はてなキーワード: 侮蔑とは
組合にのりこえねっとのチラシ(配布用)が来ましたが、全力で握りつぶしました。
もちろん、のりこえねっとの趣旨が嫌いなわけじゃありません。
ヘイトスピーチはとうてい認められるようなものではないし、在特会のような活動はとうてい許せません。ヘイトスピーチだけではなく日本社会のマイノリティに対する差別は大きな課題として解決を目指さねばならないでしょう。
私は、男性オタクです。エロゲーもプレイしますし、エロマンガも読みます。ここで、彼女が私たちにした仕打ちを思えば、絶対に許せませんでした。
上野千鶴子は向かうものは違えど尊敬できる方ですが、北原の我々に対する攻撃は到底許せるものではありませんでした。侮蔑、差別、勝手な解釈による一方的な罵倒。性的に魅力ある男性たる韓流スターと並べての悪罵なぞ、差別としか言いようがないでしょう。
ロリコンオタクなどというのは、そもそもマイナーマイノリティであって、社会的に受け入れられにくい存在です。だからこそ、エロマンガやエロゲーの規制では、単純に「表現の自由だ」としか言わないわけです。芸術だとか、男性社会が悪いだとか、そういう高尚な理由がつけられないですから。どうせ。
にもかかわらず、彼女は権力と一体となって我々を攻撃し、マウンティングし、キモいオタクを踏みつけにして高笑いしている。
個別の議論は他に譲りましょう。中川譲氏や赤木智弘氏、あるいは高橋直樹氏が彼女を明解に批判しています。
経済的、社会的事情から収入が減り、家庭が持てない男性が増え、そして簡便で安価で高度に発達したオタクカルチャーが存在する限り、相対的に我々は増加し、そして社会の隅々まで、個別に繋がりはないスタンドアロンコンプレックスとしていきわたるはずです。
「アスペ」「ババア」(あるいは「おばはん」)とかはいかなる文脈でも使わないと思うけど、個人的には「おっさん」は許容範囲かな(と、これを書いている増田もまあ、おっさんかな)。
「男性だけかよ」ということではなく、「ハゲ」「加齢臭」とか(これらは主に年のいった男性に投げかけられる侮蔑の言葉と思うが)は問題あると思う。しかし「おっさん」は自分の属性に重なることを除外しても、(文脈上差別的な意図を持って「おっさん」呼ばわりされ、傷ついた人もそれなりにいるとは思うが)「問答無用の差別用語」であるというふうに感じたことはないし、今回問題にしている文章が侮蔑の意図で「おっさん」と書いているようにも思えない。単なる対象識別のための名詞だろう。
もちろんこういう呼び方は、それを発する者の立場や、状況、話の流れによっては「相手の人格を軽んじている」印象が強まる。時と場合を考える必要がある。しかし今回はそうは思えない(と感じる人が大半を占めるであろう)、ということではないか。
ここで皆が口をそろえて「おっさんは差別用語だ!」と言い出したら、考えなおさないといけないかもしれないけど、はたしてそれどうかなあ。
http://anond.hatelabo.jp/20140708201612
SNSは道具だ。
昔は無かった道具で、今は大多数の人がなんかしかのツールを使っている、普及度の高いカルチャー。
その道具をどう使うかは自由だし、どう思うかも自由。
だけど、どんな世代のどの人も、自分が楽しいと思って使っている道具をけなされたら、反発のひとつもしたくなる。
かたくなに携帯電話を持たないお母さんとか。
かたくなにパソコンを使わないお父さんとか。
年賀はがきの宛名をプリントすると「心がこもっていない」と説教してくるおばあちゃんとか。
自分の理解できない文化を「嫌い」というくくりで対処するから、それを使っている人たちの反発がある。
コミュニケーションのとり方が下手なのは道具を使いこなせない側「にも」あるのかもしれない、という視点は常に必要だと思う。
SNSを生活の道具として使う人の目線に立ってみよう。彼らはSNSで連絡が取れていれば「友達」だと思う文化がある。逆にSNSで見かけなくなった人を「最近疎遠だな」と思うようになる。
それがいいか悪いかを判断するのは難しい。だから自分を振り返ろう。
友達を失いたくなかったら、自分から電話すればいい。今度会おうよ、でも、最近どうよ、でも、なんでもいいじゃない。
「えー、会うとか面倒ー」「電話してくるなんて常識知らず」「そういうのはSNSで連絡してよ」
同人誌関連については無知の素人の俺にBLの良さ・何が魅力なのか、誰か教えてくれないか。
Pixivで少し見た程度の知識だ。侮蔑するつもりは全くない。純粋によくわからないんだ。
BLっていってもプロの人たちからすれば色々と細分化されるかもしれないが
ここで俺の言うBLは、自分の好きなキャラ男2人がセックスまで行くストーリー。
※そもそもBLを多数読んでいるわけではないので、俺の勝手な誤解であるかもしれない。
漫画・アニメで好きなキャラがいる。複数いる。それは理解できる。
そして好きな男性キャラと、自己投影できる女性キャラが結びつくオリジナルストーリならわかる。
しかし、好きなキャラ同士(男同士)を恋愛で結びつける・結びついた話が好きなのはよくわからない。
好きな男キャラが女キャラと絡んで気持ちよくなるのが生物的にも普通だと思うんだ。
しかし、男同士でのセックスに魅力を感じるのはどういう理由なんだ?
オチンをやさしく触り合ったりする程度ならまだわかる。
だが、受け・責めに分かれて尻に出し入れするのは無いだろう、と俺は思う。
一般人が逆インサート・浣腸されたら、中からみんな出てきちゃうでしょ。
危なすぎるよ。色々と。気持ちよさは無く、痛みだけが残りそう。
尻のイン・アウトで興奮する女性は、自分も尻の穴でセックスする人なの?
うーんうーん
東京都議会で晩婚化や晩産化の対策について質問した女性都議に、
男性都議が「自分が早く結婚すればいい」「産めないのか」という
ヤジを飛ばしたことに、私は怒っている。
そもそも、この発言を「ヤジ」という言葉で表して良いのだろうか。
ヤジには「非難を浴びせる」という意味がある。
非難とは「相手の欠点や過失などを責めとがめること」
http://pbs.twimg.com/media/Bq2BjFzCMAIAtD4.jpg
青二才先生が天才である理由は自分の表現を普遍的なものだと考えており自分が思ったことを相手がそのまんま受け取ってくれるのが当然であるとしていることである
一般人であればたとえ書き手としての意図が「俺の言いたかったことは自炊してたら値段にビビって国産和牛なんか普通手を出さないってことだぞ」
であったとしてもその家庭で生活保護受給者に対しての無理解と侮蔑が含まれておりそれが意図したものであろうがなかろうがその点はまずかったと考えるものである
というより失言を意識してやっているバカはいないのであり何かの発言が失言だと言われたということはふつう意図せずやらかしたと反省するものなのであるが
青二才先生は失言というのは現象であり自分の才能がなせるわざだと考えており責任面に関しては彼自身にはそういう意図は全くなかった以上そこに責任はないと考えるのである
つまり彼は自分に悪気がなかったらたとえそれが相手に侮辱的に読めたとしてもそれは相手の内面の問題であり自分の責任ではないと考えているわけであり
当然彼は今回の発言についても周りからあなたの発言は意図してか意図せずしてか生活保護受給者にたいするプレッシャーになっているよというツッコミを受けても
知るかおれはこういう意図で書いたんだそれ以外の意図をよみとるんじゃないといって耳を傾けようとしないのだがそんな彼が他の人の記事やオタク作品については誤読しまくり
それをまた周りから指摘されても知るかおれはこういう意図で書いたんだそれ以外の読み方をするんじゃねえ俺が何を書こうが自由だといいはり些細な誤字脱字を除いては
自分が間違っているかもしれないとは認めないそもそもそのようなことを微塵も思わないのでありこの精神性こそが彼を天才たらしめており
彼はこれまでもこれからも絶対に自分が書いたことは自分が書いた意図の通り読まれるべきでありそれ以外の読み方はすべて読み手がアホだという立場を続けるであろう
ただし彼がこのルールを適用するのは彼自身についてのみであり彼以外の人間が彼と同じことを主張することはゆるさないという意味で彼は自分のみが神からその特権を与えられた天才であることを
自覚しているという意味でも並みの天才とは一線を隠しておりそんなわけで彼は未来永劫天才で在り続けるわけだがところで天才とは余の凡俗共にその才能を誰からも理解されずに
自分の才能を最後まで信じて野垂れ死にする人のことでありそんな彼は優しい優しい彼の親の庇護下に有る点が玉に瑕であるといえる親の庇護下のもとでゆうゆうと暮らしながら
彼は生活保護者を観るたびに自分自身が強制されたものではなく選択された趣味としての貧乏を楽しんでいることを自慢しその立場から真の貧困に陥っている貧乏人を糾弾するという
俗物的行為を働いているのでありこれは彼の天才性を損なうという声もあるが彼の行為は俗物的である以上に人間としてまさに外道としかいいようがない行為であり
天才とは往々にして人の道を外れたものが多いことを考えるとこの意味でも青二才先生がやはり天才であることは間違いなく青二才先生はやはり天才青二才先生は未来永劫天才
「統合失調症がやってきた」の松本ハウスが来るというので、行ってみた時のこと。
狭い会場に二百人以上が詰めかけて、それに加えて立ち見のギャラリーもイル。
会場に掲げられた白膜には「精神科医療における松本ハウスの歴史的意義」だって。
司会をしていた精神科医いわく、100年以上にわたる、排除の歴史から統合失調症がやっと地域社会に帰りつつある。我々は、ハウス加賀谷=松本キックが、統合失調症をめぐるタブーを打ち壊す歴史的瞬間に立ち会っている!
精神疾患をお題に名披露目した松本ハウス(とくに当事者であるハウス加賀谷)は、その象徴的存在であるそうだが。。。
ハウス加賀谷は「統合失調症がやってきた」という本を昨年の8月に出版した。私はとくに興味もなかったし、そういう「商売」にのる気もなかったので、買っても読んでもいないが、彼らが言うには初発の症状は中学2年のときだとか。
夏の暑いある日のこと、教室でふと振り返ったとき、友だちが下敷きで顔を仰いでいるのを見てしまった。友だちは自分の臭さを吹き飛ばすために下敷きでパタパタやっている、彼は一瞬でそう理解した。
それ以後、「加賀谷、クッサー」という声が聞こえるようになったという。
以後、事実でもない声が聞こえてくる彼は精神科とのつきあいをはじめる。ようは、通院がはじまったということ。
それでもビートたけしが好きで漫才師になりたかった彼は、17歳のときオーディションを受け、松本キックと出会い、「松本ハウス」としてデビューした。
――――ある時、鞄いっぱいの薬を見つかり、病気を告白。その症状を聞いた相方が、それ、漫才に使えんか? ということで、すでにこの時代に、病気をネタにしていたらしい。
幻覚、幻視。病気の症状を面白おかしくしゃべる加賀谷にキックの方が突っ込みを入れて、笑いを誘う。
それって是か非かどっちだ?
病気の症状で笑いをとることに不快感を表したある統合失調症患者の女性が、その思いを自分のブログに書いたり、松本ハウスのブログにコメントを入れたところ、ファンから袋叩きにあったというエビソードもある。
確かに話としては面白いが、当事者として症状で苦しんでいる人には笑えるものではないだろうし、侮蔑と感じる場合もあるだろう。
「昔のような切れはもうないけれど、今できることを探していこうと思っている」と相方の松本キックはいう。
「薬のせいで感情が平坦化していて、昔のように言葉のキャッチボールはできないけれど、いまは、その鈍さを笑いにしてしまえばいい。僕はそんなふうに思ってます。笑いには計り知れない力がある。病気だってできることはたくさんある。みんな、統合失調症だって、こうして働けるし、社会復帰だってできるんです」
そして、「統合失調症」の当事者として本の出版とともに復活し、その体験をネタに、現在の「地位」を築き上げたのである。ネットを見渡せばわかるが、ソーシャルサイトの囲い込みも検索エンジンのSEOも広報マーケティングには抜かりがない。病気で稼ぐ、精神疾患ネタで稼ぐ。彼らにとって「統合失調症」は一種の鉱脈なのかもしれない。彼らは鉱脈を見つけた者として、その権利を決して手放さず、「精神村」にいつづけるに違いない。
許せない気持ちの背後に、騙されている人たちへの侮蔑と優越感が透けてみえる。
許せないのではなくて嫉妬しているようにもかんじる。
自分は中学生時分にはいくつかラノベを読んでいた。キノの旅、吸血鬼のおしごと、学校を出よう!、スクラップド・プリンセス、サンダーガール、パラサイトムーン、シャナ
しかし高校に進学する前に読まなくなり、もう少し歳をとって推理小説を読むようになった。母親の本棚に時刻表ミステリや西村京太郎があったからだ。
何かしらの精神的な成長要素があると言っているわけではないが、こういうプロセスがあった人間だ。
先に断っておくが、ラノベがひとまとめに嫌いなわけではないし、ラノベが嫌いなだけだろという指摘をが大量に混ざる事は避けたい。
●ラノベしか読まない?他の小説は読む?それは何故?どこに魅力を感じている?
魅力の確認と、読者がライトノベルから枝分かれしない事に疑問を持っている。
●ラノベファンはラノベを一般娯楽小説(定義付けのために一般と称しているだけ)と同じだと思っている?
ラノベファンはラノベを「ラノベ」と別けられて語られる事を嫌っているように思う。
俺自信、ラノベは小説ではなくラノベだと思っている。侮蔑の意識ではなく、小説に求めるものが文章であるならば、ラノベに求めるものは文章から得られる情報だけではないと思うからだ。
●ラノベで、パロディ要素が殆どを占めるようなものはどう思っている?
俺はこれに関しては圧倒的に否定派だが、しばしばそういったパロディ乱造系の物がアニメ化されている。
そしてそれがあるからこそ、一般的な作品(定義付けのために)から分けられる事は否定出来ないのではないか。(もちろん他にも分けられる要素はある)
●ラノベは何故ジャンル分けされない?ライトノベルという呼称は既に不要ではないか?
ラノベはファンタジー、恋愛、ギャグ(?)、ミステリと内部で全く違うカテゴリがあると思う。
しかし語られるときは「ラノベ」だ。これはおかしいし、共通の要素は「ライト」という曖昧なものだ。昨今の「ミステリ」にも同じようなことが言えるが(剛力EXILEのあれとか私の嫌いな剛力探偵とかだ。剛力彩芽が嫌いなわけではないが、ただ単に剛力が出ている共通点がある)
まとめて語られることのデメリットも大きい。外部の認識がラノベ内部のどれかに偏ってしまい、食い違うからだ。
どうかラノベファンのサンプルとして名乗りを上げて欲しい。
貧すりゃ鈍するという言葉がある。貧しければ鈍く、愚かになってしまう。
他の国にも類義語があるようで、同じ境遇の人間が少なからず世界中にいる。
貧困に喘ぎ、自分の未来を隠されその日暮らしの生活を強いられた場合、鈍した人間が起こせる最後で唯一の行動はデモしか無い。
金銭的な、思考的な自由を奪われれば、衝動に任せて行動するしかない。他には金も時間も思考能力も奪われているからだ。
しかし日本では、デモを起こす事は内容にかかわらず侮蔑と排他の理由になる。デモを起こすというのは、会社に対する反骨ではなく、(思想的な意味を抜きにした)日本社会に対する反骨を覚悟し無くてはならない。それは無理だ。
日本の閉塞感終末感絶望感は、労働者が金と時間を奪われ未来を奪われた時に、最後の衝動すらスポイルされていく社会のあり方にある。
エリック・バーンが提唱する交流分析において、人間関係の親密さは「引きこもり→挨拶→雑談→共同作業→ゲーム→親密な関係」の順とされている。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/basic/transactional004.html
ゲームというのは、上記リンクのような「相手を自分の都合の良いように操作したり利用しようとしたりすることで始まるコミュニケーション」を指す。
企業で求められるのは「共同作業」である。しかし人からの反応に飢えた状態の者が紛れていて「ゲーム」を始めると、吹っ掛けられた側が「うんざりしたり無力感にとらわれたり感情的に怒ってしまったり」する。ゲームを開始したり、参加してしまう人は、なかなか「共同作業」に戻ることが出来ない。「共同作業」より「ゲーム」で得られる反応の方が濃いからだ。
恋愛・結婚に求められるのは「共同作業」であったり「親密な関係」であったりする。双方が「共同作業」を望んでいれば安定するが、片方がもっと濃い関係を求めると「ゲーム」が開始され、相手がそれに参加してしまうと関係は破綻する。双方が「ゲーム」を求めている場合は、喧嘩を繰り返しながらも別れない、傍迷惑なカップルとなる。
恋愛できる人は「ゲーム」を理解している。熟練したゲームプレイヤーはモテるし、「ゲーム」が理解できない人は恋愛の土俵にのぼれない。
安定した結婚生活に必要なものは、関係への期待を「共同作業」にとどめる(お互いをATM・産む機械と認識し合う)か、「親密な関係」を築くことだ。付き合うまでは上手く行くのに長続きさせられないのは、ゲームしか上手く出来ないということだ。ゲームしか出来ない自覚があるから結婚には踏み切らない人間も居る。
「親密な関係」に進めず「ゲーム」に留まってしまうのは、相手を信頼出来ないからである。では、なぜ信頼できないのか。自己評価を承認に依存しており、得られる承認が減ると自分の価値が下がったと感じてしまう、思考の癖があるからである。思考の癖は、親の叱責や無視の経験、友達・恋人になりたい相手から嫌われたり無視された経験によって癖付けられる。「親密な関係」を築くには、自己評価を承認に依存することをやめ、思考の癖を取ればよい(簡単に言ったが、一生癖が取れないまま死ぬ人間もそこそこ多いはずだ)。
「親密な関係に進めず、共同作業に戻れず、ゲームに留まる人間」を「自業自得」「性悪」「メンヘラ」などと非難・侮蔑している人間は、ゲームプレイヤーである。そうした人間を英雄や聖母の如く救済しようとして、そうした人間の思考の癖の原因になったものを非難する人間も、またゲームプレイヤーである。
この間、同窓会のお誘いが来ました。これで3回目ですが、ほんとうに行きたくないので、断りました。
なぜなら、前回行った時に、皆が皆「幸せゲーム」をしていたからです。
社会人になりたての1回目の同窓会は、旧友と会って近況報告するのが、楽しかったのです。
どこそこに住んでるとか、あそこに就職したとか、誰々と結婚した、とか話をして、懐古談に花を咲かせるのって良かったんです。
あの先生はどうしている、とか、あの頃こんなことしたよね、とか、ああ、一緒にあんなバカなことしていたな、とか。
旧友と話をしながら、だんだんと昔の記憶が(美化されて)蘇ってくるもので、なんだかあの頃は良かったなぁ、という遠い目をしながら
ノスタルジックな気分に浸ることができたのです。また、順風満帆な友人の話を聞こうものなら、
ああ明日からも自分も少しは頑張ろう、などと元気づけられることも確かにあったのです。
でも、前回の同窓会に参加したら、とてもイヤになってしまいました。
なぜなら、各自の近況を報告しあっていると、結局それが「幸せゲーム」になるから、です。
「いかに自分、もしくは自分の周囲が幸せであるかを競い合うゲーム」のことです。
誰が決めたのか知らないのですが、同窓会などの公共の場では一定の幸せランクが決まっているみたいでして、
順にだいたい、以下の通りになるみたいです。
-女性の場合は、結婚した、子供ができた(or連れてくる)、高学歴・高収入の恋人がいる、海外旅行に行った、など
-男性の場合は、役職がついた、ボーナス○○万もらった、海外出張・転勤をした、家買った、株で大儲けした、など
大抵こんな話題です。つまり、多数の人間が興味を引く話題、ということです。
まぁ、もっと大別すると、
-幸せな家庭を持った
-財産を手にした
-地位を手にした
3つのカテゴリーのどれかの話しかないのです。男性と女性で優先順位が異なる、というのも社会の中での価値観を反映していますが、
結局は似たような話ばかりです。こんな話ばっかり聞いていると、なんか途中でアホらしくなってしまったのです。
ちなみにこれは、自身の話をする時はもちろん、先輩や友人などの話をする時にもこの基準を前提に話がされるようです。
例としては、「○○先輩が弁護士と結婚したんだって」、「○○のヤツ、株で○千万稼いだってよ」、などです。
このわかりやすい3つを絶対的な基準として会話がなされるわけなんです。
(こういう場では、「幸せって人それぞれ」、とか「貴方の考え方次第で幸せにも不幸にもなれるのよ」、
この幸せゲーム、逆の立場に居る人間には必然的に不利になるのです。
例えば、結婚しない、出世できない、金も稼げない、友人少ない、恋人もいない、ような人(自分のことですが)は
スタート地点からゲームにおける最下層ランクに位置するのです。
当然、そんなゲームには参加したくないです。
もちろん、このような不利な立場の人間が参加するもう一つの手段として、ピエロになる、という方法もあります。
惨めなポジションにも関わらず、敢えて参加し、皆から嘲笑と侮蔑との対象になり、
他の参加者に優越感を味わってもらうことで、何とか存在価値を認めてもらう、ということです。
そんな人間失格状態で参加することもできますが、これは、想像するだけでかなりの精神力と忍耐力が必要であり、
かなりの虚無感を伴う行動ですので、私にはできません。
同窓会を開く時に、ちゃんと最初からゲームのルールと参加資格を明記しておいて欲しいです。
要はゲームを楽しめる人だけで楽しんでほしいわけです。
ちなみに、「ネタになる不幸せゲーム」だったら面白そうなので、行きたいです。勝ち残れそうだし。
-女性の場合は、買い物で借金まみれになった、風俗で働いている、結婚式で男に逃げられた、整形失敗した、犬のフン踏んだ、など
-男性の場合は、ギャンブルで借金まみれになった、会社をクビになった、毎月サービス残業200時間してる、ニート・無職になった、株で大損した、など
でも、「ネタにならない不幸せゲーム」だったら、どうしようか迷うな・・・
-男女とも、家族が逝ってしまった、うつ病になった、借金取りに追われていて眠れない・死にそう、不治の病(ガン)になった、など・・・
とにかく、同窓会は暗黙のうちに「幸せゲーム」が開催されるので、もう行きたくありません。
増田追記======================================================================
ネタになる、っていうのは、相手が笑うかどうか、面白いと思うかどうかなんです。
この場合、たくさん笑わせた人が勝ち、ってことです。
同じ不幸せでも「ネタにならない不幸せゲーム」は好きではありません。リアクションに困るから。
それって笑えるネタなのでしょうか。
リアクションに困ります。というか少なくともぜんぜん面白くないです。
でも老人同士だったら面白いのかな。
ま、私も形式的に呼ばれただけなので似たようなものです。
そうですね。そんなかんじでした。私はFBはもちろんやってません。「幸せゲーム」が基準になっているので。
「ネタになる不幸せゲーム」が基準のSNSって誰か作ってくれませんかね。即入会します。
こんだけここに人がいるんだから、結構入会するんではないでしょうか。
http://anond.hatelabo.jp/20140228224140
姉の症状、或いは、障害に対する認識が甘いのか、「~かなんかの」という言い草である。
専門的知識がない故の類推的表現であると受け取ることもできるが、「~かなにか」と比べて放り出すような言い方である。
「なにか」に比べ「なんか」には、望ましくないもの、価値が低いものという意味合いを持つ。
(例:お前なんかどうでもいい)
見下した、見放した態度で姉に対する親愛の情の欠如がうかがえる。
それは次の一文でも明白である。
> なんで私の姉はこれなんだ。
こう、という状態を指してはいない。これ、という物扱いである。
人として扱っていない。人として尊重していない。
それが、続く文章の子どもに対する強い愛情と感動に対し、強烈なネガティブコントラストを成している。
こういう姉に対する差別(侮蔑に近い)が読み手の嫌悪感を刺激している。
さらに増田に対して非難的な意見がつくのは、守られたい、愛されたいという自愛的要求のみを書き、
実際には行っていたのか分からないが、権利のみを主張する自己中心的な者特有の「鼻につく態度」のようなものばかりが感じられるからだ。
その人物像は端的に言うと「嫌な奴」である。
こういう嫌な奴の子どもが、そんなに優しくいい子に育つという不可解さもまた、非難を助長しているだろう。
むろん、そういう一面だけが見えて、増田の良い部分が見えていないだけかもしれないが、文章からは以上の印象が全てである。
「支え合わなければいけないものなのか」というコメが散見されるが、ここでは義務ではなく「臭気」の話をした。
自愛傾向の強さに対して愛他傾向の(文章表現の)薄さが一種の臭気となり、不快感を刺激しているのだろうという、
あくまでも「何が悪いのか分からん」層に対して、こういう言葉の取り様によるものだろうという推測を述べた。
元増田も「想像以上の愛おしさだった」と愛情を傾けている様子は伺えるのだが、
それは転句の一文に過ぎず、話題の切り替えとしての弱い表現で終わってしまっている。
人間誰しも主観の中で生き、苦労し、些細な何かに救われたりする。
増田はその救いを書いた。
しかし、その「主観」は丁寧に扱わなければ、「他者の主観」からは歪みにしか見えなかったりする。
(いや、丁寧に扱ったところで歪みにしか見えない場合もあるだろう。主観とはそのようなものだ。)
古いヲタの場合それは非常に顕著で他のあらゆるジャンルで疎まれ嫌われたから
唯一自分を否定しなかった(付け加えると人が少ない故に石を投げる人が居なかった)
狭義のサブカル
(旧時代に)隠れキリシタンのように隠さなければいけなかった趣味と違って
ロキノン系、マイナー映画系、現代アート系の趣味の人は、自分で選んでそれを選んだんだろう
「本当はお前らそのジャンルが好きなんじゃなくて、そういうのを好きという他とは違う特別な自分が好き」
なんだろうという侮蔑と
「何故俺ばかり石を投げられるのか、同じマイナージャンルなのに顔か、キモさか?」
「そのオシャレな帽子をとって一皮むけばお前もセックスのことしか考えてないクソムシ何だろオラァッ」
とか
数週間で結婚することになる。
結婚相手に関しては私にとってもったいないぐらいの人間なので不満は何もない。
ただ、私の父親に関しては黒くドロドロした淀みが心中にある。
奴は建築関係の仕事の就いているからかもしれないが、とにかく怒鳴る人間だった。
幼少から怒鳴られ、そして夜は頻繁に飲みに行く。
母は奴が飲みに行くのに車で送らされていた。
それは20年前に引っ越してきた実家となる場所に来ても変わらなかった。
むしろ、母はその家に引っ越してきてから辛そうにしていることが多かった。
実家も奴曰く、
という到底理解できない理由で6LDKの家を福岡の田舎に建てた。
その周辺では私と兄はのびのび育ったが、母はその家を毎日掃除しなくてはならず、そして炊事や草取り等の雑務も来なさなければならなかった。
そして、母は、
「私はこの家の家政婦ではない」
と私にこぼすことが多かった。
そして、相変わらず奴は怒鳴りまくった。
とにかく自分が気に食わなければ、怒鳴りまくった。
怒鳴れば何とかなると思っているのだろう。
奴の中では奴以外の人間は獣かもしれない。
そして、やはり飲みに行くことは頻繁で、時折私や兄が小学生や中学生で必死に貯めた小遣いを借りて飲み代に当てていた。
だが、子供から金を借りて飲み代やパチンコ代に当てることに内心呆れていた。
また、休日も家族でどこかに行くということはほとんどなかった。
それも子供心ながら寂しくも恨んでいた。
深夜に酔っ払って帰ってきて、暴れまわったり大声を出してわけのわからないことを喚く。
挙句の果てには吐瀉物をまき散らす。
しかもその後奴は寝てしまい、その片付けは私達や母にやらせていた。
吐瀉物の件で最も許せなかったのはSFCにぶちまけたことだ。
奇しくも、SFCは綺麗に拭いてなんとか壊れずにすんだ。
不幸中の幸いである。
そして何より、幼少の私達に対して、
「家のローンは俺が死んだらお前たちが払わないとならないんだ」
「金が無い金が無い。あー、きつい」
といった金に関する発言をことあるごとにしていた。
そしてその言葉が重荷になったことを奴は気付いていなかった。
子からの借金や私達兄弟への理解がなく、己の妄執に基づいた「常識」を押し付けてきた。
母は私達をかばってくれ、そして理解しようとしてくれた。
そのため何度も離婚話が出ても、私は母に付いていくことを明言していた。
だが、その母も私が20歳の時に亡くなった。
絶望だった。
兄との仲は良くもなく悪くもなくだ。
だが奴との関係は最悪だ。
話しても理解しようとせず、己の中で凝り固まったものを押し付けることしかできない奴しか親がいなくなることが絶望的だった。
この時、どれだけ母ではなく奴が死ねば良かったと思っただろうか。
いや、この時だけではなく今でもあるが。
母は所謂新興宗教の信者ではあったが、お金を取られるわけではないので私自身は構わないと思っていた。
むしろ、そこは火の車っぽかった。
度が過ぎるのであれば、忌避するべきであるが母は私にそれを押し付けなかったのだ。
私自身としてはやはり信仰心は大切にするべきものとあるという考えがあるので、特に何も言わなかった。
だが、母は所謂仏教の葬式をあげてほしくなかったらしく、その宗教の葬式をあげて欲しい旨を私に伝え、それを私は奴に伝えた。
だが奴はそれを一蹴した。
世間体のためだった。
奴は特に信仰していない仏教の葬式をあげ、おまけ程度に母の宗教の葬式をあげた。
これで満足だろうと言わんばかりにだ。
私は憎んだ。
母の信仰心を汚した奴をとにかく憎んだ。
母が大切にしてきたものを奴は20年以上共に生きていても理解していなかったのだ。
私の大切な母を奴は殺したのだ。
だから、憎んだ。
念のため、学費を払ってもらって就職してからも盆と年末年始は実家に帰省した。
だが、2,3日もすると家の中の空気が息苦しくなる。
そして、帰省しても話す内容は一緒だ。
「住宅ローンや祖母の入院費、それにお前たちを進学させた教育ローンが苦しい」
「あー、金が無い。金が無い」
こればかりである。
また、兄は規制せず、私だけ帰省するので家のことを何でもかんでもさせられる。
この時に思ったのだ。
「私はこの家の、こいつの家政婦ではない」
と。
私は皮肉にも母と同じ心境に辿り着いていた。
そもそもこいつは己の見栄のために無駄に広い家を建てた。
祖母の件もそうだ。
それを子供に言ってどうなる?
苦しめるしか無いのに気付かないのか?
ああ、気付かないだろうね。
お前は己のことしか見えておらず、私たちのことを理解する気もないのだからな。
祖母が飲み屋で働いていたのと重なって哀れになったらしい。
愚かである。
もちろん、そのねーちゃんは雲隠れした。
この事件から数年後、奴は私に対してこう言った。
「母さんの治療費にばーちゃんの葬式代を使ったけど、その金も貯まった」
と。
奴と母親、どちらの話が信用できるかと云えば、どう考えても後者である。
私はこの話を聞いて奴と縁を切りたくなった。
こんなのが身内だと、いつトラブルに巻き込まれるのかがわからないからだ。
社会人になりIT社畜になったら、案の定精神的に追い詰められてしまい、退職した。
だが、それも徐々に良くなり、なんとか私は生きている。
結婚することになったので、色々な準備をしている。
式は近縁の親族のみで執り行うようにしている。
そもそも、私はドレスを着たいだけであって式などどうでも良かったのだ。
だが、奴だけは、
「ここで式を挙げないと、母さんに何言われるかわからん」
と言ってきた。
正直に、自分が式をやってやったということを周りにいいたいがためだと云えば良いのに、母親を引き合いに出す時点で侮蔑の感情が湧いた。
式までも、やはり奴関連でトラブルが多発している。
そもそも、メールをしても返信が来ない。
それで何度もトラブルになったので私は電話をスピーカー状態にし、録音するようにした。
そもそも、結納の件をやるかどうかを訊いても、「やらなくていい」といったと思えば、
「なんでやらないのか!?
と怒鳴り散らしてくる。
そして、いざ結納をやり、食事会を行っても一人だけひたすら飲み、挙句の果てには私の過去の嫌な思い出ばかり相手の両親に話している。
そして、奴の兄弟とは疎遠になる、縁も切ると言っていたのに突然、
「そんなことしなくていい!
それが良識だろうが!
そして、今度はいつ帰ってくるんだ?
俺の兄弟たちとお前の婚約者との顔合わせの食事会をやるからな!」
と言って、電話口で怒鳴り散らしてくる。
これがきっかけだった。
言っていることが論理的ではなく、ころころと内容が変わるので、それに振り回されていた。
振り回されることで、精神的に落ち込み、
と考えることも増えてしまった。
そもそも母方の方には何も連絡していないのに、何故父方のみ会わなければならないのかがわからない。
奴の見栄に付き合わなければいけないのか?
私は奴の所有物なのか?
そもそも、縁を切ると言っていた人間たちに会わなければならない意味がわからない。
そして、私から必ず電話をしなければならないわけでもないだろう。
もし、私の病気の理解があれば負担を減らそうとするだろうが、その素振りもない。
服装に関しても、相手はモーニングを着るというのに、
と言い始めた。
奴は155センチ100kg超なので特殊な体型ではあるが、何もやろうとしない時点で呆れてしまった。
結局は奴はモーニングを探す気も無く、ドレスを借りる衣装店に頭を下げて探してもらえた。
憎悪しかない相手に対して、至れり尽くせりをして疲れてしまった。
実家に帰省したら、家政婦になり、延々と金が無い話をされ、怒鳴られるのだろうか。
そんなに金が無いことを言って私を苦しめたいのなら、私を殺せば良いだろうに。
私を理解する気が毛頭もないのなら、父親面をしなければ良いだろうに。
そんな気持ちになってしまう。
こんな気持ちになるぐらいなら、もう疎遠になろう。
そうしないと、またあの地獄に逆戻りだ。
だから、私は父親と縁を切ろうと思う。
それは婚約者と歩くよ。
『馬鹿と言う人が馬鹿』 これはもう疑いようのない事だと思う。
これについてこれから度々考察し、匿名ダイアリーに書くことにしようと決めた。自分の考えをまとめて整理する為だ。
この『バカとゆう人がバカ』といった言葉に、最初に出会ったのはいつであったであろうか。
過去を遡れば小学生の頃であろうか。・・いや、もの心がついて間もない時まで遡るかもしれない。
その時は自分も含め、親兄弟そして友達クラスメイト、はたまた恩師にいたるまで『馬鹿』とゆう言葉を多用していたように思われる。
「この馬鹿っ」「いやーぃバーカばーか」「うるせーよバカってゆうおまえが馬鹿だよ」「カーバ」「ばっかじゃねーの」
「馬鹿なんだからやめろよ」「んもう・・バカなんだから❤」・・・など多種多様な使われ方、使い方をしてきた。
この『馬鹿』という言葉について違和感や嫌悪感を感じたのはいつであっただろうか・・・
この疑問もきっと幼少時まで遡ることになるのだろう。
それほど馬鹿と言われるような行為をしてきたし、また短絡的に『馬鹿』と言ってしまう人物に囲まれた環境であったようにも思う。
ここで『馬鹿』と『馬鹿といわれるような行為』は分けて考えるべきだと提案したい。
理由は後で上手く説明できれば良いと思っている。
それで、馬鹿という言葉に対しての違和感や嫌悪感なのだが・・・
こんなもん言われたら嫌に決っているからだ。
なぜならば他者を『馬鹿』と断罪する人間は、決まってその対象者を見下し侮蔑しているフシがある。
この点については、異論など様々状況によって変わってくるであろうが、総じて『馬鹿』と他者対して言う人間は自分のほうが優秀だと思っている。
そして『馬鹿』と言ってしまう人間は言った相手に対して、考える事をやめてしまっている。
短絡的に『馬鹿』と断定し断罪し、慮ったり思いやったり、なぜ相手がそうなのかについて思考することをやめてしまう。
思考を停止して決めつけてしまう・・・。これはとても『愚かな』行為なのではないのだろうか。
まして『馬鹿』とゆう言葉を受け取った側の人間からすると不愉快極まりない。
その言われた瞬間に、相手から見下されてしまっているからだ。ここで怒らない人間はよっぽど出来た人ではないと無理だと思われる。
くだらないプライドを捨て、謙虚に真摯に『馬鹿』という言葉を受け止める。そういった人だ。
あほか!無理や!
日々そうゆう人間になりたいと努力は続けているが無理や!短絡的に『馬鹿』っていってくるような人間に謙虚などなれるかいっ!ぼけぇ
・・・少々取り乱してしまったが、本人が故意に間違いを犯したり、性根が曲がっていてワザと『馬鹿な行為』をしている場合ではないのに対し、
『馬鹿』だろ?「おまえバカだろ」などと言ってくる人間を、私は軽蔑するであろう。
なぜなら【人にされて嫌なことはすべきではない】と思っているからだ。
これは年を重ねていくうちに経験として、また他者から教えられて実感し学び身につけて来たことだと思う。
この点についてだけでも、他者に対し『馬鹿』などと言うことは良くないことだと明らかだと思われるのだが。
だって嫌な事されたり言われたりしたら不愉快じゃん。ムカムカイライラするじゃん。嫌われるじゃん。
別に嫌われてもしかたない場合もあるけれど安易に嫌われる必要ないじゃん。好きな子にフラれちゃうじゃん。
あと自分自身が『馬鹿』と言われる対象者ではなく、第三者の立場であった場合においても不愉快である場合が多い。
誰かが誰かに『馬鹿』と言われているのを聞いてしまったりする場合だ。陰口であったりした場合などは、なおさら最悪である。
まあ例外もあって、自ら『馬鹿と言われるような行為』を理解したうえで行った場合は別である。
「うわーい今日は白ーしーろしーろ白パーンツー」「ばっっかじゃないのっ!」
とかいった場合は『馬鹿』と言われても仕方がない。自ら解っていてやっているのだ。
しかしこれについてもスカートめくりをした本人が『馬鹿』なのではなく、スカートめくりという『行為』が『馬鹿』なのだ。
なぜなら・・・なぜならスカートをめくった本人は相手の女の子を好きであったりするかもry)
その人自身が『馬鹿』なのではなく『馬鹿』といわれる行為があるだけだ。
『馬鹿』と言われる『人間』があたかも存在し、またそれが当たり前かのように思われているかもしれないが、
それは『馬鹿』と他者に対して言ってしまっている人間が創り出し、短絡的に決定付けてしまっているにすぎない。
この言葉を意識し、本当に考え始めたのはいつだったろうか・・・
やはりトム・ハンクス主演の映画[フォレスト・ガンプ]を見てからだったように思う。
あの映画の主人公は、自分の話し方や行動行為で、他者から絶えず『馬鹿』(gump)と言われていたはずだ。
そして言われるたびに主人公は言い返すのだ。『馬鹿と言う人が馬鹿』であると。
映画を観た方ならわかると思うが、はたして主人公は『馬鹿』であっただろうか。
決してそうではなかったはずである。
昨今インターネットを閲覧していて、とてもよく見かけるのだ・・・短絡的に他者を馬鹿よばわりする人を。
安易にそういった言葉で他者を避難したり卑下したり揶揄したり見下したりする人たちは、自分がされる場合になったら嫌ではないのだろうか。
果たしてその対象者は『馬鹿』と断ずるに値するのであろうか。ただ単に経験が足りなかったり、知識がなかったり、知らないだけだったり、はたまた勘違いをしていたり。
そういった事なだけではないのだろうか。
上記のような状況を私はインターネットや私生活で見聞きしたりする度に、悲しくなったり深く考えたり、気分が悪くなったりするのだ。
そして
嘆かわしいとゆうか悲しいとゆうか驚くのだが、「知識人」と呼ばれている方などに特に多く見うけられる気がする。
ある程度の地位などに就いている方なども、そういった傾向がある気がする。
そしてだ。こういった方々は必ずといっていいほどブーメラン現象をみせてくれたりする。
自分が行っていた行為や言説で、自ら墓穴を掘ったりしてしまうのだ。
はたから見ていて目も当てられない。
最悪な事に、自分が間違ったとしても認めなかったりもする。間違っているのにもかかわらず、自らを省みずに他者を攻撃し続けたりもするのだ。
恥ずかしくはないのだろうか・・・もはやそうゆう感覚もないのだろうか。
それとも自分だけが正しく、まわりは間違っているに決まっていると思い込んでしまっているのだろうか。
他者をすぐ『馬鹿』だと断定してしまう人に、こういった事例が多い傾向があるように思われる。
こういった事こそが愚かで『馬鹿』な行為なのではないのだろうか。
確かに解らなくもないのだ。
知識がある方からすれば、知識がない人は愚かに見えることもあるだろう。
経験を積んだ年長者から見れば、若い人々の行為が愚かに見えることもあるだろう。
知っていて当然だと思う事を知らなければ「え?」っとなる気持ちもわかる。
出来て当然だと思える事ができなければ「なんで?」となる気持ちもわかる。
しかし気をつけて欲しい。果たしてそれは知っていて当然なのだろうか。出来て当然なのだろうか。
知らない事に対して理由があるのではないのだろうか。
出来ない事に対して理由があるのではないのだろうか。
出来る人はできない人の気持ちはわからないのだ。
目が見える人に目が見えない人の気持ちはわからないのだ。
歩ける人に歩けない人の気持ちはわからないのだ。
若い人に年老いてしまって体が不自由な人の気持ちはわからないのだ。
高等数学を苦もなく解ける人に算数でつまずく人の気持ちはわからないのだ。
語学が堪能な人に国語の勉強でつまずく人の気持ちはわからないのだ。
会話が得意な人に吃音で悩んでいる人の気持ちはわからないのだ。
赤ちゃんが何故なくのか日々生活に追われる大人や子育てをしたことのない人にはわからないのだ。
または忘れてしまっているのだ。
まだまだたくさんあるだろうけど、今挙げた例は逆もまた然りなのだ。
経験していない事、出来ない事や立場については理解することは難しい。
きっと何かについて苦もなく出来てしまう人は、出来ないという経験を積む事がないから
悩んだり苦しんだりする気持ちがわからないのだ。
悩んだり苦しんだりという感情を経験してないから、そういった感情自体を知らないかもしれない。
あまりにも出来てしまう人はきっと悩んだり苦しんだりする経験が薄すぎるから、感情が希薄になってしまう事もあるのかもしれない。
怖い事なんだけど、有能だと言われている人にはこうゆう傾向があるように思える。
・・・これはまた別の問題かな。今回の『馬鹿とゆう人が馬鹿』といった問題とは別かもしれない。
さて・・・
しかし、だ。
それら理解できない状況や立場、行動行為、人などを『馬鹿』と断定してしまって良いのだろうか。
切って捨ててしまっていいのだろうか。
理解しようとせずにいていいのだろうか。
それではあまりにも短絡的すぎるのではないだろうか。
思考停止と言えるのではないだろうか。
短絡的にすぐ断定したり、思考を停止させてしまう行為こそが愚かなのではないだろうか。
決め付けや憶測での価値判断こそ『馬鹿』な行為ではないだろうか。
高度な事を教えるのなら段階的に教えればいい。
基礎の事から学ぶように導けばいいだけの話だ。
なぜそうなるのかわからない場合、局所的な事実では見えない事もあるのだから、大局的な捉え方に目をうながすのも良い。
ちょっと立ち止まって思いやったり想像したり、相手の立場になって考えたりしてもいいのではないだろうか。
自分が上手く説明できたりするようになればいいのではないだろうか。努力してみたらいいのではないだろうか。
そういった姿勢や考えこそが賢く、【利口】と言えるのではないだろうか。
ふぅ~・・・ここまで書いてきて今気づいたのだが・・・あまりにもまとまりが無い。
文体、文脈、論理展開など滅茶苦茶じゃないだろうかこれは・・・。
このテーマについてはまたこれからも考察したりしていこうと思っている。
自分が他者にたいして短絡的に『馬鹿』などと言わない人になるために。
だが人に言われるのは好きじゃない。