はじめに断っておくと,自分は10年来のお笑いファンで,マヂカルラブリー(以下マヂラブ)をずっと推している.
彼らの単独ライブが開催されるとなれば必ず足を運ぶし,本拠地としている大宮ラクーン劇場の寄席も年に2桁回数は見にいく,という程度のファンだ.
件のマヂラブが,M-1グランプリで優勝した.日本一の漫才師になった.
当然嬉しいし,本当に彼らのファンでよかったという気持ちだ.今はTwitterでお笑いファン仲間と感想交換し合う最高の時間を過ごしている.
しかし,Twitter世論を見る限りでは「マヂラブ(あるいはおいでやすこが)は漫才でなくコント」という意見がそれなりの勢力を持っているようだ.
(詳しくはM-1グランプリ公式Twitterのリプ欄をご覧いただきたい.https://twitter.com/M1GRANDPRIX/status/1340652394300915712?s=20)
各コンビに対する面白い,面白くないの意見は個人の好みの範疇でしかないので自分が口を出すつもりはない.
いろいろな考え方があると思うが,一般に浸透している定義は下記の通りだと思われる。
漫才...素の人格そのままの芸人が,マイクと最低限の小道具のみを用い会話や掛け合いの妙で笑いを生み出す表現形態.
コント...ある舞台設定における登場人物を,芸人が演じることによって笑いを生み出す表現形態.
上記の定義に従えば,なるほど確かにマヂカルラブリーのネタの漫才性は低く,むしろ定義上はかなりコントに近いのかもしれない.
昨日の2本目のネタ「つり革」では特に顕著で,野田は4分間殺人電車に揺られる乗客を演じ続けているし,村上はそんな彼と同じ視座で会話や掛け合いをするでもなく,ずっと列車内のおかしな状況を第三者の視点から指摘し続け,漫才を終える.
じゃあ彼らがやっていることはコントなのか?例えば,キングオブコントのような大会で,小道具や音響を持ち込んで披露するべきネタなのか?
自分はそうは思わない.そもそも野田が電車内に散乱した死体を踏み越えたり,必死につかんだつり革が千切れてしまう表現は,実際にそのような小道具,エキストラを用意して演じるのは現実的ではないし,観客の視線をマヂラブの2人に集中させることができない.
村上の役回りをどう表現するかも難しい.野田が電車内で理不尽な目に逢う姿を観測できるのは同じ電車の中にいる乗客だけなのだから,状況に対してツッコミを入れる,という行為自体が不可能になる.
何より,彼らのネタでは,「本来会話を用いた芸で笑わせる場において,なんで地べたを這いずり回ってうーうー唸ってるんだ.なんてばかばかしいことをしているんだ」という観客側の感情が笑いにつながっている.
彼らは狭義の漫才のあるべき姿から外れる自分たちを笑いの種としている.漫才をすべき場で,漫才ではない何かをできることが,逆説的に彼らのネタをM-1の壇上で披露する必然性を生み出しているように思う.
あの手の言う「漫才じゃない」は、ナイツ塙さんの著書で指摘されてた正統派の割と関西で多い漫才のことだと思う。 ヤフーニュースで著書一部の再録があって「正統派の漫才としての...
サンドウィッチマンが優勝したときのネタは「ピザのデリバリー」だし。去年のぺこぱだって2個目のネタはコントだろ。ほかにもすえひろがりずとか。反例は多い気がする。
漫才,コントの分類とはまた違って,マイム芸っぽさを感じた
霜降りも方向性として一方的に喋り続けてる点で近かったからそんな驚きはなかった。
コントか漫才かとかはどうでもいいが単純につまらんかった 見取り図も普段に比べてイマイチだったしレベル低い大会だったね・・・
「これはM-1であって漫才でもコントでもない」というだけなのでは・・・。 M-1のレギュレーション内であれば何やったっていいわけだし。M-1という場は。 そういや女性コンビいなかっ...