メディアは媒介であり、情報発信者と受信者を媒介して伝える手段で、
ひそひそ話からマスメディア(新聞、テレビ、ラジオ、雑誌など)にまでその範囲は及ぶ。
伝言ゲームの喩え通り、その間媒介者たちによって情報の取捨選択が起こり、あるいは補足が行われ(尾ひれをつけるなど)
情報は当初のものから乖離、変容していくものである。これが大前提である。
その間の取捨選択、要するにふるいにかける作業や言葉をかみ砕く作業なども当然のように想定しなければならないし、現実もそうである。
これらの行為をマスコミュニケーション行為と呼ぶのであって、
この略語であるマスコミの当事者には、情報発信者から受信者まで全員含まれる。
このふるいにかけたり、かみ砕いた表現をとったり、外国語を翻訳したり、あるいは不要な修飾語を多用したり、
悪意ある場合には尾ひれをつけたり、推測や願望をこっそり忍ばせたりする行為を、どのように呼ぶかは自由である。
ある人は偏向というし、またある人は報道しない自由というし、さらに別の人は編集などと呼ぶかもしれない。
では、下ごしらえしていない食材と調味料を置かれ、お好きに料理してくださいと言われたらどうだろうか。
いやここでも、食材や調味料の選択の恣意性を排除できないという人もいるだろう。
では、森に連れて行って、お好きなものを収穫して、ご自由に料理してくださいと言われたどうだろうか。
いや、わたしは魚介類が食べたい、森へ連れてくるなど偏向していると主張する方もあらわれるかもしれない。
閑話休題、たとえば海外のニュースの恣意性を排除するにはどうすべきか。
また人間誰しも文章を書くときには修飾語や過度の強調表現をとりがちであることも論を俟たない。
修飾や強調によって表現が豊かになり、多くの文学作品が生まれたはずである。