はてなキーワード: 判別とは
幼いころの記憶は、2歳ぐらいから残っている。初めて乗った三輪車、初めていった遊園地でのヒーローショー、流行に乗って買ってもらったローラースケート、ファミリーコンピュータ。皆覚えている。
幼稚園の頃には、既に自分が他者とは異なる存在であることを認識していた。
幼稚園でやることは何もかもが退屈だった。何度同じことを教えてもらっても文字を読めない、たとえひらがなであっても自分の名前を書けない。そんな同い年の園児達に辟易していたし、先生の言うことも最終的に言いたい・結論の読める、そんな通り一辺倒の話しばかりで、毎朝幼稚園に通うバスに乗る時には苦痛を感じていた。
ある日、そんな苦痛の発生源から「近所の公園で落ち葉拾いをして、その落ち葉でちぎり絵を作りましょう!」と言われた。他の園児たちは落ち葉をかなり細かくちぎって、造形でギリギリ判別できるかどうかの「おさかなさん!」「おはな!」「おかあさん!」といったの作品を作って先生に持って行っていたが、俺は「いやいや、落ち葉で作るんだから落ち葉である事を活かせよ」と思い、少し捻くれた形をしたカエデの落ち葉を1枚と、他にも大量の落ち葉を拾って、「人喰いおおかみをやっつけた人が、その証としておおかみの右手をバイクに積んで村に戻っているところ」という作品を作った。
作ったちぎり絵を先生に見せた時、「これは・・・バイク?・・・と・・・手?」という反応をされたので、それは人の手では無く、怖くて悪い人喰い狼だと説明した。その際に俺は「これは他の人間にも説明が必要だな」と何故かひとり勝手に確信し、画用紙に黒のクレヨンで物語を描き始めた。最初は延々と文字だけで説明していたが、文字だけだと寂しいので、余白に挿絵もつけた。
「悪くて怖い人喰い狼が現れて困っている村人たちのところに、腕利きの猟師がやって来て・・・」という、何とも陳腐な筋書きではあるが、画用紙を10枚以上使ったと記憶している。
俺のちぎり絵と物語は幼稚園で話題になり、その年のお遊戯発表会の題材にもなった。先生は「やっぱり主役の猟師役は増田君がやるべき」と言ってくれたが、主役はガキ大将のS君に決まった。かけっこなどの身体を使う類いのことはからっきしだったので、俺はそれで良いと思った。
発表会は結構うまくいったようで、いつの間にか俺の「作品」達は、「画用紙に書いた物語と一緒に区役所に飾ろう」という話まで出て来ていた。
その事で幼稚園側と区役所側の担当者が何度か話し合いを持ったようだが、結局絵だけ飾る事になった。
区役所に絵を飾る事になるまでの一連の話を幼稚園から説明された両親は、たいそう喜んでくれた。
両親は平凡だった。見合いで結婚し、中庸であることを良しとし、毎日を善良に暮らし、一人息子である俺にもしっかりと愛情を注いでくれる。そんな両親だった。
ただ、そんな両親が、幼稚園側が区役所の絵画の話を交えつつ、「増田君は本当に優秀です。才能があります。小学校は是非とも私立を考えられては・・・?」と強く推した途端、「いえ、結構です。ウチは公立の小学校に行かせます」と、頑として譲らなかった。理由はわからない。金銭的な問題だったのかもしれないし、中庸を良しとする生き方に反していると考えたからかも知れない。
俺は単に「人間関係をリセットして、見知らぬ土地でまたイチからやり直すのは苦痛である」などとぼんやり考えており、小学校は地元の公立のほうが良いように思えた。
幼稚園の中に友達と呼べるような存在はいなかったと思うし、毎朝の通園バスも苦痛ではあったが、それでも何とか周囲の人間の為人を把握して対応方法をほぼほぼ確立していた矢先の話だった。小学校とやらに行く事になれば、公立でも私立でも「周囲の人間の数」は増えるのだろうが、私立でゼロから再構築するよりは公立のほうが幾分マシだろうと思っていた俺は、そのように両親に伝えた。
両親と俺の希望が一致していたので、当然小学校は地元の公立小学校に入学することになった。
小学校に入っても、特に俺自身の変化はなかった。小学校に入ると本格的に「勉強」というカリキュラムがはじまったが、先生が言っている事を聞いて、板書をして、家に帰ってから宿題を済ませた後に復習・予習をしていれば、テストの点数は取れた。
この頃になると、自分の状態を客観的に捉えた上で、自身についての考察ができるようになっていた。
俺は結論として、「俺は天才である」と考えた。井の中の蛙どころの騒ぎではない。加えて、空の青さも知らないとなればもはや滑稽を通り越して害悪であるが、俺の周囲には俺より優れた学力を持つ者も、俺を諫めようとする者もいなかった。
言い訳がましいが、物差しが少ない小学生の時分である。「学力」という物差ししか持っていなかった俺は増長し、慢心し、周囲を哄笑した。将来は俺のような人間が、東京大学のような「賢い一流の大学」に入って、「でっかい一流の会社」に入社して、いずれは社長になって世の中を動かしていくと、本気で思っていた。
何より、公立の小学校は毎日がヒマだった。普段から見下している同級生とは、恐ろしいぐらいに会話がかみ合わなかった。俺にコミュニケーションスキルがあれば、「会話をあわせに行く」「自分の会話ができる場を作る」といった芸当も可能だったかも知れないが、ご多分に漏れず俺はコミュ障だったし、そもそも会話を合わせるという発想もなかった。
「名のある企業に入れる」「いずれは社長になる」などと思いこんでいるような人間がコミュ障というのは、その時点でもう既に色々と破綻しているような気がしないでもない。
ともあれ、この頃の俺は毎日退屈な授業とかみ合わない会話をする為だけに、日帰りの監獄に通っていた。全国の小学生がこの地獄を味わっているとするなら、文部省は滅ぼさなければならないと本気で思っていた。その為に文部省に入って俺がこの国を変えてやるんだと、鼻息だけが荒い小学生だったと思う。
─────「良い会社」に入るには「良い大学」に行かないといけないらしい。
─────日本一の大学は東京大学というところらしいが、真の天才であるならば京都大学に行くらしい。
そんな情報を入手したのは、忘れもしない、小学4年生の秋頃である。いかにも小学生が摂取しそうな、狭い世界のテキトーな話である。だが俺は何故か純真無垢にその与太話を信じた。つまり、「将来は絶対に京都大学に入ろう」と思った。
そこから俺は色々と京都大学の情報を収集しはじめた。「学部」など、小学生の俺の辞書には登録されていない概念に触れる度に興奮しつつ、どうやったら京都大学に入れるのか?という情報を求めて方々に聞いて回った。まず一番初めに、俺にとってもっとも身近な「大人」である両親に「どうやったら京大に入れるのか?」と尋ねたところ、「知らん」と言われて会話を打ち切られてしまった。仕方なく学校の先生などに尋ねたりしていたが、小学生の調査能力などたかが知れており、当時はまだインターネットなども普及していなかったので、俺の京都大学情報収集はかなり早い段階で終止符を打たれることになってしまった。
しかし、京都大学に入れたとしても、大学入学までは今からでも約8年かかる。京都大学に入る方法とは別に、一刻も早くこの日帰り監獄から抜け出す方法はないものか・・・と模索していたところ、どうやら「私立中学」というところに通えば俺の退屈な生活におさらばできるようだという情報を得た。
日帰り監獄の看守たる先生も、たいそう熱心に「増田君は灘中学か東大寺学園に行かせるべきです。」と言ってくれた。特に小学6年生時の担当看守だったK先生は熱心で、何度も両親と懇談して、俺を私立に行かせようとしてくれた。
だが、ここでも両親は「ウチはあまり裕福ではなくて・・・。本人は成績も良いので、公立中学から北野高校にでも行ってくれたらいいと思っておりまして・・・。」と、俺を私立中学に進学させることは明確に拒否した。
看守は
「経済的に難しいと思っておられるなら、公立中学以下、なんなら増田君の学力ならおそらく無料で通える」
などと食い下がったが、両親は「もう公立に決めてますので・・・」と固辞した。
この頃になると、小学生の俺でもさすがに両親の言動に疑問を覚えるようになった。両親は「経済的に困窮しているから私立は行けない」の一点張りだったが、看守は「困窮していても通えます」という。イヤさすがにそれはちょっとヘンだろ、矛盾してるだろと思っていたが、当時の俺はそこまで頑なな両親を説き伏せてまで日帰り監獄から抜け出したいとまでの強い意志は持ちえなかったし、天才・秀才・英傑達と机を並べて学びたいという願望も希薄だったし、それらの一連の俺の態度が招くであろう結果も、特に深くは考えてはいなかった。
当時の両親の真意が奈辺にあったのか、今となっては分からない。草葉の陰から、声は聞こえない。
そうして地元の公立中学校に入学した俺は、特に変わり映えのしない日帰り監獄生活を送っていた。そんな俺だったが、中学生活の半ばに差し掛かろうという頃・・・具体的に言うと全国模試を受けたあたりで、「んん?あれ?・・・どうも俺って天才じゃないな、これは・・・」と薄々感づき始めた。全国模試の偏差値が出るからである。
そりゃもちろん、俺の偏差値は全国平均より遥か上には位置しているのだが、自分なりに努力をしてみても、偏差値的に灘高校にも東大寺学園高等部にも届かないという事実を突きつけられた。これは結構俺にとってはショックで、小学校の頃は「余裕で入れる」と言われた灘にも東大寺にも入れないという事実は俺に重くのしかかった。「このレベルの高校が無理なら、こりゃ京大や東大なんて夢のまた夢だろ、どうしよう・・・俺の人生、どうなるんだろう」と、本気で思い悩んだ。
悩みぬいた俺は中学2年の夏、両親に「塾に行きたい」と言ってみた。しかし結果はやはりというか順当というか、頑強に拒まれた。曰く
「成績がいいのに何故」
「塾はお金がかかる」
「家でも勉強はできる」
小学生の頃の俺なら諦めていただろうが、中学生になっていた俺は己の目標を達成する為に食い下がった。模試の結果を伝え、行きたい大学がある事、だが自分の今の成績ではそこに至ることができない事、自宅での自己学習には限界がある事などを説明した。
また、塾が無理なら定性的定量的に評価が可能な代替案の提示をせまった。塾の代金は高校に行ったら必ずバイトして返す、なんなら今から新聞配達をして払うと、土下座までして塾に行かせてくれとせがんだ。
半年ほど前に未亡人となった母はなんだかやつれて見えたが、当時の俺は塾に行けることが嬉しくて嬉しくてしょうがなくって、あまり母親のことを注意深く見ることはできなかった。今思えば、当時の母は様々な事に疲れ切って倦んでいたのだと思う。塾に行く許可も、根負けというよりかは思考放棄といったように俺には映った。
そんな母を尻目に意気揚々と進学塾に入った俺は、成績順のクラス分けで上から2番目のクラスに入れられた。正直、体が震えた。自分よりはるかに勉強ができる人間が、天才が、焦がれる存在が、今まさにすぐひとつ上のクラスにいるとリアルに感じられるのである。そして、その人間たちと同じ程度の授業を、自分も受けることができるのである。これがアニメだったら俄然燃えるBGMが聞こえてくるようだった。実際、あの時の俺には、何かが聴こえていたのだろう。俺は一心不乱に机に噛り付いた。机に歯形があるんじゃないのってぐらいには噛り付いていたと思う。
その甲斐あってか、入塾後すぐのクラス替えで、あっさりと一番上のクラスになれた。ここで俺は生まれて初めて、圧倒的な勉学の才能をもった人間、すなわち「天才」と直に出会った。それも一人や二人ではない。そんな輝ける才能がひとつの教室に雨後のタケノコのようにポコポコと存在している、そんな環境で学べるという喜びにも出会った。
毎日がただ楽しかった。自分は天才ではないのかも知れないけど、努力すればちゃんと数字が、成績がついてきてくれた。
幼少の頃、毎朝幼稚園に行くバスの中で感じていた苦痛や、小学生の頃に感じていた疎外感は、もう無かった。
高校は公立の北野高校というところに入った。維新の橋下弁護士とか、日本マクドナルドの創業者の藤田田(ふじたた、ではなく、ふじた・でん)とか、漫画家の岡田あーみんとかが通っていた高校である。
本当は東大寺学園に行きたかった。学力や模試の偏差値は足りていたと思う。赤本の自己採点でも余裕で合格圏内だった。だが、中学3年時に入塾した際に母親と交わした「高校は絶対に公立高校にする事」という約束を守った。その約束をした時点では「受験までにどうやって説得するか・・・」などと考えたりもしていたが、塾での公立中学では考えられない授業スピードについていけたことや、並み居る才能たちと交わした会話の中で、「公立高校からでも京都大学は狙える」という感触を、俺は確かに掴んでいた。
中学の頃はあまりよく理解していなかった奨学金制度は、高校に入ると同時に申請した。家計を理由に俺の私立進学を拒んだ母親は、中学時代に俺の奨学金を申請していないこともその時に知った。俺はそんな母親を信用せず、奨学金の申請手続きを自分自身で済ませた。
北野高校の授業の質は高いと思った。だが俺は油断せず、予備校にも通うことにした。私立中学入学組の連中は、少なくても俺より3年は早く走り出している。そいつらに追い付くには、そいつらと同等、いやそれ以上の勉強が必要であると思ったからだ。
俺は詐欺師丸出しの口調で「高校の学費が浮いたんだから、もともと払うつもりだった学費は予備校に回してほしい。予備校とバイトを完全両立させるのは時間的に難しい。学力的に、俺は中学までの借金がある状態。プラスに転じるには積み上げるしかない」などと母親に申し入れたところ、すんなりと受け入れられた。
この頃になると、奨学金の申請だけでなく、家の中の一通りの事は全て俺がやっていた。
「自分でできるようになったから」というのももちろん理由としてはあるが、母親が炊事・選択の家事全般を筆頭に、日常生活の様々な事をほぼ全て放棄してしまっている事のほうが、より比重の大きい理由だった。母親が予備校行きを認めたのも、「認めた」というよりは「俺が『予備校に行きますよ』と報告した」といった表現のほうが正しいように思う。
俺が小学生や中学生の頃には確かに存在していた、「理由なぞはよくわからないがとにかく自己の主張を持って論陣を張る頑強な”母”たる人間」は、もういなかった。朝起きて、TVをつけて、ご飯を食べて、夜眠るだけの人間がそこにはいた。
家計はほぼほぼ俺が全部見ていた。入ってくるカネと出ていくカネを計算して大幅なマイナスにならないと言う事だけを気にしていたので、一般的な家計管理よりはラクだった。現に、今つけている家計簿よりは簡単だったように思う。父親の遺した資産が多少あったので、その管理も俺がしていた。
高校生活は楽しかった。学力差のある人間を十把一絡げにして地域ごとに押し込める日帰り監獄では味わえない切磋琢磨がそこにはあった。同程度の学力を持つ者同士が集まった結果としてのシナジーがあった。今までは暗い色で塗りつぶされていた「学校での生活」に色が付き始めた。毎日学校に行く事が楽しかった。対照的に、毎日家に帰るのが億劫になり、やがてそれは苦痛に変わり、それに伴い、家の中が暗い色で塗り潰されていった。
昔、母を名乗っていた人間は炊事もしないので、学校帰りは毎日スーパーに寄り、食材を買い、俺が晩ご飯を作った。予備校のない日は二人で食事をするようにしていたが、食事中に会話のようなものはなく、TVから流れるバラエティー番組の下らないやりとりだけがBGMだった。ご飯の味はしなかった。たぶん、母だった人も、ご飯の味はしていなかったと思う。
もしかすると、家から目を逸らそうとして、無理に高校での生活が輝いていたんだ、良かったんだと自分自身に言い聞かせているだけなのかも知れない。我が事ながら、この頃の記憶は妙に混濁している。
大学入試は当然のように京都大学一本にした。学力も模試結果も問題無いと判断したし、何より俺には京都大学以外の大学に通う価値を見出せなかった。入学できるまでは何浪でもするつもりだったが、幸いにも現役で合格することができた。
ひとり身になったから身軽だったし、しばらく大阪から京都大学に通ってみたものの、さすがに京都の外れまで毎日通うのはちょっと辛いなと思った。何より、暗い色で塗り潰された、大阪のあの家に帰るのは嫌だった。もうTVの音は聞こえなくなったけど、あの家で目をつぶって眠るのが、怖かった。
大阪での様々な残務を片付けると、それらの結果や、これからの事、感謝の気持ちなどを両親の墓前に報告して、俺は京都に移り住んだ。
後編に続く
できる人ぶったりまともぶったりしてるけど、その実だいぶ拗らせているしコミュニケーション能力が低いから、自分のゴミ袋を開いて、何がくせーのか改めて考えてみたくなった。
と思いたい気持ちが強い。なんでもかんでも「かわいそうな自分」になるための理由をこじつけて、かわいそうな被害者でありたいと行動しているきらいがある。
喧嘩になったら、自分をさりげなく被害者側に置いて話しがちだし。他責傾向が強いといってもいいかも。
ミソジニーか?と言われるとこの辺の判別が難しくて、多分妬みとかの方が近いんだと思う。実際ブスな女とかは全然なんとも思わないので、500%妬みだろうなと書いていて確信した。
ネタマシー。でもめっちゃ努力したいわけじゃないから、生まれつき造形いいひととか口では「素敵だね」なんてニコニコしながら「ずるい」って思うこと多い。
卑屈っぽい言動するけど、それって相手を責めるためであって(へこむ私の演出で罪悪感を刺激しようとする)本当に自分のことだめとは思っていないはず。
だってダメなら改善しようとするし、そんなの受け入れてわざわざ人様に披露することもない。
たぶんちょっとある。わりと他人見下しがち。人様のおかげで今があることを認めきれてない。
それなりに努力したという自負がある分、みんな自分ほど努力してないとかちょっと考えがち。
なんか書き出してみると、本当に自尊心低いんだなと思った。低いから威嚇するみたいな。
あてて
処理を買えてあります
数十台のマシンにそれをあてる
ETC 100万ユーザを超える辺りから、膨大なノウハウの塊ですよ
元記事はこれです https://note.com/yoshiaono/n/n4cd37820faf0
・そもそもマイナンバーカードの目的がよくわからない。身分証明のためなら運転免許証や健康保険証でよくね?そもそも何が問題なの?
身分証明だけなら運転免許証で良いが(健康保険証は顔写真が無い)、誰でも取得出来る顔写真付き身分証明書は必要(追記)
マイナンバーカードのICチップによる身分証明と正しいマイナンバーの検証が同時に確認できるのが肝
・カードに書かれたマイナンバーが漏れるとまずいらしい。漏れるとまずいのに印刷するの?みんなで便利に使うための番号じゃないの?
ここは政府の雑な説明がほぼ悪いのだが、青野社長レベルで「漏れるとまずいらしい」という認識なのか…
「みんなで便利に使うための番号じゃないの?」その議論もあったがマイナンバー法で目的外利用が厳しく制限された。アメリカでのSocial Security Numberの濫用を危険視したのだろう。
それ運転免許証落としても同じですよね?
・だから、付属のビニールのカードケースを使って個人情報を目隠しする。仕様としておかしすぎない?誰かツッコんでくれなかったの?
これはご指摘の通りで「マイナンバーの流出」に対して行政側も過敏に反応しているしバランスが取れてない、何とかしてくれデジタル庁!
・費用がかかり過ぎ。もう一兆円くらい使ってない?
費用がかかってるとは思うが一兆円は盛り過ぎてない? https://jp.ub-speeda.com/ex/analysis/archive/38/ では立ち上げで2700億円
住基ネット一兆円も盛り過ぎてない? また住基ネットの失敗って何?全国の市区町村で分かれていた個人情報フォーマットをまとめたのが失敗なの?それをサイボウズの社長が言います?
大量投入も盛ってない?日本のIT化の未来は暗いって言いたいだけでは?
・マイナンバーシステムの管理項目が、住民記録システム(住民票)や戸籍システムとかぶっている。いい機会だから統合して効率化しようって話にならなかったの?それとも無駄が好きなの?
選択的夫婦別姓で国を訴えている青野社長が住民票は総務省、戸籍は法務省管轄であるのを知らないはずが無い。それぞれ目的が違うものを統合して効率化する大変さを知らない訳ではないですよね。
・4種類のパスワードを組み合わせて利用。それ、忘れる人が続出するよ。というか覚えられる人が珍しいと思う。
「利用者証明用パスワード」「券面事項入力補助用パスワード」「個人番号カード用パスワード」は4桁数字で3つ同じも可能、「署名用パスワード」は数字とアルファベットの組み合わせで6文字から16文字までと実質2種類に出来るし窓口でもそう勧めている。
・生体認証を使えない。やっぱり4種類のパスワードを覚えるしかないのかー。仕方ないからメモに書いてマイナンバーカードと一緒に持ち運ぶか...あれ?
一生変更不可能な生体情報を結びつけることには検討が必要(銀行は生体認証の有無を選べるし、乗り換えることも出来る)。また先ほども書いたがパスワードは実質2種類でしかも複雑な署名用パスワードを覚えておかなければいけないシチュが分からない。電子署名にしか使わないからだ。つまり覚えるのは4桁の暗証番号1つで良い。(これはこれで問題がとも言われるが、カード実物と組み合わせなので仕方ない点も)
・利便性が低い。マイナンバーカードを使って給付金を申し込むと、もらえるのが遅くなるという逆利便性。ここまでくると、日本の生産性を下げるのが目的としか思えない。
これは自治体による。マイナンバーカードを使った申請で紙ベースより早く給付される自治体もあった。https://twitter.com/kumagai_chiba/status/1262640109762908168 給付金自体が想定外のオペレーションだったのは大きい。
・普及してない。そりゃそうなるよね。一回、落ち着いて反省した方がいいと思うよ。
・にもかかわらず、自民党はさらに大量の税金をぶっこんで普及に躍起になっている。これ、やめられなくなった負け戦に似てない?後で責任取るつもりないよね。
私はマイナンバーカードは必要だと思っている派だが、マイナポイント事業は正直分からない。一回落ち着いた方が良いのは同意するが日本で止められなくなった負け戦は沢山あるので不安…
・マイナンバーカードを持っている人は、引っ越しして転出・転入手続きをするときに暗証番号が必要になる。つまり、持っていない方が無難ということですね。
「遅滞なく返納」とはなっていますがそもそも国外に転出した時点でマイナンバーカードは失効します。
デジタルな世界とアナログな人間社会を紐つける物理媒体なので物理的な制限があるのは仕方ないのでは、嫌なのは同意する。例えば電子ペーパーにした場合、破損して真っ白になったらなど考えることは多い。
(追記)それでは困るというので捻り出されたのが利用者証明用電子証明書を利用したマイキーID
・マイナンバーカードに運転免許や健康保険証を集約しようとしている。返納や再発行が必要で目的外利用禁止のカードに集約するだと?生活できなくなるぞ!
運転免許証や健康保険証だって返納や再発行が必要なのは同じ。今の法律では出来ないので法改正が必要。
マイナンバーカードの有効期限は印字されています。手書きなのは電子証明書の有効期限。マイナンバーカードと電子証明書の有効期限はまず期間が違うし、同時に発行されるとも限らない。身分証明時に確認するのは印字された有効期限。
・自治体に業務の負荷をかけ過ぎ。発行・再発行だけでも大きな負荷。でもって、月数百万枚しか発行できないそうよ。自治体職員を殺す気?
総じて青野社長のマイナンバーカードへの不満には納得できるものもあるが、日本を代表するIT企業の社長としては理解が雑すぎる。
選択的夫婦別姓の裁判を戦っている割には関連法律の理解もイマイチだ。(弁護士の仕事だろと言われるかもしれないが、青野社長には選択的夫婦別姓についての発信者でもあるので正しく知って欲しいと思っている)
またマイナンバーカードと言う物理媒体への不満が主で、ICチップを利用した電子署名に全く触れていないのも不思議だ。
企業のペーパレス、DXを進めるサイボウズとしては電子署名は絶対必要になるものだ。
それに必要な認証局と電子証明書とICチップ搭載の一式を税金で作ったマイナンバーカードは民業圧迫では無いのか?と思わなくも無いが一番お手頃に導入出来るのは確かだ。
その点がサイボウズと競合分野であるので触れないのかなと思った。
電子署名の話でマイナンバーカードは目的外利用禁止だろ!と突っ込まれるかもしれないと思ったので書いておく。
大変紛らわしいことに利用目的が厳しく制限されているのはマイナンバーである。身分証明時に免許証をコピーされることがあると思うが、マイナンバーカードで断られるのは
マイナンバーカードにマイナンバーが記載されているからであってそれをコピーした時点で目的外利用になってしまうからだ。(あの変なスリーブが出来た理由の一つ)
つまりマイナンバーカードでマイナンバーが関わらない部分、つまりICチップの電子証明書を利用することは自由に出来る。
今回のマイナンバーカードを利用した給付金のオンライン申請でも、マイナンバーの認められた利用目的に給付金申請なんて入って無いのでマイナンバー自体は一切使われていないし使えない。
自治体に届く情報は申請者が記入した世帯の氏名や振込先口座情報をマイナンバーカードの電子署名用証明書で署名したデータであり、マイナンバーは含まれていない。
オンライン申請で時間がかかる場合があったのは申請者が記入した振込先口座情報などが間違えていることが多々ありその確認作業に手間取ったからだ。
今回の想定外の事務処理で突合処理を楽にするため一部の自治体では奇策を取った。
マイナンバーカードには電子署名用と利用者証明用、2種類の電子証明書が含まれておりそれぞれ固有のシリアル番号を持つ。
利用者証明用のシリアル番号はコンビニコピー機での住民票発行で使われており自治体にも身近な存在(という自治体がありますというレベルですが)だ
そこで電子署名用と利用者証明用のシリアル番号の対応表を取り寄せ、給付金の申請情報に含まれる電子署名用証明書シリアル番号→利用者証明用のシリアル番号→住民票というルートで突合したのだ。
あれ?そのシリアル番号で個人を判別出来ちゃってない?と思う方が居るだろうが電子証明書のシリアル番号はマイナンバーでは無いのでこんな利用をしても良いのだ。
(電子証明書の有効期限は5年で再発行時シリアル番号も切り替わるがマイナンバーは原則一生変わらないという違いはあります)
追記2
コメントやブコメを思っていた以上に頂いた、ありがとうございます。
「結構同意してるじゃん」との指摘にそうだなと思ったのでタイトルを「サイボウズ青野社長のマイナンバーカードdisに反論する」から
「サイボウズ青野社長のマイナンバーカードdis批判に一部反論指摘する」に修正した。
マイナンバーカードはICチップに搭載された電子証明書により利用者証明と電子署名が出来る、で良いだろうか。
偽造に対抗する券面事項をICチップから読み出す機能は運転免許証にもあるからなぁ。
「それ運転免許証落としても同じですよね?」
これはそういう意味だったのか、完全に私が読み違えていた。ご指摘ありがとう。
同レベルのセキュリティなら枚数が増えた分だけ落とすリスクが増えるのはその通り、で政府は運転免許証のマイナンバーカードとの一体化を検討しているのでこれが進めば枚数は減る。
「名前や住所や顔写真など個人情報がプリントされている」のを防ぐには電子ペーパー等のデバイスと生体認証等の組み合わせが考えられるが
住所記入欄のところでも指摘したが、壊れたときに何も表示出来ないというデメリットが大きすぎる。
スマホにアプリとして入れる?それでは日本政府がコントロール出来なくなってしまう…
これは後出しだがマイナンバーカードの有効期限を5年にして電子証明書と期限を揃えるべきだった。
現在のマイナンバーカードの有効期限は10年だが、日本で一番使われているであろう運転免許証も有効期限が最長5年なので許されるだろう。
10年という期間は住民基本台帳カードに引っ張られたのではないか。
電子証明書の有効期限を10年に延ばすというのは電子証明書の危惧危殆化の観点から許されないだろう。
https://www.cao.go.jp/bangouseido/mailmagazine/backnumber/2020/20200221_01.html
また現在のマイナンバーカードでは申請時に電子証明書無しで後から追加が可能になっており、これが給付金申請のときにトラブルにもなったのだが、
これもまた住民基本台帳カードに悪い意味で引っ張られてしまったのではないか。(住民基本台帳カードサービス開始時は電子証明書を入れるサービスが無く、約半年遅れのスタートになっている)
https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2004/01/23/1851.html
制度設計的にここまでマイナンバーカードを急速に普及させる気が無かった感がある。
それが給付金申請や政府のデジタル化といったもので急速に注目が集まり負荷も高まってしまった。
想定時より状況が大きく変わった以上先に法整備しろというのは無理がある。
早急な法改正をすべきであるしそれについては他の項目でも指摘している。
ブコメであったが「青野社長に厳しすぎないか?」という意見だが
サイボウズ社長ならマイナンバーカードの電子署名などにも言及してくれると思ったのでそこは残念だったと感じたのでこの文章を書いた。
また「マイナンバーシステムの管理項目が、住民記録システム(住民票)や戸籍システムとかぶっている。いい機会だから統合して効率化しようって話にならなかったの?それとも無駄が好きなの?」
「青野氏らは戸籍法に着目。同法の規定では日本人が外国人と結婚した場合、同姓か別姓かを選べることになっているのに、日本人同士の結婚で選べないのは不平等だと訴えた。」
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56062670W0A220C2CR8000/
戸籍法に焦点を合わせて戦っている方が「いい機会だから統合して効率化しよう」というのはいくらなんでも乱暴すぎるだろう。
追記3
最近のスマホ(NFC対応のiPhone8以降、Android機種等)では読み取り可能で、給付金のオンライン申請でも既に使用されています!
今までのPCとカードリーダーとの組み合わせから手間が大幅に削減されました。
お手持ちのマイナンバーカードがの真正性を検証してみたい方は「IDリーダー」というアプリで確認出来るので気になる方は試してみてはいかがでしょう。
https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.co.osstech.jeidreader
https://apps.apple.com/jp/app/id%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC/id1480652022
俺に無断で俺を含めたみんなの物事を勝手に決めるんじゃない______。
学校でよくある話だが、声のデカい奴らの意見がクラスの総意のように扱われることがある。
わかったわかった。お前らが団結したのはわかった。B組の絆もわかった。だけど、それを俺にも押し付けるな。
とにかく、私には嫌いなことがある。
1つは、花言葉を“語られる”こと。
もう1つは、今日は〇〇の日だという“話題を振られる”ことだ。
だが、さも当然、私もそれに納得するものだという前提を持ったまま、その話題を振られるのがなによりも嫌いだ。
例えば、日本の園芸協会みたいな、とにかく花言葉を管理している団体(知らんけど)が、バラの花言葉が“愛”や“美”であると決める。そうか。勝手にやっていてくれ。
だが、誰かが私に対して「バラの花言葉は“愛”なんだよ」と話しかけてくる。
私はそれに同意していないし、私がバラに対して持っている権利、否、すべての人間がバラに対して等しく持っている権利を、団体という一部の人間によって侵害された気分になる。
私にそれを押し付けるな。
〇〇の日も同様だ。例えば2月22日をネコの日として盛り上がる。いいじゃないか。
だが、私に対して「今日はネコの日なんだよ」と2月22日に話しかけてくる。馬鹿言え。私がネコに対して持っている権利を侵害するな。私はそれを認めていない。
「みんなのもの」に対して「一部」が定めたルールを「みんな」に適用することが、非常に苦手なのである。
前置きが長かった。本題に入る。
私は塾でアルバイト講師をしていたことがあった。基本的になんでも教えるのだが、特に国語の授業を担当することが多かった。
そうすると生徒に漢字に関するアレコレを言われることがある。
答えは、“生”もしくは“下”だ。純粋な質問なら答えるし、自慢したい風ならば、わざと知らないふりをして生徒に言わせる。
だが、それは限定的な話だ。
そして常用漢字表の“生”の音読みは「ショウ」と「セイ」が、“下”の音読みは「カ」と「ゲ」が載っているだけであり、ほかの漢字と大差ない。
つまり、こいつらは「訓読みで読みの数を稼いでいる」のである。
例えば“生”は、「苔生(む)す」と読めるが、これは常用漢字表にはないし、“下”は「ひく(し)」など、おおよそ“低”のような感じで読むことがしばしばある。
そして“生”や“下”以外にもそのように色々な読み方(特に訓読み)をできる漢字は無数にあるわけである。
訓読みは「漢字の日本語での意味」を出発点としているから、どこまでが訓読みでどこからが意読かは判然としない。
したがって、どの字が一番読み方が多いか、などというのは、そもそも成立しない質問なのである。
多様な読み方ができるはずの漢字に対して、「文科省が設定した常用漢字」が、唯一絶対の真実かのように、私に向かってくる。
これが嫌なのである。
また、筆順の話もしておきたい。
筆順なんてものは文部省(当時)が設定したものであり、しかも、文部省ですら、参考であって絶対の基準でないと明言している。
そもそも、現代の筆順があるのは、単に「そういう順番で書くと伝わってきた」からである。
字というよりも図のニュアンスが強い甲骨文や金文などから当時の筆順を判別することは難しく、また、仮に史料から筆順を解析できたとしても、一定の基準があったかもわからない。
完全に推測なので根拠はないが、当時の人は特定の筆順を持たずに、その場その場で書き(描き)やすい順番で書いていたのではなかろうか。
日本において文部省(当時)が国語を教える上での筆順を策定する際には、流派によって筆順が違う字も多く論争があったというし、日中で筆順が違う漢字も多い。
また、常用漢字以外には筆順が設定されていないという現実もある。
もちろん、私は筆順が不要という論者ではない。
漢字を書く際の大原則(上から下、左から右、など)を理論でなく体で体得することは非常に重要で、それこそ教育漢字の筆順を習得することでその後の漢字も自然な筆順で書くようになることができると思うし、
しかし、筆順の問題を出題するような学校や塾のテスト、特に、テレビのクイズ番組は本末転倒であり、無意味と言わざるを得ない。
多様であるはずの筆順に対して、「文科省が設定した基準」が、唯一絶対の真実かのように、私に向かってくる。
これが嫌なのである。
いわゆる異体字というやつで、現代の活字文化で目にすることは少なくなってしまったが、手書きではよく見られるものである。
当然だが、文字の絶対的に必要な要件は、“意味を伝えること”である。私たちは本質的に意味を伝えたくて文字を紡いでいるはずである。
したがって、字形も当然“同じ字として認識できる範囲で”揺れていいはずである。
もちろん、学校の漢字の書き取りで異体字を書くのは勘弁してほしい。そこは国の定めた基準に従ってほしい。しかし、それ以外の場面で漢字が基準と違ったとしても、とやかく言うのはどうにかしてほしい。
伝わることに意義があり、伝わったから正しい字形を指摘できるのだろう。じゃあいいじゃないか。
当然だが漢字は漢字を使う皆のものであり、文科省が完全に管轄できる存在ではない。
しかし、子供たち(否、塾で対面するのが子供というだけで、大人の大部分もそうだろう)はそれを唯一絶対の真理として内面化している。
子供のうちはそれでいいだろう。一度型に嵌めて教えたほうが色々考えやすい(それでも筆順を徒に問うようなテストには反対だが)。
しょーもない漢字の雑学本やら、漢字のクイズやら、最近だと特にバラエティ系Youtuberのクイズ企画/学力テスト企画に顕著だが、大人たちが無意識的にこの基準を唯一絶対の真理かのように誤解しているさまは、見ていて虫唾が走る。
11月11日はポッキーの日。これはいい。ポッキーはグリコが完全に管轄しているから。
ながらくイライラしてるだけで理由について考えたことなかったけど、花言葉とか〇〇の日と同じなんだなって気づいた、だいたいそういうお話。
ーーー追記あれこれーーー
〇その1
当たり前だが私は瞬間湯沸かし器ではないので、他人に花言葉/〇〇の日の話題を振られたからと言ってブチ切れるわけがないし、たぶん不愉快な表情一つせず、無難な会話を続けることができる。
〇その2
誤読してほしくないが、常用漢字や教育漢字の否定をしたいわけではない。それが必要だから存在していることはわかっている。ただ、それを“ただ一つの真実”かのようにすること、
つまり“それ以外を誤りである”とするような態度に対して非常にイラついているのである。多数の正解を認められないことにうんざりしているのだ。
〇その3
花言葉は例が悪かった。バラが美の象徴であることは(記事と矛盾しているが)私は実は了承している。漢字という伝統を受け継ごうという意欲を見せている私がバラの花言葉(というか花のもつイメージ)に反対しているわけがない。
もっとこう、バラがn本の時はこれこれこういう意味で~、とか、〇〇は色によって意味が変わってX色では~、とか、明らかにその品種“伝統”がないよな?みたいな花とか、そういうタイプの花言葉を私は了承していないのである。
了承していないだけなら問題がないが、そうした“話題を振ってくる”のが苦手なのだ。
〇その4
この話題は、誰もが経験したことがある「お前の普通を俺に押し付けるな」という話題に決着する。
子供に顕著だが、自分の常識は他人にとっても常識だと思ってしまうことがある。子供は平気で友達の名前に代表される固有名詞を説明なしに会話にぶち込んでくる。
これには理由がある。ピアジェの発達理論に従えば2~7歳の子供は自他の認識の区別がつかないらしい。
だからかくれんぼで目をつむれば他人から自分の姿が見えていないと思うし、自分の知っている友達は当然会話の相手も知っていると思っている。
子供ならかわいらしいが、大人にこれをやられると「自分への配慮を蔑ろにされた」気がして腹が立つだろう。
つるの氏が犯人を外国人であると推定したことが、外国人=犯罪者であるとの偏見を助長しかねないとの指摘がなされ、
それを軸に、町山氏などのいわゆるラディカル左翼が、つるの氏への大バッシングキャンペーンを実施した。
ツイートを眺めていると、事の顛末の検証もそこそこに、「つるの氏は差別主義者である」という大前提のもと、
国を憂いてみたり、人権だの歴史だの一見アカデミックに見えるよな事を論じている気になってみたり、そんな投稿が目に余った。
そもそもつるの氏がなぜ外国人が犯人であると推定したのか、彼は真に差別主義者なのか、たった彼が投じた2,3のツイートから解明できるはずもないのに、
判別できないからこそ足りない部分は、既に自分が用意した結論に都合がよいように脳内補完して、
「差別主義者」のレッテル張りによる罪人認定を行い、自分が満足するまで非難・攻撃を行って。
しかも、そういった攻撃は正義の鉄槌であると信じて疑っていないのがまたやっかいだ。
自分の思想をさもこの世の条理であるかのように、ちょっとアカデミックを気取った書きぶりで、さも自分は常に正しい事しか発言しない知識人であるようにふるまっている。
結局、
②自らが正義を行使していると思い込む事による全能感、自己満足
③同じ思想を持つものと一緒になって行動する事による高揚感、孤独の解消
これらが蜜の味を味わいたいがために、他害行為を正当化しようと、罪人であるとのレッテル張りを行っているのだ。
でも本人にその自覚があるはずもなく、あくまで自分は絶対的な正義の執行者であると思い続けている。
本来すべての人のすべての発言には(私一個人の意見です)という注釈がついているはずなのに、
自分が正しいと思った事は、普遍的に正しいと思ってしまっているのはなんで。
どうして、民意によってえらばれた多数の人の意見の上成立した、政治上の「正しい」を疑うことはできるのに、自分一人が感じた「正しい」を疑ってみようと思わないのかな。
差別が悪い事だとは分かっているのに、人を差別主義者だと一方的に認定して攻撃する事は正しいなんて、そんな理論が正しいってどうして思っていられるのかな。
FAXで送られてくる破損部品情報みたいなのを1日300件処理するバイトの経験からお答えすると
物体が反射する光を感じ取ることができるってのは理屈ではわかるよ?
でも反射した光を『見る』ことによって物体の3D構造や距離感を正確かつ瞬時に脳内で把握できちゃうって冷静に考えたら凄すぎないか?
その点耳や鼻はしょぼいよ
聴覚だって嗅覚だってなんとなくの距離感くらいはわかるかもだけど、音とか臭いをどれだけ反射させたところで
目の前に置いてあるものがウォーグレイモンのフィギュアなのかフィリップスの髭剃りなのかすら判別できないわけじゃん?
目って当たり前にありすぎて皆気にもとめてないけどちょっと過小評価されてると思うんだよね、こんなんSFの世界の器官じゃん
もしかしてイルカとかコウモリだと『見る』に近い感覚で聞こえてたりするんだろうか
不思議だなぁ
空を見上げると雲がある。夜は星が見える。
今見ているこの雲は何という名前なんだろうと思って断片的な知識を思い返すと、〇〇雲と名のつくものがいくつか思い出される。
これは一つ一つが小さいから入道雲ではないな。イワシ雲とか羊雲ってあったよな。イワシみたいな雲って何なんだろう。大体の雲は羊に見えてくるな。
スマフォで調べてもイマイチどれに当てはまるのかわからなくて断念する。
白鳥座とか蠍座は有名な星もあって形もそれっぽいから判別がつく。
ベガがあるから琴座なんだろうなとは思うものの、琴には見えない。
蛇遣い座に関しては、そもそも蛇遣いに関する理解が無い。人間系のは体勢がよく分からないし空だと上下も分かり辛くて頭に入ってこない。
こういうのがスッと頭に入って、空を見ただけで見分けが付く人ってすごいなあと思う。
『元増田を読みやすくすると言いつつ悪文を書く』、『元増田を文字通り読みやすくする』
どちらが増田(anond:20200905231824)が意図したものなのか判別不可能な出来だったので
該当増田(anond:20200905231824)をリテイクしました
※ 読点や利用記号は面倒くさいので読みやすくする増田(anond:20200905231824)の原文に倣いました ↓
読みやすい、という ほめ言葉 を嫌がる人が多い、と言われています。しかし読みにくいとされる文章は存在します。
お世辞を言うにしても読みにくい文章に対して「読みやすい」とは言いません。
もちろん、「読みやすかった!」とだけ言われた場合、素直に喜べない気持ちはわかります。
書き方がよくありませんでした。ここで想定しているのは、趣味で小説を書いている人たちです。
感想が単に読みやすかった、だけなら喜べないのは分かります。確かに「他に言うことはないのか?」と思います。
しかし喜べないないからといって怒ったり傷つく必要は無いと思います。読みにくかった、という感想より良いではありませんか。
読みやすいという評価を物書き(同人界隈では字書き)は好まない傾向にあるが、ポジティブな評価をネガティヴに受け止める必要は無い。