はてなキーワード: 多種多様とは
これは全部俺の好みの問題で、正解を導くことはしない。
運転が好きとか車にこだわりがあるとかではない。ただのオートマ乗りで通勤程度にしか使わないけど、車選びの際に気に入らないことが多々あった。
オートマが当たり前な時代にシフトレバー(ボタン)の役割は薄れている。けれど車の走行状態を左右する大事な機械部分に関して、人類は工夫という無意味なことをしすぎている、と思う。ペダルもワンペダルになろうとしているのはいいことだ。ならばシフトレバーもちゃんとしよう。
シフトレバーは年代によって操作体系が変わる代表だと思う。だけどここは運転操作に直結する。車種によってコロコロ変わって何がいいのか。しかも似たシフトでも微妙に違うことがよくある。
上級者相手だろうと初心者だろうと、まず事故につながらないシフトづくりが先決かと思う。マニュアルが複雑なのはそれ専用の免許が必要だから意味がある。けれどオートという単一の免許だけでいくつも操作体系があるのは納得いかない。多種多様な操作を覚えるのに教習所は向かないんじゃないか?
こういうとまず慣れろというが、レンタカーなどのあまり馴染みがない車を運転する場合には慣れる以前の問題だと思う。車を日頃から運転している自分だって自分の車や社用車以外はあまり乗りたくない。プリウスガードや先進安全装置以前に、事故が起こりやすいシフトから改善しろって。
あのシフトはなんだ。卵みたいな形状でどこにシフトしているのか全然わからない。さっきもいったけど、いま自分がどのシフトになっているのかを感覚的にわからないのは事故につながる。シフトしている感覚がなかったり、今現在のシフトが理解できないからプリウスガードがなくならないし事故が減らない。安全装置の前にシフトをなんとかしろ。年寄りがあんなのに慣れると思わないほうがいい。納車したその日に事故ったら慣れるとかではないんだから。
なのに最近のEVはだいたいこれだ。日本で唯一の産業とも言える自動車業界は何考えているんだろう。車を運転しない人が車を作って、操作に不慣れな老人が運転する時代。それがいまだ。
最近は絶滅危惧種。ハンドルの左右から突き出たシフト。パドルシフトとは違って全部それでパーキングから減速までできる。問題は、大げさなのに運転中は邪魔ということ。
個人的に軽自動車とかにあるストレート型は好みじゃない。理由は一番下にドライブがないから。うっかり下に持っていくと別のシフトに入ってしまう。さらにドライブの下のには「B」や「S」や「L」などの謎のアルファベットがある。車種によってそれはまちまちで、初めて乗るとどれがエンジンブレーキなのか判別がつかない。一番下に持っていけばドライブになる構造のほうが誰にでも扱いやすいんじゃないかな。
これは未だに存在するが悪だと思う。パーキングするという単一の目的だけにフットブレーキの横につけるんじゃない。マニュアルと変わらないのに役割が全く違う。この時点で悪でしかない。使わなくても最悪なんとかなるけど、高速走行時に間違ってサイドブレーキをかけたら事故にしかならない。事故を誘発する仕組みが存在するって、これを開発した人は何を考えているのか。
現在は電動パーキングが広まっていて、これは素直に嬉しい。まじでパーキングブレーキは手引か電動にして欲しい。
悪いわけではないけどこれのせいでカーナビが見づらくなる。カーナビとメーターのどちらを取るかは人によるけど、上下にあるのは個人的に見づらいと思っている。確かにカーナビは低い位置にあると操作しやすい。だけど運転手にとっては前方視界の中に地図がある方が運転はしやすい、と思う。従来のようにハンドルの中にこじんまりとメーターがあるか、HUDとかにしてカーナビを比較的上にして欲しいなって思う。
今の車の多くはカーナビと車が一体になっていて交換ができない。確かにそのほうがメリットはあるのだろうけどナビは選びたい。HondaEのようにコンセプトデザインならいいけど普通の車でそれはやめろください。大抵の純正で劣っていると思う一番の部分がカーナビじゃないかな。
もう車にはドラレコを前後につけるのが当たり前な時代。さっさと自動車会社はドラレコをつけること前提にできないのだろうか。いちいちパネルを開けて配線を隠すとか前時代的すぎる。
すでに給電用にしかつかない部分。なのにやたら存在感がある。はっきりいって邪魔。ドラレコの電源取りとして使うのにシガーソケットを使う場面は多いけど、むしろシガーソケットが前席の中央にあるために配線に制限がかかってしまう。だからヒューズボックスを使うのだけど、初心者がそれをしたがるのか。電源を取るならシガーソケットという考えがもう時代遅れなので、ドラレコメーカーと協議してなんとかして欲しい。
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特にシフトレバーは初めて乗る人には鬼門だと思う。望んで選んだならともかく、旅行先のレンタカーに得体のしれないシフトが備わっていたら躊躇するし操作ミスを招く。マニュアル車はある程度操作が固定されているのに、オートマ車は車種だけ操作方法が異なる。これってなぜ問題にならないんだろうか。
まあ、そんな君もマツダ車に乗り給え。
世の中を良くしたい、平和に過ごしたい、平等な社会であってほしい……
常日頃から起こる問題を目の前に自分達の理想を実現すべく色々な人達が日々活動している。
特に社会問題の解決という大きな問題に取り組む人々も少なくなく、様々な人が沢山の問題を取り上げ、理想を叶えるべく動いている姿も多々見かける。
しかし、そんな姿ですら、そんな理想ですら、近年は妙に歪に感じてしまう。
何故なのだろう?
各々の想う理想こそが「正義」であり、その理想どおりの形が「正しさ」であり、それを実現するために「正義」と「正しさ」が原動力となって動いていて、それでもって「正義」と「正しさ」の規範から外れたものを淘汰し、正す行為が目立つからそう感じるのだろうか?
多分そうかもしれないと強く思う。
各々にとって「理想」とは意識的にも無意識的にも「正しい」こととしてインプットされており、その「正しさ」で「正す」ことが「正義」となっているのかも。
だから「理想」の通りにならない状況に『正義が怒りを呼んでいる』のかもしれない。
理想どおりにいかない、そうならない人が世の中には多すぎるから、故にその人らを「間違った存在」として淘汰して、定められた「正しさ」で正すのが「正義」であって、それで「理想」を実現させようとしているのかなとも。
──でもそれは正直言って危険だと思う。
おそらく「人を(或いは人の思想を)正しい方向に正せばまともな人間になってまともな世の中になる」的な認識が原動力となっているのだと思うがちょっと待て。
その「正しさ」は、自分自身にある「正しいと信じているもの」は 、自分達の理想が叶った姿である「結果」に結び付く行為かどうかを考えなければいけないのではないか?
理想や正義を持つことは決して間違いではない。間違いではないのだけど問題は理想を叶えるためにどのような手段を使っているかだと思う。
人を「理想通りにするための正しさ」で統制したって「理想通りにするための正しさ」で「理想どおりの姿が描かれているか」に疑問を持つ人間は必ず現れる。
理想を叶えるために「正しいこと」が絶対視されるとしたらその疑問を解消する猶予も無くなれば、視点を変えることで更なる解決に繋がるであろう意見も封殺されることになってしまう。
それどころか「正しいこと」と違う考え、意見等を「間違い」として淘汰する人間も必ず現れてしまう。
結果的に争いの火種を大きくしてしまうことになりかねないのも想像し難く無い。
要するにたった1つの視点である「正しさ」にこだわり「正しいこと」で統制しても『理想どおりの形にはならない』のではないかと、私は考えている。
1つの事柄でも沢山の視点で見る必要があり、解決の為に必要なことを丁寧に分割した上で纏めて手段と手順を組んでいく。
そして『目指すべき結果』にたどりつく為には様々な人の考えとアイデアと意見から多岐にわたる多彩なプロセスを組んでいき個人の現状、境遇、課題、個性等を把握して柔軟に対応できるようにノウハウ及び目的の達成、問題解決の為のフローチャートを構築していくことが必要だと思う。
その為にも沢山の人の沢山の視点による沢山の意見が必要であり、個々で考える必要もあれば人の力を借りることも必要になってくる。
たった1つの視点だけで問題解決と言う「結果」に結び付けることはまず不可能に等しい。
多種多様な視点から見て、多彩なプロセスを組んでいけば、それらの視点を潰す必要も無く必ず問題解決と言う「結果」に結び付けることができるのでは無いだろうか?
もちろん、これは決して容易ではなく、視点によっては懸念点、別の問題点も中には存在する。そんな不安は当然ある。
もし、懸念点、別の問題点があるとしたら、更に深く、細かく情報、手段を見据えていき、「懸念の原因」を解決させマイナスな結果に行き着かせる必要が無い手段や方法等を見出していき、懸念点も払拭できる道筋を組むこともできる。
もしかしたら誤りかけたとしても修復の効く内に修復できる道筋も作ることができるかも知れない。
同じことを繰り返し申し上げると決して容易ではないことであることは重々承知である。
だが、本気で問題を解決したいと、ましてや平等社会の実現と言った大きな理想、社会問題と言った大きな問題に至っては「正しいこと」で正すと言うような短絡的な手段では決して解決できるような問題では無いことだけはハッキリと言えてしまう。
そんな簡単な問題では無いからこそ、問題の「原因」を見つけて、プロセスやステップを細分化しパターンごとに分岐して多彩な状況に柔軟に対応できる形作りを行うことで道のりは険しくとも最終的には問題解決と言う「結果」に結びつき、各々が望む「理想」を形作ることができる。
だからこそ「正しいこと」にこだわる必要は無い。「正しくない」からと言って一方的に全てを否定する必要も無い。
「望む結果にたどり着く為の手段を、ステップを多彩に作っていく」べきであると、そして望むスタンスを、望む道のりを、個性を否定等せずとも「懸念点も問題点も解決できる方法は存在する」し「過ちを犯さずに済む道も必ず存在する」。また「取り返しがつく内にリカバリーを効かせれる手段」も考えていく必要もあるだろう。
視点を変えれば如何なるパターンも問題解決に繋げれる方法を形成することができるし、理想を叶える結果にも繋げることができるはずだ。少なくともそうだと私は信じている。
私も理想を叶えるべく、それに繋げるための道筋を模索し、ノウハウを構築していく1人となり、様々なことを考え何をすべきかを見極め、行動しなければならない。
──その道は険しいが、それでもやるしかないのだ。
多様性と保守は一見相反するものに思えるが(私だけかもしれないが)、案外そうではないのかもしれない。
おそらく日本人ならほとんどの人が知っているだろうこのアニメ。
登場人物はパンや野菜などの食べ物に妖精、動物、バイキン、神様などなど本当に多種多様だ。
中には明確な悪役はいるものの、殆どは良き市民としてお互い支え合いながら平和に共存している。
こうしてみると多様性の理想郷とも言えるが、登場人物には明確な役割があることが多く、人や物を運ぶSLマンのようにそれをするためだけに存在するようなキャラクターもいて、随分保守的な世界にも見える。
「猫を飼え」「ネコを飼うのニャ🐈」「ネコ様をお迎えしたら悩みがなくなるよ」「猫なんかいいんじゃないかな」
的コメントがついてるの、わりとよく見る気がする
興味深いのが、他の動物で似たようなことを言ってる奴はそうそういない点
犬を飼え、っていう人は……見たことない気がするぞ 「私は似た状況で犬を飼って、結果よかった」みたいな、一線引いた言い方でならときどき見るくらい
「いいから猫を飼え」的な、何がいいんだ、死ねという感じの言い方をするやつはおらん
ペット、犬猫に限らずいろいろいるが、脈絡なく「ヤモリを飼え」「熱帯魚を飼え」「観葉植物を育てろ」って押し付けがましさをぶつけてくるクラスタは猫にしかいない気がする
つか悩み相談以外でも、ホントに多種多様な話題に湧いてくるイメージある 猫人間
猫自体は結構好きなんだが、猫人間がウザすぎて猫コンテンツに拒絶反応が出るようになってきた
幼少期のトラウマから犬はけっこう苦手なんだが、犬人間があんまりいないおかげでクラスタへの嫌悪感では犬の方がずいぶんマシだ
異常なんだよな 滑ってるし、キモい
一番かわいそうなのは猫で、「キショいコミュニケーション不全のオタクがニチャニチャ愛玩してる生物」ってイメージがわりとついてしまっている
俺、犬派か猫派か聞かれたらちょっと逡巡するもん
「正直猫派だが、キショいと思われたらどうしよう?あるいは、こいつがキショい猫派で突然異常なテンションになったらどうしよう?」 そういうことを考えてしまう
本当に害悪だと思う
飼ってる人間の絶対数が多いから異常人間の数も増える、ってだけでは犬派との違いが説明できねえ
『キングオブコント』(TBS系)や『M-1グランプリ』(ABCテレビ・テレビ朝日系)での活躍もあって、ニューヨークは年末年始大忙し。その合間を縫って『ユニオンレコード渋谷』にやって来た嶋佐は、疲れているはずなのに、笑顔を絶やさなかった。そこに多種多様なレコードがあったからだ。店内にあるレコード一枚一枚をキラキラした目で見つめ「このアルバム懐かしい」「このバンドはサマソニで……」など、音楽トークも弾んでいたのが印象的だった。
テーマは『渋谷で聴きたくなる曲』。主戦場の劇場・ヨシモト∞ホールがある場所であり、PARCOがある流行最先端の街だ。果たして彼はどんな曲を選んだのだろうか? いつものごとく、“嶋佐流レビュー付き”でご覧いただきたい。
いま、私たちは情報の多くを文字から受け取っています。メディアの中心が印刷物からスクリーンに変わってもなお、文字がコミュニケーションのひとつの要であることは変わりません。
「My MORISAWA PASSPORT わたしの“推し”フォント」では、さまざまなジャンルのデザイン、その第一線で活躍するデザイナーに、文字・フォントをデザインワークのなかでどのように位置づけ、どのような意図・考えで書体を選択しているのかをインタビュー。あわせて、「MORISAWA PASSPORT」“推し”フォントを紹介いただきます。
第1回は、グラフィックデザインをベースに平面から立体、空間まで幅広くデザインを展開する色部義昭さんにお話を伺いました。
画像1
色部義昭
東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了後、株式会社日本デザインセンターに入社。2011年より色部デザイン研究所を主宰。
主な仕事にOsaka MetroのCI、国立公園ブランディング、市原湖畔美術館・須賀川市民交流センターtetteなどのVIとサイン計画から、パッケージ、展覧会デザインまで、グラフィックデザインをベースに平面から立体、空間まで幅広くデザインを展開。
目次
ブランディングやサイン計画を中心にデザインを手がける色部さん。
個性も違えば役割も異なる、多種多様な仕事のなかで、文字、書体はどういった働きをするものと捉えて取り組んでいるのでしょうか。 web
いま、私たちは情報の多くを文字から受け取っています。メディアの中心が印刷物からスクリーンに変わってもなお、文字がコミュニケーションのひとつの要であることは変わりません。
「My MORISAWA PASSPORT わたしの“推し”フォント」では、さまざまなジャンルのデザイン、その第一線で活躍するデザイナーに、文字・フォントをデザインワークのなかでどのように位置づけ、どのような意図・考えで書体を選択しているのかをインタビュー。あわせて、「MORISAWA PASSPORT」“推し”フォントを紹介いただきます。
第1回は、グラフィックデザインをベースに平面から立体、空間まで幅広くデザインを展開する色部義昭さんにお話を伺いました。
画像1
色部義昭
東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了後、株式会社日本デザインセンターに入社。2011年より色部デザイン研究所を主宰。
主な仕事にOsaka MetroのCI、国立公園ブランディング、市原湖畔美術館・須賀川市民交流センターtetteなどのVIとサイン計画から、パッケージ、展覧会デザインまで、グラフィックデザインをベースに平面から立体、空間まで幅広くデザインを展開。
目次
ブランディングやサイン計画を中心にデザインを手がける色部さん。
個性も違えば役割も異なる、多種多様な仕事のなかで、文字、書体はどういった働きをするものと捉えて取り組んでいるのでしょうか。
「私は文字を素材と捉えて使っています。文字情報というのはあらゆるコミュニケーションに使われるものなので、あるブランドのための書体をひとつ選んだら、目に見える部分以外の情報も発信していくことができます。
たとえば、ブランドが人の身体だとしたら、書体は血液のようなもので、ブランドの隅々にまで意思やフィロソフィーといったものを循環させていくことができる。書体はそういった要素を担っている重要な素材だと思っています」
目に見える部分以外の情報も担う書体。それはつまり、ブランドやメッセージをより正確に、ふさわしいトーンで伝えるための役割を書体に持たせているということになります。
こうしたとき、色部さんはどのような視点、プロセスで書体を選んでいくのでしょうか。
「書体を選ぶときは、ロゴなどが決まっていればそれと同調する書体にするかコントラストのつく書体にするかで考えます。先に書体から考えていくような場合は、施設や部屋の名前といった大事なワードを候補になる書体で打って、イメージに近いトーンのものを比較していきます。
書体を選ぶ基準というのはプロジェクトごとに異なりますが、書体を選ぶことは自分のデザインのなかで楽しみな部分ではあります。クライアントやブランドにはそれぞれの個性がありますから、それを見極めて書体を選び抜くことが大切です。理想的にはプロジェクトごとに、毎回、違う書体を使いたいと思っています。
書体が決まった後は、それをターゲットのイメージに合わせて、どう組むか、レイアウトするか、アレンジするかを考えていきます。ただ、このときはタイプデザイナーによって作られた書体を自分なりにどう活かして使っていこうか、楽しんでいる部分もありますね」
“ブランドの血液”としての書体。多くのメディアにそのフィロソフィーを浸透させるためにはいま、フォントとしての文字は欠かせないものになっています。
「ロゴは点として存在するものですが、書体は線になり面を構成するものとなるものです。
MORISAWA PASSPORTとTypeSquareのように、デスクトップ用のフォントからWebフォントまで、共通のフォントが使えることで、サインからWebまで同じトーンで展開できるということは大事な要素だと思っています。
使いやすい書体をあらかじめ決めておくとか、いい書体、悪い書体という判断は自分のなかには持ってはいません。ブランディングではクライアントの個性やプロジェクトの性格に最適な素材であるかどうかが最も重要だと考えています」
結構思い切ったねー。まあそれはともかくまだ8か月でしょ?これからだよ。
実際に商用で運用して障害が発生した時にシステムがどう動けばユーザは次のアクションができるか、致命的なエラーにならないためにはどういう順序でどういう情報を残すかとか、改修案件をチョロで対応するにはどういう設計にすべきかとか、作った後でも簡単に手を入れられる部分と商用稼働してからだと手を入れずらい部分の判別だったり、リリースした後に実際に使われる中でのフィードバックから学ぶことって結構あると思うよ。
あと、ERPパッケージを触ってみるのがおススメ。ソースを見るというよりは各種マスタの設定をして触ってみる。多種多様な顧客のニーズに対してプログラム改修なしにマスタテーブルの設定値変更で対応出来るよう工夫して作られているので、設計の参考になると思う。
見積で顧客に突っ込まれるの面倒くさいな、後になって仕様変更対応するの面倒くさいな、障害報告面倒くさいな...etcの面倒くさいを省くためにどうすれば良いかの改善点を日々考えていくことがエンジニアとしてのスキルの向上につながるんじゃないかな。
お母さん食堂のネーミングが好ましくないという主張はフェミニズムとマッチしてるの?
男性と女性の区別をなくそうという動きはフェミニズムと関係ある?
とか考え出して疑問を解消しようとしてググってもそれらしい解答が得られないんだよね。
そもそも人間は多種多様な価値観を持つものだからだから、「フェミニストは統一見解は作れ!」というのは暴論なのはわかる。
だけど、キリスト教の●●派みたいにある程度思想が似たフェミニストを集めて団体を作って、よくあるFAQに対する見解みたいなものとかはまとめてほしいわ。
2021年にもなってこんなに情報が集めにくい問題ってそうそうないんじゃないの。解決する気無いでしょ。
twitterとかでリプしたりブコメしたりするより、情報をまとめて発信して思想が広がるように活動したほうが建設的じゃない?
俺は京都市北山通在住の大学生。最近、ずっと家にこもってる生活ばかりしてたのだが、集中力が大きく落ち、そわそわするような感じがした。原因は運動不足かも知れない。ずっとほとんど体を動かしてこなかったからだ。そこで北山通から京都御所の方まで歩いて行くことにした。鴨川沿いをひたすら下った。周りには散歩してる人、少年のサッカーチーム、楽しそうに遊ぶ親子連れなど大勢の人が居た。川の方をみれば、サギ、カモ、カモメと多種多様な鳥たちがいた。途中でウが何度も川に潜って、浮かんでくる度に魚を咥えてたので大したものだなと感心した。他にもスズメを狙う三毛猫がいた。大勢のスズメが土手に群れなしていて、それを猫が虎視眈々と狙っていた。姿勢を低くし、じっとスズメたちをにらみつける。できる限り低姿勢で大股に歩み寄る様子は以前に自然番組で見たチーターかヒョウの狩りの様子を彷彿とさせた。ある程度近づいたところで一転、全力で突撃したのだが、鳥たちは一斉に飛び立ち、猫は一羽も捕まえられなかった。それを見て笑うと猫はさっさと走って行ったのだが、その様子が笑われたのを恥ずかしがっているように見えた。こうしてひたすら川を下り、丸太町の橋で川から離れ、御所へ向かおうかと思ったが、やっぱり面倒くさくなったので引き返すことにした。
今度は対岸沿いを歩いて帰ることにした。途中、鴨川デルタに差し掛かった。そうだついでに下鴨神社に参ろうと思った。立派な赤い鳥居を潜り、林の中をひたすら進む。途中、河合神社という小さな神社に寄った。下鴨には参ったことがあるのだが、河合神社は初めてだ。そこにも参ってみよう。すると面白い形をした絵馬がいくつも並んでいた。鏡みたいな形の絵馬だ。どうやらこれは美容を祝う神社らしい。ぼっちの俺には関係ないやと思いながらも5円納めた。河合神社を離れ、下鴨へと向かう。朱塗りの立派な建物だ。中には複数の神殿があり、自分の干支の神様を選んでお参りするらしい。卯の神様を選んだのだが、隣で白い服を着た男が賽銭箱を開けて、中を漁っていた。別に神社の金儲けを否定するつもりなんて無いが、こういうことは参拝客がいないときにやってほしいものだ。神社にはイメージが大切だ。すぐ横で金銭主義を見せつけられては興ざめも甚だしい。次に水みくじというのをやってきた。神のくじを境内の川の水に浸すと文字が浮かび上がってくる。読みにくい字で苦労した。内容は以下の通り
・体調 少しずつ体を鍛えよ
・旅行 用心せよ
・学業 続ければ実力がつく
・願い事 いずれ叶う
体調に関しては納得だ。ずっと引きこもりの運動不足の生活だったんだから。恋愛はまじで意味が分からない。俺はずっとぼっち。年齢=彼女いない歴で絶望的にコミュ症だから、これからも出来ないだろう。なのに今の愛情を信じろってどういうことだ?好きなアニメのキャラを一途に愛し続けろとでも言うのか?次に旅行。インドアの俺に無関係だ。学業はどうだろう。ずっと勉強もできないアホで、大学では学業を頑張ろうと誓うも、志が折れ、周囲への劣等感で病んでずっとやる気が出なかった。眉唾物だが、それでも少し勇気がもらえた。願い事。本当に叶うのだろうか。俺の夢は死一流の動物生態学者になることだ。正直俺みたいなやつに研究者になる資格なんて無いだろう。現状に反しておみくじの答えはポジティブだ。馬鹿馬鹿しかったがちょっとだけ元気になった。来た道を引き返し、帰宅することにした。
途中の公園を見ると、ベンチに見慣れた顔が二人並んでいた。同じ部活のカップルだ。それを見て泣きそうになりながら帰った。俺は今までカップルを見ても、そこまでショックを受けることはなかったのだが、なぜか今回は応えた。こんな俺に産んだ親を呪った。やっぱり人生は椅子取りゲームなんだな。
いつまでとはっきりとはいえないが、あるときまでとここ数年とでは、病院における医師の対応が変容しているように思う。
かつては医師が診断し、必要な処置や薬の処方を行うと、「継続して通院が必要」「これ以上の通院は必要ない」「薬以外にもこういうことに気を付けて」など、具体的に指示というか意思表示があったように記憶している。
薬や特定の処置を要求しても、必要・不要を判断されて要求が通らない場合もあった。
(たとえば注射や点滴をしてくれといっても状態次第で不要・拒否ということもあった)
しかし最近は薬がほしいといえば本当にこんなに必要なのかと思ってしまうほど多種多様な薬が処方され、本当にここまで必要なのかというくらい色々な検査や撮影の類をされる。
それどころか「点滴します?」などこちらにすすめて(?)くる。
こちらとしてはそれが必要な症状かどうかがわからないから通院したのだけど…と正直不安になる。
個別具体的な例は挙げ始めればきりがないのだが、明らかに対応が変わっていると主観的には感じる。
自分のことは自分で選択・決定できるといえるものの、専門的分野については専門的見地からああしてこうしてとビシッと伝えられるほうが安心感があるともいえる。
この違いに違和感を禁じ得ない。
他の誰かのことを言ってるのか、自分に対して言ってるのか読み取れないけど
多様的な回答が許されるケースというのは質問ではなくアンケートの類だからだ
今回のケースは「なぜ時系列順に出さないのか?」という質問が文章から読み取れるので
回答は「現実に即した理由」のみが回答になり得るだろうと予想できる。つまりそれ以外の回答は回答ではなくノイズに他ならない
再三になってしまうが、これが「なぜ時系列順に出さないのか?みんなで理由を考えてみようぜ!」という疑問を投げかける形であれば
田舎で作った1をかき集めて他人がかき集めてきた1の集まりより
どれだけすごいか相手がどれだけダメかを宣伝して付加された価値をかすめ取って生きてる
借り物競争で負けて0が0のままだと他人が増やした付加価値をお恵みいただいて生きてる
娯楽がそう 自分が娯楽を提供するから勝ち組からおすそ分けをもらう
都会に娯楽があふれているのは勝てない宣伝と刷り込みがあるから
食費がひと月1万円もいかない生活ができる地域があるのに都会では5万円もかかるなど
その行為がまともではない事を本人もわかっているので気を紛らわせる娯楽が必要
農業で神事を行い0から1を作って刈り取る残酷さが自分に向けられないよう
刈り取ったところに返納し感謝する
他人を押しのけて突き落とし勝ち上がってきた自分が他人からみれば同じことをされてもおかしくない
その危機感を薄めるために多くの娯楽がある
都会と断絶することで実現しようとして過疎になったり継続性のみを重視して保守的になったり
コミュニティ単位での運営に成果と報酬を単位づける風習が減っているだけ
どこが住みにくくてどこに住みたいかなんてものはどこにだってある
自分の気持ちの表し方に人間を使って経済をつくってる都会にあわせるのか
自分の気持ちの対話の相手が人間以外多種多様な田舎にあわせていくのか
他人がつくった環境や伝統やルールで飼われて生かされていくのがつらいのはどこでも同じ
そのジャンルは大衆参加型創作のような形で、ファンが各々自由にやっている。その敷居の低さから言語国籍問わずに多種多様なファンがいる。そのため素晴らしい絵を描く人がたくさんいる。
相互の挨拶は穏やかなもので、お互いに「貴方の絵はとても素敵です!」と拙い英語で褒め合った。実際、彼女のイラストは大変綺麗で可愛くて素晴らしい。フォロワーは納得の桁。
私たちは互いの国籍を把握している。そしてそれは他の相互も然りである。日本人も隣国人も大勢いて、互いに繋がっている。
そんな中、隣国の腐女子は政治的な話をする。具体的には、日本と隣国の問題に関して。
彼女は日本政府にかなり御立腹のようで、腹を立てるのにも疲れるほど腹を立てていて、ただ謝ってほしいだけなのだそうだ。
日本人と多くつながっている彼女がそういう発言を堂々とすることに、自分は少しギョッとしたが、人の考えは尊重すべきだ。隣国フォロワーの切なる訴えを受けて謝る日本人もいた。私は自分の言動に気をつけなければと密かに襟を正した。
彼女は多くのアニメオタクの例に漏れず日本のアニメが好きなようで、日本人とも多く繋がっているので、きっと冷静なものの見方をする人なのだろうと思った。私も冷静でいられた。
けれどダメだった。
最近起きた「キャンセルコリア」をご存知だろうか。詳しくは話さないが、とにかくあれにより自ジャンルの隣国ファンは荒れた。私の見てる限りでは、隣国フォロワーは相手方に平謝りしていた。怒り狂う相手方の一部の暴言に苦言を呈す人もいたが、基本的には平謝りだった。
その一方で、キャンセルコリアに便乗する日本の嫌韓右翼に対して怒っていた。まあそれはそうである。ただ、反発する発言の内容がかなり引っかかった。
「加害者であるお前たちが被害者の我々に口を出すな!身の程を知れ!」
要約するとそんな感じである。彼女本人が言ったわけではないが、そういったツイートを多くリツイートしていた。
彼女にとって結局、現代日本人との関係の根底は過去から地続きの被害者と加害者なのだなあと感じた。
それから、彼女の政治的なツイートを見るのがキツくなってしまってミュートした。
k-popにほとんど興味ないし、今まで隣国に対して無の感情しかなかったが、それ以来嫌韓気味になってしまっている。
嫌韓自体、人を煽り盲目にする毒のようなエンタメ性を感じていて距離を置いていたのに、いつのまにか隣国との関係で目についたニュースをタップし、隣国に顔を顰める日が続いている。
そしてそんなニュースのコメ欄に必ず沸く一部のネトウヨの発狂を眺めてさらに暗い気分になる。
こういったネトウヨの発狂を見て隣国の人はまた日本を嫌いになり、そんな隣国の人をみて日本人はまた隣国を嫌いになり、、、悪循環である。
そのジャンルは治安が悪かった。ピクシブに上がっているものは堂々とキャプションに「You Tubeで見ました」「ニコ動で見ました」と記載され、実際ニコ動とYou Tubeには大量に動画が上がっている。本編、無料放送の声優トークどころか、有料放送でした内容すらもニコ動You Tubeで違法で上がっている。ファンの人間性が悪かった。
彼は基本的にキャラAとのカップリングがほぼ公式状態で存在し、ABは大人気だった。
しかし当て馬として他のキャラCやDに矢印を向かわせているものもたくさんあった。AB←C、AB←Dなどだ。
けれどもニコ動でCやDの出ているシーンのものはあまり上がっていないため、彼らは捏造のようなキャラクターになっているのもよくあった。引っ込み思案が性欲魔人のようなものから、絶対に使わない用語を使っているものまで多種多様。書いている人間は体の良い棒が欲しかったのか、誰かがやっているから真似して書いたのだろうなと感じられた。
このB受け界隈がとくに人間性が悪く、ニコ動You Tube視聴者・公言者が多かった。
私はABが嫌いだった。正しく言えばBのファンが大嫌いだった。声がでかいし、Aの声優が出ている別番組にBも出せと騒ぐし、Aの声優が出ている番組で女装キャラが出ればその格好をBにさせたイラストをあげるわツイッターでそういうのが見たいと騒ぐわ、Aの声優とBの声優が別番組で出たときは二人とも別のキャラクターに感情を向けているというのにカップリングにするわ、お前らは何を見ているんだ?という状態だった。
Aのファンはそこまでひどい人はおらず、Bのファンがうるさいぐらいの勢いでそれを行っていた。
なので、B×Eのカップリングを書いた。
B攻めはほぼ需要がない。でも良かった。お前らが可愛い可愛いきゃるるん受けちゃんにしているBだって攻め要素あるぞというのを書きたかった。憎しみだった。EはBとの接点は薄いがAとの接点はあった。Aの弟ぐらいのポジションだ。だったら良いだろと自棄だった。お前らが別番組で同じ声優だからとやっていた内容よりは接点があるぞと思っていた。実際それよりはあった。
Eも好きは好きだけれども推しというほどではなく、けれども好きな順番でいえばその番組の上から5番目ぐらいに入るキャラだった。
30本ぐらい書いてはピクシブにあげていた。あげるうちに、次第にブクマや評価がもらえるようになってきた。
こういうBも良い、B格好いい、E可愛い、そんな感想がもらえるようになった。憎しみで書いてるのに。アンチ行為で書いているようなものなのに。B受け勢の人たちはB攻めを蛇蝎のごとく嫌っているしBAは絶対拒否と言っていたので、B人気に伴うものではないだろう。じゃあどこから来たんだこの人達。
当時の私は二人の数少ない接点を無理やり見つけて会話しそうなシーンを考えてた。
不思議なことに、毎日BEのやり取りを考えているうちにこの二人のカップリングが本気で可愛いと思うようになっていた。同じシーンにいたり、ABが会話をしているシーンがあればAがあとからBにこの話をしているかもしれないと考えたり、そうしているうちに徐々に楽しくなってきた。
最終的に、どういうわけかBEの同人誌を出した。20部。かろうじて完売した。ドマイナーCPにしては良かった方だと思う。
完売したときに、本当にこのCPが好きな人がこんなにいるとは思わなかったため驚いた。BEを書いているのはピクシブで自分一人しかいなかった。ツイッターで検索したことはないので知らない。
自分の同人誌を片付けていて、久々にBEの本が出てきた。読み返したら10年も前のものなので稚拙ながらも面白かった。本編のBとEだったらあり得たかもしれない話があった。可愛かった。萌えた。自分で書いたものだから当然かも知れないけれど、好きなシチュエーションや題材やテーマが込められていて面白かった。
その勢いでDVDを出してきて本編を見返した。BE萌えた。今なら憎しみやアンチじゃなくて書ける気がした。書いた。文章ぜんっぜん違ってて駄目だこれ!なんだこれ!私の好きなBEはこんなんじゃないんだけど!なんだこれ!最悪!10年前の自分帰ってこい!でも憎むのも体力いるんだよ!もう憎み続ける体力ないんだよ!でも10年前の憎しみに満ちてた自分の文章のほうが良かった!
見た目だけじゃ評価はできない。
キズナアイのパフォーマンスのあり方は総体的に見てかなり模範的だし、それをずっと貫いている。
YouTuberの例にもれず今風のラフな砕け方は多々あるのでNHKアナウンサー的な模範性とは異なるが、パフォーマーとして大人だなと感じさせる自立した個人感が初期のVには多かった。
あとキズナアイ独自の志向としてかなり外向きであり、オタク系以外の多種多様なコンテキストと関わり合おうとしている。
後発の「Vtuber」がその高邁さを汲んでいれば、現状のようにはならなかっただろう。
いや、そもそもフォローできなかったのだろう。企業が食いついてワナビーがその傀儡にされた時点で、自立した大人には成り得なかった。
そして企業たちはみな気づき始める。「これ全然儲からんぞ」と。「○億円投資したのに全然回収できんぞ」と。それで元増田が「真理じみた事実」と表現した路線へ行かざるを得なくなる。
見た目なんかよりも行動が過激になっているということの方がはるかに重大な問題だ。おそらく元増田もそう見ているように思うし、問題意識には共感できる。
色で例えるなら、キズナアイや初期のVが提示していた世界観は女性が自ら描くパステルピンクのクレヨン世界に視聴者の脳内が染められていく感じであって、
後発の生配信主体でASMRやら吐息やら悲鳴やらを男性が「えっちだ」と感じる目線でプロデュースされ演じているのはネオンにぎらついたビビッドピンクの世界観。酔わせに来る感じだ。
もちろんそういう露骨なVの配信は結構YouTube側に止められたりしているんだが、いやアンチが粘着して通報して止めさせているのかもしれないが、いずれにしろYouTube側が諸手を挙げて推薦しているわけではないというのは元増田とは見解が異なる点ではある。
おめシスなどがYouTubeの仕様変更を頻繁に動画で解説していたりするが、そういった流れを見てもどちらかというと「あまり良くは思っていない」感じがする。