はてなキーワード: 侮蔑とは
私は歳のせいにする奴が大嫌いだ。「歳だからできない」という言葉は非常にたちが悪い。理由は2つ
1つめは、お前も歳をとれば俺の言っていることがわかるさという侮蔑に似た態度をとっているようにみえるからである。なんかこっちが悪いみたいじゃないか。
2つめは、反論したくてもできないからである。聞き手が年下である以上、話し手のほうが長く生きているという事実は絶対に覆らない。
何でこんな挑発じみたことを書いたのかというと、「もう歳だからものを覚えられない」って人があまりに多すぎるからである。
そりゃ、歳をとると、記憶力が低下するのはしっている。けれど、その欠点を今までの人生の経験やかちえた技術で補うことは可能だと私個人は実感している。
中学生の時の勉強の仕方は今から振り返ればすごく要領が悪かったはずだ。
高校生の時はどうだろうか。中学よりは多少要領のよい勉強を行えただろうが、それでも今から振り返れば要領が悪かったはずだ。
こうして、私たちは歳をとるごとに勉強とか記憶するコツ、技術を向上させている(はず)なのである。
私から見れば、あることができないのは、歳のせいだからではなく、若いころの怠慢のせいだからである。
「歳だからできない」ではなく、「若いころにさぼった影響が今になって来ているためできない」のである。
ともかく、平気で歳のせいにするのはやめてくれないかなぁ。
「お前は不細工だね、キモイ」と言われたわけでもなく、ただ「俳優のなんとかがイケメン」という話題が出ただけで不機嫌になって拗ねる男は笑える。
自意識の当たり判定おかしいだろ。イケメンがイケメンだという話してるだけで、お前が比べて不細工とは誰も言ってないから。
っていうかお前の話をしてないから!いま、議題にお前は上がってないから!!!
むしろそういう傷つき方されると、お前が美人女優やアイドルの話題を出したとき「それと比べてお前らみたいな女は…」と、
暗に侮蔑してるから、自分がイケメンの話題出されただけで傷つくんじゃないかって、勘ぐるわ。
美人は美人の話でいいじゃん。イケメンはイケメンの話でいいじゃん。一般人は容姿で食ってるわけじゃないから比較対象外でしょ。
幻冬舎編集部 『ルポ 中年童貞』新書発売決定!!<ルポ中年童貞> - 幻冬舎plus
とのことですが
中村淳彦という人は
「中年童貞の問題」を主張する中村淳彦氏 - Togetterまとめ
こういうクズなので、皆様そこのところよろしくおねがいします。
ピザ(遺伝子組み換えでない) @inumash 2014-02-27 00:20:04
「中年童貞ネタ」で新書を出すからそのための炎上マーケティングでもやってるつもりなんでしょ。幻冬舎のサイトでコラムはじめてるから多分そこから出るんじゃない?マジレスしても本人の特になるだけだし、侮蔑の目線を送りつつ本が出ても買わないように周りの人に逆口コミしてあげるのが社会のためかと。
約1年前ですが、 id:inumash 氏が大正解だったっぽいですね。
デートのイニシアティブを早くとらない男性を「情けない男」と呼び、デートのイニシアティブがあまりにも早く行われれば「レイプ犯」とその男性を呼び、彼がうまく引っ張ってくれない場合「最低な男」と呼ぶ。
この文章が、恋愛について受け身な人の嫌な点を非常に的確に表現していると思った。
鶉まどかさんのブログに出てくる「クラッシャられ男子」は、男子だから情けなくて最低と評されるのであって、女子だったら許されているのが現状だ。そこそこ可愛い女子に生まれて愛想も良ければ、クラッシャられ男子レベルの受け身ぶりでも、口説かれて結婚して子供を産んで…と、ドロップアウトせずに人生の王道を歩み続けることが出来る。
受け身で居ることが許されず、口説いた相手に拒否されるリスクを男性だけが一方的に負わされているのが、「男性性役割」であり、「男性差別」の一つなのだと思う。一方的にリスクを負わされていることに気づき、不平等な関係から降りたのが「草食男子」なのかもしれない。既得権は、得ている側は気づかないものなので、「草食男子」という降りた存在が現れたことで、女性が既得権を失う可能性が初めて可視化されたのではないだろうか。
しかしこれからも、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性と、その女性を捨て身の献身でもって落とした男性」のストーリーは男女の恋愛における憧れの対象として語られ続けはすると思う。フィクションだけではなく、芸能人の結婚話などで定期的に実話が投下されるとも思う。男性が「美貌の女性」に憧れる限り、女性が「捨て身の献身」に憧れる限り、そうしたストーリーの人気は続くだろう。しかし「美」も「献身」も希少であり、非常に高い価値を持ち、凡人には手が届かないものだ。簡単に手が届くという勘違いは、その人にとっての「世界」を「敵」に変える。凡庸な多くの人々にとっては、メジャーリーグやセリエA、オリンピックを観るような気持ちで、遠巻きに憧れの視線を送る程度がちょうど良いのだと思う。
個人的な拒絶を引き受けるよりもむしろ、若い男性は女性をセックスのための物として見るように変えることを学ぶ───物に拒絶された方が彼はあまり傷つけられずにすむ。物として扱われることは彼女に疎外感を与え、拒絶されることは彼に痛みと怒りと弱さを感じさせる。
「男性は女性を物のように扱う加害者で悪人で絶対的強者」という一方的な認識に一石を投じる解釈だと思う。
女性を物のように捉えることは、拒否されるリスクを男性だけが一方的に負わされ、そうした社会は変えられないという現状に対する、個人的な適応なのだ。夫に傷つけられ失望しきった妻の心が麻痺し、夫がATMにしか見えなくなるのも、一種の精神的な適応であると思う。非人間的な考え方の根源には、これ以上傷つくことを恐れるという人間的な理由がある。「だから女は肉便器、男はATMという考え方は正しい」と言いたいのではない。人間関係の問題を解決に向かわせるためには、加害者批判に終始するのではなく、加害者理解が必要なのだと言いたい。
男性は女性を性的に拒否すべきではないという強い規範も存在する。女性が幼い男性を強姦するケースもあるが、笑い話やポルノ的消費で片付けられてしまいがちだ。女性ストーカーに怯える男性も「男らしくない」と罵倒される始末で、男性被害者こそセカンドレイプに晒され続けている。男性がセカンドレイプに晒されることを当たり前と考えていると、女性をセカンドレイプに晒すことも当たり前になる。セカンドレイプの悪質さに、被害者が女性か男性かということは、一切関係が無い。
第二次世界大戦における日本人男性は、「武士道」の訓練をまだ受けていた。「武士道」は、屈従の方法であったので日本の軍人は、進んで天皇および祖先のために死んだ。死以外に勝利への代替方法は許されないと考えるように彼は訓練を受けた。神風特攻隊は、「武士道」、すなわち「他者」への総合的な奴隷になる道の結果である。
『男性権力の神話』には、これまで男性がいかに危険な仕事に従事し、いかに使い捨てにされ、いかに国家に殺されてきたかという話が繰り返し出てくる。若い男性の労働力や命を、「名誉」を餌にして権力者が根こそぎ収奪して富を得ている構造がある。現在も「生活保護という不名誉」から逃れるために過酷な労働をしている男性が数多く居る。「他者」への総合的な奴隷、というのは上手い表現であると思う。
歴史を振り返るに、女性よりも男性の方が、よほど従属的だ。発言や態度が挑発的であったとしても、実際の行動が集団に従属的なのである。最近、男性が従属的で自尊心が低そうに「見える」女性を好むのは、支配欲というよりも共感なのではないだろうかと思う。男性向けの創作で、巨乳の存在に萎縮する貧乳が描かれたりするが、「優れた同性」の存在にやたらと萎縮する傾向は、女性より男性の方が、実際には強いと思われる。身体的な特徴を優劣・上下の関係に単純化したがる傾向は男性によくみられる。強さ議論が好きであり、劣ったものを侮蔑することを好む。男性の自殺が多い原因もここなのではないかと思っている。これが男女の器質的な違いによるものなのか、社会的な扱いの違いによるものなのか、あるいはその両方なのかは、専門家ではないのでわからない。しかし男性は「男は強くあらねばならない」と考えているため、自分が弱者・被害者の立場だったとしてもその事実を受け入れられず、強者・収奪者の価値観を内面化し、「収奪の社会構造を肯定する弱者」となってしまいやすいのではないかと個人的に思う。その結果が「喜んで徴兵される」「経済的に失敗したので自殺する」などの、集団に屈従した行動ではないか。
性的少数派である「ゲイ」と「ロリコン・ショタコン」の違い http://anond.hatelabo.jp/20150128232843
ジェンダー論者による「モテるヒント」 http://anond.hatelabo.jp/20150129001630
男女の人権と欲求と差別と、遠い未来についての思考メモ http://anond.hatelabo.jp/20150125162654
反差別や反原発への熱心な発言が多い某文化人のtwitterアカウントを眺めるたびに
その人が昔、書き散らしていた本の中に、ひどく女性を侮蔑したものがあったことを思い出す。
おそらく、本人たち(対談形式だった)は、きついブラックジョークだと思ってやっていたのだと思うし、当時と今では倫理観に多少の違いがあるのも分かる。
あの人は、そんな仕事を昔したことを、覚えているだろうか。
https://twitter.com/hazuma/status/550273991530008576
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/hazuma/status/550273991530008576
社会的文脈の中でのセックスワーカーを話題にあげる、またはそれらの味方についた(つきたがる)ことで、言及した人間の立ち位置がフィックスされる、つまり自身の存在そのものや、自身の言動の是非を社会的弱者=許容されるべき存在に窶すことができ、それが逆説的に"最強の弱者"足りうる。そしてそれらを積極的に武器として使う人々もたくさん存在して、弱者に寄り添う言動をすることで"弱者"という強さを得ようとする"厄介さ"への対処は難しい。またそれらの周縁に存在する"インテリ層"を計算にいれる自称セックスワーカーも少しはいる。
東は言及する側の立ち振る舞いにフォーカスしているわけだし、セックスワーカー当人を侮蔑しているわけではない。正直いって"戸惑い"という語句がわかりづらく思えたが、どう読めばセックスワーカーへの侮蔑と取れるのか。
これは俺個人の意見だが感情的になって罵倒してる人たちが(それが当事者であっても)セックスワーカーの一番の敵かもしれない。なぜなら、結局この言及に対して「社会的弱者を攻撃するな」と反応してしまうのは、件で東が言うところの「挙動不審なインテリ」が「戸惑いを積極的に武器に使っている」状態にややもすれば近く、言論される場そのものの健全性への言及を、この手の感情論で封殺してしまうと、無関心なマジョリティを議論に巻き込めないからだ。言及して足を踏み外して不用意な発言に至れば最後、弱者の味方を標榜する好戦的な人たちから差別主義のレッテルを貼られるような爆弾を抱えることになるような社会問題に、多くのマジョリティは寄り付くことはなく、最終的にその問題はますます孤立することになる。というよりもう殆どしているし、マジョリティであり、まるで社会問題など知らない俺は、その延焼の被害を被りたくないから匿名のここに投稿している。
例えばこのように訊かれる。
表面上こう答えるだろう。議論など沸かない。
「決して差別されるべきではないさ。」
実際にはしったこっちゃない。俺は悪ではない。しかし後ろ指を差されるのは御免だ。レイシストのレッテルを貼られるのは御免だ。他人の地獄など知ったことか。
かくして残されたのは本物の弱者と自称弱者と差別主義とインテリと弱者の味方にすることを武器にしようとする人々なわけだ。問題は問題のままでマイノリティはマイノリティのままなわけだ。
一生、自分の自尊心やら承認欲求やらの肥やしに弱者を利用して生きればよい。それを醜いと俺個人は思うが、糾弾できるだけの人間でもない。
余談
ぶっちゃけ、マイノリティに身を寄せることで、自身の立ち位置を覆そうとする人々はたくさん居たし、それはセックスワーカーでなくともありとあらゆるマイノリティに言えることでは、と思う。それで食ってる人たちもたくさんいるし、ひとつのコンテンツ産業として成立もしてますしね。
セックスワーカーは弱者ではないというのが本質だ、という意見があるのは承知済みだがそこらへんは掘り下げてない。多くの人間が弱者と捉え、東も件の発言においてはそのような前提を持っているものとこの投稿では見做す。
全体的に読み違えてたらめんごめんご
この界隈には決して絡むまいとしていたが、どうしても我慢しきれないので書く。
まず言っておこう。自分はチキンだ。誰かを面と向かって罵倒する度胸はないし、そもそも嫌だ。
真偽が定かでないことは保留するし、「事実だったら」というエクスキューズで人を叩くのは良くないと思っている。
だから、所謂ナマモノと呼ばれる「実在の人物を基にした、どこまで誇張されているか判らないもの」に対しては触れたくなかった。
だが、流石にこれは美化しすぎだ。いくらなんでもそれは良くない。
その後、彼は自分を切り売りすることでたちまち注目を集め、一躍時の人となった。一見危なっかしくもあり、同時にそれが緻密な計算によるものにも思えた。
あの人の素晴らしいところは、誰1人として邪険に扱ったり誹謗中傷したりしなかったところだ。こんな人がはてなにいただろうか。
邪険に扱ったり誹謗中傷をしないことだけが、相手を尊重することではない。
「ごめんなさい、あなたに理解させるように僕はうまく説明できなかった」と言うことが、侮蔑の台詞であることもある。
優しい言葉で、オフレコだと言われた話を「僕は認知します」と〆ることが、誹謗中傷に該当しないだろうか。
(通常、認知という言葉は、子供が出来たときに自分の子であると認めるという意味だ。それは、何を意味した単語だと周囲が受け取るだろうか)
一般的には重大な個人情報である病歴を披瀝した上で、離婚しますと淡々と語ることが、邪険に扱わないことだろうか。
笑顔で、優しい顔で、「止めてくれ」という相手に対して「何時でも力になるよ」とコメントすることは、本当に優しいだろうか。
前向きな提案に聞こえる「はてな村カテゴリーを作ろう」という提案は、「ファンが居て交流したいから、オマエのプラットフォームを利用させろ。バナー広告でいくら貰ってるか知らないが、定期的にトップに見えるところに自分の会社のエントリーを載せるぞ。リクルートするぞ。カネは出さないが、要望は当然言うぞ」というずいぶん自分勝手な言い方を、翻訳して前向きに見えるようにオブラートで包んだだけじゃないだろうか。
しかもそれが、線引きの難しい個人のブログを経由してと言う形でだ。
用法用量を守らないような薬の飲み方をしているように吹聴することは、自虐に聞こえるが交通違反自慢と同じだ。危険なのだ。
「いや、僕の自業自得なんですよ。大阪に行ったからペヤングしか食べられなくて厳しいけど」ということが、「オマエのせいでカネが無くなった」と変換して相手に伝わらないと、本当に思って書いていただろうか。
貴殿は馬鹿だからこれ以上話しても無駄ですねという言葉は誹謗中傷に聞こえ、僕の配慮が足りなかったから伝わらなかったという言葉は紳士に聞こえるとするなら、それは間違っている。
netcraftさんのしたことには、面白い事もあった。会社の経営は大変だろうし少なくとも現在運営されているのであれば十分に能力がある方なんだろう。
でも、やってはいけないことも多くあった。
少なくとも、忘年会でオフレコの話をみんなにしたという記事については「誰も邪険に扱わないし、誹謗中傷はしていない」とは断じて言わせない。
まともな顧問弁護士であれば即座にストップをかけるレベルの内容を記事を何本も書いていただろう。
はてなブログには、今日食べた美味しい食事の写真をアップしているだけの日記もたくさんある。
彼らは一切他人に迷惑をかけていないし、誰かに責任を負わせるような物言いもしないし、褒め殺しもしなければ危険な薬のみ方も示さない。
そんなひとはいくらでもはてなブログに居る。ただ、ブックマークを集めないだけだ。
netcraftさんは、面白い記事も沢山書いていた。他人から責められるような酷い記事も書いていた。
肯定も、否定もするのが、「はてな」という場所の正しいあり方のように思う。
もちろん心身の回復を祈っているが、今後は、他人を傷付けるか判断が付かない記事は、顧問弁護士や身近な人間に相談してからアップすべきだと思う。
繰り返しになるが、良い記事もたくさんあった。酷い記事もあった。はてなのプラットフォームにただ乗りするような広告もあった。
(小さく矮小かもしれないが)はてなの築き上げたブランドやPVを横から奪って広告することが、正しい事だとは思わない。
それらがすべてnetcraftさんであり、過度に美化したり、過度に貶めたりすることは、良くないと思う。
自分の商品を売ったり、自分の会社を売り込むのに、はてなブックマークのホットエントリーを使っているとはてな運営が判断すれば、
それはスパムだと扱われても、仕方がないのではないか。
個人的には、能力のある人が「はてな村」には在村していると思うので、はてなクローンを作ってゆるく交流すれば良いと思う。
netcraftさんを美化する「http://anond.hatelabo.jp/20141215184650」は個人の感想だが、それは誰かを傷付けていると、自分は思う。
無自覚であることや善意であることは、相手を傷付けて良い免罪符にはならないと自分は思うし、はてなブックマークを利用している人達もそう思っていてくれることを願う。
『そもそもツイッターを筆頭にあらゆるソーシャルなネットワークサービスが
自分達にとって都合が良く心地の良いなれ合い環境を作り出すツールや場所として存在しており、
故に淫夢のような特定集団の形成や、その集団がエゴイステイックに闊歩するのは必然なんじゃない?』
...というのは一旦置いといて、
ニコニコ動画も随分まっとうな物になったんだなぁと。
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子供としてはしゃげる場所、大の大人が子供になりたくて来る場所だ。
かつてのニコニコを知っている人は思い出せるだろう。
アニメや映画は丸上げされ、キーボードは飛び散り、狂った裸の馬が毒キノコを調理する光景を。
何でもアリの有象無象の輩が良く分からない情熱を持って馬鹿を競い合い、笑い合う。
そこではフリーダムな風を吹きあれていた。
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今は一般化を目指してテレビの代わりになってしまったと私は感じている。
非社会的な場所から、社会的な場所への整備が進んでいった、すなわち公園化だ。
公園とは遊ぶ場所ではあっても社会的な空間であり、社会的なルールの適用範囲に入る。
結果、ニコニコは安全な公式が上げたアニメを見て猫を愛でるような安全な場所になってしまった。
つまらない遊具と禁止事項が羅列された看板しかない公園のようだ。
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淫夢的な物に人が集まるのはまだそこに非社会的な自由さがあるからである。
逆にもはや「かつて」のニコニコ的なる要素はそういった場所しかないからである。公園の隅だ。
善の楽しさも悪の楽しさも、尊敬も侮蔑も面白さや発想として許容される非社会的な空間。
息苦しく無く見る側も作る側もそれが受容出来る空間。
そんな敷居の低さが人の創造と承認とのサイクルを作り出し熱を生み出す。
人が集まるのは当たり前だ。
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あの何も無く人の目に届かなかった更地に戻したいのだ。
あの頃の皆で持ち寄り、産み出し、互いの発想を讃えて、笑い合うような。
自分は高校中退して数年して大検とって専門なんぞいって、学歴社会的には底辺以下の生活をしてきた人間です。
40が見えてきた現在は幸いおそらく同年代の人間の平均に比べて大きな年収もありまして幸せに暮らしています。
が、学校やめたときとか将来が決まらなくてふらふらしていた時期はやはり世間に強く非難されましたし、否定されました。
そういう時期に一番強く否定し軽蔑してきたのは誰かと申しますと、
http://anond.hatelabo.jp/20141012034537
こういう、いわゆる「大学に行って普通の就職を目指す方々」だったわけですよ。
彼らの世界観では、まさに上の記事に書かれているように、「高校を卒業し大学に通い新卒で就職するのが人間としての最低限」なわけですから、その最低以下の自分はすさまじい侮蔑と否定をされました。いや、そのことそのものを話したいわけじゃないです。自分は今割と不満のない生活なので。
何が話したいかといいますと、就職失敗して精神的な地獄にいる人は、「今まで自分がクズだとバカにしてた人間に自分自身が仲間入りしたこと」が苦痛なのではないですか? ということがいいたいのです。
自分の立場や経験から言いますと、大学卒業で新卒採用に引っかからなくても別段たいした問題がないように思います。人生で言えばまだ始まったばかりだし、どうとでもなるだろうとしか思いません。自分より恵まれたスタートだと思いますし侮蔑なんてしませんし、人それぞれだろうと思います。そんなことよりも、自分が自分を軽蔑していることのほうがよほど問題だろうと思います。
レールから外れた人に冷たい社会、なんて言いますが、レールから外れて「こんな社会は冷たい、狂っている」と叫ぶ人は、自分の経験上、必ずそのレール社会で恩恵を受けていて途中で失ったひとなのです。そういう人は、恩恵のあった時点では「この社会で文句はない」「レールから外れたやつはそいつがクズ」とうそぶいていました。上の記事の増田さんも無批判に高校を出て無批判に大学に行って無批判に就職活動をしてた段階では、「そこからあぶれた人を救う社会運動」などしてなかったわけです。
いま大学生の人は「高校を卒業し大学に通い新卒で就職するのが人間としての最低限」などと思わぬ方がいいです。その最低限以下で暮らしている人は日本にもいますし、仕事で諸外国に行くと、むしろそういう人間のほうが大半だと気が付きます。つまりその価値観では世界人口の過半数を侮蔑して生きることになります。そうはいっても国内は大学と新卒雇用が正義という環境なのだし外国は関係ないだろ――と思うかもしれません。でもそれはまさに学生的な思考で、日本のことだけ考えて社会人をできる時代は、もうそろそろ終わりだと自分は思います。国際政治がどうこうとかじゃなく、市井で生きるただの普通の労働者としてでさえ、雇用競争や物価などで世界を肌で感じる時代になったという意味です。
そもそも、そういう外部の環境(今回の場合は新卒就職を取り巻く環境)を内面化して信仰したあげく、それに落伍した地獄を感じているわけですから、外部の環境を無批判に内面化する危険性にそろそろ気が付いてもいいはずです。
鳥飼茜の漫画『先生の白い嘘』第2巻の巻末に収録されている萩尾望都によるコメント(帯の表現を借りれば「鮮血のメッセージ」)がアツいので全文引用します。
東京都議会で「早く結婚した方が良い」と女性議員に野次が飛ぶ時、
笑ってヤジる男性議員は批判されるまでこれが女性差別だとは意識していない。
それぐらい女性差別は深くさりげなく、実にさりげなく浸透している。
日本は男社会だ。法的に平等であっても長年の慣習がそうはさせない。
女は社会の中で教育、就職、結婚、生活、育児、財産の所有において負担を強いられる。
その不平等や不公平が続いているのは女が弱者だから。弱者はどんなにいじめても良いのである。
しかし女は本当に弱者なのか。男は本当に強者なのか。不公平を強要するものは真の強者なのか。
生徒、緑川椿は気づいている。そして戦っている。
早藤も知っている。利用している。
生徒、新妻はまだ己を知らない。悩んでいる。
これまで存在していたのに誰も語ってこなかったものだ。語られてやっと見えるものになる。
ぎりぎりのところで語られている彼らの言葉は強い。あるときはおずおずと。
またはきっぱりと。暴力的に。攻撃的に。羨望と侮蔑。どれも言葉として深い。
そして、新しい。そして痛く恐ろしい。
男達よ。ページごとに谺する、女の叫びを聞くが良い。
女達よ。目覚めよ。たとえ痛い目覚めであっても。
たとえ理不尽な世界が変わらなくても、心を変えることはできる。笑い飛ばしても良い。
そして、生き残ろう。まだ、明日がある。
鳥飼茜はすごい。私を呆然とさせる、これほどの作品を描くのだから。
平凡な言い方だけど、がんばってください。目が離せません。
そして、暴力的なのに、品がいいです。
武井壮が世間を賑わし始めた頃の俺はヒョロガリのもやしだった。
このままでは一生日の当たる事のない人生を送る事になると思い、
俺は日増しに進化を遂げる自らの圧倒的な肉体に酔いしれた。
破壊と再生を反芻する超回復のメカニズムはまさにその黄金比に達したかに見えた。
俺が真冬にもタンクトップ一枚で道行く人々の羨望を独占するようになったころ…
カオスの刻は突然やってきた。
瞬く間に旋毛、分け目へと飛び火し前線は為すすべもなく撤退した。
食事、運動、十分な休養…
当時ウィダートレーニングバイブルに心酔していた俺は大学の生理学でも優の評価を受けた。
ザバスから来た特別講師のお姉さんも俺の比類なき肉体と知識に唖然としたものだった。
歯車は確実に狂い始めていた。
それまでタンクトップの俺に注がれた人々の優しい微笑みはいつしか侮蔑のそれへと変わっていた。
一人、また一人、友人が離れていった。
ようやく雑用係として小さなサークルに籍をおくことが決まった。
真冬でもタンクトップで平気な俺に真夏の太陽は容赦なく照りつけた。
少し広くなったオデコは静かにその光を讃えていた。
少なくとも、このブログ主に関してはもう、モラハラやDVに遭ってるのは完全な自業自得だよ。ブログの炎上にしたって、本人が「釣りじゃない」と言い張って真面目に書けば書くほどガソリンをぶちまけている。
最近の記事でも、本人は悪気がないどころか専ら被害者だと思い込んでるのだろうが、ハゲを揶揄するどころかまさに「本気で心配してくれている方々」や真摯なDVサバイバーを思いっきりナチュラルに侮蔑してしまっていることをまったく自覚していない。ここまで無神経、自己中極まりない思考回路の持ち主なら、今までだって、身内や友達に対してもいったいどれだけ何も考えずに傷つけ、その行為を踏みにじってきたか想像がつくというもの。もういい加減、自分が「加害者」の側に足を思いっきり突っ込んでいることを自覚して欲しいが、それだけの自制心があったら、今のような事態にはなっていないな。
本人が望んで不毛な人生を送るのは勝手と言えば勝手なのだが、そう言い張ってる人に限って他人の生活や人生をやたら巻き込んで迷惑掛けまくるからね。
さっき、「増田さんみたいに白米を食って出すだけの穀を潰すマシーンつまりは穀潰しでも楽しそうにやってる増田ってどうすればいいですか?」という質問をいただきました。
質問というか女子会的侮蔑の視線で覚悟完了って感じですが、掘江 罪子さんって素敵ですよね。
しかしせっかくなので、穀潰し的増田投稿のコツやテクニクーをご紹介したいと思います。
穀潰しは怖くない!みんなもやってみよう!
増田投稿で大切な事は、出来る限り著者のインパクトを薄くすることです。
可能な限り記憶に残らないような、個体を識別する記号を薄くするような、強烈な語尾や判りやすい識別子は外しましょう。
圧倒的多数のエロゲーの主人公達と同じように、読む人がそこに投影できるような「ぼんやりとした感じ」が大切です。
右を向いても左を向いても叩かれる、カラスを白いと言ってもイイネ!される状況というのは意外にあるものです。
反発させる、共感させる、馬鹿にさせる、優越感を持たせる、粗を探させる、思い出に浸らせる、自分語りをさせる、
ノーバン始球式でもアートメーク被害でも、引っかけた後にそれを罪悪感無く吐き出させる。
なんにせよ、つい一言いいたくなるような構成や主張が不可欠です。
匿名です。色や味は一発勝負のスパイスであって、一貫した主張を求められることもありません。
XXXさんがAAAについて触れているから、と判断する読者は存在しません。
過去の自分のスタンスも、現在の自分のポジションも無視して構いません。
ただし、無記名匿名であるからこそ、可能な限り罵倒等の口汚い言葉遣いは慎みましょう。
増田は「楽しく」日記を書く場所であって、呪詛や落書きを残す場所ではありません。
内輪すぎれば匿名での個人攻撃感は強まりますし、誰にでも伝わるネタでは拾ってもらえません。
イケダハヤトを知らずんばネットサーファーにあらず、程度の視野狭窄感がベストです。
世間では無風だがはてな村でホット、本音を正論と言い換え、差別を巧妙に小町話法に書き換える。
増田を読むのは、たまたま通りかかった一般人ではありません。村民です。
まあ、結局の所、ホッテントリ入りしたところでせいぜい数百、伸びても1000ってことは、吹けば飛ぶような数字です。
人気なんて陽炎みたいなもので、それを追っても良い事なんて一つもありません。
必要なのは匿名で日記を書ける場所であって、気軽に穀潰しになる勇気です。
おわり
なんで、吉本ユータヌキさんは、idがhorahareta13だったり、@gonnakill_utaだったりするんでしょう。
u_tanukiとかが良いと思うのですが、なぜベストを尽くさないのか。
「男は男を、女は女を好きになるのがふつう」
男と女の関係なんて信じられない。世界を「逆転」させた映画が全米で話題 http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20140730/E1406650835497.html
現在、日本語字幕付き版が8/1までスターチャンネルのwebサイトで限定公開されている。以下あらすじ、及び結末に触れるため、未見の方は取り急ぎ見てみてほしい。
この作品では「全世界の標準が同性愛者である」「異性愛者は異端として迫害される」といった世界を描き出し、
つまり既存の価値観をただ単純に逆転することによって同性愛者へ進行形で行われている差別の残酷さを浮き彫りにしている。
同じつくりをした作品としては最近ではアバター然り、第9地区然り。
主にSF映画にありがちな、最初から”価値観の逆転”を前提とした舞台設定のもとに広げられる、
異端である『異性愛者(=ブリーダー)』の少女・アシュリーは作中で、周りと異なり異性を愛してしまう自分に気が付く。
ふとした一言からそれが周囲に知られることになり、彼女はクラスメイトにとって侮蔑の対象と変わる。友を失い、得かけていたパートナーから拒絶され、
親族の理解も得られない。周囲すべてが自分を認めないことに耐え切れず自死を選ぶ。
作中にむごたらしく描かれる差別・暴力行為。迫害といっていいそれらは、すべて現実の同性愛者自身の体験を元にしたものだという。
作品の大半を占めるそれらは具体的に、執拗に描かれる。からかいと嘲笑。止まない蹴り。メール、ネットを利用した侮辱、名誉の棄損。
そのすべてがアシュリーの視点に切り取られ、悪と偏見に満ちた不快なものとして視聴者に与えられる。
彼女は誰からも理解されることなくその命を散らす。「異性愛者は地獄に落ちる」と神に明言されながら。
昨晩妹とこれを見て、浮かんだ疑問はふたり共通していた。
それは「ここまで惨たらしく暴力を描くのならば、そもそも同性愛者・異性愛者を逆転する意味がどこにもない」というものだ。
たとえば作中世界が異性愛者が大多数というこの世界と地続きのものであり、アシュリーが異端としての同性愛者であったとしても、
リアリティが付加された暴力に基づく「差別はいけない」という強烈なメッセージを与えられるところまで、
更にいえば、余分な設定がなくなることでプラスになる効果も当然生まれる。
たとえば映画中、男女が言葉を交わすシーンが幾つか登場する。当然彼らはアシュリーを異端視する側、つまり同性愛者である。
観賞中、彼らの会話が発生するたび「こいつらはどういう関係なんだ?」「それはタブーなんじゃないのか?」と幾度も首をひねってしまった。
アシュリーが異性と手を繋いでいたことがもとで差別を行っていたある女のキャラクターが、アシュリーを捕まえるべく共に駆けだすシーンなども同様だ。
ではなぜ、わざわざこのような設定を使ってまで世界を置き換える必要があったのか。
話題性か? それもあるだろう。突飛な設定は当然大きな観賞動機に成りうる。この設定の上でどのような物語を展開するのだろうか?と。
だが「同性愛者が当然の世界で、異性愛者となった少女」という設定を聞けば、「ああ、同性愛者への差別を見せたいんだな」とすぐに気付いてしまうはずだ。
ゆえにそれは強い動機とは成り得ない。
では何のための世界かといえば、何のことはない。攻撃のためだ。
作品中、暴力は極めて陰惨に、かつ念入りに描かれる。ほぼすべてのシーンがアシュリーへの迫害であるのだから、それは当然のことだ。
ここまであからさまに不条理な痛みを伝え、かつ死をもって閉じることで物語を「年若き美少女の悲劇」として完成することで生まれるメッセージ性とは何かといえば、
「お前たちはこれだけひどいことをしている」
「お前たちの不理解がわたしたちを苦しめる」
いまここにある現実に対する、問いを投げかけることのない一方的な罵倒。
映画の中、それによって苦しめられていたのはほかでもないアシュリーではないか?
確かにこの映画は、「STOP!同性愛者差別!」といった、何の実情も伴わない、くだらないフレーズの印刷された、
男同士、女同士が手を繋ぎ抱き合うポスターよりも数万倍も意義のある作品だ。
だがこうした喚起映像が「ただしい」のだとすれば、その最終的なかたちは、
視聴者の顔をモデリングした俳優が理由もない暴力に絶え間なく晒され続ける映像を見せ続けるものになるはずだ。
確かにおぞましいインパクトを残すことだろう。見た者の考えも変わるかもしれない。が、そこに相互理解が生まれることは決してないはずだ。
それは互いの喉元に刃物を押しつけ合うことと何の違いがあるんだ?
常識を疑わずに、常識的な正義を振りかざして自分は正しいんだって信じている人が私の周りに何人かいる。
私は検査後に中絶をすることを選んだ人も、中絶をしないことを選んだ人も、そもそも検査をしなかった人も、それぞれの理由に納得できる。
だから、どうするのが理にかなっているのか、倫理的に問題がないか、考える。
それって普通の事だと思ってた。
でも、その人はそんなこと考える事無く
常識的に刷り込まれた常識的な判断にそって判断してるだけのように見える。
私が「出生前検査で染色体異常が見つかった場合、中絶する人の気持ちもわかる。倫理的にどうしても納得出来ないけど、それも選択肢のひとつなのかなぁ」と言うと
その人は「あんたばかじゃないの、そんなの人殺しなんだからだめに決まってるじゃない」って私に言いながら、軽蔑の表情を浮かべる。
なんにも自分で考えたこと無いくせに。見下されたような気分になってはらたつわ。
常識を疑う事ってだめなこと?
常識を疑って考えこんでいる人を見下す何も考えていない人って、なんなの?
私が面倒くさい人なだけ?
追記
人を小馬鹿にした表情に耐え切れなくなって愚痴を書いてしまいました。申し訳ありません。
別に反社会的な行動に興味があって社会通念を疑って掛かってるわけではないんです。
どうしてこれが常識になっているのか、どうしてこれが多数派の意見になっているのか、そしてこの意見は今後も曲げること無く維持すべきものなのか。
それが気になるだけなんです。
そういうことが気になる私みたいな人もいれば、全然気にならない人がいることも知っているし、それは個性であって優劣つけるようなものではないと思っています。
私が嫌だなと思ったのは、なぜあーでもないこーでもないと考えを練っている人を、上から目線で否定してかかるのか、という事です。
それはまさに、侮蔑の眼差しでした。話を聞いても、鼻で笑いながら「だってそれが当たり前じゃん、常識じゃん。」としか答えてくれません。
こういう話ができる仲間にいつか出会えるといいんですけれど。
アインシュタインの言葉、ありがとうございます。本当にそのとおりですね。