はてなキーワード: スタンスとは
あのインターネット振り返り増田とそこに付いてるブコメを何度読んでも双方とも同じことを言っているようにしか思えないんだが何でちょっと対立してるみたいになってんの?
双方とも女叩きの存在を肯定していて、双方ともやらかしてしまう女性ユーザの存在を肯定していて、双方とも女性ユーザが悪目立ちしてしまっていたことを肯定しているんだよね?
そして確かに年上女性が年下女性へ今で言う学級会やってたこと、更に同人サイトの作り方を教えていたことすら肯定しているんでしょ?
もっと言えば2013年の時点のあの増田ともズレてるわけじゃないから女性視点のインターネット史のあの時系列も肯定しているわけでしょ?
30歳同士、出会って2年、付き合って1年半のお互い東京生まれ東京育ちのカップルです。
結婚はしてもしなくても事実婚とかでもいいやというだらしないスタンスだったのですが、
彼氏の方から同棲の提案を受け、軽くOKしたらだったらお互いの両親に挨拶をしなければという流れになりました。
私自身は放任主義の両親に育てられたせいか、常識に欠けている部分が多いのではと今から不安でなりません。
一応自営業5年目なので、営業も商談も自分でやっているのでビジネスマナーや会食時の食事のマナーは心得ているつもりです。
(ご実家にはわんさんもいらっしゃるので、お口に合うかわからないのですがおやつギフトセットも用意しました)
自宅でも動きを練習しているので実践も大丈夫かなと思うのですが、
増田のみなさんの恋人の実家に行った時のエピソードを教えて頂きたいのです。
(何を話ししたのか、どんなことを聞かれやすいのか、どう答えると当たり障りないのか、他イレギュラーパターンなど)
ブラックな面に関しては、ネット上ですっかり広まってるような「ブラック企業あるある」では全然挙がらないようなものがかなり多かったのに、
俺が経験した2社では色んな点で被ってたから本当に不思議だった。
鬱病休職者が出た時に「うわぁマジかあ……あいつ遂に障害者になっちゃったのかあ!!!」と顔を覆う同僚がいた点。
鬱病休職者が復帰した後、女性社員の一部が『挨拶されたこと』、『(仕事にまつわる)内線がかかってきたこと』を涙を流さんばかりに怖がって周りの同僚たちに慰められているという光景。
社内の常識的にメンタル休職=人の形をしたバケモノの誕生だった。
〇セクハラ
セクハラはブラックあるあるなんだろうけど、具体的な手口まで全く同じセクハラがいくつかあった。
同期飲みのときに、男性陣がニヤニヤしながら大人しいタイプの女同期に遠回しのセクハラ言動を投げかけてチキンレースする遊び。
ターゲットの女同期に対して白子ポン酢をさりげなく食べるよう勧めてその子が実際に口に入れるやいなや一人の男が「アッ‼あっ…ああ……」と射精っぽい声を挙げて他の男性陣が爆笑する、
「あの、ちょっといいですか?〇〇(AVメーカーや有名なAVのシリーズ)って知ってますか?」と他意のない風に問いかけてニヤニヤする、
これら二つのセクハラ手口まで被ってたのを見て自分がデジャブを起こしたのかと衝撃を受けた(もしかしてこれSNSとかで流行ってたのか?)。
言うまでもなく上司から若手女性社員に対するボディタッチとか、えぐいセクハラLINEとか、上司が女性社員たちだけを飲みに誘ってホステス扱いするとかもあった。
〇パワハラ
ポンコツ社員をみんなの前で立たせながら、あるいは別室に移動して1~2時間大説教。
大説教の最中はまるでその場で何事も起こっていないかのように完全に黙り込んで仕事を続けていた周りのみんなが、上司とポンコツ社員が離席したタイミングで爆発したように湧き上がって『ヤベえぞ!!ヤベえぞ!!(笑)』と最高に楽しそうに盛り上がる点、
パワハラといえばあの人!みたいな社員がたくさんいて、彼らが他の社員から顰蹙を買うということはなく、むしろパワハラ被害とは無縁でいられている社員たちが皆「あの人俺にはすげえ優しいんだよな」と誇っている点、
『おめえぶっ殺すぞ!!』とか『てめえの親ここに呼んで来いよおおおおお!!!』とか一発アウトを通り越してるような異常言動が出た時は周りが完全に同じタイミングで「ガーッハッハッハハハwww」と大爆笑することで冗談の体を守り通そうと忖度する点、
これらは共通してた。
とか
「あいつはこうこうこういうミスして何やってももう怒鳴られるようになったんだぞ(笑)」
とかレクチャーして心を掴もうとする連中がたくさんいる。
〇会議
発言を求められた社員が頓珍漢なことを言うというか、10文字くらい発声したタイミングで揚げ足取ったりツッコミ入れたりして発言を完遂させない。
例えば
社員「それに関してですg」
上司「いや、それってなんだよ(笑)どれ?これのこと?これはボールペンだよ?そんなこと聞いてませんよ?(笑)それともこれ?これは手帳ですよ?(笑)」
とかマジでこんな感じ。
凄い強引に笑い物にする。で、周りの社員が「ガーッハッハッハハハwwwwww」と大爆笑して和気あいあい風を演出するまでがワンセット。
(ていうか、全く同じタイミングでそこにいる皆が一斉に大爆笑し始めるのって某巨大新興宗教団体もそうだけど、 あれってマジでなんなんだろ)
嘱託社員に対して「おめえ今日も座りにきたの?」とか「あんた何言ってんのかわかんねえよ」とか課長や次長が率先して喧嘩売りに行ってた。
『パワハラモンスターみたいな先輩社員や上司にどれだけ好かれているか』
が今後の出世のバロメーターになるみたいな地獄みたいな認識が共有されていたので、なるべく目立つようにフロア中に響き渡るような大声出して
自分の親と同じくらいの年齢の嘱託社員をめちゃくちゃに罵倒して侮辱するキレ芸に走る奴が何人かいた(恐ろしいことに、こういうことやる若手や中堅が本当に出世していってた。まあ基本的に年功序列だから誤差みたいな違いだけど)。
ウソみたいだけど、これまであげた様々なブラック面、かなり具体性があるのにもかかわらずどっちのブラック企業でも共通している点だった。
2社目に入ってしばらくは「また同じような会社を引き当ててしまうなんて俺はなんて運がないんだ」と愕然としたけど、
やがて「こんな都合よく似通うものなのか?これって本当に偶然なのか?」と疑うようになった。
つまり、遺伝子と形質の関係のように、会社を近似のブラック環境たらしめる何かがあるんじゃないかと思うようになったのだ。
それがなんなのか探り当てることはできていないのだが、何かヒントになるものが潜んでいるかもしれないので2社間の細かい共通点を列挙していこうと思う。
こんなブラック企業はごめんだ、絶対に人生で関わり合いたくないという人の参考になれば幸いだ。
・平均年齢45歳(毎年多少の変動はあるけどまあこのくらいだった)
・平均年収800万弱
職場公認のサンドバッグみたいな立場の人だと年収700万で頭打ち。
順調に出世すれば50歳くらいで年収950~1000万くらい。
平時だと8時出勤20時退社がデフォで繁忙期だと23時退社。年1回特定の短期間だけ27時退社がデフォになる人はいた。残業代は月30時間までつく。
あくまで平均なので、かなりレベルが低い大学の出身者も結構いた。一方で上振れはあまりなくて早慶以上出身者は少なかった。
・女性社員がナチュラルセクハラ以外ではめちゃくちゃ大事にされている
どんなパワハラ怪物も女性社員には猫なで声でめちゃくちゃ優しく接していたし、産休育休取得は余裕だし、定時退社がデフォだった。
だから寿退社する人はそんないなくて、30~40代(10~20年選手)の女性社員がめちゃくちゃ多い。
(ゆえに女性社員の多くはパワハラ上司がどんなに暴れていようとビビッていなかった。「〇〇ちゃんまた大暴れしてたね~(笑)」とかキャラ化して人間模様を楽しんでる感すらあった)
無論、早出の部分には残業代はつかないし、恐ろしくてつくかどうかを尋ねたことすらない。
多分、実際に訊いたとしたら訊いたという行動自体が罪になって一気に社内カースト最下位になったと思う。
・社員の大半が既婚者
・離職率がめちゃくちゃ低い(平均勤続年数20年軽く超えてた)
・今後50年はまあ潰れない
・「うちの会社ほど悪い人がいない会社はなかなかない」と言い合っている
・「社名 ブラック」とか「社名 パワハラ」とかでググっても全然醜聞が出てこない
・髪型とか身に付けている小物とかを工夫して、外見を意図的に昭和っぽいヤクザに寄せてきてる役職者がポツポツいた。
でも学生時代本当に本職顔負けの武勇伝に溢れてた人が中央法とかに行ってお行儀よく新卒で固い会社に就職して、
みたいな人生行路を歩むはずがないのでゴッコなんだろう。
となると40代、50代にもなってまだ精神性が中高生並みということになってしまう。
【追記】
しかも給料は悪くない会社みたいだから、下手したらこの手のセクハラ・パワハラしている人が、社会的に立派な肩書きを持っていることになって、許容されていると思っちゃうわけだから。
天下に轟く大企業!!とかでは全くないけど、
親なんかは「(手堅い、安心という意味で)いい会社に受かったねえ」と安心するし、住宅ローンの審査は超余裕で通るし。
それだけに、中に入ってから異常性が炸裂している様をありありと見せつけられて大ショックだった。
あとそこに関して自浄作用が全く働いてなかったのも絶望的だった。
付け加えておくと、社員が100%異常者ってわけじゃ決してなくて、
(あくまで俺基準だと)40%くらいまともな範疇に入るような人だった。
それこそ人格的に優れていて仕事もできて~みたいな聖人みたいな人は2%くらいいた。
ただ40%くらいいる”まとも”な社員たちも
パワハラには加担しないまでも、目の前で繰り広げられるパワハラを苦笑いで見守り、ひと段落ついた頃にパワハラ加害者に対して「ずいぶん怒ってたね~(笑)」とか調子は合わせるし、まあ傍観者のスタンスでいた。
聖人みたいな人はというと、
異常社員もパワハラ被害者もイジメ被害者も分け隔てなく慈しんでいて、全員で仲良くやりたいみたいなタイプだから、パワハラの最中は悲しそうにしていて、終わったあとはタイミング見計らって被害者のとこいって慰める程度にとどまっていた。
従って、自浄作用は働きようがなかった。
で、残り60%の「普通じゃない人」はさぞかしキチガイ極まってると思われるだろう。
確かに彼ら彼女らは間近で行われているパワハラを完全に余興のように楽しんでいたし、時に「あいつ(パワハラ被害者)朝眠い眠い言ってましたよ?ここは一発指導したほうがいいんじゃないっすか?(笑)」とか上司を煽ってパワハラ誘因するときすらあったし(上司のほうも「ほんと~?(笑)じゃあやっとかないとね(笑)」とか冗談めかしてにこやかに返していたのを見るに、マジで当事者はエンタメとして楽しんでたんだと思う)。
ただ、彼らはどっからどう見ても外形的にはまともの中のまともだった。
30歳過ぎても高校や大学時代の仲良しグループたちとBBQ行ったり、家族ぐるみで川に遊びに行ったり、完成した新居に呼んだり呼ばれたり~みたいな、キチガイでは到底築きえないような人間関係の輪を彼らは持ってたし、加えて彼らの多くは良き家庭人・良き父親であった。
マジモンのキチガイや性悪でも友達は作れるけど社会に出ると同時にフェードアウトされるのが普通だと思うし、30歳過ぎてまで家族ぐるみの友人付き合い維持できるなんて人格破綻者ではないことの証明だと思う。
じゃあ、なんで彼らが会社では異常者や異常空間形成の共犯者に化けてしまうのか不思議なところだが、
武士がお家を守ることにアイデンティティを抱いていたように、彼らは習性として自分が属するコミュニティの様態や安定性を維持することに全力を注ぎ(告発や改革などもってのほか)、結果として”会社共同体ではキチガイなのに非利益共同体では良き隣人”という矛盾を孕むことになったんじゃないかと。
となると、会社という”器”それ自体がキチガイ性や異常性でもって均衡が保たれてるのかって話になるけど、もしかしたらそういうオカルトじみた現象ってあるのかもしれない。
ちょっとしたコメントの言葉尻に倫理観が測られうるというスタンスは、社会的ステータスも健全な生活も持ち合わせていない根無草でも有象無象の人間集団の中から己の知性とセンスでいじめられっ子から一発逆転を狙える幻想と同一平面上にあってさ。
おまえらが軽率に解釈違いの人間をブロックしたり、言及するしないや言説の真偽に対して異常なこだわりを持っているのは自分の価値を知的優越性にのみ置いていることから生じている弊害で、現実的課題の解決と社会生活の遂行とは全くのねじれの位置にあることに気付いた方がいいよ。
おまえらの中ではもうとっくに降りたことになっている土俵の上にいる真っ当な健常者たちを直視しろよ。自分の能力の低さを直視しろよ。
いつものメンツで毎晩毎晩「より良いインターネットユーザーであるには」とかなんとか議論するのもやめなよ。
誰も見向きもしないようなサブカル知識の重箱の隅をほじくり回してアレは良いコレは悪いの判断の線引きを行ったり来たりさせるのもやめなよ。
気付いてるんでしょ?それがピントのずれた行為だってことに。薄々わかっていても決定的な事柄に着手するのを遅らせ続けてさ、インターネットでのポジションを維持しようと思って我々は螺旋的に発展してるって自嘲するのもやめようよ。
助けてくれよ。こんなつまらないことばっか書かないと気分が落ち着かないんだよ。情動失禁にすぎない最悪の棚上げ行為をこんな場末の痰壷吹き溜りに書き散らさないと何も手につかないんだよ。もっとちゃんとしたい、海が見たい、人を愛したい。
わかるでしょ。何を言いたかったのかもわからないくらい、心がざわついていて、落ち着かないんだよ。
お前らがコソコソとSNSで気に食わないなと思ってそれとなくぼやかして言及している奴らはこんなに頭が悪いんだよ。
ほわせぷキッズより
twitter連載が最初なのかな?あんな内容を定期的に発表し続けて同人誌で大儲けしてアニメ化して商業誌連載して、自由すぎるだろこの国は。
経済新聞の一面に出したらキモいと言われた?ぶっちゃけキモいってずっと言われてるよね。アニメ化した時とかすごかった記憶ある。それでもつっぱねてる。自由かよ。
「日経新聞はアンステレオタイプアライアンス違反してるから説明しろ」これ作品の問題じゃないんだわ。日経の問題。お前表明したスタンスとやってること違うじゃねーかって。たわわは依然自由だろ。これまでもこれからもキモいって言われつつ発表し続ければいい。自由なんだから。
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという自己肯定を重視した精神的な言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役と教師役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張したことに対し、「議論や説得において言い方ってのは大事だろ」と反論されているのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と同一人物だったり肩入れしすぎたりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分が世界中で力を持ち、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性が十分な時だけ応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
『かがみよかがみ』は読者投稿エッセイをメインコンテンツとするWebサイトだ。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、そこから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
クソフェミのご機嫌ばかりうかがってる左派政党には今回お灸をすえさせていただくわ
別に岸田でいいしな。ガイジが総理大臣やってるわけじゃねえし。新しい資本主義に期待。消費税減税してほしいけどね
つーか共産党が表現規制とか草。小林多喜二とかぶっ殺されててよかったよね
改憲の可能性に鼻をつまんで入れることになるが、今までも左派政党の女性活躍的なスタンスやれいわの動物愛護に鼻をつまんで入れてたわけだからな。自分が立候補しない以上どこかに鼻をつまんで入れることになる
YouTubeだけでなくbilibiliで配信活動をしていると、中国人の傍若無人な振る舞いに悩まされることがままある。
そしてこれはbilibiliで配信活動をしている人のほぼ全員が悩まされていて、中には耐えきれずbilibiliから撤退する人、配信活動そのものを辞める人もいるほどだ。
bilibiliの中国人はすごい、なにせbilibiliにおけるメンバーシップというものは一月で数十万のものまで当たり前にあるほどで、その数十万のコースを登録している人がたくさんいるのだ。
そこまでは何も問題はない、問題があるとするなら、彼らは自分たちを「大金払っているお客様」と認識しており、「大金払っているのだから言う通りに配信をしろ、言う通りに動け、従わないならお前をbilibiliから追い出す」といったことをしている中国人がいるのだ。
もちろん全員が全員ではない、だがそういった行動を取る中国人は決して少なくない。
そしてそんな彼らの言動に悩む人がたくさんいる、bilibiliでの利益が大きい人は悩みを抑え込んで彼らの言いなりになって活動して稼ぎを得ている。
私も一度稼ぎやすいという話を聞いて活動しようと思ったことがある。(もちろんそんな簡単で甘い話ではなかったが)
しかしそうやって悩んでいる人がいても関わらないことをおすすめしたい。
彼らは自分たちのせいだということは決して認めない、頑張りの足りないあなたのせいだと当たり前のように言う。
あまつさえ、大変だねと心配してくれた日本人ファンを日畜などと罵倒して、粘着し、その人のファンであることを辞めさせるほどだ。
中国bilibiliで配信するということは、中国人に媚を売って生きるということだ。
ただ、not for meの増田や他の増田やブクマカの言語化した面白かった/面白くなかったという気持ちを読んで行って、徐々に何がダメだったのかわかってきた。
さよなら絵梨は他の人が書いてるようにとても"余白"の大きい作品だと思う。
解釈は読んだ人に委ねます、といったスタンスで作品自体が明確な答えを用意していない、あえて見せないようにしている。
自分は自己肯定感が低いので、自分に解釈を委ねられてもその解釈を信じられない、間違っていることや頓珍漢なことを考えてしまうのが怖い。
たぶんこの手の作品が好きな人は前提を自分で決めながら自分の解釈に自信を持うことができる自己肯定感が高い人なのだと思う。
そして、それが否定されることを恐れていない、というより否定ではなく"議論"として捉えることができるのだと思う。
自分は自己肯定感が低いので別意見が書かれると、「私の考え方はこうだけど、そういう考え方もあるよね」と思うより「自分が間違っていた」と思ってしまう。
さらに、その"余白"を埋めるために事前知識が必要というのも自己肯定感を落とす要素なので嫌いだ。
自分はこんなことも知らないのか、とダメな自分が見えてしまうから。
そして、極め付けは作品が曖昧だから苦手的なことを書くと「解釈は人それぞれなんだから思った通りで良いんだよ」って言われる。
そういう作品だから無理なんだよ!ってところを優しさやフォローつもりで言われ、更なる断絶が浮き彫りになる。
コメントデザインというのはTogetter用語で、まとめ作成者がコメントを削除する権限を使って自分に都合が悪いコメントを好き勝手削除することを言う
この書き方であんまりまともな所業ではないと理解してもらいたいところだが、どうやらこの感覚はそこまで一般的に通用するものではないようなので詳しく説明する
要点は
である。あるいは
”反論者のコメントを「荒らし」として消したり、都合の悪いコメントを全消しした挙句に最初からそんなものなかったかのように振る舞ってる”
ことに対する批難である
◇ ■ ◇ ■ ◇
コメントデザインとは何か? まずはgoogle検索してみよう
Togetter用語なので当然最初に出てくるのはTogetterのページである
「コメントデザイン」のタグが付けられたページの一覧なのだが、僕が見た時点で一覧の先頭にあったのがこのまとめだ
いわゆる「コメントデザイン」を批判する人は利用規約に関して無知なだけである - Togetter
続いてgoogle検索に登場するのは、人力検索に投稿された「コメントデザインとはどういうことか?」という質問と回答である
Togetterでの「コメントデザイン」について端的に説明したページ… - 人力検索はてな
後はwebデザインに関するページが並ぶばかりでコメントデザインとは関係が無い
これを見て僕は頭を抱えた
上記のページはどちらも、コメントデザインと呼ばれる行為がどうして問題視され反発されるのか、ろくに理解しないままコメントデザイン肯定論を述べたものだからだ
そこでもう少し一面的でない理解ができるようなものをここに書くこととした
◇ ■ ◇ ■ ◇
そもそもwebサイトへの投稿を管理者権限で削除する行為の是非というのは、かなり普遍的な議論である
(インターネット開始時点から存在するんじゃないか?)(投稿と削除自体が滅茶苦茶普遍的なんだから当然である)
そして上記の人力検索で指摘されているように、Togetterでコメントデザインと呼ばれるような行為もまた普遍的であり
web全体としては概ね問題なく受け入れられていると言っても良いだろう
それも当然の話で、例えばジャニーズファンサイトで所属芸能人のスキャンダルを紹介する書き込みをしたら
サイト管理人の胸先三寸でそれを禁止・削除したりしなかったりするだろうからだ
(ファンが見たくないから他でやってくれというスタンスも、逆にファンはそういう情報も知りたいから歓迎というスタンスも、どちらもあり得る)
そもそもサイト管理人は自分の意思でコメント欄を閉じたり、サイト自体を閉鎖することも当然できるわけだからして
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とはいえサイト利用者が管理者の決定に何も言わないとは限らないのも当然の話である
5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)やふたばちゃんねると言った大手電子掲示板では
数十年(!)にわたって管理者に対して要望や批判が続けられている
この手のサイトの管理者は絶大な権力を自在に振るっているように見えるがまだまだ序の口である
まとめブログのようなサイトでは管理者がより「独裁的」に行動している
悪名高い「やらおん」がそうしているように、禁止されたサイトからの転載をコメント欄で指摘すると削除され、
転載元の名称がNGワードに指定され、何も知らない利用者に管理者の悪行が目に付かないよう「管理」がなされている
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長くなってきたので小休止を入れよう。先述の通りここまで(&ここから先も含めて)の要点は
とまあ、簡単に言うとこの程度の話だ
(逆に言うと人力検索のベストアンサーはこの程度のことも理解できずにコメントデザイン批判を馬鹿にしていて呆れるのだが)
最後に、何故Togetterに於いてコメントデザインなる用語が誕生するほど、この手の行為が問題視されているのか
分かりやすく理解できるよう、Togetterに横行する愚かなコメントデザイナー(コメントデザインを行うまとめ主)の一例を示すこととしよう
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上でリンクを貼った2つはどちらもTogetterの利用規約を引用してコメント削除の正当性を主張している
1. ユーザーは、自己の作成したユーザーコンテンツの管理義務を負うものとし、他のユーザーからの削除・非公開などの要求に対して迅速かつ誠実に対応するものとする。
2. ユーザーは、自己の作成したユーザーコンテンツに関する他のユーザーのコメントの投稿に対しても、管理義務を負うものとし、また、そのような投稿についても、ユーザー自身が投稿・編集したまとめ又はコメントと同様の扱いがなされることを承諾する。
(利用規約 - Togetterより)
この規約を根拠に「ユーザーはコメントを削除する義務が有る」ので「ユーザーはコメントを削除する裁量が有る」との主張である
規約は「問題のあるコメントは削除しろ」と言っているだけであって「コメントを自由に削除して良い」かどうかには何も答えていない
(逆に言えばそれこそが裁量を与えているということだと解釈できるが、規約から自明にそう結論づけるのは難しいのではないか)
特にTogetterまとめの方は、まとめ主が削除したコメントは全て「ルールを守らない人」だという主張であり
規約を拡大解釈するために上記の論理の飛躍を行ってる節があって、
詭弁の予感がバリバリしていたのだが、案の定だと明らかになるページにすぐ辿り着いた
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彼が尻尾を出したのは「コメントデザイン」のタグが付けられたTogetterまとめの一覧で2番目に出てきたこちらである
【注意】コメントデザイン対抗まとめは今後公開停止、削除される可能性有り - Togetter
コメント欄を読むに件のまとめ主がコメントするも反論を食らって自らのコメントを消したらしいことがわかる
(作成したまとめ一覧のリンクが貼られているので、同名の別人でないことが確定)
そしてコメントで彼やその他のコメントデザイナーに対する批判がなされているわけだが、下記のものが端的で秀逸だろう
反論者のコメントを「荒らし」として消したり、都合の悪いコメントを全消しした挙句に最初からそんなものなかったかのように振る舞ってる