はてなキーワード: 無味乾燥とは
学歴ランキング表にも乗ってこないような無名私立大学卒から、大学院修士に東大に行きました。
無名私立大学の頃は、ホボ授業に出ず、出ても寝てました。つまらなかったからです。
①有名人が授業をしている
好きなユーチューバーが商品レビューしてれば、ソモソモの商品が興味なくても、見ますよね。
それです。
もちろん、パワポとか作ってくれてたんですが、その作りが雑というか、
教科書を丸写ししてるだけなんです。
東大の場合、「その教科書を書いている先生が授業をしている」わけです。
教科書で伝わらないニュアンスやらが、しゃべりから伝わってきます。
当然ながら、東大だからと、教科書を逸脱するような、超絶ハイレベルな話はしません。
ですが、普通の無名私立だと、ここでつまずきますし、標準レベルまでとても行きません。
テスト前にゴリゴリ暗記することで流すので、学びに何の含蓄もないです。
東大は、当たり前に教科書が理解できるので、当たり前に話が進みます。
その進行は、決して速度は早くないですが、「普通だな」という論理が「普通に」流れます
生徒を心では見下しているのでしょう。丁寧に話す人も、普通にかかわりあいを持ちたくないのが透けてます。
東大の場合、「無茶苦茶できる生徒がいて当たり前」なんですね。
先生が普通にMITだのスタンフォードだのを、普通に話します。
⑤ヘンな奴がなじんでいる
あの空気、何なんですかね。
それが東大は一切ないです。
皆できるのは当たり前で、それが変な奴だからとか関係ないんですね。できる奴は普通に尊敬されてる。
また、できる奴も、変にへりくだったり気を使ったりせず、ありのままでいられる。
授業も、できる奴が十分楽しめる構成になってます。できないやつがいないので、そういう層に気を使った授業にしなくていいからでしょう。
別に「正確な広さ」をイメージしてもらうための手段として東京ドームを使ってるわけじゃないと思いますよ。
(というか、そういう風にとらえてこんな日記を書いている人がいることに驚きました)
ヘクタールや平方メートルで表現したって、無味乾燥な数字がズラズラ並ぶだけで、その数字だけ見たって、大半の一般大衆はでかいのか小さいのかよく分からんわけです。
(広さを数字と単位だけで正確にイメージできる人なんて、あなたが思うよりずっと多くないです)
そのうえ、なにより印象にも残りにくい。
それじゃあ、「デカいものを保有してる側」は、マーケティング的にあまり嬉しくないわけです。
記事を書く人も、その記事が指すものをイメージしてもらいづらくて嬉しくないわけです。
何より、記事を読んでる人も、「何ヘクタールって言われてもなー」となりやすいわけです。
そこで、「それって結局○○でいうと何個分くらいなの」?という人が出てくるわけです。
誰もが頭に思い描けるような、知名度付きの「でっかいドンブリ」というのは、こういうとき非常に強力に効果を発揮します。
「それ何個分」って書くだけで、正確な単位なんかで書くよりもずっとインパクトが単純明快に表現しやすい。
当然、正確な広さは丸められてわからなくなりますが、細かい数字を気にしてる人が果たしてどれだけいるか、という話。
特にアカウント制ではないようなインターネット空間においては、ニートを罵倒する風潮は顕著だ。
ひどいものだ。ニートであるということだけで、ボロクソに叩かれ、ボロ雑巾のように扱われる。
ニートは人権がないのも同然だ。某大型掲示板では、ニートであるということが書き込みから発覚しただけで
もうひどいくらいに叩かれる。「でもニートなんでしょ?」「働けよ」
そんなことは自分でも痛いくらいわかっている。でも、それらをわかっていてもニートで、働けもしないし、
思い詰めすぎて気が狂い過ぎたせいで精神科に通っている。ろくに生身の人間と関わることもなく、
二十四時間、四六時中狭いちっぽけな自室で絶望感と憂鬱に苛まされている。
—どうにかしなければならない。そんなことはわかっている。だけど体が情けないくらい動かない。
喜怒哀楽という基本的な感情も、もはやあまり感じられない。二十四時間が無味乾燥に過ぎ去ってゆく。
精神が疲弊しきっているのだ。そんな自分を少しでも癒そうとして、PCの電源を入れてインターネットの世界に
飛び込んでゆく。「ニートである」という自分の素性を明かした途端、俺を執拗に罵倒してくる人間が
やってくる。そうするとげんなりする。自分には、インターネットというバーチャル空間に
居場所を見出すことさえを許されていないのだろうか。
…おかしい。俺が知っている昔のインターネットは、こんなに居心地の悪かった空間じゃなかったはずだ。
もちろん、昔でもニートであるということがバレたら、多少なりとも叩かれることもあったと思う。
だけど今のようにニートが「気軽に罵倒できる対象」として「消費」されることは、
今のインターネットは、俺の知っているような自由なバーチャル空間ではなくなってしまったのか。
中傷しやすい相手を、罵倒することで得られる快楽のために「消費」していく。
…インターネットはいつからワイドショーのような低俗で下品な空間に成り下がってしまったのだろう。
温かい交流や、ひねりのきいたくだらないジョークが飛び交う空間ではなくなってしまったのか…。…
だけど本当にそうだろうか?そう思った俺は、半年以上かけて、様々な新興SNSに飛び回ってみた。
色々なバーチャル空間が広がっていた。ネット民同士の温かい交流があったり、くだらないジョークが飛び交っている
SNSは、確かに存在していたのだ。そのことを身をもって知った時、俺は少しだけ心が軽くなった気がした。
—俺は、ようやくネットでも居場所を見つけることができたのだ。
きっと、某大型掲示板に入り浸っていては見つけることはできなかったであろう、温かい場所。
そして、俺はこの時ようやく気付くのだ。快楽を得るために人を罵倒するくだらない場所が
インターネットの中にも存在していて、それが某大型掲示板や某匿名ダイアリーだったというだけだったのだ。
某大型掲示板や某匿名ダイアリー、そしてまとめサイトがインターネットの全てではないのだ。それらは
あくまでインターネットの一部で、ネット上で温かい交流を続けている人達も、確かにインターネットの中に
存在しているのだ。
…ここまでの話を一文にまとめると、要するに「○chはク○だ」ということなのだ。
ニートでもネットの中で居場所を見出すこともできるし、誹謗中傷の飛び交わない場所も、
インターネットの片隅で確かに存在しているのだ。だから今現在ニートで、ネットでも居場所がないと
嘆く人がもしこのダイアリーを読んでいる人の中でいたとしたら、安心して欲しい。
ニートでも居場所を見出すことのできる場所はきっと存在している。
もしその存在を見つけることができないのであれば、それはきっと探し方が悪いだけなのだ。
…なんてことをはてな匿名ダイアリーに書き綴ると、恐らくたくさんの罵倒コメントがやってくるのだろうと思う。
「こんなことを書いている暇があるなら働け」「無能の書いた記事」…などなど。
はてな匿名ダイアリーも、5chも本質的にはさして変わらない。
…はてな匿名ダイアリーは、昔のイメージでは人を快楽のために罵倒する空間ではなかったはずなのだが、
このダイアリーももうすぐ書き終える。書き終えた後にどのようなコメントやトラックバックが
返ってくるのか少し気になるところではある。多分罵詈雑言だらけなんだろうなぁ。
なんか寂しいなと思うと献血に行っている。
オススメはバスみたいな出張献血所じゃなくて、どこかの建物の中に入っている献血ルームだ。
献血ルームに行くとちやほやされる。色々な質問をされてお医者さんの問診を受けてちょっとした血液検査をして、お菓子と暖かいお茶が貰える。お菓子を食べ終わってホッと一息ついたら、血を抜かれる。
歯医者さんや美容院にある寝転ぶ椅子みたいなものに寝かされ、看護師のおばちゃんたちが鮮やかな手さばきで僕の運動不足な体からどろどろの血を抜いていく。
その間好きなテレビを見たり、好きな本を読んだり、おばちゃんたちの手早い仕事を観察したりできる。
血を抜くのは個人差もあるがだいたい15〜20分くらいだと思う。その間に何度もおばちゃんが気分悪くない?と聞いてくれる。詳しいことは忘れてしまったけど、足を組んだり組み直したりすることを勧められる。気分悪くなるのを防ぐためだった気がする。
血を抜き終わったら、おばちゃんが包帯を巻いてくれる。首からタイマーを下げられて、このタイマーが鳴るまではここで休憩していってねと言われる。30分か1時間くらいだったと思う。
僕は1人一個までと書かれたアイスクリーム用冷蔵庫から雪見だいふくをもらう。飲み放題のジュースを心ゆくまで飲む。おばちゃんに巻いてもらった包帯をぼーっと眺めていると、こんなしょうもない僕を構成しているどろどろの血でも、こんなにちやほやされるほど必要とされているんだと実感できる。
こんな僕の血でよければいっぱい使ってほしい。無味乾燥に生きている僕なんかよりよっぽど生きる価値があるのに、誰かから血をもらわないと生きていけない人が居るはずだ。
400ml献血は3ヶ月に一回しか行けないのでもどかしいけど、献血に行く度に、献血するのに特に問題のない肉体を持っていることに感謝する。
献血は最高だ。積極的に良いことをする勇気もない僕が献血ルームに行くだけで、お菓子を貰えて、飲み物を貰えて、たくさん心配してもらいながら誰かに感謝されることができる。優しくされたいっていう不純な動機なのに。
http://otoimi.net/ 罵倒でも何でも良いので感想が欲しい。
私が個人的に発見した「音と意味の関係の法則性」で英単語の語源をおぼえようという趣旨のサイトです。
法則として厳密かはともかく間違いなく関連性はありますし、その上で精度も相当に高く、英単語暗記に役立てるぐらいなら十分なものです。
ただ音の意味というのは、その音が使われる全ての単語にあてはまるくらいに広い意味なので、文字列から直接的にその単語の意味を弾き出したり、その単語の意味から直接的に文字列を弾き出す事はできません。
しかし英単語をおぼえる際の実感には繋がりますし、実感があれば英単語暗記も今よりは無味乾燥なものでは無くなるはずです。
以下の表が皆さんの英単語学習に彩りを添える事になれば嬉しいです。
音の意味一覧
d 集合
n 要素
h 要素を含むもの
m 条件
l 選択肢
z フローチャートにおける動き
y フローチャートにおける動き
k 地点/存在
b 場/路
s 動き
p 動き
w 動かされ得るもの
a 意図の集中
i 情報
o ポインティング
u 区切り/終止
E.「複合した音」
q (ku) :質/実態
v (bu) :強調された場/路
j (zy) :フローチャートにおける動き
twitterアカウント:https://twitter.com/otoimi_gogen 著者としてはこのアカウントをフォローして学習の参考にするぐらいがオススメです。
おそらく誰であろうとも、一般常識として税金の簡単なことだけは知っておいて無駄にならないであろう。
問題となるのは、「一般常識」よりは難しく、しかし、税理士合格できるレベルではない、という程度の税金の勉強して何になるのか、という話である。
そもそも専門性に没頭している人であれば、そういう中途半端な知識を身につけることに時間を割くべきではない。
物理学者が、物理学をやる時間を削って税金の細かいことを勉強したり、あるいは司法試験に挑戦しても愚かでしかない。
ではそういう物理学者のような立場にいない人にとって、持て余した閑暇を使った手遊びとして、税金の小難しい勉強をしても無意味なのか、という話である。
たまたまどこかで役に立つかもしれないが、メリットには直結しないからである。
こういう「一般常識」以上で「専門家」未満の実学を、実学的な教養と呼んでみることにする。
文学部的な教養は自己表現の世界であるから、趣味として好まれることもある。
基本的には意味もわからず暗記することになるし、自己は疎外されている。
無味乾燥な細則であっても、その官僚的な文面の背景に浮かんでくる制度趣旨を察することはできるし、自分なりの解釈を加える愉しさもあり得る。
社会制度が人間を存在させているし、制度を踏まえてわれわれは存在しているのである。
もしくは特別に偉い人でなくとも、われわれは誰しもルールを策定する立場になりうる。
たとえば売春宿を経営するとしても、その店のルール設定は、人間の下半身の行動パターンを色々と勘案して考えなければならない。
いつでも制度趣旨については考えており、なぜこういうルールなのかと語ったりしているから、どのような実学であれ、
なぜそういう仕組みなのか、という思考の遊びはできそうであるが、やはり文学と比べると自由度が低いということになるのであろう。
なる議論があるらしい。
学生がWordで論文を書いて来たら、それだけで不合格の推定が働くという研究者の方もいらっしゃった(さすがに理不尽だと思う)。
私自身は出身学部がバリバリの文系で、職業も数式と無縁の類なので、Wordの方が圧倒的に使う頻度が高い。
だが、最近趣味で数学をやるようになって、TeXにも触れるようになった。
それで何となくTeX派の言いたいことも分かってきた(そもそもWordとTeXを同じ土俵で比較するのがおかしいという批判は一旦措く)。
ぶっちゃけて言えば、TeXでできることのほとんどは、Word2010でもう出来てしまう。
そのためTeX派の主張・反論はかなり苦しく、感情的なものが多いのだが、なぜそこまでTeXに固執するかと言うと、TeXの方が楽しいからではないか。
いくらショボい文書を作るにも、TeXだと様々な問題が生じ、それをググって解決する。そして出力される美しい文書。
この過程が非常に楽しく、無味乾燥になりがちな文書作成の作業が創作性を帯びてくる。
高校教師になって半年が経った、そして日常が灰色で意味なし興味も惹かない無味乾燥なものに思えた。
もともと、教師に憧れはなかったが、私は民間企業には向かないと思ったし自分の希望を叶えられそうだったので教師を志望してみた。自分の希望とは端的に「上からガミガミ言われないこと」「周りの視線にビクビクしないこと」「面白いものを面白いといえ、つまらないものには無関心でいられること」「知ることが好き、考えることが好きなのでそれを伸ばしたい」ってあたりだった。
それで、採用試験を受けてみたら受かった。採用試験を受けるにあたり、試験官が喜びそうな教師志願者像を演じているうちにまるで本当に教師の仕事がやりがいのあるヒトみたいになっていった。
実際に働いてみると、私が新人なのもあってか夏休み前はプレッシャーも労働時間もそれほどブラックではなかった(定時には帰れないが)。仕事をして収まるところに収まったという喜び、生徒とやり取りする喜び、給料をもらう喜び、とにかく何もかもが新しく、一つ一つのタスクをこなしていくことに喜びを感じた。そして、採用試験で作り上げた教師志望者という虚像を演じてることさえ気づかなかった。
夏休みは平和そのものだった。ただ、何度やっても追試を乗り越えることの出来ない生徒や炎天下でも盆休みも休みなく動き続ける運動部連中を見るのが不快だった。無意味な校則を破る無意味な学生に付き合わされることに吐き気を催すほどの嫌悪感を感じた。なんだか、夏休みですべてがリセットされた気がする。仕事を始めてそれなりに責務を全うしようという気持ちが失せた。
もともと、良い教師になろうという気持ちは毛頭なかったが、いまはただ仕事の時間が穏便に過ぎさえすれば良いと思うようになった。正直、生徒にも人間にも興味が持てない。授業の準備で定時を超えそうなら、切り上げて授業の質を落とすことにした。義務として求められること以上は一切しないことにした。部活の引率が一番馬鹿らしい、引率はするにしても一々試合には立ち会わず試合会場では雲隠れすることにした。
そして辛いことは、同僚が真面目すぎることだ。どうして彼らは楽をすることを考えないのだろうか。そんな連中の中にいると肩身が狭いし、もはや生徒に興味がもてないという本音も口にすることができず孤独感とイライラだけが溜まっていく。
仕事が何もかもバカらしく感じる。だが、給料はほしいので辞める勇気もない。辞めてもやりたい仕事はない。
仕事以外にはやりたいことが、ある。家に帰って一人の時間が一番よい。だけど、教師って24時間死ぬまで働けってオーラを感じる。そんな息苦しい雰囲気がいやだ。すまんが、生徒より自分優先で仕事させてもらう。これからも自分が自由で居られるのか不安なんだ。
徳川の時代に若い男だけがかかる死に至る病がはやって、男が激減
序盤こそわかりやすかったけど、本格的に過去編に入ってからは文章多いし歴史ものってことでわかりにくい言葉がたくさん出てくるしで正直挫折しそうにもなった
でも土日で体力あったし慣れてきたら読めるようになった
でも一気読みじゃなかったら都度読み返さないと内容把握できなくて挫折してたと思う
・話のキモになっている病気について単にそういう病気があったから逆転したーというだけで病気を放置したままにしないこと
・中学レベルの日本史の知識の裏を独自の解釈で埋めていってくれて、無味乾燥だった日本史の知識がどんどん色づいて感じられるようになっていったこと
あと性格もほぼ同じに見える
女も男もほぼみんな同じ顔に見える
いまんとこ読んでて楽しかった話は、
だな
中学時代のクラスメイトが貸したラノベでオタクになって9年目の夏のこと。
人生で目標も意識も理想も持たず、目の前のコンテンツをただ貪る無味乾燥な時間を送っていた僕に、何人目かの彼女が出来た。
彼女は某SNSで知り合った女の子で、当時はまだ新卒の社会人1年生だった。
僕にも彼女にも当初は別に恋人がいて、お互いの近況を話し合いながら「話は聞くからがんばってね」「そっちも彼女大事にね」みたいなやり取りをちょこちょこ交わしていた。
当時の恋人と別れた直後、彼女もその相手と別れたことをSNSに書き込んでいた。
「今までお疲れさま」
「今電話してもいい? もう寝る?」
僕は個人メッセージに「非通知でもいいよ」と添えて、自分の電話番号を送信した。
数分後、見慣れない電話番号から着信が。電話に出ると聞きなれない声で「恵美(仮名)です」と名乗った。
そこから互いの身の上話(ほとんどが彼女の話だったけど)を重ねるに連れ、彼女がこんな言葉を漏らした。
「私、増田くんとなら付き合えると思う」
驚いた。本当に驚いた。
それまでの僕は自分に自信がなく、これまで付き合っていた相手とも「何が良くて自分なんだろう」と思うことの方が多かった。
更に、当時の僕は先天的に持っていた障害(注意欠陥症候群)が発覚したばかりで、尚更人間関係に対して自信をなくしていた。
そんな相手と上手くいくとは思えなかった。
そう思っていた矢先、彼女はこう打ち明けてきた。
「私、付き合う前に言っておかないといけないことがある」
そのほか、ここには書ききれないたくさんの話を聞いた。
そのおかげで、僕は自分が抱えていた不安を打ち明けることが出来た。
障害の話。これまでの話。10年来の付き合いがある友人にも言っていなかった話。
それでも彼女は、こう言ってくれた。
「1人じゃダメでも2人ならなんとかなるよ
一緒に何でも試してみようよ」
中学時代のクラスメイトが貸したラノベでオタクになって9年目の夏のこと。
人生で目標も意識も理想も持たず、目の前のコンテンツをただ貪る無味乾燥な時間を送っていた僕に、何人目かの彼女が出来た。
彼女は某SNSで知り合った女の子で、当時はまだ新卒の社会人1年生だった。
僕にも彼女にも当初は別に恋人がいて、お互いの近況を話し合いながら「話は聞くからがんばってね」「そっちも彼女大事にね」みたいなやり取りをちょこちょこ交わしていた。
当時の恋人と別れた直後、彼女もその相手と別れたことをSNSに書き込んでいた。
「今までお疲れさま」
「今電話してもいい? もう寝る?」
僕は個人メッセージに「非通知でもいいよ」と添えて、自分の電話番号を送信した。
数分後、見慣れない電話番号から着信が。電話に出ると聞きなれない声で「恵美(仮名)です」と名乗った。
そこから互いの身の上話(ほとんどが彼女の話だったけど)を重ねるに連れ、彼女がこんな言葉を漏らした。
「私、増田くんとなら付き合えると思う」
驚いた。本当に驚いた。
それまでの僕は自分に自信がなく、これまで付き合っていた相手とも「何が良くて自分なんだろう」と思うことの方が多かった。
更に、当時の僕は先天的に持っていた障害(注意欠陥症候群)が発覚したばかりで、尚更人間関係に対して自信をなくしていた。
そんな相手と上手くいくとは思えなかった。
そう思っていた矢先、彼女はこう打ち明けてきた。
「私、付き合う前に言っておかないといけないことがある」
そのほか、ここには書ききれないたくさんの話を聞いた。
そのおかげで、僕は自分が抱えていた不安を打ち明けることが出来た。
障害の話。これまでの話。10年来の付き合いがある友人にも言っていなかった話。
それでも彼女は、こう言ってくれた。
「1人じゃダメでも2人ならなんとかなるよ
一緒に何でも試してみようよ」
それからすぐに彼女の家が僕の職場に近いことが判明し、彼女の家に引っ越しての同棲が始まった。
一緒に暮らすにつれ様々なことがわかった。
・彼女がヘビースモーカーなこと(つられて僕もタバコをはじめた)
・お互いに性欲が薄く、SEXをしなくても充分満たされること(彼女がキスが好きなため流れでヤることは多かったけどそれでもこれまでに比べたら少なかった)
・彼女にとってのオタク趣味はあくまで趣味の一つで、本当はもっと多趣味なこと。
・彼女は決して、顔で僕を選んだわけじゃなかったこと。
当時の僕は周りからの評価に対して承認欲求だけが異様に強く、強気な発言や嘘をついて炎上したことも多々あった(承認欲求に関してはここに書いてる時点でまだ収まってないんだろうけど当時よりは落ち着いたってことで許して欲しい)
自然と、彼女だけには嘘をつきたくないって思うようになっていた。
自分で作り上げていた「嘘の壁」の中に誰かをこんなにも強く想える自分がいたことにびっくりした。
そこから2年間、僕は彼女の好きになれる自分になろうとして努力した。
努力を重ねた結果、体調とメンタルを壊し、当時の職場を退職した。
そこからすれ違い(一番の理由は「なんでそんなになるまで相談しなかったの」)を起こし、破局した。
知り合ってから約3年、付き合ってから2年半が過ぎ、結婚も視野に入れていた矢先のことだった。
実家に帰って、わずかに貯めていた金を使って地元の温泉宿で1週間ほど色々考えた。
後悔とか開放感とか恨みとか悲しみとか色々な感情が頭と心を巡って、一生分泣いたんじゃないかってくらい泣き通した。
一通りの気持ちの整理がつき、最後に濾過されずに残った感情を確認するとそれは「感謝」の気持ちだった。
そのことに関して、今でも感謝している。
今からやり直すということは不可能だし、彼女には俺じゃない別の誰かと幸せになってもらいたい。
今の僕は君に比べるとあんまり頭も良くなくて家事もそこそこ苦手だけど君と同じくらい可愛くて優しくて音楽と映画が好きな子と付き合ってます。
彼女にこのことを話した時に「今はもう感謝しかないんでしょ? じゃあその元カノさんはますくんの恩人なんだね」って言われてあらためて君の存在の大きさに気づきました。
多分君に出会ってなかったらこの子を好きになることもなかった。
俺は君のおかげで幸せだし、君もどうか幸せになってください。というか今は結婚してるんだし幸せか。
恵美が幸せなら、僕も嬉しいです。
君を幸せに出来なかった分まで、今の彼女のことを大切にしたいと思います。
君は僕の元彼女で、それ以上に僕の恩人で。
だから、僕は君のことを一生忘れないと思う。
彼女の影響で好きになったバンドのライブを見て、音楽に関わる仕事に就きたいと思ってダメ元で応募したイベント会社のライブスタッフ求人に受かってたから備忘録も兼ねて書き綴ってみた。
長文乱文で読みづらかったら申し訳ないです。
ひどい飼い方をしてしまう恐れがあるなら飼うべきでない、という考え方だ
じゃあ貧乏人は子供産むなと言うのか、みたいなことも言えなくはないが、ペットと人間の子供を同列に語るのも違うだろう
でもその一方で、そもそも人はどうしてペットを飼うんだろう? という観点からは疑問も感じる
寂しいから、無味乾燥な日常で鬱になるから、生き甲斐が欲しいから…
もちろんそれ以外の理由だって多いだろうが、そういう切実な理由だってあると思うのだ
そして、そういう点で言えばむしろ社会から孤立しているような人にこそ、ペットは必要なんじゃないだろうか
結果的にその人が孤独死してペットが飢えたり殺処分されるとしてもだ
だってそもそも論を言えば、ペットを飼うこと自体が人間のエゴだろう
ならば人間の幸せを一番に考え、ペットの幸せはそれに反しない範囲で最大限考慮する、という形が人間社会のルールではないのか
とはいえ自分は正直、人間よりは犬や猫の方が好きなので、犬や猫の幸せを一番に考えてほしいという気持ちもなくはない
でもそれは犬猫好きの傲慢であり我儘だという風にも、明に暗に教えられても来た
一番嫌いな人間と一番好きなペットの命を天秤にかけたとき、前者を選ぶのが人間として正しいのだと(実際そうできる自信はないが)
相手に迷惑ををかけたくないので身バレ防止にいろいろフェイクは入れるけれど、出来事や体験に関してはなるべく正直に気持ちを書こうと思う。
私はいま25歳だ。地方の田舎で育った。相手は幼稚園からの幼馴染だった。漫画みたいな幼馴染じゃないけれど、地元の友達で、幼稚園小学校中学校と一緒だったし、小学生のときにはよく一緒に公園とかで鬼ごっこやかくれんぼをした。中学に入ってからは、もともとお互いに漫画やアニメが好きで、本の貸し借りをしてライトノベル(時雨沢恵一の「アリソン」とか「涼宮ハルヒ」とか)というものを私が教えてもらったりもして、まだそういうオタ趣味が学校でおおっぴらにできない時代だったのもあって、よく話すようになった。それで、なんでか覚えてないけれど、気になりだして、気が付いたら好きになってた。中3の時にはがんばって同じく一緒に好きだったバンプのライブに誘って一緒に初ライブに行ったりもした。相手は異性の友達はどちらかといえば苦手そうにしていたけれど、その中でいちばん仲のいい異性になることができた。
中学を卒業したら高校が別になることはわかっていたから、とにかく気持ちを伝えたくて彼の受験が終わったタイミングで告白した。どうなるかも深く考えないまま、共通の友達にうまいこと呼び出してもらって、小さいころからよく遊んだ公園で気持ちを伝えた。ずいぶん長い沈黙があって、そのあとの断りのセリフは「ごめん、恋とか愛とかがよくわからない。人をうまく信頼できないんだ。増田がきらいとかじゃないんだけれど、そういうことがどうしてもできない」というものだった。彼は少し泣いていた。話そうか迷って、きちんと誠実に断るために探してくれた言葉だと、今ならわかる。その誠実さがすごく尊いもののように見えて、おおげさに言うならすごくきれいに思えて、区切りをつけるとかは吹き飛んで、余計に好きになってしまっていた。そのカミングアウトの内容そのものに惹かれてしまった部分もやはりあったと思う(今考えると業が深い……)。
「でも、そんな風に想ってくれる人がいると思うと、なんだかうれしい」という言葉が本心からのものか、それとも彼のやさしさだったのかは、いまだにわからない。
けれど、当時の私の思考回路はひどく短絡的で、「だったら、彼に信頼してもらえるようになればいいんだ」というものだった。そういうわけで、違う高校に進学したわけだけれど、中学時代のグループの集まりを定期的に企画したり、高校の部活や人間関係の悩みとかの相談に積極的に乗ったり、ガラケーでメールをぽちぽち打ったりした。今考えても涙ぐましいし、ムダに行動力がありすぎた。相手の性格を考えるとちょっとやりすぎな面もあったけれど、そんな重いエゴまで含めて本気の恋だった。彼のことを考えない日は嘘偽りなく一日だってなかった。それが空回りしている自覚もあったし、全然そういう目で見てくれている様子がないこともわかっていたけれど、思い続ければいつかは、なんて甘い幻想も同時に持っていた。
結局、高校3年の終わりに中学時代の地元グループで卒業旅行に行って(もちろん企画からすべて私が幹事をした)、そこでまた告白したけれど、まったく同じ断り方をされて撃沈した。今度こそもうダメだなって思って、おしまいにハグをしたらちょっとびっくりされたけれど、手を背中に回してポンポン、と叩きながら「ごめんね」と言ってくれた。 今にして思い出すと、これはすごく、彼にとってきつかったかもしれない。
大学は私が都会の大学に行ったので、地元のグループとも帰省したときくらいしか会わなくなった。大学では初めての恋人ができたり、他にも普通の大学生らしいことをいろいろ経験したし、様々な恋愛に関係する感情を味わった。彼のことはあきらめて気持ちを封印してはいたけれど、それでも常にずっと心の中では彼のことをいちばんのところに置いていた。このころになると、ずっと片思いをしているということが完璧に美化されていた。
そうして、アセクシャル(Aセクシャル)という言葉を初めて知ったのも大学時代だった。知った時、真っ先に彼のことを思い浮かべた。
大学を卒業して、Uターンで地元に帰ってきた。久しぶりに地元の特に仲のいい何人かと再び会うようになった。ある時、彼の親友的な人と話していたら「増田さん、中高のとき彼のこと好きだったでしょ」と真正面から指摘されて、封印していた気持ちが解けてしまった。4年間蓋をしていたものが、びっくりするくらいあふれてきた。その親友が「だんだんと結婚とかも皆考え始めるような歳になっているのに、そういう話題が彼にあまりにもないから増田さんをあてがってやろうかと思って」と言うのでこれに甘えて利用して、彼と遊んだりデートしたりした。お互いにいろいろ話すけれど、でもやっぱりこれまでと同じく恋愛的な意味での全然手ごたえは何もなかった。それと並行して。やはりAセクの件があったので、その親友に彼はAセクなのではないかと相談した。親友氏にも思うところはあったようで、何度かそれについて議論もした。
複数回デートらしきものをして、どちらにせよこの恋はだめだと思い知らされたので、結局過去と同じように自分の気持ちに区切りをつけるために告白をした。Aセクの件もあったから、一応相手の負担にならないようにというつもりで、その当時でできる限りの気遣いと自分の率直な気持ちとを文章化して手紙として渡した。後で読んでと言ったのに彼はその場できちんと読んでくれた。そして返事の代わりに、件の親友の名前を出して「こないだ、Aセクシャルっていうのを教えてもらって、自分でもいろいろ調べて読んでるうちに、読めば読むほど『そうだ、これだったんだ』とわかって涙が出てきた。他人を愛することができない自分は、どこか明らかにおかしい、欠けた人間だって思っていたから、すごく安心したんだ」と教えてくれた。
私にはそれを受け入れるしかなかったし、何よりも泣きそうな顔だけど解放されたみたいなすっきりした様子の彼を見てうれしかったのも事実だった。
私と親友氏とで「一応、Aセクであるとすぐに決めつけすぎないほうがいい」と伝えておいたものの、十中八九彼はそうなのだと思うし、少なくとも今現在彼の自覚はAセクということになっている。
ここからあとは、私一人の話。
私にとって、彼はまさに青春そのものだった。そう思い込んで美化してきたところや、一途な自分の片思いに酔っていたところ、そのエゴに時折死ぬほど自己嫌悪したところ、醜いとこや酸っぱいところも、些細なことでめちゃくちゃ幸せな瞬間も、ぜんぶぜんぶひっくるめて、いま大人になった私を作っている大切なものだ。詳しくは書かないけれど、彼を好きにならなければ私の人生はぜんぜんつまらない方に変わっていたはずだと思う。たとえ片思いでも、幸せだったし、幸せをくれたと思う。恋愛ってそういうところがあると、私は思う。
ただ、そんな恋愛を、彼はしない。そういう感覚を彼はおそらく持たない。今後一切、恋愛から何かを得ることはない。
このことを、私はどのように整理したらいいのだろうか。
恋愛はすばらしい。いろんなドラマや物語においても恋愛至上主義が圧倒的多数な世の中で、人々はそんなフィクションを見て、やはり恋愛はすばらしいものだと思う。誰しもが人に恋をして人を愛するのだと信じ込む。そう刷り込まれた?私の観念はとても硬い。
では、他人を愛さない人は、すばらしいものが欠けているのだろうか。人生のなにかしらを失っているのだろうか。彼はおかしいのだろうか。
断じて違うと、私は確信している。でも、それは私の中の固定観念と矛盾している気がする。
私にとって恋愛のない人生は、ずいぶんパサパサとした無味乾燥なもののように思えてしまう。彼がAセクである自覚を得た日以来、失恋による大きな胸の空洞がつらいし、今まできれいに思えたものがきれいに思えなかったりする(感覚がにぶっている感じがする)。彼を好きだったときの世界の見え方はとても色鮮やかだったのに。
気が付いたら私は25歳で、中学を卒業してから10年が経とうとしていて、10年前のあのころのキラキラした感覚がいろんな意味で信じられなくなってきている。恋愛でしか得られない感覚があると信じているくせに、彼のことがあって今の世の中における恋愛の絶対性について疑ってもいる。人間の幸せの形ってもっともっと多様だと思いたいのに、自分の経験がその価値観に異を唱えてくる。
こんなことを考えていると、結局彼と私とではとんでもない隔たりがあったのかなとか考えてしまって、今でも少し凹む。
自分の中でもいまだに結論がでていないせいで最後何を言いたかったかよくわからなくなってしまった。こんな深夜に書きなぐった読みづらい長文を読んでくださって、ありがとうございます。なんでもいいのでみなさんの意見を聞いてみたいです。ちなみに私がちょっとヤバいのは承知です。
メディアは媒介であり、情報発信者と受信者を媒介して伝える手段で、
ひそひそ話からマスメディア(新聞、テレビ、ラジオ、雑誌など)にまでその範囲は及ぶ。
伝言ゲームの喩え通り、その間媒介者たちによって情報の取捨選択が起こり、あるいは補足が行われ(尾ひれをつけるなど)
情報は当初のものから乖離、変容していくものである。これが大前提である。
その間の取捨選択、要するにふるいにかける作業や言葉をかみ砕く作業なども当然のように想定しなければならないし、現実もそうである。
これらの行為をマスコミュニケーション行為と呼ぶのであって、
この略語であるマスコミの当事者には、情報発信者から受信者まで全員含まれる。
このふるいにかけたり、かみ砕いた表現をとったり、外国語を翻訳したり、あるいは不要な修飾語を多用したり、
悪意ある場合には尾ひれをつけたり、推測や願望をこっそり忍ばせたりする行為を、どのように呼ぶかは自由である。
ある人は偏向というし、またある人は報道しない自由というし、さらに別の人は編集などと呼ぶかもしれない。
では、下ごしらえしていない食材と調味料を置かれ、お好きに料理してくださいと言われたらどうだろうか。
いやここでも、食材や調味料の選択の恣意性を排除できないという人もいるだろう。
では、森に連れて行って、お好きなものを収穫して、ご自由に料理してくださいと言われたどうだろうか。
いや、わたしは魚介類が食べたい、森へ連れてくるなど偏向していると主張する方もあらわれるかもしれない。
閑話休題、たとえば海外のニュースの恣意性を排除するにはどうすべきか。
また人間誰しも文章を書くときには修飾語や過度の強調表現をとりがちであることも論を俟たない。
修飾や強調によって表現が豊かになり、多くの文学作品が生まれたはずである。
今、仕事が終わって、雨上がりの駅のホームで帰りの電車を待っている
死んだ目をして、無表情で
私の現状は、安定した仕事もあるし、月一で出かける友人もいるので、傍から見ればまあ、悪くないだろう
ここまで来るのには、最小限の努力で来たように思う
いや、努力なんておこがましい
自分は、努力するのがとてつもなくかったるく思えて、目の前に選択肢が現れたときは、常に最小限の労力で済むものばかり選んできた
進学は、受験勉強したくないからと、自分の学力を見て、余裕を持って受かる学校を選んだ
就職も、特にしたい仕事とかなかったので、大量に採用してくれるところばかりにエントリーして、大学4年のゴールデンウィーク前には内定貰った
自分の学力に対して、偏差の低い学校に進学したので、試験も特に何もしなくても上位をとれた
かったるいから
部活も、運動部入って体力を消費する意味がわからなかったので、適当な文化部に所属した
適当な文化部で、適当に制作して、適当に大会に出て、適当な賞を貰った
なんにも嬉しくなかった
交友関係も、自分には、人付き合い自体がかったるいものだったので、自分からは特に何もせず、勝手に近寄ってくる人と会話して、適当に遊んだ
なんにも楽しくなかった
人間関係がこんなんだから、恋愛とかなんてしたことないし、駆け引き自体も面倒そうで、多分これからもしないと思う
人の気持ち考えるとか、かったるい
ようは、すべてのことに対して、こうしたいという目標も目的もなく、ただ単に惰性で進んできた
こうして惰性で流れ着いた日々は、特に失敗も成功もなく、無味乾燥で無表情なものだった
仕事は大した残業もないし、内容も思考停止でこなせるものなので、勝手に時間が過ぎて、勝手に一日が終わって、それが一ヶ月続けば、勝手に給与が振り込まれる
そのお金の中から、生活費捻出して、両親に仕送りして、余ったお金は趣味にでも回そうか
でも、趣味を開拓する努力もかったるいので、特に熱中するものもない
でも、買い物は好き
ああ、仕事での成功も、交友関係も、恋愛も、コンビニで買えるようなものだったらなって思う
それらには、興味がないわけでないが、それに対する努力をしようとすると、急に馬鹿馬鹿しくなるんで
この、クソみたいな読みづらい文章も、校正する努力もしたくないんだ
だから、このまま投下するね
失敗は、したくないんだ
けど、リスクは負いたくない