はてなキーワード: 文学的とは
その前に俺の作品論について語らせてくれ。
まず俺の作品論の結論は、作品は作品の中で語れ、というものだ。
作者の情報は不要なばかりか、もはや有害な情報だとさえ考えている。
デザートは最後に食べるべきだ。
で、面白ければ作者は誰なのか調べる。
作者がどういった人物でどんな思想があってどんなことをしているのか、などを調べる。
JKローリングが自分の素性を隠して書いた本が全然売れなかったのに、
素性晒した瞬間に爆売れしたことがあったじゃん。
作品名は忘れちゃったけど。
そういうのをみると、ああ、ねえな。って思う。
みんな本の内容なんてどうでもいいんだと。
作者のプロフィールは作品を鑑賞する上で一切必要ないはずだし、
必要であってはならない。
その点で増田は作者の情報が常に不詳だから作品論のあるべき形だと言えるね。
お分かりの通り、作者の素性が読む前から既にわかっているからだ。
推理小説を読む前から表紙に犯人はヤスだと書いているようなもんだ。
その本が面白いかどうかではなく、どこに殺人に至った思想があったのか、そのパズルピース探しに必死になってしまうことが読む前からわかってしまっているからだ。
あれを購入しているやつらは、
あれが一体どんな本なのかなんて心底どうでもいいと思っていて、
異常者が異常であるという理由のカケラを作品から拾い集めたいだけなんだ。
仮にあれを殺人鬼でもなんでもないごく普通の俺が書いたとして、お前ら買う?
買わないだろ?じゃあそれはその程度の面白さってことだ。
あの本は読んだのか?読んでないのか?どう思うか?どんな考えを持っているのか、と。
はっきり言おう。どうでもいい。心底、どうでもいい。
あの本に一切興味はないし、興味を持つつもりもない。
いいか、作家っていうのはな、
殺さずして人殺しが書けるし、死なずして死人が書けるもんなんだよ。な?
その点でいうと、あれは俺的によくなかったので手をつけないんだ。
サラリーマンが書いた、主婦が書いた、作家が書いた、素人が書いた、老人が書いた、子供が書いた、日本人が書いた、外国人が書いた、金持ちが書いた、貧乏が書いた、警察が書いた、殺人鬼が書いた。
どうでもいい。誰でもいい。
面白ければ、それでいい。
殺人鬼がどういった思考をしているのか気になるからという理由で売れてるとのことだが、俺はそういった不純な理由が嫌いだ。
人殺しなんてたまたまタイミングと状況の関係で人を実際に殺しただけであって、その他は通常の人間と一緒だろうが。
作者の情報は作品には何ら影響を及ばさない。及ぼしてはいけない。
普段彼がムカデを食ってるとでも?
痰壷に入っていた白濁して塩味のする痰のかかったご飯をとろろかけご飯と称して人に食わせるととでも?
違うだろ。
まあ、アレを購入する人たちはそういう答えは求めてないんだろうけどな。
異常者は常に異常である。
その答えだけを求めて買っているんだろうけどな。
サイコパスの異常な考え方を知ることで、
自分はそれとは違う考え方を持っていることを知る=異常ではないという安心感が得られる。
あるいは、同じような考え方を持っていることで危険な香りに心躍る。
本気で自分がサイコパスだと考えている人など一人もおらず、みな、サイコパスの異常な考え方は娯楽の一つであるとだけ、考えている。
彼らにとって異常者はピエロなんだ。自分達とは違う存在なんだ。
メイクを落として日常生活にごく普通に存在していて欲しくないんだ。
常に、いつ見ても、同じ時に、同じ場所で、同じように、異常であり続けて欲しいんだ。
だから、殺人鬼が自分はごく普通の人間「です」と言っても誰も理解してくれない。
読んでも読む前と同じ感想になっていることがわかっているなら、
実際に読んでも実質読んでないのと一緒じゃん。
始めに、この文章は「元少年A」や『絶歌』に対する世間の大多数と反応と「真逆の主張」であることを先に示しておく。
馬鹿じゃねえの。
この中川淳一郎っていう奴の『絶歌』の書評( http://biz-journal.jp/2015/06/post_10431.html )を読んで、正直こう思った。
ハッキリ言うけど、お前に元少年Aや太田出版を外道だなんて糾弾する資格なんてないだろ。正義ぶって身勝手な書評を書く前に、我が身を反省してみたらどうなんだ。
おそらく、中川淳一郎はこう思ってるんだろうな。
「元少年A」は叩かれて当然の「極悪人」で、それを一刀両断している中川淳一郎は「正義の告発者」だからな。
世間の感情と同調している中川淳一郎はきっと、どれだけ「元少年A」を扱き下ろしても大丈夫だと、そう思っているんだろう。
フザけんな。
非難してやる。ネット上の他の全員がお前の書評を褒めちぎっても、俺だけは非難してやる。
元少年Aを「外道」だと罵るお前の方がよっぽど「外道」だと、この場で主張してやる。
俺が最も中川淳一郎の書評で怒りが沸いた部分は、元少年Aが「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いに対して答えた箇所に、コイツが吐いた感想だ。
一応、元少年Aの言葉を引用しておく。前述の問いに対して、元少年Aはこう答えた。
(引用)
『「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」』(註:原文では「あなた自身が」の部分に傍点あり)
で、これについて、中川淳一郎はこんな風に言っている。
(引用)
あぁ、何もわかっていない……。どうしてこうも自分本位なのか。「あなた自身が苦しむから殺人はいけない」と言い、まるで自分が悲劇の主人公かのように「重い十字架」というエセ文学的表現を使う。人を殺してはいけない理由は、これである。
「誰もが他人の人権を蹂躙することはできないから」 「殺された人に近しい人が悲しむから」
酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。そしてこれがやっと見つけた唯一の答えとは、非常識かつ幼稚もはなはだしい。
ハッキリ言って、頭にきた。
何も分かってないのはお前の方だろう?
人の「本気の思い」をこんな風に平然と踏みにじる、お前の方がよっぽど外道だ。
確かに、元少年Aの答えは自分本位だよ。凶悪な殺人を犯したくせに、いまだに自意識の中でしかその理由を語れてない非常識で幼稚な答えかもしれない。
だけどな、ここにあるのは『本気の思い』だよ。事件の後の全人生を通じて、元少年Aが自分の頭で考えて言葉にした「人殺しをしてはいけない」ことへの『本気の思い』だ。
どれだけ自分本位で幼稚でも、本人があの事件を起こした後に見つけてきた『自分の答え』だ。
それを、お前は踏みにじった。
「あぁ、何も分かってない・・・・・・。」なんて、さも悲哀ぶった言い方で、お前は元少年Aの言葉から耳を塞いで、「自分の意見」で踏みにじったんだ。
「人殺しをしてはいけない」ことに、お前の考えや正義があるのは分かったよ。客観的に見れば、お前の考えの方に正当性があるんだろう。
でも、だからって踏みにじって良いわけじゃないだろ?
他人が自分の全人生をかけてたどり着いた『本気の答え』を、そんな風に無価値だと切り捨てて良い理由にはならないだろ? お前にとっては「何も分かってない」ような幼稚な意見でも、それが元少年Aにとっては「やっと見つけた正しさ」なんだぞ。
まあ、元少年Aの「答え」なんて、他人から見たらボロ布くらいの意味しかないのは分かってるよ。
ネット上の大多数、「元少年Aや『絶歌』に対する怒りを燃やす人々」はそれでもいいよ。
だけど、中川淳一郎。お前は違う。
お前は、婚約者を亡くしているんだろう?
正直、俺には信じられない。婚約者を鬱病の末の自殺で亡くしているにもかかわらず、あんな身勝手な書評を書くだなんて。
一応、読んでない人のために書く。
中川淳一郎の書評には、その昔、当時の婚約者が自殺で亡くなった件について書かれている。
そして、その際に本人が参考にしたのが『完全自殺マニュアル』・・・・・・『絶歌』の担当編集である落合美砂が、93年に世に送り出したベストセラーとのことだ。
これだけ書くと、まるで中川淳一郎が「『完全自殺マニュアル』のせいで婚約者が自殺した!」って主張してるみたいに誤解しそうだけど、そこまでは思っていないらしい。
ただ、その本が自殺した婚約者の本棚の中にあって、そこに書かれた「最も推奨されている方法」で自殺したという、それだけらしい。
中川淳一郎は言っている。「彼女が死んだのは鬱病のせいである。それは間違いない」と。
これは完全に憶測になるけれど、鬱病みたいな「心の病気」の最たる原因は「孤独」だ。
自分の抱えている問題を誰にも打ち明けられない、誰とも共有できない、そういう風に「一人でどうにかしなきゃ」という状況に追い込まれたときにこそ、「鬱病」みたいな精神病に人は陥る。
もちろん、実際にその婚約者が「孤独」だったかどうかは憶測の域を出ないけれども、誰にも相談できなかったことは間違いないだろう。
そうでなきゃ、『完全自殺マニュアル』なんて買うわけはないからな。
当たり前だけど、この本は自殺の「方法」を書いているだけであって、自殺を「推奨」しているわけではない。中川淳一郎も引用していたけれど、太田出版の紹介文ではこうなっている。
(引用)
「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは、生命保険会社でも、破綻している年金制度でもない。その気になればいつでも死ねるという安心感だ! 自殺の方法を克明に記し、さまざまな議論を呼んだ、聖書より役に立つ、言葉による自殺装置。」
この文章で注目すべき点は、二つ。
一つ目は、「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは」という部分。この箇所から、この本は「生きる僕ら」が「頼れる」ものを示したものであることが窺える。
二つ目は、「その気になればいつでも死ねるという安心感」という部分。この箇所から、あくまでこの本は「安心感」を提供するためのものであることが窺える。
以上の点から、この『完全自殺マニュアル』はあくまで「生きるための本」であることが分かる。具体的には「自殺という『逃げ道』を示したから、後は安心して生きればいい」という本だということだ。
イメージが掴みにくい人は、『完全自殺マニュアル』を「精神科医」に喩えてみてほしい。「『いつでも安心して、私を訪ねてきて下さい』そう患者に言ったら、二度と患者は訪ねてこなかった」一度くらいこういう話を聞いたことはあるだろう。要するに、「いつでも訪ねられる」という「安心感」が重要なのであって、実際にその選択肢を取るかはさほど重要ではというないのだ。その「安心感」を提供されただけで、患者の心の問題は半分くらい解決しているらしい。
おそらく、『完全自殺マニュアル』も、そういう「安心感」を提供することが目的の書籍なのだろう。事実、前書きや後書きの部分には「いざとなれば自殺してしまってもいいと思えば、苦しい日常も気楽に生きていける」旨が書かれているようだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/完全自殺マニュアル)。
というわけで、この『完全自殺マニュアル』はそういう、精神科医的な「安心感」を提供する本だ。
そんなものが本棚にあったということは、そんな「安心感」に頼らなくてはならないほど、その婚約者は精神的に追い詰められていたのだろう。
普通ならば、『完全自殺マニュアル』は買って読まれた時点でその役割を全うする。
「いつでも死ねるという安心感」さえ提供してしまえば、いつでも精神科医に相談できる患者のように、「生きる日常」に帰って行けるからだ。
『完全自殺マニュアル』に書かれている方法を実行して、本当にこの世から「逃げ」てしまったからだ。
その婚約者がいつ亡くなったかは分からないが、おそらく『完全自殺マニュアル』を読んですぐというわけじゃないだろう。
一度読んで、一度「日常」に帰って、そこで何かしらアクションがあったのだと思う。
そして、そこで「上手く行かなかった」からこそ、まるで精神科医に再び相談しに行く患者のように、その婚約者は『完全自殺マニュアル』に頼ってしまったはずだ。
そして『完全自殺マニュアル』に頼ったことからも明らかなように、その婚約者も「誰にも相談できない」状況に陥っていたはずだ。
それが行き着くところまで行き着いて、自殺だ。
何が言いたいかっていうと、その婚約者の死因は「周囲の無理解」だということだ。
中川淳一郎本人が語っている、「(自殺の)予兆に気づけなかった」という話が象徴的だろう。「婚約者」という最も近しい立場の人間ですら、本人の抱えている「問題」に気がつけなかった。
婚約者の男が居てもこの世を去らなくちゃいけないほど、自殺したその女性は「分かられていなかった」のだろう。
以上のことから、俺が言いたいのはこうだ。
「他人の言葉に耳を塞ぐ」ってのは、こんな風に人を鬱病になるまで追い込んで自殺させることもあるってことだ。
それを中川淳一郎は、「予兆」に気がつけず婚約者を自殺させてしまったお前は、知ってるはずじゃないのか?
にもかかわらず、中川淳一郎はよくも平然とあんな風に「人の思い」を踏みにじれるものだ。
自分の婚約者を殺したかも知れない「人の話に耳を貸さない」ことを、あんな風に実行できるものだ。
元少年Aの「問いへの答え」へ呟いた感想もそうだし、『完全自殺マニュアル』の「大義名分」を語ったこともそうだ。
確かこんな風に勝手に決めつけてたな。
(引用)
「自殺する自由はある」 「苦しい時の選択肢として、自殺もあっていいのでは」 「命の大切さを伝えたい」
こういった大義名分は『完全自殺マニュアル』発刊にあたってはあったのだろう。
きちんと紹介文を読めば、この発言が的外れであることが第三者にも明らかだろう。
『完全自殺マニュアル』は、「生きるための安心感」を提供する本なんだよ。本当は自殺のためじゃない。
婚約者が亡くなった後、「本当に後追い自殺をするつもりになり、彼女が愛読した『完全自殺マニュアル』を再度読んだ」ときに目にした前書きと後書きに、ちゃんと書いてあったはずだろうが。
そういう態度にこそ自分の婚約者が殺されたかも知れないことに、どうして気がつかない?
元少年Aは外道だと、いまだに悲劇の主人公ぶる幼稚な男だと、中川淳一郎はそう言った。
だけど、ハッキリ言うぞ。
元少年Aの「なぜ人殺しはいけないか」っていう問いへの答えを、お前は「自分本位」だとか「非常識」だとか「幼稚」だとか非難するけどな、お前の書評だって全く同じだ。
『完全自殺マニュアル』や落合美砂への「自分本位」の勝手な決めつけ、記念パーティでの「非常識」で「幼稚」な不謹慎発言。これらは元少年Aの態度と何が違う?
「酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。」ってお前は非難するけどな、だったら自分はどうなんだ?
自分が婚約者の自殺の予兆に気がつけなかったのを棚に上げて、『完全自殺マニュアル』や落合美砂という「外的要因に」文句をつけるしかないお前の態度はどうなんだ?
「『完全自殺マニュアル』を参考に恋人に自殺された、可哀想な自分」を気取っているお前は、「いまだに『罪の十字架』に苦しんでいる、可哀想な自分」を演出している元少年Aと何が違う?
「悲劇の主人公ぶっている」のはむしろ、今のお前の方じゃないのか。
他人の言葉に一切耳を貸さない、身勝手な「自分本位さ」にまみれているお前の書評は、いまだに被害者遺族の心情に寄り添うことのできない元少年Aの「自分本位さ」と良い勝負だ。
ハッキリ言っておく。
中川淳一郎。そして、元少年Aや『絶歌』を叩きまくっているネット上の大多数の諸君。
お前らがやろうとしていることは、れっきとした人殺しだ。
『絶歌』という本人の言葉を封殺して、元少年Aの人格を否定して悦に浸るその行為は、間違いなく「一人の人間」を社会から抹殺しようとしている殺人行為だ。
かつて、どこかの誰かの婚約者を自殺に追いやった「他者への無理解」を、今度はお前たちがやってるんだ。
かつて、どこかの十四歳が、か弱い十一歳の少年を殺したようなことを、今度はお前たちがやってるんだ。
元少年Aのことをお前らは「殺人犯」だって言って罵るけどな、今ではお前らの方がよっぽど「元少年A」に見えるよ。
正直な話、『絶歌』なんていう「ポエム」を出版「しなくちゃいけない」くらい元少年Aを追い詰めたのは、俺たち社会の方だと思う。
本当にこの書籍の出版を憎んでるなら、こんなものを出さなくて大丈夫なくらい元少年Aを社会の方が受け入れてやれ。
これが、俺の精一杯だ。
大半を占めるのが真っ当な感想。
ポエム、全く反省していない、被害者に無断でなぜこのような本をだすのかetc
その中で少数意見が出てくる。
断言しよう。
過度に飾られた、ちょっと文学に浸って己を過信した、中二病の文章だ。
中二だ。これが高校になるとこのくらいの文章を書く奴は少し増える。
大学になるともっと増える。皆そういった恥ずかし気を越え一周して簡素な文章になる。
目立って特別な文才ではない。
ただ元少年Aの文章がそこまで囃し立てられるわけは「ゲテモノ」だから。
タブーを犯したゲテモノが書いた文章だから、専門家はそのー言葉に意味を見つけたいのだ。
少し頭が良くて少し文章が書けて。自分が犯した行動を抑えきれない自己顕示欲で、オナニーを見せつけるのだ。
誰かがはっきりと言ってあげなくてはいけない。
ネットの評価では文学的だとか一部ではそんな意見があるけれど。
賞に出しても一次で落ちる。バイトが選考するのにも引っかからないね。
これ以上表に出てはいけない。
出家して、人の目が届かないところで一生許されることない罪と対峙してほしい。
誰にも見えないところでね。
もう2度と世間に出てこないでください。
今、TBSでアニメの『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』をやっている。以前、放送された『『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の二期アニメだ。これがちょっとひどい。とても見ていられないレベルなのだ。
知っている人は知っていることだが、簡単にストーリーを説明すると、ぼっちの主人公が奉仕部という部活に入って、部員とともにぼっちの価値観で様々な問題を解決していくお話だ。
原作は人気のラノベで、熱狂的なファンを多く持つ作品だ。このラノベがすごい、とかいうのに、二年連続一位に選ばれている。非常に内容の濃い、ラノベとは思えないくらいに文学的な濃密さと豊穣さをもった作品だ。
原作力のかなり高いアニメで、原作に準じてつくっていれば、それだけで確実に面白くなるような作品なのだ。
尺の関係から、とにかく端折る、省く、取り除く、でいろんなものが原作から削ぎ落とされて作品がつくられる。それでも十分に面白い。多分、どこの制作会社がつくっても、面白くなる、そんな原作だ。
だから、ダイジェスト的な展開になっていても、一期は十分に楽しめた。あらすじだけ追っていたって面白いのだから、多少尺が短くなったところで面白いのだ。
だが、今やっている二期の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』はちょっと見ていられない。絵とか脚本とかの問題ではない。主人公比企谷八幡の声のトーンのぼそぼそと小声で話すセリフがあまりに耳について鑑賞の邪魔をする。耳につくくせに、何を言っているか聞き取りにくい。おかげで、せっかく面白いアニメのはずが、すっかり白けてしまう結果になる。どうも意図的にそういうトーンで話す演出をしているようだ。
一期ではそんなことはなかった。はっきりと喋っていて、いちいち主人公のセリフに引っかかることなどなかった。だから、セリフが耳に引っかかって物語に入り込めないなどということはなかった。
だが、二期では、そのセリフ回しのせいで、まともに見ていられなくなってしまった。
一期と二期では、制作会社と監督が代わっていて、明らかにその影響がアニメに出ているのだ。制作会社はfeel.に、監督は及川啓という人に代わった。声のトーンが一期と変わってしまったのはそのせいだ。
おそらく、特に声のトーンの演出を変えるなどということを決めるのは監督で、今のトーンは監督のセンスによるものだと思われる。
原作が面白いというのに、原作を素直に追ってストーリーを展開すれば、それだけで面白いアニメになるというのに、物語に入りこむことに対していちいち邪魔をしてくる声のトーンと演出するなんて、能力に問題があるとしかいいようがない。
どうもこの監督、いろいろ手を加えて、変なふうにすることが得意らしいのだが、この人にはそんなことをするのは無理だ。俺スゲエ的な演出をしているつもりなのかもしれないが、全然すごくない。というか、多分、この人、無能だ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/247229709/comment/xevra
「貧困者はメンヘル。大脳が壊れて人間になり損ねたメンヘルだから当たり前の行動を期待するのは無理。誰かがしっかりと手を差し伸べないと闇の餌食となってしまう。頑張って欲しい。」
まあ先生はいつもこんな感じだからいちいち気にしてなかったけど、貧困者やメンヘルは大脳が壊れて人間になり損ねた存在って言ってるわけだよね。
もう感覚が麻痺してしまっているけれど、冷静に読んだら普通にかなり差別的な発言なのではないかと思いました。
こんなこと言っててほんとに世の中よくしたいと思ってるんですか?
「彼女の長くて黒い髪はとても綺麗だ」
この文章をより文学的な一文にするにはどのような表現がいいだろうか。
「彼女の肩元で揺れる髪は美しく輝いていた」
長さについて具体的にした後、カメラの露光を上げるような感じで描写してみた。
少しはイメージしやすくなったけれども、表現が陳腐で直截だ。もっと工夫してみよう。
「黒髪が」「美しさを」「なびかせる」という文構造で奇をてらってみる。「黒髪が~をなびかせる」は日本語として一般的ではないが、
ありのままを言葉にすればそうなるだろう。「なびかせる」ではなく「際立たせる」であればもっと通用しやすくなる。
「鴉の濡羽色」などという、物書きぶりたい人間がよく使う語彙を用いてしまったのが弱い。
美しさの描写が少し損なわれてしまった。少し「彼女」がしっかりとした人物であるような印象を与えるので使いどころはありそうだが。
「見返り美人図のどこが美人なのだと常日頃主張してきた私ではあるが、振り返った彼女の頬に差した艶めく黒髪が堪らなく美しく見えたその瞬間は、畢竟一目惚れであろう」
森見登美彦風。
「黒いくろいクロイ髪が黒いのは黒いから黒いのかなんなのか、光とは無縁のブラックホールとか宇宙みたいなものにロマンがある理由が彼女を見て分かった気がした」
「『井戸の底は仄暗くて、湿った土の匂いがするんだ』僕は言った。『君の髪を見ると落ち着くのは、井戸の底をのぞくような気持ちになるからだよ』」
村上春樹風。
「みんなも黒い綺麗な髪の毛を描写して、文学的な表現力を手に入れよう!」
進研ゼミ風。
■その1。
毎回言ってるんだけど、今回こそはゲームレビューをやりたいと思って……選んだのは『夏祭』。タイトル通り、ゲーム自体は、三日間の夏祭を描いたものだから、プレイ時間は短い。たった三日間で、キャラクタを描写しきれるのか? と思っていたのだが、演出手法として、イベントごとに回想シーンを頻繁に挿入することで、要点はきちんと押さえている。ただ、毎回毎回、お約束のように回想シーンが入るので、それが少々うざったくもあるけど……。 最近のストーリー型のゲームにしては珍しく、二時間ドラマのようなスタイルで作られている。なので、このゲームは、大作型の作品ではない。ここを勘違いすると食い足りないような印象だけが残るだろう。
筆者も、まんがで最近流行している、虚構の現風景を描いたエコロジスト的な作品の流れにあると勝手に勘違いして、今回のサブタイトルをつけたのだけど、実際にプレイしてみると、特に自然描写などに重点を置いているという訳ではない。おそらく、あくまでドラマチックな演出の舞台として、この設定を選んだだけなのだろう。なので、今回のサブタイトルは嘘っぱちだ。サブタイトルは、レイアウトの都合上、原稿を書き始める前に決めてしまうので、こういうこともある。
しかし、こう書くといかにも薄っぺらなゲームのように思う人もいるかも知れないが、別にそういうゲームではないし、特筆すべき所もある。ヒロインである[橘みやの]のシナリオなのだが……気の弱い幼なじみという基本設定自体は通俗的なものだ。しかし、中盤から後半にかけて、そのスタンスが表面的なものであったことに、主人公は気づく。早い話が、三角関係から来る、すれ違いと嫉妬の地獄絵図が展開されるのだ。
ただ、『たとえばこんなラヴソング』や『週末婚』のような、サイコスリラーばりの鬼気迫る展開をする訳ではない。三角関係の当事者たちは、あくまで良識の持ち主であり、自己の欲望を優先できない弱い人たちである。この葛藤を文学的な執拗さで書くと、『WhiteAlbum』のように、美少女ゲームには異例の悲劇性を帯びるのだけど、このゲームはあくまで、テレビドラマ的な構造の作品なので、予定調和的な結末へと向かっていくし、ここで、虚構の現風景を想起させるような物語設定の仕掛けが効いてくる……少女まんが的な、感傷と情緒の感覚に訴える設定が、毒性を中和しているのだ。
とはいえ、この予定調和を少女まんが的なユートピアと捉えるのも、違うような気がする。それはむしろ、恋の熱情ではなく、愛情に起因する、穏やかな信頼によって支えられる……『とらいあんぐるハート』『とらいあんぐるハート2』で描かれるような、疑似共同体に向けられるべき評で、ボーイ・ミーツ・ガールな恋を描いた『夏祭』にそれを当てはめるには、少々違和感があるだろう。
■その2。
まあ、[少女まんが的]という言葉が何を指すのかは、かなり曖昧だし、それはむしろ、白泉男児である相方の領域だったりするのだが、結局のところ、『夏祭』は、スタンダード過ぎるのだ。それは決して悪いことではなく、むしろ美点なのだけど、価値観が多様化し、結果として、家族や友人といった単位での崩壊を招いている状況の中では、かつては正常とされていたものも、異常とされてしまう。
そして、マッチョイズムからも、フェミニズムからも取り残された人々は、[癒し]と[萌え]の過剰な摂取と、虚構の原風景への逃避を計るのだ。筆者はそういう思考には否定的だが、これはこれで、スタンダードな価値観を欲する動きなので、そういう嗜好の全てを否定する訳には行かないのだ。
『夏祭』は、目から鱗が落ちるようなゲームではない。だけども、プレイした後の安心感は、[癒し][萌え][虚構の原風景]といった要素によるものでもない。娯楽作品に不可欠なバランス感覚をちゃんと備えており、背骨が通っているのが、この安心感の正体なのだと思う。
ただ、スタンダード故に、これはどうか?という箇所もある。Hシーンだ。作画・文章共に描写力がなまじ高い分、不自然な印象が強調されてしまう……主人公のテクニックが上手すぎるのだ(笑)。変な話ではあるが、若い男女のボーイ・ミーツ・ガール的な恋を描くというテーマは、文章力の高いHシーンとは、相反してしまう所がある。早い話が、初々しい恋のドキドキ感……言ってしまえば[童貞魂]を描く作品でのセックスは、ポルノグラフィに求められる実用性とは、いまいち結びつきにくいのも事実なのだ。
だとすると、先月取り上げた『Kanon』の、意識的に回避することができてしまうHシーンの方が、作品のテーマと親和性は高いのかも知れない。肉体関係抜きでも、精神的な絆を結ぶことはできるし、トゥルーエンドも見られるというのは、美少女まんが雑誌の編集者だったくせに、Hシーンのない作品を平気で載せていた筆者にも、かなり衝撃的だった。ただ、それを認めてしまうのは、美少女ゲームの存在意義を問われてしまうということなので、簡単に納得はできないんだけどね……。
……しかし、これは「むほっ、これは嬉しい不意打ち……これに比べたら山岡さんのはカスや!」と、『美味しんぼ』の京極さん風に叫んでしまうのに近い(笑)。そして、「おいおい、お前さっきまで士郎のメシを美味そうに食っていたじゃねえかよ」と、自分に突っ込んでしまうのだが……って、話がズレた。
『夏祭』の場合、シナリオごとの構成にばらつきが激しいという難点はあるのだけども
、Hシーンの扱いは、物語にきちんとリンクしていたので、個人的には安心している。しかし、美少女ゲームにとって、セックスをどう扱うかは今後、重要な課題になるのではないかと思う。それはそれで、本末転倒な気もするが、美少女まんがではもう、その問題を語ることができなくなってしまった以上……そう、H以外の要素に市場が寛容である間に、思考を突き詰めていかなければならないのだ。市場が下り坂になれば、H以外の余計な要素は真っ先に排除されるのが、ポルノ業界の常なのだから。
■来月は1999年度の総括。
という訳で、次回は『へっぽこ通信』のへっぽこくん氏をゲストに招いて、恒例(?)の1999年度総括ですー。それにしても、この手の原稿ばっか書いているくせに、ファンサイトの類は全く知らなくて、軽い気持ちでサーフしてみたんですが、筆者の原稿など簡単に吹き飛ばすほど強力な、美少女ゲーム論が山のようにあるのね……もっと突き詰めないとな……。
余談ですが、『恋愛シミュレーションツクール』を買いました。いかんせんエンジン部分が弱く、実際にゲームを作るには、ちょっと苦しいんですが、恋愛ゲームの構造を解析するという意味では面白いソフトでした。
たしか芥川龍之介氏だったでしょうか、恋とは性欲の文学的表現だと言っていたのは。
僕のあなたに対する感情を表すならまさにそれに近いわけです。もっともその本質は性欲ではないので安心してください。
少し僕の話をします。
僕はその、みかけ一丁前な自意識が出来あがっていく頃、具体的には中学生の頃なんですけど、自分のことを一人ぼっちだと思っていました。物質的にではなく、精神的にです。
生活には余裕がありました。勉強も運動も苦手ではなかったので、特に不自由はしませんでした。僕のことを好きだと言ってくれる子もいたくらいです。
コツコツ勉強をするのは嫌いでした。部活動は何度も理由をつけてサボっていました。にもかかわらずそれなりの結果を出せていました。
しかし努力の結果ではないので充実感もなく、自分がそれが得意だと思ったことはありませんでした。
まさに砂上の楼閣ですね。高校に入ってこの町を出たらただの凡人なんだろうと思っていました。
にもかかわらず、当然ながら周囲はそういった心情を汲んではくれませんでした。
教員は受験のことで熱心に近付いてきたし、部活では地元の高校に連れていかれて練習させられました。
学校というシステムにおける立場があがればあがるほど、周りの人間とは線が引かれ、僕は同じ立場の人間を得られないまま、
ひとりぼっちだと思い、どんどん殻に閉じこもっていきました。
まぁそんなに珍しいことでもないと思うのですが、もともとの自意識過剰な性格に加え、環境的なことも相まって、あの頃の僕は特別歪んでいたのでしょう。
毎日寝る前に、真っ暗な自分の部屋でスタンドライトをつけ、カッターナイフでHBの鉛筆を削っていました。
一度その最中に母親が部屋に入ってきたことがあり、彼女は心配したようでした。当時の僕はそんな心配もうっとおしいと思っていました。
鉛筆を削っていると少しだけ満たされるような気分でした。鉛筆削りで削ったものと遜色のないものが出来ると何故か嬉しかったのを覚えています。
それを終えて眠りにつく。それだけのことでバランスをとっていたのだから我ながら忍耐強いと思います。
これは非常によく出来た映画です。僕はこの映画が一番のお気に入りな訳なのですが、漂うウェルメイド感から、そういった趣向と勘違いされることが多いです。
まぁ違うといってもさらっと説明出来るモノでもないんですけれど。
この映画どういうものかというと、時間をさかのぼる能力を手に入れた主人公が自分と他人の人生をより良くすべく奮闘する物語です。
主人公のエヴァンは人生を良くする為に過去に戻り失敗を清算していく、しかし直ったはずの世界にはほんの小さなほころびがあり、
それらを全て修正しようと何度も過去に戻るうちに事態はどんどん悪くなっていく。
神のごとき能力を手に入れた青年が神の真似ごとをするのだが上手くいかない。そして青年が最後に辿り着いた選択とは。
この映画を観た時に感じたのは映画って凄いという感情でした。それ以上は言葉に出来ません。ごめんなさい。
僕には主人公のエヴァンの気持ちが痛いほどわかったし、周りに振り回されて、苦悩する主人公の中にその時の閉じこもっていた僕がいた気がしました。
ラストシーン、恋人を救うために過去に戻り恋人との関係を絶ち、関係をなかったことにする。
そして離れ離れに暮らしていた主人公が都会の人ごみの中で成長した恋人らしき人物とすれ違う。
今思い返してみると何にそんなに感動したのかわからないくらいベタなのですが。その時の僕にとっては確かに自分のことを言っているように思えたし、
それが恐らくエールに聴こえたのでしょう。詳しくは想像しか出来ませんが。
しかしながらなんだかその頃からと色々上手くいくようになった気がしたのです。まぁそれは結果論かもしれないですけど。
それからはさほど悩むことなく過ごすことが出来ました。田舎から出て新しい友人と出会い。今は東京で暮らしています。
相変わらず映画は大好きで、こねくり回して楽しんでいます。大学では自分で映画も撮ったりもしました。
僕にとって映画というのはそれくらい大事なものになったのです。
まぁ勿論歳をくってくると、悩んだ時に映画をみても何も解決しないことはわかってくる訳ですが。
これまでも問題を解決してきたのは自分の力だし、誰かの力を借りたりも大いにしています。
無くなっても生きていけなくもない気もしますが、それは気のせいで、やはり映画がない生活は考えられません。
と、長くなりましたがここいらでようやく本題に移りたいと思います。
なんと形容するのかは非常に悩むところですが、恋というのが一番近いと思います。
実際に映画を撮ってみてわかることはかなり多く、自分たちが如何に上質なコンテンツになれてしまっているか、
出来不出来に関わらず自分のつくったものにはそれなりの愛着がわくこともわかりました。
そして何より楽しかったのです。
映画を山ほどみたし、映画についてなら一日中喋っていられます。
ただ少しだけ引っかかることがあります。それはいつまでたっても完璧な映画に出会えないことです。
好きな映画を十本挙げろと言われればできますが、僕がほんとうにみたい映画には未だ出会えずにいます。
このことが僕が映画に恋をしている由縁なのです。
少女の恋がおおよそ世界に存在しない王子様を所望するように、僕もまた世界にあるはずもない完全な映画を求めているのです。
そして恐らくそれは一生叶うことはないでしょう。エヴァンが再開した彼女に声をかけなかったこと、それは恐らくこんな気持ちだったのでしょう。今は今なりに分かる気がします。
触れてしまうことで壊れてしまう幻想、自分が彼女と関わりない人生を送ること、その決断に価値はなかったのかもしれない。
エヴァンはあの時、声をかけないことで無意識に自分の幻想を守っていたのだと思います。
僕もまた、完璧な映画を探すことで、自分を守っているのかもしれません。至上の目的を持つことで自制を失わないように。
少し前、某動画サイトを眺めていると、こんな文言を発見しました。
僕は一も二もなく反応していました。
僕は脚本担当を申し出ました。当事者は僕より一回り上のおじさんで、一発当てる気まんまんといった感じでした。
作業は辛かったですが、やはり楽しかったです。
寝るのも忘れて書きました。
出来あがったものはこれ以上ないほどの出来だと思いました。
完成したその瞬間、ほんの少しだけ、あの時の夢のしっぽがみえた気がしたのです。
僕はその時ようやくあの時のバタフライエフェクトを超えることが出来るかもしれないと、本当にそう思うことが出来たのです。
まぁ色々あって結局僕の脚本は採用されることはありませんでした。残念ですが仕方ないことです。
しかし何よりも、物語を創るということだけでも映画と関われると気づいたことはこれ以上ない幸いでした。
いつか僕に映画を撮れる新しい友達が出来たらこの脚本を読んでもらいたいなと思います。
しかしながら実は脚本を書いたことよりもその過程の方がその実、発見に満ちていました。
その脚本は書き始めるまでがとてつもない難産でした。おじさんから縛りを貰ったのはありがたかったのですが、考えれば考えるほどその縛りがネックになっていきました。
そして、もうどうしようもなくなった時、僕はごく冷静に、極めて自然におじさんのことに思いをはせてみました。
脚本も書けないくせに、映画を撮りたいと抜かすいい歳のおじさんは自尊心にまみれ非常に滑稽でしたが、それと同時に何故か悲哀や、尊厳、意地を感じました。
僕はおじさんと会話を重ね、モノを尋ね、そのことを参考に本を書きました。
脚本が出来あがる頃には、僕の中で既におじさんと僕は良きパートナーになっていました。
まぁ、さっきも言ったように、結局おじさんのクズとしか言えない本性を目の当たりにしてしまうのだけどそれはまた別の話です。現実って厳しいですね。
これでどこまで行けるか。あの時、僕は恥ずかしながら、確かに自分のつくる脚本に恋をしていました。
それは以前のように憧れるだけのものではなく、目の前のこの物語と横に並んで一緒に歩いていく、そんな淡い想いだったのだと思います。
唯一ノイズがあるとすれば、それがおっさんのことについて書かれていることです。
しかしながら、その気持ちは僕の中で憧れを経て、それ自体を愛し、期待し、守るもの、そして明日を与えてくれるものへと変わっていきました。
こんなことを書くのも気味が悪いと思いますが、僕はあなたが恋している相手に心当たりがあるのです。
映画に映っているのはいつでも人間です。姿形、人がつくったモノ、人を囲むモノ、人の心、映画の、いやあらゆる表現の中に人間と関係のないモノはありません。
どうして日々新しい映画が生まれてくるのか。それはまだ人間が未知で、支配出来ないモノだからではないでしょうか。
それらを愛し、それらに期待し、それらを守る為に映画は今日も撮られているのだと思います。
芥川が、ほとんど死の直前まで書いていた文章の中に映画のシナリオがあったといいます。
日々募る絶望の中、彼は映画をみて何を思っていたのでしょうか。
僕は映画のことしか知らないし、それもたかが知れています。(文学も少しかじっていますが)しかしながら現代、生活と映画は近しいモノだと思っています。
僕は芥川の書いたラブレターは文学だと思っています。なぜならあれを読むといつも涙が出てくるからです。それでは説明になってませんでしょうか。
僕たちはかつて例をみないくらい幸いだと思います。共に歩くものに確固たる自分をのせることが必然として出来るからです。
僕は映画に飽きないでしょう。あなたが人間に恋していても、きっちりそれごと抱える覚悟です。
僕とあなたは違いますが、少なくともあなたの憧れているものの一部です。
だからこんなことを言うのは変かもしれないけど、あなたのことが大好きです。
優しいところが好きです。
冷たいところが好きです。
怖いところが好きです。
笑わせてくれるところが好きです。
泣かせてくれるところが好きです。
以上、あなたに恋する男からの言葉です。返事はくださらなくて結構です。ただ微笑みかけてくれればとてもうれしいです。それではまた。
(複合遺産:文化と自然の両方について、顕著な普遍的価値を兼ね備えるもの。)
(1) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
(2) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。
分からん。
(3) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスだ!!なんせうんこが出るんだからな!!アナルは日々進化している!!
(4) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。
アナルは芸術だーー!!逆さに盛り上がったアナルは人類の創造的才能を表現している!!
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
建築物とかではないな。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
知らん。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
関係なさそうだ。
(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
これも関係ない。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
顕著で普遍的なアナル思想、アナル信仰だ!!さらにAVという芸術作品と直接関連している!!
これまで「デマを流すな」「中傷をやめろ」という声が上がると必ず
「言論(表現)の自由が〜」と叩かれてきた。
でも僕は不思議だった。「言論の自由」に「デマを流してよい自由」や「他人を中傷してよい自由」が含まれるのだろうか?
不勉強なので知っておきたいと思い、検索していたら以下のページにたどり着いた。いろいろ知らなかった事が書いてあって面白い。
3.1 誰の誰からの自由なのか
憲法による人権保障とは、 政府を縛ることで国民の基本的権利を保障することを基本とします。ゆえに、 私人である国民相互の関係において、憲法が保障する言論・ 表現の自由は直接には作用しません。それら私的主体は、 自らの望むような内容や方向性をもった言論の場(forum)を設定することができます。 たとえば、あなたが個人的に開設した電子掲示板では「モー娘。 を褒め称える発言以外は削除します」 というような方針を掲げて運営することができます。その方針に従えない人は、 他の掲示板で発言すればよいからです。
3.2 何がどのように保護されないのか
歴史の部分でも説明しましたように、宗教的・思想的言論および政治的・ 社会的言論は、言論・表現の自由の核心を構成していて、 当然に憲法上の保護をうけるものとされています。 逆に伝統的に犯罪であると考えられてきた猥褻表現 (obscenity) 、 名誉毀損的表現 (defamation) については、 それらが犯罪として禁止されていることをうけて、 憲法の保護を受けられない種類の言論であるとされています。
名誉毀損については、日本とアメリカでは視点が違います。日本の名誉毀損は、 本人の名誉感情を重視しています。名誉毀損的発言が行われた結果、 その人がどの程度の被害を受けたかという問題は、刑事裁判においては 「処罰するに値する程度の違法性(可罰的違法性)」 があるか否かの判断に用いられる程度であり、 おもに民事裁判における損害賠償額を判断する場合に用いられます。しかも、 日本の名誉毀損に関する刑法の規定では、 名誉毀損的発言の内容について事実の有無を問わないことになっています。すなわち、 内容が真実であっても名誉毀損が成立してしまうのです。
そこで、戦後昭和22年になって名誉毀損に関する刑法230条に、 230条の2が追加されました。これは、発言の内容が (1) 公共の利害に関する事柄であり、(2) かつ発言の目的がもっぱら公益を図ることにあったと判断される場合に、(3) その発言の内容が真実であれば処罰しないとしたものです。これは、 ジャーナリズムの活動を名誉毀損訴訟から保護する目的での追加規定ですが、 裁判が起きた場合に、報道する側が内容が真実であることを証明しなければならない (立証責任)ため、発言者側が不利なことは否めません。そこで、判例では、 「230条の2第1項のいう事実が真実であることの証明が無い場合でも、 行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、 根拠に照らし、相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、 名誉毀損の罪は成立しないものと解する [26]」とされ、 真実の証明ができなくても、発言内容が根拠のあるものであれば、 処罰しないとする運用がされています。
まとめるとこんなかんじ?
ダメ。政府による検閲は禁止。小学館が自主規制するのはOK。(他の出版社で出せば良い)
名誉毀損的表現は保護されない。本人が嘘である事を知っているので
家に帰ってきたら残りを読む
すみません、masudamasuo さん含む、エロエントリ作者さんに言ったつもりではありませんでした・・!
誤解を生んで申し訳ありません。
「憲法は政府を縛る物であり、個人を縛る物ではない」と書きましたが例外があるそうで、リンク先の解説には
日本の憲法の考え方では、「私人間の紛争について憲法は間接的に作用する」 とされています。私人間の紛争において、 一方の当事者がいちじるしく弱い立場にあり、単に法を適用するだけでは、 その当事者の憲法上の権利が実質的に脅かされるときには、 私人間の関係について定めた私法の解釈においても憲法上の権利保障が援用される場 合があるというものです [4]。 上記のように、 ある種の言論が実質的に私的主体によって維持されている言論の場でしか行えないよ うな状況があるときには、憲法上の言論・ 表現の自由を主張しうる余地があるといえるでしょう。
とあります。
例えばはてながあらゆる企業を買収し、web上を全て検閲削除できるようになった場合ははてなに対しても「表現の自由』で縛れるということですね。
現状、2ch や yahoo 知恵袋など様々な web サービスがありますからはてながエロを規制しても「表現の自由」を理由に反対できないということです。
「言論の自由」は名誉毀損的表現を保護しない、というだけで「禁止している」というのとは違いますね。
名誉毀損で訴えられたときに「言論の自由」は守ってくれない。(ただし芸術的 etc の価値があるなら守ってくれる)くらいの意味ですね。
すみません、おっしゃっていることがわかりません。
当エントリは表現の自由(日本国憲法第21条)で保護される範囲の話ですから、憲法至上主義(?)になりますよね。
もちろん、増田さんが「名誉毀損、卑猥表現も表現の自由で保護されるべきだ」と考えて憲法改正を訴えても良いし、それは言論の自由で保護されるはずです。