くできない情勢だっただけに

家康は仕方なく伊奈昭綱を切腹させ、その首を届けることで解決をみたのだった。

この事件幕府は強く恨み後年の福島家改易の罪状の一つになったという。

2022-06-02

黒田騒動(くろだそうどう)は、江戸時代前期に福岡藩で発生したお家騒動栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。他の御家騒動では処分時に死者が出ているが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかった。

経緯

黒田長政は世継ぎ継承にあたり長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西商人になるか、千石知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じて豪華な大船鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽新規に雇い入れるなど、軍縮時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。

大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月将軍徳川家光が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫高野山追放された。なお、十太夫島原の乱黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なお、この時に盛岡藩へ預かりとなった栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用の兜も一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。

題材にした作品

江戸時代中期には江戸中村座などにて黒田騒動を題材にした歌舞伎が数多く上演された。最初瀬川如皐作、外題『御伽譚博多新織』。のちに河竹黙阿弥により狂言『黒白論織分博多』として加筆集約化された。また幕末には合巻としては最長編である『しらぬひ譚』も歌舞伎化され、こちらも大好評を博した。

また、この事件森鷗外小説栗山大膳』において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色して描いている。十太夫は、島原の乱一揆軍に加わり戦死したことになっている。滝口康彦小説『主家滅ぶべし』では、利章は真面目で実直なものの、その忠義独善的であるため主君家中からまれしまい、忠臣としての自身を保つために引き起こしものとして描かれている。

1956年には東映映画黒田騒動』が公開されている。監督内田吐夢、主演の栗山大膳役は片岡千恵蔵

1965年海音寺潮五郎が「列藩騒動録」新潮社上梓、のち講談社文庫化

2022-05-25

八墓村の話を思い出した

江戸時代幕府領・天領だった「西国筋郡」に、田野村庄屋というのがあった

明治維新のあと、庄屋の15の娘には、薩摩系の森藩だった村から若い村民が婿に来た

結婚の翌年、庄屋一家は、娘と婿を残してみな死亡

初代村民は、それで九重鉱山を購入し、約20年間経営し、それを船会社広海二三郎(損保ジャパン始祖)に売った

 

その娘には、また森藩だった村から婿が来た、2代目の村民発電所経営することにした

その発電所設立の翌年、初代は夫婦ともども相次いで死亡

2代目の村民1941年発電所九州水力電気九州電力の始祖)に売った

 

その娘には、また森藩だった村から婿が来た

3代目村民は、陸軍理系教授だったが、戦後、2代目が死亡したのち、2年後に死亡

その息子は1人生き残っていたが、女学校報国団のあった熊本県甲佐町からプロテスタントの町民が嫁に入った

  

まり薩長政権は、天領役人財産などを使って鉱業保険業や電力事業をしたか

天領役人の家はだいたいこうなってたんだろうか、ほとんど戦争だろう

司法モドキにとっては正義か?

2022-05-02

スラッシュキル 俺はサムライ腐敗した日本待ち受ける脚本

スラッシュキル 俺はサムライ刀が無かったらこの話はなしだ

スラッシュキル 俺はサムライ天下統一戦国から幕府を立てる

スラッシュキル 俺はサムライこの先行く手に待ち受けるものはなんだ


俺はサムライ この世にcry

空にサンライズ でもマジ暗い

発達する近代 衰える身体

なら俺がぶったぎろう この先を切り裂き

ネットコードレス 駄目なニート

増えるホームレス この未来(さき)はどこかへ

とめどない自殺者 誰もみないや

助けてやろうや それが武士の心だ

俺は勇敢だ 悪に立ち向かう

金と権力その他諸々

お前ら何してンだ それが実力か

上があんだろ さあ突撃

まずは一階 軽く蹴散らす

突破して最上階 殿様大丈夫かい

これで終わりかい


スラッシュキル 俺はサムライ腐敗した日本待ち受ける脚本

スラッシュキル 俺はサムライ刀が無かったらこの話はなしだ

スラッシュキル 俺はサムライ天下統一戦国から幕府を立てる

スラッシュキル 俺はサムライこの先行く手に待ち受けるものはなんだ


話を現代に戻す


差別はまだ消えぬ

障害者,民族,人種,宗教

レイシストマジ消えろ

国も国だ マジなんなんだ

下への格差は埋まってねえ 俺は助けてえ貧民を

恐怖を断ち切る 悪は全てKILL

今俺はここにいる それが全てを物語

さあこの曲もラストスパークスマッシュかけるぜ


ダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュ


スラッシュキル 俺はサムライ腐敗した日本待ち受ける脚本

スラッシュキル 俺はサムライ刀が無かったらこの話はなしだ

スラッシュキル 俺はサムライ天下統一戦国から幕府を立てる

スラッシュキル 俺はサムライこの先行く手に待ち受けるものはなんだ

スラッシュキル 俺はサムライ腐敗した日本待ち受ける脚本

スラッシュキル 俺はサムライ刀が無かったらこの話はなしだ

スラッシュキル 俺はサムライ天下統一戦国から幕府を立てる

スラッシュキル 俺はサムライこの先行く手に待ち受けるもの希望

2022-04-10

いい天気だし、今から鎌倉あたりまで出かけて幕府でも開くか。

室町でもいい。

2022-04-09

日本史知識中学まりなのでわからんこと

鎌倉殿みてて思ったんだけど、知識中学まり江戸時代以前さっぱりわからんわ。

戦国から幕末大河ドラマでだいたいわかる。

明治以降世界史との絡みでなんとなくわかる。

鎌倉幕府とか南北朝とか室町幕府とかよくわからん

恥ずかしながら、40歳にもなってるんだが、中学知識で止まってる。

幕府っていうから江戸幕府みたいなちゃんとした政治体なのかと思ってたら、鎌倉幕府ってのは武士組合みたいなもんな?

御恩と奉公っていうなんとも概念的な。

今改めて考えると恩賞という形で略奪した土地を公平分配する約束で成り立つ生活協同組合みたいなイメージを受ける。

室町幕府もっとよくわからん

初期は南北朝に挟まれたり、中期は鎌倉と京で対立してたり、後期は家系の中で対立してグダグダ。上がグダグダから下がしっかりしてるのかと思ったら、そうでもない。官僚制度も議会みたいなのもろくになく、やっぱり鎌倉と同じでただ利害関係で動いてるイメージ

とかなんとか描き散らかしといて、ホントに知らんでもいい時代な気もする。

他の国との絡みもないし。

政治的には色々あったけど国内グダグダで、特筆することもないけど、新しい発明文化的には後世の基礎になった時代、くらいの理解じゃダメ

2022-03-29

anond:20220329125642

農業やってるのが百姓って意味ならいるけど、農民としての百姓はいないな。大名幕府の直轄地に済む民衆が「町人」、代官派遣されてる土地に済む民衆が「農民」。町人でも農業する人はいるし、農民でも大商人がいる。

あと切り捨て御免はどんなに農民町人非礼があっても武士処罰は免れないぞ。切腹で済むか御家断絶か、処罰の程度に差は出るが。

2022-03-21

anond:20220321011149

さすが、キリスト教弾圧鎖国夜這いを断られたことで決めたオワコン倫理観支持者は違いますね〜

キリスト教幕府に実はなんの悪影響も及ぼさないことはわかってるけど、キリシタン女の子ちゃんとNOと言えるので夜這いを断っちゃう!こんなの許せない!

江戸から進歩してないんですね〜

2022-03-16

anond:20220316115719

幕府メンツを立てて奉行所経由でお手紙出して丁寧に交渉しようとすると砲撃する癖に、黒船砲撃すると急に歓迎ムードになる国

2022-03-06

妖怪?それとも宇宙人徳川家康が遭遇しかけた「肉人」の正体とは?

2020年4月27日 01:24

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妖怪?それとも宇宙人徳川家康が遭遇しかけた「肉人」の正体とは?

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徳川家康といえば健康オタクとしても知られていますいくらでも贅沢できる地位にいながら、基本は粗食を中心としていた家康生活。そんな家康不思議な生き物と遭遇しかけたのは、駿府城にいたときのこと。

家康が遭遇しかけた肉人は多力を得られる仙薬?

慶長14年、家康が在城していた駿府城内にて、不思議な生き物発見されました。その姿は子どもほどの大きさで、肉の塊というか肉人ともいえる生き物だったのです。

指のない手で空を指し続ける異様な姿を前にして、家来たちは混乱しました。どうすればいいのかわからず、結局 家康に指示を仰ぐと、「どこか遠くに追いやれ」との命令が。

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家来たちはその肉人を捕まえようとしますが、素早くて捕まえられません。そのため、追いやるようにして山へ追い込みます

後日、この話を聞いた知識人がいうには、「それは中国古書白沢図』に記載されている『封(ほう)』という仙薬だ」とのこと。かなり貴重であり、食せば多力になると語ります。知っている者がいれば家康公に差し上げられたのに、もったいないと口惜しがったそう。

妖怪?それとも宇宙人徳川家康が遭遇しかけた「肉人」の正体とは?

徳川家康像(wikipedia

ですが、家康からしたらいくら健康オタクでも、そんな薄気味の悪いものは欲しくなかったのではないでしょうか。このエピソードは、江戸時代随筆「一宵話」に記されています。実際に肉人がいたかどうかは定かではありませんが、なんらかの不可解な現象は起こったと考えられます。■肉人の正体は妖怪?それとも宇宙人

警備の厳しい駿府城に入り込み、家康の家来たちにも捕まえられなかった肉人。この不思議な生き物の正体は、妖怪「ぬっぺふほふ」といわれています江戸時代浮世絵師鳥山石燕が描いた「画図百鬼夜行」にも登場する妖怪です。

妖怪?それとも宇宙人徳川家康が遭遇しかけた「肉人」の正体とは?

鳥山石燕画図百鬼夜行』より(wikipedia

また、幕府公式記録である徳川実記」には、肉人と遭遇した日に雲が発光したと記されているそうです。肉人は空を指していたという一宵話のエピソードと、徳川実記に記された発光する雲をUFOだと考えると、もしかして肉人は宇宙人だったのかもというオカルトな展開も想像してしまます

ただし、浮浪者が紛れ込んだだけの可能性も考えられます。だとしても、警備が万全だった駿府城に入り込んで捕まえられなかったというも不思議な話ですね。

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