はてなキーワード: 講談とは
とうらぶとは刀剣乱舞の略であり、この度五周年を迎えて半年ほどたったソシャゲ系列ではそこそこ長生きしているジャンルである。
長生きできるソシャゲだ、さぞかしゲームも素晴らしいのだろう。といえば全然そんなことはない。クソゲーだ。クソゲー以外の何者でもない。
レア度があれどレベリングすれば低レベでも十分戦えるしまず戦うというかほぼ全てオートだ。画面ぽちぽちゲー。
イベントも五年前に実装されたイベントから増えたものはほぼない。強いて言うならノルマが上がった。くっっっっそだるいだけだ。特命調査という新イベもできたが賽子振って進んで敵を倒すだけで今までと大きく変わったことは一切ない。
では何故五年もサ終せずにあるのか?
刀剣という性質上、現存していれば刀を展示すればコラボを作れる。アニメは二作品、ミュージカルと舞台はそれぞれ大々的に行われている。映画化もされた。
紅白も厳島神社も日本博も東京ドームの大演練も全部てんごである。
私はてんごが苦手だ。
映画で初めててんごに触れ、ステに足を踏み入れた。
ステはどうにか見てたが今回のステは関東住みでもないので諦めたらなんだかどうでもよくなった。
ミュはミュージカルという音楽要素が苦手なので一挙配信で一通り見た以上には見ていない。内容もうろ覚えである。
けれど、本丸に帰れば私の推したちが本丸にいるし気にしていなかった。ステミュ両方とある本丸の話でうちの本丸は関係ない。
私の課金はてんごのコネを使うために行ったものじゃない。新ボイスやゲーム性向上、新規イラストなどそういうものに求めたのであって上層部おぢさんの自己満ユーミンのために課金したんじゃない。
こういうのに埋め込むと怒られそうなので問題あったら消すので叫んでほしいんだけど、私の思いはここにある(私のツイートではない)。
https://twitter.com/bunbun9922s/status/1293154129477435393?s=21
そしてそれについてた反論がコレだ。
https://twitter.com/abetachibana/status/1293181893265915907?s=21
まあこの人がいう内容は私には一切受け付けられないので考えるべきではないのかもしれないが、この方のリプを見ていくと
ノットフォーミーでも愚痴は友達にLINEして、運営ワッショイワッショイ神輿を担いどけば巡り巡って配当が返ってくるよお
今までもステが嫌、ミュは嫌い、地上波歌番組なんて恥ずかしい、何で歌舞伎?、講談て意味わかんね、沢山ネガティブは見てきたけど、結局客層の裾野や運営の人脈が広ければ広がる程、良いことに返ってくる。そのおかげが厳島や小田原城、JAPAN EXPOに紅白や日本博が叶い、最たる物が大演練だと思うよ。
という文言が出てくる。
違う、私が言いたいのはてんごじゃなくてゲームに還元してくれってことなんだ。
日本博なんてよく知らない人間からしたら伝統舞踊観るつもりで見たらなんか若い男の子がなんかしてるなあってだけだし、それまで喜ばなきゃいけないのか?
事前登録からずっととうらぶをしている。結局五周年記念の日よりもずっと大袈裟に祝われてる大演練を見てあまりにも虚無を感じる。
てんごを許容できない人間はもう顧客じゃないのだろうか。てんごを見ているのはしんどい。関東でも関西でもない地域に住んでいれば現地に行くのも難しい、そもそも原作にもない話を見せられるなら原作を知りたい。原作ゲームが一切変わらないまま外ばっかり進化していく。
最近の新刀剣男士だって、言い方はひどいがアレはパクリで怒られないのか?色々思うところがありすぎる。
それと最近はコラボのための実装が多すぎるよなと思う。去年の北谷からだよね、多分。
桑名松井山鳥毛で時期的な問題もあってちがねくんは違ったけど日光はそうだよね。
コラボ許可しない博物館系の実装も望めない、非現存はもっと無理、キャラデザはどんどんひどくなっていく。
とうらぶが新しいところに行くならいっそ、サ終して原作の存在をなくしてから羽ばたいていってくれ。
私はもうそれには興味を持てないしメディアミックスありきの原作置き去り状態に耐えられない。
大演練で2億くらい儲かったって見たよ。もうゲーム、いらないのでは?
てんご=2.5次元舞台の略として使用。私の周りは普通に使ってるのでてっきり常用されてるのかと思っておりました。あまり聞き慣れない言葉だったんですね。
私は一介の十二国記ファンである。中高生の頃にはまり、「白銀の墟 玄の月」で再燃した。
本記事では、十二国記世界の疑問点について語り、次回の短編集の内容について、時には私の好みで脇にそれつつも、予測したい。その途中で、私自身のこの作品に対する解釈や思い入れにも立ち入るかもしれない。
各物語のあらすじについては、熱心な読者が多いと思われるので、略す。さて、この順で読み返すと、次のような傾向がみられる。すなわち、王と麒麟の視点から見た世界よりも、庶民から見た世界の比重が大きくなっているのだ。確かに、「月の影 影の海」では陽子は大変な苦労をして玉座に上り詰めるし、「風の万里 黎明の空」「黄昏の岸 暁の天」では、いかに王としての責務を果たすかが語られる。一方で、同じ「風の万里 黎明の空」は民衆のレジスタンスの物語であり、それがさらに大輪の花を咲かせるのが「白銀の墟 玄の月」だ。これは都市の規模ではなく、国家規模にわたる抵抗だ。
もう一つの傾向とは、読者層の拡大である。もともと少女向けレーベルで出版されたからだろうか、十代の少年少女にとって教訓となるような個所は少なくない。「風の万里 黎明の空」における鈴、祥瓊の扱いを見れば顕著だ。一見同情すべき境遇にいるようでいて、それに甘んじている彼女らを待ち構えているのは叱責であり、罰である。この年齢になって読み返すと、幾分説教臭く感じなくもない。
しかし、「丕緒の鳥」からシリーズ全体の印象ががらりと変わった。組織の中で働く官吏や、避けられない災害を前にして自分のできることに必死になる民衆の姿は。年齢を重ねた読者の心も打つ。少女向けとされる小説から最も縁遠いように思える、中高年の男性もうならせるだろう。この作品は、あまりにも不条理な世界で生きる人々へのエールとなっている。
つまり、これから尚隆や陽子の視点から物語が描かれることは少なくなるのではないか。きめ細やかな民の物語を描くとき、王の存在は強すぎる。「東の海神 西の滄海」も、一歩間違えれば「俺TUEEE」っぽくなってしまう(そうならならずに尚隆が有能かつ魅力的に描ける腕前がすごい)。そう考えると「白銀の墟 玄の月」で出てきた尚隆は作者なりの大サービスだったのかもしれない。それに、神隠しにあった泰麒で始まった物語は、一応は解決しているのだ。王や麒麟のこの先に物語は、長編としては出てこないかもしれない。
前項でも述べてきたが、次に尽きるだろう。
十二国では天帝が定めた天綱が憲法としてあり、王が定める国法、地綱はそれに反することはできない。また、州の法律も王が定めた法に反することはできない。
天帝は民に土地を与え、それを耕すことで生計を立てるように命じた。逆に言うと、天の設計した社会では、民衆は生まれた里で農業だけをして過ごすことしか想定されていない。
しかし、現実はそうではない。「図南の翼」に出てきた珠晶の家族のような大商人もいるし、「白銀の墟 玄の月」に出てきた宗教関係者もいる。冬器を作る工房もある。私塾もあれば宿もあり、雁のように豊かな国では副業で馬車を出す者もいるし、事実上の奴隷だっている。
そして、最大のイレギュラーが定住民でさえない黄朱の民だ。彼らが歴史に関わってくるあたり、実際の中国の歴史にもよく似ている。
言い換えると、天は王と官吏と農民だけの世界を想定していたが、天の条理の隙間を縫う形で民は複雑な社会を形成してきた。そして、この世界の民衆はルールの穴をつき豊かに暮らしているし、謀反を起こす力もある。これは、専制君主の世界ではあるけれども、ランダムで選ばれた大統領に支配される民主国家の姿に、少し似ているのだ。私たちの世界の大統領・首相も間接的に選ばれるため、民意がどこまで反映しているか、はっきりしていないところがある。十二国世界は、実は私たちの世界の鏡像なのだ。
今後の作品の傾向としては、黄朱の民のように条理からはみ出てしまった人々にもスポットライトがあることと思う。と同時に、黄朱の民はこの世界の条理に生じた大きなほころびでもある。現に、彼らの里木はよそ者が触れれば枯れる、大きなペナルティを負っている。
それと、この世界では思いのほか宗教がしっかり根付いていた。我々が最初にこの世界の宗教を教えてくれるのが合理主義者の楽俊だったため、この世界の人々はあまり天に頼らない印象を受けたが、子供を授かるには祈るほかはないわけで、むしろ熱心な信仰がないと不自然であった。
十二国記が元々は少女向けに書かれたことをうかがわせる設定はいくつかある。例えば、王と麒麟の運命的な出会いだ。女性向けフィクションにはオメガバースをはじめとして、そうしたパターンが多い印象がある。もう一つはときとして未婚の女性をひどく不安にする妊娠・出産からの「解放」だ。女性の苦痛が大幅に減らされており、またこちらの世界とは異なるいくつかの価値観も女性に優しい。王も麒麟も官吏も(軍人を除けば)男女同数だし、子供のいる女性は再婚相手としてむしろ歓迎される。ジェンダーSF・フェミニズムSFとして十二国記を読み解くことも可能だろう。血縁意識が薄いのもその傾向を示している。とくに、楽俊はこちらの遺伝について、似たような顔をしたやつが同じ家にいるのが薄気味悪いのでは、と漏らしている。
しかし、この期待は裏切られる。ここはけっして楽園ではなかった。「白銀の墟 玄の月」のなかで李斎は、男社会の軍隊で生きる女性の苦しさを吐露する。また、明らかに性暴力を受けた女性も登場する。それに、序盤からすでに妓楼も登場している。この世界のセックスワーカーがどれほど過酷な生活を送っているかは不明だが、妓楼に行くことはあまり道徳的に褒められたものではないようである(余談だが、楼閣が緑色に塗られているのは現実の中国にもあった習慣であり、「青楼」と呼ぶそうだ)。
考えてみれば、官吏は女性も多いとされながらも、登場する官吏の多くが男性である。育児の負担がこちらよりもはるかに少ないので、昇進や待遇に差があるとも思えないのだが、これも隠されたテーマかもしれない。
それと、生理の問題がどうなっているかもはっきりしない。初期作品の傾向からすると生理から「解放」されている可能性が高かったが、女性の苦しみをテーマとするならば、生理のしんどさやそれにまつわる迷信・タブーが出てくると考えるほうが、筋が通っている。
天帝が女性、または西王母が兼任している可能性が、ふと浮かんだ。別に女性が王になれるのだから、天帝が西王母より偉い理由は別にない。
十二国記って男性しかいない場所がないこともなんだか怪しい。軍隊も三割は女性だ。逆に、女性ばっかりの場所が蓬山である。麒麟を育てるのは女仙たちだからだ。これも天帝女性説を補強しないだろうか? また、妖魔が雄だけというのも、なんだかそれに関係しそうだ。単純に作者が女性だというだけのことかもしれないが。そもそも「いない」可能性もあるが、根拠は全くない純粋な空想だ。
考察サイトが華やかなりしころ、いくつかのサイトでは天帝がラスボスなのではないか、という説がまことしやかにささやかれていた。確かに「黄昏の岸 暁の天」での天の対応はあまりにもお役所的ではある。ルールに従わなければ何もできないところが、法律に定められていなことは原則としてできない公務員によく似ている。
だが、もともと中国・道教の死生観がそういう面がある。「救急如律令」も、法令を守るように促す言葉であり、古代中国の役人が賄賂に弱かったように、今でも神々に心づけを渡す習慣がある。
そして、自分は天帝がラスボスになりえないと考えている最大の理由が、十二国記が不条理にあらがう人々の物語であるからだ。天帝を倒した後どんな世界を作るにせよ、人間が作り上げた世界である以上はやっぱり不完全なものになるだろうし、仮に完璧な世界を作ってしまったら、それは理想郷を描いた現実逃避のための小説になってしまう。「黄昏の岸 暁の天」のなかでも陽子はつぶやいている。天が実在するのならそれは無謬ではありえないのだ、と。
私が次回の短編集に出てくると予想する要素としては、今までの物語を受けて次の通りだ。
また、
そして、長編がありうるとしたら
と考えている。
少しろくでもない空想をしてみる。六百年の大王朝が滅びるとしたら、それはどうやってか。
王朝の最後にはいくつかの傾向がある。一つは陽子を暗殺しようとした巧の錯王や、慶の予王のように、王個人の劣等感に押しつぶされるパターン。もう一つは芳の王(祥瓊の父)や一つ前の才の王(黄姑の甥)のように、長所が裏目に出るパターンだ。祥瓊の父は清廉な人柄であったが、完璧主義者で罰が苛烈に過ぎた。黄姑の甥も正義感にあふれていたが、現実を検討する能力に乏しかった。
で、奏の特徴としてはのんびりとした気風がある。これが欠点となるのは、のんびりした気風で対応できないほどの速さで十二国世界に変化が起きる場合だ。つまり、利広の情報収集を絶てばいい。彼が旅先で死亡するか、家族が業を煮やして彼を王宮に拘束するかだ。ところが、「帰山」では、しばらく王宮暮らしをしろ、という趣旨の台詞がある。
これが奏の滅亡フラグかといえば穿ち過ぎな気もするが、宗王一家は全員同じ筆跡で公文書が書けて、しかも御璽を押した白紙が大量にあるので、一度分裂したら矛盾した命令が出されまくって国家の体をなさなくなり、あっと言う間に沈む危険がある。白紙委任状ほど危険なものはない。ああいう仲のいい家族が崩壊する様子を書くのって、日本人作家は上手だというイメージがあるが、数ページで滅んだ、と示されるのもまた冷たくていい。
「王気」という言葉は一見すると単純な造語である。しかし、景麒は、自分は半ば獣なのだ、と述べている。さて、「王気」にけものへん「犭」がつくとどうなるか。「狂気」になってしまうのである。失道は避けられないのかもしれない。
黄海を取り巻く四令門のある街で、雁では未門と申門の代わりに人門、恭では辰門と巳門の代わりに地門がある。では、言及されない才と巧ではどうなるか。陰陽道を考えると、才では丑門と寅門の代わりに鬼門、巧では戌門と亥門の代わりに天門、と思われる。
十二国記を初めて読んだときには、本編と「戴史乍書」の関係って、講談や旅芸人のお話と、正史みたいなものだと空想していた。三国演義が歴史書の三国志やその注釈から成立した、みたいな話だ。つまり、本文も旅芸人の語りであり、実際に起こった歴史とずれている可能性がある。
また、中国の歴史を知るにつれて、歴史書の記述はわざとそっけなくしていると考えるようになった。春秋の筆法というか、どのような事件が起こったかをどのくらいの濃度で書くかによって、歴史的な出来事に対する価値判断が含めているわけである。細かい経緯を書いた記録はたぶん別にある。
最近は、国家機密をぼかす目的もあると踏んでいる。阿選の幻術なんかの記述があっさりしているのも、たとえば妖魔が符で使役可能だとか、王と黄朱とのつながりとか、暴力を行使可能な麒麟がいるとか、かなり危険な情報だ。事情を知っている人が読むと「ああ」ってなるが、それ以外の人は読み飛ばすようにできている。
楽俊の姓名である張清は水滸伝に出てくる。しかし、水滸伝は盗賊が活躍するピカレスクロマンである。文人肌の楽俊とはだいぶ違う。
桓魋は少し近い。孔子を襲った荒くれ者と同じ名前だ。そして、面白いことに「魋」だけで「クマ」の意味がある。「熊どん」というほどの意味を持つ字なのだおるか。
祥瓊の父の字は仲達で、三国志の諸葛亮のライバル、司馬懿と同じだ。雁の白沢は瑞獣の名前。「白銀の墟 玄の月」の多くの官吏たちも、実在する中国の官僚や文人たちから名前が取られている。とはいえ、名前が同じだからと言って同じような人物像とは限らないので面白い。
「帝」という称号は始皇帝の考えだしたものだ。諸侯が王を名乗ったため、王のタイトルに重みがなくなってしまった。そこで、王の中の王を意味する称号が生まれたのである。
しかし、それを考えると十二国記世界では帝の称号が生まれないはずだ。なにせ、侵略戦争がありえないのだから、王よりも上が出てくるはずがない。そのため、王より上の称号は、山客か海客由来の語彙ということになる。
語彙だけではない。現実の中国の文化には、周辺の異民族との交流から生まれてきた要素が結構あるので、十二国世界でそれらが取り入れられたいきさつも妄想するのは楽しい。例えば、スカートやキルトではない、ズボンやパンツ状の服は騎馬民族に由来することが多い。そこまで考えるのは野暮かもしれないが、十二国世界が匈奴や西域の影響の薄い中国の文化を持っていると空想するのは、歴史ヲタにとってはきっと楽しい時間だ。
十二国記のアニメで、景麒が塙麟に角を封じられるとき、「生心気鎮風」と読める金文が刻まれるのだけれど、あれって根拠があるのか。私にはわからなかった。
つらつらと書いてしまった。
残念ながら、小野不由美の他の作品との比較・検討はしてこなかった。未読のものが多いためだ。また、作者の細かいインタビューも入手できていないので、見落としているものがあるかもしれない。
積んである本を片付けたら、ホラーは苦手だがぜひぜひ読んでみたい。
そして、次回の新刊をのんびりと待っている。小野不由美先生、本当に泰麒の物語の物語を完結させてくださり、ありがとうございました。
救世主だからこそ衰退する講談界にトドメを刺す可能性が非常に高いと思っている。
まず後進、つまりは優れた弟子を育てる責任を果たしてない。今はまだその時ではないと考えているのは承知しているが「絶滅危惧職」と言われている奴がそんな悠長な事を言っている場合ではない。
上方落語を復興した師匠なんかは若い時から自分の芸を磨きながらでも凄い(良い意味でも悪い意味でも)弟子達を育てて死の直前まで孫弟子達の稽古も付けてたやんか。
伯山が本当に「落語と講談の立場を逆転させる」つもりならば、今後「神田派講談四天王」と讃えられる程の優秀な弟子達を育てるくらいないと絶対不可能だと思うが、そんな未来は全く見えない。
正月に漫才とか落語家が順番にネタを披露する寄席番組をやってて、
その中で林家三平→神田松之丞がリレーで落語と講談を披露するっていう企画があったんだけど、
最初に出てきた林家三平の落語がすげーカミカミな上に構成もなんか微妙な感じで「え、これ大丈夫なの?」って思ってたら
その後出てきた松之丞が「今の三平師匠の落語が令和最高峰の芸でこざいます」とか「日本語わからないインド人が前列占領してたことあるからそのときに比べれば三平師匠の後くらいまし」とか
ボロクソいじりまくってて、ここまで言って大丈夫なのかとかちょっと思いつつも客もさっきの芸が酷かったのは薄々みんな思ってたからこれがまあウケるウケる。
勿論掴みトークのウケだけじゃなくて肝心の講談のクオリティも三平と比べると圧巻で、
その他はナイツとかカミナリみたいな超倍率の賞レース勝ち抜いて地位を築いた実力派漫才師が出てたんだけど、これもすげーウケまくってたからこそ落語の完成度の低さが際立った。
やっぱ実力関係なく世襲で真打ちになれて競争も少なくおじいちゃん客だけの閉じた世界だけで成立しちゃうとコンテンツって腐るんだろうねぇ。
時代劇 - Wikipediaの内容を整理する。
1910年代。日本映画草創期。歌舞伎の演目を題材にしたり、歌舞伎役者を引っ張ってきたりしたので、自然と時代劇が増えた。尾上松之助がスターとなる。
1920年代。映画業界が軌道に乗り、各社が時代劇スターを擁するようになる。阪東妻三郎や嵐寛寿郎、長谷川一夫などが登場する。
1930年代。トーキー映画への移行。戦前の映画黄金期であり時代劇の黄金期でもある。
1940年代、戦時中は検閲、戦後すぐはGHQの禁止により、映画(時代劇)が作りづらくなる。
1960年代。ここで一気に映画からテレビドラマへの転換が起きる。
1970年代。著名な時代劇シリーズが始まる。時代劇の第二次黄金期と言える。
1966年 | 銭形平次 | |
1969年 | 水戸黄門 | 最も有名なナショナル劇場のもの |
1970年 | 大岡越前 | |
1970年 | 遠山の金さん | テレビ朝日版の第一作 |
1972年 | 必殺仕掛人 | 必殺シリーズ第一作 |
1978年 | 暴れん坊将軍 |
1980年代。時代劇の定番ネタがすっかり出揃って飽きられはじめた。
1981年にテレビ東京が「12時間時代劇」を売りにした「新春ワイド時代劇」枠を開始(時間を縮小しながらも2016年まで続く)。
1985年の日本テレビ「年末時代劇スペシャル 忠臣蔵」が紅白の裏にもかかわらず15.3%の高視聴率を記録。
チーフプロデューサーの岡田晋吉は当初1年間の連続物時代劇として企画したが、編成会議にて上層部に「時代劇は受けない」「今時、時代劇でもないだろう」と受け入れられなかった。しかしその後、岩淵康郎(後の静岡第一テレビ社長)や一部の先輩の助け舟により、年末時代劇としての製作が決定した。
当時にしてこの認識か。
日本テレビの「年末時代劇スペシャル」枠はここから1993年まで続いた。
このあたりで年末年始=時代劇(忠臣蔵)というイメージができあがったのかな。
1987年にはNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の大ヒットもあった。
こうして1990年前後には一時的な時代劇復活の気運があった。
今でいうとなろう系がラノベ化で日の目を見てアニメ化で大売れするみたいなもんか。
戦前はエンタメやそこで取り扱われるジャンルが少なかったから、
一つのブームが長く続くし、飽きるまでの時間も長かったんだろうな。
個人的には「時代劇は90年代くらいまでずーっと人気があった」というイメージだったけど
こうして見ると意外に変動があるし、ブームの期間も思ったほどには長くない。
映画で蓄積されてきたものをテレビドラマで一気に出してすぐ飽きられましたって感じか。
とはいえ現在でも時代劇ドラマや映画は作られ続けているし漫画でも人気のある題材だ。
70年代ごろのブームが特異なのであって今くらいが巡航速度なんだろう。
ついでに2010年代の主な時代劇(だいたい興収10億円以上)
JIN-仁- | 2009年と2010年にテレビドラマが放送され平均20%超の高視聴率。 |
十三人の刺客 | 2010年に映画が公開され興行収入16億円。 |
大奥 | 2010年に映画が公開され興行収入23億円。 |
武士の家計簿 | 2010年に映画が公開され興行収入15億円。 |
のぼうの城 | 2012年に公開された映画が興行収入28億円。 |
るろうに剣心 | 2012年と2014年に公開された映画三部作が、それぞれ興行収入30億・52億・43億円。 |
清州会議 | 2012年に映画が公開され興行収入30億円。 |
信長協奏曲 | 2014年にテレビドラマ化、その続編として2016年に公開された映画が興行収入46億円。 |
超高速!参勤交代 | 2014年と2016年に映画が公開され、それぞれ興行収入15億・11億円。 |
蜩ノ記 | 2014年に映画が公開され興行収入11億円。 |
殿、利息でござる! | 2016年に映画が公開され興行収入13億円。 |
忍びの国 | 2017年に映画が公開され興行収入25億円。 |
関ヶ原 | 2017年に映画が公開され興行収入24億円。 |
銀魂 | 2017年と2018年に公開された映画が、それぞれ興行収入38億・37億円。 |
決算!忠臣蔵 | 公開中! |
・源義経→いまでも人気あるけど全盛期ほどではない
・忠臣蔵→いまでもそこそこ人気あるけど低下気味
・荒木又右衛門→廃れた
・源為朝→廃れた
・鼠小僧→廃れた
・真田幸村→いまでも人気はあるけど全盛期ほどではない
・宮本武蔵→いまでも人気はある(もともと義経や幸村ほどの人気はない)
・水戸黄門→テレビドラマ(2011年まで)が終わって低下気味(2019年にBSで新シリーズやってた)
・大岡越前→テレビドラマ(2006年まで)が終わって低下気味(追記:2013年からBSで別のドラマシリーズが始まっている)
・清水次郎長 →廃れた
・国定忠治→廃れた
・一心太助→廃れた
・必殺→テレビドラマ(2009年まで)が終わって低下気味(年一でスペシャルドラマをやってる)
・鬼平犯科帳→テレビドラマ(2001年まで)が終わって低下気味(2016年までスペシャルドラマ多し)
・遠山の金さん→テレビドラマ(2007年まで)が終わって低下気味(2017年にスペシャルドラマをやった)
・暴れん坊将軍→テレビドラマ(2002年まで)が終わって低下気味(何度かスペシャルドラマあり)
・銭形平次→テレビドラマ(2005年まで)が終わって低下気味
・鞍馬天狗→廃れた
・丹下左膳→廃れた
・座頭市→廃れた
・子連れ狼→廃れた
・旗本退屈男→廃れた
・眠狂四郎→廃れた
・桃太郎侍→廃れた
個人的にはこんな印象だけど合ってる?
「忠臣蔵は大正時代にも飽きられていた」という記事がホッテントリにあがっている
・http://cocolog-nifty.hatenablog.com/entry/2018/12/29/172400
根拠として玉田玉秀斎の講談速記本をあげているが、これは明らかにおかしい。
まず言うまでもないことだが、たった一人の証言を根拠に結論をだしてはならない。
その個人(玉田玉秀斎)の観測範囲の限界・ポジショントークの可能性等々があるからだ。
歴史学で正しい結論を出すには複数の文献を史料批判する必要がある。
で、忠臣蔵ほど著名なジャンルとなると、こういう史料批判はすでに専門家がしてくれている。
日露戦争直後のブームで儲かった浪曲師・桃中軒雲右衛門がそのお金で泉岳寺に大石内蔵助の銅像を立てるほどであった。
大正時代のブームでもレコードが活躍したのみならず、中央義士会が設立され、大佛次郎の『赤穂浪士』がベストセラーになり、その後はラジオも活躍した。
…などと言うことは宮澤の本を引いたウィキペディアにも書いてあるのでご確認あれ。
さて、日露戦争終結(1905年)直後の一度目のブームから大正の2度目のブームの間は
たったの10年強。
この間には大正デモクラシーがあり、玉田玉秀斎の発言はこの時期に当たる。
開明的な大正デモクラシーで一時的に飽きていたというのが正しく、
・飽きはじめたのは、明治の後半くらいなんじゃないのかなっていう雰囲気はある。
というのは明確な間違えである。
なにせ、忠臣蔵はわかってるだけでも明治~戦中に114回も映画になっているのだから。
【その他コメント】
・浄瑠璃か歌舞伎か知らないけど、とにかく『仮名手本忠臣蔵』はかなり読むのダルいと思う。
・スタンダードな忠臣蔵を延々と楽しめるのであれば、アレンジする必要なんかない。
スタンダードなアニメの二次創作がコミケで量産されたら飽きられてる証拠だというようなもの。
・ 読んだことねぇからよく分からないけど、(吉川)英治なら絶対面白いんじゃないかな。
吉川英治の「忠臣蔵」は「吉川英治歴史時代文庫」に入れてもらえなかったのに?(補巻扱い)
【追記】
個人的には最初に知るには映画かテレビの忠臣蔵をオススメする。目からの情報は理解しやすいから。
エロゲの「ChuSinGura46+1 -忠臣蔵46+1」も実はオススメだが(1話無料だし)。
松之丞の「赤垣源蔵 徳利の別れ」をラジオでさっき聞いたけど、めっちゃ良かったわ。思わず泣いちまったよ。一つの元ネタから誕生したたくさんの一連のストーリーは、討ち入りだけじゃないのよね。討ち入りはハイライトだけど。
松之丞が言うには「膨大なストーリーが生まれたのは、人気があったから。なぜ人気があったかといえば、どれもが別れのストーリーだから」。なるほど。
討ち入りするからには、生きては永らえないと把握してる人、迷惑かけるのを避けてなにも言わずに去る人、いずれも今生の別れ。親兄弟、恋人、妻子ね。これはね、うまい人がやると、ぐっとくるわ。
人気が落ちた?のは、単純にドラマ映画以外のアウトプットに触れる人が減った、それだけだと思った。
久しぶりに講談を聞いたけど(ラジオだけど)、よかったわ。文楽、歌舞伎よりリーズナブルだから、おすすめ。松之丞たいしたもんだわ。ちょっとこもって声が良くないけどな。でも満足。
「気が付けば「忠臣蔵」の人気や知名度が無くなっていた(らしい)理由の考察など - Togetter」が538ものブクマつけてる。
・ http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1298767
しかしそこで指摘されてる事が車輪の再発明&勘違いだらけで、本当に忠臣蔵の人気はなくなったんだな、と実感した。
忠臣蔵は元禄の昔から超メジャーコンテンツだったので、すぐ思いつく事はだいたい既に通った道。
「ChuSinGura46+1 -忠臣蔵46+1」のことですね。ソシャゲじゃなくてエロゲだが。
ちなみに歌舞伎にも女大星(=女版大石蔵之介)というのがある(既に廃絶)。
・今時でやるなら、47人全員のキャラを立たせないと。そうすると、すっごい長大になるよね。
赤穂義士銘々伝のことね。吉良邸討ち入りの「本伝」ではなく47人にフィーチャーした物語の事。
私の読んだバージョンは大正時代のやつは1000ページ以上あったがそれでもすべてカバーしきれていない!
日本の古典である歌舞伎・文楽・講談・浪曲の全てで最も人気のあるコンテンツが「古典になりきれなかった」ってのは違う。
・もともと映像作品としての面白さは忠義や敵討ちよりも、集団で警戒厳重な屋敷にどう攻め込むかって『大脱走』とか『スティング』のような集団群像劇・設定サスペンスとしての面白さにあったように感じてるんだけれど
・毎年やって、ごくまれに吉良側が勝利するようにすれば良いのでは
吉良側が勝利して別働隊が後でこっそり吉良を殺す、というのは既にある。
・武士の面目がたたないので殺さないと再就職もできません!…な話なんだよな
・『忠臣蔵』というと、なんかドリフのコントが思い浮かぶんだよな、ドリフだったか確かじゃないけど。
正解は「オレたちひょうきん族」の最終回。ドリフでやってたかは知らんけど。
・忠臣蔵は、上への不満を巧妙に横への不満にすげ替え、反骨精神を忠義へと昇華する、言論統制下のジェネリック革命もの。時代の流れで忠義も抑圧も薄れたのかも知れない。
https://togetter.com/li/1298767
忠臣蔵の人気が衰えたのを良いことだと思っている人は少なくない。
これ、300年経って幕府の思いが実現したってことともいえるw
赤穂事件が起きた当時、庶民は喝采したけど幕府は「治安を乱すゆゆしき事件だ!」と怒り、それで赤穂浪士たちは切腹させられた。
四十七士がやったことは直属の上司への忠義を尽くすことであっても、幕府に対しては反逆行為だったわけね、だからこそ庶民は「今どき見上げた武士だ」と喜んだわけ。
当時の武士はすでに保身的なサラリーマン化してたのに、庶民の方こそが忠義を重んじる古くさい価値観を美徳だと思ってたわけだ。
仮名手本忠臣蔵の登場人物が、史実とは異なり室町時代の出来事にされてるのも、幕府がこの事件を美談として広めるのを嫌ったせい。
だから、戦時中とか四十七士が忠君の模範みたいにもてはやされたかといえば、そんなことはなく、陸海軍の偉い人たちは慰問で忠臣蔵の講談とかやるのを嫌ったという。
宮仕えの人間が組織上層に逆らっても直属の上司のために戦うってパターン、よく考えたら、パトレイバーでも攻殻機動隊でもこれに近いことやってる。
そう考えると、忠臣蔵って今も形を変えて存続してるのかも知れない
いや、そんなたいした意味はない。
江戸時代とか明治とか、落語と講談ってのがあって、落語よりもむしろ講談のほうが流行っていたと聞いたような気がする。
しかし、ラジオはともかくテレビの時代になると、講談はもうすっかり衰退した。
講談で聞いていた勇ましい戦の話は、これはもうテレビや映画の時代劇にはまったく対抗できない。
時代劇に限らず、講談でやっていたような話は、現代の映像と音楽のシステムの前に歯が立たない。
(ラノベと漫画は残っているので、それはテレビに対抗できているすごいシステムだ)
一方、落語はほとんど声で一部動きや音もあるけれど、いまでもテレビの映像システムに対抗できている。これはどういうことか。
落語以上に動きの入った漫才やら、音楽の強いリズム芸人やら、まあそれなりに頑張ってはいるけれど、落語を滅ぼすほどの力はない。