はてなキーワード: 恍惚とは
モラハラ気質の奴って妄想を膨らませてやってもいないことで怒るからなあ
「お前の入れた硬貨を釣り銭として受け取った人が偽装硬貨を疑ってパニックになって警察に通報したらどうしてくれるんだ!」とか「もし硬貨の大きさや重さが変わって法に触れでもしたらどうするんだ!!会社全部巻き込んで記者会見をすることになるぞ!新聞沙汰だ!全員実名報道だ!責任取れるのか!!」とかおおかたそんな会話があったんだろう
ジャンルは違うけどそんな風に「もし〇〇したらどうする!!」ってヒステリックに怒鳴られたことあるわ(耐えかねて退職したので今無職)
向こうは今頃「会社を倒産させかねないモンスタートラブルメーカーをぎりぎりのところで処分することができたオレ、有能すぎる……会社の守護神だ……危うく大量の自殺者を出すところだった……」って恍惚としてるよ
今妊娠8週でつわりが日に日に酷くなってきた。安定期入ってないし、男性が多い職場なのでまだ周囲には伝えてない。
つわりが酷くなるたび向かいの席のオッサンの言動がキモく感じられてきて、正直毎日出勤するたび気が狂いそうになっている。
オッサンは下請けで、うちの会社の人間じゃないので、直接喋ったことは一度もない。
向かいといってもオッサンの席は隣の島で、私の真ん前の席は今空席、隣の島の男性1人挟んで、こちら向きに座っているのがそのオッサン。
間に挟まっている男性はそこそこ背が高いので、その人が座っている限りはあまりオッサンは見えない。
だけどオッサンは時々立ち上がり、椅子を握ってアキレス腱伸ばしみたいな謎の体操を始めるので、顔とハゲ頭がちょくちょく見える。視界の隅でハゲが動くのは以前から気にはなっていたが、妊娠前はまだ許容できていた。
1番キツいのはオッサンがえずき混じりの咳をすること。ゴホッゴホッオエッ!みたいな感じ。
私は慌てて廊下出て他人に見えないように吐き気耐えてるのに、ゴホッゴホッオエッ!を繰り返すオッサンにもらいゲロしそうになって本当に辛い。
あと仕事中にハゲ防止っぽいマッサージするのやめろ。大きな音で鼻を噛むのもやめろ。お前の家じゃないから。なんならここ、お前の会社ですらないから。
間の男性が離席している間に、謎マッサージ中の恍惚としたオッサンの顔が見えてしまって、比喩でなくトイレで吐いてしまった。
多少のことはお互い様だから…と思っていたけど、今はオッサンが辛くて仕方ない。つわりのせいで、オッサンのキモさが吐き気という形に変換されて毎日自分に襲いかかってくる。
つわりで職場のオッサンがキツいって言ってる人あんまりいないから、自分がおかしいのかな……
・咳しない
・鼻炎じゃない
・貧乏ゆすりしない
・ため息しない
・独り言言わない
○ご飯
朝:ヨーグルト、バナナ。昼:なし。夜:おにぎり、味噌汁、唐揚げ。間食:ポテチ。
○調子
・はじめに
十数人の超高校級の才能を持った高校生たちが閉鎖空間に閉じ込められ、彼ら同士が殺人とその犯人を見抜く学級裁判を繰り返していくデスゲームものという骨子はそのままに、新しいストーリーが展開する。
魅力的がすぎるキャラクタ達、非常に残酷で救いの無い絶望的な展開、それらを丁々発止の議論で盛り上げていく。
今作はボリュームがあるのに加えて、かなり込み入った構成になっており、感想を書くのが非常に大変だった。
まずはキャラクタの魅力を語ってから、作品自体の感想を書こうと思う。
アクの強いキャラ達振り回されてきた歴代主人公の序盤の挙動とは違い、良い意味で最初から自分で物語を牽引していくタイプの主人公。
これが前向きで読んでいて楽しく、その積極さを応援したくなっていった。
他の面々に道を見出すシーンが多く、特に密接な関係となる超高校級の探偵最原終一との関係値がどんどんと変化していく様が好き。
しかし、この前向きさが、必ずしも正解とは限らないと批判されるエピソードが、幾つもあるのが今作の感想をまとめることの難しさの一つだ。
現実世界では何かを評するときに必ず良い面も悪い面もあるのが普通だが、フィクションとしての娯楽作品ではその辺はざっくりと抽象化してくれるものが多く、特に主人公の思想については過程はともかく、結論は肯定的に描くものが多い。
ここを多様的に肯定と批判が繰り返されるだけならまだしも、結論として肯定なのか否定なのかが明示されないのが本当にややこしくて、楽しくて、好きになった。
ダンガンロンパのテキスト主体の作品では初の女性主人公ということもあり、女性陣とは最初から距離感が近く、男性陣とは少し遠いのも、今までとの違いが楽しめた。
特に男性が嫌いな茶柱転子とは女性同士だからこその関係性を築くのが良きだった。
・王馬小吉がエグくて格好いい
彼の才能は超高校級の総督というよくわからないものだが、物語が進むにつれてその意味が否応なく理解できていく。
悪の秘密結社の総督を自称していて、最初から最後まで一貫して悪を貫いていて格好いい。
しかし、ここでいう悪がどのような意図の言葉なのかは、物語をそのまま書き下す以外ないぐらいに複雑で幾重もの意味を持っている。
彼の当番章は、僕がダンガンロンパシリーズでもし章単位の番付表を作るなら、一番に据えるかもしれない、それぐらい、好きで気に入ったキャラクタだ。
ただ、この好きを言語化するのが本当に難しい。
どこまでが本心で、どこまでが演技かも不明なシーンが多く、彼を好きなこの気持ちも、どの彼が好きなのかをはっきりできない。
ただ、正義や真実や希望といった、ダンガンロンパシリーズで「良い」とされてきた価値観と真っ向から対立する存在なのは間違いない。
それだけに、ある意味ダンガンロンパシリーズを包括して批判する評論家のような一歩引いたメタ的な立ち位置(物語の構造や超越的な設定の意味でメタフィクションと言っている訳では無い)なのが魅力的に写ったのかもしれない。
見た目は元気そうな少年なのも、悪なシーンとの対比が映えて好きなところ。
超高校級の才能であれば多少の無茶は飲み込める世界観だけに、超高校級の発明家というざっくりした才能はかなりの自由さだった。
一章からそうそうに発明家としての才能を発揮していく上に、自身の当番章ではまさに縦横無尽に活躍する。
そんな才能面での自由さ以上に、日常会話が成り立たないレベルの下ネタ好きっぷりに惹かれた。
女性同士という点を差し引いても、ドン引きレベルの下ネタが開幕から続く。
性的なネタを好み下品な言動ばかりで一貫して喋るキャラで、真面目な学級裁判での議論中でも容赦なく下ネタをぶっ込んでくる。
作中人物達からの人間性の評価、特に女性陣からのそれは散々で、めちゃくちゃ優秀な才能で活躍するにも関わらず、非常に嫌われている。
傍若無人な態度をとりながらも、相手に強気で来られるとマゾヒズムな感情を刺激されるのか恍惚の表情で命令を聞いてしまう辺りも、下ネタ好きキャラとして一貫した個性になっている。
性的に奔放で自由な様の娯楽的な面白さに、後付けで理由を付けてしまうのだけれど、ここまで自由だとある種の強い社会性からの解放すら感じられて、見ていて飽きない楽しいキャラだった。
あまりテーマとは関係のないコメディキャラだが、まさにそのコメディ部分が楽しめたし、清涼剤的な役割だった、性欲剤でなく。
・「嘘」
そんなわけで、必ずしも肯定だけで終わらない主人公の赤松楓と、どこまでが本心かがわからない王馬小吉の二人が好きだという感想を書いた。
これはゲームシステム的にも表現されていて、恒例のノンストップ議論で相手の発言を、証拠や証言で打ち抜く際に偽証をすることができる。
要するに議論を進めるためなら、それが真実でなくても良いというスタンスだ。
物語としても終始この「嘘」について取り上げられ、実際に起きた事件の議論という枠組みに収まらず、ある意味では倫理観、ある意味では普遍的な、様々な問いを議論していく。
非常に複雑な構造になっており、作中から得られる情報では絶対に真実には辿り着けない。
その上で、物語での言葉を借りると、誰を信じるのかを決めることが重要なのだろう。
主人公である赤松楓や、ある意味で名敵役である王馬小吉と言ったすごく主軸となるキャラクタですらその本心と、それに対する評価が多様なことが、まさにニューダンガンロンパV3全体の感想にそのまま繋がる。
このゲームが楽しかったのか、好きなのか、つまらなかったのか、嫌いなのか、自分の中で多様な意見が結論が出ないままにそのまま残っている。
別に物語として尻切れトンボなわけではなく、まさにこれが狙ったことなのだろう。
明確な結論を出さず保留し、ずっと考え続ける。
そういう結論がないことこそが結論の作品だったと、こうして感想を四苦八苦しながら書いて感じた。
・おわりに
こうやってゲームの感想を書くようになって以来、楽しむと自然と感想も書けるものだと思っていたのだけど、今作はかなりこのアウトプットに時間がかかった。
とにかく複雑で入り組んだ構成をしているゲームで、端的に何かを語ることが難しかった。
かと言って考えさせられる系の現実としての生き方に尾を引くお話なわけでもなく、あくまでフィクションとしての娯楽作品であることは貫かれている。
このゲームが好きなのか嫌いなのかすらもよくわからない、自分の中で整理が付きにくい。
この独特の読後感が唯一無二なのは間違いなく、アドベンチャーゲームというジャンルを飛び出して、ダンガンロンパはダンガンロンパなんだとトートロジーでしか評せない癖の強いゲームだった。
私の彼は短小×ふにゃチンだ。
しゃぶってもふにゃふにゃで、しゃぶっていてこれで入るんだろうか。。中折れしないだろうか。。と心配になるくらいにふにゃふにゃだ。
サイズ感と柔らかさは例えるとしたら何だろうか。。と考えていたら、そうだ、これはカニカマだ。カニカマを口に含んでいる感覚に似ていることに気づいた。
挿入する直前に「ちょっと待って・・」と、いつも膝をついた姿勢で一人高速でシコリ出す。
「乳首触って・・」と言われるので、仰向けの私の股の間に、膝をついた姿勢でしこっている彼に向かって、手を伸ばし乳首をいじる。
この姿勢が体がそこまで柔らかくない私には厳しく、腹筋をプルプル震えさせながら彼の乳首をいじってあげる。それでもチラッと目を下に運ぶとふにゃチンは依然ふにゃふにゃのままだ。
これが5分ほど続き、私の腹筋がそろそろ限界に達しそうなところで、彼のティンコはほんの少し固さを帯び挿入に至る。
固いと言ってもアメリカンドッグの中のぼそぼそしたソーセージくらいだ。
ほー、これで挿入できるんだ、と感心するが、そんなことはもちろん口に出せないので、気持ちいいふりをして「んん・・あっ、あぁ~」と喘ぐ。
でも自分でも不思議なのだが、そんな短小・ふにゃチンでも気持ちがよいのだ。
気持ちがよいというか、満足感が非常に強い。
挿入した時、彼は目を細め眉間にしわを寄せ恍惚な表情をするのだが、その後一変し、目力が強くなりオスとして自信に満ち溢れた表情をして腰を突き上げてくる。な、なんてイケメンなんだ。
そんなふにゃチンでよく自信を持てるものだな・・本音では感じつつ、自己肯定感というのは人間を形成する上で重要なんだと彼とセックスをしていて思う。
ピストン運動をしているときも、「増田好きだ!」「増田めっちゃ可愛い!」「増田愛してる!」と毎回同じフレーズを言ってくれるのだが、これも地味にうれしい。
先日の全力!脱力タイムズで、銀シャリの橋本が、相方鰻のボケに「俺は好きやで」ツッコミ皆和んでいたが、これとちょっと似ていると思う。
心を許している人からの「好きだ」という言葉は最強クラスの受け入れ表明だと思う。
私も感謝を込めて、このイケメンのティンコがもっと大きくなれ~、もっと固くなれ~~!と私も私で祈祷するかのように一緒に腰を振る。
彼の快感がピークに近づき、突き上げも強度を増してくると、私の脳内も霞がかかった感じになり、どんどん下半身が足の方向に沈んでいき、ふにゃチンと一緒になろうと自分から膣の奥へ奥へ入れようとする感覚にとろけそうになる。
そして、彼が昇天し、温かい何かを膣内に放出されるのを感じると同時に、先ほどまで自信に満ち溢れたイケメン男子がどこかいなくなり、優しそうで憎めないあほ面がいつも以上にブサイクになって戻ってくる。
けどそれもそれでいいな、と思う。またセックスすればイケメンに会えるわけだし。
てなわけで、今回ふにゃチンの不満を書き連ねようと思って書き出したのだが、ふにゃチンとのセックスに満足している内容になってしまった。
あまりにふにゃチンで、デカチン×硬マラだったらなあ・・と妄想にふけってみたり、バイアグラを提案することもたまによぎるのだが、関係性がこじれるのは怖いので実際に行動に移すのはやめようと思う。
ずいぶん昔話だけど。
就職で上京して初のやっと初の一人暮らしした俺が、とにかくやってみたいことはデリヘルの中でもニューハーフデリヘルを呼ぶことだった。
思い返せばきっかけは、大学2年の頃にできた彼女にアナル開発され、その魅力にハマった俺は別れてからできた彼女では物足りず、自分自身でのアナニーに手を出したことだった。
さらに、有名M性感(新大阪秘密倶楽部)ではがっつりアナルを攻めてもらえると聞きつけ、大学卒業前に4回ほど通った。そこでははじめてアナルバイブやペニバンを味わうことになる。
同時並行でハマったのがニューハーフAVである。特に「あやか」という今は引退してしまっているが当時は出まくってきたAV嬢にどハマりする。
ニューハーフAVを見てると思うことはひとつである。このホンモノチンポを入れられてみたい、である。そして検索する限り、あやかは東京のニューハーフデリで働いており、2万円程度で家でセックスできるのだ。
こうして上京した俺は満を辞して(実際にはチンが座して)あやかを呼ぶことになる。
あの本物のあやかが自分の部屋にいる、それだけでも大興奮なのに一緒に風呂に入った時にはもう我慢できず、あやかのチンポにしゃぶりついてしまった。
ニューハーフ初体験でホンモノチンボ初体験の22歳の処女アナルである旨を伝えると、そもそもニューハーフ風俗は若い客が少ないらしく、あやかも心なしか一気に勃起していたように思う。
ベッドに移ってからは早かった。
思う存分しゃぶらせてもらったあとは、気がつくと四つん這いにされ、アナルにバイブをつっこまれた状態で口にあやかのチンポをイマラチオさせられていた。この時の興奮は今でも忘れない。
その後体位を正常位(もちろん俺が下)に変え、ついにあやかのチンポ挿入となった。アナル開発済みだし直前までバイブ突っ込まれてたし、そこまで苦労なく挿入されたが、憧れのホンモノチンポ、それもあのあやかのチンポが入ってくる感触はたまらなかった。ついに初アナルセックスである。
徐々に激しさを増していくピストンに喘ぎ声が止まらず、おもわずぎゅっとしてもらいディープキスされながら突かれつづけた。
感動的なセックスだったなと余韻に浸ろうとしていると、射精したばかりの俺のチンポをあやかがしゃぶり始めた。お掃除フェラなんてありがたいなと思っていたのも束の間、一気にバキュームされていく。射精したばかりだというのに、あまりの激しさにまた勃起しはじめた。
再び勃起した俺のたちんぼをあやかが掴むと、一気にコンドームを着けローションを塗りたくった。そして今度は、僕の上にまたがりあやかのアナルへと挿入したのだ。
僕の上で激しく腰を動かし、2回目はあやかのアナルで果てることとなった。
あやかは3回くらい呼んだし、自分用のディルドとか買うようになったし、ニューハーフヘルス、M性感色々いくし、ドライオーガズムできるようになったし、ニューハーフだけでなく普通に男性ともセックスするようになった。
今は既婚だが、未だに男に抱かれている。
みんなも未知の扉開いてみよう。
映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれた世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画『BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。
公式サイト: https://bluegiant-movie.jp/
予告編(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk
今年の二月から上映している本作は、同名の漫画を原作としたアニメーション映画だ。音楽と人間の物語を楽しみながら、ジャズ界の独自の価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。
主人公の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷の仙台を飛び出し、単身上京する。東京で出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校の同級生で素人のドラマー・玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。
原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成が採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽とアニメーションのコラボレーションの最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境の存在が大きく、Netflixの支配力が高まる現代において、専用施設の役割や可能性を示すことにもなっていた。
今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標が物語の性質に与えた影響について考えていきたい。
映画『BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽の関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味を見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。
演奏者である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身と真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身と対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。
ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽が空気を振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在を再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽や精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語と音楽と映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶるからだろう。
ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽の演奏が聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるもの」であることを実感するが、この映画ではアニメーションの技術やアイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。
また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後のライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blueの舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。
本作はジャズライブの世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーションや人間関係のあり方についても、ジャズ・プレイヤーたちの世界や文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。
ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身の活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズはロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラな状態が肯定され、自助を基調としたコミュニティ文化が成立している。
例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身の問題だから、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮を無用なものとして切り捨てる態度を取っている。
しかし、自分自身の問題であることと、周囲がその解決をサポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ、人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身の問題でしかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。
ところが、ジャズ・プレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれてしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係やコミュニケーションの方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまり「ジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。
「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョなワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズの性質を、人間関係のアプローチに転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。
この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助の圧力が高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身の問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。
この作品にはもう一つ、物語の性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。
大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一のジャズクラブ・So Blueのステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。
ジャズマンにとってのSo Blueは、野球の甲子園やラグビーの花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園や花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから「権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。
JASSはSo Blueの支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイが否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者が凡庸な人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である。
また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分が評価していないギタリストと共演しても、相手が一定のプレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分のソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界の人間もたくさん集まる。駄目バンドの烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威が肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。
若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズ・プレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。
映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画『BLUE GIANT』は、ジャズの美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの(自助を前提とした人間関係やコミュニケーション、権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。
それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助を強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽だけが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。
たとえば、夜中にひとりラジオ番組を聴いていた時なんかの、あたかも「番組と自分」だけのクローズドな世界のような幸せな時間。どんなに感動しても、翌朝きのうの新聞のラジオ欄で時刻を頼りに番組名を調べることくらいしかできない、何ならパーソナリティがどんな人かも分からない。けれど、そうした断片的な情報しかないことに独特のミステリアスさがあったように思う。
たとえば、発売日にワクワクしながら買った漫画雑誌を毎日隅々まで読み返しては恍惚に浸るような時間。事前知識ゼロのまっさらな状態で読み込み、特に誰とも感想を共有することなく、ただひたすらに自分だけの中で好きな作品をゆっくりと「消化」していたような感覚。
多分に10代補正が効いていただろうことは想像できるけど、ネットやSNSが当たり前の今の10代も、かつて自分が感じたようなワクワク感をまた違った形で体験してるんだろうか。してるんだろうな、きっと。どんな感じなのだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20230116223207
婚活地獄を経て結婚した女だよ。おつかれさまこんかつこわいねえおとこはたいへんだねえ以下×100
……と言いたいところだけど、せめてリング上の参加者をネタにするならリングに上がってから言えや。
マナーは良くないけど目的が明確で真面目に結婚しようと場に参加してるぶん、増田が鑑賞者感覚で面白おかしくこき下ろす妖怪呼ばわりの女性のほうが遥かにマシだよ。
「絶望」だぁ?、初めから全女性に何一つ望むものも一緒に何かを共有したいとも結婚したいとすら思ってないから絶望しようがないだろ。
全ての婚活女性を(自分を棚上げして)小馬鹿にして人間扱いしてない、ボクちんに降りかかる災害枠としてしか認識していない。
当たり外れの問題ですらない。その「妖怪」さんのことを不快にすら思っていない(美味しいネタゲットwwwww)としか思ってないのがまずい。
ていうか今どき本田透フォロワー?文体から何から随所から影響が見て取れるけど。
「はじめから結婚する気なんか無いけどネットで褒められるおいちいネタが欲しくて、周りに流されたという体で冷やかしで婚活現場に【潜入】しちゃう迷惑馬鹿」すぎて思わずトラウマが蘇っちゃったよ!!!!
平均年収から前後するくらいの給料で真面目に働いてる女性から見れば婚活の活動費も負担だし年齢制限も重くのしかかるからそれぞれ必死で婚活するけど、
そこそこ高年収で中年独身貴族こじらせてるオタク婚活男にはそれなりの割合で、勝手にネタ婚活女とのエンカウントイベントが用意される暇つぶしや話題作りの安価なサブスクの一つといった感覚で利用して断る前提の興味本位でマッチングする奴がいる。
というか現にそのように明言した馬鹿もいる。「自分は婚活女性を観察するのが趣味なんでw」とな。
モテない男特有の振られた際の予防線なのか本心なのかその両方なんだろうけど、マジで邪悪で迷惑だからやめてくれ。
当たり前だけど間違って「大当たりの善良な女性」が来たとしても、真面目に結婚したい人が相手を「婚活男オレの災難トークのネタ」としか考えてない迷惑厄介を選ぶはずがないからな。
そもそも女嫌い寄りの興味なし歴42年すぎて、何をもって良さそうな女か、何をもってダメな女かの設定すらしてないだろ。
「どんな女性とどんな結婚生活をするか」の目標を具体的に考えないからエントリー以前に論外なのに、「エントリーしたら地獄だったよぉ。。」もクソもない。
かといって「結婚しないを選択した人生」も信念をもってまともに想像してシュミレートしてるわけでもない。ようは親も含めた他者とまともに関わることができないままの自己愛しかない怠惰なガキ。
本当にオタク趣味で気が合いそうだからと申し込み・申し込まれた婚活男性と会って見れば、
元増田のような視線を合わせず何も言わないでも口元は終始ニヤニヤで無礼。
こちらに興味関心もなさそうで一向に話しかけてこないので強烈な地雷臭を感じて頭を抱えながらも「なぜ自分に申し込んでくれたんですか」or「なぜお見合いの申し入れを受けてくれたんですか」と聞けば(この質問をせざるを得ない状況の時点で90%以上アウト)
急に顔がキラッと得意げに輝いて本日一番の笑顔と声量で鼻息荒く
「親にッ!!結婚相談所員にッ!!!言われたからッ!!!僕の意思ではないけどッ!!受けましたッ!!!(ブスに面と向かってブスと言ってやったぞ的な男としての歪んだ達成感に酔いしれる恍惚とした笑顔)」
と本当に答える馬鹿男続出で婚活がトラウマで嫌になっちゃったのはこっちだと言いたいわ。
こっちだって最初からお前に惚れてノコノコ出向いたんじゃねえっつうの。プロフィールだけで全て決めつけるのはよくないからお互いの人間性のすり合わせのために来たってのに隙あらば先手を取って全力の「ボク流されて嫌々きてるんですよおおおおおドヤッ俺は言ってやったぞ!俺のプライドは折れてないッ」アピール。
どんだけミソジニーと有害な男らしさプライドこじらせてんだよ。
禅定をはじめとした瞑想でのいわゆる成功と言われる状態は意識の上に上がる事で、瞑想の種類によって「成功」状態の脳の活動はやや変わる
マインドフルネス瞑想=気付きの瞑想=随息観では外からの五感への刺激・感覚・想起される感情・思考・意識について細やかに気付く
この時眠気は無く非常に集中した状態になり、秒間30以上の自分の感覚に対する「気付き」を得る。脳波を測定するとフラットになり非常にリラックスした状態を維持している。
この瞑想を繰り返すことで集中力と知恵(知識ではなく無知無明が晴れた状態・感情や思考のバイアスがかかっていない外界と体への認知)を得、
貪欲・怒り・無明といったエゴから徐々に離れられ、最終的には第一の悟りに達する
第一の悟りは、有身見(自分は存在するという妄想)が消えることが一番大きい。
瞑想には種類が多く、他にも慈悲の瞑想(他者の幸せを願う)・ヨガ(宇宙と一体化し恍惚を得るヒンドゥー教を起源とした瞑想)・禅・死随観(死に至り死んだ後の体が腐っていくのを想像する)・マントラ瞑想(集中力を得る・宇宙と一体化する)
など色々あるがマインドフル瞑想が一番王道とされる。マインドフルネスは座って行う瞑想だけでなくゆっくりと歩いて全身の感覚を観察するバリエーションもある
昔々のゲーム、メタルスレイダーグローリーというファミコンのゲームで、女の子の顔をビンタするシーンがある。
幼少の頃Wiiのバーチャルコンソールでプレイしたのだが、そのせいで性癖が歪み、女の子をビンタすると感じるようになった。(性癖の誤用はわかってて書いてるのでスルー願いたい)
幸いなことにビンタで感じる女性が世の中にはいるので、マッチングサイトやアプリを介して何人か会った。
ただ相手女性にもいろんな性癖があり、顔や体を叩かれること以外は拒否する女性や、優しくされるのは嫌な女性、時々は優しくされないとダメな女性など、こんなところで多様性を感じた。
だが、まるでジョジョ4部の吉良吉影のように、ワナワナと叩きたくなる衝動に駆られる。
とりあえず尻などで様子を見ていて反応はあるが、こちらに合わせてくれているだけなのか、よく分からない。
そもそもマッチングサイトでは性癖によってすり合わせをしているため、探り合いなどは無用だった。
もし顔を叩いて逃げられでもしたら終わりだ。DVにでもなるのだろうか。
だがやはり人間の本性は隠せない。いずれ私はビンタするだろう。
あああんなゲームするのではなかった。いや、あのゲームはきっかけに過ぎず、元々私にはそのような性癖があったのだろう。
ビンタした後の泣きそうな顔、なぜ殴るの?という怒りと、恥じらいが混じった表情。恍惚感。赤く染まる頬。こちらに完全なる支配権があり、優越感に浸るあの時間。
そのような関係を私は求めてしまう。好きだからこそ支配したい。
そんな感情を共有してくれる女性を探さざるを得ないのだ。もう、諦めよう。幸い私の稼ぎはそれなりにあるので私が相手より格下になることはない。いずれは相性の良いパートナーに出会えるだろう。そう信じて生きている。
トラバするとまたトラバ元消しちゃいそうだなこの増田はと思ったから今回はしないけど。ったくしょーがーねーなーコンチクショー。
それなりに手間暇かけて調べて、時間かけて書いてるのさ、これでも。
だから俺的には、今回いくつか記事を書いたことで、記事に対するそれぞれのリアクションだけでなく、記事には書かなかった細かいことも含めて得たものがたくさんあるし、不謹慎かもしれないけどそれなりに有意義な時間を過ごした。
でも、きみは何を得てるんかね。
人の怒らせ方とか?
いい感じの尻尾の切り方とか?
で、俺を嫌ってるのはなんとなく分かるけど、結局のところ、きみは何を支持してるんかね。
元増田の言っていること?
元増田を擁護した増田の言っていること?(記事消えちゃったけど)
それとも、とくに何も考えてないけどとりあえずこいつに噛みついといたらしばらく暇潰せそうだな、みたいな?
なんにしても、不毛だねえ。
最後のトラバも何回か繰り返し読んでみたけど、もうね、全くもって何を言ってるのかさっぱり分からん。
きみのこれまでの文脈から推察しようにも、俺の記事にかかわる過去のきみの発言と思しき記事は全部消されてるし、魚拓探すのも面倒だし。
また増田で知らないうちにトラバトる(トラバしあってバトること)こともあるかもしれんけど、そんときはよろしくな。
おわり。
太田光は1980年代の文化相対主義的ポジションにいるように見えるので、「統一教会や安倍晋三を擁護しているように見える発言」はなんの役に立たないのではないかという話。
80年代には、「熱く語る」ことから一歩引いて、生暖かく・外から見る文化があった(みたい)
60年代の「政治の季節」から70年代の「シラケ」を経て80年代、経済的な余裕(おいしい生活)を背景に
「政治はうまくいかなかったけど、そこそこ今楽しいよね。60-70年代はなんだったんだろう、ちょっと恥ずいね」という見方だったり
サイードの「オリエンタリズム」に影響された文化相対主義だったり
岸田秀の「唯幻論」だったり
もともと反省をもとにしてるんだけど、次の世代は反省無くして相対主義をかっこいいと思う
※というのは俺のことで、まぁ勝手に太田光を俺の同類にしてしまって申し訳ないw
みんなで真面目に統一教会を責めてるけど、その熱い見方ってなんか抜けてない?
真面目な信者もいるんだぜ?どうするの?
間違っちゃいないけど、多分80年代の文化相対主義がなにも生み出さなかったのと同じように
この「言説w」もなにも生み出さないと思う
以外と統一教会批判者は、現実的な献金問題や民事裁判での違法性を根拠に議論・立案している。デーブスペクターとか
話が飛ぶけど、ネトウヨと変わらないんだよな、この思考のベクトルって
極端に言うと、敵を作ってメタ的に上から目線で指摘(馬鹿)にすることが目的だから、あまり具体的な意見がでてこない
・みんなでバカのひとつ覚えみたいに統一教会批判してるけどいいの、それ?俺が指摘しなきゃ(恍惚)
・左翼って馬鹿だよね、昔は左巻きって沢山いたんでしょ。日本のために俺の出番だぜ(よだれ)
まぁ俺も、そうたいちゅぎー!(失禁)てな感じの増田なんだけど