はてなキーワード: 網野善彦とは
確かに根はこれ以上ないほどまともな人だと思うんだけど、その根っこの常識的な主張を照れて隠そうとするせいなのか、ちょくちょく変な煽りというかエスプリを散りばめてはスベっている(誤解されている)という印象がありますね。
印象的だったのは、呉座さん騒動の発端になった網野善彦についてのツイートで、誰が左翼だ冷笑系だとみんな彼女の煽り文句に引きずられてしまったけど、そもそも網野評についての部分を取り出せば、
「ロマンチックがとまらない文章を臆面もなく、かつ自覚して書いてる」
って別に、誰かの聞きかじりかと思うくらいありきたりな評価なんですよね。あまりレフティかどうかにも関係ないし。
たぶん、「ロマンティックがとまらない」や「暑苦しいくらいの愛と情熱」は、網野氏の天皇制や「国民の物語」への強すぎる執着と、それゆえややもすれば実証性を欠きがちな点を指してるんでしょう(違ってたらすいません)。
で、このくらいのことはもちろん呉座さんも亀田さんも分かってるわけで、それをあえて亀田さんがレフティだと言うからにはそりゃ著作によるでしょ、で普通は終わってた話だと思うんですよね。
■教養を身に付けられる本を教えて欲しい。
この問いに答えるには先に「『教養』とは何か」ということをクリアにしないといけないと思うが、これを抽象的に論じ始めると喧々諤々の議論となって、増田の「本を教えて」という望みにたどり着かない。
しかし、日本の「教養人」と言われる人/自称している人たちの中で「教養」の範囲は割と共通していて、だいたい以下のラインナップに自分の専門や好みを付け加えたものになるのではないかと思う。
これはもう間違いない。およそ西洋で発展した学問は深掘りすればすぐにキリスト教にぶち当たる。
ただ日本でキリスト教について知識を身に付けようとしてもなかなか良い本が無いのが現状。(その辺で売ってる入門書は表面をなぞってるものばっかりなので読んでも誤解して終わりだと思う)
個人的には内村鑑三の一連の著作から入るのが分かりやすくて良いと思うが、古くて読みづらいかも。田川建三から入るのも面白いかもしれないけどどうかなぁ。
なお、「教養人」といえど聖書は誰も通読していないので、上記の本で引用されたところを拾い読みしておけばよい。
ひと昔前までマルクス主義はすべての学問を包括する「グランドセオリー」と言われていて、どんな問題でも切れる便利なナイフのように活躍していた。
その残滓が今でもあって、社会科学においては今でも学生が知らず知らずのうちにマル経用語を覚えさせられていたりする。
むかしは手に入りやすくてわかりやすい入門書が不破哲三のものしかなかったが、数年前のマルクスブームでたくさん良い本が出ており、個人的にはデヴィッド・ハーヴェイの入門書をお勧めしたい。(ただ抵抗が無ければ不破哲三の著作は今でも分かりやすくてよい)
みんなの憧れ『資本論』も上記入門書の傍らに置いてちびちび読んでみると良い。そこらの難解な哲学書に比べればぜんぜん読める。
マルクスをやればみんな歴史がやりたくなる。マルクス主義史観を学校で習った日本史/世界史に当てはめて、その切れ味を試したくなるからだ。
好きな時代や分野をやれば良いと思うが、「教養人」はみんな網野善彦と遅塚忠躬の著作が大好き(偏見)なので、ぺらぺらめくっておくと良いだろう(マルクス主義史観の多少の解毒剤にもなる)。
ウォーラーステインも読みたくなるが、長すぎて誰も通読していないので、川北稔のアンチョコを読んで、読んだふりをしておくと良い。
なお、第二次世界大戦については最近、川田稔『昭和陸軍全史』という誰でも読めるすばらしい本が出たので、知ったかぶりができなくなった。
文学となると何を読むか、ということになるが、サマセット・モーム先生が『世界の十大小説』というすばらしいアンチョコを出しているのでまずはこれを読むと良い。
そこで採り上げられている小説のうち、『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』は「読まなければ人ではない」という風潮があるので、せめて読んだふりはできるように。キリスト教の知識がここで生きてくる。
日本の小説では、夏目漱石についての柄谷行人の論考を読んで、日本の近代について一席ぶてるようにしておこう。
それと『失われた時を求めて』はとりあえず買って挫折するのが大事。
わが国では哲学について昔から「デカンショデカンショで半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」という有名な言葉があり、デカルト・カント・ショーペンハウアーが昔の「教養人」の必須科目となっていたらしい。
ただショーペンハウアーがここに入っているのは少し不思議で、今ならニーチェが入るのではないかと思う。
どうせ正確な理解なんて無理なのだから、適当なアンチョコを読んで知ったかぶりができるようにしておくと良い。
なお、なんか知らんが日本人はヘーゲルが大好き(な割に誰も理解していない)なので、一応挨拶だけしておこう。
「教養」として名前が挙がることが多い一方で、まともに条文を運用できる人がほとんどいない分野。
上述してきた分野と違って、本を読むだけではだめで、指導教官のもとで実際の事例にぶち当たってトレーニングを積まなければならないので難しいのだろう。
下手に基本書を読んでも本職に知ったかぶりをすぐ見抜かれるので、時折ネットで話題になる法律問題について法曹の解説を読んで都度勉強すると良いだろう。
ここまで挙げた学問はいずれも西洋で発展したものなので、「日本にはなんもねぇのか」という気分になってくる。
こうした「教養人」が抱えるコンプレックスについて内田樹が『日本辺境論』という本で書いているので、ちょろっと見ておくと良いだろう(Amazonで1円で売っている)。
ここらで本居宣長とか丸山真男とかを読み出す人も多いのだが、どうせ不毛な作業になるので、視野を広げて中国思想・インド思想辺りに目を向けるのが良い。
「教養人」というのは大概文系であり、自然科学についてはからっきしな奴が多い。
自然科学の話題になると、トーマス・クーン『科学革命の構造』をそれらしく引用して逃げ切りを図る人が多いのだが、本職に馬鹿を見抜かれるので素直に勉強しましょう。
ヨビノリをはじめとした学習コンテンツがYouTubeに転がっているので、せめて高校数学と物理ぐらいはやっておかないといけない。
上述してきたような分野をやっていると、唐突に詩が登場したりして困惑する場面が多々出てくる。
論理的(笑)な「教養人」の中にはこれを不得手として敬遠する人が多いのだが、どこかで対決しなければならない。
幸いなことに最近、詩人の渡邊十絲子という人が『今を生きるための現代詩』という詩についての分かりやすい概論を出したので、一読した上で適当な詩のアンソロジーでも買ってくれ。
なんか知らんが「教養人」は映画が好きな人が多いので、ある程度は観ておかないといけない。
イギリスのエンパイアという雑誌が「史上最高の映画500本」という特集をやっているので、上から適当に観ておけば良い。
とりあえずこの辺を押さえておけば周囲からは「教養がある」という認定を受けるのではないかと思う。
ただ教養があったとしても「教養人」からマウントを取られる可能性が低くなるだけであり、「他人との会話が盛り上が」るなんてことはまず無いから気を付けて呉れ給へ。
SEALDsによる「安倍政権NO!首相官邸包囲」デモ内での「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せ」スピーチに対し、デモに参加した北村が「安倍的」だとダメ出し。これに対し野間や上原潔らしばき隊関係者が北村を執拗に叩く。
10月 クラウドファンディングによる啓発広告「#この指とめよう」に約320万が集まる。
11/6 中世史学者の亀田俊和が呉座にウザ絡みされ続けて喧嘩に発展する。
12/25 ガールスカウト日本連盟、ファミマのお母さん食堂名称変更を求める署名立ち上げ。
12/29 青識亜論、問題提起として「お母さん食堂」署名を模倣して不二家に「パパのミルク味ミルキー」販売を求める署名を立ち上げるも、迷惑だとの非難が挙がり、その日のうちに署名削除と謝罪。
1月 呉座、人間文化研究機構(国際日本文化研究センター)任期なし内定の通知。
1/17 TBSラジオ『アフター6ジャンクション』韓国映画特集に『映画秘宝』編集長の岩田和明がゲスト出演した回を聞いた一般人女性が、女性ゲストの不在、及びホモソーシャル的な映画秘宝文化について苦言ツイートを呈する。これに憤った岩田がその女性に直接DMを送り恫喝。
2/2 岩田が『映画秘宝』編集長の辞任とともに、オフィス秘宝を退社。
2/12 東京五輪組織委の森会長「女性が多い理事会は時間がかかる」発言をめぐり辞任。
3/16 亀田の網野善彦発言に対し、北村が「冷笑系」と評す。これに鍵垢の呉座が引用RTで反論。
3/17
・呉座の引用RTスクショが北村のDMに届き、北村がTL上にそれをアップして反応。呉座が北村を揶揄・誹謗中傷していた過去のツイートが続々と掘り起こされ、北村の元に集まる。
・五輪開閉会式演出の佐々木宏が『ブタ演出案』を考案していたことを理由に辞意を表明。
3/21 春日太一が北村を始めとする不快な思いをされた全ての方に向けて謝罪ツイート。
3/23
・志学社代表の平林緑萌、不適切な発言を謝罪するとともに中国史史料研究会顧問を辞任。
4/2 日本歴史学協会、呉座を念頭に置いた、ハラスメント行為の再発防止声明。
4/4 オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」公開(約1300人署名)。青識亜論、OLに賛同コメントとともに署名するも、運営に撥ねられる。
5/25 木村花選手の一周忌に合わせて、一般社団法人「この指とめよう」を設立。
11/1
・呉座、オープンレターが処分に影響したことを示す資料を自身のブログにて公開。
・「この指とめよう」が、活動を停止。
呉座勇一「炎上」事件で考える、歴史家が歴史修正主義者になってしまうということ | ハーバー・ビジネス・オンライン
https://hbol.jp/241894 @hboljpより
ブコメ→
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/hbol.jp/241894
そもそもの発端が網野善彦先生であったというのに、網野氏が最も嫌悪した「党派性」でしか発想できない貧相なコメントが多いのは、憂うべき事態だわ。
網野氏がまず嫌悪したのはスターリンの「民族」観の転向により始まった1950年代の「国民的歴史学運動」で、運動内では、民族を近代の発明としていた歴史家たちは「近代主義者」として「査問」され「自己批判」を迫られた。
(まあ、査問された中には、元々のスターリンの公式に沿っていただけの人もいたかも知れないが)
国民的歴史学運動は、信じられないことに、1955年の権力闘争による日本共産党の方針転換、俗に言う六全協で終わりを告げる。
内部に葛藤を抱えない人間は、今でもこうした運動に乗せられてしまう。
北守氏の記事が深まらないのは、「歴史は誰のためのものか」という、網野氏もまた生涯をかけて葛藤し向き合った歴史学の問いに、「歴史修正主義者」というレッテルや、「つくる会と親和的かどうか」という軸だけで答えてしまう点だ。
「国民の物語」は別に、悪しきナショナリズムのためだけに求められるわけではない。
最低限のナショナリズムがなければ、「日本の歴史」を我が事として捉えることも不可能になってしまう。
なぜ戦後間もない時期に、それが盛り上がったのか考えてみたことはあるのだろうか。
その意味で求められる「国民の物語」に接近するだけで、「歴史修正主義者」のレッテルを貼るのは、およそアカデミシャンのする事ではない。
網野氏だけでない、呉座氏も亀田氏も、そして今回は被害者である北村氏も、その「国民の物語」に対する葛藤を理解して発言していた。
北村氏は網野氏について「ロマンティックがとまらない」としていたが、このロマンこそ国民の物語に対する距離感だ。
網野氏はそれこそ「実証的でない」という評価を受けることの多い歴史家ではあるが、北村氏をしてなお「その愛と情熱、ロマンティックが分からないのも問題だ」としている。
全くその通りだ。
北守氏の限界は、つくる会やラムザイヤーを「悪」の運動とし、その運動を無力化するためだけに論を張ってしまう所にある。
【追記】
分かっていての揚げ足取りだろうし、こんな説明をするだけ野暮だけど、
いわゆる「歴史修正主義者」は大問題ですよ。実証性に欠けることが多いからね。
北守氏は、
⑴
・いわゆる典型的な歴史修正主義者と「国民の物語」という問題意識を共有した、あるいは関わりを持った
だけの歴史家について、「歴史修正主義者だ!」と一段跳びに断定してる。
応仁の乱並に当初の争いがわからなくなったので経緯を整理したいんだけど
(1) 亀田俊和が網野善彦に対して日本嫌いではないかと疑問を呈す
(2) (1)の発言を受け複数の歴史愛好家が亀田俊和に対してネトウヨではないかと疑問を呈す
(3) (2)の騒動を受け亀田俊和が網野善彦に関する一連の発言を取り消して謝罪する
(6) さえぼうが呉座勇一に対して自分を鍵垢から批判したとして批判する ←???
(7) (6)の発言を受け複数のフォロワーが呉座勇一と白饅頭がつるんでいると批判する
(6)の経緯がなぜ突発的に起きたのかわからんけど
この参議院選挙において、山本太郎氏が、いい意味でも、別の意味でも、「ともかく話題性!」で候補者を選んでいたということには、ほぼ異論はないはず。
そのブログの著者は、
とまず褒めるのだ。
まじ? そんなにスゴかったのか?
このブログは、読まないとだめだな。
その後、山本太郎氏にも、参議院にも、立候補にも、ほとんど関係がない自分の考えを披露する。主張タイムってやつだ。
それなら、大川隆法氏でも、公明党でも、衆議院でも、いいんじゃないか、と心で突っ込みつつ、続きを読む。
それは気になるところだ。
で山本太郎氏は、いろいろな理由を述べる。当然、褒めるわけです。
うほ?!
それは、断りづらい。折衝はうまくいったようだ。
そこで気になった文章に出くわす。
また、私は会議が非常に苦手で、教授会ですら辛いのに、「国会」などという会議だけでできているところで働けるか、疑問であったので、そのことも聞いてみた
まじか!?
24時間看護を必要とする方を擁立するつもりで(それは後に木村英子氏のことだとわかった)で、そういう方が働ける環境をれいわ新選組は用意するので、会議アレルギーも何とかする、とのことであった
まあいい。それよりも、
「0歳時の事故により、重度の身体障害を持つ。脳性麻痺とも診断され、移動手段の電動車椅子を操作する右手以外、体はほとんど動かない」(Wikipedia)という、木村英子さんを引き合いに出したよ!
こうしてすべての折衝が済んで、私が出馬することになったのは、6月25日であった。そして27日に記者会見することになった。選挙はもう目の前である
すんなり!!
主義主張が一緒じゃなきゃダメだとは言わないが、「あまりにも無節操」「単に国会議員になりたかったのか」と言われてももしかたないんじゃないか?
どひょ~ん!!
しかし、れいわ新選組は、「子どもを守る」という政治理念を勝手に私が掲げても構わないし、政策に反対だと言ってもいい、というわけである。しかも、選挙そのものも、私がどういう選挙をするか、勝手にしていい、ということであった
なるほど、「れいわ新選組」というのは、まことに自由な政党?なんだな。
これは、もはや、政党の態を成していない。なぜそうなるのかというと、一つの理由は、4月1日から、山本太郎氏事務所の少人数のスタッフが、突貫工事で政党を作ってみせるという、そもそも無理なことをやってのけている、という事情がある。確認団体としての資格を獲得するために十人の候補者を揃えねばならず、そのための膨大な書類手続と資金集めとに忙殺されており、綱領とか政策とか選挙のやり方とかに、構っていらないのである
うぎょ~~~。
さっきの「政党とは」の素晴らしい自説も、あんまり関係なかった!!
「構っていらない」(たぶん、「構っていられない」のこと)
だから、綱領とか政策とか、そもそもの選挙のやり方も、”構っていられない”のが「れいわ新選組」だったのだ!
この後に、現代の病理について自説を述べ、山本太郎氏を褒めるのである。
さらにいろいろな話の中で、公示日の第一声をどこでするかという話になり、山本太郎氏が
「まだ決まってないんです。話そこまで行ってないんですわ。ウチ、いっつもこんな感じで。」
という山本太郎氏に、著者は、
「それは素晴らしいですね。『孫子』の兵法に、「無形」という概念があるんです。それは「何も決めていない」という状態のことで、何をどうするか決めていなければ、敵は、どんな優れた司令官でも、どんな手練のスパイでも、こちらの意図を読み取ることはできない、と孫子は言っています。無形が一番強いんです。」
さっき「構っていられない」って言ったよね? それって孫子と関係あるの?
すると、この後に「日本中世史の大家であった網野善彦」が「無縁」という概念に到達したことを紹介。
「れいわ新選組」は、この無縁の原理を体現しており、山本太郎氏や私を含めた候補者は、無縁者の集まりであった。私は、これが、れいわ新選組の躍進の基本的な原動力であった、と考えている。
で、見事に締めくくられるのである。
これの筆者です。
id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田(国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。
なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。
山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。
618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジアに大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。
東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本からの遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度や国際的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。
朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部に建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。
これはひどい。遣唐使の派遣再開が何年だったかという記述がありません。
そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使を派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。
一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書が8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京の時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。
ちなみに、他の教科書では、遣唐使の派遣再開についての説明が次のようになっています。
「7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇の時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」
「白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島からの渡来人や新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」
「律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物や制度の摂取につとめた。[中略]
こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣の鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」
[引用者注:教科書のページを戻って「白村江の戦いと国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]
遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます。
三省堂の記述もおもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています。
大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣の鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使、新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通の教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代の様相として語っているのがすごい。
東京書籍、実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。
山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代の出来事と把握すると誤りになります)
東大入試(2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています。
次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。
(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝の元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。
(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。
(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまりの大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。
設問:この時代の日本にとって、唐との関係と新羅との関係のもつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。
山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですから、いくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂をのぞく。後述)
8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使を派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者は正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]
一方、日本の律令国家内では天皇が皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。
白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人が仲介したものが多いと考えられる。[後略]
以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。
(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。
(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。
(3)は、日本と新羅の関係悪化について述べています。新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。
(4)は、日本と新羅が政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅は民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人が仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。
教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試に対応するためだけではありません。
例えば『詳説日本史』には、最初に引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。
ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまいます。
もしくは、これは2003年の入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史』シリーズ(2000年~2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズからも引用しておきましょう。
国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗に蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人や蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正『天皇と諸蕃』)
さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国に位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号を「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。
実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家の領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである。
[中略]
このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しかし東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢、列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。
日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使の派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。
いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書(日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。
こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使の派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。
私がこのエントリの題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者が国内と国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います。
それに、このことは現代の外交問題についても、重要な示唆を与えてくれます。例えば政府が国内に向けて愛国心やナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調のアピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。
あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。
遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます。
おもしろい特色がありません。
無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的な呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。
華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚のイベントになったと推測できます。もっとも、沈没や行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?
つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459
はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。
『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。
僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああいう教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである。
ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである。日本民族がいかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的な価値観を元に記述せざるをえなくなる。
客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。
いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。
クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。
例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています。
平清盛が後白河法皇を幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や中央の貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇の皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。
これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団が挙兵して、ついに内乱は全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。
平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。
しかし、畿内・西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏は北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国に都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼・義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係の説明が詰め込まれています。
まず、平清盛が後白河天皇を幽閉したこと、安徳天皇を即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています。
当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています。
次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団や中央の貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王と源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています。
これはまさしく因果関係に言及しているわけです。
このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価や因果関係がしっかりと述べられているのです。
そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。
なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています。
治承・寿永の乱は、一般には源氏と平氏の戦いといわれている。しかし歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏と平氏の勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王の挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃・近江・河内の源氏、若狭・越前・加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏らである。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである。
彼らの動向をまとめあげ、武家の棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲・源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。
教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。
他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。
【参考文献】
(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)
伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏の根拠地・鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦、千葉、上総氏などの有力な東国武士と主従関係を結んで御家人とし
頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います。
三浦、千葉、上総という武士の名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏の名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦のときに唐突に登場します。)
[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政・裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元・三善康信が就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島で平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦で平氏を滅ぼした。
[]は引用者註。
この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。
鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています。
北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦いで平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国の地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原(神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇と対立したので、法皇は同年、頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経はさらに平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏一門を滅ぼした。
この教科書は歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。
上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏が都落ちに安徳天皇を伴ったことも言及なし。
というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります。
鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍に面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。
教科書の中では唯一、桐原書店だけが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。
(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍に面接して」という説明も省かれています)
["新恩給与"についての註]
土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。
これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!
所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世の土地支配の構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います。
なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています。
職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園の場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。
この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。
しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会と文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています。
地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益の意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利。
これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配の構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?
せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。
さて、桐原書店の教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています。
幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権を意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近衛大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。
Aについては南北朝時代の武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨・甲斐善光寺蔵)。
とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。
網野善彦の著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います。
他の教科書には載ってませんが、ピンポイントで東大入試に出題されました。
源氏と鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏の氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮(八幡宮の前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。
鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍の教科書だけです。
上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉と経済流通」というのも掲載されています。
東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います。
こののち、後白河法皇は義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令を希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。
頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています。
あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷の命令を無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。
それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇・朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。
両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます。
関西にある政権が東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ。
平氏は安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力を回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門の壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。
この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス。
都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。
どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています。
ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西の教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇や平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)
例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国の武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とあります。さらに西国の御家人が東国の御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書の関西中心っぽい史観は独特です。