はてなキーワード: 法要とは
世の中には、「諦める」ということも大事。
そういう意味では、僕は結婚する…というより、「肉親以外の誰かと一緒に暮らす」ということを諦める努力をしなきゃいけないなと思います。
31年間生きてきて、彼女がいたことすら無いという人間には、もう結婚自体無理だと。 肉親以外の誰かと一緒に暮らすことは無理だと。
そう、自分に頑張って言い聞かせないといけない時期に来ました。
頑張って、それなりの所に勤めることができれば…なんて思った僕がバカだったのだろう。
仕事をバリバリやれば輝けるような人になる…なんて思った僕がバカだったのでしょう。
これからは、1人で頑張って生きる努力をして、(言われなくても元々やってますが)精一杯親孝行しよう。
親が亡くなった後は、とりあえず四十九日法要が終わるまでは頑張って生きるけど、そのあとはとっとと身を投げて死んでしまおう。
赤子から2親等の葬儀なので、通夜はパスさせてもらったけど告別式はなんとか出席。
9時過ぎに葬儀場に集合→10時から告別式→11時ごろ出棺→斎場に移動→11時半に火葬(1時間半ほどかかる)→葬儀場に戻る→昼食→再度斎場へ→お骨を拾う→葬儀場に戻って初七日の法要(一緒に済ませた)→親族のお見送りで終了
終わったのが15時頃。
基本的に赤子向けのサービスはなし、身内なので控室があるけど、出席だけなら出棺までかな、、、(その時点で帰る親族もいた)
お経読んでる間はぐずったらさっさと退席するが吉かと、誰も気にしてない。
最後に、亡くなった身内が赤子と少しでもかかわってもらえてよかった、でも、もっと長く接してもらいたかったので本当に残念。空からずっと見守っていてください。
今新規事業の立ち上げをしてるんだが、そこで思うのは「仕事中に死ぬような奴は仕事のことを真剣に考えていないダメな奴」ということだ。
本気で仕事のことを考えていたら葬式で仕事のことを考えない時間ができてしまう事が恐ろしいはずだし、棺桶で休んでいて勝てるような事業に大した価値はないと思う。
自分が死んでいる間に競合する会社や人はどんどん先に進んでいく。四十九日の途中で「戒律で決められてるから7日ごとに49日まで法要しましょう」なんてやってたら絶対に負ける。仕事しながら休みを取るのってそれと全く同じ事なのに、なんで世間の人達は平気で休んでやれ火葬やら納骨やらしょうもないことに時間を費やすのだろう。理解出来ない。
肉体上の問題で仏から強引に休みを取らされてるんだけど、邪魔でしょうがない。結局仕事してるんだから普通に出勤させて欲しい。
昨日、ひさびさに実家へ帰ったら黒のラブラドールと姪がバタバタと出迎えてくれた。
その瞬間、忘れていた記憶……幼き頃の夏の日を強烈に思い出すことになる。
もう三十年も前の話。
昔は今みたいに血統書付の犬ばかりではなく、
朝早くにラジオ体操を終えて家に帰ると父がいつになく険しい顔をしていた。
どうしたの?と聞くと
「野犬がでたで今から山狩りだ」と父が言う。
「やまがりって?」
「山へ逃げた犬をみなで捕まっえのよ」
捕まえられた犬が殺されることぐらいは幼い私でも理解していた。
そして、父は身支度を整えると山へ犬を捕まえに行った。
メルモちゃんを観て、お昼になって素麺をすすっていると、父が帰ってきた。
そして犬が捕まったことを知る。
「坊主、犬を見に行けっぞ」この時なんとなく嫌な予感がした。
父も素麺を食べてから公園へ行くと鉄棒に縛られたクロスケが低く唸っていた。
「あぁ、(クロスケだ)」
敵意むき出しの顔でこっちをみていた。
父には「一呼吸つく」という習慣が無い。
やることはすみやかに行う。
「犬をいけんすっとじゃっとな?」
「ついて来い」
家から歩いて5分程度の公園のすぐ横にコンクリート護岸の川が流れている。
その川にかかった手すりがない橋の真ん中にクロスケを置いた。
父は持ってきた麻縄の一端を首輪にくくり、反対側をあらかじめ用意してあったであろう
「犬を沈め」
「(!!!)」
いつになく真面目な顔で命令をする父が怖かった。
逆らったら自分が沈められそうだとも思った。
「おおおおおおおお」
私は無言で犬を放り込むことが出来なかった。
声を出し、勇気を振り絞り、犬を橋から落とし、ブロックも投げ入れた。
そしてクロスケは川底へ沈んで行った。
私はおおお、おおおおおと声を出して泣いていた。
沈みながらぎょろっとした目でこっちを見ていたクロスケが怖かったことも思い出した。
昨日……父の四十九日が法要があり、この時の思い出を母に語った。
母は、
みんな12歳の夏に犬を沈めるのだよ。母も父もそうしてきたんよ……と。
そして、今は野犬がいないから沈める犬を探すのに苦労しているとも。
「どうしてるん?」と聞くと、母は恥ずかしそうに笑って、
「それ用の犬を飼っているさ」と教えてくれた。
(ただし父や私の代はもう血が遠すぎて分家扱いもされていない、一般家庭)
私が幼稚園の頃、大規模な法要があって、初めて本家に行くことになった。
父親に連れられて本家の門をくぐった途端、突然
「みっちゃん!」
って叫ぶように呼ばれた。
びっくりして声の主を探すと、家の中から足袋裸足でおばあさんが走り出てきた。
そのまま駆け寄ってきて、私を頭のてっぺんからつま先まで見るおばあさん。
私はどうしていいかわからなくて、見られてる間ずっともじもじしてた。
そのうち、他の大人が割って入って、父はその人と一緒にどこかに行った。
私は他の子供たちと集められて、一緒に遊ぶことになった。
遊んでいるうちに法要は終わったらしくて、みんなでお昼のお膳を囲んだ。
さっきのおばあさんは忙しそうにしていたけど、合間合間に私や他の子供たちに
ご飯は足りているか、ジュースを飲むか、おしぼりを持ってきたから手を拭きなさい、
とたくさん話しかけてくれた。
その間にも、おばあさんからの視線を時々感じていたけど、嫌な感じはなかったと思う。
なんというか、すごく気にかけてくれているというか。
何回目かにジュースを勧められたとき、ちょうどお手洗いに行きたかった私は、
おばあさんに連れて行ってほしいとお願いした。
本家は古い大きなおうちで、ちょっと怖かったので、恥ずかしかったけど
おばあさんに、一緒についてきてくれるようにお願いしたら、
おばあさんはちょっと黙ったあと
「もちろん、いいよ。一緒に行ってあげようね」
と手をつないでくれた。
お手洗いからの帰り、おばあさんはなんだか涙ぐんでいた。
大人になって結婚する時に知ったんだけど、おばあさんは、本家の大奥様。
とても可愛がっていたんだだけに、亡くしたときの悲しみも深く
当時は後を追って死んでしまうんじゃないかという落ち込みようだったらしい。
この女の子が「みっちゃん」。
そして、私がそのみっちゃんとそっくり、瓜二つだったらしい。
おばあさんやその息子たち(=みっちゃんの兄たち)曰く
「顔立ちはもちろん、ものを食べる様子やちょっとした仕草がみっちゃんそのもの」
「まるで生き返ってきたみたいだ」
というくらいそっくりだったとのこと。
お手洗いに一緒に行った時に泣いていたわけも聞いた。
何でも、みっちゃんが亡くなる前日、
「怖いからお手洗いに一緒についてきて」
とお願いしたのを、その時ちょっと手が離せなかったので
「一人で行ってきなさい」
と宥めて一人で活かせたらしい。
その日の晩にみっちゃんは高熱を出して、翌朝亡くなってしまい
「あの子が最後にしたお願いを、叶えてやれなかった。ちょっと手を休めてついて行ってやれば良かった」
とずっと悔やんでいたんだそう。
それがあの日、そっくりな私が現れて、みっちゃんと同じようにお手洗いについてきてって言い出して
「まるで、あの時のやり直しをさせてもらっているようだ」
と感じたんだって。
私が本家に行ったのはその一回きりだったんだけど
おばあさんはその後ずっと私のことを気にかけていたらしい。
とても他人とは思えないって。
おばあさんは、私が高校生の時に亡くなったそうなんだけど、その際に遺言で
「あのみっちゃんそっくりの子がお嫁に行くとき、お祝いを渡してほしい」
開けてみると、漆塗りの箱の中に櫛や手鏡、かんざしなんかが入っていた。
ほんとに貰っていいのかなって思ったけど、長男さんに
「供養と思って受け取ってほしい」
と重ねて言われたので、ありがたく受け取ることにした。
私には、子供に先立たれた親の気持ちは想像することしかできない。
でも、それは悲しくて切ない事なんだろうし、それをちょっとでも癒すことができたなら
(私の力によるところでは全くないんだけれども)
いいことをしたのかな、と思う。
昨日妊娠していることがわかって、ちょっと感傷モードに入っちゃったので
落ち着くために書かせてもらいました。
昨日、ひいばあちゃんが亡くなったらしい。
前々から体調が悪かったみたいだけど、年明けに家のそばで倒れて入院、
医者からは別条ないって言われてたけど数日後に急変してそのまま亡くなったそうだ。
正確な年齢は知らないんだけど多分90超えてるし、亡くなるときも孫とか子に看取られる感じだったらしいし、
実家の近くに住んでてなにかとお世話になってたからやっぱりさびしいけど、あまりかなしくはない。葬式行ったらちょっと泣く気はするけど。
そういえば子どもの頃、週3ぐらいで犬の散歩のついでにひいばあちゃんの家に立ち寄ってたけど、
毎回あんぱんとかジャムパンとかカスタードパンとかが山積みになった謎の一角から適当に1つ取って放り投げてくれてたような気がする。
今の時代はやわらかくて甘いパンが安くで買えるのがうれしくて、ついたくさん買っちゃうみたいなことを言ってた。
若い頃は隣町の当時最先端なカヘエ↑のウエー↓トレスをやってたってのが自慢の愛嬌のあるかわいいばーさまだったなあ。
それで、母親がひいばあちゃんから見て孫になるんだけど、昨日は母親の誕生日だった。
そんでもって、俺の誕生日でもある。
○回忌法要みたいなのが、曜日がよければ誕生日まるかぶせになるってことなので、若干気持ちの持って行きどころに戸惑う感じになりそうな気がして、
なんかこう早々にそんなしょーもないことを考えてるのがひいばあちゃんにはちょっと申し訳ない気分。
でも多分、世の中の天災や事件があった日が誕生日と被ってる人なんかは、これよりもっと前のめりになりづらい感じだったりするのかなー。
この時期だと、一人お誕生日パーティーイェー!ってやろうと思ってテレビつけたら、大抵阪神淡路大震災特集やってたりして毎年ちょっとシュンとするんだけど、
はてブで上がってたこのページを見て、俺も最近爺さんが亡くなった時に葬儀のお手伝いをしたので忘備録がてら書いてみる。
Gカップが巨乳の範疇に入るかどうか、自分の肉体を見るにつけ疑わしい。
(グラビアの子たちとは比べてもあんなきつそうな谷間ではないからだ。)
もう既にアラサーと言われる年代に突入して幾許かの時は流れているのだが
未だにその体積は伸び悩むこと知らず、ぐんぐんと存在感を増している。
思春期時代、小さく収まって遺伝が発揮されず、胸を撫で下ろし、そのままのサイズたれ、と祈ったのだが
まっすぐ立てば足元は見えない。
しゃがんで座れば上から目線に気を使う。
弓矢を構えれば弦がぶつかる。(マジ痛い泣く)
ブラウスを買えば、裁縫道具を引っ張り出して第二第三ボタンの間に補強のスナップボタンを付けるのは最早購入後最初にやる作業になっている。
つけないと第三ボタンか第二ボタンが任意のタイミングで外れる。
外れるならいい、罷り間違えばボタンが飛ぶ。
一回社外の人と打ち合わせしている最中に危うい状態だったボタンを支えている糸の部分がご臨終し、机の上に勢いよく飛び出したボタンが転がっていった。
素知らぬ顔してボタンを捕まえ、気にせず商談を続けた。
他の同席者の心中など、思いやれる余裕などあるはずもないし、結局その話もうまくまとまらなかった。
あの時、もう肩のサイズに合わせてブラウスは買うまい、と心に誓った。
あと、外れそうなボタンもそのまま放置してはなるまい、と心に誓った。
Tシャツだとて日本で売られているような形のものは、胸のサイズに合わせれば腹回りは寒く肩幅は合わず
体型に合わせればただただ胸元がきつく、表に書かれた絵柄が変わる。
ネコならライオン、クマならグリスリー、エロスのウサギなら食べ過ぎて病気のように顔が伸びたウサギになる。
初めて旅行先の欧州で胸元を緩やかに腹回りも少ししめぎみの裁断がされているTシャツを見つけ着用した時は本当に感動。感動の嵐。
私この国住みたいって思った。
私このTシャツにジーンズの人しかいないようなこの国に住みたいって思った。
大体日本で売っているあれはなんだ。男性用や子供用と何の差があるの。着心地が良くなくて何が服なのだ。
ウエストが65センチであろうと(現在値)56センチだろうと(自己記録)、
丸顔が災いし、ほとんどの服は着てみれば一見したところ、ただのデブだ。
BMI18を声に出して訴えてもきっと誰にも信じてもらえぬ。
現在流行りの森ガールからの派生した体型カバー型の、チュニック?ロングキャミ?あの手の服?
あれを着たら最後、凹凸の凸部分のでっぱりが最終的な体型を決定づけるので、どんなに努力してもパッと見ただのデブだ。
マツコとまではいかないが、あの人の後ろに並ぶ引き立て役みたいな感じにはなれると思う。デラックス。
そんなデラックス衣装を身に纏うと男も女も酔っぱらってハグしてきたとき、
ウエストがあるべき場所になくて、うわっ細とか叫ぶ。褒めているつもりなんだろうけど、
多分全く以て細くない。
普段からデラックスぽっちゃり体型に見えているっていう、その色眼鏡にも気づいて酔いもさめる。
胸じゃなくて顔じゃなくて、、えっと足首とか。手首とか。
乳首を中心とした半径5センチ程度の円を底面としたような乳なら、うまく寄せられるだろうし
鎖骨下4センチ位から隆起が始まり脇の肉なのか乳肉なのかよくわからない有様である。
半径5センチ?10センチはあるんではなかろうか。半球体というよりも、なだらかで険しい山がそこにあることは確かである。
底面積が広いため、パッと見下着売り場のお姉さんもサイズを見間違える。
まずある程度大きくなれば垂れるところが広域底面積の為垂れていない。
実るほど垂れるはずの(乳)頭が上もむかず下にも向かずただ真直ぐ正面を見据えている。
お姉さんしっかり見据えている。どう見たって立体ではなく平面にしか見えない。
自分でもそう思うのだから他人から見たら尚の事そうなのであろう。
彼女らはお客様の胸を計測し(ここで彼女は見積もりを間違えていることに気付く)、
触り形状にあったブラジャーを用意したところで初めて言うのである。
すいません、お客様がご要望のデザインのブラジャーはございませんでした!ございませんでした!
私はただ疲弊し、言葉もなく軽く頷きおすすめの数枚(の一番安いもの)から適度なものを選びレジに向かう
そんな苦労を重ねてブラジャーを購入しても、服でくるんでしまえばただのデブにしか見えない。
知っている、このような体型になる事は。
母方で時折執り行われる法要のあとの大人の着替える姿で
父方での親族旅行先の温泉で煙り立つ湯気の合間から見える親族の体
この血族において胸が大きくならないはずがない、と。
大人たちは脇よりも何よりも胸の下に有り得ない量の汗をかき、脂肪の塊のそれらは垂れ下がり、
(ただ、不思議と昔の漫画に出てくるような使い果たしたコンドームみたいな萎んだ乳の老体はいなかった)
そして皆一様に胸が引っ掛かる着衣に文句をいい、胸の重さに文句を言い、汗腺の多い胸の皮膚に対し嘆き悲しんでいた。
私は恐れていた。ここに仲間入りするのかと。
10代の私はごくごく一般的なサイズと思われるCカップで収まっていた。ここで終わっていてほしかった。
ううん、出来ることなら服を選ばずに済むような、ちょっと鎖骨が浮き出ているのが強調されるような胸元でいてほしかった。
あの子華奢だね、って言われるような針金のような体のままでいたかった。
生理前になったら持っているブラジャーが更にきつくなり、胸が張り、
仕事中に胸の張りの痛さで七転八倒しそうなのを隠しつつ、痛み止めのEVEを飲むようなそんな大人にはなりたくなかった。
そしてこれ以上のサイズがデフォルトになったら、私、これから先、どこでブラジャーを買えばいいのか分からないじゃない。
自分の胸と付き合っていける自信がない。
我、求む、胸の収まりのつけ方を。
おかあさんが死んで、いろんな法要もあって、おかあさんの事も、事あるごとに思い出して、もう半年くらい経ってるような気がするけど、まだ2ヶ月経ってない。
まだ、おかあさんが生きている頃、おかあさんのことなんで、まず思い出すことはなかった。だから、2年くらい会わなくても、長らく会ってないな、とは思わなかった。
おかあさんが死んでからは、毎日、思い出すよ。生きてた時の姿。
だんだん寒くなってくる。親父を思うと、おかあさんがいなくなって、初めて迎える冬がつらいだろうなあ。
ストーブに灯油を入れる、餅を作る、鏡餅をかざる、年越しそばを作る、俺らが帰省したときに布団を暖めてくれてた電気毛布とか。あの、おいしい卵焼きとか。
俺、正月帰りたいなあ。親父1人の年越しなんで、辛すぎる。
今度の年越しが、まさかこんなことになるとは思わなかった。
おかあさん、夢で俺に何か伝えてよ。夢にでも出てきてくれ
1: http://anond.hatelabo.jp/20140817034159
サクセスストーリーは始まらない。小説のようには。これは、生身の人間の記録だ。
話は少しさかのぼる。ぼくが中学校二年制三学期を迎えたころ。両親が離婚した。雨の日だったと思う。正確には、ぼくが離婚させた。
ぼくの父は、破綻を迎えるまでの十数年、ほとんどまともな職につかなかった。職にありついている時も金を家にいれないので、働いていてもいなくても同じだった。さらに男は、部落出身だとおのれを偽り、人権団体を傘に生活保護を認定させようとしたこともあった。それくらいには、どうしようもない男だった。ぼくの毎日のおかずがその男より少ないのも、ぼくを苛立たせた。
僕は中学に上がってしばらくすると、学業の意味をみいだせずサボりだした。家にいると、その男は、気まぐれにぼくを闇ポーカー屋や、パチンコ屋についてこないかと誘った。ぼくは、男の思惑については考えなかった。ただ、クズが出来る工場には興味があって、何度かついていった。そこでわかったことは、前者は場内で飲み物と食い物が只だった。しかし、必ず負ける。もう一方は、給餌がない。ただ、勉強すれば儲かるようだった。ぼくは研究を重ね、中学三年の頃には、その成果としてまとまった金を手にしていた。お金自体より、お金が増える仕組みを実践できているのが楽しかった。
一度、父にパチンコの攻略法を共有しようとしたことがある。そのとき彼は、ぼくの説明を聞くなり
と言い放った。餓鬼は夢を言うものだし、攻略法は確かに存在していた。血を分けたとはいえ、肉身との合意形成まで神は保証していないことを思い知った。ぼくは二度と同じことを口にしなかった。ぼくの手元にはいくばくかの金がすでにあったが、やはり出口はみつからなかった。
そんな折、転機が訪れた。父方の祖母が他界した。これが一家破綻を引き起こした。なぜか?父はできちゃった婚をしてこのかた、せっせと毎年、百万ずつ消費者金融に借金を作っていた。祖母は、このギャンブルによる借金を二年毎に内密に精算していた。その二年の精算周期を目前にして、祖母は死んだ。母があけすけにぼくに話してくれた。自転車は前のめりに急停止し、乗員はほうり出された。中学生にして人生はハードからベリーハードモードになった。その頃のぼくは、定期的に母に金を渡していたので、頼りはぼくだけだったのだろう。仕方なしにタネ銭のほとんどを母にわたし、祖母の四十九日の法要が終わったらみんなで出ていこうと提案した。暴力から逃げよう。貧しさも和らげることができるかもしれない。そして一方的に、ぼくは母の手をとり、家を出た。父を一人残した。金の重要性は再確認された。
十六歳になるのを待って、ぼくはアルバイトを始めた。解体工事、ピザの配達、飲食店調理、エロビデオ屋。スーパーのレジ。気持ちとは裏腹に、どれも長続きしなかった。三ヶ月もすると定形作業に慣れ、新しい事がしたくなる。気を紛らわすために、あいた時間で、頼まれていないのに段取りの効率化や改善をした。ポスシステムを無断で走破し、廃棄率や回転率を計算してオリジナルノートに映すのを空き時間の趣味とした。店長会の議事録を盗み見するのも日課になった。そういった業務に関係のないことを社員にやんわり諭された次の日が、だいたいぼくの自主退職日になった。金銭的にはじり貧だった。
いくつかのバイト歴を経て、最後に応募した求人が「PCオペレーター募集」という求人広告だった。その時代、地方都市でまだ見かけない求人だった。その頃にはぼくは開き直り、一つのアルバイトを六ヶ月で必ず辞める。そして、同じようなバイトはしないことに決めていた。コペルニク的回転により収支を安定させた。とりあえず生きていけるし、お金を増やす方法をよりもっと知りたかった。今回も、その怪しい求人の裏側を見てやるつもりだった。
面接に行くと、縦長のプレハブ小屋のようなみすぼらしい雑居ビルだった。中に入ると垢のついたソファに男が一人座っている。マネーの虎に出ていた堀之内九一郎のような風貌のスーツ男だった。その虎風の男は、釣り上がった眉で、自らを社長だと名乗った。アルバイト面接にもかかわらず、名刺をぼくに差し出す。話しぶりからも慣れていないのは明らかだった。口だけは達者なので、営業上がりだろうと推量した。
ぼくはその時代にしてはめずらしくパソコン先生だったので、すぐに採用が決まった。学歴にかかわらず。虎は、二人バイトが辞めるから明日からきてほしい、と言った。ますます怪しかった。ぼくは、いやらしい笑いを隠し、業務内容を聞きだす。男は壮大な事を奔放に話していたが、要するに、出会い系サイトのサクラが仕事だった。ぼくはとても面白そうだと思って、了解した。
入社して一週間で、ぼくは完璧なチャットレディーになった。しかし、完成された演技力とはうらはらに、客が異様に少なかった。ほかに事業もしていない。日商は大幅な赤字に見えた。でも、ぼくはノウハウを掴んで六ヶ月後にはやめるつもりだったから、それはどちらでもよかった。
「金が無い。来週払うはずの給料が払えない。どうやってもいいから自分で売上をつくってくれ」
と、通帳を手でひらひらさせながら虎はいった。漫画のような状況にぼくは少し面食らう。とりあえず事情を説明させた。
「じつはこの会社、きみが入社する一ヶ月前に出来たんだ。出会い系システムも他社から買ったものだった。彼らが送客を保証をするので二ヶ月で間違いなく黒字転換するという話だった。が、客がこない。約束が違うと納入元にかけあっていたが、そうしている間に、わたしの脱サラして得た運転資金も底をついてしまった」
虎は切なそうに泣く。額面どおりぼくの目の前でぽたぽたと涙する。社会は惨めな大人で満ちていた。
ぼくは、いくつかの方法を使って業界を調べた。社長の首根を掴んで、納入元にもいった。そこで話を聞くと、業者は、しなびた我らが虎から、すでに二百万の導入費用を支払わせていた。さらにシステム利用料として粗利の五割が毎月抜かれる。そのうえ、月々のサーバー維持費、合計十数万の支払いがまだなので、早く払ってほしいという。悪びれもせず。あとで分かったことだが、このころ全国的に、ヤクザのフロント企業が出会い系システムを詐欺同然に売りつけていた。上場しているあの情報通信企業も、元を辿れば同じ穴のムジナだ。
ぼくはだいたい事態がつかめた。それに加え、ぼくはこのビジネスに可能性を感じていた。だが、虎を救ってやる気は微塵もなかった。体面を保たない大人を、ぼくは嫌いだった。その後、給料の支払い日がやって来たが、予告通り給料の支払いはなかった。社長はぼくに、面談と称して言い訳をくどくどとする。ぼくは、うんうんと頷きながら話を無視し考えを巡らす。ふと、試しに揺さぶってみようという気になり、声を出した。
「なるほどー。でも社長も大変っすね。退職金使い果たして。さらにぼくが訴えたら、前科持ちでしょ」
そのまま、社長の眼球をぼくは下から見据える。張り付いた彼の眉・目・口。時間にして五秒。次の瞬間、彼の全ての部品がハの字に垂れ歪んだ。ぼくのほうも口元が歪むのを完璧には止められなかった。もう一押しする。
「わかりました、……じゃあ給料いらないです。そのかわり、納入元になんとかいって残りの支払い手打ちにしてください。その後、システムの引き取りを彼らに申し出るんです。サーバーをぼくにわたしてくれたら、それでこっちも手打ち」
――こうしてぼくは、くだらない会社をのっとった。
うん、それにはちゃんと答えよう。
簡単に語ろうとすると齟齬が発生するので、宗教と冠婚葬祭、仏教教義の遷移なんかは一度調べて見てくれ。それはとてもおもしろいから。
・
なぜ恥になるか。
君は坊さんの説教を聞いて少なくない額の金を払うことに疑問があるんだ。
しかし、そうは言っても坊さんは別にお経の押し売りをしてきたわけではない。
マンションや化粧品ではあるまいし、墓や念仏に営業なんかは来ない。
きちんと学を修めた(修行を積んだ)お坊様にお越しいただいて、形式に則って供養する訳だ。
お布施はそのお礼であって、技術料、車代、日当なども含んでいる。もっといえばブランド料だ。
葬儀や法要を執り行う人物が死人に意思はない、と思えば故人の供養は必要ないのだ。
死体も、防疫の観点から火葬し、人間の死体の保存が許されたしかるべき場所に放置すればいい。社会の目を気にしなければ。
ただし、増田がそうでも大抵の人は大切だった人への手向けとして葬儀をしたい。
この時点でも、坊さんを呼ばずに身内だけで坊主もお経もない、そんな式をすることも出来る。
それでも、わざわざ坊さんを呼ぶのは増田の親御さんが坊さんに来て貰いたいからだ。
坊さんは葬儀屋と組んで式を滞りなく進めてくれるし、式も立派になる。
一緒に故人を偲ぶ親族友人に対しても、増田の親御さんは格好が付けられたはずだ。
・
つまり、きちんとした葬儀や法要を自分で行うのは知識面からも物理面からも難しい。
そして、故人の縁者、あるいは自分の知人に対して格好が付かない。
そこにお礼が発生する理由は先述したように技術料等とブランド料だ。ちなみに坊さんの徳が高いと相場も跳ね上がる。
・
だから。
①自分や他の縁者が全員気にしない。
この二つを満たせば、法事をしなければ良いのだ。
・
ところが元増田は、自分たちで呼んで、おそらくきちんと要求を果たしたであろう相手へ金を払うことに対して納得が言っていないのだ。
来て貰って、サービスを受けたならそこでぐちぐち言うのはやはり筋違いなのだ。
・
母は仏壇の花が萎れてきたらスーパーの花で補充するぐらいには信心深いが、
オレは帰省中に母に頼まれたら水を変える程度、
驚いた。
「◯◯家嬰児」と書かれた項が、年月日付きで4つもあった。
一人目は、兄と姉が生まれた間。
兄は間違いなく婚礼初夜で仕込まれ、姉の誕生日はその1年10ヶ月後。
オレは姉の二歳半下だが、オレが生まれる前に二人。
さらにオレが生まれた翌年に一人。
憔悴した母がポロッと口に出した。
母からは、かつて父は薄給で暮らしが大変だったことを何度も聞かされたが、
年老いた母に今さらそんなことを尋ねて苦しめるつもりは毛頭ないが、
兄に何か知ってるか、聞いてしまうかもしれん。
http://anond.hatelabo.jp/20140601161827
追記
「嬰児」と書いてあったように思う。
4件ともそれらしい戒名もあった。
出生届は提出されていないはず。戸籍に記載がないので。
追記の追記
「嬰児」の使い方が間違ってる!とドヤ顔のブコメがやたらと目につくが、
「オレが生まれた前後に親が記したことを、オレがここに書いている」、
という文脈が読めてない輩が多いようだ。
オレも記憶に頼って書いているところはあるが、
少なくとも「水子」とは記されていなかったのは確かだし、
戸籍に記載がないのも間違いない。
戒名もちゃんとついているということは
id:gazi4 記憶違いだったらアレだけど、位の高い戒名を貰うために「嬰児」にする風習があったとかあったような気がする。
この辺りが真相ではないか。
今日はオヒガンなので、墓参りに行きお寺にもアイサツした。この場合のアイサツというのは、言語的コミュニケーションだけでなく金品の受け渡しを伴うものである。そのことに不快感を覚える人もいるだろうが、アイサツはとても重要。古事記にもそう書いてある。アイサツを行わないことはスゴイシツレイに当たり、ムラハチにされても文句は言えない。
というわけでおれはお寺の受付に法要会の案内状と幾許かの現金の入った封筒を渡し、返礼として「粗品」と書かれたA4ほどの大きさのビニール袋を受け取った。
その中身は、いつもなら、ブディズム関連の小さなパンフレットと数片のヒガシ・ウエファーに決まっている。ところが今回は、それに加えて銀色の防災アルミシートが入っていた。敷いたりかぶったりして使うやつ。それなりの保温性があるのだろうが、その分厚みもあり、かさばる。
これはもしかして、災害時に防災シートをかぶって念仏を唱えれば極楽に行けるという意味であろうか。なんだかブラックで、実にマッポーの世の壊滅的アトモスフィアを表す1エピソードオーであることだなあ。
A.三途の川を渡りたいなら葬儀費用や法要などこれだけの金額が必要です。持ってますか?
あなたが用意していなければそれ全部遺族の家計を圧迫するんですよ?何ですと金持っていない?
B.「Turn Off The Light」「Lullaby」「くまモンモン」の公式MVがYouTubeにあるので教えてみる(ステマじゃないよ)
(ダンスとかジョギングなど音楽のリズムに合わせて体を動かすのは有効)
C.行きどころの無い思いのたけを増田に投稿したら、記憶から切り離して忘れる
D.大声で歌うのを奨める
何か元増田がアドバイス求めてるっぽいので 今日はメニュー表の中からBをおすすめしとく
「美しい物」「元気になるリズムの構成を体にプログラミングするダンス」「癒しキャラ」が不足気味?
自殺で息子を亡くした父親の目を見たことがある?拭いきれない憂愁に満ちたあの瞳を?
横増田は2人知っているけど二人とも元のように心の底から微笑む事ことが出来る日はもうこないんだろうなと感じた
瞳が変わっちゃった
あのパンフレットは巻き三つ折り。
表紙は「御供養のご案内」「東法協会」。日本胞衣ナントカは裏表紙に位置する。
あれを見て
中絶胎児の投げ込み対応施設(パンフ見れば十分分かる)に対して投げ込む側の親が懇切丁寧な情の溢れる対応を無料で求めるとか、どれだけモンスタークレーマーだよ・・・というのが業者側の感想だと思われ。
で、明らかに「東法協会」は実態のない団体。だからこそ電話口で応えない。
後、名前を名乗らないのは胞衣処理の歴史が被差別部落民の仕事として差別とともにあるからですよ。相手の対応を笑う前に少しは自分の身の振り方を考えては?
差別どうこうは「東法協会」名義の電話を据えてどうどうと名乗ればいい話だ。
今年の四月に父が介護施設で亡くなった。八十七歳だった。
百箇日法要を先日済ませた。あれからもう百日も経過したのだ。だが、まだ実感がわかない。父が死んだという事実を認めたくない。受け入れたくない。受け入れられない。
とても頑固な父親だった。父より頑固な人を僕は知らない。しかも、思いやりが欠如した人間だった。しかも、ひとの言うことを全くきかない。毎日、毎日が苦痛だった。毎日が戦争のような生活だった。どうしてこんな人の息子に生まれてしまったのだろうか・・・。早く死ねばいいのに・・・。一日も早く父のいない世界でのびのびと暮らしたい。毎日、そんなことばかり考えていた。
僕を悩ませていたのは父だけではない。認知症の母親も同居していて面倒を自分ひとりでみていたのだ。認知症のため毎日母は失敗する。その母の失敗に対して執拗に攻撃する父。今にも殴りかからんばかりの勢いで・・・。そんな父から母を守ってやらなければならないし、酷い認知症のためトイレや風呂や着替えや見守りなど気が抜けない毎日だった。
父が風呂場で熱中症のような症状になり、救急車を呼んだ時はもう限界だった。
「ごめん、もう面倒見切れないから施設に入って!」絶対に言わないつもりの台詞が口から出てしまっていた。死ぬまで家で自分が面倒をみるつもりで頑張ってきたから。
数日後、父の方から施設に行くと言い出したので、話が急展開した。直ぐに近くの有料老人ホームに入れるように手配した。母共々。万歳!
しかし、喜んだのもつかの間、二週間後、家に帰ると言って聞かず、一晩中暴れたためレッドカード。その老人ホームにいることはできなくなり、しかたなく自宅に戻すことになった。天国からまた地獄に逆戻り。やれやれ・・・。
念願の自宅に戻れて安堵したかに思えたが、翌朝起きるなり、また暴れだした。
「お母さん(妻)がいない!今直ぐに連れ戻せ!」わめき散らして手が付けられない。もうギブアップ。助けて!
姉の家に逃げ込み事情を説明して対策を考えた。とりあえず精神科受診が結論だった。運悪く土曜の午後だったのでなかなか受け入れてくれる病院が見つからなかったが、なんとか電話で探し出した。遠方だったがしかたがない。
必死で暴れて抵抗する父親を姉夫婦と自分で車に引きずり込んで、一時間以上かかってやっとクリニックに着いた。
「この薬を飲ませてください。」その精神科医は言った。
すんなりと飲んでくれたらいいのだが、頑として飲まないのは分かり切っている。飲まなければ暴れる。今夜は寝れない。もしかしたら包丁で刺されるかもしれない。以前、姉が実際刺されたことがあるから。
このクリニックには入院施設はない。しかし、父とふたりで家に帰る勇気はなかった。
そして、出した結論が精神病院への強制入院だった。強制入院をさせるためには警察を出動させた方が良いということだったので、クリニックから警察へ電話していただき、パトカー先導で精神病院へ強制入院となった。父は命がけで抵抗した。
それから父は大人しくなった。別人みたいに。薬の力は凄いのだ。しばらく安堵の日々が続いた。三日に一度洗濯物を取りに面会に行った。
父の異変に気付いたのはそれから一ヶ月くらいしてからだった。大人しくなったと言うより明らかに弱って来ていた。それに足の甲のあたりが不自然に腫れていた。看護婦さんに聞いても寝たら足の腫れは小さくなるということだったが、そんなことはなかった。面会の度に足をもんでやったが、腫れが小さくなることはなかった。この病院に不信感を抱くようになったので、転院先を探したが空きがなかった。とりあえず予約だけはしておいた。
空きが出たのは三ヶ月くらいしてからだった。30人待ちのはずがどういう訳か空きが出た。その施設は精神科病棟付属の介護施設だったので安心していた。ラッキーだと思った。その時は・・・。
その精神科病棟付属の介護施設に転院する時、父は目も開かないくらいに弱っていた。でも、その施設で療養すれば次第に回復するだろうと思っていた。
安堵するのも束の間、始めは介助すれば歩ける状態だったが、直ぐに車椅子になった。食事もお粥になって、目もつぶっていることが多くなっていた。なんかおかしい。回復するどころか明らかに悪化しているではないか。しかも、食事は当然介助が必要であるにも関わらず放置されていた。そんなこととは知らなかったので、慌てて僕が介助して食べさせた。
その介護施設の介護サービス計画書には、こういうふうにこんな良いことをします的なことを丁寧にすらすら記載されていたが、全くそんなことはしてもらっていなかった。読んで反吐が出た。
医師に説明を求めた。施設の担当の内科医だった。内科的には特に問題はないが、精神科の薬の量が年齢的、身体的に4倍から8倍の量を投与されているので、多すぎるのではないかということだった。初めて知った。前の病院でも、この施設でもなんの説明もなかった。
父が弱った原因はこれだと思った。直ぐに量を減らすよう頼んだ。直ぐに減らすことは出来ないので徐々に減らしていくというのが答えだった。この施設に来てからもう三週間以上経過しているではないか。いつから減らすのか?遅過ぎはしないか?
心配だったのでその日に担当の精神科医に会って話を聞きに行ったが、来週しか会えないということだった。
その翌朝、未明に父は死んだ。これから薬を減らしていこうという時に。
あまりにも呆気ない死だった。納得できない死に方だった。
だから、まだ実感がわかない。父が死んだという事実を認めたくない。受け入れたくない。受け入れられない。
そして、自分が選択した強制入院について、それが正しい選択だったのかどうか・・・。
ゴメンな!父ちゃん!
私には従兄弟がいる。
35歳の彼女は、中学生のころイジメが原因で登校拒否を起こして、およそ20年間部屋から出て来ない。
年に5回ほど親戚の家を訪れる私も、もう随分と見かけた事がなかった。
彼女の部屋は家の一番奥の林に面したところにある。
常に湿気に悩まされており、部屋中もう、カビだらけだと言う。
親も立ち入れないため、部屋は荒れ放題で、入り口には使わなくなったスチール製のベッドが、バリケードのように立ちふさがる。
そんなところで、彼女は一日中電気もつけず、長い間暮らし続けた。
そんな彼女の時が止まってからおよそ20年目の事である。
私はとある噂を叔母から耳にした。
「あの子に彼氏が出来た」
私は耳を疑った。一体どうやって彼氏を作ったのか、一体どうやって付き合っているのか。
「インターネットで知り合ったらしい」
なるほど、それは分かった。
さすがにそれ以外の道がない事は薄々感づいていた。
しかしどうやって付き合っているのか。まさかネット上だけでの付き合いじゃないだろう。
それでは親に報告できるほどの付き合いとは言えないだろう。
「彼氏が時々家に遊びに来るよ」
なるほど、彼は大阪から静岡の山奥まで電車に乗ってやってきて、そして駅からタクシーにのって彼女の家まで遊びにきて、家のチャイムをピンポーンと鳴らし、両親に「おじゃまします」と挨拶をして、そして廊下を歩いて彼女の部屋の前まで来て、ノックしてから入室しているという事なのだ。
マジで。そんなバカな!
しかし彼らはその後もそのような形態の交際を続け、すくすくと二人の愛を育て続けた。
そして先日、彼女は大阪の彼の実家に嫁に行ってしまった。交際二年目の事である。
大丈夫なのか。
生活能力というもの以前に、人と接した事がここ数年なかった彼女に、彼の両親と同居する事は可能なのか。
一体彼女がどんな生活を送っているのか、全く検討が付かなかった。
そして、相手がどんな人なのかも、一切知らなかった。
ただある情報は、インターネットで知り合った彼と結婚したということだけ。
あそこまで引き篭っていた彼女は、どれほどの勇気を振り絞って、彼女は家をでたのだろうか。
気になって仕方がなかった。
そんなある日、法要で叔母の家を尋ねた私の母から一通のメールが送られてきた。
「これが、旦那さんです^^」
添付されていた写真を開くと、インテリ系メガネの青年が一人。なるほど、いかにも理系という顔立ちをしている、頭のよさそうな真面目そうな青年だ。
マジ?
「旦那さん25歳だって(^o^)」
え!?マジ!?
わかっ!!
ええ!!マジで!?
そこには旦那の隣で、精一杯お化粧をした彼女が、どこか自信なさげに、でも昔では絶対出来なかったような、かすかな微笑をたたえて、写っていた。