「生命」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 生命とは

2024-06-12

anond:20240612094841

生命って多くの場合環境適用しようとするので

3食ゆでたまご生活してると最初はきついんだけど、身体が3食ゆでたまごで1日乗り切るモードだんだんなってくる

あなたが3食ゆでたまごにしてもすぐには死なないよ

なんなら水さえ飲めてれば3週間くらいは何も食べなくても死なない

 

ついでに言うと、タレントとかが言ってる××ダイエットってたいがい言ってることと

本当にやってることは違うから参考にならんよ

2024-06-11

anond:20240611121613

えーっと、こうやって母親を責め立てる社会母親の手を借りてこの3人の子を殺したんですよ

育児に悩んでた」「追い詰められていた」ってあるけど、そこと子供を殺すことに論理的整合性ないよね。

あるよ。いなければ育児はなくなるんだから

自分母親に相応しくないと思ったら、押し付けて逃げたらいいじゃん。旦那もいて実家あんからさ。

押し付けても自分母親でなくなるわけじゃないんですよ。というか、できるならしてたんじゃね。

3時間電話しても実家から誰も来ないんすよ。頼れます?3人乳幼児の子育てしてるのになーんも気づかない旦那、頼りになると思います

まあ子供死ぬよりましかもだけど。

産後うつ治療を何年も前に辞めてるし、自己申告でしかない。母乳への影響考えるなら粉ミルクでいいだろ。

母乳捨てる罪悪感やべーんすよ。まあ優先順位おかしいのは認める

責任感とかですらない。子供らは誰かの人生壊したりしてないんだから、わざわざ排除しなきゃ行けない理由ないし。

子育ては悪く言えば親の人生を壊しながら子供人生を作る作業だよ

そもそも保護者第一の責務ってまず子供生命を守ることだからね。

保護者としてはそうだけど、その前に1人の人として自分の命が優先するんで

anond:20240611152118

それ、まず「知的」の範囲を再検討しなければならなくて

 

よく例に出るのはコウモリなんだが、あれは超高速で飛び回りながらエコーロケーション位置測定をし続けるという人間はもちろんAIにも不可能な超計算能力を発揮しているけど、「知的」とはみなされないよな。

結局のところ「知的生命体とは、人間みたいに言語をつかって、人間みたいに社会形成し、人間みたいに思考する、人間みたいな生物ことなんだよね。

どれだけ高度で複雑かは関係が無い。

 

なのでお前の言う通り、知的生命体と俺たちが呼びたくなるような生物は、結構人間に近いはず。

知的生命体」という単語自体が、「人間に似た生物」という概念を示しているからだ。

知的生命体が生まれルートってさ

絶対あんまりないよな

結局、生き物が頭良くなるためには四足歩行卒業して手を使うようにならんといかんわけだしさ

から、もし地球外に知的生命体がいたとしたら、かなり人間に近いと思うのワイだけ?

母親にとって子殺しってキモくないんだな:追記

追記:何が怖いって「無責任に逃げろ」って言ってる俺より、3人の子供を確実に殺せるように別室に移動させて順繰りに絞め殺した奴に共感してるとこなんだよね。

子供がどれだけ親を信じてくれるか感じた事がないんだろうな。

https://news.yahoo.co.jp/articles/d14dc3a4ae208d852841e604706cb8d7a0afdf24/comments

2行以上読めない増田たちに申し訳ないが、このニュースね。

悪いが俺の文章記事よりもっと読みにくいぞ。

母親子供3人殺し事件あったやん。

育児に悩んでた」「追い詰められていた」ってあるけど、そこと子供を殺すことに論理的整合性ないよね。

自分母親に相応しくないと思ったら、押し付けて逃げたらいいじゃん。旦那もいて実家あんからさ。

産後うつ治療を何年も前に辞めてるし、自己申告でしかない。母乳への影響考えるなら粉ミルクでいいだろ。

責任感とかですらない。子供らは誰かの人生壊したりしてないんだから、わざわざ排除しなきゃ行けない理由ないし。

そもそも保護者第一の責務ってまず子供生命を守ることだからね。

警備員自分仕事果たせないからって施設放火したら「責任からやった」とはならんでしょ。

愚痴聞いてくれる実父と家事サポートしてくれる義母がいてワンオペってことも無い。

まぁおかしいやつがおかし犯罪おこしただけだから、この事件自体が全体の傾向を指すような証拠にならないと思う。

問題は、この事件へのコメントですよ。

共感してる人の多いこと多いこと。

しかもその共感コメントへの低評価少ないのな。

ちょっとした共通点からおかし自分語りが始まるのは仕方ない。人間自分のこと語りたいし、これは害のない欲求ですわ。

自分語りから加害者叩きに繋げたコメントが高評価なのかと思ったらそんなことなくて、加害者に同情しっぱなしで終わりがち。

そんなことある

こいつワンオペじゃないのに、ワンオペ育児してたおばさん(のようなやつ)まで同情しとる。

なんと言うか、まともな感性してたら、吐き気を催す邪悪しか見えないよね。

だって自分より圧倒的に弱い相手を、信頼関係を使って騙し討ちにかけたわけじゃん。

しか子供って親がなにしても大抵愛してくれるから自分で築いた信頼関係ですらない。

こんな邪悪な生き物に、「自分子育てで苦労した」くらいの感覚共感してる。

犯人子供に「ママと一緒に死のう」って話もしてない風じゃん。

そもそもホント心中か?

1人1人場所移して絞め殺す判断はできるのに、自分刃物で手首かいて洗剤ゴクゴクってなんだよ。

隣で首吊れば良いだけなのに。

敢えて子供たちと違う死に方選ぶのって、自分死ぬ気なかっただろこれ。

「ぼーっとしながら子供を一人一人絞め殺しました、自分は目の前の凶器は触らずにいつもの死なない方法で手首を傷つけました、でも死ぬ気でした」ジョークか?

思い通りいかないガキども殺して、殺したストレス自傷しただけだろ。

弁護士の入れ知恵なんだろうが、この後に及んで罪を軽くしようとしてる。

横恋慕したストーカー相手強姦して殺した気持ちさより上なんだが。

全てこいつの頭の中のストーリーで、他人自分ストーリー登場人物しかない。

この気持ち悪さがなんで分からないんだ?

一般論では母親って共感能力高いらしいが、子供気持ちにはなれないのか?

珍しくジャンクフードを母が食べさせてくれて、ちょっと良い日だと思ってたら、3人姉妹一人一人別の部屋に連れてかれてく。母親から不安に思ったりしなかったろうが、そこで抑え込まれて首絞めて来たんだろ。動けなくなるまで。

まれた時から一緒で大好きで最近悩みがちな母親が、全力で自分を殺しにくる悲しさとか訳の分からなさとか、何分の一かでも想像して胸にこないか

しかも1人目で後悔して辞めるとかじゃなくて、3人立て続けに殺してる。この嫌悪感がなんでこんなに共有されないんだ。

求刑死刑じゃないのもおかしいと思うが、法律わからんから置いとくとして、なんで同情できる奴がいるんだよ。

ひたすら自分思い込みからくる、営利目的ですらない身勝手殺人だろ。

俺がおかしいのかこれ。

たまたま拘りの強い母親の元に産まれて懐いたら、子供絞め殺す母親より同情される価値がないのか。

追記:

キモいという表現に引っかかった人ちょいちょい居たから補足。

恋愛感情持ったことないやつはあんまおらんと思うが、ストーカーになろうと思ったやつは殆どいないだろうし、ストーカー共感しないだろ?

生活に潜んでる感覚だけど、味方になりたくない嫌悪感」をキモいって言った。コメント同意してるやつも、悪い事だってのは重々承知だろ。

一応言っとくが「キモいとは」を説明しただけで、ストーカー社会が産んだとかそんな話はしてないし思ってない。もののたとえだから、喩えから出てきて話をしてくれな。喩えだからストーカーじゃなくて何でも良い。

子殺しほんとに気持ち悪くてなんで擁護できる奴がいるのか理解できん。共感能力とかそんな話じゃねぇだろ。気持ち悪いわ。

:

この犯人が3人殺したのは社会のせいでも何でもなくて、こいつが無能バカ妥協を知らんせい。一人相撲勝手に悩んで他人を傷つけただけ。

義母が定期的にきてんだから、母であることを辞めれたろ。全部捨てて新天地に逃げたら良かった。

そりゃ子供義母旦那もめちゃくちゃ困ったろうが、自殺するよりマシだろ。

死ぬほど悩んだのではなく、正気を失うと最初殺意が出るキチガイだっただけだこいつは。

東京多摩地方東大附属農場という施設があって好き

理由

・かなり広い、東京ドーム4個分くらい(適当な目算)

・牛やダチョウがいた、サイロもあった

・畑も田んぼもあるので生態系が豊か

公園人間の為に漂白された土地だけど、それと違ってておもしろ

生命豊かな土地なのに同じ敷地でかなり頭の良い大学生達が勉学をしているというギャップが良い

・林や森より人間にとって快適

都市の緑として、公園や他の場所にもこういう施設があると嬉しい

人工知能生活している警察行政限界エロブサイク界隈の、あるない騒動だろ

  警察行政生命限界エロブサイク界隈の奴がバクサイやってるし、それもなぜか言ってはいけない状況と化している。 殺傷事件も、中身がない、顔の形状のことしか興味がなくなった

   ほとんど寝ている、バクサイの行政区分関係の、限界エロブサイク世界で発生しているし、それ以外の世界の住人から顰蹙以外の何物でもないのに、そうなっている。

2024-06-10

風邪をひいたら休め

 ここに、「ニンゲン風邪をひいたら、休め」という規範を示す。

 本稿は、右規範に対して懐疑的なニンゲンを説得するために執筆されたものである。具体的には、下記のニンゲンが本稿のターゲットである。心当たりのある者は、ぜひ熟読せよ。

・「この程度の風邪なら大丈夫」と考え、外出をしたことがある

・「風邪程度で休むのは甘えである」と考えることがある

風邪をひいても休まないニンゲンがいる理由はなぜか?

 風邪をひいたら休めという規範は、①パターナリズムと②蔓延防止という二つの論拠から成る風邪治癒に専念することで、①疫病が悪化する可能性が低くなり、結果として本人のためになる。そして、②伝染病蔓延を防止することができる。

 以上より、右規範合理性があることが明らかである

 ところが、しばしば右規範は破られる。風邪をひいても会社学校へ行くニンゲンと、これを良しとする第三者が後を絶たない。なんとも嘆かわしい。かかる者は如何にして規範を逸脱するのだろうか。

 私は、その理由につき、当該ニンゲンが①パターナリズムのみを重視してしまった結果であると考える。彼らは、「風邪をひいたら休まなくてはならない」という規範趣旨を、もっぱら「私が大変な思いをするからだ」と捉えてしまう。よって、「私は病状悪化という結果を許容しているから、右規範趣旨(本人のために休むべき)が及ばない。ゆえに休まなくてもよい」と結論づけてしまうのである

 しかし、かかる見解妥当ではない。パターナリズムはむろん重要であるが、②蔓延防止の意義を殊更に強調しなくてはならない。

 以下、敷衍する。

★「人を傷つけてはならない」という規範

 なぜ、風邪をひいた場合に、②蔓延防止のために休む必要があるのか。

 まず、「人を傷つけてはならない」という規範は、ハンムラビ法典でも傷害行為禁止されているように、紀元前時代から常識である。これは、現代社会においても、傷害罪(刑法204条)が国民構成要件として配布していることからも明らかである

 そして、風邪をひいた状態で外出をして、特に会社学校等の多数人が集まる室内で過ごせば、自らの病を伝染させることにより、他者生理的機能障害傷害)を与えることで、人を傷つける蓋然性が具体的明らかに予見される。

 したがって、風邪にもかかわらず、休まなかったことで、「人を傷つけてはならない」という規範を乗り越えてしまうことになる。

 よって、他者を傷つけないために、風邪をひいた人間は休養することで蔓延防止に努めるべきなのである

もっとも、休めないときもあるのではないか判断枠組み

 そうであるとしても、いかなる場合にも「風邪をひいたら、休め」という規範適用するのは妥当ではない。風邪自覚症状が無い場合や、どうしても外せない急用がある場合もあるだろう。いか判断するべきか。

パターン1 自覚症状なし

 まず、自らの病状につき善意無知である場合について、いかに解するべきか。

 故意責任本質は、反規範人格態度に対する道義的非難である

 すなわち、自分風邪であり、もしかしたら他人に伝染させてしまうかもしれないという点につき、認識・認容していれば、「他人を傷つけてはならない」という規範に対しての反対動機形成しているものといえる。しかるに、敢えてこれを逸脱したのだから、かかる行為道義的非難に値する。

 よって、自分風邪である認知していたのであれば、休養に努めるべきであるのが原則である

 逆に、自分風邪であると知らなかったのであれば、そもそも「休むべきである」という規範に直面しておらず、反対動機形成できないため、道義的非難に値しない。実際に、潜伏期間存在するウイルスは多いことからも、このような結論妥当である

 以上より、自らの病状につき善意無知である場合には、休まなくてもやむを得ないものといえる。

パターン2 風邪体調不良判断できない場合

 風邪体調不良判断が難しい場合は、いかに解するべきか。

 なお、ここでいう「体調不良」とは、月経片頭痛食中毒などの伝染病以外で身体異常をきたしている場合を指す。

 この点、蔓延防止以前に、そもそもパターナリズム観点からは、風邪体調不良判断できない場合にも休養した方が良いといえる。ゆえに、原則として外出するべきではない。

 しかし、単なる体調不良であれば、他者生命身体侵害することはない。よって、自身が体調悪化につき許容しているのであれば、単なる自由意思範疇にあるといえるから、これを非難される筋合いは薄い。

 したがって、伝染病であるという相当の蓋然性がある場合には、「風邪をひいたら休むべきである」という規範に服するべきである。右判断にあたっては、当人の体温、病状、体質、病歴、自覚症状、過去の行動等を総合勘案して判断する。

 具体的には、下記の事情伝染病である蓋然性を高める。

 ・平熱と比して体温が高い

 ・前日に気怠さがあった

 ・雨にうたれた

 ・知人が熱を出した

 反対に、下記の事情伝染病である蓋然性を低める。

 ・病状が軽微である

 ・月経片頭痛など伝染病以外の体調悪化事情がある

 ・病院伝染病ではないという診察を受けた

 たとえば、体温が37.5℃以上であり、前日から続く気怠さ・咳があるものの、月経による体調不良かもしれないといった場合を想定してみよう。この場合、たしか月経という事情伝染病のおそれを低めるものであるが、咳と月経無関係であり、37.5℃以上という体温は、一般風邪判断されるべきものである

 よって、伝染病である相当の蓋然性が認められるだろう。

 なお、より強度な「明らかに伝染病ではない場合にのみ、休まなくても良い」という判断枠組みも考えられる。筆者は、単なる体調不良場合自由意思尊重するべきであるから、緩い判断枠組みが妥当すると考えたため、かかる見解採用しなかった。

パターン3 どうしても外せない用事等がある場合

 では、自らの風邪自覚症状があり、明らかに伝染病であるものの、どう しても外せない急用等がある場合には、いかに解するべきか。

 この場合、どうしても外せない急用等に参加したいという時点で、パターナリズムは克服されているため、第三者への傷害の有無で判断するべきである(病状悪化をしてでも〇〇がしたいという者に対して、貴方身体のために辞めなさいというのは余計なお世話である)。

 そして、第三者に病を伝染させてでも、自分がやりたいことを行うというのは、結局のところはエゴイズムである冠婚葬祭親族危篤会社学校への出席などは、「自分が行きたいから行く」のであり、エゴイズム第三者身体生命侵害正当化する場面は限定的であるべきである

 これに対して、出席せねば評価が悪くなるため、「行きたいから行く」のではない;やむを得ず風邪をひいてでも外出しなくてはならないのである等の反論が想定されるが、妥当ではない。結局、評価悪化を避けるというのも利己的な目的であり、原則として、そのために伝染病をばら撒いて第三者侵害を行うべきではないいう形式は変動しないためである

 では、いかなる判断枠組みが妥当するか。

 第三者身体生命は、きわめて重要法益であるから、「どうしても外せない用事」との比較衡量で決するべきである。具体的には、用事重要性・症状を鑑みて、第三者身体生命に対する侵害のおそれを惹起してでも、当該「用事」を優先するべきである判断できる場合にのみ、風邪をひいても休まなくても良いものと解する。

 たとえば、冠婚葬祭親族危篤などは、この機会を逃してしまえば二度と立ち会えないイベントであり、用事重要性は高いものといえる。

 もっとも、当人が伝染させればきわめて身体生命への侵害性が高いといえる伝染病を患っている場合は、この限りではない。具体的には、インフルエンザ新型コロナウイルスノロウイルス等の強い感染力・症状を有するものは、真にやむにやまれ事情存在しない限りは、外出するべきではない。

 そして、会社学校への出席は、上記用事と比して、重要度が低いと言わざるを得ない。成績に重大な影響を及ぼす発表や試験等が存在しないかぎりは、外出を行うべきではない。

 そもそも、出席が必要不可欠でない限りは、リモート等の手段を講ずるべきであり、あくまでも「風邪をひいたら休むべきである」という規範を乗り越え、外出を行うという選択肢は、最終手段として留保されるべきである。よって、リモート等の手段を採ることができたのにもかかわらず、他者への傷害惹起する外出を選択するということは、あってはならないのである

★まとめ

 以上より、風邪をひいたら、本人のために休むべきであるのはもちろん、「他者を傷つけてはならない」のであるから、「ニンゲン風邪をひいたら、休め」という合理的規範が成立し、ニンゲン原則として右規範を遵守しなくてはならないということが示せたはずである

 規範限界については、判断枠組みを明確に提示した。

 その他、想定される反論について、下記にまとめる。異論や質疑等があれば、気軽にコメントしてほしい。

★その他、想定される反論質問

・明らかに体調不良ではなく伝染病であるものの、風邪が軽微である場合は?

 症状が軽微であっても、他者に伝染させる可能性がある。そして、乳幼児後期高齢者を想定すれば明らかであるように、自分が軽微な症状であるからといって、第三者もそうであるとは限らない。したがって、伝染によって他社の身体生命侵害を及ぼすという点では、原則として「風邪をひいたら、休め」という規範に従うべきである

 もっとも、上記パターン3の判断時に、症状の軽重は重要考慮要素となりうる。

風邪をひいた状態で出席することに対して、全員の合意がある場合は?

 友人の集まり会社等で、自己風邪を患った状態で出席することにつき、コンセンサスを得ている場合には、伝染による傷害結果の発生につき同意がある以上は、「風邪をひいたら休むべきである」という規範妥当しないのではないか?という反論が考えられる。

 しかし、風邪につき合意した者(合意者)のみと交流することは実際上は困難である。例えば、公共交通機関を用いるのであれば、不特定多数人に感染リスクがあり、伝染による傷害惹起する可能性があるだろう。

 そして、合意者がさら第三者に伝染を及ぼす可能性がある以上は、②蔓延防止の観点からこれを許容するのは妥当ではない。

・病弱なニンゲンにとって、毎回「風邪をひいたら休む」という規範に従うのは難しいのでは?

 たしかに、病弱なニンゲンは休む機会が増えてしまうため、会社学校での評価に悪影響を及ぼすこともありうるだろう。

 しかし、病弱な者は他人を傷つけても良いと考える者はいない。そして、伝染病頒布他人傷害する行為であるから、伝染によって他人傷害してしまうことにつき認識・認容があれば、道義的非難に値することには変わりない。

 また、結局のところ、評価の変動といった事情は先述したように利己的・個人的理由であるからエゴイズム第三者生命身体侵害するという場面は限定されるべきであるという当為規範が変動することもない。

 したがって、上記で示した判断枠組みが変動することはない。

以上

2024-06-09

anond:20240609071704

女の自由選択の結果

少子化になるってことは

存在してる大体の人間

から求められず愛されず

ただ女から奪った資源で生きてるだけの

図々しい生命なので

それが滅ぶなら仕方なくないですか?

人類繁栄ってそんなに美しいですか?

2024-06-08

願いの形

私が守るのはあなたの命でも感情でもない

ただただ、あなた自律性と自立性、すなわち尊厳を冒さないように、侵入しないように自らを自制する事だけだ

 何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地も蜃気楼も求められない沙漠のような……カサカサに乾干びたこの巨大な空間に、自分空想が生んだ虚構事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております

その大切な大切な彼女天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女創作天国を、アトカタもなくブチ毀され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります

隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います

 彼女は罪人ではないのです。一個のスバシイ創作家に過ぎないのです。

単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然彼女自身破局構成して行ったのです。

 しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局ドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。

 ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。

 彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。

 ただそれだけです。

夢野久作少女地獄――何んでもない」


そう、正に「何事も報いられぬこの世」なのだ

理不尽に産み落とされ、苦しみ喘いで生きていき、恐怖と後悔に苛まれながら果てていくような、

そんな地獄が、現世には顕現している

「もう無理なのに ですか?」

「後でできないと 知ったら余計に 傷付くんじゃ…」

「そうかも しれません」

「でも 亮介君の 生き方は 亮介君に 決めさせて あげたいんです」

病気で 苦しんでいる この瞬間だって

「彼の 人生ですから

――子鹿ゆずる/大槻閑人「アンメット-ある脳外科医の日記- 第二巻」より

 友田は、折々に「ブライアン氏」が「真空」、すなわち、独りの状態になる必要があると言及していることに着目しました。対するセラピストは、その度に、中立または否定的に、これに応じていますセラピスト理論上は、非指示的であり続けましたが、一般西欧セラピストと同様、孤独状態もしくは真空状態治療効果について非常に熱心だったわけではないようです。

 友田の見解では、「人間というものの真の飛躍もしくは成長は、完全に一人ぼっちであるときに生起する。個人の飛躍もしくは成長を確かなものにするのは、何らかの人間関係においてか、もしくは現実の世の中においてである。がしかし、真の成長がおこるのは、現実人間関係においてでもなければ現実の世の中においてでもない」

 友田はさらに、「このことはまた、禅の真理である。(中略)カウンセリングに関して言えば、ロジャーズ派の技術の真義は、それらの技術がクライエントを援けて完全に一人ぼっちである状態になるようにすることである。」と続けます

―中略―

 母性的尽力的配慮相手を甘やかしたり、子ども扱いするものですし、父性的訓育的配慮相手支配したり、奴隷化するものしかないわけです。第三自我形成期(第三反抗期)を超えてレベルⅢの人格に到達することは、本人にとっても周りの人々にとっても、大変難しい困難なことでもあります

――新しい科学194「レベルⅢへの到達方法(続き)」



「人」ができることは、本当に少ない、殆どない

神でも仏でもならざる我々の手や腕は、あまりにも短く細い

半径85cmの範囲ですら「すくえない」のが、我々という生き物の現実なのだ

から、できる事は祈り、願い、目の前にいる相手を「人」として扱う事だけなのだ

「物」ではない、「人」として

それは非常に難しい

生きていることは素晴らしい、働くことは凄い、人に優しくできるのは偉い、頑張っている人は美しい

「善い」とされる価値観でこの世界は満ち満ちている

それに沿って生きる事が善いとされる

苦しんでいるなら無理をしなくてもいい、休んでも良い、人にはできないこともある、人にはそれぞれの価値観がある

「やさしい」言葉がある

これも、また「正しい」のだろう

けど、何もかもに納得できないまま生きていくこともある

何が正しく、何が善く、何が良いものなのか分からずに、それでも人生が続いてしまうことがある

「裸も」

「裸を飾ろうとする 人間自由さも醜さも 全て愛しいじゃない?」

――山口つばさブルーピリオド 第5巻」

今思えば、いつかこうなってしまうと、はじめから解っていたのだと思う。

でも、もし駄目になってしまうとしても、その前にゴールに駆け込むことさえ出来れば、何も問題が無いとたかをくくっていたんだ

ゴールはまだ見えない。あの頃想像していたより、僕たちは長生きしすぎてしまったんだろう。

一時停止ボタンなんかどこにもなくて、力一杯全部を出し切った、その瞬間に都合よく存在が消えてなくなったりもしない。疲れ切ってしまって、戦う気力なんか全然なくなって、勇気と書き棒とか自分を守ってくれるものが全部失われてしまって、映画だったら「終」とテロップが出るような場面が過ぎても、生活は続いてしまう。けして止まらない。

そこからが本当に人間が生きるということなのだろうと、最近はそう思ったりもする。

ドラマが終わって、興奮から冷めて、何も心を守ってくれなくなって、これからもっと大変な毎日が続くだろう。でも、どんなに苦しくても、心が死んだようになって、痛みも喜びも何も感じることが出来なくなってしまって、何をしても無意味に感じられて、もうダメだと思っても、諦めないで、自分に耐えて、もう少しだけ頑張って欲しい。

さなころに見ていた者は、まだ何も知らなかった時代まぼろしなんかではなくて、いまでも見ることが出来るずっとそこにある変わらないものだった。辛くなるからって無理に忘れてしまわなくても良かったんだ。僕は気がつくのが遅すぎた。必要ものを、自分で隠していたんだ。でも、こんな僕でもまだすべてを失ったわけではなかった。

世界残酷で恐ろしいものかもしれないけれど、とても美しい。

思えば、そんな事、僕らは最初から知っていた筈なんだ。

時間が過ぎて、僕の事は忘れてしまっても構わないけれど、僕が今ここに書いている言葉のいくつかをときどき思い出してくれるなら、それより嬉しいことはない。

追伸。今までありがとう

出来る事ならば、誰も憎まないで生きてください。

――瀬戸口廉也CARNIVAL


正しくないことは悪いことだったのか?

それでも正しさを追い求めたり、苦しむことは悪いことだったのか?

諦めたり、やっぱりあきらめきれないことが悪いことだったのか?

諦観し、悟りを開いたりすることが悪いことだったのか?


神とは、人智を超えた存在なのだという

善悪果実を植えておきながらも、そこから取って食べてはならないとも定める、矛盾したことにすら正しさを与える存在であったという

から最後は祈るしかない

どうか、本当の幸いを与えた給え

ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。

――宮沢賢治銀河鉄道の夜

anond:20230204124621

必要としてる人や作者自身の願望や信念に応じたり基づいたりしてそういう物語や描き方もちろんあっていいけどあんなに素敵だと思っていたドラマ大豆田とわ子を久しぶりに見たときのあれ……って感情に近い増田

都合よく思える部分とか構造結構近いと感じる

とわ子や夫たちの造形とか性格容姿関係性とか社会的立場とか諸々

社会不適合的な親友(違国日記の姪や他登場人物との関係性に近しい)の存在関係

音楽は今でも最高と思うけど

今見ると主人公たちを追い詰める側が大分舞台装置というか、主人公たち以外には誰も人生人格がないようにわざと扱いたいのかなという醜い描き方というか……

結局まるごと共感できる、自分は屈託なくこっち側なんだと素直に感じられて、自分もしかして醜いがために舞台に登場させられない側の人間かも、もしくは舞台装置のごとく描かれる側のように自分も誰かを傷つけているかも…とは間違っても思わずに受け止められる人のための物語なんだと思えば気が楽かもよ

次作?で警察ミステリものときに生きづらさの中心地にいるが同時に他者を傷つけてもいる人物を書いててそれはよかったけど、結局美しい世界事情の上での話だなとは思ったの増田読んで思い出した

昨日最終話だったクドカンの季節のない街で描かれてる世界の方が優しいと思うし自分の認められないきれいでないもの排除したい感覚やそうするとき同時に巻き込んでスポイルしているだろう人やものがあることすでにそれをしてることに自覚的でないといけないと思った

クドカンはそういうものを描いたんだと思ったけど本当に全話見てその感想?みたいなやつもいっぱい見たわ

排除されるべきと思われているものを愛して抱えているがかつ一方では街で他者排除を実行する自身も十分に異物(自身挫折経験からしまさんにとって立ち退きは排除というより心底自立の促しなのかもしれない)でありながら社会的成功しているしまさんの存在がその二分された価値観対立というか、現在ポリコレとそうでないとされるものの間での人間の揺れ動きを表現しているようでよかった

最後にワイフに助け出されるのも

リリコ最高だった

全話も最終話も見事だったな

全話を通じて、特にがんもどき後編の勝手ハモんないでよから明確にオカベが一番嫌いな人物になったのでかっちゃんそんなただ「かわいそうな女の子に恋して助けてる自分のこと」が大好きなだけの男でええんか?と思っていたか最終話本当にあれでよかったと思った

よくも悪くも自身が選んだことでない状況や環境に人は左右されるもので、かっちゃん場合は本当はあったけどないように扱われていたし自分でも諦めていた意思や才(あの美しいハモり!)があの街から去ることで表に出てきたのだからよかったし、オカベが跡地でしょんぼりしているのもむべなるかなという感じ

それ以前にも叔母がかつこに言ってもしょうがいか……って言うとこも好き

の子は暗愚だから…という考えがあったのだとしても、起こってしまたこと、しかも箕打が起こしたことでそちらを守らず被害を受けた側を悪く思ったり責めることを飲み込む描写、すごいと思う

街の女同士の連帯不器用に描かれており、起こった事象の表面のえぐみや醜さだけ見てあの編集者がはっきと言ったように

「こんな人たちいるわけないしw」と捨て去ることは、その内側にいる本当は連帯すべき弱い人に起こったことや事情感情生命すら無感情に、あるいは憎みながら捨て去ることなのだとあのラストではっきり思わされた

こういう描き方もあるんだよね

この辺を見たはずなのに「クドカンポリコレを憎んでいる」って結論になってた人、口当たりのよい気持ちのいいドラマに感化されるあまり対立構造に巻き込まれすぎていると思ったな

そんなこと増田みて考えた

2024-06-05

anond:20240605172504

お前は無能、つまり劣った生命死ぬべき(残さないようにすべき)と言っているだろ

優生思想のものと言って差し支えない

anond:20240605172212

どこが?

指摘できないなら無能

https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E5%84%AA%E7%94%9F%E6%80%9D%E6%83%B3

優生思想

(読書)

【ゆうせいしそう】

概要

【eugenism】

優生学(eugenics)」を認める思想

ポジティブユージェニックス(positive eugenics):優れた生命だけを残していくべき

ネガティブユージェニックスnegative eugenics):劣った生命は残さないようにすべき

anond:20240605172126

優生思想

【ゆうせいしそう】

概要

【eugenism】

優生学(eugenics)」を認める思想

ポジティブユージェニックス(positive eugenics):優れた生命だけを残していくべき

ネガティブユージェニックスnegative eugenics):劣った生命は残さないようにすべき

anond:20240605080748

宇宙人エイリアン

宇宙人

中世以前

人間の住む世界以外に生命が生息する世界が数多く存在するという考え方(多宇宙論)は古代からあり、地動説よりも古く、世界各地の神話共通している[要出典]。2世紀風刺作家ルキアノスが書いた『本当の話』には、船に乗っていたルキアノス竜巻に巻き上げられて月まで行った話が描かれている。月には人が住んでおり、太陽住民明けの明星植民地化をめぐって戦争をしていたとしている。

東晋の干宝が著した『捜神記』には火星が登場し、『捜神記』の現代日本語訳では「火星人」と訳した本もあるが、原漢文少年セリフ「我非人也,乃熒惑星也。」を直訳すると「私は人間ではない。実は火星である」となるためいわゆる「火星人」ではなく、「火星」という惑星のもの化身、というほうが原文に近い。

また、日本では10世紀半ばまでに成立したと考えられている『竹取物語』は主人公かぐや姫が月の住民であるという話であり、中世アラビアの『千夜一夜物語』の「ブルキヤの冒険」も異世界譚の一種である[8]。

   おぺっちが、 死んでいるとか幽霊に等しいものであることを理由に、東京大学および国に対して、糞、と言っているのは同調するが、食べ終わったものカスであって食べられないから糞

   であると主張していることに関しては、結論において正当だが理由を異にする。死んでいるもの幽霊に等しいもの摂取すると生命害悪であるだけでなくそもそも、死んだ者のことを

   考えることが嫌であることは通常であるから、単なる宮脇の囁きみたいなものでろくでもないことを包括して糞という呼称をつけたのは正当であるが、佐藤裁判官のように、生活の役に立たない、

   食べられないという理由を激しく強調するという理論には賛同できない。佐藤裁判官の体系における糞理論というのは、死んでいる、幽霊であるものなど誰も考えないという常識が基礎になって

   おらず、わたくしの持っている糞理論というのは、単なる囁きだし、意味も何もない、出来上がっているだけの建前であって誰も興味をもたず摂取しないことを完全な理由とするものである。この点で

   食べていくのに必要がないから糞であるとする佐藤裁判官の糞理論には同調しない。

2024-06-04

ぬいぺにって一昔前は男と女友情はあるかどうかって筋から話されていたようなことなんだけど、それが今は、ぬいぐるみって「生命精神が宿ってないはずのもの」がペニスを出してくるのを許せるかどうかって話になってるので、男がそもそも人間どこから生物としてすら認められない世の中になってるんだよな。

長年女が男にやられてきたことを男にやり返すフェーズに入っている。フェミニズムの偉大な勝利だね。

2024-06-03

anond:20240602174645

「人として接する」というのは女を特別扱いしてちやほやしろという意味

弱者男性は「人として接する」の意味を「男と対等な人間として扱う」と勘違いして女を怒らせてしまうんだね😰

女は下等生命体として保護しなければいけないのに自分と対等な存在として扱ったら上手くいくわけないのに

おはよう

おはます

さんさんサニーデイ

パンは数えられるけど

愛は数えられない

それはまるでパスタみたい

ぐちょぐちょに絡めた濃厚ミートソース

そのひとつひとつ生命があって

ねじ曲がって

長い長い乾麺の道を渡った先に

異国の地が広がっているのですわ

結婚式でこんな風に話したかったのかもしれない

先日友人の結婚式に参加した。

それが初めての地方結婚式であった。

移動の費用やらを考えると、それなりの金額を支払って、出席することになる。

ただ、全然出せないことはないし、むしろ大人の余裕前後泊しちゃう?という矛盾の塊のような結論を出し、二泊三日の一大旅行となった。

旅行もそれなりに楽しめて、旅先の工程も満足行くものではあったのではあるが、結婚式に出るたびに毎回首をもたげる、「あれ、結婚式出て、意味あった?私の人形そこに置いといたのと何も変わらんくね?」という思いがが今回はより、私の胸の中にのしかかった。

パートナーにその旨を告げると、出たことに意味があると、お嫁さんの晴れの姿を生で見れたことに意味があるのだと。

かにそれはそうかもしれないが、約二週間たった今も、胸の引っ掛かりは取れない。

それはそれで気持ちが悪く、そして私自身その気持ち悪さをきっちりと言語化できたとき気持ち良さを知り得ているので、いつまでも目をそらし続けることはできない。

今までよりも強い違和感は、以下の背景に起因するものであろう。

今まで出たどの結婚式よりもお家柄色が強く、異物感を感じざるを得なかったこと。

そういうわけで人数も全体としてかなり多く、ひな壇に気軽に行けるような感じでもなかったこと。

少なから自分世界主人公だと思ってしまっており、どうしてもその幻想は、私が私で生きている以上拭い去れないこと。

その勘違いが、自分にはもっと何かできると、鬱陶しいほどに心臓に早鐘を打たせること。

また、それなりのお金を支払って行っていると言う事実も、なんらかしらの手段でこの感情を顕現させたいことに拍車をかける

しかし、直接本人に言うのは、流石に自己満足押し付けが過ぎ、幸せ絶頂花嫁に水を指すのもいかがなものか。

上記理由から、皆様のお目を汚すような個人的感情をここに書くに至った。

さて、私がいかに面倒な人間かわかって頂いたところで本題である

彼女とかかわり合いになったのは、大学サークルの内のことで、たった3年間のことであった。ただしそのサークル内でも何かしら一緒の活動を行うということはなかった。しかしながら、部と学科が同じということで、授業の話をしたりだとか、自分が読んで来た本の話しなどもしたような記憶がある。

私自高校生から大学生になるにあたって、非常に鬱屈とした学生生活を送っており、端的に言えばなかなか人とうまくはなせずにいた。

そこからサークルという否応なしに共通目的やら問題やらに向かえる集団所属したことで、元来人が持つコミュニーケーションを取りたいという欲を取り戻した。

そんな最中サークル終わりの飲み会で、彼女と横並びに座敷の壁に寄りかかりながら、なんとなく高校の頃の話を聞いたような思い出がある。

ぼんやりとうすボケたような記憶なので、話の内容も対して覚えておらず、自分もなんと返答したのか全く思い出せないが、人間関係の話で、今まで仲の良かった人がいたけれど、あるなにかの事件きっかけとなって、疎遠にむしろやっかみを受けるようになり、その時から人との関係がよくわからないというような話だった気がする。

以前の記事私がどういったふうに答えていたか相変わらず覚えていないが、今の私であったらこう答えていたと思う。

何も気にすんな。人との関係性は、相手じゃなくて自分で決めるものって考えたら楽んなる。相手がどんなにこちらを嫌っていたとしても、仲良くしたいと思えば、何でもいいから話しかけにいけば良いし何か違ったなと思ったら、話しかけずにいれば良い。

こっちが友達だと思ったら友達だし、時と場合によって今日ご飯食べに行きたいと思ったやつとご飯食べれば良い。

思えば色々と感化されやす性格だったように思う。私がこうした方がいいのでは?と言えばそれに素直に従い直したし、私のつまらない話にもよく笑ってくれた。

そして感情が豊かで感受性も高かったように思う。友人といざこざがあればすぐ顔に出たし、義理が果たされないようなことには、怒りを顕にした。

そんな人間が、私からのそんな話を聞いてどうなったかといえば、本当に何も気にしなくなった。今までは自分発言で傷つく人がいるのではないかと考え、うまく言葉を紡げなかった彼女は、傷ついたなら傷ついたで仕方ない、と思い直し自分の考えを堂々と言うようになった。あるいは、間違えたらどうしようと、行動が起こせなかったことも、今考えた限りはこれしかないのだから、やってしまおうと、行動に移すようになった。

そうして、間違ったことも、壊してしまたことも、傷つけたことも、そして、それらが元に戻らなかったとしても、それはそれとして、前に進んだことの確かな証拠だということに気づいていったのだと思う。

見ようによってはヤケになってしまったようにも見えるけど、それは確かな一歩である

から見たあなたは、そんな風に歩んでいったのではないかと思う。

私があなたと会わなくなってから、かなりの空白があるわけで、先のことも遠くの記憶であるからにして、真実かどうかもわからず、もうもはや事実とは異なる空想めいたものかもしれない。

私があなたに言える確実的なことは、私が過ごしたこ最近の数年のことであるから、そのことをひっそりとお話して、この文書を閉じたく思う。

ひとえに、気の置けない人がいるというものは素晴らしいことであると思う。

自分一人では、私は到底私らしく人生を生きて来れなかったと思う。料理を作って美味しいと言ってもらえること。そうでなくとも、この間のあじつけの方が好きと一刀両断されること。

服の干し方で一々文句を言われること、食器の洗う順番にとやかく言われること、穴の空いた靴を履いているとこそからくすぐしてくること。自分一人でいたら、どうでもよく、そのまま過ぎ去ってしまう一つ一つの生活が、パートナーがいるというだけで、数倍は人生が伸ばさせれるように思う。

洗濯機の液体洗剤のいれるタイミングがどうしてもわからなかったり、大きななべを洗うのが億劫であったり、キッチン排水口の掃除がどうしても受け付けなかったり、りんごを剥くとたまに芯が残ってしまっていたり。自分が凸で、相手の凹を埋めるときもあれば。

朝はどうしても起きれなかったり、休日の過ごし方のプランを立ててもらったり、バスタオルを一週間に一回洗ったり、部屋の片付けを率先してやってくれたり。自分の凹を相手の凸が埋めてくれることも勿論ある。

人生なんて所詮、この地球上の一生命体が生まれから、終わるまでのお話であるから、結局のところ意味なんてなくて、でも、それでも、

一緒に足りない何かを補ったり、補われて、そこにちょっとした温かさを感じて。

それは意識されないまでも、どこか自分根底にそれはあって、それを抱えたまま眠りにつく。それが自分がどんな状況であろうと、立場であろうと、確固たる標として、自分の中に位置づけられる。自分として戻って来られる。

パートナーがいるというのは、そういう安心感を強く感じる。

あなたはどうであるか、そもそも私自あなた相手のことすらも知らぬわけであるから、もうただ同じ感覚を持っていることを祈るばかりである

帰ってくるところさえあれば、人生無限に楽しめると私は思う。

2024-06-02

    平成28年前後に、つくこま祭かなんかで、女装がなんとかっていうのが流行っていて、  東京大と、筑駒では、2011年以降、2013年中心に、女装流行っていた

  というのがあって

     なんであんな悪質な詐欺で、魅力を持ったか忘れたが、 当時の理解で、 藤山琴風、の他に、魔法使いという女の子がいて、その時は、その限りでそれを理解した。

  しか上京して4年後だかに後者魔法使いの方は、巡査じゃねーかな、ということに気が付いて、そういうのは、もう当時から、E.M.シュタインが気が付いていたらしいのですが、

   私の場合は気づいて無くて、開示請求したら、交番日誌で、 家族生命身体自由危害がある恐れがあるとして条例78条1項7号に該当して非公開となる当直員であった。

    魔法使いの方が巡査ではないかと思ったのは、魔法使い女装をしていると美少女に見えるが、首のあたりに青筋が立っているし筋肉質に理解たからということで、実物を見たのは多分

  4年後であるそれから、藤山琴風の方は、前野地域センター交番所長だったということであるが、専門的に知っているわけではないので、全体像理解していない。

2024-05-31

anond:20240531200843

それに関しては日本より韓国のが酷くないか

「水に落ちた犬は打て」みたいな格言があるのも韓国やろ、

韓国日本以上に叩きが苛烈で一度叩かれると完全に芸能生命を失うんで

からこそ有名人自殺が絶えないって話だし

あるさぽのチラ裏

先週土曜日ホーム戦、対福岡にあっさりと負けて今季黒星はいくつになったのでしょうか。わかりません。数えておりません。三節が終わったあたりから順位表も見ていない。降格の危機にあることと、今の首位くらいしかからない。

そして次節はその首位との対戦と相成っております

開幕前、現在首位を降格筆頭候補に挙げていた人たちは何を思うのか。

はいいつつ、自分首位試合全然見ていない。

理由監督です。別に黒田監督が悪いわけではない。ただ嫌いなだけ。黒田監督に似た人が。小学生とき担任黒田監督激似で、本当に本当に、視界にいれることが無理。

その担任メタクソに贔屓をするクソだった。気に入った生徒にはニコニコして何をしても叱らなかったけど、気に入らない子に対しては冷徹のものだった。どちらかといえば自分は気に入られていたほうで、ひどいことをされたりはしなかったのだが、あまりにひどい贔屓っぷりが気持ち悪くて仕方なかった。

贔屓クソ野郎が贔屓するのは、比較勉強のできる子や、明るくてクラスの中心になる子可愛い子。それは女子ばかりだった。学年で一番可愛いような子が同じクラスにいたのだけど、その子と仲良くしていたある男子に、いきなり冷たくあたりはじめたときには本気で引いた。可愛い女子には媚びへつらうと言ってもいいくらいに猫なで声になるのに、女の子と仲良くした男子や、大人しめの男子勉強出来ない子にはあからさまに冷たかった。これ、小学二年生ときの話だよ。そんな、右も左もわかんない年齢の子どもに、明らかなエコヒイキしてたんだよ。本当に最悪な担任だった。そして学年の主任だった。

そんな担任と、黒田監督・・・似ている・・・・。

黒田監督は何も悪くない。悪くないのはわかっているけれど。でも、黒田監督を初めて見たとき、あれは何年だったか忘れたけど、高校サッカー選手権の中継で。

???あいつ今高校サッカー監督してんの????と一瞬にして吐き気を覚えた。

でも名前違うし、そもそも年齢も遥かに違う。

まったくの別人だとわかってもだめだった。生理的に無理だった。脳が拒否する。青森山田サッカー部試合は見られない。

そしてその黒田監督がJ倶楽部監督になった。

でも入れ違いのような形で昇格できた。やったね。

やったね。と思ったのに、あれよあれよと快進撃で黒田監督一年目で昇格を決めた。

そして今首位だよすごいね

一方こちとら降格の危機だよ。

あ、今の首位には、テクニカルコーチがこっちから行ってます。結果に結びついているようで何よりです。いや、何より悲しい気持ちなのだけれども。

テクニカルコーチを持っていかたからこっちが~とかそれだけではないのも重々承知しています

だってそんなのは開幕する前にわかってた話なので

開幕して数試合移籍しまっすバイナラしたわけではないので

ああ、別に移籍したことをここでごちゃごちゃ言いたいのでもないです、それは本人が決めたことだし、そういう人だったということで。この話は終わりです。

話を戻して

重要ピースが抜けたとしても開幕前ならそこへの対応はしておくべきなわけですね

てか今のテクニカルコーチが云々と言いたいわけではな・・・・・くもないけど

ルベルさんが残してくれたものを食いつないでいくにせよ、そこに今の監督コーチ陣がプラスして研鑽して結果に出せていけるのか、いけそうなのか、がちょっと期待が持てなくなってきている現状ということです。

ここ数試合の有り様は如何ともし難く希望もなにも持てなくなってきている。

なまじ、攻撃の形ができてしまっているだけに、惜しいシーンが手の中をすり抜けていき、気がつけば先制され、失点を重ね、最後最後になんとか一矢を報いて終わる。

ボールを保持するのもパスを重ねているのも、一体何を目的としているのか。ボールキープもパス成功率も、それが目的ではない。ボール保持もパスもゴールに繋げるための手段しかない。その基本的な部分を見失っているとも思わないけれど、ボールを受けてから判断が遅い、悪いケースが多すぎる。

それは勝ちから遠ざかっているための消極的さや焦りからなのか、パスを繋げることに意識が行き過ぎているからなのか。でもパスを受けても、対峙する相手やスペースも見えてないのになんでその判断になる?ってのも多い。

パスを繋いで組み立てていくのは生命線のはずだけど、今シーズン開幕してから逆にその生命線を自ら断ちにいっている気がする。最終ラインボール回すところをプレスされて狙われてというのを何回見たか

と、まぁ、不満を書き出せばきりがないのでやめます

2003年11月23日の初昇格を決めたあの日からJ2降格経験し、再度の昇格を果たし、石にかじりつき辛酸を嘗め耐え難きを耐え忍び難きを忍び、やっと手が届きそうだった、ひとつ上の段の「縁」。

上りきれるかはわからない。でも、やっと、そこへ、手を指を掛けられるかも、と

ずっと壁しかなかった視界に、乗り越えた先の風景が、少しでも遠くにでも見えるのかも、と

そんな前途の拓きを抱いて迎えた今シーズンだったわけです。

でも、黒田監督が率いる昇格クラブは、あっさりとその「縁」に、手どころか足を乗せた。いや、飛び越えていった。あれだけ羨望し焦がれた「段」を、「縁」を、それはもう軽々と。

大宮が無敗記録を作ったとき思ったのは、うちはそういう記録めいたものには程遠いなということと、そういう意識もないなということだった。

いま、自分はどんな感情を抱いているのか、

たぶん悔しいんだろうとは思います。悔しい、勝てなくて弱くて悔しい。なんでこんなに弱くなってしまったんだ。

そして、後発クラブにあっさり追い抜かれたことへの嫉妬

嫉妬とは、自分努力していない・しても勝てないと理解している・理解しているのに認めたくないという心理が働き、自分よりも優れている人に対して抱く感情

完全に壊れてはいないものを治すのは難しいね

J1昇格を成し遂げてくれて、アルベル監督サッカー継承してきた松橋監督に対し、監督交代とかそういうことを少しでもつぶやくと

轟々と非難されるのもナンダカナとは思ってしまう。

結果を出さなければならない立場にいて、結果が出ていないなら、厳しい目を向けられるのは仕方ないし。タヒねとか誹謗中傷罵倒は論外ですが。

反町監督いたころ、当人が苦言していた「俺を肩たたきする人がいない(クビと決断する人がいない)」という状況は好ましくはないと思いますね。感謝と、現場としての結果から判断は、やはり切り離して考える必要がある。

札幌京都みたいに、クラブも何らかのアクションを起こしてもいいんじゃないですかね。残留を最優先とする戦い方へ切り替えなければならない時機は過ぎたんじゃないかなあ。

今、チームに一番必要なのは勝利勝ち点なのだけれど、

去年までのうちなら、首位だろうがなんだろうが臆することもなかったし、むしろ「勝てるっしょ」と思えたのだろうけれども

すみません、この状態で「首位食ったるで!」と思えない自分は弱いです。強気をくじき、とか、中位力、とか、そんなのを拠り所にできる心の余裕がない。チームを、監督を、選手たちを、信じていないわけじゃない。信じていても、「でも」が出てくる、それは自分の心が弱いだけ。弱いのは私の心です。

そんなわけで明日首位との対戦だよ!ヤッタネ!

幸か不幸か仕事からリアルタイムでは見られない。帰ってからだぞんを見るかどうかは、まだ決めかねている。

三戸ちゃん代表選出おめでとう!

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん