はてなキーワード: パートナーシップとは
【2017衆院選】LGBTの政策について各党にアンケートをとって比べてみた - SOSHI BLOG http://soshi-matsuoka.hatenablog.com/entry/shuinsen_lgbt
「なお、自民党では性的指向・性同一性の多様性に関して理解促進を図るための法整備を検討しており、具体的な施策については政府申し入れにより現行制度をフル活用して実現を目指す方針です。」
「憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」が基本であり、同性婚容認は相容れないものです。また、一部自治体が採用した「パートナーシップ制度」についても慎重な検討が必要です。」
同性婚、選択的夫婦別姓、家族のかたちを候補者はどう考えているか
http://www.projectjapanwomen.net/single-post/2017/10/16/2017election
政治家やってる人たちの風潮が社会の風潮とは思わないけど、「まだそんな時代遅れなこと言ってんの?」って感じ
街頭演説してるあの人やこの人も、「家族は多様であるべきではない」と思ってるという事実にゾッとする
「異性への関心」指導要領の改訂を拒否、文科相は“LGBTは科学的に認められてない” http://lite-ra.com/2017/05/post-3136.html
別に俺は同性愛の人が同性愛者として必要な権利を獲得することになんの反対もないよ
そもそも、なんの責任も負わない奴というかいじめる側の当事者であった奴が、手放しに賛成してるのを批判してるだけだからな
ただ、同性愛者が異性愛者と同じ権利を欲しがってると思うやつは盛大に馬鹿にしていいだろ
海外を見ても結婚と同性パートナーシップを両方用意してる国は結構ある
異性愛者と同性愛者同じシステムに入れてうまくいくのか分からないからだよ
同性愛者の結婚に相当する権利にはどいうものが必要なのかそれは同性愛者たちの総意として妥当なのかそれをちゃんと議論しながら決めて貰えばいいじゃん
基本抑うつ的な性格なのだけど、恋愛(片思いでも)をしている時だけいろんなことを頑張れる。
なので、常に思い人が必要になっていて困る。
勉強やダイエット、おしゃれ、仕事、なんでも。将来にいろんな希望を持てる。半ば盲目的に。
そしてその恋が(大体において空回りして)終わると、がっくり落ち込み、無気力になり引きこもったりする。
このような傾向が自分ですごく嫌いなのだけどどうしたら変えられるのかわからない。
つい最近も、まず自分には手の届かない、付き合えるってことはないだろうと分かっている相手にフラれた。
その人に少しでも近づきたい、会話したい、その人のことが知りたい、その人と会うのにふさわしくなりたいって思って、
その人の好きな作家の本を読んだり、ジムに通ったり、勤務中もしゅっと背筋を伸ばしてはきはきしゃべるように
してみたりしてた。
フラれることは分かっていたし覚悟もしていたが、がっつり落ち込んでいて生活に支障が出ている。
無気力倦怠感、勤務態度も自覚できるほど悪くなっている。暴飲暴食不摂生も半ば自傷的だが、自分が
健康だったり清潔だったりおしゃれである意味が全く感じられなくなっている。
失恋するたび自暴自棄になって散財したりぶくぶく太ったり引きこもったりしているので、
30過ぎて何やってんだと思うのだが、どっからとっかかれば変われるのかよくわからない。そもそも今は
何もする気力がない。なんだろな、病院案件なのかな。生保の掛け金とか変わっちゃったりするのかな。
大きい勢力であれば、小さい勢力の権利に口出ししても良いの?逆は、許されないのに。そういう世の中がよくないからマイノリティの意見が反映されるような政治のあり方になってきたのが現代である信じたいね。
部外者が自分と意見が違うから気にくわないというのはその通り。だけど、それだけじゃない。本当はゲイに興味なんかないし同性婚やパートナーシップのあり方、結婚観なにも知らない奴が勘違いでものをいってんのが明らか過ぎて腹が断つということの方が大きい。ちょっと調べてみれば、それは同性愛者の人たちが考える問題だねとなるに決まってんだから。
わかる。
ていうか、海外では男女の結婚ということ自体がオワコン化して事実婚を選択するカップルがいる現状において、「結婚」とは何かというところについてあまりにも議論が浅すぎる感じがある。
そもそもとして現在の日本で「結婚」とされる制度は江戸時代からの武家のお家制度を明治になって一般人に適用したとともに、それまで一般的だった人前式を無理やり欧州列国に認めさせるために神前式に祀り上げたとかわけのわかんなもので、そういうところを真面目に研究する学者がいない。
同性愛者がいるという事実と、結婚という制度がそもそも社会的・歴史的にどういう位置づけであるかということは全く別の問題なのに、ほとんどの人が平面的に「だってみんなやってるし」で片付けてる。
世界諸国に比べて婚姻制度とかパートナーシップ制度が20年は認識が遅れてる日本において、同性愛者ですら「だって男女の結婚て幸せそうだから」とかふわっとした理由で同性婚を支持していたりする。
一方でラディカルな同性愛者は結婚制度そのものが将来的な家族制度に適しておらず、まして同性愛という人間関係にはそぐわないものであるということを理解しているから「同性婚」という茶番に反対をしていたりする。
日本における同性婚議論で最も欠けているのが宗教的観点で、元祖キリスト教で同性愛を禁止していたこととか男女の結婚も一生何があっても添い遂げることを強制するDV容認男女差別容認という宗教的戒律があったことが理解されていない。
今の日本の結婚制度がもともとあった先祖崇拝とアミニズムと神道を無理やりキリスト教風にミックスしたクソみたいな思想の土台のもとに成り立ってるってことがわかってもらえれば「同性婚」どころか「結婚」がいかに不毛で20年遅れた制度であるかがわかるんだろうけど、まあ日本会議が頑張っているうちは無理かな。
ゲイだけどなんで異性愛者が賛成だ、反対だと首突っ込んでくるのか理解できない。関係ないじゃん。
おまけに同性婚とパートナーシップ制度との違いも知らずに適当に同性婚支持してたりするのには閉口するしかない。簡単に言うと同性婚は異性愛者の結婚と同等の権利をというもので、パートナーシップ制度は必要な法整備を徐々に進めていくというもの。んで、海外ではだいたい半々くらい。
ちなみにどっちにしたほうがいいのかは、ゲイの間でも意見が分かれてるというのが現状だ。お前らはなに基準で、同性婚賛成って言ってんの?俺は、パートナーシップ支持派だから、正直部外者が賛成反対言うこと自体お門違いだと感じてる。
https://www.buzzfeed.com/jp/kazukiwatanabe/20170706?utm_term=.iiyvgLEKRa#.qtrKmR2aJj
「私はゲイです」文京区議がカミングアウト 死別したパートナーへの思い
同性婚反対は別に差別でもなんでもない。どこの国でも当たり前にされてるもの。価値観の違いでしかないものを悪者扱いでおかしな奴らだとみなすやからには本当イライラする。同性婚には理解を示して寛容なふりをするが、価値観が違う人の考えは理解しようとすることすらないブコメがわんさかだ。
結婚というのは、男は外で働き女は一生尽くすつもりで家に嫁ぐという覚悟の契約でもある。結婚に対して保守的な価値観を持っている人たちの結婚観はこれ。
実際、この価値観に基づいて結婚や家族法は整備がされてきた歴史がある。
単純にこの結婚観は、同性婚にはそぐわないから反対だというのが一つの意見だ。
価値観が違うのだから同性愛者には同性愛者のパートナーシップ制度を作れば良い。騒ぎになってるように、病院で立会いできないなら、できるようにすれば良いし、ニーズに応じた法整備を拡張していけば良いだけ。
価値観の違いは差別じゃないし嫌悪でもない。新しい制度を作れば良いだけのものであって、昔から続く価値観を否定する必要もない。
LGBTの理解が進まない背景って実はこういうLGBT当事者間のコンプレックスもかなり関係してるんだよね。
テレビでタレントがカミングアウトすると「ゲイを商品にしている」「本当のゲイはあんなじゃないのに代表者ヅラしてる」とか言ったり
女性同士でパートナーシップ届け出たら「美人だから受け入れられた」「自分たちを基準に同性愛を語るな」とか言ったり
確かにLGBTっていってもたくさんの考え方の人がいるし当然に格差もあるけど、いちいち足の引っ張り合いしてたら結局誰も前に進めなくない?って思っちゃう
タレントとして活躍しているLGBTだってそれなりに悩んで今に至ってるはずなのに、悩み方が足りないとかって言うLGBT当事者を見ると悲しいよ
猿山(チンパンジー?)をたとえにしてるけど、行動動物学の知見では、ヒトは他の霊長類と違って乱婚(特定の性的パートナーを持たない)ではなく、限りなく安定した雌雄のパートナーシップを持つ(一夫一婦制)珍しい種であることが分かってる。例えば、ペニスに骨が入っていないとか、そもそも特定のパートナーに固執する(恋愛感情がある)という時点で異質だとか。
仮に恋愛工学の言うとおりにヒトが乱婚だとすると、オスは本能的に子育てに一切協力しない。メスもオスには頼らず、メス同士で子を育てる。ライオンなんかもそうだね。もし人間がチンパンジーと同じなら、男に甲斐性を求めるわけがない。
当然、乱婚制なら結婚制度が成立しないはずだけど、古今東西、婚姻制度がない文明・民族はジャングルの奥地にも存在しない。
最後にダメ押しするけど、チンパンジーのメスは気まぐれに弱者オスを自ら誘惑する。乱婚制では子育てリソースがオスのクオリティに依存しないから、気まぐれに弱者オスの子を産むんだ。サルは産めば産むほどモテるメスになることも関係しているかもしれんけど、人間の女がハイスペ男と結婚して子持ちになった後、非モテのキモ男と逢瀬して出産するようなあり得なさ。というか、乱婚制の動物は回数が少ないだけで、すべてのオスは一度くらいは交尾のチャンスがある。人間はどうだ? 中年童貞って聞いたことないか?
同性愛否定派は否定派で、自然に反してるからおかしいとかいう意見のヤツがいる。
じゃあ仮に反していたとして、実際現実にいる同性愛者は無理やり異性愛者になれとでもいうのか?
同性愛肯定派は肯定派で、野外の発展ビーチが封鎖されるとかの話で同性愛者差別だという意見のヤツがいる。
あのなー、別に発展どうこうじゃなくて立ち入ると、命に関わる危険な場所だから立ち入りできないようにするって話だろ。
で、こういう両極端な意見の人が大きい声を出してぶつかっていて
そういう声を真に受けて信じて、同性愛をディスったり
もしくは肩入れしたりするアホがいる。
間に受けるアホは、本当のところどうなのか?を調べることはしない。
そんなに生きる上で重要でもない話題って認識をしてるのかもね。
カムアウトすると、「俺のこと襲わないでね」というヤツ。
じゃあ女が好きなてめえは、どんな女でも見かけたら襲いたいとでも思うのか!?
いや、そういうヤツは実際普段からそういう発想をしている可能性があるのか。
個人的には、個人の感情的な部分ではまだすごく生きづらさを感じている。
でも、すべてが生きづらくてダメっていうとそういうわけでもなくて
町ごとにやってる対策は割といい線いってるのでは?と思う。
犯罪に使われる可能性があるかもしれないけどどう対策するか、なんて
LGBTの意見を集めて町づくりに生かそうとしている自治体もあったりして。
というわけで、俺はゲイであることに生きづらさを感じているのは事実だけど
いずれ解消されるんじゃないかな?と楽観的に見ているんだよな。
その頃には、きっと俺にも彼氏ができていると…いいなあ。
(今でも若干行き遅れ感あるけど
読んでいて、パートナーとの付き合い初め、お互いの性欲のアンバランスさに戸惑ったのを思い出した。
女性が貞淑・従順さを求められるこの社会だと、付き合い初めに女性側が「求められて・応じる」、実質的に女性が尽くすセックスが当たり前になりがち。
結果、男性は性欲を満足させ、女性は尽くす・求められることで承認欲求を満たす、という関係性が続いてしまう。
こうなると、女性側の性欲を喚起する「信頼/安心感から快感を得る」システムが上手く動かない。
時間が経てば、ドーパミン主導の、恋愛初期のドキドキはなくなる。
加えて、一般に、産後の性欲は減退する。承認欲求を満たすなら子どもで十分すぎるほど。
加えて、男性へのケアワークまで引き受けているとなれば、もうセックスは負担でしかない、ということではないだろうか。
結局のところ、こちらは気持ちよくなれないし相手の性欲は旺盛だし。
ただ、「ここで雑に応じたらこの人を愛せなくなる」という直感があって、
YES・NO、及び良かった良くなかった、はかなり意識して伝えるようにしていた。所謂ホワイトボード式。
手間を掛けさせて申し訳ない気持ちもあったのだけれど、こっちがふにゃふにゃになった状態だと挿入時の快感が段違いらしく、
結果、どちらからも求めるようになったし、セックスに掛ける時間は増えた。
頻度は高め安定で、それなりに性生活は充実していると思う。
総論として、日本人がレスになりやすい理由って、硬直した男女観のせいで、
「互いの利害を一致させる」というパートナーシップの根底がスポイルされがちなせいなんじゃないかと。
お互いに、自分のニーズを明確にして、互いにそれに応じる、って大事。
性的に相手のニーズを優先する関係性を通過してしまうと、産後の女性が性欲を維持するのはかなり難しいように思う。
「双方向に気持ちいいセックス」には対等な(というより、性行為への嫌悪や負担感を生まない)関係性の構築が必須で、
実はとても手間が掛かるものなのかもしれない。
同性結婚を巡る議論で、異性愛は認めているのに、なぜ同性愛は認めないのか、という意見があるが、
適齢期の男女が交際して、お互いの親に挨拶して、婚姻届を出して、初めて法律婚として優遇される。
そして、全ての異性愛が優遇されるとは限らない。ポリガミーというのがあるらしいが、
また、今でも妾を囲ってる人間というのもいるんだろうが、やはり扱いは原則としてアウトローである。
全ての愛が愛というだけで優遇されているわけではない。まずこの前提が忘れられているように思う。
今の結婚制度は人口の再生産に軸足が置かれているから、そこに寄与しないものは排除されている。
同性愛が悪いんじゃない。同性愛だろうが異性愛だろうが平等に価値がないのだ。
だから、そこをすっ飛ばして、とりあえず同性結婚だけ優遇の対象に入れろというのはダメだ。
同性愛以外の愛のカタチも、同時に全部認めてやらなきゃ筋が通らない。
まあ、結婚やそれに類するパートナーシップを認めるとこまではいい。差別も減るだろう。
けど諸々のお手当てまでよこせやっていうとこまで行くと、さすがにちょっと図々しいんじゃないか。
結婚式は金落とすんなら好きにすりゃいい。部屋が借りられる方がいいし、病室にも入れる方がいい。
私企業がアピール目的で祝い金だの何だの出すのも、どうぞおやんなさいと思う。
主張したい本筋とは違うが、同性愛や同性婚をチンパンジーに例えるセンスの悪さはかなり鼻につく。
増田のボキャブラリーの問題なんだろうが、例えば子育て論で「自宅で飼っているチンパンジーが預けたときに資格もない人に劣悪な檻の中に入れられたらどう思いますか!」とか言ったら仮に主張はそこそこまっとうなものでも相当叩かれるだろう。
カミングアウトすることによる社会的なリスクがまだ高いからじゃね?
同性婚を訴えるってことは自分自身も同性愛者であることを明言しないと説得力がないわけだし。
個人的には自分が同性愛者でなくても同性婚を推進する人がいても全然問題ないと思うけど、世間的には「あの人同性愛者なんだープークスクス」みたいな指さすやつはいるでしょ。
ただここ数年でLGBTへの世間的な目は明らかに緩くなってきて、同性愛であることをカミングアウトしてもクリエイティブ系とか特定の職業の人ならわりと大丈夫になってきているのは事実なので今後数年で大きな変化が起こる可能性があるかもとは期待している。
同性婚や同性パートナーシップ制度を一気に世間的に認知させるためには、より多くの分野で活躍したり知名度を得たりした人が堂々と自分のセクシャリティーとして公言してくれることだと思う。
しかしそういう方法で世間に認知させると逆に「同性愛者は素晴らしい才能がある」みたいなそれはそれで困った誤解を振りまくことになるかもしんないけど。
一部のラディカルフェミニストがピルや緊急避妊薬を蛇蝎のように嫌う背景には、「生殖の為に、女は有害な行為を受容させられる」「その過程においてコンドーム装着を受け入れさせることは、男への、女による影なる支配力の行使である」という、「男」へのマウント意識があるのではないかと思う。彼らにとって、生殖は選択不可能な苦行であり、反面、男への影響力を駆使するための手段でもある。そこに、産むことも性を謳歌することも万人に与えられた権利である、という意識はない。
一方、リプロダクティブ・ヘルス・ライツの整備に反対する保守層は、女性が人生に対する主体的な選択を行うことを、「ふしだらである」として忌み嫌うかたちで、その権利を奪おうとする。しかし、性教育の不徹底と、不完全な避妊方法である"コンドーム教"の盲信は、避妊失敗の社会的責任を、男性のみに背負わせる。女を妊娠させたとき、男は責任を取らねばならない。育児・出産によって労働の機会を失う女たちを「養う」ことで、男たちは権力を得る。生殖を巡るパワーゲームを維持するという構図において、彼らの利害は一致する。結果として、リプロダクティブ・ヘルツ・ライツの話題そのものを忌避する社会が完成する。
リプロダクティブ・ヘルツ・ライツを巡る議論においてのみ、本来なら敵同士であるはずの彼らの利害が一致する。この構図は、彼らのプロレスじみた対立が、本質においては「同じ権力構造の内部でマウントを取り合っているに過ぎない」のだ、という事実の証明に他ならない。男性のありとあらゆる性の営みを監視し・支配するラディカル・フェミニズムの主張は、結果として、敗戦と高度成長によって闇に追い遣られた「影なる支配者」としての女の復権に等しい。そして、一部のミソジニーをルーツとする保守主義者は、女性の社会進出を嫌う。育児出産が女の手に占有された世界において、女が労働によって金銭的自由を得てしまえば、男たちはパワーゲームに勝てない。男の欲望を受け入れ癒し、子孫を増やし育む機械である女と、女によって欲望を充足され、労働し、財を得て、社会を富ませる機械である男。どちらが権力を握るべきか。彼らの諍いは、どこまで行っても、同じ地点に収束する。
日本における家制度は、男尊女卑の見掛けを取りながら、男を肯定し、てのひらで転がし、そして扱き使う「女たち」の、影なる支配によって成り立ってきた。そうして労働力と構成員を吸い上げてきたのが、それぞれの時代における「社会」だ。人は社会に帰属し、「世間」の強制力は空気のように蔓延する。保守的な男女観に固執する限り、彼らは、どこまで行っても、彼ら自身を苦しめる抑圧から逃れ得ない。その事実を、このところネットで頻発する「アンチ・フェミニズム」の趨勢は象徴しているように思う。
リプロダクティブ・ヘルス・ライツへの問題提起は、女が生殖への主体性を手にするための運動だ。しかし、同時に、男が「自らの意思で」生殖、もっと言えば異性との利害を伴った関係性に踏み込んでゆくこ権利を得る活動でもある。二者間の合意によってパートナーシップを構築するとき、男は「働かなければ価値のない生き物」ではない。そして、純粋な利害関係に基づくパートナーシップが、男性による労働の社会的価値を損なうことはない。出産・育児と労働を天秤に掛けるとき、労働を選択する女性ばかりではないからだ。
一般に、「金のない男」が若い女と恋愛できないのは何故か。女が打算的だから、男に養われ、楽をしようと意図するから、ではない。現在の日本社会においては、生殖そのもののコストが女性側に一任され、経済的負担は男性の側に強く圧し掛かる。金のない男はその負担を負うことができない、と判断される。それは合理的帰結に過ぎない。
単独で家族を養うに十分な社会的資本を持たない彼らが、現代社会において異性と関係を結ぶためには、ハンデを飛び越えるに足る利害調整力と、自分の社会的な立場を見極める市場観察力、利害の一致する相手を見出し、交渉する主体性と行動力が必要となる。しかし、アンチフェミニズムを標榜する視点において弱者男性の問題が論じられるとき、男女関係における責任問題の現実的側面に目が向けられることはほとんどない。
彼らの世界に、「主体的に選択し、行動し、異性関係を構築する」という選択肢は存在しない。その選択肢を得た個人は、現代社会においてもはや弱者ではないからだ。保守的な男性の世界観においては、「男性としての名誉」も、トロフィーとしての女も、世間に従い、勤労し、地位を獲得することによって、主体なき「社会」によって宛がわれる。しかし、社会全体の資本が不足し、そして、かつて公共財であった女が人権を獲得してしまったこの時代、トロフィーを得るためには、生まれながらのステイタスと弛まぬ努力、そして大いなる運が必要となる。加えて、トロフィーを獲得しても、幸福になれるとは限らない。双方が主体的選択と責任意識を放棄して「規範」によってマウントを取り合う関係性、外的抑圧によって維持された家族関係において、性的抑圧は再生産され続ける。
セックスが「男女の問題」ではなく、「主体的な二者間の問題」であるとき、生殖に関与する両者は、二人の協力者である。
男性側のアクションとしての、コンドームに代表される避妊手段、女性側のアクションとしてのピルやIUDの使用、リスクヘッジとしての緊急避妊薬の存在、性病検査の徹底。生殖に参加する関係性の帰着を見据えた上で適切な手段を選択することで、初めて、両性にとっての「主体的な生殖の選択」は可能となる。この状況下においては、「全てのセックスはレイプである」という命題は否定される。その上で、生殖に前向きな人々が、意思以外の諸要因を理由に断念せざるを得ない状況を減らしてゆくこと、が、理想的な(あくまでも理想的な!)「少子化対策」と呼べる。このことは、シラク三原則が成果を挙げたことによって実証されている。
しかし、この「現実的側面に対して、現実的に議論する」こと、そのものが、世間の一部の人々には(蛇蝎のごとく!)忌避されている。フェミニストを名乗る、ミサンドリーに支配された「女たち」と、家社会、部族社会の論理に連なる男女関係を信望する保守主義者の人々、女によって自らの居場所と財産と名誉を奪われたと盲信する「男たち」。インターネットにおける緊急避妊薬を巡る議論への反応から見て取れる。彼らはひとの良心や想像力をも支配したがるのと並行して、パートナーシップを構築する二者が対話し、尊重し合うことを志向するというごくごく当たり前の幸福を、社会の構成員から取り上げるべきだ、と主張する。生殖の主体的選択が一般化したとき、救われるのは"望まぬ妊娠をさせられた女性たち""中絶を強制される女性たち"だけではない。男らしさ規範による、自尊心の欠損や経済的な搾取に苦しむ男性もまた救われることになるというのに、である。
リプロダクティブ・ヘルス・ライツを巡る議論は忌避され、遠ざけられる。問題提起を行えば、「フェミニスト」からも「保守主義者」からも袋叩きにされる。この風潮は、そのまま、日本におけるフェミニズム・リベラリズムの歪みの象徴であるように思われるのである。
付き合い始めた切欠けは、告白したでもされたでもなく、あるとき「結婚しない?」と言われたことだった。10年来の知人である。後になって訊いてみたら、その当時つきあっていた彼女にふられて挙句、相続関係で実家で問題が起こり、絶縁状態になっていて、何となく言い出したものの「ここで断られたら一生一人で生きていこう」と思っていたとか何とか。私は男性と恋をしたいとはそこまで強烈に思っていなかったのだけれど、ただ家庭を持ちたい気持ちはうっすら存在していて、以前から、どう生きても×2歳あたりまでにはそのへん、やってみるか諦めるか決めなきゃと思っていた。そのとき先方×0歳、当方×9歳。2年前の話。
話を戻したところ、先方が「せっかくだから恋人関係からやってみたい」と言い出して今に至る。数ヶ月前の話である。
付き合い始めて真っ先に認識したのは、自分には「男性が男性であるというだけで欲情するという感覚がない」ということだった。気づいたときはちょっと悩んだ。女性の魅力についてだったらまぁノンストップで三時間くらいは語れる。男性に関していうと、性的にはそこまで強烈に希求してこない。SNSで百合の話ばっかりしていると友人に笑われたことがあるし、しょっちゅう男性向けのエロ同人だとか百合系のテキストだとかイラストを漁っているのだけれど、そこは二次元の趣味で、「性癖」だとは思ってなかったのだけれど、どうももっと根本的な部分で「女性が好き」だった節がある。そういえば人生で最初に好きになった相手は女の子だった。
とはいえ、自分の性向について深いこだわりはない。世間的によくある程度の倒錯だ。
恋人について。ある種切実な話として、彼には女装歴がある(私はその頃のことを知っている)。とはいえ、付き合い始めた理由に特にそこは関係ない。現在はフツーにどっからどう見ても「男性」だし、本人曰く「女装してた頃より10kgは太った」ということだし、まぁ(格好によっては)男前ではあるのかなと思うけれど、典型的なフォーマットとして、中性的とかそういうことはない。私は「視覚的に興奮を得るのは女性」という話だけれど、かといって別に男性嫌悪者でもないので、一緒にいたり視界に存在していても、その人が傍にいる、という感覚しかない。「異性への」、というか、セクシャルな高揚、みたいなのは、最初から今に至るまで、あまり実感がない。
つきあいはじめ、相手が性的に興奮していることに対して、嫌悪や重さを感じることが多かった。性嫌悪的な傾向はとくにないじゃないんだけど、自分がどうこうする話となると話は別だ。その上で許容できていたのは、相手が「話せる」他者だったのと、この人とパートナーシップを構築するのは楽しいかもしれない、という単純な予感があったことがひとつ。もうひとつは、そのひとが単純に「触られても平気な相手」だったからだ。理由はいろいろあるのだと思う。この葛藤をどうにかする価値はある、というおかしな決意みたいなものがあった。
段々と距離感を調節できるようになって、「自分が受容できる/尊敬できる相手に、自分の存在を求められている」ということによる承認欲求が充足される感覚、とか、他者を承認し承認される快感(性的快感とはちがう)、みたいなのを感じられるようになったのはごく最近だ。大きく変わったんは、意外なことに、セックスをするようになってからだった。どうもスキンシップの欲求自体はちゃんと存在していたようで、思いの他セックスは楽しいのだけれど、「違う体を持った、受容できて話の通じる他者とあれこれ試すのが楽しい」といった部分が強くて、欲しい、みたいなのは今のところ思ったことはない。今後もないんじゃないかと思う。セックスをしていてたまに、この人が男性で私が女性でよかったのかもしれない、と思うときもある。この人が女だったら別の楽しさがあったのかなと思うこともある。
男性女性を問わず、わりと惚れっぽいというか、「いいな」と思いやすい性分だった。貞淑であるのは気が多いことに等しい。それでも「恋愛をする」コストが賄いきれなくて、長い間恋をせずにやってきた。処女だったことに、周囲とか世間が言うほどには抵抗はなくて(むしろ、例えば童貞であることをアイデンティティの欠陥であるかのように悩む人々を見て不思議にすら思っていた)、相手を選んだいちばんの理由は、たぶん単純に、「一番最初に話を持ちかけてきたのがその人だったから」だった。
選択は間違えていなかったと思うけれど、決めた相手が女性だったとして、それでもそれなりに必死になれた自信みたいなものはある。必死になる、というか、おそらくそれが「愛する」という感覚で、でも、それを知ったのはこの人のお陰で、仮に今後、分かれることになったとしても(だってこの先何があるかなんてわからない)、この感謝だけは絶対に忘れないはずだ。私は人を愛することができる。それは現在で、どのように生きるにせよ、一秒一秒、つねに過去になる。それは刻々と更新されている。その事実が、どれだけ嬉しいことか。
この社会で男である女である、というのは、ある種とても辛いことなのだと思う。自分が「もてない男」であることに悩んでいた知人が、30代を過ぎて、どんどん偏屈になっていったのを見ていた(なお、私は縁を切られた)。同世代の女の子たちは、自分が女としての生を生きなければならないことにその都度悩みを抱えていた。恋人は、(私の見ている範囲では)社会においてそれなりに有能な人だけれど、折に触れて当時「女の子になりたい」と言っていたのを見ている。私は、外見は紛れもなく女だけれど、ジェンダーロールとしての「女らしさ」をそつなくこなすことに色々な局面で駄目出しをされてきたし、今でもコンプレックスがある。
初回のデートの行き先を提案したのは私だった(そして彼は財布を忘れた)。現在のところ私のほうが収入が低いのと、けっこうすぐ困窮するので、わりとよく奢ってもらっていて(競争で財布を出しているけれど、私は人に奢るのも好きなので偏るのは不本意ではある)、あと、料理は好きなので、それぞれの家に行くことがあったら材料はこっちで用意して作ったりはする。ときどき普通の男女カップルらしい趣になっていて、ときどき、一般的に見たらおかしなことになっていて、それも特に「そうであってはいけない」とも思っていない。それなりに面白い。それは、私のコンプレックスとは無関係に。
付き合っていて感じるのは、「こうすべき」ではなくて、「こうして欲しい」「こうしたい」を相互に伝え合うことの重要性だ。一般的な男だとか女だとかのあれに結果的に近いこともあるし、遠いこともある。けれど、何より、それはとても楽しい遊びだ。遊び、だと思う。意見の相違はたびたび起きているけれど、基本的には、それを調整することもすごく楽しい。怒ってみせる(「みせる」であって、別に本気で怒っているわけじゃないけれど)こともある。情に訴えることもある。でも、そういった駆け引きも遊びの一環で、相手の根本を否定しないスタンスというのか、その上でやいのやいのやるのは本当に楽しい。この点については、彼氏のほうも同様なのではないかと思う。この遊びができる、ということはとても楽しい。逆に、「こうしてくれるはず」と思って漫然と待ちの姿勢になると何となくうまくいかない。
現実的な問題は常に起こる。お金の問題とか健康問題とか、これは各自ずっと努力していかなきゃいけないことだと思っている。けれど、男である女であるという重さより前に、「何かが起こる」「何かができる」ということが、ただただ楽しい。男だから女だから、ではなくて、恋人がいるから、でもなくて、ただ楽しい。配偶者がいる、ということに社会的なステータスが付加される風潮に疑問を感じていたし、今でも好きではない。可能なら、一緒にいてくれる人をそんな風に何かの道具にしたくはない、と思っている。一方で、ふたりで、今の自分たちは事実上のリア充だよねという話をたまにするのだけれど、でも、「恋人がいるから」楽しいわけではなくて、ただ自分たちのしていることが楽しい、という感覚は丁寧に捕まえていたいなと思う。
ろくでもない時間を生きてきて、長いことネット界隈にいると、不幸な話のほうが身近であるように感じてしまうというのか、「楽しい」というのがなんとなく釈然としないのだけれど、ある場所にはあるのだなと思ったりもする。身近な他人の、そういうような話をきいたときと同じように。遠い世界の話のように。
「らしい」愛情表現ができるほうではなくて、「好き、でいいんだよな?」と、よく確認される。
「好きだよ」と答えるけれど、いかにも恋人がいますというような、どきどきした感じは未だにない。好き、ということに、実はちょっと自信がない。先日母と電話で話したとき、同じことを話したら「つまらないんじゃないの」と言われた。どきどきしたりせつなくなったりしない恋は退屈ではないのかと。
そんな恋はそんな恋で魅力的かもしれないけれど、今の楽しさと天秤に掛けて、そちらを取れる自身はない。
恋をしている、実感は、今でもあまりない。でも、選んだのがあなたで良かったし、それぞれ負担にならない範囲を模索しつつ、楽しくやるための労を惜しまずにいたい、とは思っている。
もし、WADA(世界アンチ・ドーピング機関)のディック・パウンドが告発した驚愕の事実が、第2回目のWADA調査委員会の報告書のページの下に小さく付けられた注に影響を与えていたとしたらどうなっただろうか?
1月14日に行われたWADAの記者会見では、驚くような情報は出てこなかった。しかし世界のスポーツ界を揺るがす爆弾は、報告書の34ページの下の注に隠されていた。
https://www.wada-ama.org/en/resources/world-anti-doping-program/independent-commission-report-2
調査委員会の報告書は、注36で、1999年から2015年までIAAF(国際陸上競技連盟)会長だったラミーヌ・ディアックが、IAAFに有利なスポンサー契約をもたらすために、IOC委員として影響力を行使していたことを述べている。
こうした取引が存在した疑いは、ディアック前会長の息子の一人であるイブライマ・ディアックとトルコの陸上選手アスリ・アルプテキンの親族との間で行われた話し合いの中で言及されたものだ。この発言によれば、2020年オリンピックの開催候補地・イスタンブールにラミーヌ・ディアックIOC委員が投票しなかったのは、IAAFにとって旨味のあるスポンサー契約を提示しなかったためである。
しかしこの発言は慎重に取り上げる必要がある。ディアックの息子の目的は、ドーピング検査で生体パスポートの異常値が見つかった場合に、もみ消す力があると信じさせることだったからだ。
「(会話の中で)トルコがLD(ラミーヌ・ディアック)の支持を失ったのは、4~500万ドルのスポンサー料をIAAF陸上ダイヤモンドリーグあるいはIAAFに支払わなかったからだと述べられている」とWADA独立調査委員会のレポートは例の注36に書いている。
注は「(会話の)報告によると、日本はこうした金額を支払った模様である。2020年のオリンピック開催地は東京に決定した」と続けている。
IAAFの5つのオフィシャルパートナーのうち、TDK、セイコー、キャノン、トヨタの4つが日本の企業である。
調査委員会の関係者はル・モンドに、情報は十分信頼のおけるものであり、公表されるべき価値はあるが、管轄外のために委員会はこの問題を深く掘り下げないと説明した。
反対に、報告書に関するミュンヘンでの記者会見にも出席したフランス経済検察庁が、この件について調査することを妨げるものは何も無い。
独立委員会がどのような形式でこの情報を入手したのか(トルコ人関係者の証言によるのか、電子メールでのやり取りを入手したのか)は明らかになっていない。
2020年五輪開催地の投票は、2013年9月にブエノス・アイレスで行われ、決選投票は60対36で東京がイスタンブールに勝利した。
イブライマ・ディアックとアスリ・アルプテキンの親族との取引は、この開催地決定の3ヶ月後に始まり、2014年2月まで続いた。アスリ・アルプテキンは2012年ロンドンオリンピック1500メートル金メダリストで、生体パスポートの異常値により懲戒処分を受ける恐れがあったが、イブライマ・ディアックはアルプテキンの親族に対して、IAAFによる追跡調査をやめさせることができるとほのめかしていたのである。
兄弟のパパ・マサタ・ディアックの後、イブライマ・ディアックも金銭を強要しようとしていたという印象をアルプテキンの家族は持っていた。
この要求に応じなかったため、アスリ・アルプテキンはIAAFによる8年(2021年まで)の出場停止処分を受けた。この処罰はスポーツ仲裁裁判所を通じて決定され、オリンピックのメダルは剥奪された。その後、ラミーヌ・ディアックはIOCを辞職した。IOCは世界陸上界を揺るがせた汚職スキャンダルに関わったとして、ラミーヌ・ディアックに一時停職処分を下していた。
この数年間のIAAFを見ていけば、パートナーシップ契約と世界選手権開催地の割り当てに関係があることを確認できただろう。韓国・大邱の2011年世界陸上大会、モスクワの2013年世界陸上大会、北京の2015年世界陸上大会、そしてドーハで行われる2019年大会である。多くのパートナーシップが契約されたのは韓国のサムソングループであり、中国の大石油企業シノペックであり、ロシアのVTB銀行であった。
最後に、2021年の世界陸上大会はオレゴン州ユージーンに決定したことに触れる。陸上界の大立者の出身地である。スポーツ用品のナイキだ。一つの反対もなく決定したことに、PNF(フランス経済検察庁)は大きな関心を持っている。
報告書によると、WADA独立委員会は、独立した組織によって、パパ・マサタ・ディアックが関わった契約およびマーケティング・スポンサード協定の完全な監査を行うことを提言している。
同性パートナーシップ条例が話に上がる時とかに、差別してはいけないという流れでいつも「多様性を認めよう」って話が出るんだけど、あれってゲイからするとちゃんちゃらおかしくて笑える。
そもそもゲイの世界は、多様性なんて全く認めない、徹底的なルッキズムで満たされている。マッチョとガチムチだけが発言権を持っているし、その上きちんと顔が良くないと「マッチョだけどブスじゃんw」と馬鹿にされる。デブも、デブとデブ好き同士で調子に乗ってるだけで気持ち悪い存在とされている。一番悲惨なのは痩せている人達だ。彼らは「キショガリ」と呼ばれ、まるでゴキブリのように扱われている。ノンケの世界みたいに「性格がいいから」なんて綺麗事では恋人なんてできない。身体と顔が全ての、完全なルッキズムヒエラルキーの世界。出会い系アプリでもルックスと身体で人気度合いがレベル付けされランキングされる非情な世界。だからみんな必死に身体を鍛えるし、鍛えてない奴はゴミ屑のような扱いを受ける。
そんなゲイの世界を嫌という程見ているから「多様性を認めよう」なんて綺麗事でゲイが擁護されてるのが本当に可笑しい。ゲイの世界には多様性なんて言葉は存在しない。ひたすら身体と顔の良さが評価されるだけの画一的な世界だ。だから、所詮多様性なんてエリート様達の考えた理想論に過ぎないんだろうなと思うし、ゲイが差別される感覚も良くわかる。それってゲイがキショガリをゴキブリ扱いしてるのと同じだと思うから。
差別される人達の中で別の差別が生まれているこの状況を見ていると、差別がなくなるなんて無理なんじゃないかなと思う。
追記:
「個人の好みの問題」とか言ってる人がいるけど、そんな甘っちょろいもんじゃないよ。キショガリに対しての差別は人種差別と同じようなレベルでなされているから。実際自殺する奴だっている。