はてなキーワード: 大陸とは
飛鳥に29、40、41代天皇の墓があって大阪、奈良に16代天皇家族の墓があるのは変だなと思って経済史的に考えてみた。
4世紀、帯方郡と卑弥呼が滅び、渡来人が辰砂利用技術を持ってきて、初代天皇が立つ。天照・卑弥呼から曾孫の代は出雲にも進出。
5世紀、貿易で成功した15〜16代天皇は大阪と奈良盆地に進出して栄える。巨大古墳を作る。
6世紀、29代のとき任那が滅びて百済貿易が中心になる。渡来人が増えたので32代までに飛鳥京が開発される。それで銀山も開発されたが、場所は秘密。
7世紀、33代は遣隋使を送り、34代は遣唐使を送ってまた大陸貿易栄える。36代のとき百済が滅びて渡来人が増えたので38〜41代が奈良を再開発。飛鳥京は国内統一のための機関になり、統一後は廃止。
8世紀、渡来人がいるので43代に古事記(たぶん百済系)、44代に日本書紀(たぶん漢人系)ができる。45代が奈良大仏。47〜49代あたりに続日本紀ができる。50代(平家祖のひとり)が長岡京、平安京を開発。しばらくすると、インフレが酷くなりしばしばデノミをする。
平安時代は長いので飛ばして11世紀、唐と平家が滅びて道教の公家が衰退、仏教の武家が台頭。大陸も日本も諸国分立時代。
古墳の年代が正しいなら、天皇は4世紀からで、5世紀に大阪・奈良時代が始まり、任那滅亡のあとしばらく飛鳥京がある。飛鳥京の謎の石造物は任那系渡来人が来る前のものだろう。そもそも2世紀に福岡伊都国に千如寺が建ったときは天皇がいないだろうし、新羅系渡来人も鉱山開発をしてる。
天皇陵のある奈良や飛鳥や古墳作りがが廃れたのは、国内統一し終わって割の良い古墳作りを村人にさせる必要がなくなったとか、そのあたりの銀山が閉山したとか、任那や百済が滅びて古墳が流行らなくなったとか、産廃の利用方法を古墳作りの他に見つけたとか、唐辛子や香辛料が入ってきて、料理に忙しくなったとか。
初代天皇の父親の墓が鹿児島にあるとされているが、だったら隼人の反乱が起きるはずがないと思う。
だいたい古墳の主は仮託もできるし、もしかすれば戦争の死者が埋められてるかもしれないわけだ。律令制のあとは古墳がないんだろ。
ソース:https://www.animefeminist.com/history-not-with-a-bang-but-a-letter-violet-evergarden-rewrites-traditional-world-war-i-narratives/
暁佳奈のライトノベルを原作とする京都アニメーションの名作、ヴァイオレット・エヴァーガーデンがネットフリックスで公開されたとき、初見の私が想像していたのは、Foreignerのヒット曲さながら、愛というものを知ってみたい少女の無邪気な物語だった。まさか号泣することになるとは。
ものの数分でその予想は裏切られた。
この作品は涙なしには観られない戦争ドラマであり、スチームパンクな歴史改変モノだったのだ。しかし、何よりもトラウマにまつわる物語だとわかった。
PTSDの歴史、1900年代初頭の文学作品における定形表現、そして人気ジャンルである「戦争物語」を、本作は、少女兵士を主人公とした上で見つめ直している。第一次世界大戦の歴史、とりわけ女性の歴史を振り返り、再解釈することで、かつての物語に対してフェミニスト的なテーマを根底に据えた新たな息吹をもたらしているといえる。
戦争物語という切り口からヴァイオレット・エヴァーガーデンを解説している人は珍しくない。例えば「Mother’s Basement」というYoutubeチャンネルでは、人情味を持って共感を表現し、ヴァイオレットの成長を描ききったシナリオの妙について見事な考察動画がアップされている。だが、トラウマや障害を抱えた少女が自信を持って活躍できるようになっていく様子や、いかにPTSDがリアルに描かれているかという点については、あまり取り上げられてこなかったように思う。
この点を踏まえた上で、テルシス大陸における戦争のモデルとなった、第一次世界大戦の基本事項を整理するところから始めようと思う。ざっくりと言えば、この大戦は1914年から1918年の間に起こったもので、何がきっかけとなったかは諸説ある。開戦とともに急速に戦火が拡大したけれど、1914年の冬までには終結するだろうというのが大方の見方だった。
その目算が外れたのは言うまでもない。戦争は4年も長引き、フランス、ドイツ、イギリスを中心とした各軍のインフラは、塹壕戦と呼ばれる、この時期に流行した新しい兵器や戦法に対応するための装備が圧倒的に不足していた。
兵士の多くが若く経験不足だったこともあり、戦いは想像以上に過酷なものになっていった。戦争から帰還した兵士たちの間には、「新しい」病気が蔓延した。俗に「シェルショック」と呼ばれ、後に「PTSD」や「PTSS」 (心的外傷後ストレス障害、外傷後ストレス状態)として診断されることになる、「男性ヒステリー」という病だ。
「ヒステリー」とは、当時、性別役割分担に厳格だったヴィクトリア朝時代に用いられた医学用語で、今で言うところの鬱病、不安神経症、心的外傷後ストレスといった精神疾患全般を表すものだったが、適用対象はシス女性がほとんどだった。そのため、「ヒステリー」扱いされた兵士たちは周囲から男失格のレッテルを貼られ、つまはじきにされる結果となった。
兵士だけではない。第一次世界大戦に参加した国々とその植民地は、集団的なトラウマに苦しんでいた。とりわけ顕著なのはドイツで、戦争への参戦とその後の経済低迷の影響から、ナチスの台頭を許すほどだった。フランス、イギリス、ドイツのメディアでは、この大戦は未だ主要なテーマであるし、世界各国の兵士とその家族が残した手紙は今なお読むことができる。
この大戦が世界に与えた影響は計り知れず、文学や歴史、そして現代の戦争にも様々な影響を及ぼしている。だが、ここで重要になってくるのは、戦争にまつわる有名な物語や歴史で描かれるのは男性ばかりなのに対し、本作の主人公であるヴァイオレット・エヴァーガーデンは女性兵士ということだ。
男性ばかりなのは当然、当時の軍隊で中心的な役割を担うことができたのは男性だけだったからだ。例外としては、第一次世界大戦において戦闘に参加した唯一の女性イギリス兵、フローラ・サンデス(セルビア軍所属)や、マリア・ボチカリョーワという若い女性が隊長を務めた、「ロシア婦人決死隊」と呼ばれるロシア軍の小隊などが挙げられる。
だが、第一次世界大戦で軍隊に従事した女性の多くは、戦場で看護師として働くか、工場で働くなどが一般的だった。例えば、アメリカの「ヨーマネッツ」や「ハローガール」と呼ばれる女性たちは、銃こそ持たなかったが、電信技師やカモフラージュデザイナー、魚雷組立工など、幅広い仕事によって戦争を支えた。
軍に従事した女性たちにも多くの物語があったにもかかわらず、戦争物語のフィクション作品はほとんどが男性中心となっている。女性はもっぱら脇役として登場し、戦死した兵士を嘆き悲しんだり、恋人役だったり、あるいは…良からぬことをされる。言ってしまえば、男性キャラクターを成長させるための舞台装置であり、そのためだけに殺されてしまうことも少なくない。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンの世界においても、戦闘や戦争は男の仕事であり、女性はもっぱら「受動的」な役割に追いやられている。だが、ヴァイオレットは他とは異なり、女性であるだけでなく、兄ディートフリートから弟ギルバートへ「プレゼント」として押し付けられた「道具」という扱いであることから、注目すべき例外と言える。ヴァイオレットはモノ化されているのだ。殺人こそがヴァイオレットの生かされる理由であり、ギルバートの命令に従うことが唯一の生きる意味なのだ。
こうした虐待と、戦争でギルバートを失ったトラウマ、そして戦場で目にした暴力が相まって、ヴァイオレットは明確なPTSDを抱えることになる。作品を通して、ヴァイオレットは次のようなPTSD特有の症状をいくつも示している。
これらの症状は、娘を亡くして嘆き悲しんでいる作家、オスカーのために手紙を書いた後、はっきりと立ち現れてくる。戦いの中で自分がしてきたことを理解し始めたヴァイオレットは、戦場のフラッシュバックに苛まれ始める。
最終的に、ヴァイオレットはギルバートを探すために戦地を訪れる。ギルバートを見つけられなかったことで深い絶望に陥ったヴァイオレットは、自殺を試みる。退役軍人の自殺リスクは現在も高く、自殺者数は戦死者数を上回っている。
第一次世界大戦の歴史を描いた物語の多くがそうであるように、ヴァイオレットが抱えるテーマも、いかにして心的外傷後ストレスに立ち向かうかという点に重点が置かれている。このことは、作品の構成にも反映されている。
ストーリー序盤におけるヴァイオレットは、戦地での負傷から立ち直ろうとする、感情を失った少女だった。しかし、第7話でホッジンズが警告したように、ヴァイオレットの記憶は「(自身を)燃え上がらせる火」であり、いつか「たくさん火傷している事に気付く」ことになるものだった。そして、ヴァイオレットはそれに気づいてしまう。戦場で過ごした日々を思い出すたび、ヴァイオレットだけでなく、視聴者までもがフラッシュバックを体験することになる。
しかし、「女々しさ」とか「弱さ」といったPTSDに対する従来の見方とは異なり、ヴァイオレット・エヴァーガーデンはヴァイオレットのシェルショックを丁寧に扱っている。ヴァイオレットが自動手記人形の仕事を通して他人に共感してきたのと同じように、この作品は視聴者にもヴァイオレットへの共感を求めているのだ。
ギルバートの死を否定するのをやめ、自身のトラウマを受け止めたヴァイオレットには、PTSDから立ち直るための長く険しいプロセスが待ち構えていた。トラウマ研究では、これを「心的外傷後成長」と呼び、ネガティブなもの(停滞、衝動的な行動、否定)と、ポジティブなもの(前進、対処法の獲得など)の2種類に分けられる。
ヴァイオレット自身にとっても視聴者にとっても幸運なことに、ヴァイオレットの心的外傷後成長はおおむねポジティブなものだった。自動手記人形として人と一緒に働くうちに、自分の感情を受け入れ、なぜそのような気持ちになるのかを考えて納得できるようになったことで、ヴァイオレットは回復の道を歩み始める。
さて、本作のいわゆる「今週のお客様」エピソードの中には、「戦争で失った恋人を恋しがる女性たち」というお約束的展開をそっくりそのまま踏襲しているものがあるが(OVAがその好例)、一応付け加えると、この展開自体が本質的に悪であると言いたいわけではない。OVAでは、第一次世界大戦中に多くの女性が体験した出来事がリアルに描かれており、膨大な量の手紙が世界各地に送られたという点も史実に忠実となっている(手紙の多くは歴史的資料として残存している)。
しかし、ヴァイオレット自身は、作品を通して、そのような歴史的・文学的な流れに逆らっている。
ヴァイオレットは家に帰ってきたが、想い人は帰ってこなかった。
兵士は、新たな傷を負って帰ってきたのだ。
そして、ヴァイオレットはその生い立ち故に、想い人を亡くしたクライアントと、亡くなった想い人の両者に共感することができる、いわば、境界的な立ち位置の人物といえる。「民間人」と「軍人」、「女性の世界」と「男性の世界」、「家庭」と「軍隊」、そういった境界の中でこそ、ヴァイオレットは真に花開くことができるのだ。
ヴァイオレットの境界的な立場は、自動手記人形の仕事においてユニークな強みとなっている。作中の時代設定と同時期に当たるヴィクトリア朝時代や第一次世界大戦期は、タイピストやゴーストライターになる女性が急増した時期であり、ヴァイオレットも当時の女性たちと同じく、この波に乗っていると言える。
こうした女性たちは、「媒体としての女性」というお約束的表現として文学に登場するようになった。彼女らは、タイプライターや電信機、さらには速記法を用いて、人々の思いを目に見える形にし、様々なメッセージを伝えるという役割を担っていた。哲学者で文学理論研究者のマーサ・ヌスバウムの言葉を借りれば、「目的のために使われる道具」としてモノ化されることも多かったが、家父長制の世界を生きる多くの女性にとって、この種の仕事は、生まれてはじめて主体性を獲得できる場でもあった。
ヴァイオレットの当初の動機は、初めて手にした主体性を社会で活かそうとしたヴィクトリアン朝の女性たちとは若干異なっている。自動手記人形を志したのは、他者を理解したい、そして何よりも、少佐の最期の言葉を理解したいという目標を叶えるためだった。そして、人々の思考や感情の「媒体」としての立場を通じて、自分の感情をよく理解し、虐待やトラウマを乗り越え、主体性を獲得することができるようになっていく。
第一次世界大戦や、そこに至るまでの過程を題材とした文学作品によく見られる、「媒体としての女性」という定形表現とは異なり、ヴァイオレットが主体性を持つことができたのは、その境界的な立場ゆえである。戦争に巻き込まれる家庭の立場、戦争を戦う軍隊の立場、その両者に対して共感、理解できるという強力な武器を生かすことで、戦争をテーマにしたアリアの歌詞を書くために戦死した兵士の手紙を研究したり、嘆き悲しむ父親のために文字通りの意味で媒体となったり、兄弟の絆を取り戻す手助けをしたりと、ヴァイオレットは単に人の気持ちを左から右に渡す中継役ではなく、自らの手で変化をもたらす主体となっている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンと史実の違いは、これまでメディア等で描かれてきたタイピストや媒体役の職業人たちが受け身の存在と見なされてきた一方で、ヴァイオレットは周囲の人々の物語に積極的に関わっているという点にある。こうした活動を通じて人々の成長を助けていく中で、ヴァイオレット自身にも成長が見られるようになっていく。
第11話では、その成長がはっきりと見て取れる。過激派の部隊を立ち退け、銃弾に倒れ死に瀕している兵士、エイダンの最期の言葉を記録し、訃報の知らせと最期の言葉を家族の元へ届けに行くという、物悲しいエピソードだ。戦争の両側面への共感を要するこの仕事を全うしたことで、ヴァイオレットはようやく自分や他人に対して素直に悲しむことができるようになる。ギルベルト少佐の死をきちんと悼むことができるようになったのも、ここからである。
単なる道具でしかなかったヴァイオレットが、今や積極的に自らの心的外傷後成長を促進しようとしている。これは、従来の戦争物語や、シェルショックや女性タイピストにまつわる歴史に対する新鮮かつ現代的なアプローチといえるのではないだろうか。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは第一次世界大戦に大きく影響を受けており、史実によるものから、文学から引用されたものまで多岐にわたる。PTSDに対する思いやりあふれる描写然り、「媒体としての女性」という定形表現に対する批判然り、この作品は、歴史上の極めて重要な時代—最後の退役軍人が亡くなり、徐々に記憶から忘れ去られつつある時代—との対話の上に成り立っている。
だが、家庭内の物語と戦争の物語をブレンドし、両ジャンルに共通する定番の展開を巧みにひっくり返したという点で、ヴァイオレット・エヴァーガーデンのファンタジー世界は、オマージュ元の戦争物語と趣を異にしている。スチームパンクなファンタジー世界という舞台の上で、使い古された展開を別な角度から見つめ直すことで、進歩的な物語を紡ぎ出しているのだ。
退役軍人の描かれ方、精神疾患、女性の物語、こうした事柄を尊敬の念を込めて丁寧に扱うことで、戦争やトラウマにまつわる従来の物語をいかに語り直すか、その基準点をこの作品は確立したと言える。戦争やトラウマにまつわる物語も、より包括的で、健全で、私たちに活力を与えてくれる存在たりえるのだ。それが、従軍した兵士や亡くなられた方々に対する、せめてもの追悼でもある。
「戦争は決して変わらない」とよく言われる。だが、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが示してくれたように、その語り方を変えることができるのは確かだ。
ヤフコメの関連ニュースに「日本も核武装を」とか頓珍漢なこと書いてる人が散見されるのを昼間見てたんでなんとなくそれについて思うところを……。
その昼にもエントリ書いたんだけど、日本が核兵器禁止条約に批准しないのは「禁止条約批准国たちというくくりに入るほうがリスク」だと勝手に思ってる。あと、あの条約を締結することで保有国や他国軍を世論で牽制しあってる生ぬるい集団の中にわざわざ非戦国家が入って行くか? と言われれば、なんか違うよなあと感じるけどどうですかね。
ところで、再び日本に核攻撃が来るかと言われると「21世紀に入ってから今までの流れ考えると微妙」というのが自分の意見。日本列島というのは大陸から見ればまあ欲しい立地なのはわかる。ミサイルを持っている周辺国、中露韓(半島全体も考慮に入れる)は攻撃を仕掛ける理由は十二分に持っている。しかし、ここで列島に攻め入るのに核弾頭を東京にすぐ落とすかと言われると微妙で、あんまり現実的ではなさそう。単純に面積が必要とされているのではなくて「太平洋に面する使い勝手のよい港」とか実用的なものを求められているのではなかろうか。だとすると核攻撃なんてしたら、土地が使い物になるまでに待ち時間が必要なので、撃つ側も核攻撃を有効な選択肢の最上位に置いてはいないと考えてる。
日本にまた核が飛んでくるという可能性は「無」ではないが優先順位は低い、として、じゃあなんで争いの当事者でもないのに核廃絶のメッセージをずっと発信してんだっていうのは「現場に立ち会って唯一知っている立場なので知らせるのも唯一この国しかない」っていう単に責務としてだと思う。軽んじている訳ではなく、救われたり称えられるものでもなくても背負わないといけない使命なんだよね、という、なんか月並みな落としどころですんません。
都市経済の影響をあまり受けていない地域はそれに近い雰囲気がありますね。
とくに大都市圏に属さない地方都市圏は太平洋ないし太平洋ベルト沿い沿いの大都会、札幌・福岡とくらべて断崖絶壁ほどの格差があります。
とくに中国地方・九州地方とくらべると北関東や東海地方がマシに思えてしまうくらいです。
ふつうに考えればそうですね。
でもああいう袋小路や大陸と離れた島の地域はいろいろ投資してもロクな結果は出ないのです。
根本的解決策として、科学研究施設をたくさん建てるとか軍事基地を設けるなどの
必要だけども迷惑な施設を集積させるなどの方策がこういった地域にはもっともよいのです。
でも直線距離では経済的に豊かな大陸の国々にあまりに近すぎて危険な軍事施設や科学研究施設を日本地域に設けるなんてのは
かといってほったらかすと貧困からアウトローが人口からして異常な割合の高さで
つぎからつぎへと涌き出てきてしまいます。これははっきり言って新型コロナウイルスより厄介です。
「文明の光」をあててあげて「文化の香り」をかぐわせてあげるのが現実的なもっともよい方策です。
外国地域からきた人たちと日本に住んでいる人たちのあまりの風体の違いに私は驚いたものです。
日本に住んでいる人たちの連中がそろいにそろって成金や地方人を連想させるパリピや田舎者のようにダサいオタク
みたいなんですから。あれじゃ20年前の中国人とたいしてかわりません。
しかしオリンピックが開幕してからは日本人たちはいままでダサいJ-POPや醜悪の塊のヤンキーなサブカルチャーや気持ち悪いオタク文化を消費していたのをやめて
外国の文化を聞いたり見たりしてその文化の高さに愕然としつつ受け入れて、
オリンピックの開催現場に津波のように押し寄せてオリンピック観覧についての日本人の民度の低さで炎上してしまい、
またアスリートやオリンピック関係者が野蛮人どもの犯罪の犠牲になっていたことでしょう。
しかし観客が禁止されたおかげで品性下劣ながらも時間と金はあるテレビ視聴者とインターネット民などだけが
リアルタイムで競技を見ることになり、彼らが高い文化を持ちかえって
オリンピックをリアルタイムで見れないパリピやヤンキーやオタクたちは
彼らを通して間接的ながらも高い文化に感化されていっているのです。
東京オリンピックによって
日本国内のアウトローや背徳サイコパスの大量発生やそれに感化された悪い外国人が世界各地で増殖する原因が
ガンプラ買えないのは甘えって論調でたまに聞く「ガンプラブームもこうだった」って話。実際はぜんぜん違うぞ。おっちゃん現役だったんだわ。
今の不足って国内外の転売屋が買い占めているのが原因の半分。残りが供給元のバンダイの原料不足と海外販路への転換がもう半分だ。
40年前のガンプラブームではネット通販とか無いから実店舗のみ。もちろん海外にも売ってない。単に国内供給に対してとにかく欲しがっている人が多かったんだ。たぶんタイ米騒動時の国産米みたいな感じ。
もちろん子供だったおっちゃんには見えなかっただけで転売屋も居たかもしれないけど、メルカリとかヤフオクも無い時代だから販路が無いから今みたいに大量に買い占めもしてなかったと思う。
ただ転売を無くす方法は40年経っても変わらず『転売屋から買わない』に尽きるんだけど、こればっかは転売の販路が世界に広がった以上難しいかもしれない。大陸とかはそういうの気にしなさそうだし、そうなるとメーカーや実店舗とかも少しは施策を打たないと数年後の市場が無くなるとおっちゃんは思う。
ヤフオク、メルカリはそろそろ一定期間の定価以上出品を規制すべきだし、Amazonも宇宙から地球を見たんならマケプレの改善は取り組むべきだと思う。
名前が抹消されてあのクソダサ開会式が「小林賢太郎の代表作」って扱われなくて済んだだけでも解任された価値はある。
私みたいな痛い信者はあの開会式で唯一面白かった、どう見てもポツネンと小林賢太郎TVの焼き直しの「箱を並べ替えて模様→ドローンでロゴからの地球→ピクトグラム仮想大賞」は小林案だって判るからそこが褒められてりゃ溜飲も下がるってもんだし、責任者じゃなくなってるから、心底恥ずかしかった「なんか大工の格好した烏合の衆が木の上でうろうろしてるくだり」「北朝鮮を見習えと言いたくなる散漫で閑散とした実写版『はたらく細胞』のマスゲーム」「態度の悪い各国の体育会系がぞろぞろ歩いてくだけの1時間半」「ジャルジャルのコントみたいな白空間で各大陸のあんまり知らない人が令和3年にもなって『イマジン』歌ってメッセージ語った気になってるさむさむゾーン」「唐突な灰皿テキーラダンス」「松井に介護されるよぼよぼの長嶋茂雄だったもの」「なんか富士山が割れて階段出てきて、上の太陽だか月だかしらん玉が中途半端に割れるだけのクソ地味動きなしコンセプトなし聖火台」が公的には小林のせいにならないのは心底儲けもの。
友達とみんなで悪口言おうって集まって見始めたのに最終的に全員げんなりして私しか見てなかったからね。劇ピン含む狂言回しのテレビクルーは、本当ならもっとしっかりした縦軸があってそれに関わる予定だったんだろうね。岡山の県北のテーマ曲が流れたところしか盛り上がらなかった。
中国原作のソシャゲをやっていて、そこそこお金も突っ込んでいる。
そんなソシャゲで、担当声優が靖国参拝したことを理由に大陸版でボイス全削除と言う騒動が起きた。そしてまた別の声優が2020年に靖国に遊びに行っていた写真をSNSにアップしていたことが発掘されて騒動の種がまた巻かれた形となった。
個人的には保守的な志向である。靖国を参拝するのも、そこに祀られている先祖に手を合わすのも日本人に当然認められるべき権利だと考えている。
一方で靖国参拝で燃え上がる中国の気持ちも分からないでもない。例えば、原爆投下や大都市への大空襲を「早期終戦の為の正義の行為だった」と言われればカチンと来る。
「太平洋戦争はアジア解放のための正義の戦争だった」と言われれば、「原爆投下が正義だった」と言われれば自分がカチンと来るように、中国人にとってはカチンと来るのは容易に想像できる。その観点からは、炎上するのも、声優降板騒ぎとなるのも仕方ないとは思う。
しかし中国人の視点に立ってセンシティブな問題に安易に触れられたくないと言うのも理解できる。
勿論、靖国参拝については、譲歩に譲歩を重ねてきた歴代政治家と、それを良いことに歴史問題カード化して来た中国側と言う構図がある以上、もっと複雑で、それは自分のような低学歴に扱える問題ではないことは分かっている。
例えば、国産のソシャゲで、主題歌を原爆投下を揶揄したTシャツを着たことで日本の保守層から突き上げを食らった韓国のグループが担当したらどうだろうか。
当然ある程度以上の層の離反を受けて売上にも影響が出るだろう。
該当のゲームは中国での売上が、日本国内での売上の倍以上にも達する。売上規模を見ても企業としてどちらを重視すべきかは言うまでもない。歴史問題と言う敏感な問題に拡大しなくても、ボイス削除と言う判断が極めて現実的な利益追求にも繋がることも理解できる。
中国人の心情も、企業の当たり前のリスク管理としても、事情は理解はできる。
しかし感情としては、靖国参拝は日本人の信仰の問題で、歴史問題として外圧として利用される筋合いはないと思う。
一応、両方の顔を立てる手段がない訳ではない。ある中国原作のゲームでは、原爆に関連したキャラクターが、日本版ではぼかされ、関連するゲーム内グッズも削除されている。開発は違えど、日本版の運営は同じ会社だ。同じような対応は可能だろう。
日本人が過度な自虐史観から抜けてきたこと、現在の中国の脅威に対する反応として、保守的で強い日本の幻想にすがる人間は増えてくると思う。今後も同じような問題は次々と起こると思う。
あるいは時間をかけていけば、馴染んでいく問題かも知れないが、何十年もかけて両国の政治家がこじらせてきた問題だけに、解決もまた何十年も掛かることだろう。少なくとももう中年を超えた自分が生きている間には、きれいな解決は望めない。
考えれば考える程憂鬱になる。しかし思考を停止してどちらか一方だけの主張だけを聞けばいい問題ではない。だから考え続けている。
あるいは、もっと聡明な人間であれば、双方の感情と事情を鑑みて、きれいな落とし所を提案できるのだろうか。自分にはできないがあるいは誰かなら。
永浦 百音「はい。」
今 私たちの頭の上で起きている気象現象は数日前 南の海や 北の大陸で起きた現象に必ず起因しますから。
つまり 気象においては 危険を予測して回避する時間が得られる。
私たちが全力を尽くして提供するのは大切なものを守る時間です。
あと・・・。
ああ・・・ いや。
何もできなかったと思っているのはあなただけでは ありません。
自分は 何もできなかったという思いを多少なりとも 抱えています。
でも何もできなかったと思う人は次は きっと 何かできるようになりたいと強く思うでしょ?
フランス人のサッカー選手がフランス語で日本人/アジア人を差別する発言をしたことに関して、フランス在住の日本人作家が「これは差別発言ではない」と擁護していた。これを擁護した理由は、彼が「仮想的(ヴァーチャル)フランス人」になりきっているからだろう。
昔から日本では「仮想的(ヴァーチャル)外国人」になりきって「日本/日本人はダメだ。ただし『ヴァーチャル外国人』である自分は例外とする」というスタイルで、自分たちが棄てた日本や日本人を腐すビジネスを行う人間がいる。例えば、外国人と結婚してパートナーの出身国に移住し、日本人向けに「ダメな日本人とは異なり、X国人はこんな素敵な生活を送っている」的な日本語書籍を出して小銭を稼ぐタイプの人間である。
万葉集には、桜を詠んだ歌よりも梅を詠んだ歌の方が多い。それは、梅を愛でることが、当時の先進国であった中国大陸の文化だったからである。実は、昔から日本人は舶来信仰が強いのである。それでも万葉人たちは、大陸文化に憧れる一方で、日本列島に生きる自分たち自身の文化を、自らの手で作り出そうとする気概も持ち合わせていた。しかし、現代の仮想的(ヴァーチャル)外国人は、そうではない。日本のダメな部分を何とかするべき当事者としての責任を持つことや、日本を改善する為の具体的な営為に携わる泥臭い努力を、彼らは好まない。それよりも「ダメな日本/日本人のことを罵ったり嘲笑する」ことの方を好む。言うまでもなく、その方がラクだからである。
仮想的(ヴァーチャル)外国人としての思考の持ち主は「日本死ね!」が流行語大賞に選出されれば快哉を叫ぶし、外国人による日本人差別発言に関しては「これは差別発言ではない」と擁護したりする。こんな彼らの根底に有るものは何かと言えば、仮想的(ヴァーチャル)外国人としてのショーヴィニズムと、それに加えて、没落国/発展途上国の人間が相手ならば何をしても/言っても許されるという強烈な差別意識である。私は、このような仮想的(ヴァーチャル)外国人としてのショーヴィニズムを“盲目的愛異国心”と心密かに呼んでいる。
最近よく「もう日本は没落し始めた国なのだから、その国民である日本人も何かを言う資格は無い」的なことを言う人間を、はてなブックマークでも見かけるが、こういう人間も仮想的(ヴァーチャル)外国人の一つの例と言えるだろう。これも「日本がダメになったのは自分以外の日本人の責任である」という考え方である。
さて、人間は大なり小なり、他者を差別する欲求を持つ。とはいえ少し知恵が身に付くと、己の差別意識をそのまま表明することは、社会的に良ろしくない振る舞いであると(よほどの愚か者ではない限りは)学習する。その時、真っ当な人間たちは、差別をしない方向に努め始めるが、他方では、何とか理屈を付けて合法的(?)に差別欲求を満たしたいという明後日の方向に努力する人間も現れる。そんな彼らが編み出したのが、仮想的(ヴァーチャル)外国人になりきって、日本/日本人を馬鹿にすることで、己の差別欲求を満たす手法というわけである。「日本や日本人を罵ったり嘲笑することは、差別ではない。何故ならば、言っている自分も日本人だから」という理屈である。
「これは嘲笑や罵倒ではなく、自嘲的な批判である」「ダメな日本/日本人を何とかしたいと思っているからこそ、敢えて汚い言葉を使うのだ」という論法も頻繁に用いられる。そんな彼らの言う「ダメな日本/日本人」に、彼ら自身が含まれることは決して無い。彼らの中では、あくまでもダメなのは「彼ら以外の日本人」である。また「日本を良くしたいから汚い言葉を使う」とは言うが、その汚い言葉使いを、彼らが属しているつもりになっている、仮想的母国であるX国を相手に使うことは無いと言っても過言ではない。欠点の無い国や過ちを犯したことの無い国は存在しないのだから、従って、彼らの精神的・仮想的(ヴァーチャル)母国に該当するX国も、日本と同様に汚い言葉で罵ったり嘲笑しても構わない筈なのだが。
件のフランス在住作家や、彼のサッカー選手擁護を鵜呑みにしていた人間たちも、仮想的(ヴァーチャル)フランス人になろうとしているようである。それだけならば、別に彼らの勝手だから好きにすれば良い話ではあるのだが、しかし彼らのしていることは、畢竟「おフランスのダンナ。あっしは他のニホンザルと違って、ダンナのすることに逆らいやしませんからね。あっしのことを、他のニホンザルと同じに扱わないで下さいね?あっしはダンナと同じく『フランス人』ですからね?」という阿り以外の何物でもない。ビリー・アイリッシュのC-word発言映像に対して「自分はアジア人だけど気にしない」と、彼女に阿るコメントをする日本人やアジア人が多数いたのも、これも同じ動機である。
日本人(アジア人)としてのダメな部分に、きちんと当事者として向き合っていないから、いざ日本人(アジア人)差別に遭遇した時に「これは差別ではない!非日本人(非アジア人)に生まれ変わった現在の自分が、アジア人差別なんかに遭うはずが無い!」と現実逃避する羽目になるのである。
X国の部分をフランス以外の国に入れ換えれば、同じことをしている人間は沢山いる。貴方の周囲にだって、一人や二人はいるだろう。そういう人間は、件のフランス在住作家と同じ轍を踏む可能性が有る。気をつけた方が良い。