はてなキーワード: 判別とは
今回のキャンペーンは男に性的なイメージを想起させるからダメという主張を目にしますが、
眼鏡や日焼けや制服といった身の回りにありふれていて社会的に認められているものから
奴隷少女とか犯罪的で社会的に認められないシチュエーションまでいろいろなのです。
社会的に禁止していようとしていなかろうと好きな人は好きで嫌いな人は嫌いなのです。
その中でもタイツはありふれていて社会的に認められているから安心てください。
「就活服着ているからこの女はビッチだ」なんてことにはならないでしょう?
更に私が某二次元画像掲示板を観察したところタイツはジャンルとしてロリやショタやリョナといった
一般社会で許されないものに比べてもタイツジャンルは弱小です。
規模が大きく社会的に許されにくいジャンルの前に一般的で弱小なジャンルを叩くのは理解できないです。
「アカギはいてるからこの女はビッチだ」なんてことにはなりえません。
違いが分かる男は売る側の方か今回のキャンペーン以前からの剛の者くらいでしょう。
そろそろ結婚も考えなきゃ見たいな歳になって、いろんな人と話して自分磨き(笑)していくうちに
「何がキモくて何がキモくないのか」の判別が分かるようになってきたんだよな
そしたら何が起きたかって、オタク女がめちゃめちゃキモく感じるようになってきた。
オタク女って距離感がおかしいんだよね。フェチとかエロとか世界観とか、そういうのって本来仲良くなってから共有するものじゃん。
そういうのがマナーだし、相手に不快感を与えず、かつ自分の世界観に染めるには「慣らし」とか「紹介」が必要なの。
そりゃそうだよね、オタク女はそのフェチとかエロとか世界観とかが『趣味』だから、そういうの丸出しにした方がオタク女同士仲良くなれる。
「ケーキすきなんスよね」とか「車好きなんですよね」みたいな平行の世界にフェチとかエロとか世界観がある。
でもそれに慣れてない人間からしたら滅茶苦茶キモい。「あー、そういう世界観なのね、特別視してもらいたいのね、人と観点違って面白いって思ってもらいたいのね」
というのをひしひしと感じる。いや素敵だと思ってもらいたいなら、ちゃんと相手のこと考えて上手く営業しなよって思う。初回から筋肉がいいよね~とか語るな。胸鎖乳突筋とか語るな。
自分がオタクというかそういう知識が無駄にある分、そういうのが好きな人たちがどんなジャンルが好きでどういう性格でそれに関するいろいろな事件とか炎上とか浮かんできちゃうんだよ。
思った以上に反響があって戸惑ってます。一部に法務がなんだ心配されていますが、それどころじゃないだろうから大丈夫でしょう。ファミマ最高!
思った以上にセブンが好きな人多いのね。同様にファミマ嫌いな人多い。ローソンはズッ友だよ?
店舗が汚い、店が暗い、喫煙所無くせ、帝京魂ウザい、イートインの三角ポップの教習所邪魔、変な家庭教師の広告嫌い。分かります。SVだってなんかな~って思います。店内放送の質は3大チェーンでは最下位だと自負してます。良くならないでしょうね。あとセブンよりファミマとローソンはオーナーの裁量に自由があるので、よくも悪くもオーナーの色が店に出ます。セブンはそんなもん出させません。指示待ち人間はセブンおすすめ。分厚いメソッドが貴方を物言わぬ奴隷にしてくれます。
飯が不味い。そこら辺はファミマの歴史見てください。西友の弁当美味しい?ローソンも同じ。ダイエーの弁当美味しい?もちろん過去の話で今じゃ伊藤忠と三菱の代理戦争だけど、昔からの付き合いや考え方ってのは変わらないもので、もちろんファミマもお母さん食堂とか言って中食頑張ってるよ。今のコンビニの主力は中食。弁当より儲かるし!オススメはおにぎりと味噌汁と中食でデスクで定食だ!おにぎりが不味い?諦めろ!あれやこれやで開拓や改善は時間がかかる!まぁ、正直なんで香取慎吾に女装させたのか分からないです。あれでおふくろの味とか訴えられる訳無いと思うけどね。
コーヒーの話題もあったので一つ。なんかセブンイレブンがコンビニコーヒーの元祖みたいな面してファミマとローソンが後追いみたいな感じだけど、セブンイレブンが最後だからね。最後尾からやってきて一気に抜き去ったよ。俺ら当て馬?セブンイレブンの凄さはあんなに使いづらいと言われた佐藤可士和のセブンカフェをゴリ押しできる強さだね。味も良いけど。同業他社もあれ見て思ったよ「RとLって右と左か?」「コーヒーとカフェオレしか無いでやんのw」ってね。カップ自動判別機能型が出た時は勝利すら感じたけど結果はご覧の有様。コンビニ店員にクソ面倒な客対応任せて、とにかく使わせて慣らせば良いんです。使いやすさとかどうでも良い。あと考えさせない。ミルク要る?暑いの?冷たいの?これだけ。押せば出る。ラージは2回押してねとか敗北よ。機械が埋まってたら後続の客は買わないから。何故か弊社は種類が豊富になり、ローソンは種類に加え手渡しになった。確かに減らすとサービス改悪に思われるから仕方ないけど、たぶんコーヒーとカフェオレ以上を求める客はスタバ行くよね…手渡しに至ってはクルーの呪詛しか聞こえてこない。
セルフレジがあるからローソン、ファミマ行くって人。ありがとう。王者はいつもの様子見だから、世論がセルフレジ渇望したらきっと対応するよ。アレ現金使えないけど、バイトが適当に性別と年齢押してるデータがSuicaや電子マネーで確実なデータで取れるから王者もやりたいだろうけど、正直人件費減らせないし透明なカーテンで良いよねって考えてそう。セルフレジって大半はスムーズに使うけどやべぇーのが使うとマジで友人の数倍時間とマンパワー取られてぶっちゃけ迷惑。あと万引にも影響出る。アレのおかげで見分けつきにくい。有人レジ最高。
あれやこれや書いたけど、ファミマは今後純度100%の伊藤忠になるので、まぁそのなんだ、期待はあんましないで。もう抵抗は出来ない。無印良品とかほんと何だったんだろうね。無印あれば女子来ると思ってたのかね?そのくせガツ盛とか作るし。ローソンも最近ソッチ方向だし商社内でのブームなのかな?お互い中小のコンビニチェーン吸収したけど、そこの強みを全く活かせずクルーの手間だけ増やして、吸収されたチェーンのファンを怒らせるばかり。他社ながらスリーエフの焼き鳥を死なせたローソンはマジで凄い。結局焼き鳥じゃなくて鶏が欲しかったんだろうな。アレくらいの冷酷さを弊社も持ちたいね。
ちなみにみんなが思っている事はオーナーも思ってて、研修での新商品試食会とかでも意見出るけど何も変わらんわ。SVはなだめつつ這いずり回ってたまにはキャバクラ連れてってオーナーや店長を諦めさせる為に日夜頑張るのです。ぶっちゃけエクレアの成功を今だに懐かしがってるフジテレビってイメージで良いよ。ファミマは。
セブンイレブンだけじゃなくローソンもファミマも今後はより味はそのままに量は減っていく。これは断言できる。それだけ裏はいっぱいいっぱいだ。無理させたらコンビニオーナーのてるてる坊主が全国で発生するからそれは貸付している各社的にも困る。なのでお客様に負担していただく。今の味と量で満足出来ている方もその内もう一品買う事になる。そして文句言いつつコンビニで買うのです。コンビニに来るのは『余裕のない』人です。時間にも、お金にも、心にも。だから我々コンビニは極力考えずに思ったままに簡単にお買い物や生活サービスを出来るように進化していくのです。これからは付加価値だと各社頑張ってます。弊社ですとジムやコインランドリーと併設とかもはじめてます。他社はオフィスに機械置いたりオフィスグリコみたいなのも始めたりしてます。駅ナカは最もたるものです。改札無いは逃げ道が無い。10年以上前から頭打ちだった業界が見つけた最後の楽園。東武はファミマ、東京メトロはローソン。JR西日本はセブンイレブン。目指すは胡座かいてふんぞり返っているNEWDAYS!アイツ倒した時に業界的に一段落つきそう。
ほらほら、どんどん貴方の生活に溶け込もうとしていますよ?嫌でも買うしか無いんです。歩けて選択出来る今は良いけど老いたらどうする?思考力は低下し足腰も弱る。宅配サービス?コンビニもやってます。セブンイレブンもファミマもローソンも、年老いた貴方をお待ちしております。
馬鹿がうっかりウンコを食うと死に、「ウンコは臭いので食わないようにしよう」と思った、というかウンコを臭いと感じた個体が生き残ってきたからウンコは臭く感じられるわけだろ
ってことは、臭くないウンコはマシで、超臭いウンコはその分食うとヤバかったりするのか?
でも青酸カリとかって無味無臭じゃん 人間の嗅覚は完全無欠ではない、どころかかなりゴミ 致死毒すら判別できないのに毒性の強さなんてわかるわけない はい論破
でもウンコって生活に密接してんじゃん どんな生き方をしようと、ウンコの臭いを嗅がずに暮らすのは難しいよ 海で暮らそうと山で暮らそうとウンコの臭いは嗅ぐ 潮の香りや草の香りは嗅がないことがあるかもしれないけどね ってことは人類がかなり得意とする香りなわけだし、かなりうまく判別できたって不思議はない 翻って、自然界には存在しない青酸カリが分かんないのはある種仕方がないというか、そんなものまで対処しろっていうのは酷でしょ
性加害という言葉をきちんと理解することは必要だと思うんだけど、男女含めて殆どはそれを理解できていないのだと思う。性加害は簡単に言えば、意に沿わない性的な接触・行為のことを言うんだけれど、はっきり言えばこの「意に沿う」かどうかは多くの人にとっては判断できないのである。
勿論、明らかな性加害というものは存在する。例えば夜道でぶん殴られて物陰に連れ込まれるなどの性的接触を受けたならばこれは間違いなく性加害だし、それに類する明らかな性加害というものは当然存在する。一つの明確な基準としては、あまり面識のない異性や同性から受ける性的接触は、多くの場合性加害的である、といったところじゃないだろうか。あまり面識のない異性・同性との性的接触に関して抵抗のない女性だって当然いるにはいるのだろうけれど、個人的にはこれは相互的性加害と言って良いと思う。つまり、愛情を伴わない性的接触というのはお互いの為にならんという、まあそういう教条的な立場の表明なのだけれど、ひょっとしたらこういう見解は世の見解からズレているのかもしれんね。僕には分からない。
とにかく、明らかな性加害というものは存在しているし、敢えて申し上げるならば、仮に同意などを取り付けていたとしてもお互いに愛情のない性的接触や行為というものは加害的であると言って差し支えないのではないかとも思う。のであるし、さらには、翻ってこの世界には性加害的であるかどうか判別のつかない性的接触や行為というものが満ち溢れている。
一晩だけ盛り上がっても後になるとうんざりしてしまうようなそういう経験とか、あるいは一時的に愛情を持ったと思っていたのだけれど錯覚で、結局お互いに愛情の伴わない欲望充足を行っていただけだったとか、そういう結果論的な結末についても広い意味で性加害的な営みだと言えるんじゃないかということである。物事が全て終わった後に、「結局のところ心の底から望んでたわけじゃなかったよね」って気付くことだって、世の中にはあるんじゃないか、ということである。もし仮にそういうことが起こったとして、「ま、いいや」って開き直れる人ってそんなに多くないんじゃないかって思いません?「別に望まない性的な接触・行為をそうと知らない内に行っていたとしても、ま、いいや」って。
だって、愛情がない性的接触・行為をして下さい、って仮に人から頼まれたとしたら皆嫌でしょう? もしそんな風に頼まれたとして、「はい! 愛情のない性的接触・行為を喜んで行います!」って答える人ってあんまりいないと思いません? いや勿論いるんですよ実際にはそういう人も、でも、殆どの人にとっては嫌でしょう? それって性加害的と言っても過言ではないでしょう? だから、例え性的な接触・行為の後に随分時間が流れたとしても、最終的に「あれって別に心の底から望んでたわけじゃなかったよな……」ってな結論に至ったとしたら、それは微妙に加害的な側面を備えていると言って良いんじゃないだろうか、とかそういう話を僕はしたいわけです。勿論、そういう見解に事後的に至ったところで、「ま、いいや」とすっきりできる人も中にはいるんだろうけれども、恐らくそういう人っていうのは少数派だと思うし、あるいは仮にそういう人がいたとしても、恐らくそういう人にとっては愛情の伴う行為と伴わない行為はあまり分化していないのだろうなと思うわけです。つまり、結局のところその二つをしっかり区別していないところの人は、愛情の伴わない性的接触・行為に抵抗がない傾向があるんじゃねーかなとかそんな風に思う。
まあともかく、愛情の伴わない行為にはあまり多くの人は同意しないのは真実だと思う。僕だってそうだしね。
でも、実際のところその行為に愛情が伴っているかどうかというのは多くの場合事後的にしか認識できない。だから、振り返ってみるとその行為が加害的であった、ってなオチがついちゃうことはままあるんじゃないかなと思う。そう考えると、色々と我々の認識や行為に疑問符がつきまとうことになるのではなかろうか。我々は本当に望む行為を行っているのだろうか? と。
とは言え僕が言いたいのはそういう一般論的な話じゃなくて、最近の増田のよくある論理に対する反論なのである。「貴方が行っている行為、それは加害的だ」という意見をよく見かけるんだけれど、はっきり言って普通の人間には、普通の性的な接触が加害的かそうじゃないかなんて見分けられないってことなんですよ。いや勿論、繰り返すように明らかに加害的な行為というのはあるんだけれど、加害的かどうかが実のところはっきりしないような行為を、我々が「加害的だ」って言っちゃうのは認識の越権みたいなところがあって、我々は多くの場合その判断基準をきちんとは持っていない。ノリノリでかましちゃった後にそれを後悔するとかそういうことを簡単にやっちゃうんですね、我々は。ノリノリで盛り上がって、結局はそれは望んだものじゃなかったよね、なんて結論を付けちゃうことなんか、メチャクチャたくさんあるんです。自分が望んでいると思って行った行為を、結局事後的に「別に望んでなかったよね……」と振り返ることなんてたくさんあるのです。まあ要するに、我々の認識っていうのは多くは間違っていて、そのことを我々は前提として行動するべきなのである。
「加害的だ」「加害的でない」それらの言葉は我々の不安定な認識の上で往々にして入れ替わってしまう。我々の言葉はいつも海の波間に漂う板切れみたいなもので、海そのものを表現しているわけではないのだから。
最後に、僕の好きなポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアの言葉を書いて終わりたいと思います。
「僕たちが
望んだけれどやらなかったこと
それら全てのために
僕が夜海辺を歩く時の
あの気持が作られたのだ」
性加害という言葉をきちんと理解することは必要だと思うんだけど、男女含めて殆どはそれを理解できていないのだと思う。性加害は簡単に言えば、意に沿わない性的な接触・行為のことを言うんだけれど、はっきり言えばこの「意に沿う」かどうかは多くの人にとっては判断できないのである。
勿論、明らかな性加害というものは存在する。例えば夜道でぶん殴られて物陰に連れ込まれるなどの性的接触を受けたならばこれは間違いなく性加害だし、それに類する明らかな性加害というものは当然存在する。一つの明確な基準としては、あまり面識のない異性や同性から受ける性的接触は、多くの場合性加害である、といったところじゃないだろうか。あまり面識のない異性・同性との性的接触に関して抵抗のない女性だって当然いるにはいるのだろうけれど、個人的にはこれは相互的性加害と言って良いと思う。つまり、愛情を伴わない性的接触というのはお互いの為にならんという、まあそういう教条的な立場の表明なのだけれど、ひょっとしたらこういう見解は世の見解からズレているのかもしれんね。僕には分からない。
とにかく、明らかな性加害というものは存在しているし、敢えて申し上げるならば、仮に同意などを取り付けていたとしてもお互いに愛情のない性的接触や行為というものは加害的であると言って差し支えないのではないかとも思う。のであるし、さらには、翻ってこの世界には性加害的であるかどうか判別のつかない性的接触や行為というものが満ち溢れている。
一晩だけ盛り上がっても後になるとうんざりしてしまうようなそういう経験とか、あるいは一時的に愛情を持ったと思っていたのだけれど錯覚で、結局お互いに愛情の伴わない欲望充足を行っていただけだったとか、そういう結果論的な結末についても広い意味で性加害的な営みだと言えるんじゃないかということである。物事が全て終わった後に、「結局のところ心の底から望んでたわけじゃなかったよね」って気付くことだって、世の中にはあるんじゃないか、ということである。もし仮にそういうことが起こったとして、「ま、いいや」って開き直れる人ってそんなに多くないんじゃないかって思いません?「別に望まない性的な接触・行為をそうと知らない内に行っていたとしても、ま、いいや」って。
だって、愛情がない性的接触・行為をして下さい、って仮に人から頼まれたとしたら皆嫌でしょう? もしそんな風に頼まれたとして、「はい! 愛情のない性的接触・行為を喜んで行います!」って答える人ってあんまりいないと思いません? いや勿論いるんですよ実際にはそういう人も、でも、殆どの人にとっては嫌でしょう? それって性加害的と言っても過言ではないでしょう? だから、例え性的な接触・行為の後に随分時間が流れたとしても、最終的に「あれって別に心の底から望んでたわけじゃなかったよな……」ってな結論に至ったとしたら、それは微妙に加害的な側面を備えていると言って良いんじゃないだろうか、とかそういう話を僕はしたいわけです。勿論、そういう見解に事後的に至ったところで、「ま、いいや」とすっきりできる人も中にはいるんだろうけれども、恐らくそういう人っていうのは少数派だと思うし、あるいは仮にそういう人がいたとしても、恐らくそういう人にとっては愛情の伴う行為と伴わない行為はあまり分化していないのだろうなと思うわけです。つまり、結局のところその二つをしっかり区別していないところの人は、愛情の伴わない性的接触・行為に抵抗がない傾向があるんじゃねーかなとかそんな風に思う。
まあともかく、愛情の伴わない行為にはあまり多くの人は同意しないのは真実だと思う。僕だってそうだしね。
でも、実際のところその行為に愛情が伴っているかどうかというのは多くの場合事後的にしか認識できない。だから、振り返ってみるとその行為が加害的であった、ってなオチがついちゃうことはままあるんじゃないかなと思う。そう考えると、色々と我々の認識や行為に疑問符がつきまとうことになるのではなかろうか。我々は本当に望む行為を行っているのだろうか? と。
とは言え僕が言いたいのはそういう一般論的な話じゃなくて、最近の増田のよくある論理に対する反論なのである。「貴方が行っている行為、それは加害的だ」という意見をよく見かけるんだけれど、はっきり言って普通の人間には、普通の性的な接触が加害的かそうじゃないかなんて見分けられないってことなんですよ。いや勿論、繰り返すように明らかに加害的な行為というのはあるんだけれど、加害的かどうかが実のところはっきりしないような行為を、我々が「加害的だ」って言っちゃうのは認識の越権みたいなところがあって、我々は多くの場合その判断基準をきちんとは持っていない。ノリノリでかましちゃった後にそれを後悔するとかそういうことを簡単にやっちゃうんですね、我々は。ノリノリで盛り上がって、結局はそれは望んだものじゃなかったよね、なんて結論を付けちゃうことなんか、メチャクチャたくさんあるんです。自分が望んでいると思って行った行為を、結局事後的に「別に望んでなかったよね……」と振り返ることなんてたくさんあるのです。まあ要するに、我々の認識っていうのは多くは間違っていて、そのことを我々は前提として行動するべきなのである。
「加害的だ」「加害的でない」それらの言葉は我々の不安定な認識の上で往々にして入れ替わってしまう。我々の言葉はいつも海の波間に漂う板切れみたいなもので、海そのものを表現しているわけではないのだから。
最後に、僕の好きなポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアの言葉を書いて終わりたいと思います。
「僕たちが
望んだけれどやらなかったこと
それら全てのために
僕が夜海辺を歩く時の
あの気持が作られたのだ」