はてなキーワード: 符号とは
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たとえば、以下のような問題を考えます。演習問題に限らず、教科書の本文や、解答の一文一文も「証明問題」だと捉えてこのような態度で読み解く必要があります。
x2 - 2a|x| - b = 0
それほど典型的な問題ではありません。少なくとも、何か簡単な公式があって2aやbなどを代入すれば答えが出てくる、というものではありません。
この問題を解くには、左辺の式が何を意味しているのか理解していなければいけません。これは、何か上手いやり方があって機械的に解ける場合でもそうです。
とxの二次式になるので、既に知られた方法で解の個数を求めることができます。ただし、たとえば方程式f≧0(x) = 0の解は、x≧0を満たすものだけを数えることに注意が必要です。したがって、単に判別式の符号を調べるだけでなく、二次関数f≧0(x)のx≧0の範囲での増減を調べる必要があります。x<0の場合も同様です。
結局、この問題を解くには
ということができる必要があります。特に前者を理解していないのは、問題文の式が何を意味しているのか分かっていないということですから、解法を覚えるとか言う以前の問題です。当然、これらが分からなければ調べたり他人に聞く必要があります。その際は、定義の数式を形式的に覚えたり当て嵌めたりするだけではなく、具体例を通じて、その意味を理解する必要があります。絶対値記号|x|であれば、xが正の数ならどうなるのか、負の数ならどうなるのか、y = |ax + b|や、y = |ax2 + bx + c|のグラフの概形はどうなるのか、等。
もし二次関数を調べた際に平方完成が分からなければ、それも調べる必要があります。平方完成を調べて文字式の展開で分からないところがあれば、それも調べる必要があります。そもそも、二次方程式を解く際になぜ(一次方程式では必要無かった)平方完成をするのか。そういった問題が解ける理屈(あるいは類似の問題と同じやり方では解けない理屈)を理解している必要があります。
また、自分で問題を解いて、たとえば場合分けの仕方が解答と異なるならば、それらが本当に同値なのかをきちんと確かめる必要があります。最初のうちは計算ミスをして符号などが逆になることもあるでしょうが、それもどこで間違えたのかをきちんと確かめる必要があります。
そういうことをすべて完璧にこなして初めて、この問題を理解したと言えるのです。
以下、解答例を載せます。匿名ダイアリーなので文字のみですが、実際は図を付けた方が良いでしょう。
f(x) = x2 - 2a|x| - bとおくと、
f(x) = 0の実数解の個数は、y = f(x)のグラフと、y = 0のグラフの交点の数であるから、これを求める。
とおく。y = f≧0(x)のグラフは、(a, -(a2 + b))を頂点とする下に凸な放物線で、y軸との交点は-bである。一方、y = f<0(x)のグラフは、(-a, -(a2 + b))を頂点とする、下に凸な放物線で、y軸との交点は-bである。
したがって、y = f(x)のグラフは、y = f≧0(x)のグラフのx≧0の部分を、y軸に関して対称に折り返した形をしている。
f(x)は、x = ±aで最小値-(a2 + b)を取る。したがって、y = f(x)のグラフとy = 0のグラフの交点の数は、
f(x)は、x = 0で最小値-bを取る。したがって、y = f(x)のグラフとy = 0の交点の数は
以上、(1-1)〜(1-5), (2-1)〜(2-3)がf(x) = 0の実数解の個数である。
上の解答例ではy = f(x)のグラフの位置関係を用いましたが、もちろん、f≧0(x) = 0、f<0(x) = 0の解を実際に求めても解けます。
この場合は、それぞれの解がx≧0、x<0を満たすかどうかを確かめる必要があります。そして、それぞれの場合でf≧0(x) = 0のx≧0を満たす解の個数とf<0(x) = 0のx<0を満たす解の個数を足したものが答えになります(x≧0とx<0に共通部分は無いので、これらを同時に満たすことはありません)。
f≧0(x) = 0の解は、
x = a ± √(a2 + b)
である。同様に、f<0(x) = 0の解は
x = -a ± √(a2 + b)
である。
とおくと、ra(b)はa2 + b≧0の範囲で定義される。また、ra(b)はbに関して単調増加であり、ra(0) = |a|である。つまり、f≧0(x) = 0およびf<0(x) = 0の2つの解が同じ符号を持つか否かは、b = 0を境界にして分かれる。
したがって、a2 + b≧0のとき、f≧0(x) = 0の解は
同様に、f<0(x) = 0の解は、a2 + b≧0のとき、
また、D < 0の場合は、f≧0(x) = 0、f<0(x) = 0ともに実数解を持たない。
以上をまとめると、f(x) = 0の解の個数は、以下のようになる。
(1-1) a2 + b<0のとき、0個
(1-2) a2 + b = 0のとき、2個(③と⑥でD = 0場合)
(1-3) a2 + b>0かつb<0のとき、4個(③と⑥でD>0の場合)
(2-2) b = 0のとき、1個(②と⑤で D = 0の場合)
何度も書いているように、たとえばx2 - 2ax - b = (x - a)2 - (a2 + b)などの式変形の意味が分からないのであれば、二次関数の復習をする必要があります。解答文中に出てきた「単調増加」などの用語も分からなければ調べる必要があります。
上記の場合分けが(a, b)のすべての組を網羅しているのか、と言ったことも注意する必要があります。
解答例2の①〜⑥の場合分けは、y = f≧0(x)およびy = f<0(x) のグラフとy軸との交点を考えています。これの符号と軸の位置で、どの範囲にy = 0の解が存在するかが決まります。たとえば、下に凸な放物線がy軸と負の値で交わるならば、x軸とは必ず正負両方の値で交わらなければいけません。逆に、y軸と正の値で交わるならば、x軸とは交わらない(D<0)か、放物線の軸がある方で2回交わります(D = 0の場合は1回)。解答例2ではra(b) = √(a2 + b)という関数を用意しましたが、このy軸との交点と軸に関する条件を代わりに説明しても良いです。このように、数式や条件が図形のどのような性質に対応するのかを考えることも数学の勉強では重要です。
また、「二次関数f(x)が下に凸で最小値が0以下であれば、f(x) = 0は実数解を持つ」ということを認めています。これは明らかに思えるでしょうが、極限を習った後であれば
実数値関数fが区間[a, b]で連続であれば、f(a)とf(b)の間の任意の実数γに対して、γ = f(c)となる実数c∈[a, b]が存在する。
という「中間値の定理」を暗に使っていることを見抜けなければいけません。このような定理が出てきたら、Part1でも述べたように、具体的な関数でどうなっているのか(たとえばf(x) = x2 - 2に対して、f(a) = 0となる実数aが存在することなど)、仮定を緩めたら反例があるのか(たとえばfの定義域が有理数ならどうか、連続でなければどうか)などを確認する癖をつけましょう。
y = x2 - 2a|x| - bのグラフとy = 0のグラフの交点を考える代わりに、y = x2 - 2a|x|のグラフとy = bのグラフの交点を考えても良いです。これは、本問と同値な方程式
x2 - 2a|x| = b
を考えていることに相当します。記述量はそれほど変わらないでしょうが、こちらの方が見通しは良いかも知れません。
仮に本問と異なり、aが定数の場合、たとえばa = 1であれば
y = x2 - 2|x|
のグラフは変数に依りませんから、y = bとの交点を考えるのは容易です。
実際、y = x2 - 2|x|のグラフは、頂点が(1, -1)、y軸との交点が0の、下に凸な放物線のx≧0の部分をy軸に関して対称に折り返した形です。
したがって、この場合は
です。
以上のことは、問題を解く際だけに行うのではなく、教科書本文、問題文、解答例の一文一文を「証明問題」だと思って常に意識する必要があります。
大学物理の教科書では、ベクトル場を曲線lあるいは曲面Sに沿って積分する際に、「∫l F・dl」とか「∫S F・dS」といった表記が使われる。これは教育的に何のメリットも無いので、本当にやめて欲しい。
何が問題かと言えば、多くの教科書でこの表記が使われるにも関わらずその定義が書かれていないことだ。これは喩えるなら、実数a, bに対して「a ☆ b」という操作が行われているが、肝心の二項演算子「☆」の定義が無い、というようなものだ。
定義が書いていないなら、例題などからその計算方法を推測するしかない。しかし、よりにもよってその例題が、「Sが球面で、Fの大きさはSの中心からの距離にのみ依存する」といった積分が必要ないものしか載っていないのである。
このような教科書では、この計算が出てくる概念を正確に学ぶことはできない。
そもそも、この計算はこんな意味不明な表記を使わずとも書ける。
x, y, zを変数とする直交座標で、F = (Fx, Fy, Fz)とすれば、
である。ただし、lやSを適切な「向き」でパラメータ表示しないと符号が逆になることに注意。この表記は、同時期に数学で学ぶであろう微分積分の教科書に必ず書いてある。
上記のように微分形式を使うことには、単に曖昧さがなくなるというだけでなく、大きなメリットがある。
みたいなベクトル解析の定理を3つほど覚えている。微分形式を使うと、これらの定理を覚える必要がなくなる。
Dを境界がなめらかであるなどの十分によい性質を持った領域とする(2次元でも3次元でもいい)。∂DをDの境界とする。ωはDの内部および境界で定義された微分形式とする。このとき、上の一連の定理はすべて
∫D dω = ∫∂D ω
lim 1÷xとlim 1÷(ーx)0に近づきはするが符号は残る
この一年、逃げ続けてきた。
高校入試は前日までにどでかい自信がついていた。本番も全然緊張しなかった。なんなら居眠りしたぐらい(3分ぐらいだけど)。合格発表も受験番号があって当然だったから全然怖くなかった。高校は第一志望に受かった。
なんだかんだ理由をつけて勉強しなかった。休日はやって6〜7時間。酷いと全く勉強しなかった。
学校からもらったプリントに「不安になったら今までにやった(数学の問題集の愛称)を積み上げてみなさい。あなたはそれだけやったんだから自信を持ちなさい」的なことが書いてあった。それは私にとって提出期限ギリギリになって必死で写経した問題集たちだった。自分の三年間のサボりの集積を見た。
過去問も取れない。物理と数学は計算とか符号とか式変形でまずミスる。変な答えになるから後の問題が解けない。自分の実力があれば計算ミスもカバーできることは分かっている。でもやってこなかった。
当然の帰結だが、自分の(これまでの愚かさを生み出してきた)楽観主義が太刀打ちできないほどに自信がない。高校受験の強烈な成功体験があるから尚更だ。
滑り止めの私立も行く気がないところしか受からなかった。でも辛いから浪人もしたくない。落ちたら死のうかなとかアホなことも考えてみたりした。
今になって自分の三年間の愚かさを思い知っている。ちなみに勉強していない時間は部活もやっていたがそれも中途半端で、あとはアマプラとネットに費やすどうしようもない生活だった。友達と過ごした時間も楽しかったけど、思い切りたのしめたかというとそうでもなくて、やりきれない?気持ち。
本当に三年間何やってたんだろう。愚か。
https://anond.hatelabo.jp/20200610155327
これに反対意見がある人は、是非「数学で覚えなければいけないこと」の具体例を提示して欲しい。そういう主張をするということは、具体例の1つや2つ念頭にあるのだろうから、簡単なことだろう。
私自身、義務教育から大学院まで数学をやってきて、「覚えなければいけない」と感じた事項がひとつも無いため、純粋に興味がある。私がやってきたのは、数学のごく一部の分野に過ぎないから、広い数学の世界には、「覚えなければいけないこと」もきっとあるのだと思う。それを教えて欲しい。
元記事に書いてあるように、公式などは係数の符号などを忘れていても少し計算すれば正しく復元できる。定義も別に覚える必要は無い。公理や仮定が1つでも抜けていたらおかしなことになるのはすぐに分かるからだ。
というか、数ページに渡るような証明をメモを見ずに書けるのは、数学者を目指して大学院に進学するような人にとっては普通のことであり、数学を理解しているとはそういうことである。これは丸暗記するのではなく、「そういう論理の流れになるのは当然であり、一つ一つの条件には意味があって欠かすことができない」ということを細部まで理解し尽くしているからできるのである。
しかし、工学の世界などでは、数10個の項からなるそれ以上抽象化しようのない公式みたいなものがあって、それを覚えていないと二進も三進も行かないということがあっても不思議ではない。そういうものがあるなら、是非教えて欲しい。
将棋は楽しいボードゲームで、基本的に殴り合いのオフェンスゲームです。仮にチェスがディフェンスのゲームで、お互いに防御の構えを組み換えながら敵側の綻びを見つけ出すゲームだとすれば、将棋は蟻の一穴をこじ開け落城させるオフェンスのゲームと言ってもいいでしょう。
チェスの競技人口が一説には5億人とも言われる中、将棋の競技人口は一千万人程度とガラパゴスの様相を呈していますが、明らかにゲームとしてのバランスではチェスに勝っています。チェスの公式戦においては先手勝率が40%程度、後手勝率が30%、引き分けが30%程度なのに対して、将棋の先手勝率は50%程度、後手勝率は48%、そして引き分け(千日手)の確率は2%前後であり、引き分けの可能性がチェスに対してずっと少なく、そして先手と後手の勝率が拮抗し合っているため将棋はボードゲームとして極めて高い完成度を誇るゲームと言えるのです。
更に付け加えると、ダメ筋(明らかにダメな手)を含めた、ありとあらゆる手の組み合わせ(ありとあらゆる進行の総数)を計算すると、チェスが10の120乗程度なのに対して、将棋は10の220乗程度ということですから、ゲームとしての奥深さも将棋はチェスを上回っています。因みに、宇宙に存在する原子の総数が10の70乗程度ということなので、如何に将棋というゲームが奥深いかは言うべくもありません。つまり、ある部分において将棋というゲームは宇宙それ自体より『深い』のです。
僕は腕前としてはアマチュア初段程度で、つまりアマチュアが目指すべき差し当たっての目標点にいます。やはりアマチュア二段以上を目指すとなるとかなり強烈な努力が必要になってくる印象です。アマチュア初段は将棋を普段嗜んでいる人間の中で、上位25%前後の層を指しているとお考え下さい。
将棋の道は極めて長いです。そして険しいです。詳しくはこの「将棋の名人とはどのくらい強いものなのか:https://ncode.syosetu.com/n5490eb/」という素晴らしい記事をご覧になって頂ければよいかと思います。(この記事の作者様と私は同一人物ではありません)
将棋のプロになるためには奨励会という育成機関を通過する必要があります。この奨励会は入会すると6級からスタートとなるのですが、これはアマチュアで言うところの四段以上の腕前に相当すると言われています。しかも、この奨励会に入会するのは小学生や中学生の少年少女です。つまり大の大人が血の滲むような努力をしてようやく到達できる地点に、ある程度の凝縮された努力によって遥かに短い時間で到達できる人々、つまりは天才たちだけがこのスタートラインに立つことができるということです。
さて、当然奨励会員になったところでプロになったわけではなく、プロになれるのは奨励会三段リーグを突破して四段の資格を得た者だけで、年間に四人しか輩出されない仕組みとなっています。更に、四段になった後もプロとしてのグラデーションが存在しており、そこには才能の差という影がいつまでも付き纏います。
才能のあるプロ、つまりそんな天才の中の天才は、将棋を指す際にどのように思考しているものなのでしょうか?
先に紹介させてもらった記事では、天才達の中でもグラデーションが存在しており、将棋のトップに立てるのは本当に一握りの人間であることが述べられていました。
つまりトッププロとは、仮に将棋人口が1000万人だとすれば上位0.0001%の人間のことです。すなわち、トップの十人、それが実質的な日本のトッププロ達です。
羽生善治、藤井聡太、渡辺明、豊島将之、永瀬拓矢らがそうです。将棋を指す者達は彼らのことを畏怖の目で見つめ、時折プロが招かれるイベントなどで間近に見る際には、化け物や、宇宙人。あるいはこの世の理を超越したものを意味する視線が、彼らには注がれることとなります。
つまりは才能とは一体何なのかという話になるのですが、脳内将棋盤というのがポイントになってきます。
人は、数理的思考能力、つまりIQが140を超えると立体的なイメージをあらゆる角度から検証できるようになるという話があります。人間のある種の知的能力と、立体的な像を脳裏に生み出す能力には深い繋がりがあるということなのです。つまり、才能のある将棋指しは脳の中に将棋盤を作り出すことができ、これによってどんな時でも(つまり実際の将棋盤がなくても)脳裏において将棋の情報を扱うことができるようになるほか、将棋に関する凝縮した思考を連綿と行うことができるようになるということなのです。勿論、プロもこの「脳内将棋盤」を持っており、彼らの脳内将棋盤にはそれぞれのバリエーションがあることも有名です。
以下コピペ。
羽生四冠
「4分割(5×5中央重複)の部分図が高速で行ったり来たり。盤全体は1度には浮かばない、負荷が大きい。盤面は白、線は黒。駒は外形が無く黒の一字彫り。アマ二、三段くらいになった10歳ごろからこんな風。」
森内九段
盤駒のみの思い浮かべる事はほとんど無く背景も付随。対局中は当時の対戦相手や対局場の雰囲気まで再生。普段は自室の背景に板盤。」
「盤は黄色で1一が右上に固定されている全体図で、線は無い。楷書の文字1字だけが駒として自動的に動く。」
渡辺二冠
「ダークグレーの空間に、字の書かれていない黒に近い灰色の駒が浮かんでいるだけだが、どちらのどの駒かは分かる。」
「黒くぼやけた盤面のどこか一部だけが見えている。駒はゴニョゴニョ、あるか無いか分からないまま何かある感じ。」
「盤も背景も黒く、線の無い盤全体に文字の無い黒っぽい駒がモニョモニョ。」
(出典:AERA No.38増大号'12.9.17『天才たちの「脳内パネル」』)
さてトッププロどころかアマチュア4~5段の人々にはこの脳内将棋盤が基本的に備わっていると言われています。つまり、この脳内将棋盤は確かに、ある程度将棋の強さ(棋力)の指標となるのです。しかし、トップの人々に関してその指標がピタリと当てはまるかというと、疑問だと言わざるを得ません。脳内将棋盤というものは将棋の猛者にとって当たり前のアイテムかつ大前提のアイテムであるため、最上位層の人々の能力を測る尺度としては些か信頼性に欠けるということなのです。というか、一応奨励会三段(アマチュアではなくプロ基準の三段)ともなれば、既に常人を超越して人間卒業レベルに至っているので、やはりその中にいる更なる化け物達を推し量るには、脳内将棋盤の有無のみならず別の尺度を用いる必要があります。
つまり、その二者。単なる化け物と、化け物の中の化け物を辨別する際に必要なのは、脳内将棋盤が「ない」ということなのです。
頭の中で将棋盤が無く、視覚的なイメージに頼ることなく思考できる人々が、化け物の中の化け物にはいるということなのです。
「最初の一手……まず、角の斜め前の歩を前に一つ進めるだろ。すると、後手の相手も同じように角の斜め前の歩を一つ進める。だとしたら俺は飛車先の歩を一つ前に突いて、相手も突き返して……横歩取りの筋に合流しそうだ」などなど。
つまり、常人は基本的に画像、目の前にある将棋盤の視覚的なイメージを用いて思考しており、そのイメージを介さずには将棋を指すことができないのです。ある意味では脳内将棋盤の存在も、視覚的な情報に基づいているという点においてはその思考の延長線上にあると言っていいでしょう。そう、人は基本的に将棋を考える際には視覚的なイメージを媒介とするしかないのです。
しかし、プロの一部にはそのような思考法は――視覚的なイメージを介した思考は――あくまで「補助的なものに過ぎない」と証言する者もいます。藤井聡太や増田康宏、羽生善治などがそれらの棋士です。
では彼らはどのように思考しているのでしょうか。
将棋の符号とは、数字と文字によって駒の動きを表したものです。いわば駒の「番地」とも言われるもので、次の記事が参考になると思います。
https://book.mynavi.jp/shogi/detail/id=77758
例えば、少し前に書いた横歩取りの定跡だと以下のような記述になります。76歩、34歩、26歩、84歩、25歩、85歩、78金、32金……。このような記述の仕方は江戸時代以降から共通であり、いわゆる将棋の対戦の記録である「棋譜」は古くは数百年前のものが記されています。古い文献において、盤面は視覚的に、絵図を用いて記述されることはなく、符号を使って記述されているのです。
いちいち絵図で盤面を描き残すよりも、文字で表した方がずっと労力は少ないですからね。
以下の記述はあくまで本人らの証言を参考に記しているものであり、彼らの思考を追体験したものでは当然ないのですが、つまり彼らの思考は以下のものになります。
先程書いた将棋の符号が、将棋に関する思考を始めた瞬間にズラズラズラ~~~っと文字列で浮かぶのです。
「ズラズラズラ~~~っ」って……、と自分の文章表現力の稚拙さに絶望しそうになるのですが、そう言い表すほかない。そう、真のトッププロにおいては、文字によって思考が行われるのです。そこに画像の介在する余地は、僅かにしかない。羽生善治曰く、「思考は基本的に符号で行って、その後、ある程度局面を読み終わった後に、自分の思考を確認するために思考を画像に起こす、という作業はありますが、基本的に画像で思考することはありません」とのことでした。
先に書いた通り、画像で物事を表すというのは、文字列で表すよりも遥かに手間が掛かります。つまり、脳の処理を要します。
となれば、より情報量の少ない符号によって思考するということが、より高速な思考法として適しているということなのです。
ある意味、それは楽譜における音符の存在と似ているでしょう。というか、そのものかもしれません。音楽というものは体系化され楽譜という共有形式を持つ以前は、完全に口伝であり、人々が歌い継ぐことによってしか継承を行うことができませんでした。しかしそれが数学的・音楽的に体系化され、楽譜の形を取ることになると、そのような継承の際に起こり得る障害はほぼ完全に撤廃されることとなります。そしてこれらの音符を読むことで、人々はそのメロディーを脳裏に想起することができるようになりました。将棋の棋士もまた、それと同じ知的処理を行っていると言ってもいいかもしれません。
つまり、ドミソ、の音符が並んでいるのを見て、タララ~、という和音が脳裏に浮かぶのと同じように、将棋のトッププロたちは符号によって将棋の盤面を把握することができるのです。これは、将棋のある程度の才能がある人々には必須の能力ですし、実際に高位のプロ棋士やトップアマチュアは、棋譜を一目見ただけで盤面の進行をまざまざと思い浮かべることができると言われています。
とは言え、そのことと「思考に符号を用いる」ことはやはり一線を画していると言ってもいいでしょう。
勿論、理屈としては分かるのです。我々が音楽を継承する際に楽譜を用いたように、あるいは将棋の対局を語り継ぐために符号によって棋譜を残したように、それらの音符や符号といった記号には意味を圧縮することができ、効率的な情報伝達を行うことができるのだと。
勿論、理屈としては分かります。とは言え、それらの記号を使って後世へと情報を伝達することと、それらの記号を用いた思考を正確に効率的に実践することとは、また別問題です。
というわけで、画像を媒介にした思考と文字列を媒介にした思考とでは、効率において文字列による思考に軍配が上がるということでした。プロ棋士らによる思考の抽象化が極限にまで達すると、本来立体的な駒やそれらの視覚的イメージを用いずして思考することが不可能であったはずのボードゲームも、文字列を介した思考によって再現されてしまう、ということなのでした。実に、これは驚くべき異常性であり、そして、個人的には文化として、そして娯楽として、このような常軌を逸した営みを次代へと継承していかなければならないと感じます。
さて、ところで常軌を逸していると言えば、藤井聡太二冠の名前はもはや語るべくもなく有名ですよね。彼のインタビュー記事は相当数発表されていますから、彼の語る様々な内容について把握している方も多いかも知れません。
その中でも異質のインタビューと言えば、2020年の夏に発表された、小説家白鳥士郎氏によるインタビューでしょう。https://originalnews.nico/139502
――棋士はどなたも『脳内将棋盤』を持っておられます。でも藤井先生は、あまり盤面を思い浮かべておられる感じではないと、以前、記事で拝見したのですが。
「はい」
――では、対局中はどんな感じで考えらおられるのですか? 棋譜で思考している?
「ん……それは、自分でもよくわからないというか。んー…………」
――盤は思い浮かべない?
「まあ、盤は(対局中は)目の前にあるわけですので」
「詰将棋は読みだけなので、盤面を思い浮かべるという感じでは……」
――えっ? ……私のような素人だと、詰将棋を解くときこそ将棋盤を思い浮かべるというか……むしろ手元に盤駒を置いていないと解けないくらいなんですけど……。
将棋のプロの世界は腹の探り合いであり、自らの能力の本質である「思考の方法」について簡単に詳らかにすることは、本来無いことと言ってもいいかもしれません。とは言え、これまで語ったようにそれらをはっきりと述べる棋士の人々がいらっしゃるのもまた事実です。そして、このインタビューにおいて行われた藤井二冠の発言もまた、棋士の思考の一環を覗くことのできる重要な機会であるように思われます。
さて、ここで述べられているのは、そもそも思考する際に「なにもない」ということです。
全くの虚無、というわけではないにせよ、少なくとも目の前に分かりやすい形で示すことのできる思考は、存在しないということなのです。
以下のインタビューで彼は次のように語っています。https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/3394?p=1
彼は基本的にはこれまで述べたように、「符号」を使って思考するのですが。しかしある種の詰将棋などにおいてはそのような符号さえ必要にしないということでした。
このような、実際の目視確認→脳内将棋盤(符号による棋譜理解)→符号による思考→符号さえない思考という構図を単純なステップアップの過程として語ることはできないとは思うのですが、しかし、将棋というゲームについて思考する際に、その思考が極限まで達した人は何かしらの深淵へと、虚無への道を辿っているような、そんな感触を覚えてしまうのは僕だけなのでしょうか。
さて、というわけで、トップ棋士たちの、良い意味での思考の異常性について語りました。現在、12/6午後五時三十分ですが、僕がこの世の隅っこでこの文章を書いている間、世間の大舞台では羽生善治九段と豊島将之竜王二冠のタイトル戦第五局が、行われている最中です。
クリストファーノーランの「TENET」は考えれば考えるほどよくわからなくなってくる映画だ。
この映画では大きく分けて4つほど大きなイベントが発生しているが、どのイベントでも複数の人物が各々の思惑で動いているうえ、常識的にあり得ない時間の流れ方が一部に起こり、尚且つ一つのイベントがより大きなイベントの一部であったというような入れ子構造になっていたりもする。人類の命運をかけたヒーローとヒールの一騎打ちだとか、国家総力を手玉にとったクライムアクションとして扱うには話が複合的過ぎる。
それでもなんとかストーリーの流れは把握できてそれなりには楽しめた。生意気を言うと映画作品の出来としてはちょっと言いたいこともあるけど、好事家同士で談義したり一人で考察を広げたりしがいのある作品であることは確かだと思う。
先々週の日曜に初めて観たあと、気になった部分を確認するため先週末に再び映画館に行った。パンフレットはあいにく売り切れていたのでAmazonで注文することにした。
二回見てある程度自分の解釈が固まってきたので言葉にまとめようと思う。
劇中内でいくつか引っかかるシーンがあって、それが集中しているのが冒頭のウクライナ国立オペラコンサートホールでのテロ事件のシークエンスである。
1998年にロシアのミサイル基地から行方知れずとなってしまったプルトニウム241(以下241)という危険物質を、CIAスパイがウクライナ政府関係者に成りすまし入手した。
しかしその情報をリークしたロシア(ウクライナ?)政府がオペラコンサートの爆破テロに見せかけて強奪しようとする。
主人公たちのチームもCIAスパイで、ウクライナに潜入中の仲間の救出と241の保護のためテロの制圧しようとコンサートホールに乗り込む…
といったあらすじである。一見しただけはこれだけでも把握するのが難しく、詳細を解説したいのは山々なんだけど話が長くなるので割愛する。
まずこのシーンでの主人公周りの描写においてその後のシーンと辻褄が合わなかったり奇妙な部分がちらほらある。
主人公は持ち物置き場からウクライナ潜入者のバックパックを探し出し、中から241(観た人はわかるが実際は奇天烈な”アルゴリズム”)を運び出している。だが後々のシークエンスで再び241を見た際に「これはプルトニウムじゃない」とか「プルトニウムじゃないなら(敵に)渡してもいいんじゃないか?」と不可解な発言を行う。
また冒頭部分では度々「黄昏に生きる 宵に友なし」というホイットマンの詩の一節を合言葉として用いているが、その後セイターにそのフレーズを投げかけられた時は「それがどうした?」とばかりに呆けた反応を示していた。セイターは主人公がCIAか確かめるために組織で使われている合言葉でカマをかけたんだという解釈をしている人を見かけたが、プリヤが言うようにセイターは元から241を奪取した主人公を襲撃して横取りする手立てだったので、セイターが主人公の素性に拘る必要性はあまりない。それに外交員という見え見えな嘘で近づいて241のことをまくし立てる主人公を見て、テネット組織の存在を嗅ぎ取れないほどセイターは鈍感でもなければ情報を知らないわけでもないはず。
最後に、コンサートホールから逃げ込んできた主人公と同僚は逃走用のバンに乗り込むが、「違う男だ」という支離滅裂な言葉を浴びせられた後に殴り倒され人気のない列車の車庫基地で拷問を受けることになる。主人公を拉致したこの一味は何者なのか、「違う」ということはどんな男が乗り込んでくることを想定していたのか、様々な点で確信できる情報がなくこのシーンは謎に満ちていて解釈が難しい。
ここで僕がたてた仮設というのは、あのコンサートホールに主人公は二人いたのではないか?というものだ。
ご存じの通りスタルスク作戦でテネットがアルゴリズムを手に入れた後、全てを知った主人公は世界の均衡を守るために過去に戻りテネットを創設することを示唆して物語は終わる。
(ニールが未来の主人公の指令で派遣されてきた未来人で彼がテネットを組織したという説が根強いけど自分はそうではないと思う。長期の逆行自体が危険でリスクの高い行為であり、かつそれだけの逆行を経てもあの若さであるということは幼く経験が乏しいころに指令を受けたことになる。それよりも主人公自身が逆行を重ねて各時代ごとに指示出せば、もし主人公の身に何かあっても誰かが跡を継げるのでよほど現実的ではないか。ニールが「君は物語の中間地点にいる」「僕は過去に君に会って、君は未来に僕に会うんだ」といった感じの台詞(うろ覚えすまん)もそう考えるほうがしっくりくる気がする。重要事件であるフリーポートの件で、回転扉から出てきたマスク男の正体に最初は気がついてなかったりと、事の顛末を知っている未来人とするにはニールは無知すぎる気もするし。)
コンサートホールには何も知らずにただ爆破テロの被害を最小限にすることに勤しみ、謎の男が逆行弾を放つのを目撃してから拷問を受ける主人公Aと、実はテネットメンバーであるウクライナ潜入者とアルゴリズムをコンサートホールから救出するために未来からやってきて奔走する主人公Bがいたのではないだろうか。
このシークエンス中ずっと主人公の傍らにいるジョセフゴードンレヴィット似のCIA工作員(以下ジョセ)がいるが、彼もテネットのメンバーでありアルゴリズム保護作戦の補助と主人公Aの警護が彼の役割だったとする。ジョセは皆で物置に入って防護服から着替えていくところまでは主人公Bの傍らにおり、その後主人公Aがホールから出るのを待ってAと共に車に乗り込んだと考える。「黄昏~」の合言葉はテネット内で使われる言葉でありウクライナ潜入者、主人公B、ジョセ、ニールの間では通じるが、主人公Aは当然そんなもの知らない。
そう考えれば合言葉を使いこなしアルゴリズムをバックパックから取り去った主人公Bの活躍は、主人公視点に立てば物語の一番最後となるためそのあとのシーンの主人公が諸々知らないことにも納得がいく。劇中における物語の始点は主人公Aが逆行弾を目撃するシーンからというわけだ。
そう考えると例の拷問シーンや、カモフラージュのために組織のメンバーは皆服装を変えているのに主人公だけはずっと防護服を着ていることも説明がつく。
「違う男だ」という台詞は主人公Bを捕まえるつもりがAの方を捕まえてしまったということだ。ぱっと見ではジョセがウクライナ潜入者の影武者になったということのようにも見えるが、リスクヘッジとしてあまりいい考えとは言えないし、ジョセが一番最後にホールから出てきてはその意味がないので妥当な解釈ではないはず。あの一味はアルゴリズム強奪という目的以外にテネットに関する情報を掴みたかったのではないだろうか。
(主人公が飲んだ偽装自殺ピルも実は製造にテネットが関わっているのかもしれないと思ったけどどうだろう?普通の毒薬を回転扉を介することであのピルができたりしないだろうか?エントロピーの減少とかよくわかんね)
この説明を聞いて「結局アルゴリズム取られてもう一回タリンで奪取しに行ってんじゃん。逆行してきたんならなんでキエフの作戦失敗するんだよ」とつっこみが入りそうだ。この点は逆行経験者は常人とやや異なる思考をするためなんだと思う。「空ってわかってんだからわざわざ車越しにケース受け渡しするの無駄じゃね?」と一瞬感じてしまったりするセイターが仕掛けた挟撃作戦のまどっろこしさや、ニールの「起こったことは変えられない」という言動からわかるとおり、未来を知っていてその行為が自分にとって不利益になるとわかっていても、最終的な結果に至るプロセスに絡んでくるなら避けようがないし、パラドックスを起こしかねないので避けようとするべきではないと逆行経験者は考える。キエフとタリンの失敗があったからこそスタルスクの戦いが成功したんだと認識しているはずなのだ。
主人公は覚醒後に君はテスト合格者だと告げられるが、安全のために未来から来た主人公はテネットメンバーにも素性を明かしてない
このオペラコンサートのテロ事件はロシア政府とCIAが241をめぐって攻防を繰り広げるという風に説明したが、描写される情報が少ないために鑑賞しただけでは如何様にも解釈ができる。
第一に1998年にロシアから241がなくなった事件の際実際何があったのかはよくわからないし、その後の20年近く241がどんな環境に置かれていたのか、なぜ今はウクライナにあるのかも把握しようがない。CIAが戦っている相手はウクライナの特殊部隊に変装したロシア人なのか?それともロシアに脅しをかけるため241を利用しようとしたウクライナ政府が、ウクライナの部隊を借り出して工作しようとしているのかもどちらか断言はできない。CIA及びテネットも事前にいくつかワッペンを用意していた辺り当人たちもそこらへんはっきりわかってないようだ。
ここからは僕の想像でしかないが、実はこのテロ事件はセイターが裏で仕組んでいたことではないだろうか。
つまりスタルスクの企みから少しでも目を逸らすため、またタリンでの241強奪に繋がる道筋を作るために、コンサートでのテロが引き起こされるよう各要人をセイターが誘導していたのではなかろうか。
アルゴリズムを集めることをライフワークとしていたセイターは241の行方についても常に関心を払っていた。それは主人公よりも先にタリンで241の受け渡しがあることを知っていた部分で顕著に現れている。(セイターのアジトがタリンにあることから、セイター自身がタリンまで241を運ばせた可能性もある)セイターはウクライナで起こった事件の詳細を把握していたはずであり、把握するために自分や部下を現場に派遣していたと考えるのが自然だろう。
アルゴリズムを起動しようとしていた時にセイターはハノイ沖のクルーザーに居たが、このセイターは未来から逆行しやってきた個体である。では順行時間軸上のセイターはどこにいたのか?というと劇中明示されていないのではっきりとはわからない。セイターもキエフにいた可能性は大いにある。
スタルスクに側近ボルコフがいるため、キエフでのテロに一枚噛もうとしていた場合セイター本人が赴いて事態を確認するのは道理にあっている。また物語上の動機付けとしても妥当であるように思える。
僕が思うにセイターはこのテロに、未来から来た主人公を拉致し拷問にかけるという裏の目的を忍ばせていたのではないだろうか。そう考えれば、主人公Bが車に乗り込んだ後の「違う男だ」という台詞とも符号する。主人公Aを捕まえる魂胆だったセイターの手先が、間違えてBを車に招き入れてしまったためにあのようなリアクションになったのではないか。
セイターが終盤しげしげと眺めていたあの銀色のカプセル。あれはタイトルロールで主人公が飲み込むのに失敗したあのカプセルではないだろうか。
主人公に帯同したジョセも主人公Aを逃すためにBを囮にし、かつ主人公Bがテネットに保護されるまで時間を稼ぎ守るという使命を負っていたのではないだろうか。ジョセは主人公に飲ませるための特別なカプセルを携帯しておりそれを飲ませたのだ。
テネットという映画の全編はスタルスク挟撃作戦を内包した壮大な挟撃の戦いとも言えるわけだが、話は劇中を飛び越えて、さらに未来から逆行しながらテネットを指揮していく主人公と、何十年も前から順行時間上でアルゴリズムを集め世界を攻撃し続けるセイターの幾度にも渡る戦いがあるような気がしてならない。テネットのストーリーもまた長年の戦いの一部というわけだ。さらにいえばセイターを操る上位存在である未来人とそれに拮抗する現代人の戦いでもある。
こうして映画という枠を超えた途方もない入れ子構造を想像したとき僕はロマンを感じたし、ストーリーの背景にある物語を観客に思惑させられるノーランの作家性にただただ舌を巻くばかりである。
ブログ用として1か月半前に8割がた書いたものの、そのまま放置してしまった文章をまとめました。気がついたら11月になり世間は鬼滅の刃ブームの真っ只中。完全に時季外れとなってしまいましたがせっかく書いたのでここに流します。
これを書いたあともう一回観に行きました。Blu-rayも特典目当てで買うと思います。
現代の各地に存在する回転扉についての解説や、タリンでクラッシュしたセダンが風力発電所からテネットの研究所へ移動する際に使われていたものと同型ではないか?という考察など、他にも気になる点があるので機会があればどこかに書いておきたいです。
「数学ゾンビだ…」分数の約分の問題は完璧に解ける息子さん、意味を理解しないまま計算してたことがわかった時の話
https://togetter.com/li/1610041
約分の意味はひとまず置いといて、この中に「3を3分の1で割るとなんで9になるのか」という話が出てくる。要は1/3で割ることが
なぜ3を掛けることになるのか、という話である。
これに対しては、コメント欄で「3から3分の1が何回引けますか? ってのが割り算の意味」という説明が多くの賛同を得ていた。
これ、数字の上では間違っていない。一見分かりやすい。しかし符号がマイナスになったり、割られる数の絶対値<割る数の
絶対値になった時につまずくのでは?と感じた。個人的には「割る数」の考え方が逆な気がするし、割り算の本質に迫っていない気がする。
この考え方だと、例えば具体的に単位がついた場合、「6個のリンゴから3人を引く…?」と、子どもによっては混乱するかもしれない。
問1:6個のリンゴがあります。3人で分けると、ひとり何個になりますか?
答1:6÷3=2 答え:2個
でもここでもう少し考えてみる。6÷3の結果の2、これの意味は何だろう?
6個を3人で割って、出てきた答えである。2個?いや、正確に言えば違う。
それは 6[個]÷3[人]=2 [個/人] である。単位は[個/人]、つまり「ひとりあたりの個数」を示している。
問題文に「ひとり何個ですか?」と書いてるので、答えとしては「2個」で正しいが、この割り算自体は
いきなり結論だが、私は、これが割り算の本質的な部分だと思う。
割り算は、割るという行為によって、「ひとりあたりの」「ひとつあたりの」などの、
ではここで、問1の言葉を少し変えてみる。
問2:6個のリンゴがあります。これを3人分だとすると、ひとりあたり何個になりますか?
これは同じ問題である。言葉を変えて、定義づけを少し強調しているだけである。
答えは6÷3=2、ひとりあたり2個である。
それでは本題。次の問題はどうだろう。
問3:6個のリンゴがあります。これを1/3人分だとすると、ひとりあたり何個になりますか?
まず直感的に考えてみる。6個のリンゴで1/3人分にしかならない。ひとり分を計算するには
ところでこの問題、これは1つ前の問題の「2人」が「1/3人」になっただけの問題である。
答3:6÷(1/3)=6×3=18 ひとりあたり18個
となる。ここらで何となく、1/3で割ることは3を掛けること、という事が理解できるのではないだろうか。
割り算をやりはじめる小学生の場合、問1のように問題は単純化され、「ひとりあたり」というのもほぼ暗黙の了解と化している。
だから単純に見えるし簡単に解けるが、そのために割り算の本質的な意味に気づきにくくなっているかもしれない。
しかし、ある程度後に進んだ時点で、一度立ち返ってこの事を考えると理解が進むかもしれない。
割り算の適用範囲は広く、符号が変わろうが「ひとつあたりの」量を出すという性質は変わらない。
(0で割らない限りは)
問4:3回株の取り引きをして-300万になりました。1回あたりの儲けはいくらですか?
答4:-300÷3=-100 答え:-100万円/1回あたり
冒頭にあった「何回引けるかが割り算」という考え方ではこの計算は説明しにくいかもしれない。
しかし割り算が「ひとつあたり」「ひとりあたり」「1回あたり」という、単位あたりの数を出す性質を
知れば、より深く割り算を理解できるのではないだろうか。
梅雨寒の中、自カプへの浅い考察で苦しんでいらっしゃるでしょうか。
ご両親と仲が良いあなたはいつか来る離別に怯えていらっしゃるのでしょう。不仲でご家庭に居場所がないあなた方は相も変わらず飲酒で誤魔化していることと存じます。
この度は私が書いた拙作への侮蔑をいただき、ありがとうございました。今回に限った話ではありませんが、一生忘れません。
思い返せばいつでもそうでした。一人が調子に乗って暴言・暴力に近い内輪ネタを擦っては他二人がそれに同調する。私がそれを笑って流す一連の流れが大好きでしたね。おかげであなた方は学生の頃から周囲から浮いていて、それを気にしないスタンスで大声でTPOを弁えないことを言っては大はしゃぎ。まあ学生生活での陰キャなんてそんなものですが。私の所属する団体を、その仲間がいる前で罵ったときのことはいつまでも忘れません。
みんな最高!の「みんな」の中に私がいなくなったと明確に示された時。もう離れようと決意しました。一年前の夏の事です。距離を取り始めた私を、いつしか下等の存在と認識するようになりましたね。その時に言ったことも、ちゃんといつまでも覚えてますよ。いつまで骨格から崩れている絵を描き続けては、仲間内で称賛し続けるのですか?自分が気に入らない話をさせないから、カップリングの解釈から普段話すことまで皆一辺倒。課金額を競えど絵の上手さは競わない。だってここの解釈が一番だから?馬鹿馬鹿しい。
こちらは幸いにも文筆で個人のご依頼を頂く機会が増えました。下手な奴は絵を描くなと言われて以来、呪いにかかったように何も描けませんでしたが、また下手なりの絵を描き始めました。二年前に言われた、絵が上手い人だけが解釈がしっかりしているという言葉から、やっと解き放たれたと思います。
これを書こうとした理由は、あなた方が数日前に称賛した二次創作が私の作品だったからです。笑いました。監視していたあなた方が、私という符号が着いただけで貶していた作品があなた方の心に響くという、すべての薄っぺらさに。
笑った後に、なぜこんなことをしているのかと思いました。蔑ろにされた作品たちと、過去の私の分。報いたはずなのにどうしようもなく何もない。
何もないから、もう何もしません。疲れました。私は絶対に筆を折らないし、あなた方の不幸を祈り続けるけれど、いや、不幸に苦しんでいてくれと呪います。
情報処理技術者試験の資格を取っても実質的に得るものはありません。「実質的に」というのは、技術者としてのスキル向上に貢献するということであり、「報奨金が貰える」とか「履歴書に書ける」などの技術と無関係なものを含まないということです。
なぜ、情報処理技術者試験が役に立たないのかと言えば、出題内容が表面的な知識問題に極端に偏っており、本質的な理解を問うていないからです。たとえば、オブジェクト指向の三要素に「カプセル化」「継承」「ポリモルフィズム」がありますが、これらを御題目のように唱えていても何の意味もありません。しかし、情報処理技術者試験ではこれらの用語さえ覚えておけば、しっかり点になります。
https://www.fe-siken.com/s/kakomon/19_haru/q42.html
こんなのは単なるポエムであり、これが解けたところでコードが書けるわけでも、良い設計ができるわけでもありません。
数学で喩えれば、「加減法」とか「代入法」のような用語を暗記して、具体的な連立方程式の解き方は分からないようなものです。
ひどい問題は挙げればキリがありません。
https://www.ap-siken.com/s/kakomon/22_haru/q44.html
図の名称を答えさせる問題。図を読み取らせる問題なら、まだ理解できますが。そもそも、UMLなど別に技術者として知っておくべき知識でもありません。
https://www.fe-siken.com/s/kakomon/23_aki/q50.html
これも、こんな分類自体、覚えたところで何にもならないわけですが、その用語を答えさせる問題。いかに、この試験がエンジニアリングやプロジェクト管理の本質と関係ないかがよく分かります。
極めつけはこれ。
https://www.fe-siken.com/s/kakomon/17_haru/q52.html
地方の公立中学校の定期試験レベルのひどい問題です。出題者は、1だの2だの4だの7だのといった数字と語句の対応を覚えることが重要だと思っているのでしょうか。
つまり、ある種の発達障害ではない意識高い系ポエマーを認定するための試験であり、そもそも技術者のための試験ではないということです。あとは、中小企業診断士などを受ける人が試験免除を獲得するためとか。
そもそも、コンピュータやプロジェクトマネジメントの技術を、資格試験で勉強しようというのがピントがズレています。それらは既に良質な解説書が豊富にあるのだから、それで勉強すればいいのです。
ところで「アニメキャラは白人」とは思わない立場だが、元増田の「マンガやアニメのキャラを白人と思い込む人のほうがレイシスト」というのは、それはそれで前段をすっ飛ばしてる感じがする。
「日本人と違い特徴を強調されたアジア人キャラ」って、少年マンガや少女マンガとかでは特に思い浮かばないけど、えらが張ってたり吊り目だったりするアジア人って描き方は青年マンガではわりとある。
『ギャラリーフェイク』の主人公フジタはわりと二枚目の日本人だけど、出てくる中国人とか東南アジア人はわりとそういう「アジア人的」な誇張が目立った気がする。フジタの同じアパートの人たちとか、美術品を横流ししてた人民解放軍の軍人とか。
これが女キャラだと、中東出身のヒロイン、ライバルの女性美術館長、女怪盗(アジア系)、自称モナリザの末裔である昔の恋人とその娘の顔の造形がそれぞれ大して変わらないのに比べれば、男キャラは人種的特徴を誇張されてはいた(もちろん日本人の男にも「アジア系の特徴」で描かれていたキャラはいる。ニンベン師とか)。一方でヨーロッパ系の男キャラは「白人の符号」で描かれていた。
日本のマンガは(単一民族とは言えないにせよ)人種的多様性の乏しいゆえに「人種(の衝突)」という概念をあまり意識しないお国柄によって「どのキャラも同じ人間(≒日本人)」という、「人種への無関心」で描かれている。
一方で少なからぬ日本人には、逃れがたい脱亜入欧的な意識や、ヨーロッパ人種の体型への羨望といった価値観があり、それらが絡み合って「普通の、一般的な存在」である主人公まわりの日本人キャラが「目鼻立ちのすっきりした小顔で手足の長い(≠白人)」容姿になる一方、「異質な存在である外国人」を描くときに、「白人」と「黒人」と「日本人ではない、それ以外のアジア人」みたいな排他性が表現されてしまう面もある(あった)ということは、否定しえない。
『美味しんぼ』で周大人の娘と子供を作って逃げた王という料理人は、いかにも「アジア人」みたいな容貌だったのが、中盤ぐらいで再登場したら好青年風の容姿になっていた。
マンガやアニメを海外で売ろうという時代である。「日本は差別意識ないから!」という主張で好き勝手描いていくというのは難しくなり、特に大手は「両性の平等」「少数者の尊重」「人種的配慮」などPCへの目配りをしながら「無難で安全な素材」を組み立てていくようになるのであろう。